창작과 비평

[特集] 人生の転換を夢見るケアーの想像力―黄貞殷と李柱恵の小説を中心に― / 白智延

 

創作と批評 192号(2021年 夏)目次

 

白智延(ペク・ジヨン)

文学評論家。評論集に『迷路の中を疾走する文学』、『些細な話の自由』などがある。 cyndi89@naver.com

 

 

1. いかなる世界へ進むべきか

 

   コロナ19の発生以後、すでに一年を越える時間が過ぎている。もう「パンデミック時代」という命名がおかしくないほど、大規模感染病の拡散と長期化するわれらの生のパタンを、以前とは異なる層位に変えてしまった。パンデミックの現実は全世界的な危機状況を喚起すると共に、具体的にわが社会に山積した問題の面々を覗き込ませる。ウィルス疾病と直接的に連動される気候危機と災難の状況は、社会、経済、教育、医療の各分野でこれまで蓄積されてきた不平等の現実と体制の矛盾を連続的な脈絡で省察させる。危機と災難は逆説的にそれを乗り越えていく転換的課題の厳重さも知らせてくれる。黄静雅(ファン・ジョンア)の指摘のように、今この時期こそ「代案」の存在がいつの間にか現実となる、「思惟の実験と生の実験との間の距離」がいつよりまして近づいた、「「価値」をめぐった判断が最前線と」なった時代である。[1.黄静雅、「パンデミック時代の民主主義と「韓国モデル」」、『コロナパンデミックと韓国の道』、創批、2021、20頁参照。]

   パンデミック状況で社会的弱者と少数者が耐えなければならない災難・災害の現実は、最近文学の直接的質料となっている。特にペミニズムの思惟と青年の問題を取り上げた一連の文学作品と批評は、多様な政治的懸案に接続して相変わらず解決され得ずにいる様々な社会矛盾に問題を提起している。[2.文学批評でもパンデミック状況で深化した社会的世話の危機現象、家父長制家族構造の抑圧、性的不平等と暴力の問題、性少数者と差別のイシューを積極的にアピールする作品を中心に批評的解釈が集中されており、青年現実に対する論議も取り続いて登場しつつある。] 市民的熱望にまともに呼応できない息苦しい政治現実は、既存の政治秩序から脱して青年自ら政治的主体として立つ方式に対する苦悶へと続く。[3.一例として青少年人権活動家であるゴン・ヒョンは、「政治を冷笑したり、嫌悪することは問題だが、既存の秩序を拒むことも政治であり得ると考えます。自分の物語でこの社会を変えようと努めることが、誰かを支持し投票することよりももっと大きな力を持つ政治行為であるよう」だと語る。コンヒョン・キムジュオン・イギルボラ・イジンヒョク対話、「青年、韓国社会を語る」、『創作と批評』2021年春号、91頁参照。] この間発生した青年労働者の故イ・ソンホ氏の平沢港の死亡事故もまた、まともに施行される条件が整えられなかった重大災害企業処罰法の問題を深刻に喚起する。「われわれは生きていこうと職場に行くわけで、死のうと行くわけではないじゃありませんか」[4.「心を焦がす故イ・ソンホ氏の父親 「生きるため働くわけであって死ぬために働くのか」」、連合ニュース、2021.5.13。] という叫びは、人らしく暮らせる世界を作るためにもうこれ以上延ばしてはならない緊急な実践の模索を求める。このように危機の局面は単なる正常化や回復の談論で止められない、根本的な変革運動を必要とする。

   今、われらの時代の文学作品でこのような体制転換の想像力と連結される様々な大事な輪があるだろうが、その中でも女性と家族の物語は青年問題、性的不平等、世話のイシューを連結する重要な叙事的資源として注目に値する。特にコロナパンデミックの状況は、キム・ヒョンミの言葉通り「家族、労働、世話の意味を構成してきた韓国社会のジェンダー不平等体制の危機」を圧縮的に露わにする切っ掛けとなっている。彼女は災難の危機が普遍的人間活動であるべき世話を女性に転嫁することによって、「既存のジェンダー体系の不平等性を持続し強化」しており、逆説的に災難と危機の回復、正常化モデルもまた、「ジェンダー不平等を前提としたり、それに依存して企画されているもう一つのジェンダー不平等体制」を核心とするという点を強調する。[5.キム・ヒョンミ、「コロナ時代における「ジェンダー危機」と生態主義社会的再生産の未来」、『ジェンダーと文化』13(2)、2020.12、42~43頁参照。] 体制転換の思惟がなければ変化もまた不可能だという主張は、白英瓊(ペク・ヨンギョン)の議論でより明白に現れる。「資本主義体制と成長主義の限界」を克服する「体制転換の原理」として「世話」が思惟できるべきだという彼女の主張[6.白英瓊、「脱成長転換の要求と世話という話頭」、『コロナパンデミックと韓国の道』、創批、2021、52頁参照。引用は63頁。] は、世話労働の領域を既存の女性運動が取り上げてきた家事労働や人に対する世話労働に限らせない概念的拡張を提案するという点で注目される。

   変わらないこととの持続的な対決を通じて成し遂げていく根本的転換の過程、そして新しい価値を再発見して構築する問題は、文学の領域で具体的な現実を捉えることとして再現される。本稿で主に取り上げる黄貞殷(ファン・ジョンウン)の『年年世世』(創批、2020)と李柱恵(イ・ジュヘ)の『スモモ』(創批、2020)は、ジェンダー不平等の現実に対する探究に基づいて新しい時代への転換的想像力を打診していて意味がある。これらの小説は堅固な既存の家父長的制度の日常と暴力の問題に注視しながら、これを突破する切っ掛けを見い出そうとする。それと共に作品で探索される世話と連帯の可能性もまた、家族内部の矛盾を解消することにのみ留まらず、社会を変えようとする開放的な生の実践と転換の原理として思惟されるという点で積極的な解釈が求められる。

 

 

2.家族叙事と「キャンドルの時間」:黄貞殷『年年世世』

 

   黄貞殷の『年年世世』は戦争と分断から現在に至る歴史的時空間に置かれた女性と家族の物語を本格的に探究した連作叙事である。同時代個々人の問題を主に取り上げてきた黄貞殷小説としては稀に歴史的物語へと時空間を拡張したという点でも注目される。それと共に世越号惨事とキャンドル革命を貫く韓国社会の重要な変化を意識するという点で、前作である『続けてみます』(創批、2014)と『ディディの傘』(創批、2019)の主題意識と連動して読むように仕向ける。『続けてみます』が社会的貧困と差別の状況に耐えながら紐帯を結び、成長する人物たちの変化を描いたなら、『ディディの傘』はキャンドル革命の影響力を直接的に質問しながら共同体の抑圧と連帯の可能性問題を細心に探究する。これらの小説が示した時代的変革の想像力に対する探究は、『年年世世』でも続く。母親と娘の物語で始まるこの作品は女性と少数者の人生に繰り返され、蓄積されてきた歴史的「傷跡」と「抑圧」の問題へ視線を深化する。

   戦争と分断を経験した母親の「イ・スンイル」世代の人生を、子息世代の人生と交差しながら考察する『年年世世』の叙事的試みは、黄晳暎(ファン・ソクヨン)の『鉄道員三代』(創批、2020)が描く家族物語と比較しても興味深い。高空籠城を行っている重工業労働者のイ・ジンオの家族史を中心に、韓国近現代百年余りの労働運動史を本格的に取り上げた『鉄道員三代』は、その歴史的想像力を触発する現在的時点で広場に立った労働者市民の声を浮き彫りする。『年年世世』で捉えられた親世代のイ・スンイルの人生もまた、子息世代であるハン・ヨンジン、ハン・セジン、ハン・マンスの視線によって現在的に照明され解釈される。特にハン・セジンは「キャンドル広場」が押し開けた変革の想像力を批判的に打診する市民として、この連作小説の現在性を担っている。

   「年年世世」という小説のタイトルは代を次いで蓄積・繰り返された不平等な性別体制の生に焦点を当てる。小説に刻み込まれた歴史のなかの女性たちの人生は「家父長制社会で女性は母親のない子供ら」[7.アドリエンヌ・リッチ、『われら死んだ者たちが覚める時』、イ・ジュヘ訳、バダ出版社、2020、53頁。] という、あるペミニストの痛烈な伝言を思い出させる。小説で焦点を合わせることは家父長制の歴史のなかで繰り返し女性たちが耐えなければならない「暴力」の日常である。この暴力は子供たちを投げつける両親の衝撃的な姿として小説で再現される。「吹っ飛ばされて雪たまりに突っ込まれたことのあ」(「無名」、87頁)るイ・スンイルの幼年期の記憶は、世代を越えて他の家庭で成長したハ・ミヨンの記憶のなかでも類似した様相として再現される。懐に抱いた赤ちゃんを数回あやしてから投げつける母親、それを放置した父親に対する記憶を持つハ・ミヨンは、家族暴力のトラウマから脱せられない。このように世代を隔たりながら繰り返され拡張される家父長的慣習と暴力によって人物たちが経験する傷跡は、最初の作品「破墓」を始め、連作全編に渡って重苦しく伸し掛かる。 

   「破墓」は連作全体を横切る時代状況を圧縮しながらも、個別作品としてもすぐれた完成度を持っている。黄貞殷小説の固有な詩的象徴、省略と暗示の話法が場面ごと繊細に刻み込まれているし、家族関係や性別の区分に埋まらないように登場人物の名前を一つ一つ呼名する方式は、歴史のなかで「亡失された名前」を復元しようとする試みとつながる。幼い頃、保護者となってくれた祖父の墓を世話していたイ・スンイルが、自分の世代でその仕事を終えようとする「破墓」の過程は、同行する娘のハン・セジンの視線を通じて一層立体的に浮き彫りされる。家族から一定の距離を置いたハン・セジンの独立的位置は、イ・スンイルとハン・ヨンジンが女性として経験する人生の苦境と葛藤を多角度から眺められる距離を確保してくれる。ハン・セジンは「家所々に溜まっている母の疲労と」(22頁)、姉のハン・ヨンジンの苦しい労働の時間を理解しながらも、彼女らの世界と同化されることを拒む主体的な人物である。ハン・セジンが母親の墓参り過程に同行したのも「母にはそこが実家であろう」(17頁)ことを深い心で理解したからである。

   「破墓」のハン・セジンと違って「言いたい言葉」のハン・ヨンジンは、彼女に家族の経済を扶養する長女の生を期待してきた母親に対する深い恨みを持っている。イ・スンイルが耐えてきた犠牲と献身の人生は時代と空間を隔ててハン・ヨンジンに余すところなく世襲される。長女に経済的扶養の荷を担わせながら、「やりたいことを全部やりながら生きることはできない」(81頁)と強調したイ・スンイルは、息子のハン・マンスが自分の意のままにニュージーランドに行って暮らすことを許す。「なぜ私をあなたのお膳の前に引き留めたのか」(83頁)というハン・ヨンジンの恨みは、70代を迎えたイ・スンイルが再びハン・ヨンジンの子供たちを世話するため苦しく年老いていくという事実がわかるから、とても表に発話され得ない。ハン・ヨンジンは「数十年家事で手が固く曲がっているのに熱いものに触ると相変わらず熱」(「無名」、141頁)いイ・スンイルの苦しい人生を知りながらも、「自分のものを/使うと話もせず持っていって、壊し、捨て」(140頁)る母親の無神経さに対する恨みを捨てることができない。

 

   よく生きること。

   ところが、それは一体何だったんだろう、とイ・スンイルは思った。私は自分の子供たちがよく生きることを望んだ。ひどいことを経験せず無事に大人になることを、みなが幸せであることを望んだよ。よくわからずに私はその夢を夢見た。よくわからずに。(138頁)

 

   だが、ハン・ヨンジンがついに言わなかったことがあることを、イ・スンイルは知っていた。

   許せなかったので言わなかったのだとイ・スンイルは思った。その子が言わなかったことはそれで私も言わない。

   許しが請えないことが世の中にはあるということをイ・スンイルは知っていた。(142頁)

 

   「無名」でイ・スンイルの苦しい人生は忘却のなかに埋もれた数多い「スンジャ」たち(スンイル、ウンイル、スンジャなど)の人生を代弁するものとしてやってくる。戦争で家族を失い、祖父と暮らしてから伯母の家の家政婦として暮らす途中、ハン・ジュンオンと結婚することとなったイ・スンイルは、ドイツに行って看護師となりたかった自分の夢が実現できなかった。ずっとスンジャと呼ばれた彼女は、結婚した時に自分の名前がスンイルであることを知るようになる。イ・スンイルが持った自責と罪障意識は、自分も意識せず子息世代に譲ることになった「悪い」世界に対する自覚と連結されている。娘もまた自分の人生に相変わらず母親の世話と犠牲的労働が必要であることがわかるので、恨みを口に出すことができない。彼らは家族内の世話労働と女性の人生が持った矛盾が単に疎通と愛を訴えることだけではとうてい解決しないことがわかっている。小説は母と娘の関係において見逃しやすい世話と犠牲のイデオロギーについて直視する。 

   ところが、このように日常のなかに染みこんでいる家父長制慣習に対する緻密で鋭い解剖的視線にもかかわらず、「破墓」、「言いたい言葉」と区別される「無名」の証言的特性については批評的により論じてみる余地がある。「無名」は韓国近代史を貫く女性の人生に加えられた暴力と受難の現実を年代記の記録として圧縮して示すが、この過程で人物を照明する客観的視線の装置が居座る余地はあまりなさそうだ。[8.「無名」で現れるイ・スンイルの年代記を「一人の女性が現代史を通過しながら体験した時代の質感を匂いと味、触感などの具体的な体の感覚を経由して精巧に再生する」(ジョン・ギファ)成就として読み取ったり、娘たちの物語と違って「直接自己物語を始めながら立体性を持つように」(オ・ヨンギョン)なることとして読み取る意見も可能である。(キムテソン・オヨンギョン・ジョンギファ、「この季節に注目すべき新刊」、『創作と批評』2020年冬号、384~85頁参照) しかし、女性と少数者の人生を歴史的な時空間で圧縮して取り上げる際、当事者の発話そのものがいかなる文学的再現の成就を成し遂げるかはより見てみられるべき問題である。] イ・スンイルが経験した苦難と抑圧はハン・ヨンジンを始め子息たちの誰とも分かち合えない圧倒的過去として、「語り得ぬ」世界に閉じられている。その点でジョン・ホンスの解釈のように、イ・スンイルの「破墓」はすでにずっと前から心の中で成し遂げられた過去の行為となったと見なすことができよう。[9.ジョン・ホンスはこのような脈絡でイ・スンイルの叙事が娘たちの物語を越えてハン・マンスの世界と容易く出会えない地点を細心に捉えている。ジョン・ホンス、「やってくるもの、そして「広場」という蜃気楼:黄貞殷『年々世世』/キム・へジン、『君という生活』」、『文学と社会』2020年冬号、350頁参照。] イ・スンイルが経験してきた抑圧的労働が内面的回想によって再現される方式は、固有な歴史的解釈を導き出すというよりは、従来の痛められ受難を経てきた女性の記録として一般化される感じがする。このような物足りなさは続くハン・セジンの叙事で描かれる叔母おばあさんのユン・ブギョンとその子孫であるノーマン、ジェイミーの人生に対する形象化にも一定の限界として働く。

   そうして『年年世世』の現在性は「やってくるもの」を導くハン・セジンの持ち分となる。イ・スンイルとハン・ヨンジンが耐えてきた世話と労働の生に基づいてハン・セジンが感覚する実質的な生の転換的瞬間を打診しようとする試みは注意深く読む必要がある。韓基煜(ハン・ギウク)が捉えたように、『ディディの傘』が残した、「ペミニズム運動とキャンドル革命がどう出会えれば互いの革命的潜在力がまともに実現できるか」[10.韓基煜、「革命は終わっていない:『ディディの傘』を読んで」、『創作と批評』2019年春号、4頁。] という課題は、『年年世世』を通じて直接的に探究されているわけだ。この地点で『ディディの傘』の「何も言う必要がない」が見せてくれた革命に対する想像力の留保的性格を再び思い浮かべずにはいられない。積極的に評価するならば、『ディディの傘』の「波が引いて残った場にこの食卓が残る光景」(315頁)には、姜敬錫(カン・ギョンソク)が言ったように「高揚感と不安感を同時に発散することに見られるように、相変わらず進行中の、なので今だその限界がわからない」[11.姜敬錫、「革命の再配置」、『創作と批評』2020年夏号、22頁。] キャンドル革命の可能性が含まれている。しかし、「キャンドルの時間」を進行形として見なすべきか、過去形として見なすべきかに対する内的葛藤は『ディディの傘』でそうであったように『年年世世』でも相変わらず懐疑的で揺られる時間として貯蔵されているようだ。「憲法裁判所の弾劾判決で革命が渡来したと言ったり、完成されたという「人々の考え」に疑問を提起することは、それ自体として必要でありながらもそれだけではキャンドル革命に十分副うとは言い難い」[12.白楽晴、「3・1と韓半島式国作り」、『創作と批評』2019年夏号、320頁。] という白楽晴(ペク・ナクチョン)の論評は『ディディの傘』を越えて『年年世世』により必要な問題提起として戻ってくる。

   作品で「キャンドルの時間」に対する思惟は、ハン・セジンの直接的な声よりは周りの人物たちの発言を通じて経由する方式で成される。ニュージーランドで「模範的」労働者として暮らしている弟のハン・マンス、ニューヨークブックフェスティバルで出会った僑民、叔母おばあさんのユン・ブギョンの息子であるノーマンと彼の娘のジェイミーなど、「やってくるもの」が意図的に配置している「外」の視線は、「内部」の革命感覚を反省し懐疑する意味を持つ。朝鮮半島の女性が生きてきた差別の歴史を「キャンドル革命」を含む歴史的変化に結び付けようとする小説の省察的視線は「パンパン」と呼ばれながら他国で差別に耐えてきたユン・ブギョン(アンナ)家族の生を浮き彫りする。だが、歴史の記録が少数者の生を見逃しているという発言のみではユン・ブギョン家族とハ・ミヨンなど、疎外され傷つけられる少数者の生がまともに再現されにくいのも事実である。それは先述した「無名」の叙事で働く限界でもある。

   ニューヨークのブックフェスティバルに招かれたハン・セジンは、現場討論で投げかけられたある人の質問に慌てる。彼は「一時間半をここに座ってあなたたちの話を聞いたが、(外国への)韓国人養子縁組、韓国の養子縁組輸出に対して語る人はいない。あなたたちは一時間半の間、それに関して一言も言わなかった」(165頁)と言う。瞬間的に感じた当惑さに対してハン・セジンはハ・ミヨンに「一生忘れられない恥ずかしい質問を受けたし、無知を謝ったと」(179頁)告白するが、実に「韓国の民主化と国家暴力とIMF以後、労働の非正規職化が韓国の創作者たちに及ぼした影響、2016年のキャンドル集会と広場の経験と大統領弾劾はそれぞれのジャンル、あるいは個別作業にどう反映されたか」(164頁)に対する苦悶と、「韓国の外国への養子縁組」問題は別個の層位に置かれた話ではない。巨大歴史と区別される部門的主題が別にあるわけではないし、これを解くためには「恥ずかしさ」から進むそれ以上の物語が必要である。「悪いことを悪いと言いたいだけなのに、頑張らなければならないし、頑張るほど見すぼらしくなっているような感じがして」(168頁)というハ・ミヨンの防御的な悲観に沈みこまないためには、新しい思惟で臨む「キャンドルの時間」が必要である。この恥ずかしさと苦悶は過ぎ去った革命ではなく相変わらず現在進行形として残っている革命に対する自覚を通じて出口が見い出せるだろう。もしかしたらその過程は小説が物語っているように「泣いて失望して幻滅して怒りながら、言い換えると愛しながら」(182頁)生きていくまっただ中で始めて再び進行されうることである。 

 

 

3.「関係的労働」としての世話と自己発見:李柱恵の『スモモ』

 

   コロナ19以後の状況が具体化した社会的世話の危機は、家事労働と非生産労働に縛られている女性主体の世話の問題を全面化する切っ掛けとなった。特に医療現実と連動した看病問題は、家族内不平等な性別体制と連結されて社会構造的な矛盾を露わにした。李柱恵の『スモモ』は舅を看病し世話する物語と、女性の自己発見の叙事とを緊張感のあるように結合した秀作として、「関係的労働」としての世話に対する幅広い小説的省察を繰り広げる。この小説はコロナ19が惹き起こした直接的な状況に限定されずに、家族と社会でこれまで蓄積されてきたいろんな世話危機の状況を多角度から眺めるようにする。[13.ソンウ・ウンシルもまた、この作品が「小説が具現する「家父長制と女性ジェンダー」の層位は「伝染病的危機意識」という現在的共通感覚の上で膽道癌という病による死と、その近くにいる女性叙事として読み取れること」を強調する。ソンウ・ウンシル、「世界的危機の共通感覚の上で読む疾病時代の女性叙事」、『作家ら』2020年秋号、139頁参照。]

   小説の冒頭はフリーランサー翻訳家である「私」が担当した本の話しで始まる。「すべてが始まる3月の春夜に二人の女性詩人が顧みたくなかったはずの過ぎし日の喪失に関して語り合ったという事実」(17頁)から「愛する人に自分の心を理解してもらいたかったが、ついに失敗したある夏の物語」(20頁)へと連結されるこの作品は、二人の女性の出会いと紐帯、そして不合理な現実を脱するための決断という、一見慣れた叙事的方向をわれわれに提示する。だが、ペミニスト的覚醒構造の叙事を直接的に借用したこの小説に宿られた時代性は、パンデミック以後、より敏感となった世話危機の状況、そして家族間に強いられる感情的親密性、人間の尊厳死を巡った哲学的質問などの幅広い主題へと連携される。

   主人公の回想のなかで1994年の爆炎を思い出させるある蒸し暑い夏の看病記は、膽道癌患者の舅の入院と看護を切っ掛けにして家父長的家族構造の実態を発見していく過程でもある。[14.ここで主人公の内的回想に働く「1994年」と現在の連結が「脱冷戦に始まった「自由化」、「民主化」との新たな結合を通じて自らを「ヴァージョンアップ」することで恒常性を維持しようとする」家父長制の時代性を示すという解釈が有用に参考できる。姜敬錫、『スモモ』解説、142頁参照。] 女性話者がそこまでは感知できなかった家父長的制度の固い習俗が暴露される叙事方式は、この小説だけでなく姜禾吉(カン・ファギル)を始め最近の女性作家たちの作品でよく取り上げられている。遡っていけば、痴呆看病問題を通じて家族間の世話労働の至難な過程と感情的苦痛を取り上げた作品として、朴婉緒(バク・ワンソ)の「出産愚痴」(1985)を思い浮かべることもできる。これに李柱恵の『スモモ』は核家族時代における家族世話と医療現実という時代性を付け加えながら、職業の世界として分類された世話労働の現住所についても細かい描写を書き留めている。

   小説はフリーランサー翻訳家の賃金では支払い難い「日当8万ウォン」が、介護ヘルパーの立場では最低時給にも及ばないという事実と、同じ介護ヘルパーなのに男性と女性が差別される現実を生々しく伝える。医療環境が変わったが、家族でない「介護」ヘルパーの労働にも暗々裏に感情的献身と世話が絶え間なく要求され、日常生活を共にする家族にはさらに当然な義務のように世話労働が置かれる状況が鋭く提起される。「何が強制で何が自発なのか曖昧にする関係的労働としての世話労働」[15.キム・ヒョンミ、前掲論文、59頁。] が惹き起こす苦境は、舅と嫁である話者の関係において際立って体感される。

   比較的自由で平等に結婚生活を維持してきたと信じる「私」は、舅への看病過程で自分がそこまでは気付かなかった家父長的家族制度の旧習と欺瞞的言辞を自覚することになる。普段「これから君を嫁じゃなくて娘として見なそう」(27頁)と言いながら、「ロマンスグレーの現身」(28頁)でもあるように多情な態度を示した舅は、病が進みながら意識が混迷となるなかで普段抱いていた本音を表す。「あの子が家に嫁入りしてこれまで何一つやったことがあるか。博士様と結婚するのにキー三つを持ってきたか。息子を産んだのか。あの子のせいで家の尊い孫が絶たれた。」(100頁) これまで子供を産む問題、舅と姑を世話する問題から比較的自由であったと考えた「私」は、それがすべて決定的切っ掛けを留保しておいて遅延されてきたことであるのを確認する。物語が進行しながら家父長制慣習の欺瞞に対する暴露は、人間の尊厳たる死に対する苦悶に深く割り込むことへと続く。

   そのような点で物語の劇的流れを成す舅の一時的な「譫妄」症状は、脆弱な生命存在としての人間なら誰もが自由でない死に対する恐怖と不安を喚起する象徴的事件である。不眠、脳機能障害、注意力低下、幻視、幻聴として圧縮される譫妄は、医学的症状を越えてこれからこそ生と死を分ける本格的な看病の時間が始まったことを知らせる。医者よりも早く舅の譫妄症状に気づいた介護ヘルパーのファン・ヨンオクは、この混乱する看病の過程で血縁家族主義から徹底に疎外される主人公との連帯感を形成しながら、彼女の味方になってくれる。譫妄によって若い頃の恋と関わる「スモモ」の記憶と現在が混ぜ合わされる混乱を経験している舅に、ファン・ヨンオクは「死んでよ…死んでよ…」(77頁)という忌まわしい言葉を繰り返して言う。もちろんこのことは後にファン・ヨンオクの独白の形で、子息たちが見守るなかでよい日に穏やかに患者が亡くなることを望む心であることが明かされるが、舅にそれがまともに疎通されるわけがない。「死んで」という言葉はヨンオクの訳を知らない舅や、彼を看護する「私」にとって老いて病み、衰えていく生命に対する侮辱と蔑視に聞こえるだけである。結局、舅はヨンオクの呪文を刻んだかのように、自分の小便を片付ける「私」の前で侮辱と恥を感じながら「死ねよ…死ね…ぱっと…」(113頁)という言葉を言い放つ。この場面は死の恐怖と不安の前で限りなく弱くなった人間の姿を現す「無惨」(113頁)な発言だと言える。「私」の心にもいつの間にか染み入った台詞を、患者の口から聞くことになるそのはっとする瞬間は、事件が過ぎ去った後も「きれいに消すことが不可能なある感情」(115頁)として残ることになる。あらゆる傷と混乱の事件を通過して迎えることとなった舅の死の前で「お父様、さようなら。優しかった記憶だけ残しておきます」(120頁)という話者の哀悼は、実はその自分の心に隠された欺瞞と偽りを凝視した結果としても解釈できる。

   「死の敷居まで近寄った」(114頁)舅を看病した一か月の体験は、「私」をして自分が見逃してきた結婚生活の裏面を見つめるようにした。孝行の義務と罪障意識を慣習的に分け合おうとする夫、葬式場でも家父長的強要を習慣的に繰り返す親戚たちは、哀悼の時間さえも妨げる。一時は夢と欲望を持った青春であり、以後は子息を太陽のように見なして面倒を見ながら、休むことなく生きてきたある軟弱な人間の死に対する哀悼は、結局彼女独りでやり遂げなければならないこととなった。そういう点で主人公が夫と別れてから新しい出発を夢見る叙事の転換は、単なる制度的脱出としてのみには限定できない。

   離婚後、旅立った北海道旅行で「私」は混沌と孤立のまっただ中で自分に紐帯と慰めを与えてくれたヨンオクに見舞いの葉書を送る。「ヨンオクさん、朝うまく起きているんですか」(133頁)という挨拶は、死の過程を巡った人間の惰弱な心と欺瞞的見掛けを覗き込んだ者たちが分かち合える連帯の言葉として読まれる。それは血縁家族主義の暴力を経験した者たちが分かち合った共感でもあるが、患者の保護者と介護ヘルパーであった各自の位置を越えて、病と孤独の前で脆弱さを露わにするしかない軟弱な生命存在としての人間に向き合った過程から得られることになった紐帯でもある。ここで世話の想像力は看病と家族の問題を越えて生と死に対する深い視線へとわれわれを導く。

   「われらが最もよく行うこととは本当にそばにいてあげること、そばを守ること」(32頁)だという小説冒頭の伝言は、一つの存在が異なる存在に頼り、世話する行為が脆弱な個体としての生命存在を謙虚に顧みることだという悟りを経ながら、始めてその厚さを獲得することとなる。いかなる存在であれ生命体として生きていく間、老衰と疾病と孤独を経験せざるを得ない。そのような脈絡で世話の行為はその脆弱を認めるなかで、互いを世話する細かい社会的装置と連結網を必要とする共同の作業でしかないし、このような世話の想像力を通じて生と死の境界に対する新しい質問が導き出せる。そのような点で「私」が模索する新しい出発は、根本的に異なる人生を覗き込ませる転換の始まりだと言える。

 

 

4.「やりたいこと」はいかに可能なのか

 

   『年年世世』と『スモモ』が繰り広げる女性と家族の物語は、パンデミック以後、一層深化したジェンダー不平等の問題を核心にして、今われわれの生が必要とする根本的な転換について考えさせる。そのような点で「世話が中心となる社会とは人間が世界の中で存在し関係を結んで生きていく方式そのものの変化を要求するもの」であり、「この際、変化とは大転換の一部ではなく、それ自体が大転換である」[16.白英瓊、前掲論文、64頁。 ] という伝言が切実にやってくる。社会変化のためには多様な種類の議題がいかに連結されているかを見てみることが優先されるように、文学作品を論じる際もまた、女性と家族の叙事の中に含まれた生命、労働、世話の多様なイシューがどう絡み合っているかを考察する作業が必要である。

   戦争と分断を経験した母親のイ・スンイル世代の人生を見つめる『年年世世』の小説的試みは、キャンドルの時間を媒介にして現在的な観点から近代と女性の関係を顧みさせる。歴史の中の女性の人生で世話と連帯を難しくする不合理な生の条件を、落ち着いて描きつくすこの作品で、市民の想像力と当事者の声は非常に重要な小説的資源であると共に、また異なる次元の課題を解きほぐしていく必要を示す。『スモモ』もまた、変化した家族現実においても相変わらず強固な慣習と差別として残っている家父長習俗の面々を敏感に描きつくす。この作品が開示する世話の社会的視野は病と孤立、老年と死、生命に対する尊重という抜本的次元へとわれわれの思惟を導く。家族から出発するが、家族を超える共同体としての世話に対する想像力を通じて、二つの作品が繰り広げている企ては今われわれの文学が必要とする転換的想像力を見せてくれると言える。

   『年年世世』におけるイ・スンイルとハン・ヨンジン母娘の苦しい一生を重く押しかかっていた「やりたいことを全部やりながら生きることはできない」という言葉は、ハン・セジンにとって「そのことはやりたくない」(「無名」、108頁)という明白な答弁として転換される。だとしたら、もう一歩進んで果たして「やりたいこと」はいかなる方式で可能なのか。最近、青年の現実を取り上げた若い作家たちの作品は、当事者の声を強化した一人称エッセイ的叙述方式を通じて仕事と労働、芸術と労働に対する多様な思惟を展開する。ここには青年たちの生を制約する能力主義談論の不当さ、そして自己成就および啓発の談論で飾られた資本主義体制に対する批判と抵抗が濃く沁みついている。[17.最近、小説に現われた労働の問題設定方式に対する批評的検討としては、次の文章が参考できる。韓永仁、「われらの時代の労働物語」、『創作と批評』2021年春号、キム・ミジョン、「労働—資本のメビウスの輪と2010年代後半の韓国小説における仕事・労働」、『女性文学研究』52、2021.4。] この過程で青年の労働現実を描き出し、これを分析する一部の作品と批評は、われわれみな不幸な労働の苦痛に苛まれているといったふうの曖昧な連帯と慰めでしばしば収斂されたりもする。[18.この部分は一部の青年現実を取り上げた作品と批評に働く慰めと憐憫の叙事が、世話の領域でも「自己世話」の問題としてのみ集中されて、世話論議を消尽させていることを念頭に置いた叙述である。] 「やりたいこと」ができなくする生の不当さを吐露するこのような叙事的発話で決定的に抜けていることは、いかなる類の労働であれ自分が実現するやりがいと成就の欲求が存在しうるし、その欲求の動力が一方では体制の矛盾を批判的に顧みさせる力へとつながる可能性も持つという事実であろう。そういう点で不平等な労働の世界を取り上げる文学的方式でも世話の転換的想像力が新たに介入される余地はないだろうか。自己治癒の叙事が内面的独白に留まらず、社会的次元へと共有できる世話の転換的想像力が必要な時である。

   災難と災害がわが社会の最も脆弱な階層の生に直撃弾となっている現実で、真正な世話の関係を成すということは何を意味するか。資本主義体制で世話の問題は必然的に成長の原理に対する批判的思惟に基づくしかないし、これと関連した論議は持続的な模索と討論の場を必要とする。女性と家族を取り上げる叙事で、世話は母性の分裂的経験を含め女性の本質的価値として規定されたりする関係性と世話、配慮の経験をいかに社会化し、共同的価値へと導き出すかということを絶え間なく苦悶させる。世話労働が理想化、あるいは権力化する問題や、社会的弱者に対する世話で発生する不平等の方式など、いろんな角度の主題もまた、われわれの文学的思惟を刺激することができる。世話と連帯は人々を魅惑する理想主義的な出口ではなく、始まる想像力となるべきであり、完結した正解へ収斂されるわけではない、日々の暮らしのなかで成される動きであるべきだ。異なる生への転換を夢見る革命の炎は、今われわれの生のまっただ中で静かに燃え上がっている。

 

訳:辛承模

 

 

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