창작과 비평

[論壇] 四・二四教育闘争と在日朝鮮人の民族教育:暴力の痕跡と連帯の記憶 / 鄭栄桓

 

創作と批評 186号(2019年 冬)目次

 

論壇


鄭栄桓

明治学院大学教養教育センター教授

 

 

1.はじめに――ある暴力の痕跡

 

 「北朝鮮という国家に日本が厳しい姿勢をとり、必要な外交圧力を加えるのは当然だ。しかしそれと、在日朝鮮人子弟の教育をめぐる問題を同一の線上でとらえていいのだろうか」。2010年2月24日付『朝日新聞』社説は、朝鮮学校生徒を高校無償化制度から排除しようとする日本政府に対し、このように疑義を示した。続けて社説は、朝鮮学校は一時は在日本朝鮮人総聯合会(以下、朝鮮総連)と北朝鮮の影響を強く被ってきたが、「在日の世代交代が進む中、教育内容は大きく変わった」「北朝鮮の体制は支持しないが、民族の言葉や文化を大事にしたいとの思いで通わせる家庭も増えている」と指摘した。

 『朝日新聞』社説の論理は、朝鮮高校生に無償化を適用すべきかという争点に関して「適用賛成論」の立場を採ったものであるが、同時に2010年当時に強固に存在した「適用反対論」にも配慮した内容となっている。民主党政権が準備した高校無償化法は、「我が国に居住する外国人を専ら対象とするもの」をも対象校とする(高校無償化法施行規則第一条第一項二号ニ)画期的な内容を含んでいた[1. 朝鮮高校無償化裁判については月刊イオ編集部編『高校無償化裁判 249人の朝鮮高校生 たたかいの記録』樹花舎、2015年及び、同編『高校無償化裁判vol.2 大阪で歴史的勝訴』樹花舎、2017年を参照されたい。]。日本の学校教育法制は長らく学校教育法第一条に定められた学校(一条校)と、ここに含まれない外国人学校を差別し続けてきたが、高校無償化法ははじめて両者を対等に扱う姿勢を示したからである。しかし無償化法の国会上程直後より当時野党であった自由民主党はもちろん、与党の民主党内からも朝鮮学校生徒に無償化を適用することは北朝鮮を利することであるとの批判が湧き上がった。社説はこうした批判に対し、朝鮮学校の保護者には北朝鮮を支持しない者が増えている、という論法で反論を試みたのである。

  だが、『朝日新聞』社説のこうした論法には看過し難い問題点がある。もちろん、朝鮮学校の教育内容や保護者たちの意識が時代の移り変わりのなかで変化してきたことは事実である。しかし、無償化法は、教育内容を問わず、一定の教育課程の条件を満たす学校(外国人学校を含む)に通う生徒に就学支援金を受給する権利を保障したものであった。にもかかわらず、社説は学校における教育内容の変化を根拠としてあげて「北朝鮮を利する」との批判に反駁した。これでは朝鮮学校だけが無償化法の条件よりもさらに高いハードルを課されることになる。結局のところ、「適用賛成論」もまた、「北朝鮮を利するか否か」という政治的・外交的な判断を適用可否の条件とみなす適用反対論者の認識の枠組みを共有していたのである。

 また、この社説の論法のもうひとつの問題点は、戦後日本政府の朝鮮学校処遇に対する批判的視点を欠いていることにある。北朝鮮の支援を受け、その影響下にあった時期とは異なり、近年の朝鮮学校は変化している、サッカーやラグビー大会でも活躍している、ゆえに「北朝鮮を利する」との適用反対論の根拠は薄弱である、との主張には、それならばかかる変化が生じる前の朝鮮学校に対する差別的措置は正当化されるのか、という疑問を抱かざるを得ない。

 本稿では、こうした認識への批判的検討のために、約70年前の1948年に日本で起こった「四・二四教育闘争」に焦点をあわせて、戦後日本政府が行った朝鮮学校への制度的差別の歴史的起源を探りたい。なぜ70年以上の時間を遡るのか。もちろん、朝鮮学校が高校無償化から排除された背景には、1990年代以降の日朝関係の悪化、とりわけ2002年の朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致事件の発覚や、その後の核実験にともなう日本社会の対朝鮮感情の悪化がある。だが同時に無償化からの排除は、戦後日本政府が長きにわたり積み重ねてきた朝鮮学校に対する制度的差別の土台のうえに行われた側面も看過できない。なかでも日本敗戦直後の占領期に新たな教育制度が構築される際につくりあげられた構造、そしてその過程で生じた最大の事件である「四・二四教育闘争」に注目しなければならない。

 四・二四教育闘争とはなにか――第二次世界大戦後も日本に残留することになった約60万人の朝鮮人たちは、各地に民族教育を実施するための学校を設立した。これに対し日本政府は1948年1月24日、文部省学校教育局長通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」を発し、朝鮮人は日本の法令に服すべきこと、朝鮮人児童は日本の学校に就学すべきことを指示した。この結果、同年3月以降、山口、岡山、兵庫、大阪、東京などで知事による学校閉鎖命令が発せられることになる。日本政府のこうした一連の措置に対し、在日朝鮮人団体は閉鎖命令の撤回と教育の自主性の承認を求めて各地で闘争を展開したが、米軍と日本警察の強硬な弾圧の前に、学校側は大幅な譲歩を余儀なくされる。これら一連の過程で起きた出来事を、治安当局は神戸・大阪事件、在日朝鮮人の民族教育史においては四・二四教育闘争(阪神教育闘争)と呼ぶ。

 1948年に発生したこの一連の事態は、戦後日本政府による民族教育への取締の第一歩であると同時に、朝鮮半島における分断とからまりあいながら引き起こされた出来事であった。そのような意味で、この出来事は、日本国憲法公布や教育基本法・学校教育法公布、占領政策の「逆コース」などの日本現代史の年表のなかでのみ語られうるものではなく、済州島四・三事件や南北連席会議、そして五・一〇単独選挙といった、朝鮮現代史の諸事実との同時代史だったのである。冒頭にかかげた暴力の痕跡もまた、こうした日本史の枠組みにとどまらない、朝鮮現代史、さらには東アジア現代史という視野において考察されるべき記録であろう。 

 1948年4月、ある者は神戸で警察署の天井につるされ、殴打され、ある者は大阪の公園で射殺された。なぜ、彼らはこのような目に遭わねばならなかったのか。そして、同時代の日本や朝鮮半島の人々はこのような暴力の行使をどうみていたのだろうか。この問いに答えるには、1948年に日本でおきた在日朝鮮人の民族教育をめぐる一連の出来事について知らねばならない。天皇制国家の解体と再編の過程で、在日朝鮮人の自主的な民族教育運動に対し、日本政府や占領軍はいかに認識し、対処したのか。そもそも「教育」という、人間の潜在力を見出し、その可能性を発展させようとする行為が、なぜこのような凄惨な暴力により報いられねばならなかったのか。また、かかる暴力に対抗する動きはいかなる地域的広がりをもっていたのだろうか。同時代の朝鮮半島の人々は他郷の「同胞」たちの苦闘をどうみていたのか。本稿では、1948年4月に生じた「四・二四教育闘争」に焦点をしぼって、これらの問いについて考えてみたい。

 

 

2.「四・二四教育闘争」とはなにか

 

(1)在日朝鮮人の民族教育の始まりと日本政府の政策

朝鮮解放後、在日朝鮮人たちは子弟の教育のため各地で国語講習所を設立した。1945年10月15日に創立した在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)はこれらの学校を整理して体系化する。表一は朝連がまとめた、日本各地における朝連設立初等学校・中等 学校数・教員数・生徒数の一覧である。すでに1946年10月の時点で学校数が500校を上回り、生徒数も4万人を超えている。1955年の在日本朝鮮人総連合会の結成以降、初級学校が100校を越えたことはなく、生徒数も最大時でも2万人であったこと を考えると[2. 金徳龍『朝鮮学校の戦後史1945-1972[増補改訂版]』社会評論社、2004年、273-274頁。]、当時の学校数・生徒数がいかに多かったかがわかるだろう。

 

表1

 

 日本政府はこれらの朝鮮学校に対して、はじめは放任の姿勢をとっていた。1947年3月31日、教育基本法と学校教育法が施行され、戦前の教育勅語と勅令に基づく旧法制から、憲法と法律に基づく新たな法制度への転換が行われた。はじめ、朝鮮人児童の位置づけは明確ではなかったが、1947年4月、朝鮮人児童の就学義務や朝鮮人がその子弟を教育するために学校を新設した場合の認可の可否につき、文部省は自らの解釈を示した[3. 文部省官学第5号「朝鮮人児童の就学義務について」(文部省学校教育局青少年教育課長発、都道府県教学課長宛、1947年4月12日)、大沼保昭編「《資料と解説》出入国管理法制の成立過程9」『法律時報』第50巻12号、1978年、180頁。]。

 まず、文部省は朝鮮人児童の就学義務につき「日本の法令に服しなければならない。従って一応朝鮮人の児童についても日本人の児童と同様、就学させる義務があ」るとの解釈を示した。ただし「義務就学を強制することの困難な事情が一方的にあり得るから実情を考慮して適切に措置されたい」とも指示した。さらに、学校の認可については、朝鮮人がその子弟を教育するために「小学校又は上級の学校若しくは各種学校」を新設する場合、府県がこれを認可することは「差し支えない」と文部省は通達した。全国に500校以上の朝鮮学校が存在し、四万人以上の生徒たちが学んでいるという現実がある以上、「日本人の児童と同様」の就学をさせることが容易ではない。こうした「実情」を文部省も理解していたのだろう。

 だが、文部省の朝鮮学校放任政策は、1948年1月に転換する。1948年1月24日、文部省学校教育局長は、各都道府県知事に下記の通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」(以下、1.24通達)を発した[4. 官学第5号「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」(文部省学校教育局長発、文部省大阪出張所・都道府県知事宛、1948年1月24日)、大沼保昭編「《資料と解説》出入国管理法制の成立過程9」『法律時報』第50巻12号、1978年、179頁。]。1.24通達は、朝鮮人児童を「日本人同様、市町村立又は私立の小学校又は中学校に就学させねばならない」としたうえで、私立小中学校の設置は学校教育法により都道府県知事の認可を得ること、学令児童の教育について各種学校の設置は認めないことを指示した。

 1.24通達の背景には占領軍の意向があった。ロバート・リケットによれば、米第八軍ははやくから朝鮮学校に注目し、SCAP民間情報教育局と対応を協議していた[5. ロバート・リケット「在日朝鮮人の民族自主権の破壊過程」、三橋修、蝦名良亮、ロバート・リケット、李榮娘「共同研究―占領下に於ける対在日朝鮮人管理政策形成過程の研究(一」」、『青丘学術論集』6集、韓国文化研究振興財団、1995年、231-236頁。]。1947年4月には第八軍軍政部は各地の軍政チームに朝鮮学校を日本の教育法に従わせ、文部省の認可を受けさせるよう命じていた。大阪の軍政チームは朝鮮人の学校が「共産主義イデオロギー教育」を行っているとの懸念を持ち、これは京都の第一軍団を経てSCAP民間情報教育局へと伝えられる。SCAPはこれらの報告をふまえて、日本の教育政策に朝鮮学校を従わせるよう文部省に措置を講じることを指示し、1.24通達が作成されたのである。こうしたプロセスからは一見、米軍の圧力により1.24通達が発せられたようにみえる。だが実際には、例えば大阪軍政チームのグレイグは、日本の警察関係者の朝鮮学校に関する情報をそのまま軍の上部に伝えていたのであり、日本の治安当局が占領軍を動かした面にも注意を払わねばならない[6. ロバート・リケット、「在日朝鮮人の民族自主権の破壊過程」、235頁。]。

 いずれにしても、こうして発せられた1.24通達は大きな混乱を引き起こすことになる。この通達により、各地の朝鮮学校は現状のままで存続することが困難になったからである。すなわち、1947年の通達は朝鮮人が子弟を教育するために各種学校を新設した場合、知事がこれを認可することを容認していた。だが、1.24通達は就学義務については、朝鮮人子弟を就学させる義務があるとの立場を確認したうえで、学令児童・生徒の教育を行う各種学校の設置を認めない方針を打ち出したのである。もちろん、私立の小学校・中学校の認可を申請する道は残されているのであるが、この通達は私立小学校・中学校は学校教育法の規定が適用され、かつ、朝鮮語教育は「課外」のみ認められる方針を示している。朝連の教科書を用いて朝鮮語により教育を行う学校が、現状のままで認可を得ることは事実上不可能であった。学令児童の教育を行う各種学校の設置は認可されない、かといって認可申請を怠れば通達違反となる。朝鮮学校は一連の文部省の通達のより袋小路に追い込まれることになった。

 

(2)学校閉鎖令反対闘争

朝連は、当然ながらこうした文部省の方針に強く反発する。1948年2月16日、元容徳・朝連中央総本部文教部長は、森戸辰男文部大臣に対して抗議文を提出した[7. 『朝連中央時報』1948年3月5日付。]。朝連は1.24通達に対し、「『日本の法令に服すべきだから日本の小学校、中学校で教育さるべきである』というのはあまりにも機械的な解釈に過ぎ歴史的、現実的な考慮が払われていない」と指摘したうえで、朝鮮人の多くは「適当な機会に帰国スべきもので母国語による各教科の教育を絶対に必要」だが、「日本の教育法規を無視するものではな」いとして通達の見直しを求めた。

 しかし山口や岡山、兵庫、大阪などの知事は、1948年3月以降、文部省の通達に従わなかったことを理由に、管下の朝鮮学校に学校教育法第13条に基づく閉鎖命令を発した[8. 以下、1.24通達への対応と学校閉鎖令撤回闘争ついては、拙著『해방 공간의 재일조선인사』(임경화옮김, 푸른역사, 2019년)第六章のほか金慶海『在日朝鮮人民族教育の原点 4・24阪神教育闘争の記録』田畑書店、1979年、金徳龍『増補改訂版 朝鮮学校の戦後史1945-1972』社会評論社、2004年を参照されたい。]。朝連はこれに対抗して3月23日に朝鮮人教育対策委員会を結成し、1.24通達に加えて、知事による学校閉鎖命令の撤回闘争を展開することになる。3月31日には山口県庁にて一万人の朝鮮人たちが二十四時間の徹夜集会を開いた[9. 『解放新聞』1948年4月15日付。]。

 朝鮮人教育対策委員会は4月19日、東京都教育局を訪問し四条件を認めれば認可申請の用意があると伝えた[10. 『解放新聞』1948年4月25日付。]。すなわち、教育用語は朝鮮語で行う、教科書は朝鮮人教材編纂委員会が編纂し「日本占領軍総司令部民間情報教育局」(CIE)の検閲を受けたものを使用する、学校経営管理は「朝連学校管理組合連合会」が行う、日本語を正課として採用する、という要求が委員会側の譲れない一線であった[11. 『解放新聞』1948年4月25日付。]。同じ日、山口県で動きがあった。知事が学校閉鎖命令を解除することを約束した[12. 『解放新聞』1948年4月25日付。]。続けて4月19日には岡山で同じく命令が解除された[13. 『解放新聞』1948年4月25日付。]。一方、20日には今度は東京都知事が学校閉鎖命令を下し、大阪では民族教育擁護人民大会に集まった朝鮮人のうち179名が逮捕された[14. 『解放新聞』1948年4月25日付。]。

 閉鎖か、閉鎖命令の撤回か。全国の状況が揺れ動くなか、4月24日、神戸の兵庫県庁には朝鮮人たちが集まり、知事との交渉を要求する。長時間にわたる交渉のすえ、知事は、不法行為に対する裁判のため拘禁中の朝鮮人の釈放、釈放された法律違反者を起訴しないことへの同意、朝鮮人学校に関する裁判所の命令の取消、以上の諸要求をなした朝鮮人を処罰しないことへの同意を約束した[15. 『解放新聞』1948年5月1日付。]。全国で三例目の学校閉鎖命令の取消であった。このときの様子を朝連兵庫県本部の書記局委員を務めた金慶煥は次のように回想する。

 

さて五時であろうか、知事室から我々の代表たちが意気揚々と出てきた。「勝った、勝った!」の喚声があがる。ねばりと逃げの一手を使っていた岸田知事や、頑迷の極にあった小寺市長や、法の虫である市丸検事正なども、ついに我々代表の理路整然たる論理に屈服し、「朝鮮人学校閉鎖命令を撤回する」と云う知事名の公文書[…]に調印せざるを得なかったのだ。偉大なるわれわれの勝利であった[16. 金慶煥「四・二四教育闘争の思い出」、金慶海編『在日朝鮮人民族教育擁護闘争資料集』明石書店、1988年、421-422頁。]。

 

(3)「四・二四」の日

 「勝利の日」を祝うべく、朝連本部へ戻り冷酒で祝杯をあげていた金慶煥はしかし、その直後にやってきたMPにより司令部へと連行される。「司令官の部屋には、その日県知事室にいた岸田知事、小寺市長、市丸検事正、古山警察局長ら7、8名の県・市幹部たちがずらりと横一列に立っていて、私の入るのを待ち構えていた」。MPたちは金が知事室にいたかを知事らに尋ねた。いなかったことが判明したのにもかかわらず、「朝連本部幹部の名前をみな書け」と命じられ(「解放された朝鮮民族万歳」と書いたが)、その後、金は司令部の地下室へ閉じ込められた。その後も「翌25日の朝三時頃になってくると、地下室へは同胞たちが入ってくるわ、入ってくるわ、地下室は超満員となった」。金慶煥の目算で200名ほどが詰め込まれたという[17. 同上、423頁。]。

 神戸における朝鮮閉鎖命令の撤回に対する米軍の対応は、ここからもわかるように、朝鮮人の一斉検挙であった。1948年4月24日夜11時、第八軍神戸基地司令官メノア准将は、基地管内に非常事態宣言を発令し、警察を憲兵司令部の指揮下におくとともに、学校閉鎖命令を「暴力」で知事に強要した者たちの検挙を指示した[18. 非常事態宣言発令の過程については、荒敬「占領下の治安対策と「非常事態」--神戸朝鮮人教育擁護闘争を事例に」『日本史研究』336号、1990年を参照されたい。]。26日にはアイケルバーガー中将が神戸に到着し、朝鮮人の「集団不法行為」は占領政策違反であるとの声明を発した[18. 『神戸新聞』1948年4月27日付。]。28日、神戸市警察局は市内での朝鮮人の10人以上の集会・デモの禁止、商行為に従う者以外の市内立ち入り禁止のほか、朝連の建物の使用を禁止した[20. 『神戸新聞』1948年4月29日付。]。神戸市内には占領期、最初で最後の「非常事態宣言」が発令され、神戸基地管内は米軍の直接占領下に入り、朝鮮人の一斉検束がはじまる。金慶煥はその最初期の検挙者であった。

 どれほどの人々が検挙されたのであろうか。表2は新聞史料をもとに整理した、1948年4月25日から5月12日までの検挙者・留置者・釈放者数である。表をみると、4月25日明け方にはすでに500人近い検挙者が出ていることがわかる。翌26日には1,200人に達し、検挙者がピークに達するのは28日の午後5時現在の1973人である。逆に、27日からは釈放者も出始め、5月4日には釈放者数が1000人を超えて11日にはほとんどが釈放されたことがわかる。MPと警察はこの間、閉鎖命令撤回を知事に「暴力」で撤回させた人物を探し出すため、片っ端から朝鮮人を検挙し、首実検をしていたのである。

 

表2

 

 MPや警察が検挙と「首実検」の過程でいかなる方法を使ったのだろうか。その実態を垣間見ることができる史料に、1948年6月に作成された「兵庫朝教事件検挙被害調査表」(以下、調査表)がある[21. この史料を含む日本共産党の一次史料群、通称・水野津太資料(以下、水野資料)は現在慶應義塾大学と同志社大学に寄贈され、その一部は現在『戦後日本共産党関係資料』(マイクロフィルム版、全40リール、不二出版、2007〜2008年)として刊行された。なお、本稿で言及した『一九四八年 闘争資料 関西地方』のファイルは同資料集には収録されていないため、在日韓人歴史資料館が所蔵する水野資料のマイクロフィルムを参照されたい。]。調査表には4月24日から5月3日までに検挙された164人の朝鮮人と、4月25日から28日のあいだに検挙された94人の日本人の被害調査の記録が掲載されている。調査表が、関西地方の日本共産党地方委員会や党細胞が作成した会議資料・出張報告などを綴じた『一九四八年 闘争資料 関西地方』と墨書されたファイルにおさめられていることから、日本共産党に所属した日本人・朝鮮人党員により作成されたものと考えられる。ここには氏名、住所、被害金額のほか、「加害者」、「暴行拷問ノ事実」、「加害日時」が記されており、加害者のほとんどは「日警」すなわち日本の警察と「MP」である。一例をあげれば金鍾顕の「暴行拷問ノ事実」として、以下のように記されている。

警棒でタタカレテ逮捕サレタ。生田署デ天井ニツルサレ、手錠ヲハメ、日警約30名中2〜3名ガ警杖デ胸ヲ打ツタ。亦正座サセテナグッタ。腕立伏の姿勢デ尻をナグラレ、[二字不明]負傷。生田署ヨリ住友ビルニ[二字不明]行中ショッ中頭ヲナグラレタ

 すなわち、金鍾顕は4月25日に検挙され、神戸の生田署で警察とMPに天井に吊るされて殴打されたというのである。他の「暴行拷問ノ事実」の記載をみても、警察やMPが「なぐったりけったりした」、「四畳半のなかに41名を詰め呼吸困難」、「棍棒デナグラレタ」、「家族がなくと家を焼くとおどす」、「ピストル五、六発ヲウタレ車ニノセラレタ。三枚ノタタミノ上ニ19名ツメコンダ為呼吸困難」など、検挙と「首実検」、そして朝連幹部の身元を調査する過程で凄惨な暴力が加えられたことがわかる。「四・二四」は「勝利の日」から、「弾圧の日」へと変わっていった。 

 同じ頃、大阪でも事件が発生した。4月26日、大阪の大手町公園では大阪府朝鮮人教育問題共同闘争委員会が閉鎖令撤回を求める大会を開催し、交渉委員は知事と会見した[22. 『解放新聞』1948年5月1日付。]。しかし午後4時に軍政部長のグレーク大佐は会見の中止と大会の解散を命じた。交渉委員は大会参加者に解散を命じたが、一部で警察との衝突が発生したことを契機に、鈴木栄二大阪市警局長は放水と拳銃の使用を命令した。警察はデモ参加者に発砲し、この結果、27名が重軽傷を負い、16才の少年・金太一が射殺された。四・二四教育闘争は、最初の弾圧による死亡者を出すことになった。

 さらに4月27日明け方の午前5時、今度は東京都では警察が校長など学校責任者16名を学校教育法違反の容疑で逮捕した[23. 『解放新聞』1948年5月1日付。]。閉鎖命令を受けているにもかかわらず、26日まで授業を継続していた、というのがその理由であった。翌28日、東京の軍政部は30日まで授業を継続するならば強制的措置を取ると学校側に伝達した。

 神戸、大阪、東京と4月24日から28日にかけて続けざまに行われた米軍と警察の強硬な取締、学校閉鎖命令の他府県への拡大を前に、朝連は従前の闘争方針の修正を迫れる。朝連東京本部は27日に緊急対策委員会を開催し、神戸・大阪のような闘争方法は絶対に避けること、デモ・大衆運動のような大衆の威力を借りた闘争方法は原則的に取らず、どこまでも平穏に解決点を求めることを決定した[24. 『朝鮮新報』1948年5月1日付。]。朝連中総の文教部もこの日に森戸文部大臣との会談に申し入れた。

 この結果、5月3日午後8時から会談がもたれ、朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は「朝鮮人の教育に関しては教育基本法及学校教育法に従うこと」「朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において朝鮮人独自の教育を行うことを前提として私立学校としての認可を申請すること」を内容とする「覚書」を交わした(5月5日付)。同日には朝連東京本部と東京都の会談ももたれ、私立学校の認可を申請することで合意した。ちょうど日本国憲法施行から一周年が経った日であった。その後、大阪や兵庫、京都などでも覚書がかわされ、朝連は各地において私立学校としての認可申請を進めることになる。

 この過程で検挙された人々のうち、114人が「暴動」への参加を理由に起訴された(4人が無罪)[25. ロバート・リケット「在日朝鮮人の民族自主権の破壊過程」239-240頁。]。裁判は米軍の軍事委員会(12人)、神戸憲兵裁判所(12人)、大阪憲兵裁判所(12人)と日本の神戸地方裁判所(52人)、大阪地方裁判所(23人)で行われた。48年6月30日に軍事委員会の判決がくだされ、10人は10年から15年の強制労働の刑に処せられ、うち8人は南朝鮮へ強制送還されることになった。

 

 

3.暴力としての「四・二四」、連帯としての「四・二四」

 

(1)植民地主義と反共主義の暴力

 在日朝鮮人の民族教育擁護闘争として始まった1948年は、以上みたように、4月の徹底的な弾圧をへて、5月の教育基本法・学校教育法の枠組みへの屈服により幕を閉じた。この一連の出来事を、当時の日本の人々はどうみていたのだろうか。その一例として、1948年7月号の『中央公論』に掲載された、歴史学者・津田左右吉の以下のエッセイがある[26. 津田左右吉「現下の世相とニホン人の態度」『津田左右吉全集』第23巻、岩波書店、1965年、212頁。初出は『中央公論』1948年7月号、引用は全集より行った。]。

 問題の中心点は、さわぎを起こした朝鮮人がニホンにゐながらニホンの国家の権威を重んじなかったところにあるので、それは一つは、彼等が近ごろのニホンの官憲の、朝鮮人に対する、気の弱い態度にならされて来たからでもあろうが、さういふ態度のとられたことには、遠い昔からの長い歴史によって養はれて来た、朝鮮の教養の無い民衆にありがちな、一種の心理のはたらきを、よく考へないのと、後にいふやうに、現在のニホンの国家としての地位が急に低められたことから、ニホン人が一般に、異民族に対して、みづから軽んずる気風をもって来たのと、これらの二つの事情があるやうに解せられる。

 津田は「近ごろの世間のできごとでひどく目だったこと」として国家公務員のストライキと並んで「学校のことで朝鮮人の起したさわぎ」をあげ、「朝鮮の教養のない民衆」の「心理のはたらき」をふまえて日本人が行動しなかったため、「さわぎ」が拡大したと論じた。津田は『古事記』や『日本書紀』の史料批判にもとづく研究のため右翼の攻撃にさらされ、1940年には著作が発禁処分とされるなどの弾圧をうけた思想史家であったが、このとき彼は植民地主義的というべき差別的な眼差しを「四・二四」で立ち上がった朝鮮人たちに向けていた。

 二千人近くが検挙され、多数の死傷者を出した警察と軍隊の取締という暴力をまえに、なおも「取り締まられる側」に問題があるという発想を人は、いかにして人はもちうるのか。コーエンは国家の人権侵害を人々が軽視する際の論法として、出来事の発生そのものを否定する文字的否認literal denialに加えて、出来事を違うかたちで解釈して否認したり(解釈的否認interpretive denial)や、ある事件の心理的・政治的・道徳的含意を否定する含蓄的否認implicatory denialをあげる[27. Cohen, S. States of Denial: Knowing about Atrocities and Suffering, Polity Press.2004. (조효제 옮김. 『잔인한 국가 외면하는 대중: 왜 국가와 사회는 인권침해를 부인하는가』, 창비, 2009)。]。「四・二四」をまえに津田の示した反応は、「朝鮮の教養のない民衆」の「心理」のせいだ、との解釈を示して暴力の存在から目をそらす第二の否認の典型例であろう。当時、日本の全国紙は「四・二四」を「不法朝鮮人」の暴動事件というフレームで大書特筆しており、津田のような植民地主義的な眼差しにもとづく「否認」は、当時においては決して例外的ではなかったと考えられる。

 朝鮮人教育対策委員会が従来の主張を枉げて文部大臣と「覚書」を交換せざるをえなかった背景にも、こうした日本社会の認識があった。実際、朝鮮人教育対策委員会は「覚書」を交換した理由を説明したさい、「奮起した同胞大衆からは確実に妥協的であると非難される条件」であると認めた[28. 『학교를 지키자』1948年5月8日付。]。だが「敵の分裂政策」により「孤立的状態で反動権力の攻撃と日本大衆からの反発」を招き、不利な状態に陥り、さらに闘争を続けて「あたかも特権を主張するかのような印象を日本人民に与えるようになれば、自ら孤立を招来する憂慮」があるため、「覚書」の交換に至った、というのである。

 だが「四・二四」に加えられた暴力を否認する解釈として、より大きな力をもったのは、これを「共産主義者の扇動による暴動」であるとする解釈である。例えば、アイケルバーガーは非常事態宣言発令直後より、神戸・大阪の「暴動」は「明らかに日本共産党の扇動によるもの」との見解を繰り返し示した[29. 『神戸新聞』1948年4月27日付。]。さらに、4月28日付『神戸新聞』は「南鮮総選挙をねらって 反米思想をあおる今回の事件」との見出しを掲げ、「米国人の多数は今回の事件を五月十日の南鮮総選挙を前に相呼応して反米思想をあおろうとしたものとみている」とのUP通信特派員の見解を報じた[30. 『神戸新聞』1948年4月28日付。]。教育闘争を、5.10単独選挙を阻止するための「暴動」であるとする認識が、非常事態宣言直後より流布されていったのである。のみならず、検挙者の首実検の際にも単独選挙への賛否を警察が調査していたとの証言もあり、また、賛成者のみが釈放されたと朝連系の新聞は報じている[31. 非常事態宣言下における在日朝鮮人団体の動向については、拙著『해방 공간의 재일조선인사』第六章を参照されたい。]。単独選挙への態度は、暴力にさらされるかいなかの分かれ道になったのである。

 また、在日本朝鮮居留民団(以下、民団)も、こうした占領軍の影響を意識してか、4月29日、民団は教育問題に関する声明を発表した[32. 『民主新聞』1948年5月1日付。]。声明書で民団は「今回朝鮮国民の学校教育問題に関連する紛争事件の張本人は朝連を牛耳る一派共産分子とその後見人たる日本共産党である」と、その責任を朝連に負わせたうえで、「当居留民団は中央及び地方を問わず今回の紛争事件に関与せざりし〔こ〕とを茲に明示する」との立場を表明した。津田の立場とはことなり、反共主義的な立場からの朝連批判であった。

朝鮮人に対する民族差別的かつ植民地主義的な視線と、冷戦型の反共主義的な認識の交わる地点に結ばれるのはが、外部の共産主義勢力の指令を受けて暴動をたくらむ朝鮮人、というイメージである。例えば、4月29日付『朝日新聞』が掲載した「朝鮮人の密入国者が激増」という記事である[33. 『朝日新聞』1948年4月29日付。]。「終戦以来第三国人の密入国は次第に増加している」との一文から始まるこの記事の脇には、「文部省で話し合い 朝鮮校問題」の見出しが置かれる。記事のこうした配置が偶然によるものとは考えづらい。関連する興味深い記録として、イギリス国立公文書館所蔵の外務省文書中の”Korean riot in Japan”と題されたファイルがある[34. "Koreans riot in Japan" , FO 371/69923, The National Archives =TNA, Kew, UK. 本資料については拙稿「イギリス外交文書のなかの「四・二四教育闘争」『明治学院大学教養教育センター付属研究所年報 : synthesis』2019年3月号を参照されたい。]。ここには駐日大使館と本国外務省(以下、本省)間の1948年の「朝鮮人の暴動」に関する17件の往復文書が収録されているが、1948年5月10日付の「Secret」扱いの文書において、ガスコイン駐日大使は米軍提供情報にもとづき、朝鮮人の「密入国」と朝鮮北部の政治勢力の関係について本省に報告している。朝鮮人の教育問題についての連日の報道のなか、「密入国者が激増」との「事実」を報じた前述の記事もまた、米軍の示唆により掲載された可能性がある。

 

(2)連帯としての「四・二四」

 

 民族教育の擁護を掲げる朝鮮人たちの主張は、治安当局の暴力的鎮圧と、外部の共産主義勢力の指令を受けて暴動をたくらむ朝鮮人、という像の前にかきけされてしまったのか。少なくとも当事者であった朝連は、一連の出来事をそのまま容認しようとはしなかった。

 朝連は1948年4月30日、中央常任委員会を召集し、検挙者たちの公判闘争の準備のために協議した[35. 『解放新聞』1948年5月14日付。]。そして朝連は、(1)裁判用語を朝鮮語とすること、(2)「本国」の弁護士招聘のための旅券を申請すること、(3)極東委員会委員に裁判への立会を求めることに加えて、(4)金太一を射殺した警察の残虐さを国際児童保護協会に提訴することを決定した。

 朝連は(4)からもわかるように、金太一少年を射殺した警察の責任追及に力を注いだ。しかし48年7月15日、大阪地方検察庁は金太一を射殺した警官の不起訴を決定する。これに対し、同月28日の朝連第十五回中央委員会では曺喜俊、李鐘泰、李福祚を代表に選出し大阪地方検察庁に抗議した[36.『朝連中央時報』1948年8月6日付。]。三人の代表は大阪地方検察庁にて次席検事と面会し、この抗議文を読み上げて手渡し、責任ある回答を書面で出すよう要求した。だが検事の回答は前例がないためできないというものであった。

 このため、朝連は自由法曹団とともに大阪での弾圧被害者たちの記録を整理し、責任者の告訴・告発を試みた。冒頭に紹介した水野資料中のファイル『一九四八年 闘争資料 関西地方』には、「告訴及び告発の趣旨」と題された、謄写版の三枚の用紙がホチキス止めされた紙にあった記録がある。紙の右端には手書きで「大阪事件」とある。告訴・告発状は、大阪府知事、国家地方警察大阪本部警察隊長、片岡清一、大阪市長、大阪市警察局長及び「氏名不詳の加害警察官」を、1948年4月23日と26日に「十六才の少年、金太一、十四才の少女、金花順等、無抵抗の人民に対し殺人(刑法百九十九条)傷害(刑法二百四条)暴行凌虐(刑法百九十五条)等を加えた」罪で訴えたものである。

 タイトルや作成者、作成日時などの情報は一切記されていないが、「反民主主義的、軍国主義的な犯罪行為を、告訴告発して厳重なる処罰を求め、これによって我が国の民主化の方途に横たはる障害を除去せんことを期待するものである」と結ばれており、日本を「我が国」と表現していることから、おそらく革新系の法律家団体である自由法曹団が起草したものと考えられる。

 文書には1948年4月23日と26日の告訴被害者(被告訴人)、告発被害者(被告発人)の名前と年齢、住所、場所、負傷の状態などが記された二種類の別表が添付されている。別表の筆頭には、「亡[ママ]管銃創(脳出血及挫創)。脳皮質の表面より一・五粍深さの箇所に銃創溝あり。脳皮質挫滅せらる。左側頭骨脳皮質境界に滞留せる弾片あり。」との金太一の死亡に関する記録がある。

また、朝連にとってもう一つの重要な課題は、逮捕されて裁判にかけられた人々の公判闘争であった。朝鮮語を裁判用語とすることを求めたうえで、(2)にあるように、「本国」の弁護士の招聘を図った。「本国」とは朝鮮を、とりわけ南を指していた。当時、日本政府の朝鮮学校閉鎖令に対する朝鮮や在外朝鮮人たちの反発は強かった。ソウルで開かれた朝鮮語学会主催の会議では在日朝鮮民族教育擁護闘争委員会を結成することが決議された[37. 『京郷新聞』1948年4月17日付。]。さらに5月18日、平壌中央放送は北朝鮮金日成大学(現在の金日成綜合大学)副総長の学校閉鎖令絶対反対のメッセージを伝えたという[38. 『東京朝聯ニュース』1948年6月10日付。]。「四・二四」は「在日」の枠にとどまらない、全民族的な広がりを持ちつつあった。

そしてついに「本国の弁護士」たちから応じる声があがった。『朝連中央時報』はソウルでの新聞報道をもとに、朝鮮弁護士協会が神戸裁判所で「不当な裁判」を受けている同胞のために対策を練っていたが、私費でも弁護すると志願する弁護士が22名あらわれたため、許可申請を米軍政に要求し返答を待っているところである、と一面で報じた[39. 『朝連中央時報』1948年6月11日付。]。さきにあげた、弁護士招聘を含む朝連の「目標」は、こうした経過をみても、決して荒唐無稽なものではなかったことがわかる。

もちろん、当時の南にも反共主義的な「四・二四」解釈は流入していた。朴烈民団団長の秘書・朴性鎮は4月16日、学校閉鎖反対の声が高まるソウルに入り、朝連傘下の学校は北朝鮮と連絡をとる「左翼思想宣伝機関」となっており、これが教育が侵害された大きな原因である、「日本政府がわれらの国語を使えないようにしたとか、歴史を教えられないようにするような命令を下したことはない」と現地の言論に説明した[40. 『東亜日報』1948年4月25日付。]。民族文化の抑圧ではない、責任は朝連の共産主義者にある、というわけだ。

「本国の弁護士」たちは、こうした反共主義的な解釈のなかでも、あえて神戸軍事裁判の「被告」の弁護を志願した。報道のなかでも『自由新聞』は「一部ではこれを共産主義者の煽動であるというが」一般は日本政府の朝鮮人を陥れようとする術策とみている、と報じている[41. 『自由新聞』1948年4月28日付。]。もちろん当時の朝聯は単独政府樹立に強く反対していた。だが大阪・神戸をはじめとする学校閉鎖令への抗議が、この目的に従属した暴動・陰謀だったわけではない。

しかし神戸軍事委員会は1948年6月30日、金台三・朝聯西神戸支部委員長に重労働15年の判決をくだしたほか、9名の被告たちに有罪を宣告した。「本国の弁護士」抜きに出されたこうした判決には、だからこそ強い反発の声があることになる。朝聯ソウル委員会が抗議声明をだしたのはもちろん、朝鮮教育者協議会も弁護士団派遣を一蹴した米軍当局を批判した[42. 『朝鮮日報』1948年7月3日付。]。さらに朝聯機関紙によれば『朝鮮日報』がこの問題を社説でとりあげたという。残念ながら同紙上でこの社説を確認することはできないが、『朝連中央時報』の翻訳によると、社説は、学校閉鎖問題は日本が「朝鮮民族とその文化の抹殺という古今の歴史にない悪毒なる侵略を行って来たその習慣の延長的行動」であると位置づけ、東京裁判の戦犯容疑者にすら米国の弁護士がついていることを引き合いにだしながら「ただの一人の同胞弁護人も参加さすことなく最高十五年のちょう役とは一体どうしたことか」と弁護団派遣不許可を批判したという[43. 『朝連中央時報』1948年7月30日付。]。朝連からの呼びかけは、確かに届いていた。「四・二四」への暴力に対抗する、連帯としての「四・二四」の痕跡であるといえるだろう。

 

 

4.結びに代えて

 

 朝連は1948年7月、毎年4月24日を教育闘争の記念日とすることを決議した。その際の朝連文教部長・元容徳は、以下のように指摘した[44. 『解放新聞』1948年8月15日付。]。

 百十二万の動員と三千余名の無差別検束、三十六名の犠牲者(最高十五年の重労働)に、のべ百六十六年十ヶ月の投獄、兵庫、大阪だけでも四億八千万円の損失をみながらも闘った教育闘争が、私たちの正当な主張が、いまだ貫徹されていない今日、この記念日が設定されたところに重大な意義がある。

 そして元は「いかにこの日を記念するか」ではなく、「いかに闘い、この日をむかえ、いかにこの日を勝利の記念日として戦取するか」と人々に訴えた。

 「四・二四」の経験は、在日朝鮮人たちに暴力と挫折の記憶としてのみ残ったのではない。闘争の過程での民族教育権意識の明確化と、朝鮮半島を含む全国的な連帯の広がりが形成された。これは、解放前・後の在日朝鮮人史全体をみた場合、朝鮮独立運動史上における三・一独立運動に匹敵する、空前の全国的連帯の経験であったといえるのではないだろうか。「兵庫朝教事件検挙被害調査表」に示されたような、暴力の痕跡を記録として残し、その責任を追求しようとする姿勢のもと、だからこそ「四・二四」は闘争と連帯の集合的記憶になっていった。

 「四・二四」から一年半がすぎた1949年9月8日、朝連は占領軍と日本政府により団体等規正令を適用されて、全組織が解散措置をうけた。朝鮮民主主義人民共和国を支持してその国旗を掲揚したなどの理由のほか、「神戸・大阪事件」もまた解散理由にあげられた[45. 朝連解散と第二次学校閉鎖については前掲の拙著『해방 공간의 재일조선인사』第八章を参照されたい。]。そして、運営母体が解散されたことを理由に、あらためて全国の朝鮮学校が閉鎖命令をうけた。1949年の第二次学校閉鎖である。以降、1950年に勃発する朝鮮戦争をへて、朝鮮学校がふたたび復活するまでには、少なくない年月がかかったが、「四・二四」の経験は在日朝鮮人運動の記憶として継承されていくのである。

 一方、この時期は、在日朝鮮人の民族教育への制度的排除の歴史的起源ともよぶべき時期であった。本稿でみたような1948年の弾圧をへて、日本の民族教育への制度的排除の枠組みは1950年代に確立をみる。2010年の日本における高校無償化制度の開始以来、一貫して朝鮮学校の生徒たちがこの制度から除外されていることについては日本社会のなかでの少なくない批判があるが、冒頭で触れた『朝日新聞』社説の論法にもみられるとおり、今日の高校無償化をめぐる言説においても、こうした戦後日本の民族教育排除の歴史を反省する試みはみられない。だが、今日の無償化排除はさらに長い歴史的脈絡を抜きにして理解することはできない。それどころか、冷戦の形成期である1948年に民族教育に対して投げつけられた、植民地主義、反共主義、そして両者を結合させた様々な批判的言説が、今日においてもなお反復・再生産されている面すらある。

 在日朝鮮人の歴史、朝鮮学校の歴史を通して日本と朝鮮半島の関係史を理解しようとする試みは、それゆえにこの地域の「現在」の深層に迫りうる道であると同時に、東アジア冷戦の克服と平和を構想するヒントを私たちに与えてくれるだろう。この地域の「秩序」なるものが、この地に暮らす人々にとってはどのような暴力であったのか、また、こうした暴力を克服しようとする連帯の萌芽がいかに生まれてきたのかを知る手がかりを、「四・二四教育闘争」の局地的(loal)でありながらも地域的(regional)な経験は、いま東アジアを生きる人々に知らせてくれる。南北・朝米関係の転換が模索されている今日、求められているのは戦後の「秩序」への郷愁ではなく、戦後体制そのものを根底から問い直すことではないだろうか。

 

 

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