[対話] 青年、韓国社会を語る / イ・キル・ボラ·金朱溫·コン・ヒョン·李振赫
イ・キル・ボラ 作家・映画監督。「きらめく拍手の音」「記憶の戦争」演出。著書に『やってみなきゃわからず』など。
金朱溫 シードット(C.)研究員。基本所得青少年ネットワーク(BIYN)活動家。前・緑色党共同運営委員長。著書に『基本所得を語る』(共著)など。
コン・ヒョン 青少年人権活動家。著書に『猶予された存在たち』『人権、校門を越える』(共著)『能力主義と不平等』(共著)など。
李振赫 出版編集者
李振赫 (司会)こんにちは。「私たちは決してコロナ以前に戻れない」という言葉から分かるように、2020年は全世界のすべてに特別な波紋を残した1年でした。防疫が重要な課題であることは認めるにしても、韓国社会の様々な声や問題がその陰に隠れて表面化しない状況は「コロナ以降」を考えたときも問題的です。この問題について、今日、この場に様々な分野で社会的な活動をされている方にお集まり頂きましたが、「青年」という呼称にとらわれず、それぞれの観点で所信にもとづいて、韓国社会について論じて下さるようお願いします。形式的にも今日は、『創作と批評』誌の「対話」のコーナーとしては初めて、リモート会議で進めるのですが、それだけに、より自由に議論できればと思います。それぞれ、読者のみなさんへの自己紹介を兼ねて、最近の関心についてお話し下さい。
金朱溫 私は「基本所得青「少」年ネットワーク」(BIYN)という団体で活動しており、気候危機についてもずっと勉強しています。今後、どのような感覚と認識で、日々暮らしながら活動すべきかについて悩みながら、気候危機の時代の社会的なセーフティネットワークであり、生の転換を促進する媒介として、基本所得の持つ可能性を議論するためです。その過程で、「気候変動やエネルギー危機、経済危機のための選択肢を地域共同体から実践に移す」(イ・ユジン『転換都市』ハヌルアカデミー、2013)「転換村運動」からインスピレーションを得ました。日常的によく転居する私たちにとって、地域共同体とは何だろうか、似たような志向を抱きながらも、地理的に散在して暮らす私たちは、隣人になれないのだろうか、だとすれば、オンラインで村を作ってみたらどうだろうか――という問いを投げかけて、オンラインで「完全な村」という名前で転換村を実験してみることにしました。また、私は「シードット」(C.)の研究員として、支援住宅政策の拡大のために、当事者たちに対する口述史の研究をしています。支援住宅は、住居維持を支援するサービスが結合した公共賃貸住宅ですが、現在は、地域社会で自立した生活が困難とされるホームレス・精神障害者・障害者・高齢者がその対象です。誰もが、施設でなく地域社会の中で、「いい暮らし」を追求して暮らせるべきだという信念をもとにやっているので、基本所得とも通じる面があり、支持する気持ちで研究に取り組んでいます。
イ・キル・ボラ ライターをしたり映画を作ったりしています。数年間、オランダで経験した「持続可能性」についての話をまとめて、昨年『やってみなきゃわからず』(文学トンネ)という本を出し、最近、読者たちと様々な経路で語り合う時間を多く持ちました。もうすぐ私が演出した映画『記憶の戦争』(2018)が再公開される予定で、その準備もしています。今は日本の福岡で暮らしています。コロナ禍で日韓の国境が閉じ、パートナーと別居状態でしたが、その後、婚姻届をして、ビザをもらって滞在中です。日本の社会は、表面上は平和に見えますが、コロナ陽性者はものすごく増えており、同時にさまざまな議論も噴出しているようです。私は福岡に来て、再利用が可能なウレタンマスクや綿マスクの使用率が高いことに驚きました。最近では、このせいで日本国内の陽性者が多いのではないかという話が拡がり、使い捨ての不織布マスクを使おうという動きが起きています。再使用が可能なマスクを使うことが重要だと考える私は、このような動きがどこに向かっているのを注意深く見守っています。
コン・ヒョン 2005年に青少年人権活動を始めて、今日まで続けています。今は、青少年人権運動連帯「創(チウム)」と、大学入試拒否で人生を変える「透明バッグの取っ手」という2か所で主に活動しています。また教育コミュニティ「友」で出版編集者としても働いています。これまで大学と兵役を拒否し、最近では能力主義を批判する議論を数多くしています。2020年は、18歳で選挙権を獲得後、最初の選挙として総選挙があった年ですが、コロナ禍のために様々な活動ができずにとても残念でした。
李振赫 私のような賃金労働者にとって、2020年は必ずしも悪いことばかりではありませんでした。特に、ソーシャルディスタンスとは別に、従来の生活とも距離を置くことが可能だったからです。業務上の不便さは増えましたが、自営業者や日雇い労働者が被った苦痛に比べれば何でもなく、人に会えず旅行に行けないことも少しずつ慣れてました。一方、社会生活の面では、儀礼的に顔を出していた飲み会が消え(笑)、在宅勤務を通じて想像だけで思い描いていた労働が可能になりました。また、自分がこれまで消費していたものは必ずや必要なのだろうかと問い返すきっかけにもなりました。拡大再生産でない単純再生産だけでも、文化的・産業的な生活が維持できるという気がしたと言えば、やや大袈裟でしょうか。もちろん、現在の生活を脅かされている人々のことを考えると、先決すべき課題は多いでしょうし、生計を越えて生存の問題に直面している人々も多いので、コロナ禍は一日も早く終息すべきことはもちろんですが、コロナの後に私たちの生活がかなり異なるかもしれませんし、そうすべきかもしれないという想像もしてみました。お三方は、直接的な対面と交流が重要な分野で活動されていますが、コロナ禍のために疎通・活動・連携の面で活動に変化があったでしょうか。
金朱溫 BIYNで昨年、気候危機関連の活動を本格的に展開しようとしましたが、できませんでした。「気候危機緊急行動」という連帯体を中心に計画された集会も、ほとんどキャンセルされたり縮小されたりしました。以前の方法で声をあげることが難しくなった状況で、それに代わる新たなアイデアを十分に考え出せず、想像力の限界もありました。現場を重視する質的研究をする立場でも検討すべきことは数多くありますが、直接訪ねて対話して初めて分かることも多いので、研究をすべてオンラインに置き換えることはできません。今後も検討事項は山積しています。
イ・キル・ボラ 大邱・慶尚北道地域を中心に、コロナ禍が急速に拡散し始めた頃に、私の映画『記憶の戦争』が公開されたので、直接的に被害を受けました。封切当日、メイン劇場といえる「インディスペース」は観客がたった2人でしたが、それは私たちのプロデューサーたちでした。舞台芸術の分野では被害が甚大ですが、映画の場合、コロナ禍以前と比較して、観客数が10分の1に減少しました。大小の独立・芸術映画を配給・上映してきたKT&G想像マダンシネマと映画事業チームが最近、事実上消えました。CGVアートハウスチームも正式に事業を停止しました。もちろん、観客数が減って事業を維持しにくくなった面もあるでしょうが、コロナ禍を契機に資本の立場で、不採算の事業を最初に整理していくという感じもします。誰もがつらいコロナ禍の状況では、このような決定に抵抗する声を出すことも大変ですからね。このような状況なので、私たちが重要だと考えている価値を、どのように守ることができるかについて、いろいろなことを考えます。
コン・ヒョン 街頭デモや討論会を行うときにも、気を使うことが多いので、気が重くはありました。特に人権活動家の立場では、全国の様々な団体と継続的にコミュニケーションをとることが重要ですが、そのような場がキャンセルされたり、オンラインを通じて略式で時々続いたりしている状態なので困難があります。私が活動している若者の人権関連の全国連帯体も、2020年に全国の活動家が集まって、今後の活動計画を議論する場を持たなければならなかったのですが、リモートで進めることになり、例年より議論がより難しかったように思います。2021年の人権活動家大会もキャンセルされました。
最近の韓国社会、何が話題か
李振赫 社会構成員の全体が痛みに耐えているのは事実ですが、「みなが大変だ」という言葉が、少しずつ暴力的に使用されている状況は警戒すべきです。みなが大変だから黙っていろ、ではなく、みなが大変でも互いに耳を傾けながら、顧みるべき領域の優先順位をよく考えなければなりません。韓国社会には政策的にも文化的にもそのような姿勢が足りないように思います。では、これから本格的に、お三方の活動の出発点になった、韓国社会の問題点について話し合ってみましょう。韓国社会の問題、特にコロナ禍で可視化された問題があるとすれば、どのようなことでしょうか。それぞれの話題を中心にお話し下さい。
コン・ヒョン 青少年分野では、代表的に学校における人権問題をあげることができるでしょう。2020年にコロナ禍と関連して登校の可否を決定するとき、政府が学生の意見を聞かなかったように、学生たちを教育の主体として考えない様相が相変わらずです。頭髪規制や体罰のように、長い間、問題提起をしても、変わらないものが多いと思います。人の権利を保障する学校教育ではなく、成績で序列を付けて差別化する教育制度が正当化されていますが、このような認識自体がとても根強いです。朴槿恵前大統領の弾劾当時、多くの人々が特にチョン・ユラの入試不正に対して大きく怒りました〔チョン・ユラは、朴槿恵が大統領在任時、精神的な支えとしていた実業家で祈祷師の崔順実の娘。梨花女子大の学生会が在校生チョン・ユラに対する不正追及を始めたことが、崔順実関連の数々の不正、および当時の朴槿恵大統領と共同で行った国政での不正の追及・弾劾運動へとつながった――訳者〕。ですが、明らかに違法なことは大きく取り上げられますが、実際、今のシステムは「合法的チョン・ユラ」を量産する体制なんです。チョ・グク前長官の家族の問題を見ても、表彰状の偽造やスペック水増しが問題視されますが、ならば、テストの点数を基準にした序列化と差別化は大丈夫なのでしょうか。社会経済的な背景と無関係に個人の能力はあり得ませんし、テストの点数が個人の能力をすべて示すわけでもなく、個人の努力や能力に差があるからといって、差別してもいいというわけではないのにです。そのような点に問題意識を持つべきだと思います。
イ・キル・ボラ 私は2017年に留学し、2020年3月に韓国に戻りました。韓国社会で防疫や経済だけが最高の価値とされていて、本当に驚きました。最も先に消えた価値が「多様性」でした。コンテンツの領域では刺激的で軽いものだけが消費される状況なので、たとえば「みなさん、コロナ禍で大変ですが、ベトナム戦争時の民間人の虐殺問題にも耳を傾けて下さい」と呼びかけることも困難になりました。『マスクが答えられない問い』(創作と批評社、2021)という本に共著者として参加しましたが、私は、コロナ禍で閉ざされた国境が、どうして愛する人たちの間でなく、事業関係者に最初に開かれたのかについて問いました。このような問題提起をようやくできたというのも、とても重要な部分ですが、防疫が最高の価値になってしまった韓国では、愛する人に会いたいから国境を開いてほしいということ自体が言えませんでした。ドイツやデンマークではパートナー関係が立証されれば、国境を行き来するビザを発給してくれました。ですが、日韓間の国境は、ビジネスをするビジネスマンに最初に開かれました。もちろん経済価値は重要ですが、愛という価値がそれより劣るわけではないでしょう。防疫が最優先のとき、愛、友情、出会いは果たして何番目なのかが問われました。現在、崩壊しているのは経済だけではありませんが、他の価値はどう再建させるべきかという議論が、韓国社会にとってもっと必要だと思います。それについて自由に論じられる雰囲気が醸成されるべきだと思います。
金朱溫 コロナ禍は気候危機による人獣共通感染症の一種であり、これが一度で終わる保証はないということに多くの人々が共感しています。この状況で、短期的な視野にこだわった代案だけが出ているのも問題です。気候危機がもたらす脅威は、コロナ禍のような感染症の形でなくても、より多様な形で、さらに長期的に持続し得るものであるにもかかわらず、感染症に速い速度で対応するという危機意識が、気候危機という大きな枠組みで、なぜ発揮できないのか分かりません。たとえば、コロナ以前に戻って、それだけの経済成長を達成するべきという目標を疑いなく追求することや、炭素削減に対する具体的な計画なく樹立される諸政策を見るとイライラします。イ・キル・ボラ監督が強調された愛という価値に共感すると同時に、正義に対しても再考すべきだという気がします。危機的な状況で「最初に」困難になるマイノリティの生も、「最初に」対処するべきですが、準備がないのであれば、今のように再び目前の状況のみを処理して、途中で犠牲になるケースが多くなるでしょう。特にコロナ禍を経験して、韓国社会で「施設」が、隔離された空間として物理的にのみ存在するわけではないという気がします。脱家庭青少年、ホームレス、認知症高齢者、障害者、移住労働者、難民など、実に多様な主体が韓国社会の中で「施設化」されています。誰もが年齢を取り、具合が悪くなることもあり、様々な理由から脆弱な状況に置かれることがありますが、これを施設への収容で解決しようとするやり方が、構造的な暴力であることに気付きました。『施設社会』(障害女性共感編、ワオン、2020)という本に、そのような施設化が主体に「「私は誰とどのような方法で関係を結ぶことを欲望するのか?」すら想像できなくする、最も残酷な戦略」(42ページ)と出てきます。施設は誰かを社会から隔離させると同時に、隔離された主体自らが、これ以上、社会の構成員でないことを継続的に刻印することになるという意味です。
挨拶になった「株、やってますか?」
李振赫 韓国社会が様々な価値を尊重していないということに、おおむね認識を同じくされているようです。特に危機的状況において、多様性は「生活ファシズム」によって二の次にされがちです。これと関連して、今、韓国社会で顕著な主題は、株式と不動産ではないでしょうか。「ヨンクル」「ピットゥ」に続いて「東学アリ運動」という新造語ができるほど、青年だけでなく中高年まで株式投資に熱を上げている状況です〔「ヨンクル」は「霊魂(ヨンホン)をひっかき集めてでも(クロモアド)不動産に投資する」、「ピットゥ」は「借金(ピッ)してでも株式を買って投資(トゥジャ)する」という不動産・株式ブームのこと。「東学アリ運動」は、2020年上半期にコロナ禍で外国人が株式を売却したとき、これを国難として個人投資家(アリ)が積極的に株式を買い入れたことをいう。1894年の東学農民運動にたとえている――訳者〕。コロナ禍によって株式市場が暴落したのに続いて、最近の急反騰まで、その変動幅もまた大きいため、現在の状況をチャンスととらえる人が多いですが、それだけに懸念の声もあります。実体経済の裏付けがない過熱であるという診断です。ひょっとして株はやっていらっしゃいますか。
コン・ヒョン レストランやカフェの隣席の会話で、なんとなく株式の話が聞こえてくることに、多くの人が共感するだろうと思います。青少年運動をやる10代の後半から20代の前半の中でも「株式投資を始めた」という人たちが増えましたが、何の問題意識もなくそうしている様相はちょっと驚くべきことです。それが階級的にも活動家としても望ましいかについて、内部的に話し合う必要があるという気がしました。私は、株は買ったことがなく、ファンド型貯金をしたことはありますが、確かにそのようなものに参加すると、景気がよくなって、自分の資産にプラスになることを願う気持ちも起こりました。人々を資本の立場から考えさせるメカニズムのうちの一つであると思いました。
イ・キル・ボラ 昨年、映画『記憶の戦争』の公開当時、某放送局で「コロナ禍に打撃を受けた文化芸術界」を取材すると言ってインタビューを受けました。インタビューで記者が「お金にならないのに、どうして映画を作るんですか」と質問するんです。そのとき「お金にならないことを知りながら、芸術をする理由はあるでしょう。あなたは資本という価値のために、記者の仕事をされているんですか?」と聞き返したんです。コロナ禍で経済問題が浮き彫りとなり、資本という価値が最も重要になって、みんな少しずつ「自分はこの仕事をどうしてやっているのか?」と思っているようです。そのような問いを互いに投げかけています。特に私はお金にならないことをしているので、あるいはそう見えるので、「大丈夫?」と聞かれることも多く、「お金になる仕事もちょっと探すべきでは?」という言葉もそれに続くようです。このようなことを感じていたところに、「株、やってますか?」(『ハンギョレ』2020年11月25日付)というコラムも書きましたが、ある瞬間「株、やってますか?」が挨拶のようにやりとりされる言葉になったんです。私は、株式投資自体に対する問題意識はありませんが、「株をやっていない自分はおかしいのか?」という危機感と、株式投資をしない人々をそのように煽る社会の雰囲気は問題だと思います。株をやらないこともありますし、お金にならなくてもドキュメンタリー映画を作ることができ、売れない本も出版できなければなりません。そのような価値が容易に等閑視されるのは危険です。
金朱溫 生が不安定なのはおおむね同じですが、株式がそのセーフティネットにはなり得ないでしょう。ならば、今、私たちにとって必要なセーフティネットとは何か、金銭的な困難を払拭するためには、どのような社会的関係が裏付けされるべきかをまず見るべきでしょう。金融商品や各種デリバティブ投資がどれほど危険かを示すのが、2008年の金融危機ですが、あれからいくらもしないうちに、誰もが株式を買っているというのが、甚だしくは「東学アリ運動」といわれて東学と関連付けられるのが、私には不思議でした。最近、時事教養だけでなく芸能番組でも株式投資の話がよく出ますが、「株式を買うのは、自分が信頼する会社の主人になる最も簡単な方法」と紹介されていました。実際に株式を買った人に、本当にその会社の主人になったと感じるか聞いてみたいです。そのように善意だけで包み隠していると、他の問題も生じます。たとえば、最も多くの人々が買っていたサムスン電子の株価を上げるために、人々がイ・ジェヨン副会長の赦免や贈与税の免除を擁護するようにです。株式投資から完全に疎外された階層もありますが、そのような階層間の格差に注目する視線もあまりに不足しています。 イ・キル・ボラ そうですね。私は株式ブームに関する映像を見るたびに、両親の顔を思い浮かべます。2人は手話を使うろうあ者なんです。テレビでいくら株式関連の情報が出ても、2人が受け入れるには限界があります。もちろん2人よりも情報へのアクセスが困難な人たちもいるでしょう。このような格差に対する政府レベルの配慮がないことが懸念されます。京郷新聞が企画した「2030<資本主義が生んだ世代>報告書」は、このような株式投資ブームが若年層の社会的・経済的な階層分化をさらに深めるだろう分析していますが(「東学アリ運動が残した課題――「世代」でなく「階層」で分けられた青年たち」2020年10月27日付)、社会のセーフティネットが必要ならば、結局、このブームの後にやってくる危機をどう乗り越えるかに集中すべきでしょう。このゲーム自体がさほど公正でないのは事実ですからね。
李振赫 政治・社会的に行使可能な権利が過度に狭小なために、「株主権」という言葉の方が魅力的に聞こえるかもしれません。株式市場が完全に公正だろうという信念があるというよりは、その程度のリスクは甘受しようとする気持ちの方が大きいようにも思えます。
コン・ヒョン 株式に関してならば、私は「公正か」よりも「正当か」という問いの方が先に浮かびます。いかなる公益的な寄与もなく、相場での差益を得ることが果たしていいことなのか、他の人々が持つべき分け前を、不当に横取りすることではないかと思います。株式投資で成功した人々の話を聞いてみると、本人がどれだけ努力したかを強調します。どのように勉強し、注意深く見て、調査して……ですが、その行為に、社会や他の人々に役立つという意味がないという自覚がまったくないんですよ。ただ「自分はこれだけ苦労したので、お金を稼いでも大丈夫」と帰結するようです。少し飛躍かもしれませんが、ある面では、入試の勉強と似ているとも感じました。社会的に意味あることかが重要なのではなく、私はこのように努力して勉強したから、補償を受けなければならないという考え方なんです。
不動産問題を見るもう1つの視角
李振赫 株式は買わなければそれまでだとしても、家に住まないわけにもいかないので、不動産は誰もが避けて通れない問題です。1人世帯数が900万を超え、「地屋考」(地下・屋根裏・考試院)に代表される劣悪な環境が、特に問題視されることもあります。ですが、不動産政策はマンションの供給に集中する面があります。住宅問題という難題を、アパートという空間構造からしばし離れて、生活やコミュニティの面から見てはどうでしょうか。
金朱溫 私は4人で一種の生活共同体で暮らしています。最初は、一部屋だけの家でなく、リビングがほしくて集まったんですが、一緒に住んでみると家賃の負担も少なくなって、ものを共有することで生活費も節約できました。経済的な理由だけでなく、フェミニストとしての政治的志向と生の悩みを、同じ屋根の下に暮らす人々と共有することがとてもよくて、いつの間にか6年が経ちました。このような生活の形をどうやって長期的に持続するかに悩むようになり、「社会的家族」の議論にも注目するようになりました。BIYNの中に生活同伴者法を議論してキャンペーンを行う「ボストンピープル」というチームを作って活動したりもしました。昨年は野良犬を連れてきて、非人間動物との共同体という、新しく、またときめく課題も得ました。人間中心的な生活方法について考察するきっかけとなり、何かとどうつながって生きるべきか、悩みの領域が広くなりました。そうしていると、「一地域に長く根付いて暮らしたい」という気持ちが生じてきました。ですが、賃貸住宅など既存の制度では、今の生活共同体を包括できないのは、私たちは婚姻関係でも血縁関係でもないでしょう。運よく一緒に賃貸住宅に入るとしても、別々にそれぞれの家に住めるだけです。もし様々な方式の家族構成や共同生活を包括する住宅政策ができるならば、より多くの可能性が広がるだろうと思います。住宅をどう供給するかにとどまらず、「誰とどのように一緒に暮らすか」に話を拡張しようということです。これは気候危機ともつながりますが、それに対する対応として、遠からず地域レベルの自給自足能力が重要になる時期が到来するからです。家庭菜園を育てたり協同組合を作ったりするためにも、定住性が土台にならなければなりません。気候危機による自然災害や災害状況が発生しても、地域におけるしっかりしたネットワークが土台になってこそ、隔離されず互いに世話ができます。私には、現在暮らしている恩平区の女性主義医療生協運動や転換村運動、エネルギー協同組合などがいい参考になっています。
コン・ヒョン 政策的には無償住居に近くなるべきという考えがあります。すべての人に家を分け与えるのではなく、住むところがない人がいないようにしようという意味です。最近、台頭した基本住宅についての政策的提案は、既存の公共賃貸住宅の政策とは異なり、所得階層に応じた制限なく、無住宅者であれば誰でも公共賃貸が申請できるようにするというものです。ただし、このような方法で賃貸住宅を十分に分け与えるためには、国家が今よりもはるかに多くの住宅を保有して管理する計画が必要でしょう。ですが、これが地域不均衡の問題とつながるので、より一層難しくなります。首都圏に暮らそうという需要はかなり高く、非首都圏地域には人口の分散がうまくできないので、それに合わせて家を分配することはできません。これは一人ひとりの意識の問題ではなく条件の問題です。実際、首都圏を出たい人も、生計や雇用のためにそうできない場合が多いですからね。ですから、長期的で総合的な大きな見取図や政策が必要ですが、不動産の問題が「住居権」の問題ではなく、「財産権」の問題として取り上げられるために、解決がより困難なようです。不動産価格が住宅問題のすべてになり、価格が上がれば上がるだけ、落ちれば落ちるだけ、失敗せざるを得ない政策になったからでしょう。
イ・キル・ボラ 私は両親と一緒に住む時、両親が住居費を負担してくれて、大学に通う時は住宅公社の「大学生チョンセ〔保証金〕賃貸住宅」の制度を通して、ほぼ家賃を出さずに住んでいました。今は「芸術人住宅」で大きな家賃負担なく住んでいますが、基準に合えばここに最長20年暮らすことができます。豪邸のような広い家ではありませんが、経済的負担がないということにとても満足しています。広いテラス付きのこのような空間が、なぜみなにできないかが気になります。ひいては、このような住居福祉制度をさげすむような認識も多いようです。「ホテル乞食」という言葉もそうですし、最近、漫画家のキアン84(キム・ヒミン)がウェプトゥーンで、幸福住宅・賃貸住宅を「善意で包み隠されているだけ」と言って議論になりました。私は賃貸住宅をこのように悪く見るという事実に、むしろちょっと驚きました。否定的なイメージを慣性的に量産しているという気もしました。オランダでは「ソーシャルミックス」(social mix――住宅団地内に分譲・賃貸家具を一緒に置くこと)がよく行われていますが、社会住宅の割合が全体の住宅の34.1パーセントで、世界中で最も高いようです。なので、社会住宅で暮らしているからといって、憐憫の視線で見つめられる雰囲気もほとんどありません。それに比べて韓国のアパートは、同じ団地でも賃貸と分譲の世帯を分離します。社会住宅がなぜ悪いのでしょうか。誰もが一生暮らす空間が国家から提供されることがおかしなことでしょうか。誰もが家のことを心配せずに暮らすのはいいことではありませんか。人間は平等だというのに、どの家に生まれて生きるかによって、自分の人生が変わるというのは本当に平等でしょうか。
コン・ヒョン 今回、国民賃貸住宅に申請したんですが、本当に当選したらうれしいです(笑)。公共が主導する賃貸住宅は、エネルギー・気候問題ともつなげて考えるべきですが、今後できる公共住宅が自然親和的に作られて、エネルギー転換において重要な役割を果たすことがあることを願いたいです。
イ・キル・ボラ 私が暮らす芸術人賃貸住宅も、もとは芸術人同士で会って交流し、創作活動もできる住居環境を念頭に計画されましたが、そのようには建てられませんでした。低層マンション2棟を「村」と呼んでいるようなレベルです(笑)。人が行き来する空間であるべき1階のコミュニティルームも狭く、陽射しがあまり入らないように設計されています。ですが、賃貸住宅に住んでいるので、環境の改善を要求するには曖昧な雰囲気が形成されました。「暮らす権利」にどこまで含めるかについての議論も一緒に行われればと思います。
金朱溫 先に紹介した支援住宅の政策も「みなのための住居」という哲学を前提にしています。既存のものは、住居脆弱者の中でも、家賃を出す能力やアルコールに依存していないかなどの資格を検証して、住宅を提供する方式であったとすれば、支援住宅は一度住宅をまず提供しようという「ハウジングファースト」(housing first)です。これは基本所得の哲学とも関係していますが、誰かの資格を審査して選別するのではなく、住宅を当然の基本権として主張するからです。最小限の人間らしい生のための所得が条件なく保証され、住居がみなに、権利があれば誰でも、地域社会で暮らせる基盤が形成されるだろうと思います。先に述べた通り、施設化よりも自立の方が重要なのも、そのような脈絡でしょう。社会的なケアネットワークやユニバーサルデザインを備えたエネルギー自立住宅なども、もちろんもっと議論されるべきでしょう。
基本所得という新たな想像力
李振赫 住居問題が基本所得の議論とつながるというのが印象的です。住宅が主な富の相続手段であるという点と、それがいわゆる「正常家族」と「血縁関係」をもとに行われるという特徴を、まず考慮すべきだろうと思います。それに反して基本所得は、各個人に提供されるものなので、既存の家族中心の福祉政策と住宅政策に、新たな想像力を吹き込むことができるだろうという気がします。基本所得について、もう少し話し合ってみましょう。
金朱溫 BIYNは、基本所得が単に福祉政策や経済政策の一環として政策化・制度化されることがすべてとは考えていません。長期的に基本所得は、社会的で文化的な運動であるべきだと思います。『創作と批評』誌に掲載された対話「新たな経済パラダイムと基本所得」(2020年秋号)でも、主要な争点は「財政の問題」と「福祉国家の代案としての実効性」でした。もちろんそれも重要ですが、基本所得は、私たちが当然と思っているものに亀裂を入れるという点に最も大きな力があります。仕事とは何であり、労働の代価とは何なのかを考えさせ、社会の構成員に所得を条件なく与えることが、同僚や市民を見る視点をどう変化させるか、また、そこでどのような信頼が生まれるかを見ることが、財政の問題と同様にとても重要です。「コモンズ」(commons)をみなに均等に配当すべきという意味もまた持つほど、基本所得を論じるとき、限られた地球の資源に対する態度に対する問いも含まれるべきです。性別や性的指向、性同一性などを問わず、「個人に」与えられる基本所得を通じて、生活における自己決定権、性の平等、少数者の生がより尊厳的に考慮されればと希望します。
李振赫 韓国では昨年、コロナ禍の災害支援金のために、基本所得が急に話題になりました。それが総選挙と重なって政策的な力を得ました。このような試みはどのような意味があったのでしょうか。
金朱溫 『創作と批評』秋号の座談のうち「どのような概念や政策も、それを考案した人の思い通りに効果が出ることはない」(キム・ヒョヌ発言)という内容に多く共感しました。災害支援金は国家の現金形態の支援が不可能でないということが分かった、いわば0が1になる経験だったと思います。現在、第2次、第3次の「災害支援金」に議論が限られているのは不満ですが、にもかかわらず、基本所得に対する積極的な考えが噴出しているという点はいいと思います。特に第1次災害支援金は世帯ベースで提供されていて、実際にもらえなかった人たちも多数いましたので、それを個人がもらえるなら、どのように変わるのか、というような、小さな想像力から出発する余地もあるでしょう。
コン・ヒョン 事実、優先順位で言えば、基本所得よりは、先に述べた無償住居や無償医療のような普遍的な福祉政策が実現して、金使いを減らすことが優先だと思います。それでも、基本所得に込められた政治的メッセージは意味があると思います。特に青少年のように経済的に依存している人たちは、個人に支給される基本所得をより大きな可能性と感じるだろうと思います。2000年代の中後半以降、多くの左派団体や政党で、基本所得を代案として提示しましたが、その後も常に「満18歳以上」を但書に加える場合が多くありました。それだけ、青少年人権活動家が議論すべきことが多かったんです。災害支援金の場合は親がもらうので、若者は直接お金を触っていない場合が大半です。ですから、「支援」に対する実感があまりないようです。親とどのような交渉をしたのか、話は多様ですが、少数者に与えられる福祉は、絶えず交渉の対象になりやすいので、それを切断できるという点でも、基本所得の議論がより大きな意味をもつでしょう。
イ・キル・ボラ 海外滞在中だった私は、自分の分を父からもらわなければなりませんでした。くれと言うのがとても言いにくかったですが、自分の分だからもらいました。災害支援金であれ、災害支援金名目の親からの小遣いであれ、それをもらった経験自体は、今の青少年世代により特別だという気がします。これを経験した世代とそうでなかった世代の間の違いも明らかにあるでしょう。
最近の政治的変化について
李振赫 疎外された人々が同等の社会構成員として生きるために、どのような言説が必要か、今後より多くの検討が必要でしょう。ですが、韓国社会における多くの言説が現実政治の壁を越えられないのは、根深いイデオロギー対立と陣営論理のためであることが大きいです。南北分断体制、また階級差による理念対立が、「すべて隠して、味方と敵」を作る面が相変わらずあります。にもかかわらず、最近の政治参加の様相は多元化していますが、このような変化も見てみたいと思います。
イ・キル・ボラ フェミニズムの議題を掲げて活動する女性政治家が増えて、彼女たちが国会議員にもなり、また意味ある成果を出していることにも注目すべきでしょう。かつては政治家は別のところにいると思っていましたが、周辺の誰もが、あるいは未来の私が、そうなる可能性もあるだろうという気がします。しばらく前に日本の原一男監督が作った「れいわ一揆」(2019)という映画を見ましたが、2019年に日本で結成された進歩政党「れいわ新選組」(年号が平成から令和に変わる日に政党登録をして、江戸時代の武士組織「新撰組」の一字を変えて「新しい時代に選ばれる政党」という意味を込めた)を扱ったドキュメンタリー映画です。俳優出身の山本太郎が党代表で、障害者、ホームレス、シングルマザーなど、既存の日本の政界で見られなかった人物が選挙に出て、彼らの発言が珠玉のようで、上映時間の4時間がどのように過ぎたかもわかりません。一方で「まさか誰も当選しないだろう」と冷笑する気持ちがありましたが、2人も当選しました。政治とは最も遠いところにいると思われる彼らが政治をすると言って出てきて、実際に変化を作り出すのを見て、政治をする人は生まれつきではないんだ、最も平凡な人々が政治をしなければならないんだ、とあらためて実感したんです。それは韓国社会も同じです。そのように当選した2人の比例代表が、電動車椅子を乗っている障害者であるという点も示唆するところが大きかったと思います。同時に「消費税廃止」「脱原発」「動物福祉」など、進歩的な議題を掲げたれいわ新選組に、フェミニズムの議題がまったくないという点で、韓国と日本に吹く新しい波の違いとでもいいましょうか、そのようなことを比較する楽しみもありました。
金朱溫 私は緑色党員です。今年で発生10年目のフクシマ原発事故がきっかけとなって、経済成長主義に抵抗する新たな流れを作ろうと登場した政治勢力が緑色党でした。女性青年として楽しく政治ができる空間を探していて、緑色党に行くことになりました。20代後半に私としては大きな勇気を出して、党代表の役割も引き受けました。なので、政治に関する質問をされて省察と反省をしています。信念を共有する仲間たちと一緒に、しっかりと活動に専心できた時間に感謝する一方で、それが私自身と韓国社会にとってどのような意味だったか、依然として問うているところです。私は政党活動を一種の市民教育の実験と考え、韓国社会で見られなかった政治的なシーンを作り出すことで、人々の想像力を拡大させたかったんです。ですが、ある種の変化が起こるためには、とても長い時間とたゆまぬ努力が必要だということをあらためて学びました。一喜一憂しない態度で、私たちが作りたいと考える世界を、私たちの中から、運動の過程から作るべきだと思いますが、また自らを変化させることが最も難しくもあります。たとえば、性平等の社会を作るための法制度、文化の変化を叫ぶことも重要ですが、性平等の組織を作るために、内部からも絶え間ない努力が必要なようにです。
コン・ヒョン 私は政党や政治家を支持したことはありません。活動家として特定の組織や個人に期待をかけること自体、やや不適切な感じられるからです。私自身が運動や政治を作っていく立場であるために、異なる力の方が強い政党や政治家に頼ってはならず、同等の政治の主体として対することが正しいと思います。10数年前に私も政党に登録して党員になり、制度政治に積極的に参加しなければならないという考えがあって、政治冷笑主義に対する反感もありましたが、最近は逆に、既成の政治とは適当に距離を置くべきだという気がします。政党に加入したり制度政治に関与したりしなくても、いくらでも政治的主体がなれますから。以前は政治冷笑主義に反対したとすれば、今は政治を制度圏内の政党あるいは政治家の支持者やファンになること程度のものと認識することに反対するようになったでも言いましょうか。政治を冷笑したり嫌悪したりするのは問題ですが、既存の秩序を拒否することも政治でありうると思います。自分の話でこの社会を変えようと努力することが、誰かを支持して投票をするよりも、より大きな力を持つ政治行為だと思います。
李振赫 ろうそく集会を通じた熱烈な参加で政権が変わったにもかかわらず、中途半端な重大災害企業処罰法、きちんと議論もしない差別禁止法、膠着の局面を脱却できない南北関係など、期待に比べて変化の方が遅いようです。どのような点が問題で、またどのような努力が必要だと思いますか。
金朱溫 今、政権はイメージを利用するだけで、積極的に変化しようとしていないという視角があります。「韓国型グリーンニューディール」も緑のイメージを借用するだけで、実際は石炭火力発電所を含む土建事業を推進しようとしています。朴槿恵政権当時、あれほど苦労してやめさせた雪岳山ケーブルカー設置事業も、現政権であらためて推進されているところです。また、フェミニスト大統領を自任されていましたが、残念なところがかなり多かったと思います。彼らの態度が変わらなければ、人々の失望はより大きくなるでしょう。社会が変わるためには、何か一つが優先されるべきというよりは、すべての議題が互いにどうつながっているかを認識し、一緒に変えていこうと努力することの方が重要ではないかと思います。
コン・ヒョン 文在寅大統領が約束したことを考えれば、私の活動領域でもとても多かったと思います。修学能力試験〔大学入試共通テスト〕の絶対評価、児童人権の制定、青少年の政党加入許容――18歳選挙権は実現しましたが、政権で主導的に推進したのは何もなく、ただ選挙の時の言葉だけだったと思います。私はそれでも1つ挙げるならば、差別禁止法の制定が重要だと思います。今、差別禁止法の議論では、性少数者の問題だけが強調される傾向がありますが、その中に学歴や労働形態など、さまざまな差別に対する禁止を包括しています。労働組合の権利保障や格差の解決も、この一歩が重要だと思います。
イ・キル・ボラ 誰かが自分の声を代弁してくれることに、社会が正しく変わることに待ち疲れた人々が、社会を変えようと取り組んでいるんです。そのような文脈で#Me Too運動が始まって、様々な分野の人々が声を上げています。私はもっと多くの話がもっと噴出すべきだと思います。全国障害者差別撤廃連帯が今年4月7日のソウル市長選挙を控えて、「脱施設障害者党」を結成しました。障害者当事者が勝ち取ろうとする議題を直接知らせるための「衛星政党」で選挙管理委員会には登録しません。既存の政党が、障害者当事者が望み要求する議題を掲げないので直接出てきたのです、結成のニュースを聞いて、前に述べた「れいわ一揆」のことが思い出され、全身に戦慄が走りました。私はだからすぐに参加しました。正式の政党になってもいいという気がしました。「障害者党」がなぜダメなのでしょうか。環境、動物、障害者、性少数者、女性など、各自の議題をかかげた政党がもっと多くできて、彼らが国会で自分の声が出せるように、現在のシステムを変えていかなければなりません。
青年言説と青年という実体
李振赫 「青年」という呼称についても一緒に考えてみたいと思います。社会的にも世代的にも広く使用される用語ですが、また明確に定義することも難しいと思います。にもかかわらず、実体がないとか無意味であると片づけられないのは、「青年」という言葉から、多くの政策や言説が派生して出てくるからです。自治体でも流行のように、青年ポータル、青年センターのようなシステムを構築するために予算を使っており、政党も「青年委員」のような肩書きをより多く作っています。
コン・ヒョン 私は青年言説には否定的です。すべての形態のアイデンティティ言説がそうでしょうが、特定の年齢や世代にアイデンティティを付与することは有効でないと考えるからです。性別、障害/非障害、所得など、誰かをそれよりもはるかに強く規定する要素が多いからです。また、おっしゃられた自治体や政党の青年言説を追っていくと、その世代の中でも疎外されている人がいるようです。彼らの言う青年は、おおむね大学生や大卒者、また男性中心に流れがちです。青少年人権活動家の立場では、年齢主義に対する批判もあります。青年が新しく溌溂として若いイメージに固定されて、他の形の年齢主義が作動しているようです。年齢主義によって年齢が若い人が差別され資源を持たないことに対する問題意識は必要ですが、だからと言って世代交代を云々し、青年たちに何か特別な待遇をするかのように接近すれば、別の年齢主義に陥ってしまいます。ただ「青年」政治家が増えればいいわけではなく、国会や政権内部の年齢による位階や差別を批判して、年齢だけでなく学歴・職業・性別などによる差別を越えて、政治の多様性や民主性を増大させるための運動が必要です。韓国社会は政治権力や経済的資源を少数が独占しているので、そのような点をより指摘して批判する一環として、年齢の問題が配置されるべきでしょう。
金朱溫 私の活動するBIYNは、団体名から青年(youth)が入ります。このことをどう見るかが重要な悩みの1つだったので、修士論文でこの主題を扱いました。2012年に初めて団体名を定めるときは、研究者や学者中心の、基本所得運動とは異なる新たな流れを作ろうという意図でしたが、2010年代中盤を過ぎて、既存の青年フレームと戦うことがより多くなりました。「青年」と呼ばれる人々が集まった組織であるため、そのようなフレームを知らないふりはできず、にもかかわらず、世代論に陥らないように運動していきたいんですが、これを同時にやっていくのは容易ではありませんでした。青年「当事者運動」を繰り広げる人たちとの観点の違いもありましたが、私たちは青年の困難を指摘して、政策対象の根拠になることに反対しました。韓国社会において社会的資本の配分を受けるためには、弱者性を強調するのが最も効果的です。それとは異なり、青年が完全な個人であり同等の市民として、公的領域に参加するのが私達の目標ですが、そのような微妙な点を毎回説明し説得しなければならないことも難しいことでした。今、青年は、概念的にボロボロで消えかかっていますが、彼らを弱者として対象化せずに、同時に構造的な困難を除去する方法を見つけなければなりません。
イ・キル・ボラ 「青年監督」と呼ばれるたびに当惑を感じています。青年監督といえば、新たな視線と斬新な問題提起が要求されますから。様々な年齢の方が集まった場で、「青年たちがまずアイデアを出せ」と平気で言う方も多いです。ならば、またどうして新しいアイデアは、既成の世代から出てこないのかという疑問も生じますし、なぜこのようなときだけ「青年」と呼ばれるのかという不満も同時に起こります。ですから、私は、自分自身を「青年」よりは「女性」や「コーダ」(CODA、Children of Deaf Adultsの略で、ろうあ者の両親から生まれた子供)としてのアイデンティティを持っています。
李振赫 京郷新聞が創刊70周年を迎えて、一面に掲載した記事とその編集デザインが話題になったことがあります。記事のテキストの上にカップラーメンとコンビニおにぎりを置いて「アルバイトの日当は4万9千ウォン(……)私にも明日はあるのか?」という手書きのメモが書いてあります。そのときの見出しが「共生の道が見つからなければ共倒れ」でしたが、それなりに進歩的だという新聞さえも、青年のイメージをそのように消費するのが不満でした。カップラーメンで延命する「かわいそうな」青年たちと「共生しよう」というメッセージが、あまりにも権威的に感じたんです。「青年」が便宜的に解釈されるほど、その中の本当の問題意識は稀薄になり、社会的なイメージだけが残るだろうという懸念が生じます。――それではそろそろまとめの挨拶も兼ねて、2021年の計画を聞いてみましょう。
コン・ヒョン 私が所属する団体では「子供は下の人ではない」とキャンペーンしています。韓国社会は年齢の若い人をむやみに扱う文化が当然視されているので、そのようなことに対する批判をより本格的にやってみたいと思います。また、進歩派の教育監たちが出て、教育運動がむしろ弱まったと感じますが〔教育監は韓国に17ある広域自治体の地方教育庁の首長。次官待遇〕、にもかかわらず昨年「大学無償化・平準化推進本部」が発足しました。学歴や学閥による差別の問題と序列化の問題にも着実に問題を提起してみたいと思います。
金朱溫 緑色党の活動をしていたにもかかわらず、気候危機を感覚するようになったのは、あまり時間がたっていないと思います。「人間の条件」であり生活の基盤である地球が持続可能ではないという自覚が、活動の存在基盤と時間の感覚自体を揺るがしました。絶望的でもありましたが、より多くの人々とこのような感覚を共有することから活動を続けていこうと思います。市場中心的だったり男性中心的ではない経済体制や文明を想像するためには、何よりも「話」が重要だと思います。コロナや気候危機を体験した後に、別の形で書かれるべき話を、隅から隅まで探し、作成し、記録したいと思います。
イ・キル・ボラ 映画『記憶の戦争』が再公開され、ベトナム戦争時の民間人虐殺を扱った本『記憶の戦争――記憶されないあの日の物語』(ブックハウス)がまもなく刊行されます。その本の仕上げの作業中に、映画製作陣の1人がこのような話をしました。韓国電力公社がベトナムで「ブンアン2石炭火力発電所」の事業を進めていますが、自国では石炭火力発電の割合を縮小しながら、海外では汚染源となるエネルギー事業を輸出することは、新たな方式の搾取であり生態虐殺であり、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺が、今、「生態虐殺」という名で繰り返されているということです。2021年の私たちが、ベトナム戦争と虐殺について語ることは、顔と形を変えて新たに登場する搾取を語ることだと思います。時代の問題が別々に存在しているのではなく、すべてつながっているということでしょう。そのつながりを見つけ、指摘し、伝えることを続けたいと思います。
李振赫 お三方の2021年を、特別に応援したいと思います。長時間ご一緒下さり本当にありがとうございました。(2021年1月22日/ZOOM 会議)
〔訳=渡辺直紀〕
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