창작과 비평

[散文] 笑うことはなくても、ビングレ(にっこり) / 鄭銀貞

 

創作と批評 195号(2022年 春)目次

 

散文/私の住んでいる所

 

笑うことはなくても、ビングレ(にっこり)

 

 

鄭銀貞(ジョン・ウンジョン):
農村社会学者。著書に『大韓民国のチキン展』、『アスファルトの上に種をまく:農民ペク・ナムギの闘争記録』、『ちゃんとご飯は食べてるか、という言葉』、『質的研究者のドタバタ記』(共著)などがある。
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 清凉里(チョンリャンリ)発の3番バスの終点を「ビングレ(韓国語で‘にっこり’という意味)」と人々は呼ぶ。初めて訪れた人が「ここがビングレですか」と尋ねると、「ええ、ビングレですよ」と答える。誰一人笑うことのない場所でありながらも「ビングレ(にっこり)」と呼んでいた。約50年前の1973年に揚州(ヤンジュ)郡渼金(ミグム)面道農(ドノン)里に乳製品企業の「ビングレ」の工場が建てられた。この地域には乳牛を飼育して上鳳(サンボン)洞のソウル牛乳組合やビングレに生乳を提供する酪農家が多かった。当時は身体的な成長が切実な時代であり、牛乳を飲み肉を食べることで小柄で痩せた体がしっかりとした体格になることを人々は願っていた。そのため、農業よりは家畜を飼育し、肉と生乳を生産する畜産業がより重視された時代でもあった。

 終点のビングレで降り、20分ほど歩くと我が家の農地があった。厳密には我が家の農地ではなく、借りものであった。その地域は宅地であろうが、商業地区であろうが、その殆どが開発をのんびりと待っている不在地主らの土地であり、我々は貸主の名前すら知らなかった。自分も農業を営みながら、たまに農地の賃貸借を仲介して仲介費を稼ぐ「マルム(小作管理人)」と呼ばれる人たちがいた。そのマルムを通して農地を借り、契約書もないまま、その年の米の価格を基準に賃借料を支払う賃借農や小作農が多かったのである。社会科附図に載っている「近郊農業地帯」と名付けられた地域で私の両親は野菜を栽培していた。回転率はよかったが、流通費用が高く、収穫率の低い葉根菜類と収穫率のやや高いトマトを交互に栽培していた。フダンソウ-トマト-ヨモギ、サンチュ-トマト-ほうれん草といった感じである。しかし、農作物の市場は常に価格変動が激しく、その上アジア通貨危機まで重なったため、食べても食べなくても構わないトマトなどは見向きもされなくなった。

 両親は、休みに入った私たち兄弟や冬には農作業を休んでいた叔母たちの手を借りることができれば、直接収穫し、人手が足りなければ、「バッテギ(畑に植えたままの状態で販売すること)」で農作物を売り払った。圃田取引を行うと、産地流通人が直接収穫作業を行う人を連れて来るのだが、その中には中国籍の朝鮮族の女性らも結構いた。徐々にその規模も大きくなり、今、農村では不法滞在者の入り混じった外国人労働者らが全羅道から江原道へと国土を南北に移動しながら農作業をしている。自分の農地もトラックもない状態で農業を営むと、常に誰かの助けを借り、その見返りに現金を支払わないといけないので、両親の手元にはいつもお金がなく、時には借金をしたりもした。両親はバスに乗ってビングレで降りて、近郊農業の特徴である出退勤をする農業を行っていた。

 私は休みになると、よく畑仕事を手伝った。冬は、ビニールハウスの野菜にカバーを被せたり、取り除いたりするために一人で畑に行ったこともあった。冬の夕暮れに、ビングレで降りて一人で歩いて行くビニールハウスまでの道のりは暗くて怖かった。二重窓の断熱効果が高いように、最近のビニールハウスは二重構造で建てられ、冬には油だきボイラーを使って加温する方法で作物を栽培している。しかし、我が家のビニールハウスは何人かの賃借農が交互で使っていたため、ビニールハウスを新しく立て直したくても、いつ賃貸借関係が切れるか分からないので立て直すには負担があった。薄っぺらい掛け布団のようなビニールで風を遮ることはできるが、晩に急降下する気温を抑えることはできない。そこで作物の上に薄いビニールとカシミロン製の保温カバーを被せて、加温ではなく保温を保った。朝になると、作物の上に被せたビニールとカバーを取り払い、夜になると、また被せるといった重労働の農作業は、油の代わりに人のエネルギーを燃やすようなものであった。畑仕事を手伝っていると、外で友達と遊びたくてイライラし、外で友達と遊んでいると、母親が可哀そうでイライラした。

 私は両親のすねをかじりながら、農業のようなきつい仕事は避けて生きてきた。両親は教育学部に進学して教師になるか、もしくは一流企業に就職することを望んだが、その期待には応えられず、結局、あちらこちらをぶらぶらしながら10年程前にこの南楊州(ナミャンジュ)に戻ってきた。地方から漢江(ハンガン)以北へと進出したのだから、首都圏への進出とも言えるが、依然として賃借人という立場に変わりはなかった。元々「母親みたいな生き方はしたくない」と思いながら地元を離れたわけでも、「一生地元には戻らない」と固く決心しながら離れたわけでもなかった。今回もただ仕事をするためには子供の面倒を見てくれる人が必要で、年の離れた姉の家の近くに引っ越して来ただけのことだ。未だに保護者が必要な自分の人生が情けないとは思うが、この韓国でワーキングマザーとして生きるということはそういうことであった。恐らく母親が生きていたら、母親に助けを求めていたであろう。しかし、母親は重労働の農作業に体を壊し、早くに亡くなってしまい、父親も離農してからかなり経つ。母親の初めての法事の時は、供える汁物の作り方も分からず戸惑ってばかりだったが、今では汁物は勿論、三種類のナムルも手際よく和えることのできる歳になった。そんな歳になって、この地元のビングレに帰って来たのだ。

 10年ぶりに帰って来てみると、ここは、金龍澤(キム・ヨンテク)の詩「蟾津江(ソムジンガン)1」に出てくる「地図にもない町の川辺/植物図鑑にもない草」のような状況だった。更新したカーナビにも表示されないほどで、ニュータウンの開発工事の真っ最中であった。朝、通った道が夕方にはなくなってしまったかと思うと、翌日にはガス管を埋没するために道が掘り返されていた。今も依然として町中が工事だらけである。渼金や道農のような地名は消えてなくなり、「6-2地区」といった数字が付けられたかと思えば、2017年頃には、いきなり朝鮮時代の学者丁若鏞(チョン・ヤギョン)の号である「茶山(タサン)」が町の名前として登場した。茶道が南楊州出身であるという理由だけで南楊州市の行政に利用され、彼の名前が付けられた茶山マンモス団地や公立学校などが次々と建てられていった。

 両親は最初から南楊州のビングレで農業を始めたわけではない。忠清北道の田舎出身である両親が、首都圏へと足を踏み入れた以上、もう一度農民として生きていくとは想像もしなかったであろう。小さな農地で農業をしながら生活していた20代の若い夫婦であった両親は、忠州(チュンジュ)地域に進出した肥料工場の好景気を追いかけて、1970年に田舎から忠州市へと引っ越した。これといった製造業のない地方だったので、忠州には肥料工場で働く人が多かった。街には肥料工場の労働者のための飲み屋や食堂がずらりと並び、また「忠肥社宅(忠州肥料工場社宅)」と呼ばれる洋風のタウンハウスに社員が引っ越す度にタンスや家財道具を購入したため、それらを販売する店も繁盛した。その地名にちなんで付けられた名門高校は、そこに子供を入学させようとする親も多く、その高校に在学中の苦学生は中学生の家庭教師で学費を稼ぐこともできた時代であった。しかし、肥料産業が斜陽産業となりながら、華やかな時代はあっという間に幕を下ろしてしまった。1983年に忠州の肥料工場が閉鎖されると、収入が見込めない両親は再び移住を決心した。ソウルの馬場(マジャン)洞のターミナルに降りて、近くて家賃の安い中浪(チュンラン)区(当時は東大門区)周辺に居を構えた。一足先に意気込んでソウルに上京していた親戚たちが雨が降ると川が氾濫する浸水常習地域である中浪区一帯に住んでいたのだ。藁をもつかむ思いでお互いに頼り合って生活し、時には「郷友会」にも参加し、つながりを深めた。ラジオに投稿しても紹介されないような、そんなありふれた離郷物語である。

 両親は、決まったボーナスではなく、工場の社長の人柄によって「正月と盆の小遣い」程度のボーナスがもらえるような、時にはそれさえももらえないような職場を転々としていた。子供に母乳を飲ませながらもキキョウやニンニクの皮むきの内職で少しでも生活費を稼ごうとする—時にはこっそりとその野菜をもらっておかずにしたりする—慎ましい新妻の多い町であり、私の母親も例外ではなかった。両親は慎ましい生活をしていたが、子は多く、まとまったお金もなかったので、暮らしはなかなかよくならなかった。当時、両親が身に付けていた唯一の技術と言えば、農業であった。そこでバスで行き来できる近郊のビングレにビニールハウスをいくつか借りて農業を営むことにしたのである。その頃から私は、父の職業欄に「建設業(肉体労働)」ではなく、「農業」と書いた。家庭訪問に来るわけでもないのに「会社員」と書かなかったのは、両親の職業を恥ずかしがるなという昔からの道徳教育のおかげでもあっただろうが、担任の金銭要求を事前に防ごうとした経済的な判断でもあった。いわゆるソウル所在の高校であったが、名ばかりで近郊の九里(クリ)や南楊州から通学している子がほぼ過半数であった。忘憂里(マンウリ)坂を越えて通学する友達を「道民」「郡民」と呼んでからかったりもしたが、「特別市のソウル市民」と言っても大して変わらなかった。

 忠州に肥料工場があったように、道農里にはアイスクリームやバナナ牛乳を製造している「ビングレ」の工場と人絹を製造する「ウォンジンレーヨン」の工場があった。今、住んでいる(正確には借りている)アパート団地がウォンジンレーヨン工場の跡地である。ウォンジンレーヨンは1961年に日本の東レから使い古しの設備を譲り受けて建てた工場で、日韓経済協定の「戦利品」のようなものと言えよう。実際は戦争で勝利したことのない韓国が手に入れた戦利品というよりは、戦争で敗れた日本が支払ったつけであり補償金であった。既に日本では二硫化炭素中毒で多くの人々の命を奪った古い機械を「和信百貨店」の朴興植(パク・フンシク)が引き取ってウォンジンレーヨンを設立した。設立当初は業績も好調だったが、すぐに不振に陥り、産業銀行の管理下で会社更生手続きをとりながら、何とか持ち堪えていた。道農里の住民にとっては、ウォンジンレーヨンとビングレはボーナスがもらえる職場であった。しかし、有毒ガスを吐き出す工場周辺では、多くの家畜が次々と死んでゆき、植物は次々と枯れ、新しく積み上げたブロック塀は溶けていった。1970~80年代のウォンジンレーヨンの工場や郡庁の前では農業被害の賠償を求めるデモが相次いだ。ましてや工場内で直接機械に触れ、浄化施設もないまま、化学ガスを吸い込んだ従業員の健康は一体どうなったであろうか。

 2014年、ビングレ工場でアンモニアガス流出事故が発生した。下請け会社の従業員が命を落としてしまった労災事故であった。アンモニアガスが流出し、耐えがたいガスの悪臭が町中に充満し、大騒ぎになった。今もビングレ工場の前にはアンモニア濃度を表示する電光板が設置されているほど、住民にとっては敏感な問題なのである。住民たちは無意識のうちにビングレとウォンジンレーヨンを重ねてしまう。ウォンジンレーヨンの記憶が未だに強く脳裏に焼き付いているからである。真夏の暑さを癒してくれるアイスクリームを作るためにはアンモニアが、夏向けの涼しい生地の人絹を作るには有毒な二硫化炭素が必要なのだ。それは、我々が学生時代に学んだ化学記号のような抽象的なものではなく、命を奪うかもしれない具体的なものとして襲いかかってきた。

 ウォンジンレーヨンの労働者、故キム・ボンファン氏は1939年生まれで、53歳の1991年に亡くなった。若いとは言えないが、老いていたわけでもなかった。生きていれば、私の父親と同年配で元気に働ける年齢だ。キム・ボンファン氏が亡くなってから、3カ月余りが過ぎても、ウォンジンレーヨンと労働部は労災を認めなかった。これはウォンジンレーヨンの従業員にとって初めての犠牲でもなかった。以前にも既に10人を超える従業員が死亡しており、1989年には、韓国初の二硫化炭素中毒による死亡が確認されるほどの最悪の職場であった。1989年当時の労働部が積極的な調査及び判断を下した理由は、88年度のソウル五輪の聖火がウォンジンレーヨン工場の前の京春(キョンチュン)国道を通り過ぎる予定だったため、労働者たちが抗議デモをしている様子を海外メディアの目に触れさせたくなかったからという噂もあった。当時としては、まれな職業病の判断の前例となったが、91年のキム・ボンファン氏の死亡は職業病として認められなかった。しかも、葬儀に警察隊を送り込み遺族と労働組合員らを暴行するような事態にまで陥ると、遺族らは葬儀を中止し、再びウォンジンレーヨン工場の前に集結して責任者の処罰と職業病として認めることを要求しながら座り込みデモを始めた。

 清拭と納棺を終えた故人の遺体は、ウォンジンレーヨンの前で51日間埋葬できないまま放置されていた。遺体を利用したデモだと激しく批判する声も多かった。中学生であった私は、怖くてそこに近づくことすらできなかった。元々、私の町の近くの忘憂里坂には共同墓地があり、幼いころから墓地にまつわる怪談に怯えていた子供たちにとって、ウォンジンレーヨン工場は避けて通りたい怖い場所となってしまった。ウォンジンレーヨンを避けるために、バスに乗ってもいつも一つ手前の停留所で降りて歩いて行った。結局、1993年に破産したウォンジンレーヨンは、その後「職業病問題が世の中に知られると、工場が閉鎖して失業者になってしまうかもしれない」という口実として悪用されたりもした。しかし、労災と職業病について警鐘を鳴らした事件としての役割も大きい。私の住んでいる地域は、このように韓国の産業化の歴史上、決して忘れてはならない場所であるが、新しく建てられた高層アパート団地の周辺には小さな記念碑すら見当たらない。ただ、キム・ボンファン氏とその同僚らの犠牲をきっかけに建てられた病院が労災専門病院であり、公共医療機関である「緑の病院」だ。この地域の住民で、ウォンジンレーヨンで働いていたために病気になり「緑の病院」で命を落とした人はかなり多い。それは、私の友人の両親でもあり、近所の知り合いでもあった。

 ウォンジンレーヨンの機械は中国の丹東へと引き渡され、再び多くの人々の肺と肝臓の機能を麻痺させた。当時、韓国と日本の環境運動家や良心のある市民らは、ウォンジンレーヨンの機械が中国へと売られるようなことはあってはならないと訴えたが、現金を少しでも手に入れるために、死を呼ぶ機械を売り飛ばしたのである。最も大きな担保であった工場敷地は宅地としての売買が決定した。国内有数の建設会社がこの敷地を手に入れようと必死だった。ソウル近郊の京畿(キョンギ)道の大規模な団地を手に入れることさえできれば、大きな利益を得ることができるからだ。京畿道の土地の価格は、如何に平地で開発しやすいか、そしてソウルの江南(カンナム)地域から如何に近いかによって決定する。ウォンジンレーヨンの工場敷地は重金属による深刻な汚染が懸念されたが、アパートの分譲権を握っていた人々は誰にも知られないように口をふさいだ。このようにウォンジンレーヨンの痕跡を消し去り、アパートを新築して分譲した。ある人はマイホームの夢が叶ったと喜び、ある人は店を構え、商売を始めた。

 1996年に着工したこのアパート団地は、今では「中古アパート」となってしまった。近くではニュータウン開発工事が真っ最中であり、中古アパートでは、連日古い浴室や台所を解体し、外壁を塗り替えたりするリフォーム工事が真っ最中であった。一言でいうと、地域全体が工事中だった。中古アパート住民の一部はリフォームして住むことにし、一部の住民はニュータウンへと生活の場を移した。中古アパートに残った人々は価値を上げようとアパート名を意味不明のラテン語に変えたりもした。名前を変えることで「タサンニュータウン」の新築アパートと同様に扱われることを願い、そしてウォンジンレーヨンの記憶が消え去ることを望んだのであろう。

 ここに帰って来てからもしばらくの間、「ビングレ」の近くには近づかなかった。気持ちの整理がつかないまま離れてしまったビングレ時代への私の意地であった。タサンニュウータウンが造成されてからは、昔の風景は徐々に無くなりつつあるが、幾つかの昔ながらの場所が負けずに踏ん張っていた。再開発と再生、その両者の中で再開発という容易い結論を下してしまった地域であるが、ビングレ工場の近くの食堂や飲み屋が未だに何か所か残っている。ビングレ工場で働いている従業員を対象にしている店でもあり、周辺のビニールハウスに出前をしていた定食屋でもあった。もうビニールハウスは全て撤去されてなくなっているので、今はアパート工事現場の作業員のための食堂になっており、「韓食バイキング」などという看板を掲げていた。

 その食堂の一つでスケトウダラチゲを頼んで夕ご飯を食べた。おかずに出された煮干し炒めは、頭と胴体がバラバラになっているのを見ると安物の煮干しに違いない。中国産のキムチは甘くてしなびている。おそらく数日後にはキムチチゲとして売られているだろう。えごま葉のキムチも酸っぱくて苦くて、これも中国産に違いない。それでも直接和えたキキョウの根のコチュジャン和えとほうれん草和えは彩りもよく、値段に比べると十分な食事であった。ロシア産のカチカチに凍ったスケトウダラの上に春菊がのせられたチゲがテーブルの上でぐつぐつと煮え立っていた。

 家族で畑仕事をしていた時は、ラーメンやそうめんをご飯と一緒に食べていた。たまに麺の量を増やすためにラーメンにそうめんを入れて食べたこともあった。手前を取るのは、畑仕事を手伝ってくれる人を使う時ぐらいだった。お金がかかったからだ。手前を取ると、キムチの汁が染みついた弁当箱におでん炒めや豚肉含有量の低い安物ハムの炒め物、他の客が食べ残したキムチに調味料と砂糖をたっぷり入れて作ったキムチ炒めやキムチチヂミ、冷めきった焼きサバが一切れ、油臭い海苔、豆もやしがほとんど入っていない豆もやし汁などがオートバイに乗ってやってきた。カーナビもない時代に「トマトの家、5人分」と注文しただけで、出前はやってきた。最近のようなデリバリーサービスプラットホーム時代にはあり得ないことであろう。今思うと、そんな出前料理が美味しかったような気がする。外食など、なかなかできない我が家では、現金を払って食べた出前料理で外食気分を味わうことができたからである。最近は、よくビングレ周辺の食堂でご飯を食べながら、ビールかマッコリを頼んで、そのおかずをおつまみに晩酌を楽しんでいる。たまにご飯は食べず、おかずとチゲだけ頼んで飲むこともある。お酒の飲めない父のせいで、私にとってお酒を飲みながらご飯を食べるというのは未知の世界だった。未成年で女だった私にとって小さな食堂の晩酌の風景は、おやじ達の世界であり、怖い路地裏の世界であった。しかし、今はくねくねと曲がった路地裏の小さな定食屋に入って、父親の代わりにお酒を飲み、量を増やすためにラーメンにそうめんを入れた母親の代わりに、ご飯を食べながらわざとおかずを残したりもする。昔のあの時代への私の小さな復讐であり、腹いせでもある。

 最近になって、ニュータウンのイメージにアンモニアの悪臭を放つ工場は相応しくないと言って、工場の移転を求める声が高まっている。もしかしたら、工場の跡地に高級な高層アパートが建てられるかもしれないが、今はまだビングレである。笑うことはなくても、それでもビングレ(にっこり)だ。

 

 

訳:申銀児(シン・ウナ)