창작과 비평

[論壇] 永遠の新しい道、東学と開闢 / 鄭址昶

 

創作と批評 194号(2021年 冬)目次

 

論壇

 

永遠の新しい道、東学と開闢

――特別座談「東学の再認識、今日の道を問う」を読んで

 

 

鄭址昶(チョン・ジチャン)

文学評論家、元・嶺南大独文科教授。著書に『叙事劇・マダン劇・民族劇』『ホルヴァートの民衆劇』など、散文集『今日も歩くというが』『文学の慰安』、訳書に『サメが人ならば』など。

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1.私の東学研究

 

私が生まれたのは、忠清北道報恩郡懐南面漁夫洞、報恩よりは大田の方が近い、錦江の上流の報青川が流れる山あいの村である。最近は大田まで4里の道だが、私が幼い時は車の便がなく、父は山道を歩いて大田に行った。たまに獣を追っていると、近所の人々は鉦や銅鑼を打ちながら村の周りを回った。子供たちは川の渡船場に米軍が捨てて行った弾薬を見つけて、それをおもちゃのように遊び、無謀な青年たちは肝試しをするといって、雷管に火をつけて、誰が最後まで我慢して投げるか賭けをして、手首が飛んだりもした。

小学校は川を渡って1里の道だから、潮が引いて船が出なければ、通うこともできなかった。幸いなことに私が入学するときは、峠を越えたところに分校ができ、3年生まで通っていたが、父が大きな手術を受けて農業ができなくなり、長兄と親戚の住む大田に引っ越してきた。私たちの先祖が、なぜ四方が山に囲まれ、農業をする田畑も足りず、交通も不便なこのような奥地に入って暮らすことになったのか、いつも気になっていたが、家の大人たちは誰もその理由を教えてくれなかった。少し前に長兄を通じて、忠清北道の鎮川に住んでいた5代祖の祖父が東学の徒になり、家をつぶすという理由で追い出され、妻方の家のある文義(現在の青南台のあたり)に移住したが、そこでも安心できなかったのか、川を渡ってより深い山あいの村に隠居したという事実を知った。東学は100年過ぎても家の大人たちが口をつぐむほどタブーの領域だった。

1980年12月に文義と新唐津をつなぐ大清ダムができて、「車嶺山脈、絹のとばりを、囲むところに」という、小学校の校歌でも美しいと言われた故郷の村は湖底に沈み、幼い頃に友だちと魚を捕ったきれない川は、緑に覆われた湖に変わった。それとともに川辺からかなり入った、ひっそりした山あいの村・漁夫洞が、ようやくその名にふさわしい湖畔の村となった。村人たちはばらばらになって街に去り、隣家に住んでいた親戚は、遠く南米のアルゼンチンに移民を行ってしまった。私はすでにその前に故郷を離れて流浪の生活をしながら、生涯、西洋の学問で飯を食い、定年で退職して初めて、遅まきながら東学に関心を持って勉強を始めることになった。なぜ自分の祖父が東学に出入りするようになって家を追い出されたのか、そのことがずっと気になっていたからである。

最初は本を通じて一人で勉強して、浦項のキム・ヒョンシク先生に会ってずいぶん助けてもらった。全教組の教師であるキム・ヒョンシク先生は東学に関心が高く、東学の第2代教主である海月・崔時亨先生が火田民生活をしていた興海のコムドゥンコル村を案内してくれて、報恩聚会の再現行事にも私を連れて行ってくれた。恥ずかしいことに、私は紛れもない報恩出身でありながら、報恩邑内の東学の遺跡をそのとき初めて訪れた。このチャンネ里は、1893年に2~3万人の東学人が集まり、輔国安民の政治スローガンを掲げて平和的な集会を開いたところで、プクシル村は1894年12月、東学農民軍2600人余りが日本軍や官軍、民堡軍によって虐殺された血の歴史の現場である。故郷や先祖に対する罪を少しでも和らげようと、私は長年の友人チェ・ヒワン教授の誘いで、2014年6月に開かれた東学農民革命120周年および報恩聚会121周年を迎え、「報恩生命平和大会」の常任推進委員長を務めることになった。このときチェ・ヒョングク先生の推薦で白楽晴先生に共同大会長をお願いし、東学研究者である朴孟洙先生は共同推進委員長として行事をともに行った。東学革命100周年記念で公演したマダン劇「剣の歌、剣の舞」(チェ・ヒワン演出)を20年ぶりに再公演したが、男性群舞の壮快な剣舞が圧巻だった。共同大会長の1人であるイ・イファ先生が、夜遅くまで酒杯を傾けて熱弁をふるった姿も目に浮かぶ。

このころから大邱の東学研究会の会員たちとともに、月に1回度ずつ東学紀行をして見聞を広げた。ここで出会った金泉のブドウ園主キム・ソンスン先生は、キリスト教の長老だったが、遅まきながら東学に入門し、東学徒人の生を生きている方である。先生は90歳近い高齢にもかかわらず、いつも電車に乗って来て勉強会にも出席し、紀行にも同行された。私は先生を通じて、彼の同い年の友人である中塚明先生が率いる日本の東学紀行団とも会い、『1894年、景福宮を占領せよ!』(青い歴史、2002)や『現代日本の歴史認識』 (モシヌンサラムドゥル、2014)など中塚先生の著書を読み、日本の緻密な韓国侵略の過程を知ることになった。

また、これらの本を翻訳した朴孟洙先生に数々の席で会って日本側の資料を見て、東学研究に没頭する彼の情熱に感服した。特に彼が高殷光順氏をはじめとする「東学姉妹」に資料を提供し、3年間の準備過程を経て2015年に刊行した『女性東学ドキュメンタリー小説』(モシヌンサラムドゥル)13巻の後援者として参加したのは、私にとっても光栄なことだった。これをきっかけに私は、このころに出た東学小説に関する書評を、大邱の文学季刊誌『人の文学』に寄稿し、1920年代に月刊誌『開闢』を中心に展開された「開闢文化運動」に関するいくつかの論文も発表した。ここで扱った人物たちは、方定煥、金起田、車相瓚、李敦化などである。

2015年から2016年まで「慶北・大邱東学房」の名で月1回ずつ開かれた市民講座は、東学をテーマに、キム・ヨンフィ、チュ・ヨソプ、高殷光順、キム・キョンジェ、イ・イファ、ユン・ソクサン、チョン・テグォン、オ・カンナムなど錚々たる講師たちを迎えて進められた。私は勉強が足りないため、水雲・崔濟愚と海月・崔時亨の思想については言及もできず、「東学の芸術的形象化」というタイトルで、東学に関する詩や小説、演劇、映画などを紹介した。

2018年には大邱緑の党ソン・サンヒ弁護士の誘いで、「生命平和アジア」という一種の公益団体兼研究所の理事長を務め、韓国の生命平和思想を知るための勉強会を作り、提案者として東学に関する発題をやることになった。こうして「東学と開闢運動」「水雲・崔済愚の東学思想」「海月・崔時亨の生命思想」「東学から天道教に――孫秉熙の三戦論と李敦化の開闢文化運動」など4つの発題をしたが、その内容はこれまで読んだ本の要旨を整理したもので、大学生のレポートに近い水準だった。金泉のキム・ソンスン先生に勉強会の資料を送ったら、資料集として編集して出そうとおっしゃって、高校生でも理解できるように簡単に書いてくれと注文してきた。私は先生の言うように発題文を書き直す過程で、金容沃の『東経大全』(全2巻、トンナム、2021)を通じて多くの教えを受けた。彼の文は容易ながらも深みがあり、率直で淡白な情熱と覇気があふれる。この本を読んだ後、私はこれまでの東学研究が皮相的なものに過ぎなかったことに気付いた。新たに勉強する覚悟をして準備しているときに、まさに『創作と批評』2021年秋号に掲載された白楽晴・金容沃・朴孟洙の諸氏の座談に触れることになった。

 

2.開闢派3人の出会いと「対話」

 

私は大学に入った後、最初の数年間はいろいろな学術行事に出席したが、大部分が退屈でもどかしく、その後はほとんど無視するようになった。時間に追われて簡単な発題や討論を続けるやり方では、生産的な議論が源泉的に不可能だと思われたからである。また、発言者や討論者が自分の知識を誇示したり、相手を攻撃して窮地に追い込んだりするところに、やりがいを見つけようとする場面も何度も目撃した。自分が勉強した内容や考えを虚心坦懐に明らかにして助言を求める人に、私はほとんど出会えなかった。先に長々と私の恥ずかしい東学学習の来歴を明らかにしたのは、東学に関心はあるが、当の東学思想についてはよくわからない、晩学の徒として気になる点を聞いて学ぶためである。

白楽晴・金容沃・朴孟洙の諸氏は、私がいつも尊敬する学者たちである。私は大学時代から『創作と批評』の愛読者として、白先生の論文を読み、多くのことを学んできた。金容沃先生とは個人的な交流はないが、彼の著作と講演はいつも私に新鮮な衝撃を与えた。私は特に『読気学説』(トンナム、2004)や『老子が正しい』(トンナム、2020)、『東経大全』1・2巻を読んで感銘を受けた。私が彼のファンになったのは、実学の虚構性を論破した力作『読気学説』を、既存の学界の反発で学術誌に発表できず、単行本で出版せざるを得なかった事情を知ってからであった。満洲の独立軍の遺跡を踏査しながら、左翼側の独立運動を認めたことや、講演で李承晩の罪状を暴露したことが問題となり、公の電波の放送で見られなくなった金容沃先生を、白楽晴先生が座談会に招待し、対等に討論を行ったこと自体が、破格的で新鮮な企画だった。

3人は、それぞれ出発点は異なるが、私たちの時代的な課題を「開化」ではなく「開闢」と見ているという点で、「開闢派」と呼ぶことができるだろう。昔から東学と開闢を話題にして研究と著述を行ってきた朴孟洙先生は、「開闢大学」を標榜する円光大の総長として、毎年、開闢思想の言説を繰り広げる学術行事を主管する、開闢派の先鋒である。東洋古典の研究者として広く知られる金容沃先生は『檮杌心得東経大全1』(トンナム、2004)で、東学思想の核心を「プレタルキア」(民本性/民主主義)と規定し、最近は『東経大全』1・2巻で東学研究の新たな地平を開いた。これまで西学の背中だけを追いかけていた私たちの視点を矯正し、主体的な韓国思想に目覚めた開闢派のコペルニクスと言えよう。白先生は周知のように、英文学者と文学評論家の境界を越えて、学行一致を実践する私たちの時代の士(ソンビ)である。20世紀後半から『創作と批評』誌を中心に創批の出版文化運動を導き、分断体制論をはじめとする統一言説を打ち出して統一運動も先導した。最近は『文明の大転換と後天開闢』(モシヌンサラムドゥル、2016)や『西洋の開闢思想家D・H・ローレンス』(創批、2020)を通じて、新しい変革と転換の話題として「開闢」を提示し注目を集めた。年齢を忘れた篤学と刷新の情熱は、後学の尊敬と感嘆を集める。いまや彼には、晴れた日に蓑をかぶる時代の異端児を意味する「青蓑」(チョンサ)という号とともに、「開闢派」という別名がもう一つ追加された。

3人の座談はまさに興味深い言説の饗宴だった。生涯、文・史・哲の領域で研鑽を積んできた知識人らしく、互いを尊重しながらも、核心的な争点では所信を曲げない熾烈な討論の熱気に満ちた学術行事や座談では、なかなか経験困難な楽しさがあった。私は彼らの議論の活気や熱気が、まさに彼らが「開闢派」であるという事実に由来するものだと思う。3人とも自分の領域では一家をなした元老だが、「開化派」が絶対多数である韓国社会と学界全体の構図から見れば、「開闢派」はいまだ非主流の少数派という位置に甘んじているのが厳しい現実である。だが、久しぶりに言葉の通じる異端の徒が出会ったのだから、これほど楽しく愉快なことがあろうか。和気あいあいとした雰囲気の中で、火花散る論争を見る楽しみは、読者の私にもそのまま伝わった。今回の座談をきっかけに、『創作と批評』秋号の初版が売り切れ、定期購読の申込みが急増したというのは嬉しいニュースである。これはある雑誌の「企画の勝利」であるのみならず、出口の見えない私たちの時代のトンネルの中で、新たな天、新たな地を探そうとする多くの人々の渇望を、今回の座談が多少なりとも解放してくれたと私は受けとめている。

 

3.近代と近代性

 

今回の座談で最も熱い争点となったのは、西洋の近代と近代性(モダニティ)の概念を韓国の歴史と現実に適用する問題だった。金容沃は西洋人の近代という概念をまったく無視して、開闢と「フレタルキア」の枠組みで歴史を見ようと主張する。そうしてこそ、西洋に対する劣等感を克服するために、実学という虚構的な概念を作り、私たちにも自生的な近代の萌芽があったというような、虚しい主張を繰り広げることなく、王政と民本制という大きな枠で歴史を見ることができるというのである。

これに対して白楽晴は、東学農民革命の失敗で西洋の近代とは異なる道を追求していた開闢派は消え、開化派と斥邪派だけが残ったが、国が滅びると斥邪派は根拠を失い、開化派の世界になったが、「近代」という概念は必要ないという金容沃の主張は過度なものと指摘する。西洋の資本主義が全世界を支配している現実において、私たちが生きる近代の存在を認め、それにどう対応して克服すべきかに焦点を当てるべきというのが反論の要旨である。

金容沃は、「前近代」という概念自体が、西洋式の近代を前提にしてできた自己卑下的な概念であり、「憎き近代というものを爆破させてしまわぬ限り、私たち朝鮮大陸の古朝鮮以来つづく、私たち固有の思惟が生き残れない」としながら、「いったん西洋の近代を方便として認め、それを乗り越える道を模索しよう」という提案は、断固として拒否するとして意思を曲げない(「特別座談」『創作と批評』2021年秋号、108頁、以下、この座談からの引用はページ数のみ)。それとともに、自分は思想家なので「主題を少しラジカルに設定」(131頁)すると言う。2人とも、近代と、近代を支配する資本主義の病弊は認めるものの、金容沃は最初から近代という概念自体の価値論的な強圧性と暴力性を打破すべきといい、白楽晴は、近代適応と近代克服の二重課題を解決するための案を、老子や崔済愚、円仏教の開闢思想に見出そうというのである。

ここで私は、東学の第3代教主であり、天道教の創始者である、義菴・孫秉熙先生のことを思い出した。崔済愚は東学という革命的民本思想を宣布し布徳した異端の思想家として殉教の道を選んだが、孫秉熙はカトリック教の布教が許された後も、依然として禁忌の鎖が解かれていない東学が公認され、開闢世界を開かれるべきという現実的な課題を引き受けた。東学農民軍の北方総司令官として牛禁峙での痛恨の敗北を通じて、日本の強大な軍事力を経験した孫秉熙は、日本に留学して西欧的な科学技術文明に接した後、「道戦」「財戦」「言戦」の3つの戦いを「再開闢」のための戦略として提示した。そして、このような「三戦論」を現実的な運動として組織し、民族自主と独立を争取しようとした実践が、1919年の三・一万歳運動だった。崔済愚が開闢を夢見た革命思想家だとすれば、孫秉熙は自主独立と近代化を同時に追求した経世家といえる。私は、金容沃が崔済愚の後を継いだ理想主義的な開闢思想家であり、白楽晴は孫秉熙のように、近代適応と近代克服の二重課題を抱えて取り組んだ現実主義的な経世家ではないかという気がした。

孫秉熙はある点では、崔済愚や崔時亨よりはるかに難しい課題を受け入れて取り組んだのかもしれない。彼は日帝の植民支配を脱し、自主独立国家を建設するとともに、西欧の文物を受け入れ、近代的な開闢世界を開くという、二重、三重の課題を抱えて、渾身の力を尽くして奮闘した。彼の目標は、宗教的には開闢であり、現実的には開化であり、政治的には自主独立国家の建設であった。西欧文明を主体的に受け入れるものの、最終的には西欧文明を越える、新たな「人乃天」の開闢世界を開こういう彼の遠大な構想と抱負は、三・一運動や臨時政府の樹立、また1920年代の開闢文化運動として具体化された。崔済愚や崔時亨に比べて思想的な急進性や殉教者的オーラは弱いが、孫秉熙の経世家としての問題意識や経綸、実践性は高く評価すべきと私はつねに考えてきた。

残念なのは、彼の後継者である崔麟や李敦化など天道教人が、後に日本の懐柔によって積極的な親日の道に進んだという事実である。天道教の理論家であり、1920年代の開闢文化運動の主役である李敦化は、民族解放や階級解放よりも人間解放を最優先の課題とした。日本の過酷な植民地統治下で、真の人間解放は現実的な制約のために実現できない夢だったが、彼は西欧や日本の哲学思想を「東学」という溶鉱炉の中に入れ、西欧風の天道教の教理を作り上げた。それとともに崔済愚が言った「天主」、すなわちハヌルニム(ハヌニム=神)を「ハンウルリム」と表記した。これをめぐって金容沃は、キリスト教の神と差別するためとよく言われるが、私たち固有の神をキリスト教の神に譲歩した痛恨の失策であり、崔済愚の東学思想の深刻な歪曲であると鋭く批判する。これに対して天道教側が、護教的な次元で反発するのは当然のことだが、私は、金容沃のような批判が天道教の再生のための苦言であり、格別の愛情の表現であると考える。また、金容沃が、西欧的近代という概念自体を拒否するのも、このような歴史的経験から出た主体意識の発露であると私は理解している。

金容沃が今年発表した「東学宣言文」(YouTube檮杌TV、2021.5.7.)で、東学は、超越的絶対者である神(ゼウス)が人間の上に君臨する西学(キリスト教)の垂直的位階構造を打破し、神と人間を対等な存在と認めたという点を強調したのも、このような文脈で注目に値する。「謙遜であるべき主体は、私たち人ではなく神です。神は人の前で謙遜であるべき」という宣言は、挑発的でありながらも、東学思想の核心を抽出したキーワードである。

今回の座談で開闢と直面し、近代や近代性に関する本格的な論争の糸口が見えたのは無条件に歓迎すべきことだえる。今後、イ・レギョン、チョ・ソンファン、パク・ギルス、高殷光順、キム・ヨンフィ、イ・ビョンファンなど、若い開闢派たちも参加するような、公論の場が準備されることを期待する。だが、このことが、朝鮮朝時代の「理発気発論」や「太極/無極論争」のように、抽象的な観念論争に陥ってはならないだろう。当時の士大夫たちは、現実の改革は無視し、性理学の理論論争だけに没頭したあまり、「無極太極が人をダメにし、理発気発が家をつぶす」という言葉まで出たという。近い例としては、1980年代に知識人たちや運動圏の内部で繰り広げられた、いわゆる「社会構成体論争」も、今から見ると消耗的な公論に過ぎなかった。幸いにも今回の座談では、近代と近代性論争が、南北統一やろうそく革命の完成という現実的な問題に収斂し、生産的な議論に発展した。これは、3人がともに現実に足をつけ、開闢の理想を追求する「大地の知識人」だからである。

 

4.開闢と統一、前人未到の新しい古の道

 

東学の開闢運動が、農民革命や三・一運動、ろうそく革命と、その脈が続いているという点に3人が合意したのは、当然かつ常識的な判断である。白楽晴はこれを前提に、東学と円仏教に、男女平等思想や生態理論・生態主義の解法を見出すべきとしながら、膠着状態に陥った南北関係の突破口も、ろうそく革命に見出せるだろうという希望を披歴する。金容沃は、南北問題の進展のためには、対米関係の卑屈な姿勢を変えて「アメリカを後押ししながら説得できる方法」(130頁)を探るべきだと主張する。また、東学の開闢が、檀君以来、旧韓末までの王政を民主体制に転換することを意味するとして、「今、私たちが民主を語っても、それは50年くらいの体験をもとにしたものであり、保守勢力たちは5万年の慣性を背負ってはびこる」(131頁)のだと喝破する。私はこの部分で、ろうそく抗争で朴槿恵政権が退陣後に起きた、保守既得権勢力の頑強な抵抗が、歴史的にどのような意味を持つのか、確実に理解した。1960年の4・19学生革命や1980年の光州民衆抗争、1987年の六月抗争、ろうそく革命を経て、表面的には民主化が大きく進展したようだが、分断や冷戦体制を利用して、さまざまな特権や不労所得を独占してきた勢力が、依然として韓国社会の既得権を掌握しており、彼らの意識がいまだ王政時代に根を下ろしているという事実を、金容沃は「5万年の慣性」という一言で整理する。龍泉剣の刀剣で積年の弊害を切りつける、浩然の気あふれる表現である。

5万年の慣性! 天地開闢後、5万年に至り、再び開闢が行われるという崔済愚の言葉をこう解釈するのだから、開闢に対する懐疑や早急な期待が、むしろゆったりとした信仰や希望に転換されることを感じる。東学や天道教、甑山教、円仏教などで語られる開闢は、5万年の慣性を覆し、人と神が対等な真の民主主義(資本主義と内縁関係にあるアメリカ式の民主主義ではない!)と、南北統一の古く新しい道を再び開く、文明の大転換ではないか。心を磨いて気をささげる「修心正気」が、単なる個人的な修養運動ではなく、開闢の夢に向けた心の革命的変化、すなわち人と世の万物に対する、憎しみや嫌悪や差別を、愛と包容と慕心の心に変える、改心の学びであるという具体的な意味として迫ってくる。崔時亨の人心開闢と円仏教の開教標語である精神開闢が、ともに、このような心の革命的変化を意味するという白楽晴の意見に、私は完全に共感する。

崔時亨先生は、東学の道が広がる「顕道」がいつ行われるのかと尋ねる弟子に、「すべての山が黒くなり、すべての道に絹が敷かれ、万国とともに通じる時」と答えながら、「時には時宜があるから焦ってはならない。待つことをせずとも自然にやって来る、万国の兵馬がわが国の地に来て後退するだろう」と付け加えた。また、円仏教の第2代宗法師である鼎山宗師は、「いつ南北が統一されるのでしょうか?」という弟子の問いに、「南北分断は朝鮮朝の500年にわたって起こった業縁によるものだから、その業が消えて、みなの心に憎む人が消えねばならず、心に怨恨が満ちてはならない」と答えた。2人の言葉を自分なりに解釈するならば、すべての外国の軍隊が、私たちの地から撤退し、南北と東西の間に憎む心がなくなってこそ統一が成就するという意味として聞こえる。このような開闢は、長く待てば自然に来るのではなく、多くの人が切実な気持ちを集めて、絶えず努力して試みて初めて成就するいうのが、崔時亨や鼎山が語る「顕道」と統一の真の意味ではないだろうか。今回の座談の結論も、このこととそう変わらないと考える。

 

座談の内容をゆっくり斟酌して思い浮んだ最初の考えは、人文学を学ぶためには漢文の勉強をもっと一生懸命すべきということである。私は幼い頃、祖父から千字文を学んだが、その後きちんと漢文教育を受けられず、東洋の古典を原文で読むことができず、私たちの先祖が残した貴重な知的遺産も、深く理解できないありさまである。西洋の場合、人文系高校でラテン語を必須で教え、大概の知識人はラテン語の読み書きに困難がない。私はハングル専用論者だが、少なくとも人文系高校では必ず漢文を教えるべきだと思う。金容沃の開闢的な眼目も、漢文の実力をもとにした東洋古典の深層的な理解があったからこそ可能だっただろう。

国語と文章の独立がなければ、国民と文化の独立はないと強調した凡父・金鼎卨先生は、1962年に「陰陽論」の講義を始めながらハングルを使うが、漢字を知ってこそ国語や国学の研究が可能だと言ったことがある。私が見るところ、「陰陽論」こそは韓国思想、金鼎卨の用語で「東方思想」の核心的な内容を含んでいる。しかし、漢文の読解力が足りず、東洋の古典にする基礎対知識がない私としては、講義内容の半分ほども正しく理解していない。金鼎卨凡父が1960年に発表した「崔済愚論」の歴史的意味については、朴孟洙先生も「凡父・金鼎卨の東学理解」(『生命の目で見る東学』モシヌンサラムドゥル、2014)で言及したことがある。だが「崔済愚論」は「陰陽論」と同様に、厳格な漢文調の文章と、周易をはじめとする難解な東洋の古典の引用で、依然として私のような読者の接近を妨げている。金容沃先生にお願いしたいのだが、今回「東経大全」の註解を終えられたのだから、ついでに金鼎卨の著作に関する研究や註解にも着手して、東学研究者たちを助けてほしい。金鼎卨が国風や花郎道のような風流精神の復活を強調し、国民倫理を国策科目とすることに一助したという批判もあるが、「陰陽論」と「崔済愚論」(『風流精神』嶺南大出版部、2009)は東学思想の理解に必読の入門書であると考える。

金鼎卨は漢文の大家として東洋や西洋の古典を読破し、自由自在に漢詩を作って詠唱しながら、長篇小説『贅世翁・金時習』(1957年『京郷新聞』連載)や伝奇小説『花郎外史』(1954)の作家として、韓国語の発掘と駆使に優れた技量を発揮した。私は『花郎外史』に出てくる百結先生の曲(シナウィ)が好きである。百結先生は当時流行していた唐の歌ではなく、自らの色、自らの曲の自分たちの歌、つまり、次のような曲を好んで歌ったという。

 

山よ、青い山が、きちんと青い山が

雲よ、白い雲が、きちんと白い雲を

いつも山が、その山の雲にあたり、青い山が

いつもその雲が、山にあたり、白い雲を

山よ、雲よ、白く、青く

よどみなき粋の中に、限りなき一曲を

 

東学と統一に関連した文学作品に関する、私の素朴な読後感を読者たちと分かち合いながら、助言をお聞きしたい。私は李敦化の小説『東学党』(1935)と曺雲の時調「古阜・斗升山」(1947)をはじめ、東学農民革命(戦争)を扱った作品を読んでみた。朴泰遠の『甲午農民戦争』(1965~88)、文淳太の『燃える川』(1975~2012)、宋基淑の『緑頭将軍』(1981~94)などの大河小説や、詩選集『黄土峴に寄せる歌』(東学農民革命百周年記念事業会編、1993)などが印象的だったが、ほとんどの作品が湖南(全羅道)地域の東学農民革命を扱ったものだった。私としては申東曄の長詩『金剛』(1967)、金芝河の譚詩『この日照りの日に雨雲』(1988)、白無産の長詩「崔済宣」(1996)、黄晳暎の長篇小説『せせらぎの音』(2012)など、湖南(全羅道)以外の地域で起きた農民革命をテーマにした作品や、東学の創道と布教過程を扱った作品に関心が集まる。チェ・ギルスンの長編『給仕(ウッパンテギ)』(2014)は、主に忠清北道・永同の白華山の山麓や忠清道地域を舞台に、東学指導者でなく最下層の民衆の視線で、東学農民革命の展開過程を照明した異色の作品である。東学の夢が民草の具体的な生の中でどのように広がりうごめいたのか、そしてどう失敗して挫折したのかを鮮明に示すという点で、この小説は「民衆の東学史」と呼ぶことができるだろう。チェ・ギルスンは『闇の歳月』(1993)『白衣物語』(1997)、大河小説『夜明けの山脈』(2001)『趙キャプテン正伝』(2011)など、東学に関する小説だけを書いてきた珍しい作家である。

先ほど少し言及したが、専門的な作家でない女性たちが、朴孟洙先生の助けを借りて「東学姉妹」という結社体を作った「女性東学ドキュメンタリー小説」13巻も、東学農民革命と東学思想を女性の視点で形象化したという点で注目に値する。これらの小説は、1970年代に民衆文化運動の一環として展開された労働者たちの手記や、2000年代の民衆の口述自叙伝からさらに一歩進み、歴史的事実に基づいて、女性の視点と想像力で小説として創作した、女性文芸運動の結実である。たとえば、青山編には、崔時亨の娘・崔潤(龍潭ハルメ)と、その息子である音楽家・鄭淳哲へとつながる母系中心の東学史が展開し、江原道編では、崔時亨の生命思想が、无爲堂・張壱淳先生のハンサルリム運動へとつながる東学思想の流れを描く。

東学や開闢を追った作家ではないが、キリスト教の暴力的な神と激しく対決し、分断体制の矛盾と、統一の夢を形象化するために苦闘した「内的亡命」作家・崔仁勲(1934~2018)に私は注目する(拙稿「崔仁勲に関する9つのメモ」『文学の慰安』ハンティジェ、2020参照)。彼は長篇『広場』(1960)の作家として広く知られるが、他の様々な作品から「神」という輸入された神について、文化的な主体意識を持って絶えず疑問を提起してきた。たとえば連作小説『小説家丘甫氏の一日』(1969~72)で、丘甫は世事が私たちの常識とは反対に進むたびに、習慣的に「えいっ、神の奴め!」と罵声を浴びせる。調和と公平の原則で世を治める神がいるならば、世がこのように逆戻りなどしないのだから、意地悪して善い者には罰を与え、邪悪な者には賞を与える神など信じられないという心情から、そのように無作法な雑言が飛び出すのである。見てみると「えいっ、神の奴め!」という言葉は、西洋の人々と最近の韓国の若者たちが、なにかというとつぶやく「Oh, my God!」にあたる感嘆詞である。韓国にも世の中を摂理し治める「天」や「神」はあったが、最近の韓国のキリスト教会で受け入れられる神のように、独善的で排他的ではなかった。

長篇『灰色人』(1963~64)の主人公・獨孤俊は北朝鮮から逃れてきた避難民である。北朝鮮でも体制に適応できない精神的亡命者だった獨孤俊は、南に来てからも依然として亡命者の立場から自由になれない。あれほど憧れた自由と民主の国は、独裁と検閲が日常化され、野党国会議員・曺奉岩が平和統一を主張すると、スパイであるとして死刑にしてしまうような国だったからである。獨孤俊の友人キム・ハクが訪れた慶州の賢者・黄先生は、朝鮮の歴史を西洋の歴史と比較して、あまり自虐的に見てはいけないと、東学革命を例に挙げる。彼によると、東学革命はフランス革命にも比肩するもので、人がすなわち天(人乃天)あることを宣言し、除暴救民の旗を掲げた農民軍が勝利したならば、東洋式ユートピアの王道楽土の夢が実現したかもしれないが、東学党を王党派と日本軍が圧殺したのは、救世主を外国の総督と結託して捕らえて殺したユダヤ人たちの場合と似ており、私たちの説話で、民を救い天の道を開こうとした「赤子将帥(アギチャンス)」を外国軍隊と結託して捕まえて殺したようなものだというのである。赤子将帥説話のモチーフは、後日「昔々、ホーイホイ」(1976)という詩劇として形象化される。

維新時代に書いたユートピア小説『台風』(1973)で、作家は南北分断と反共の視角から抜け出し、仮想の時空間ではあるが、自由な政治的想像力と統一の理想を存分に繰り広げる。『広場』の李明俊は、南や北ではなく第三国インドに向かう船上から海に飛び込んで自殺するが、『台風』のオトメナク(朝鮮人学徒兵カネモト)は、第三国であるアイセノディン(インドネシア)の独立運動家カルノス(スカルノ)を助け自主独立を成就する。そして30年後、彼の祖国であるアロック(コリア)が分断を克服し、統一された自主独立国になるが、カルノス(スカルノ)大統領の国際政治的な影響力を利用して大きな支援を与える。崔仁勲が夢見た第3の道は、カルノス(スカルノ)が追求した中立的な第三世界路線、すなわちアメリカとソ連のどの陣営にも加担しない非同盟・民族主義路線ではなかっただろうか。

「南北朝時代」(『小説家丘浦氏の一日』)に発展途上国でない「統一途上国」(譚詩「虎叱」)を念願した「内的亡命」の作家・崔仁勲については、より緻密で深い議論と評価が行われることを期待する。

 

 

訳:渡辺直紀

 

 

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