창작과 비평

[寸評] 崔元植の『記憶の錬金術』 / 洪基敦

 

創作と批評 195号(2022年 春)目次

 

寸評

 

崔元植(チェ・ウォンシク)、『記憶の錬金術』、創批、2021

制度としての韓国近代文学を転覆する主体としての韓国近代文学の企画

 

 

洪基敦(ホン・ギドン):
文学評論家、カトリック大学校教授。
gdhong@chol.com

 

 

 韓国近代文学の確立経路は二つの軸で捉えられる。一つの軸が海を越えて日本から流入された経路ならば、もう一つの軸は大陸の中国と関連を結んだ経路である。海を越えての影響力なら、近代文学制度の創出と連なっている。例えば、1906年に発表された李人稙(イ・インジク)の新小説『血の涙』における表記を見てみよう。単行本の出版の際は完全な国文体(ハングル)で書かれたが、『萬歲報』に連載された当時は、漢字の上にハングル発音のルビを振っており、国漢文混用をとった上で、分かち書きはコンマとして表記している。日本語表記の移植であるわけだ。日本留学生の李光洙(イ・グァンス)は「文学の価値」(1910)、「文学とは何や」(1916)などの文章を通じて、「文学」の概念を新たに規定しながら、西洋の「literature」の翻訳語として確立したところ、それ以後文学という用語はこれに基づいて通用される実情である。

 日本からの流入経路を強調しながら制度が意識を創出するという主張で乗り出す際、李人稙、李光洙の影響力は莫大となる。近代文学研究でしばしば出没する「近代の特権化」傾向は、実はこれの深化だと言える。「韓国近代文学の新しい構想」というサブタイトルをつけた、文学評論家の崔元植の『記憶の錬金術』はそれと向かい合う場に置かれる。「李人稙―李光洙」の軸を、李海朝(イ・ヘゾ)―廉想涉(ヨム・サンソプ)でもって取り替える基本で(…)鄭芝溶(ジョン・ジヨン)と『文章』が解放前と解放後のわが文学を通す決定的な目であるという点」を浮き彫りしたという「はじめに」の陳述は、彼がどのように「韓国近代文学の脈を探そうかということ」(6頁)を示す。

 「韓国近代文学の脈」の設定と関連して取り敢えず注目を要する作家は李海朝である。崔元植は李海朝の『自由鐘』(1910)を愛国啓蒙期における最高の政治小説として数える。このことは愛国/親日の二つの啓蒙主義が同時代の公論の場で占めていた影響力の大きさと関わる。愛国啓蒙期の頃、親日啓蒙主義は帝国日本の力に頼りながらも微々たる力を行使していた実情であったが、「庚戌年を境にその関係は逆転される。」(31頁) これにより愛国啓蒙主義文学が1910年代の文学と断絶された反面、李人稙の親日啓蒙主義は崔瓚植(チェ・チャンシク)の『秋月色』(1913)へと継承され、日本の新派小説の翻案にまでつながったというのが崔元植の観点である。

 李海朝文学に対する評価で現れるように、崔元植は近代文学制度の流入に出くわして、これを主体的に受容・活用しようとした傾向に焦点を合わせている。近代文学制度の導入と拡散の過程に呼応しながら従うより、主体の意志を先立たせたが観念の優位へと傾かない面貌は『記憶の錬金術』の美徳だと言えよう。これは彼が対象作家の文学精神を時代状況としっかりと結合して綿密に分析したからこそ出来た結果だと言える。例えば、独立協会運動で模索されていた「下からの広範な大衆を組織して国民(nation)を創出する」(26頁)目標が確固となりながら愛国啓蒙期の文化の熱が燃え立ったし、そのことを反映するのが李海朝の世界だという一連の分析はかなり綿密である。愛国啓蒙期に民族オペラの位置を占めていた唱劇(パンソリのこと―訳者)が、1910年代に総督府の弾圧を受けながら新派劇に追い出される様相は、愛国啓蒙主義文学が断絶される流れと並置されながら説得力を増してもいる。

 1930年代半ばにおける文学界の状況を捉えるくだりでも崔元植の博学は輝きを増す。1928年のコミンテルン6次大会で決定された「第3期論」を充実に移行した彼らは、1935年の7次大会における方向転換により一瞬、極左冒険主義へと追い立てられることになる。理念に中心を置くことで具体的現実の分析を怠ったカップ(KAPF、朝鮮プロレタリア芸術家同盟)の問題点はこの地点で浮き彫りにされたわけで、1935年はあいにくもカップが自ら解散した年でもある。カップ解散以後、「プロレタリア文学者たちがカップの時期よりもっと切実な理論と作品を生産したアイロニーを」(116頁)崔元植が想起させるくだりで、カップに及ぼしたナップ(NAPF、日本プロレタリア芸術家同盟)の影響を反芻すると、制度受容の様相より作家の主体的対応を優位に置こうとする著者の態度がもう一度現れる。

 崔元植は7次大会の選択をコミンテルンの国際的指導力の弱化と連動する事案として捉える。「芸術の政治化」を特徴とする社会主義が弱まるなかで、「政治の美学化」へエスカレートするファシズムの勃興の勢いは強まり、資本主義のヘゲモニーは「イギリスの「産業的近代性」に取って代わって「生産革命と消費革命を付け加えた」「消費的近代性」に基づいた」(111頁)アメリカへ移っていった。植民地朝鮮もまた、世界史的流れから自由ではありえなかったわけで、崔元植は朴泰遠(バク・テウォン)の「小説家グボ氏の一日」(1934)、金裕貞(キム・ユジョン)の「黄金を採る豆畑」(1935)、李泰俊(イ・テジュン)の「浿江冷」(1938)などを例示に挙げながら、都市化の流れのなかでマモン(Mammon)崇拝へと急速に引き込まれていく変化を抽出する。「3·1運動で現れた政治的大衆とは一定に異なる大衆、一種の消費的大衆の原始的形態が(…)出現したのである。」(116頁)

 1930年代のモダニズムはそのような状況を背景に出現して、都市の俗物性を暴露したし、鄭芝溶と『文章』は同時代の現実との拮抗のなかで自分の場を守り続けた。モダニストの鄭芝溶は東アジア古典に根を下ろしながら厳しい時代を耐え抜いたところ、崔元植は「長寿山1」を読み取りながらその意味を反芻する。嘉藍李秉岐(イ・ビョンギ)に文学史的位置を与えた「古典批評の誕生」もまた、同じ脈絡で理解するが、「中国の文学改良/革命論をわが時調の現実に照らして」(134頁)嘉藍が時調復興論を再創案したという分析では、改めて中国との軸でつながった近代文学史の流れを思い浮かべることになる。

 実は『記憶の錬金術』で個別作家・作品論として取り扱われた安重根(アン・ジュングン)・沈熏(シン・フン)・姜敬愛(カン・ギョンエ)などは、近代文学制度の枠ではまともに捉えにくい対象である。近代文学制度の外で異なる世の中を志向したし、その志向を作品の中に描いた事例だからである。安重根は漢文本の「丈夫歌」を創作し、直接ハングル本に翻訳した。崔元植は「微妙な移行の場に位置したこのハングル居士歌」を「近代自由詩に移る(…)飛び石とし」て位置付けている(44頁)。「大衆的成功を収めた民族主義系列の通俗作家だという固定観念が」(177頁)かぶせられた沈熏の文学史的地位もまた復権させているところ、この際、てことしているものが沈熏の3年余りの間の中国亡命期に対する分析であり、カップ路線と決別して朝鮮の現実に密着したプロ文学を志向したという事実の検証である。満州に滞在していた姜敬愛が朝鮮文壇の外をさ迷ったことは周知のことだから、安重根・沈熏・姜敬愛に対する崔元植の注目は、自然に北側方面の文学傾向の復元という脈絡としてやってくる。

 『記憶の錬金術』において物足りないところは、廉想涉に関する本格的な論文が抜けている事実である。「はじめに」で李海朝―廉想涉の軸を提示し、李海朝の愛国啓蒙主義と1910年代文学の非連続性にまで分析されたわけだから、李海朝から廉想涉へとつながる関係の復元は緊要でしかない。「3·1運動を分水嶺としたわが小説の展開様相」で1920年代の新文学運動のなかで創作された短編小説が文学史において如何なる系譜に置かれるかを提示しておいたが、これは「韓国近代文学の脈」というよりは「枝」に当たるはずだ。一貫した企画に沿って書かれた論文ではなく、すでに発表した論文を本として収録したから不可避に発生した問題ではなかろうか。このような問題点にも関わらず、近代文学史を貫く基準と視角は一貫して貫徹されているわけだから、「文学史作業のための予備的点検」(5頁)の次元で理解するならば、それほど大きな欠陥として取り残されるわけもなさそうだ。

 

 

訳:辛承模