창작과 비평

[寸評] 円光大学円仏教思想研究院編の『近代韓国の開闢運動を再読する』 / 白永瑞

 

創作と批評 189号(2020年 秋)目次

 

寸評


円光大学円仏教思想研究院編『近代韓国の開闢運動を再読する』

開闢を再読する知的冒険の道

 

白永瑞

延世大学名誉教授、細橋研究所理事長

 

 

 先ごろ出版された『西洋の開闢思想家D.H.ロレンス』(白楽晴著、チャンビ、2020年)へのSNS上の反応のうち、印象的な内容が思い浮かぶ。初めは今さら開闢かと思ったが、読んでみたら「この重厚な話頭は私たちの世代の課題として手渡された」という所感である。私たちの社会に徐々に拡散している開闢言説がしっかりと広がる兆候と読みとれる。

 旧韓末の開化や衛正斥邪とは異なる道として開闢を粘り強く照明し、重要な話頭として引上げた点で円光大学円仏教思想研究院の功労は小さくない。その共同研究陣の3冊目の成果が『宗教と公共性叢書3』として出版された。本書の核心課題は、近代韓国の新宗教で追求してきた多様な運動の中に「代案の可能性」を探し出すことである(叢書3の発刊辞)。新宗教が異口同音に掲げたスローガンである開闢は、「民衆が中心になって自己修養を基盤にして他者救済を実践し、“新しい文明を開こう”という」思想であり、運動である(叢書2の序文)。

 ところで、プロジェクト型共同研究の成果として編集したので、一つの問題意識が溶けあった企画というより、大体において研究テーマを共有する個別論文の集まりという性格が色濃い。にもかかわらず、際立つ2つの連結環があるので、これを中心に筆者たちとの対話を試みようと思う。

 まず、「土着的近代」ないし「韓国的近代」という連結環である。これに対する場合、なじみの概念である「複数の近代性」に属するだろうと思いがちである。実際、この視角が基本的に共有される。そうでありながらも、東学が儒学を革命した点を重視し、これを韓国的近代の起点と見る相違が強調される。彼らにとって開闢は、「東アジア的宇宙論と倫理観を継承しながら、韓国的な天の概念と霊性的な人間観を基盤にした、新しい時代を準備したという点で創造的な近代を志向」するもので(アン・ヒョソン「東学の土着的近代性と生命平和思想」、33頁)、あるいは「天と共にする生」つまり(崔済愚式に言えば)「開闢的生」であり、(現代風に言えば)「生態的生、生命平和の生」と認識される(チョ・ソンファン「崔時亨の生態哲学と地球道徳」、64頁)。これが一部の筆者により共有される「土着的近代」の特徴である。少なくとも中国の場合と比べれば、韓国の近現代思想史で宗教が唯一強調される特徴があるだけに、こうした解釈は歴史の新しい叙述に寄与する。

 さて、「多元的で、土着的な近代性のパラダイム」はすでに国内外の論者によってたびたび活用されているが、これに対する批判も少なくない。そのうち、別途の近代性を構想することはヨーロッパ中心主義を克服するあまりに安易な解決策として単純化され、近代克服において核心的な難関である資本主義の問題について言及せず、「非常に大きな空白」を残したという指摘(ファン・ジョンア「“開闢”という大胆な呼称」、本誌2019年春号)は核心を突いたものである。近代性を重要な研究課題とする主たる理由が、歴史的近代である資本主義時代が私たちの生に発揮する圧倒的な力を正確に認識し、克服するためであることをもう一度喚起したいと思う。 

 こうした批判を(同意するにせよ、しないにせよ)正面から受け止めながら、問題意識を鍛える必要がある。そうした時、「近代適応と近代克服の二重課題論」が有用だろう。一見すると、難しい言説に聞こえるかもしれないが、私たちが日常生活で常識的に経験するものなので、歴史的経験に照らしてみればたやすく理解できるだろう。韓国近代の新宗教が単純な文明開化を追求したのではなく、各自の位置で近代に対する受容または抵抗を適切に選択しながら、主体的に対応して新しい世の中を開こうとする「開闢宗教」だった点だけみても、そうではないか。また、物質開闢に相応する精神開闢を重視した円仏教の開教標語こそ、二重課題を簡潔に圧縮している。

 もう一つの連結環は「公共性」である。本書では、公共性をいくつかの細かい概念に分けて活用する。まず目につくのは、植民地公共性の概念である。3・1運動の主導者が戦略的に法廷を公共討論の場にしたように、3・1運動は韓国の宗教界が主導して「韓国と日本の公共的な対話を試みた運動」と解釈される(柳生マコト「天道教の3・1独立運動と市民的公共性」、169、189頁)。しかし、植民地公共性は提起された当初から実在論なのか、幻想論なのかをめぐる論争があったし、原提案者も「隠喩」として考案したものという。

 次に、市民的公共性の概念も何人かの筆者が共有する。解放後、円仏教と天道教の建国論を市民的公共性と解釈し、人民の基本権を確定して持続的な市民参与を通じて真の主権者の道を提示したと評価する。今日でも、円仏教と天道教などの近代韓国の宗教は市民的公共性を追求し、その核心は世論を創りうる市民の形成と市民の公共に対する要求と参与だと見る(キム・ボンゴン「近代韓国の開闢宗教の建国哲学と市民的公共性」、195~96、219頁)。その他、円仏教のサード(THAAD)撤廃運動など現実参与の事例を中心に、市民宗教と公共宗教という概念を適用した論文もある(ウォン・ヨンサン「円仏教の平和運動と教団変革」、300~302頁)。 

 ところで、本書の公共性の理解は「公と私をつなぐ公共(すること)」の主体を市民や宗教に設定しようとする(初期からの)趣旨を尊重するとしても、研究課題に多少ゆるく連結され、開闢思想が盛り込んでいる豊かな資源を究明するためには不十分な面がある。1つだけ指摘すれば、政治と宗教の関係に対する洞察である。政教一致の文明観は開闢宗教に共通するが、特に政治と宗教を両輪に喩えた円仏教の政教同心が目を引く。この視角からみると、3つの治教(治めて教化すること)の並進思想――つまり、徳治と政治に加えて民衆各自が道人の境地に至ることで円満な世の中をつくるという道治まで一緒に行なってこそ、円満な世の中になるという認識――とか、教団や宗教の境界を越えて宗教間の協力と人類に対する貢献を強調した綱領と言うべき三同倫理(朴孟洙「鼎山・宋奎の啓蒙運動と民族運動」、247~50頁)の思想的深さと現在的意味が一層鮮明になるだろう。

 こうした貴重な資源を完全に蘇らせて新たに解釈しようと思えば、公共性の問題意識を一層深化させた共同領域(commons)論議との接触も考慮してみるに値する。これは国家と市場、公と私を越えて公共性を拡張するために、国家や市場によって破壊されてきた「共同のもの」、すなわち共同領域を守るとか、復元する思想と運動を評価する。この論議は、元来公有地という狭い概念から出発したが、徐々に拡大され、人間の創造性や能動性が作用して形成、維持される、ともに新たな価値をつくる領域という概念にまで広げられている。共同領域を創出し、拡張する過程で、参与者自らが政治の主体になる。

 開闢を共同領域として再読する場合、円仏教と他の宗教との対話も異なって見えてくるようだ。円仏教に至って(後天)開闢思想と仏教が出会うようになり、近代科学文明とキリスト教文明を積極的に受容して新たな次元に到達したという認識が可能になる。本書は円仏教よりも天道教の部分にやや比重を置いているが、思想と運動としての円仏教の資源を緻密に分析する課題にもっと傾注したならば、さらに意味ある結果を生みだしうるだろう。同時に、開闢思想が朝鮮半島はもちろん、東・西洋の他の思想・運動と出会う可能性を抱いているなら、これを共同領域として形成する協同的探検にも今こそ積極的に進む時である。

 コロナ19事態で気候と生態危機に敏感になり、あらためて文明大転換期を迎える実感が高まっている近頃、(東学と)天道教・甑山教・円仏教など開闢宗教を生態・平和思想の実践として読んだ本書の努力は、根本的な思惟を触発する。そうであるほど、新たな思想を開く文明論としての転換という、価値志向的な研究課題を担うためには格別な姿勢が必要である。単なる研究素材ではないので魅力的で、その含意への認識を共有して研究するにせよ、(個々の志に相応する)個人修養と社会改革を並進する心構えまで持ちあわせなければ空虚になりかねないからだ。これは本書の筆者たちにのみ該当する言葉であろうか。

 

翻訳:青柳純一

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