창작과 비평

[論壇] 新朝鮮半島体制の日韓関係のための市民連帯 / 南基正

 

創作と批評 189号(2020年 秋)目次

 

論壇


南基正(ソウル大学日本研究所教授)

著書に『日本政治の構造変動と保守化』『基地国家の誕生』、訳書に『和田春樹の北朝鮮現代史』などがある。

 

 

1.

 

 2020年は韓国現代史の重大な節目となる年である。1960年の4・19民主革命から60年、全泰壹青年の焼身自殺から50年、光州民主抗争から40年、最初の南北首相級会談から30年、最初の南北首脳会談から20年になった。そして何よりも、朝鮮戦争の勃発70年になる年である。解放後の韓国史は戦争と独裁に抗拒し、平和と民主主義を渇望してきた歴史だった。新型コロナの統制を通じてK-防疫という新語を誕生させたのは。まさにこうした歴史の中で蓄積された韓国市民社会の力量であった。国交正常化後も日韓基本条約と請求権協定の解釈の違いのために、日韓関係の土台が揺らいできた“1965年体制”を超えて、東北アジアに平和秩序を構築する力も韓国市民社会から生じる。 

 市民は10年ごとに平和と民主主義の里程標をうち立ててきた。1960年代民主化運動は1970年代に労働運動へと拡大し、1980年代の反戦平和運動へと再拡大した。1987年の民主革命と労働者大闘争から南北和解の気運が一気に高まった。これを背景に、1990年には南北首相級会談が開かれた。そして、2000年に民主化運動の象徴である金大中大統領が平壌を訪問して南北首脳会談が実現した。朝鮮半島平和プロセスの実質的な起源である。

 平和と民主主義のための奮闘の歴史において、2000年南北首脳会談は特に大きな意味をもつ。朝鮮戦争の勃発から半世紀ぶりのことであった。2000年南北共同宣言は、1998年の日韓共同宣言と2002年の日朝共同宣言の間で、この双方を繋いでいる。3つの共同宣言は東北アジアの平和のための3つの軸である。この時、日韓―南北―日朝とつながる東北アジア平和の核心的三角形が作られた。この過程を主導したのは、平和と民主主義に対する韓国人の熱望を代弁した金大中大統領だった。日韓関係を正常化し、これを底辺にして南北和解の塔を建て、日朝関係を正常化するのが彼の念願であった。

 

2.

 

 この努力は、民主化運動の正統を受け継いだ盧武鉉政権に継承された。2007年には10・4南北共同声明が発表された。しかし、李明博・朴槿恵政権下で南北和解プロセスは中断され、後退した。民主主義が後退して戦争の危機が高まった。2015年からは朝鮮半島上空を戦争直前の暗雲が覆う「4月危機」が年例行事になった。同年、北のミサイル問題をめぐって南北、そして米朝間に緊張が高まる中で米韓合同訓練が開かれたからだ。2016年4月、危機はさらに高まった。

 2016年の米韓合同訓練ではB52爆撃機とF22戦闘機、そして核潜水艦などの最先端兵器が動員され、北朝鮮の占領と斬首作戦の演習も含まれた。これに対し、北朝鮮も強く反発して青瓦台を“先制的な正義の作戦遂行”の第1次攻撃目標と見なし、“実戦配置した核弾道を任意の瞬間に射ち込めるように”恒常的な準備体制に入った。7月米・韓がサード(THAAD)配備を決定すると、9月に北朝鮮は第5回核実験で対応した。国連は新たな対北制裁を採択した。挑発と制裁の悪循環が構造化されたのだ。

 そうした中でキャンドル革命が起こった。朴槿恵大統領の職務停止で方向転換の可能性が生じたが、黄教安権限代行はサード配置を強行し、さらに日韓軍事情報保護協定を締結して対決レベルを一層高めた。“サードよ行け、平和よ来い”がキャンドル革命のスローガンになった。2017年4月米朝間のチキン・ゲームは戦争前夜の状態を彷彿とさせた。その後、2017年を通じて米朝の応酬は激化していった。5月10日文在寅大統領が就任して満身創痍の内政と外交を正常化し、7月にはベルリンで“新朝鮮半島の平和ビジョン”を提唱したが、米朝は言葉の爆弾を応酬し、その声は埋まりそうだった。11月29日、北朝鮮はついに大陸間弾道ミサイルの発射事件を断行し、米国は“鼻血(bloody nose)作戦”をほのめかして一触即発の状況は年末まで続いた。

 だが2018年、金正恩委員長の新年辞と北朝鮮の平昌オリンピック・パラリンピックへの参加で事態は急旋回した。その理由と背景には様々な説明が可能だが、私たちがともに記憶し、歴史に記録すべきことがある。戦争に反対して和解と平和を希求する市民運動が、キャンドル革命に油を注いだという事実である。進行形のキャンドル革命を背景に、4月には劇的な南北首脳会談が実現し、歴史的な板門店宣言が発表された。1960年4・19革命で民主主義と平和の道を切り開いてから58年ぶり、2000年に第1回朝鮮半島平和プロセスが開始されてから18年ぶりのことであった。2018年に朝鮮半島平和プロセスが再開された。

 順調に進展するかに見えた平和プロセスは2019年2月、ハノイで第2回米朝首脳会談が成果なく終わってよろめき始めた。その隙を日本の安倍政権が突いてきた。6月30日板門店で南・北・米首脳が会同し、何とか平和プロセスのエネルギーを蘇らそうとした、まさに翌日だった。2019年7月1日、安倍政権は半導体とディスプレイ産業に不可欠な主要素材部品の対韓輸出規制措置をとり、8月には輸出審査優待国目録(ホワイト・リスト)から韓国を削除した。日本の一方的措置で始まった“日韓貿易戦争”に文在寅政権は総力を挙げて対応した。国民は“ボイコット安倍”(日本商品不買運動)で抵抗した。武器をとらない形の総力戦だった。“1965年体制”克服のために日本の挑戦に対峙して闘わざるを得なかった。2019年は3.1独立宣言と臨時政府樹立100周年であった。

 文在寅大統領は3・1節100周年の記念演説で、新たな100年の課題として新朝鮮半島体制の構築を設定した。新朝鮮半島体制とは、朝鮮半島平和プロセスと東北アジア・プラス責任共同体、東北アジア平和プラットホームなどを総合する意味をもつもので、朝鮮半島が戦争と対立の舞台から平和と協力の舞台へと変化する時に作られる新たな秩序と理解される。このためには、東北アジアは戦争の論理が強要する“2つの戦後”を克服しなければならない。冷戦という名で続いてきた第2次世界大戦の戦後と停戦という名で続いた朝鮮戦争の戦後が朝鮮半島で重なりあい、戦争の危機を高めてきた[1. 拙稿「朝鮮半島平和プロセスと日本」、チャンビ週刊論評2019年1月16日。]。この2つの“戦後”を克服せずには、東北アジアに平和は訪れない。

 “2つの戦後”が解体され始めたのも2018年だった。朝鮮半島平和プロセスが進行する中、冷戦体制の上に成立した日韓1965年体制にもひびが入り始めた。4月の板門店宣言と日本による強制動員被害者の損害賠償請求に対する10月の大法院判決は不可分一体である。新朝鮮半島体制につりあう日韓関係の構築が課題として浮上した。東北アジアの冷戦と朝鮮半島の停戦を保証する日・米・韓安保協力の下位同盟であり、類似同盟(quasi-alliance)と指称される日韓関係は、もはや新朝鮮半島体制に適さない。1965年体制を管理することで日韓関係を改善する道は選択肢たりえない。東北アジアの冷戦と朝鮮半島の停戦を克服する南・北・日3者の平和協力の一辺として再構築される日韓関係が、新朝鮮半島体制時代の日韓関係であるべきだ。

他にも「ダグラス自伝」にはむち打ちの場面が何度も登場する。主人だけでなく、主人の農場を管理する農場監督も、黒人奴隷を飼い慣らし、つらい農場労働をさらに促すためにむち打ちを頻繁に使用する。ダグラスもこのような惨劇から免れることはなかった。トーマス・オールドは反抗気のあるダグラスを、悪名高い「黒んぼ調錬師」(negro-breaker)のコービーに任せ、従順な奴隷に飼い慣らそうとした。ダグラスは6か月間の厳しい労働と苛酷なむち打ちの末、自分が完全に崩壊して奴隷として飼い慣らされたことを悟る。そうするうちに、ある事件をきっかけに、コービーが彼を厳しく叱責しようとすると、どこからそのような勇気が出たのかわからないが、戦うことを決心する。ほぼ2時間の戦いの末に、ダグラスはコービーから解放される。次は、このことに対するダグラスの叙述である。

 

3.

 

 朝鮮半島の戦争は東北アジアの戦争だった。米国と中国が介入し、日本とソ連が支援して展開されたのが朝鮮戦争だった。その戦争が起きている間に日本が達成したのは、第2次世界大戦の戦後処理のためのサンフランシスコ平和条約の締結である。朝鮮半島の両当事者と中国、ソ連はそこから排除された。サンフランシスコで平和条約が締結され、板門店で停戦協定が成立した。サンフランシスコの“平和”は戦争の種を宿した平和だった。そうした意味で、それは不安定な平和だったし、未完の平和だった。朝鮮半島の停戦もまた、同様だった。サンフランシスコの平和の中に朝鮮半島の停戦が畳み込まれた形で生まれたのが日韓条約によって成立した1965年体制である。サンフランシスコで看過された脱植民地の問題が、1965年東京で解決されるはずがなかった。日韓請求権協定はサンフランシスコ平和条約第4条に依拠し、両国とその国民の財産と権利および請求権問題を、賠償でも補償でも請求権の行使でもない、経済協力という政治的手法で処理したものに過ぎなかった。日韓関係の棘は冷戦の殻に包まれた。

 1956年にソ連が、1972年に中国が日本と国交を正常化してサンフランシスコの平和は調整された。国家間の角逐が背景にあったが、戦後日本で成長した平和主義と平和運動が東アジアの平和の定着と拡大に寄与したという点は特記する必要がある。特にベトナム戦争の渦中で、米国の戦争拡大にブレーキをかけたのは、日本の市民社会の反戦運動の役割も大きかった。1972年夏から秋に至る100余日間、日本の相模原総合補給廠の周辺でベトナム戦争に反対する市民が抗議行動を展開し、ベトナムに出動する戦車部隊を阻止した。他にも、日本の市民が展開した米軍脱走兵への支援運動は、日本を経て戦地に入る米軍の士気を明らかに低下させた[2. ただの市民が戦車を止める会編『戦車の前に座りこめ:1972年相模原闘争、そして』、さがみ新聞労働組合1979年を参照;関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵がいた時代:ジャテック、ある市民運動の記録』、思想の科学社、1998年を参照。]。

  その過程で日本の平和主義と韓国の民主主義は共鳴し、連帯していた。植民地支配の歴史を眺めあう陣地が構築され始めたのだ。冷戦の殻がはがれ始めるや、日韓関係の棘が現われた。民主主義の成長に基づいてこの間開発独裁下で隠されてきた歴史問題が、韓国で表面に浮上した。日本軍“慰安婦”問題が代表的な事例である。これに、戦後の新憲法下で“戦後民主主義”を内面化した日本が反応し、韓国市民社会の問題提起を受け入れた。1993年の河野談話と1995年の村山談話は、両国で成長した民主主義と平和主義が達成した成果である。

  1993年の談話を主導した河野洋平は、1960年代から自民党内で“アジア・アフリカ問題研究会”を組織し、左派リベラル勢力を率いた宇都宮徳馬と思想的な立場を共有していたし、1970年代には金大中救命運動にも関与した人物である。村山富市は日本社会党委員長として自民―社会連立内閣の首相になった人物である。村山は金大中の長年の支援者だった社会民主主義系列の田英夫とも活動をともにし、田英夫と金大中のラインを通じて朝鮮半島問題を理解していた。

  彼らがつくった足場を踏まえ、1998年金大中―小渕共同宣言(21世紀新たな日韓パートナーシップ共同宣言)が出された。この宣言には、日本が「過去の一時期植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを」するという文言が盛られた。次いで小渕恵三首相は、韓国国民の努力による民主化の達成と成熟した民主主義国家への成長に対して敬意を表し、金大中大統領は戦後日本が平和憲法下で専守防衛と非核3原則を堅持して国際社会の平和と繁栄のために遂行してきた役割を高く評価した。植民地支配の反省は民主主義と平和の基礎の上で生まれたものだった。

 

4.

 

 日本で民主党への政権交代が起き、日本の戦後民主主義が新たな段階に進入していた2010年には、日本の植民地支配が韓国人の意思に反したものであることを認め、これを反省・謝罪した菅直人首相談話が出された。これは“韓国併合”条約が不義不当なもので、元来無効だったという認識を込めた同年5月の日韓両国知識人声明に触発されたものだった。だが同じ時期、韓国では平和プロセスが中断され、民主主義が後退しはじめる。2009年5月には盧武鉉元大統領が、8月には金大中元大統領が逝去し、2010年3月には天安艦沈没事件が発生して平和プロセスの中断する5・24措置がとられた。

東アジア共同体を主張してアジア外交の再建を掲げ て登場した民主党政権もまた、この頃沖縄の普天間米軍基地の移転問題をめぐって後退し、揺らぎ始めた。普天間米軍基地の“最低限の県外移転”方針を覆し、県内移転を決定した背景に天安艦事件があった[3.「首相の普天間県内移設決断、哨戒艦事件も後押し」、Bloomberg日本語版、2010年5月24日。 ]。この時から自民党と米国の反民主党戦線が形成されていき、結局民主党政権は2012年を越えられず、安倍政権の登場により日本外交から“アジア”と“平和”はタブーになり始めた。その代わり、“積極的平和主義”という極めて奇怪な名前の介入主義的な安保政策が“普通国家日本”の国家路線として公式化された。

 同時に、安倍首相は公々然と修正主義的な歴史認識をにじませており、これを背景にして2010年代半ば、歴史修正主義陣営は“歴史戦”の砲門を開いた。2011年末、日本軍“慰安婦”問題の解決法をめぐり、日韓首脳が正面衝突したのが契機だった。公式的な歴史戦の開始は産経新聞社が『歴史戦』を出版した2014年を起点として捉えうる[4. 山崎雅弘『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』、集英社、2019年、7頁。]。その後、日本の書店では嫌韓流の書籍が氾濫し始めた。『歴史戦』には、「朝日新聞が世界にまいた『慰安婦』の嘘を討つ」という長い副題が付いている。“歴史戦”の目標は、“慰安婦”否定を通じた植民地支配史の総体的な否定だった。2019年には韓国と日本で『反日種族主義』が出版され、これを媒介にして日韓の歴史修正主義が結合している[5. 拙稿「政治企画としての『反日種族主義』:幽霊探しへの挑戦」、『東亜文化』第57集、2019年。]。

 “歴史戦”の攻勢を前に、いや“歴史戦”に便乗して日本政府は韓国の大法院判決を否認し、否定した。2018年韓国大法院は強制動員の被害が不法な植民地支配に起因したと判断し、日本企業である日本製鉄(旧新日鉄)に被害者それぞれに1億ウォンを賠償せよという判決を下した。これに対し、日本政府は河野太郎外相が談話を発表し、大法院判決が1965年“請求権および経済協力”協定に違反し、したがって“国際法違反”だと非難し、韓国政府に“是正”を要求した。これは併合条約が無効という韓国側の主張を暗黙裡に容認し、「意見の違いを認めた合意(agree to disagree)」に至った1965年の歴史認識にも及ばないレベルである。日本こそ、1965年条約と協定の精神を否定しているのだ。

 国際法に対する憲法違反説は、むしろ日本で強力に支持される学説である。法律よりも簡単な手続きで成立する条約が憲法を無力化し、さらには憲法を改定させる根拠になりうるのは、国民主権と硬性憲法の趣旨に反することというのがその理由である。国際法学界で有名な判例として注目される光華寮訴訟[6. 光華寮は京都大学の中国人留学生の寄宿舎で、その所有権をめぐって中華人民共和国と中華民国が日本の法廷で争った訴訟である。浅田正彦『日中戦後賠償と国際法』、東信堂、2015年、参照。]は、日本政府の二重性を示す事例である。日本政府が条約を根拠にして中華人民共和国を中国唯一の合法政府と承認していても、訴訟で日本の司法府は中華民国(台湾)の実体性を認めたのである。その過程で、日本政府は三権分立の原則に立脚し、“政治は司法に介入できない”として中華人民共和国側に了解を求めた。この事例を通じ、日本の司法府は国内法に対する条約の無条件的優位を認めず、日本政府もこれを尊重したという点を指摘できる。その反面、今の日本政府は法理的に確立していない事案を一方的に外国政府に強要しているのである。

 だが、キャンドル革命で登場した文在寅政権は、憲法精神に基づく大法院判決を尊重せざるを得ない。キャンドルは反動的権力によって中断されていた憲法の作動を正常化したという意味で革命だった[7. 白楽晴「“キャンドル”の新しい世の中づくりと南北関係」、『創作と批評』2017年春号、31頁。]。李明博から朴槿恵へと続いた反動の時期、南北対立が激化する中で反共・反北のために憲法と法律は留保できるという「一種の裏憲法が存在」[8. 同上。]した。2012年に大法院で出された強制動員の賠償判決が“司法独断”により書類の中で眠っていたのも、裏憲法の存在が確認できる事例である。キャンドル革命は裏憲法の作動を中断させ、憲法による支配を正常化したものだった。これは対日関係では2つの意味をもつ。2015年“慰安婦”合意は裏憲法の作動の中で締結されたものだという認識が生じた。そして、1948年の政府樹立による建国説が憲法精神に違反するということ、1919年独立宣言に大韓民国の法律的正統性があるという考えが確認された。憲法の作動が正常化された韓国社会で、植民地支配の不法性は否定できない原則となり、1965年体制の限界が克明に現われた。

 

5.

 

 大法院判決後に日韓関係が冷却化する中、日本の市民運動サイドでまず日韓および日朝の相互理解の必要性を訴える動きが再組織され始めた。2019年2月6日、“日本市民および知識人声明”が発表された。声明では、「村山談話、菅首相談話に基づき、植民地支配を反省・謝罪することこそ、日韓および日朝関係を持続させ、発展させるカギ」であると過去の談話の意味を強調した。この声明は3・1運動100周年に、朝鮮の独立宣言が「日本には過った道から外れて、東洋の支えとしての重責を全うさせるもの」と肝に銘じ、日本の市民と知識人はこれに応える必要があると主張した。そして、「朝鮮民族のこの偉大な説得の声に耳を傾け、東洋平和のために、東北アジアの平和のために、植民地支配の反省・謝罪に立脚して日韓、日朝の相互理解と相互扶助の道を歩むべき時」だと結んだ。

 日本の市民社会は平和運動と歴史反省運動が結合する姿勢を見せもした。2019年“戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会”と“3・1独立運動100周年キャンペーン実行委員会”の共同提起で“朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!市民連帯行動実行委員会”が発足した。5月3日、この組織はブックレットを出版して組織の理念と方向、活動内容を知らせた。その中で、韓国大法院判決の正当性を確認し、その意味を受け入れる日本側の動きを紹介している[9. 矢野秀喜「強制動員被害者に謝罪と補償を」、朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!市民連帯行動実行委員会編『朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!』、2019年;『信濃毎日新聞』オンライン版2018年12月4日;『琉球新報』2018年11月30日。]。

 日本による輸出規制の措置後、ホワイト・リストからの韓国排除を目前にした時点では、日本の知識人77人が安倍政権に「韓国は“敵”なのか」を問う声明を発表した。この声明は、1965年時点では日本政府の立場は植民地支配の有効・合法論に留まっていたが、半世紀以上をへて変化してきたという事実を指摘した。次いで、村山談話、日韓共同宣言、日朝共同宣言などに基づき、韓国併合100年目に出された菅首相談話の意味を強調し、日韓両国政府がこれに立脚して向きあえば解決法は見つけられるだろうと主張した。

 安倍首相の故郷であり征韓論の本山である山口県でも、安倍首相の政策に反対する声が組織的に噴出した。「いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関」を自負し、山口県下関市で発刊される『長周新聞』は、“日本に縁故がある市民”の名前で「安倍政権に韓国敵視政策を止めることを要求する」という題の声明を発表し、署名運動を展開した。署名は、日本政府が“徴用工”被害者に加害事実を認めて心から謝罪する、“徴用工”被害者が受容できる賠償策を検討して実施する、ホワイト・リスト排除を含む韓国敵視政策を止めるなどを要求した[10.『長周新聞』2019年8月15日。]。

 韓国でも8月12日、東アジア平和会議が声明を発表して日韓両国が1998年金大中―小渕共同宣言の精神と解決法に戻り、日本は報復を撤回し、日韓は直ちに対話せよと要請した[11. 「各界元老“日本は報復撤回、日韓は即刻対話せよ”」、オーマイ・ニュース2019年8月12日。]。9月25日には洪錫炫韓半島平和づくり理事長が日韓ビジョン・フォーラムの論議をまとめる基調演説を通じ、日韓両国政府の姿勢の転換を要求した。彼はまず、韓国政府が日本相手に強制徴用被害者の賠償を請求しないと宣言し、「日本が困るなら敢えて受け取らない」という側に整理し、その代わり日本政府は不法な植民地支配と強制徴用に対して謝罪し、反省する立場を明らかにすることを解決法として提示した[12. 「韓国は徴用賠償を要求せず、日本は明確な謝罪を」、『中央日報』2019年9月26日。]。10月10日に東アジア平和会議、対話文化アカデミー、主権者全国会議が共同名義で声明を発表し、“東アジアの平和進展のために安倍政権の韓半島政策の転換が必要である”と訴えた。106人が署名した同声明は、1910年までに結ばれた大韓帝国と日本の協約および条約は無効という点を確認し、日本が植民地支配の不法性を認めて1965年体制の限界を最終的に克服することを要求している。そして、日本が当面不法性を認められないという現実を考慮し、菅首相談話が出発点と見なせると助言した。

 日韓市民社会の声明が要求する解決法は、1965年体制の限界を認めることと同時に、2010年の成果を認めることでもある。それはまた、1965年体制とその外部からこれを包み込んでいたサンフランシスコ体制の限界を同時に克服するもので、冷戦を克服して脱冷戦の成果を継承することである。

 

6.

 

  朝鮮半島の平和は東北アジアの平和である。1988年の7・7宣言は日本と北朝鮮を向きあわせるものであった。日朝国交正常化は米朝国交正常化とともにサンフランシスコの平和が残した最後の宿題だった。7・7宣言から30年過ぎた2018年に再開された朝鮮半島平和プロセスは、未完に終わったサンフランシスコの平和を完成させる東北アジアの平和プロセスでもある。だが、昨年日本の輸出規制後、日韓関係で鋳造された悪貨が朝鮮半島平和プロセスで鋳造された良貨を駆逐しはじめた。そこに新型コロナが襲来した。

 新型コロナはグローバル化の停滞、国家の帰還、国境の強化を招き、国際社会が長期的に統合して安定と繁栄に至るだろうという展望が神話に過ぎないことを表出させた。これは自由主義の国際秩序もまた神話に過ぎないと気づかせた。

 その具体的な結果が米・中と国連の同時失敗である。新型コロナを契機に米・中は国際社会の指導的地位から同時に滑り落ちている。超大国の地位を譲歩した米国と、その地位に上りえない中国が相対的に強大国の地位を維持するためさらに乱暴になる可能性もある。そうした中、国連や世界保健機構などの国際機構も効果的に指導力を発揮できずに、その位相が格下げしている。

 しかし、これは韓国が志向するミドルパワー外交には機会になりうる。超大国を相手に中堅規模の国家が集まってアジェンダを策定し、これを中心にしてネットワークを構築し、制度を創出していくことがミドルパワー外交である。それなら、日本を排除したミドルパワー・ネットワークの構築は不可能ではないにせよ困難を伴う。表面的に日米同盟にすがりつくように見える日本が、実際にはマルチラテラルな多者間協力の枠内でミドルパワー・ネットワークを中心にした外交に有能なことを示してきたからである。私たちはこれを、包括的・漸進的な環太平洋パートナー協定(CPTPP)の成立を導き出した日本外交において確認できる。トランプの米国が抜けた環太平洋パートナー協定(TPP)が、日本をはじめメキシコ、シンガポール、ニュージーランド、カナダ、オーストラリアなどの代表的な中堅国が含まれるCPTPPに再生する過程で、日本は主導的な役割を果たした。

 国連の対北制裁を越えて南北経済協力を本格的に推進するためにも日韓関係は重要である。国際社会で日本の外交力を無視できないからである。ボルトン(J.Bolton)の回顧録で確認されたように、ワシントンの主流を相手にした日本外交は執拗である。これに加え、日本はヨーロッパの主要国及びオーストラリア、インドなどと構築してきた協力関係を動員し、対北経済制裁を維持、強化して朝鮮半島平和プロセスに介入する意志と能力を備えている。

 新型コロナ後の国際秩序で主導権を発揮し、朝鮮半島平和プロセスを推進して東北アジアに平和秩序を構築するためには、こうした日本の能力と意志を考慮に入れ、時には協力する知恵を発揮すべきである。この時、日本の市民社会がパートナーになりうる。したがって、韓国が構想するミドルパワー・ネットワークに日本を含め、日本の市民社会と連帯する努力が必要である。

 

7.

 

 新型コロナにより日韓両国市民の往来は断絶した状況だが、市民社会間では連帯が再建されている。こうした努力は、日本製鉄の韓国内資産の差押さえ公示送達の効力が発生する8月4日前後にもおさまってはいない。7月25日に韓国の東アジア平和会議と対話文化アカデミー、日本の“日韓オンライン会議推進委員会”が画像会議を開いた席に、韓国側は李洪九元首相と崔相龍元駐日大使、日本側は福田康夫元首相と東郷和彦元外交官、和田春樹教授らが参加し、日韓間の接点を探るための対話を試みた[13. 「日韓関係の破局前に強制徴用問題の解法を探すべき」、『中央日報』2020年7月27日。]。

 より広範な市民団体の組織的な連帯も模索された。7月2日“日韓和解と平和プラットホーム”という名前で両国市民団体の連帯が組織され、8月12日には記者懇談会が開かれた。韓国側では宗教界と市民社会団体連帯会議、韓国進歩連帯、環境運動連合などの団体が、日本側では“戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会”などの平和運動団体が参加した。これは2019年5月に論議が始まったもので、“日韓貿易戦争”の時期にも日韓間の市民連帯のための交流が続いていたことを示す。プラットホーム参加者は、朝鮮半島平和プロセスと日朝国交正常化、そして大法院判決による賠償実施は不可分の同一課題という共通認識に立ち、“平和憲法9条を守る運動”と“朝鮮半島の終戦平和キャンペーン”をともに展開していくことを誓っている[14. 「日韓市民団体の連帯“東アジア平和共助”宣言」、ハンギョレ2020年8月13日。]。

 新型コロナのパンデミックが日々の暮らしを脅かし、米中新冷戦の危機を深める中で民主主義と平和を拡充し、この地域で安全かつ余裕ある暮らしを共同で営むための必須要素は、日韓市民社会の連帯を復元することである。そして、1993年から2010年へと進んだ歴史認識の進展と平和拡大の歴史を継承し、展開することである。2010年菅首相談話から10年、2000年南北共同声明から20年目の2020年、この地域で歴史を進展させ、平和を拡充するために奮闘してきた両国の市民社会が先頭に立つべきなのである。

 

翻訳:青柳純一

 

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