창작과 비평

[寸評] 黄静雅ほかの『コロナウィルスパンデミックと韓国の道』 / 李向珪

 

創作と批評 191号(2021年 春)目次

 

寸評


黄静雅ほかの『コロナウィルスパンデミックと韓国の道』創批、2021

どのような映画を作っていくのか

 

李向珪

著書に『フーアーユー』『英国の青年マイケルの韓国戦争』などがある。hyangkue@hanmail.net

 

 

 「今、我々は1本の映画を見ているのではない。1本の映画の脚本を書いているのだ。皆で、最後まで」(ピーター・ベーカー/Peter C. Baker、 「我々はノーマルな日常に戻ることはできない:新型コロナウイルスが世の中をどう変えてしまうのか」)

 本書はこう語りながら終わっている。こう書きながらこの著者は「8週後に第一子の出産を待ちわびて」(260頁)いた。内容からにじみ出る切実さが感じられる。今この瞬間も多くの新たな生命が生まれ、育っている。ゆえに、この映画の結末は決して「人類の滅亡」や「回帰不可能なディストピアの到来」となってはならないのだ。何があろうと「ヒューマンドラマ」でなければならない。これまで、ディストピアへと向かっていた方向を変えて新たな道を探し求めるロードムービーであるべきなのだ。本書は、そのシナリオを書くために十分参考となるだろう。

 本書の最初の文である「パンデミック時代の民主主義と韓国モデル」 を執筆した黄静雅は、「前書き」において二つの意味から我々がもはや以前のような「ノーマル」には戻れないと明言している。「以前の世界も既にノーマルではなかったため、仮に戻ったとしても、(…) 悪化し続ける「非常態」の世界だからというのが一つ目の意味」で、二つ目は「世界は、(…) 以前にはもう戻れない非可逆的な方向へと向かっており、パンデミックはその事実を表す指標である」という意味からだ。「二重の意味で「ノーマル」とは遠のいてしまったため、今後の世界は未だかつてない悪化の一途を辿るか、もしくは未だかつてない方法で好転するかの選択しかない」(5~6頁)と述べている。

 本書はその「選択」を取り上げている。ロードムービーに例えるなら、この旅がどこへとどういった方法で向かって行くかを決めることなのだ。以前の地図は役に立たない。広い道であればあるほど危険である。狭い道を探し出すか、新たな道を切り拓くしかしない。それには羅針盤となるものが必要である。本書の前半はその役目を果たしている。「友愛」「脱成長」「ケア」「生態社会」などがキーワードである。これまで飽きるほど耳にした言葉で今更という気もするだろう。特に白英瓊(ぺク・ヨンギョン)の「脱成長への転換要求とケアという話題」には強い共感を覚える。

 「お互いに依存し合う存在としての人間を見つめるケア中心の見方は、それ自体が成長と利益を最終目標としている体制とは両立しがたい。従って、ケア中心の社会への転換とは、成長自体から抜け出そうという主張であり、どういった枠組みを新たに構築するかの問題である」(52頁)。「脱成長は、(…) 社会的な連帯の中で質素な豊かさを味わうことを目標とする。(…) 人生の方向を変えようとする意志と努力の伴う転換でなければならない。そのため、そのような意志と努力を引き出す社会運動の役割が重要なのである」(55~56頁)

 産業構造の再編と「正義溢れる転換」、普遍的ベーシックインカムと普遍的ケア所得の導入などの具体的な提案は他の分野での議論においても役に立つであろう。実際、私自身も脱成長とケアを中心に「新たな枠組み」を設けるとすれば、教育はどう変えるべきかについて悩み始めた。 金賢雨(キム・ヒョヌ)は「コロナ19による危機、災害資本主義への退行なのか、生態社会への転換の機会なのか」の冒頭で、映画『インターステラー』のファーストシーンを紹介しながら、新型コロナウイルスと気候危機の類似性を強調している。私は下線を引き、こうメモした。「怖い」と。「グリーン・ニューディール」を紹介した後、その運動を「ブランド化」した韓国の「グリーン・ニューディール」が「土建ニューディール」へと回帰するのではないかと懸念しているところ(82頁)でも、やはり恐怖を感じた。我々が羅針盤として用いるべきものは「名前」ではなく、哲学であることを知らせてくれる。

 本稿の冒頭で述べたように、映画に例えるなら、今回の映画はそれぞれのストーリが独立的に展開しながらも、お互いに繋がっており、各自のストーリに共通の一貫したテーマのあるオムニバス形式の映画でなければならないだろう。かつてない時代を全知の視点で体験した人はこの世に存在せず、人々の暮らしの隅々にまで影響を及ぼしている様々な危機を細かいところまで把握し、解決してくれるようなスーパーヒーローも存在しないからだ。

 そして、本書の後半では、映画の登場人物たちを取り上げている。医療資源の不足により、あらゆる倫理的選択を強いられながら、ほぼ限界に達している医療従事者たち(チェ・ウンギョン、「パンデミックの時期は新たな医療を備えるのか」)、閉ざされた校門の前で混乱に陥った、学校を中心に繋がっている人々(イ・ハナ、「コロナ19以降の学校の生態系はどこへと向かうべきか」)、農村の高齢者たちと外国人農業労働者たち(ジョン・ウンギョン「低密度と消滅危機、農村にコロナ19以降などはない」)、そしてコールセンターの労働者たち(キム・クァンウク「ウイルスは乗り越えるが、人権は乗り越えることのできない境界、コールセンター」)などが紹介されている。彼らの生活を鮮明に描いており、まるで1本の映画を鑑賞したかのようだった。実は、前述したキーワードにこの主人公たちの未来がかかっている。友愛、脱成長、ケア、生態社会へと向かう方向を見失ってしまったら、ハッピーエンドで終わることはできない。

 今、私はイギリスにいる。イギリスは、これまで(2021.1.28現在)累計感染者数が370万人以上に上り、死亡者数も10万人を超えている。韓国の友人たちは、私が地獄でのような生活をしているのではないかと心配している。しかし、そうではない。イギリス人が韓国人より70倍も不幸なわけでもないだろう。昨年の3月以降、イギリス政府は新型コロナウイルスで打撃を受けた賃金労働者や自営業者の所得を80%まで保つことができるよう支援している。本書を読みながら、その他にも些細な違いに気づいた。

 韓国では、子供のいる医療従事者の場合、学校が休校になると新型コロナと戦いながらも子供の世話もしなければならない二重苦に陥っているという。イギリスは対面授業が中止になっても学校に登校できる。必須労働者(医者、看護師、医療支援人材、社会福祉士、教師、食料品流通業者、配達員、介護労働者、聖職者、清掃従事者、公共交通の運転士、ガス・上下水道・通信の技術者など)の子供たちは学校側でケアしている。ケアの必要な経済的弱者の子供や障害のある児童も学校に登校できる。

 韓国は学校だけではなく、図書館や福祉施設など「市民の生活になくてはならない役割」(イ・ハナ、141頁)を果たしている場所までも閉ざしてしまった。「公共機関が感染症の拡大状況において防疫の方法として選択したのは専ら閉鎖であった。閉鎖したら、誰も責任を取らなくて済むかもしれない」(144頁) イギリスはそうした状況下でも図書館は開いていた。予約をして本を借りたり、パソコンを使用したりすることもできた。保育園も運営していた。

 ある人は、こういった甘い防疫のせいで感染の拡大を防ぐことができなかったのだと指摘するかもしれない。その通りであろう。生命より尊いものはない。韓国はしっかりとその生命を守り抜いた。それを十分認めながらも、今後が気になる。全ての選択は何を手に入れ、何を捨てるかを決定することだ。これまで「 K-防疫」が選択した道は何を手に入れ、何を捨てたのだろうか。今後は何を選択すべきであろうか。韓国版の映画はヒューマンドラマで終わるのだろうか。本書は、多くの問いを投げかけており、その答えが所々に隠されている。それを見つけることが読者に与えられた役目であろう。

 

 

〔訳:申銀児〕

 

 

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