[卷頭言] 美辞麗句と冷淡を越えて / 黄静雅
〔1960年〕4・19革命の直後、詩人の金洙映は「いわゆる詩を書いている人々の中にも、今回の4・19や4・26を冷淡に見ている友たちが少なくないのを私は知っているが、(柄にもなく跳ね上がる友を見るのも嫌だが、それ以上に)私はこうした偉人たちを見ると怒りがこみあげて殴り飛ばしたいのを何とか我慢している」と語ったことがある。彼はこの事件の意味を「正確に把握し、洞察できない人は、申し訳ないが、詩人の資格がない」と断言した(「磔刑台に架けた詩」『金洙映全集2:散文』)。この場合、“詩人”とは「詩作品を新聞や雑誌に定期的に発表する人々だけを語っているのではもちろんない」というから、“資格のある詩人”になるのはやはり文人だけの話ではないわけだ。その当時と今との間には多くの違いがあるかもしれないが、実は、当時の金洙映の“憤り”を通じて革命という名の事件後、その事件に値する主体として生きていくことの重要性をあらためて確認させられる。
今日、“資格”をめぐる批判が第一に向けられるのは政府・与党であり、先日の補欠選挙はその批判が特に憤慨という形で表出した結果だった。以前の政権であればどうなっていたか想像するだけでも鳥肌が立つ新型コロナの防疫をはじめ、指標的には良好な経済状況に至るまで、通常の制度圏政治の枠では無視できない成果が得られていたといえよう。それなのに、実際は“ぶん殴られた”と言える補欠選挙の結果を見て分析と嘆きの声が相次いでいる。だが、その大多数がこれは自ら標榜した“キャンドル政権”という資格と関連した問題であることを看過して、「私の気性がとても難しくなっているのは知っているが、あまりにも道理がない」と語った詩人のように、私たちのやりきれなさは深まっているのだ。それで、「キャンドル革命の精神に照らして自らの誤りを評価しようとする態度が発見しがたいという点」(李南周「民主党惨敗、キャンドル精神の放棄から始まった」、チャンビ週刊論評2021年4月21日)こそ、資格の有無を遡って正当化している。
資格のある主体として事件の意味を正しく肝に銘じることは、何よりも意味を刻む事件の存在を忘れないところから出発する。キャンドルの経験を貴重だと大切にしてこそ、その貴重な経験を裏切る行為はもちろん、それが指し示した生の方向に進まないことが耐えがたいと感じられる。コロナ・パンデミックもやはりただ大規模な流行病ではなく、世界の“正常的な”作動方式が本当は巨大な脱線であることを示す証拠という点を記憶すべきであり、文明的な大転換が緊急議題であることが実感できる。この二重的な契機の重さを想起し続けるなら、画期的な発想に知恵を絞っても不十分なこの時に、しみったれた粗末な改革でさえするのかしないのか、ぐずぐずする態度が滅茶苦茶だとわかる。今の私たちには何よりも他の世界へのインスピレーションが必要であり、今すぐには実行可能な形でなくとも、インスピレーションを生の中心に据える瞬間、世界はすでに変わり始めるというのが“事件”の経験が与えた教訓の一部だった。
画期的な発想といったが、もしかしたらそうしたことは見たことも聞いたこともない意外な計画ではなく、世の中はこうあるべきではないかという常識の具現かもしれない。だが、ここでまたため息が漏れる理由は、少なくとも常識を“闡明”にすることなら、この間も出し惜しみはしなかったからだ。キャンドル革命の断固たる継承を語り、何よりも人が第一だといったし、危機を機会にして不平等を減らそうという宣言もあった。一時は胸を打ったこれらの言語は、今や美辞麗句だけを羅列する「美しくも悪い詩」を連想させる。そうした詩が書かれるようになったのが私たち自身の“美しくも悪い”好みと全く無縁ではないという事実は詳細な経緯を追跡せずとも直感的にわかっているので、私たちは気分よくあざ笑うことができない。今の政権をキャンドル政府と呼びうるか否かにかかわらず、そのインスピレーション不足と実力不足は全体として市民的力量をある程度反映したものということで事態の深刻さが十分に実感できる。
ここで、金洙映が論じた資格云々の問題が狙った主な標的が同僚の“詩人”らだった点を振り返ってみる。彼らの態度が“冷淡”だったというのも見逃せない点である。当時と今日の違いといえば、現在の冷淡はそれ自体が革命の名で達成されるという点、言いかえれば、革命的な視線で見ればそもそも革命はなかったと強調する点である。そうして別の世界に向けるインスピレーションの問題は再び見えなくなる。“詩人”の資格は今の政治を批判することで充たされ、その批判が冷淡であればあるほどより“詩人らしく”思われる。だが、当時の金洙映でも世の中がすべて変わったとか、すぐに変わるだろうと考えて“憤り”をぶつけたのではなかった。ただ、“事件”の意味に向けた熾烈な詩的洞察を遂行し続けたという事実こそ、彼を資格ある詩人にしたことを私たちは知っている。
美辞麗句の言語と冷淡の言語は互いに対応する関係にある。美辞麗句は自らを信じない。例えば、人が第一と言いながら、やむを得ず考慮すべき企業の立場があり、経済事情があり、財政の健全性というのがあるという含蓄を行間に植えつける。一方、事態の複雑さも虚偽だし、人が第一と言うのも虚偽なので、ひたすら虚偽を暴露する自らだけが信じられると語るのが冷淡の言語である。人が第一という原則と考慮すべき状況の間から生じる敵対は長い慣行であるだけで、何よりも想像の限界に便乗して持続する慣行だという認識、だからまさにこの限界を突破して原則の実現可能性を立証するという課題は、美辞麗句と冷淡の言語では表現されない。そうみれば“信”こそ、再出発点とすべきであるようだ。このすべての課題に答えがあるという信、答えをつくりだせるという信、そして答えが出せれば人々は必ずわかるという信である。その信の確認のために、キャンドルがあったと語ることすらできる。そうした点で、積弊の清算という過去よりも未来を対象とする一層切実な作業である。未来と思われた主流派の予断を清算すること、そして来はしないだろうと放棄してきたことを可能にする未来を復旧することなのだ。
分裂を引き起こすという理由で改革をためらったり、改革の足を引っ張ったりすることが頻繁に起きる理由も未来の積弊清算が不十分だったことと無関係ではない。振り返れば、最低賃金や不動産政策がそうだったし、検察改革もそうだし、災害防止や差別禁止、損失補償も変わりがなかった。不平等に加えてコロナ・パンデミックまで起こり、極限的な苦痛に苛まれる同僚市民に向けてもっと果敢な措置が取られていないことも同様である。変化の不可避さを留保せずに認め、慣行に対する未練を振り払ってこそ、答えを見いだす道が本格化できる。一年も残っていないが政府は政府なりに、そしてさらに長い時間を確保すべき市民は市民なりに、各自が書いた「美しくも悪い詩」を無責任に投げ捨てる代わりに芸術的に昇華させる方策に心を砕くべき時である。
本号の特集は「災難と孤立を越え、転換の想像へ」というタイトルで、コロナ・パンデミック時代に文学がもつ想像の力量がどこに向かうべきかを探求する。まず白智延は、わが時代の話頭である大転換の要求にケアという“関係的労働”が何よりも重要であるという点を再確認し、この主題を多角的に探究する叙事的レベルで女性と家族の話に注目する。本稿は、黄貞恩の『年々歳々』と李珠恵の『すもも』がとらえるジェンダー的不平等の現実とケアの危機が根本的な生の変化を必然的に要請するという点を詳細に分析し、今日の韓国文学が必要とする転換的な想像力としてケアという主題を探求する。
金兌宣は、共同領域の再構成が何よりも切実なこの頃であるほど“私たち”を切り裂く亀裂を凝視し、苦痛の声に耳を傾けることも重要になる点を強調する。本稿は、ともに聞く過程に集中する詩を細心の注意を払って読みながら、“私”の発話に焦点を置くことが個人への沈潜ではなく外へ進み出る動きでありうるし、そのように痛みを共に「聞き話すこと」としての詩が、共同の場を新たに構築することと接しあっていることを示す。
鄭珠娥の文は、エッセー・ブームがもつ社会文化的な意味を「どう生きるのか」に新たな答を出さねばならない青年世代の苦悩であり対応であると読み、そうした視野の制約を冒してでも“自己中心”を選んだ一人称の物書きの時代が、小説という虚構の様式に提起する新たな挑戦を点検する。この主題は当事者性と「政治的正答」という敏感な問題と繋がっていくが、本稿ではパク・ソルメ、金錦姫、崔恩英の小説を通じて普遍的な客観化と自己信念の二つの世界が小説的な再現に及ぼす“倫理的”影響と関連して興味深く探索される。
対話は、「2022年大統領選挙、大転換の課題」という連続企画の出発点として準備された。この企画は、大転換の時代的要請をある具体的な議題の中で実現すべきか検討しながら、これを2022年大統領選挙の争点として提示しようという趣旨で構想された。第1番目のテーマとして地域格差を選んだのは、この問題が地方“消滅”が挙論されるほど深刻なだけでなく、不平等、成長、環境、エネルギー、人口など国家全体の変貌と価値の再調整に核心的という判断によるものである。李南周の進行で、金裕和、李官厚、鄭埈豪が参加した本号の対話は、地域をめぐるパラダイムまたは認知感受性の次元をはじめ、自己充足的な定住条件、分権と自治力量、超広域圏構想と統合論議、地域中心の南北交流に至るまで主要なイシューを広く考察して均衡発展論を超える新たな解法を論じており、注目に値する討論だと信じる。
論壇では三篇の文章を載せた。田剛秀は、先日の補欠選挙を決定づけた核心イシューに上げられる不動産問題を、その歴史と実像についで解法まで多角的に論議する。資産不平等の最大要因であり、国家の長期的持続性さえ脅かすに至った不動産投機を根絶する根本的な方法は、投機を誘発する不労所得を遮断する装置である。本稿は、租税への抵抗を最小化しながら不労所得を回収する新たな形態の保有税を提案する中で、何よりも政策哲学が重要であると強調し、市場を排除しない土地公概念を確立し、農地改革が実現させた平等地権社会を復元することを要請する。
崔鎔燮は、現在膠着状態に陥った南北経済協力の新たな突破口としてB2B(Business-to-Business)プラットホームを媒介にする経済協力事業を有力な可能性として提示し、情報通信技術を活用したこの事業が市場の長所を活用し、波及効果を極大化することで経済協力を南北双方の成長と有機的に連結できると説明する。南北の産業構造と発展段階の違いをむしろ協力促進の手段に換えるこの斬新な提案は、南北経済協力の活路を模索する人々に緊要な参照事項となるだろう。
ナンシー・フレイザーのインタビューは、「昔のものは死んでいき、新たなものは誕生できない」時代の米国政治を語る。コロナ・パンデミックで悪化したケアの危機が、生態的・人種的危機と同じ根をもっていることを強調するフレイザーは、バイデン政権がサンダースに代表される進歩的大衆主義者と進歩的新自由主義者の連合で構成されたが、大衆の生を実際に改善する政策を打ち出せないなら崩れるはずの不安定な妥協の構図だと指摘する。そうした場合、左派の選択肢は本質的な構造的な変化を図る新たな反資本主義連合であり、これは民主主義的な生態社会主義と類似するだろうという。
現場欄の二編は、国内外で起こったし、また起こっている歴史的事件の厳重な意味を読み解く。許栄善は、73年の歳月の末に4・3特別法の改定案が通過し、受刑した行方不明者に無罪判決が下りたことに際し、済州4・3の現在的な意味を省みる。この間の惨憺たる心情の端々を察して、「何とも言えない空虚な胸」が依然として残る理由を伝える本稿は、4・3に向けた記憶闘争がどのように繋がるべきかを想起させる。張准栄は、民主主義の死闘を展開しているミャンマーを語る。今回のクーデターの背景とともに、この国を典型的な略奪国家であり、閉鎖的な最貧国に墜落させたミャンマー軍部の属性を考察した上で、「国民は発展したが、軍部はそのまま」である状況から始まった今日の闘いが、軍部統治を次世代に継承させないという強力な時代精神に根ざしていると教えてくれる。
本号の創作欄も、思惟と想像を新たに気づかせる作品を収めた。詩の欄は、姜徳煥から陳恩英に至る詩人13人の新作詩篇が各自の世界を感覚的に開いて見せる。第2回を迎えた崔銀美の長編連載を始め、金裕娜、金裕潭、曺甲相、片恵英の短編も今日の生の多様な面を深く探求する。
作家照明では、最近長編『傍にいるということ』を刊行した金重美の作品世界に分け入り、作家が引き受けてきた長い歳月の作業がもつ意味を検討する。“生態系”としての共同体を生きている現在像として細心の注意を払って再現する作家の視線は、それ自体で「傍にいるということ」が何を意味するのか教えてくれるのだが、「小人が打ち上げた小さなボール」との相互テキスト的な関係に注目した文学研究者李貞淑の観点が力になって一層多彩な面貌をあらわす。
文学焦点は、前号に続いて進行を引き受けた詩人の慎哲圭が、小説家の金正雅と評論家の鮮于銀実を招き、この季節に注目すべき六編の新作詩集と小説の関する話を交わす。各自の意見とお互いに対する反応が“自転”と“公転”で編まれ、思慮深く豊かな論議の流れをつくりだす。
散文欄に掲載した文章は、共に時代の伝説として残った故人に向けた哀悼である。廉武雄の文章は、青年の間でも早くから「時代の大人」として知られた蔡鉉國先生を記憶する。チャンビとの格別な縁をはじめ、今では想像しがたいほど自由に社会的境界を越えた先生の足跡それ自体が一つの霊感として残る。また林賑澤は、“炎の闘士・革命家”という修飾語が類なく見あう故白基晥先生の生を振り返る。“腐心の人”として生の路線が決定された幼い頃から、ずば抜けた気迫と洞察により苛酷な時代の制約を飛び越えた彼の生涯と作品、言語を貴重に蘇らす本稿もまた、先生が残した闊達な気運が一杯に満ちている。
この他にもいちいち紹介しがたいが、寸評欄も今注目されてしかるべき多様な内容が簡明かつ細心の注意とともに取り上げられる。厳選された本の有益な道筋を示してくれた評者たちに感謝する。
最後に、科学技術と環境分野の専門家である金湘顯が編集委員に新たに合流したという知らせを伝える。この分野の重要性が特に高まった状況で、今後の活躍に期待する。
5・18民主化運動41周年に当たる今日、それから2016年以後のキャンドルに至る韓国民主主義運動の綿々たる流れを蘇らせる。先日の補欠選挙における与党の惨敗はキャンドルの放棄ではなく、キャンドルの真の気運を蘇らそうとした市民の念願であり、命令である。『創作と批評』は、この念願を大事にして実現することに読者の皆さんとともに積極的に参加することをお約束する。