창작과 비평

[特集] ケアと脱植民は脱成長とどう出会うのか :最前線共同体のために / 白英瓊

 

創作と批評 195号(2022年 春)目次

 

特集/変化する世界、新しい主体

 

ケアと脱植民は脱成長とどう出会うのか :最前線共同体のために

 

 

白英瓊(ペク・ヨンギョン):
済州大学社会学科教授。著書『バトルグラウンド』『孤独な私から共に生きる私たちへ』『フランケンシュタインの日常』『マスクが語ってくれること』『コロナ・パンデミックと韓国の道』(以上、共著)、訳書『ユートピスティックス』などがある。
paix@jejunu.ac.kr

 

 

気候危機の脅威と脱成長論議の展開

 

もはや気候危機は、誰も楽観的な解決を語ることができないほど深刻になりつつある。毎年起きている大規模な山火事によって北極の永久凍土層が溶け始め、大量の炭素を排出し温暖化を加速させており、それはまた頻繁な山火事を引き起こす悪循環へとつながっている。今年に入って起きたことを少しだけ検索してみても著しく増加する危険が見られる。例えば、韓国の冬期の山火事は、例年より3倍以上増えており[1. 森林庁の発表によると、2022年1月1日から13日まで全国に35件の山火事が発生しており、それは同時期の10年平均(11件)の3倍に上る。森林庁報道資料「山火事災難国家危機警報『関心』段階の発令」2021.1.14を参照。]、直接的な原因としては入山者による失火が最も大きな比重を占めているが、大きな山火事へと燃え広がる原因は、冬期の高温現象と干ばつといわれる。グーグルの親会社であるアルファベットは、年間報告書を通じて気候危機の諸様相が供給網に脅威になると分析したが、その一つとして山火事及び山火事の拡散を防ぐための電力遮断事態も指摘された[2. Alphabet Inc., “10- K Report for 2021,” 13頁;「グーグル、供給網の危険要因に『山火事』追加―“気候変化、脅威的”」『韓国経済新聞』2022.2.6。]。グーグルのアメリカ地図は2020年からリアルタイムで山火事危険情報を提供しており、オーストラリアでは山火事と感染病等によってコアラが絶滅危惧種として指定されたという話もある。海水面の上昇によって消えている島国の話を越え、今年の初めアフリカ大陸では熱帯低気圧「アナ」によって、マダガスカル、マラウィ、モザンビーク等が大きな被害を被った。新型コロナウィルス(以下、「COVID-19」という)のような感染病のほかにも気温上昇による感染病が拡散しているだけではなく、動植物も大きな被害を被っている。

韓半島(朝鮮半島)においても、農業や漁業等の自然依存的生業に従事している市民が生態系の変化に敏感になって久しい。真夏の酷暑やPM2.5、物価等の限られた領域にのみ敏感に反応する都市民とは違って、変わった気候に何を耕作すべきか、魚類資源の変化や増えている台風にどのように対応し、何をいつ出荷すべきかなど、彼らにとっての気候変化とは生計がかかっている問題なのである。今冬に韓半島の南部地方におけるミツバチの全滅事態や海苔養殖場の被害事態も正確な原因は分からないが、気候変化と無関係ではないと思われる。異常気温、感染病などを人間のみならず、動植物も一緒に経験するということは生態系自体が崩れていることを見せる証であり、そのすべてのことが、気候危機が私たちの生活そのものを脅かすようになるという事実を予感させる。海水面の上昇によって今すぐ居住地が沈んだり、人間が耐えられないほどの高温現象が持続されることはないとはいえ、食べ物が不足し、生活が困難に陥る状況も起り得る。

このように所々で感知される危機の中で、気候危機への対応の必要性は否認することが難しくなった。もちろん危機の性格に対する診断及び介入の方向に対する判断、根本的な変革の必要性に対する認識、体制転換に対する要求等はそれぞれ異なり得るが、いまや「どのような未来を夢見て、つくりあげていくべきか」について熾烈に競合しなければならない時が来たのである。わずか10余年の間に気候政治の戦線が危機の深刻性を知らせ、対応の必要性を力説するところから、果たしてどのような対応が適切で十分なのか互いに異なる意見を競合する場へと移してきたわけである。どのような危機であれ、新しい拡張の契機にしようとする試みが、長技の資本主義体制の属性を参酌すれば、現在の気候危機論議が根本的な原因を無視したり、技術官僚的解決(technocratic fix)だけを追求しているのではないのか冷静に検討してみる必要もある。たとえ大きな志向に対して同意できるとしても、もしかしたらその論議において看過した点はないのか、再検討することももちろん重要である。

このような取り組みの必要性は、脱成長(degrowth)陣営にも該当される。脱成長論は現在の危機をもたらした原因の一つとして資本主義の無限な成長主義を指摘しながら、そこから脱する必要性を主張する。これに対して根本的に立場が違う場合はさておくとしても、急な成長の中断が基層の生活に否定的な影響を及ぼし得るというおそれや発展の必要性があるグローバルな南半球の生活をきちんと反映することができない言説であるという指摘など、簡単に無視できない批判も存在する。私たちが追求すべきことは適正な水準の成長であって、脱成長ではないという反論も提起されたことがある[3. 姜敬錫・金善哲・鄭建和・蔡孝姃「〔対話〕気候危機と体制転換」 『創作と批評』2020年冬号、239-243頁参照。姜敬錫は「生産性の向上をいますぐ全面的に放棄する場合は、脱成長はおろか、むしろ『略奪的蓄積』の標的になる事態が起」り得るので、「適正成長」という概念が導出されたと説明する。] 。これに対して脱成長陣営では、脱成長とは逆成長ではなく、成長とはまったく違う観点から社会的生活を再組織することを促すことと力説する。グローバルな北半球中心の言説という指摘に対しても、資本主義経済体制の成長至上主義と気候危機をはじめとする生態的災難に対する批判が、北半球では「脱成長」という概念を中心に、南半球では「気候正義」という概念を中心に出てはいるものの、二つの流れが明確には区分されていないと説明する[4. Farhana Sultana, “Critical climate justice,” The Geographical Journal 188(1), 2022.2.13参照。]。実際、エクアドルのブエンビビル(Buen Vivir)[5. 「良い生活」を意味するブエンビビルは、物質的豊かさではない、人間と共同体の調和の取れた関係、共存と共生の生活を志向する。エクアドルは、2008年に憲法の改正を通じてブエンビビルと自然の権利を明文化した。]をはじめ、脱成長の流れの中にあるとみられる諸実験が南半球で起きていることはもちろんであり、発展を優先した副作用によって貧困と不平等の深刻化が蔓延している南半球の現実を勘案すれば、脱成長論を無鉄砲に北半球の言説としてとらえるのは適切ではない。また原料の調達から労働、流通、販売に至るすべての段階がグローバルに行われている現実を考慮すれば、「適切な成長」という概念はその成長の規模と無関係に他の地域に弊害を生む状況に対して目を潰すおそれもある。韓国の場合にも適切な成長の規模を論じる前に、移住労働者が韓国に来ることによって生じる本国の労働力とケアの不足問題、土地及び原料の収奪問題、公害産業と廃棄物の輸出問題、低賃金と人権弾圧問題を考慮せざるを得ない。

今のように、気候危機問題が切迫になればなるほど重要なことは、転換のための大きな言説の方向を模索すると同時に、現実的なレベルの問題も見落とさないことである。脱成長論も言説を批判的に発展させると同時に、現実において脱成長論が作動する方式を検討しながら、必ず必要であるにもかかわらず、見落としていることはないのか、または必要だと言いながらも実践においては排除され続けている領域がないのか検討しなければならない。脱成長論が学術的言説であるだけではなく、社会正義と生態健全性を志向する実践的で体制転換的な社会運動の場である時、その必要性はいっそう高まる。

 

脱成長論議が(きちんと)扱わないもの

 

脱成長論は、1970年代に形成されて以来成長至上主義から脱皮して価値を再調整し、エネルギーと物質の使用を自発的に減らしながら制度を変えて人間と生態系に対する被害を減らすことを目標としてきた。その流れが初めから「ケア」という価値に親和的だったという事実はよく知られている。実際、脱成長論とエコフェミニズムは同時期に発展し始め、大きな内的親縁性を有する。もちろん脱成長論を一傾向としてのみ語ることはできないが、特に1980年代後半以降環境ガバナンスと持続可能な成長、グリーン成長、倫理的消費など、成長主義から完全に脱することができない流れに支配されることによって、抵抗的力量が伸びなかったことも事実である。このような脱成長論では成長の弊害を阻止するのに限界があったという評価が存在する。

上述のように、グローバルな北半球中心の言説という批判もあるが、脱成長論は、そもそも北半球の生き方が自然と労働搾取による費用を地球の他地域に転嫁しながら維持されてきた「帝国的生き方(imperial mode of living)」[6. Ulrich Brand & Markus Wissen, “Global environmental politics and the imperial mode of living: articulations of state–capital relations in the multiple crisis,” Globalizations 9(4), 2012, 547~60頁を参照。]という反省から出発する[7. Ulrich Brand & Markus Wissen, “Global environmental politics and the imperial mode of living: articulations of state–capital relations in the multiple crisis,” Globalizations 9(4), 2012, 547~60頁を参照。]。このような帝国的生き方は、生態的に持続不可能であるだけではなく、生活に必須の労働を女性に、またはグローバルな南半球(あるいは南半球出身の人々)に負担させ、被植民地の資源を略奪することによって可能だったということである[8. ラセル サラザール パレーニャス(Rhacel Salazar Parrenas)著・ムン・ヒョナ訳『グローバリゼーションの使用人たち(Servants of Globalization: Women, Migration, and Domestic Work)』女性文化理論研究所、2009を参照。]。いわゆる発展を成し遂げたという国々において、一般市民が営為する生活さえも、実際にはグローバルな南半球の犠牲なしには不可能であるという点から、帝国的生き方を批判する脱成長論が自らの問題意識をしっかりと押し進めていったなら、ジェンダー及び脱植民の問題意識をより全面化しなければならなかったと思われる。

しかし、現実の脱成長論は生態問題とジェンダー正義の間でいつも生態問題を優先してきた傾向がある。これは、2016年に形成された「フェミニズムと脱成長連帯(FaDA, Feminisms and Degrowth Alliance)」が主流の脱成長論に投げかけた主な批判でもある。COVID-19以後、脱成長論がケア中心の転換及びフェミニズムを積極的に標榜し、連帯を追求するとはいえ、依然としてその関係は曖昧であり、地域によって認識及び実践に大きな偏差を見せる。女性の体と労働に対する支配をもとに支えられてきた資本主義経済に対する批判、ケアの価値に対する強調など原則的なレベルではフェミニズムとつながっているが、生態問題の緊迫性の前でジェンダー問題が後回しにされているという批判は続いている。

問題の原因の一つは、ケア中心の転換を主張する人びとでもジェンダー問題がなぜ重要であり、フェミニズム的アプローチがなぜ必ず必要なのか具体的認識のない場合が多いということである。例えば、ケアの価値を再評価しようと言いながらも、ケア労働の性別集中現象を改善しようとする努力は見られない場合も多い。このような状況で脱成長フェミニズムが強調するのは、ケア労働の漸進的・解放的再配置と地球的レベルの社会的・生態的正義のためにはジェンダー正義のための闘争が必ず伴われなければならないということである。「ケアの脱商品化」という主流の脱成長論の目標は、このような闘争なしに自ずと達成されることはできず、女性主義的介入なしに行われるケアの社会化はむしろケア労働の商品化傾向を拡大する結果も招き得る。

では、体制転換のための脱成長フェミニズムの具体的議題には何があるのだろうか。現実的な方法として提示されるのは、「ケア所得(care income)」である。普遍的基本所得(universal basic income)の問題意識を拡張してケアを実行するすべての人に所得を支給し、それを通じてケア中心社会への転換を図ろうとする。ケア所得を主張する人々は、その目的が「所得」そのものではなく、個人のケア力量を増進させてケアが拡大される社会をつくる[9. フェミニズムと脱成長連帯(FaDA), “Collaborative feminist degrowth: pandemic as an opening for a care-full radical transformation,” Degrowth 2020.4を参照。]ことだという。しかし、ケア所得をどのように算定して支給すべきかについては、各社会が置かれている現実によって多様に模索されなければならないと言いながら、具体的な方法が論じられてはいない。

これを韓国の状況に当てはめてみると、どのような議論が可能だろうか。ケア所得という概念が見慣れないものであるということとは別に、ケアに対する補償はすでに多様な形態として支給されていたりもする。例えば、終日制の子どもケアサービスを利用しない家庭に与えられる家庭子育て手当、高齢者長期療養(介護―訳者)サービスを利用できない家庭に支給される家族療養費等があり、療養保護士(日本の介護士に当たる―訳者)資格取得を通じて、病気になった家族をケアしながら、国から賃金を受けとることもできる。問題は、このようなケア手当が家族を一次的なケアの責任者として見做し、家族中心のケア体制を維持させるということ、さらに家族をケアする労働の場合、他者をケアする労働に比べて価値を低く策定して補償するということである[10. チョ・ギヒョン「『ケアの貨幣化』に対する断想」『生態的知恵』 2021.8.17(https://ecosophialab.com/돌봄의-화폐화에-대한-단상/)。]。それゆえ、家族をケアしようとする人たちは、より高い賃金を求めて他者を有給でケアしながら、自身の家庭はケアの欠如に苦しませるのか、それとも自身の家族をケアする無賃労働と他者をケアする有給労働とを同時に遂行しながら、二重労働の負担を負うのか、それでもなければ家族という垣根の中で愛という名の下で低い補償を受けながらケア労働をするのかという分かれ道に立たされるようになる。

したがって、韓国においてケア所得が支給されるのでれば、現在のように家族制度と規範内で補償が行われるのは望ましくなく、ケアしようとする人はすべて自身を含めて希望する人をケアできる時間を持つことができるよう、社会の変化を誘導する方法でなければならない。特に、韓国のように長時間労働が問題になる社会においてケアの民主的再分配に最も大きな障害物となるのは、賃金労働従事者の大半には誰かをケアする余裕がないということである。これは、家族構成員のうち、賃金をもらっていなかったり、相対的に低い賃金をもらっている人、主に女性のケア「ワンオペ」現象をもたらすことになる。それゆえ、韓国におけるケア拡大の核心は、ケアできる時間の確保、結局労働時間の減縮なのである。いま議論されている労働時間の減縮案は、そのサービスが正規職、それも一部の職種に限定される限界があると、ケア所得を通じて社会全般の有給労働時間の縮小を誘導することができる。この時のケア所得とは、ケア行為自体に与えられる補償というより、ケア中心社会への変化を誘導する一つの方法であろう。

市場で取引される貨幣価値として労働の価値を評価し、公的領域と私的領域、生産領域と再生産領域に区分し、女性労働の価値に対する評価を限りなく低くする現体制を変化させなければならないということは、脱成長フェミニズムにおいて「脱成長」が重要な意味を持つ根拠である。しかし、この脱成長が順調に行われるためには、これまで女性に集中されてきたケア労働及び出産と育児など社会再生産領域の労働がその価値を認めてもらえなかったという点、そしてそれが、結局は資本主義体制の作動に核心的であったという点が共有されなければならない。ケア中心社会への再編は、固定された性役割だけではなく、家族制度の全般、そしてその家族を基礎単位にして行われるケアの現実等に対する批判がないと実現し難い。

 

現実のケアに浸透している帝国的生き方

 

ケアに対する強調だけではケア中心社会への転換も、脱成長も成し遂げ難いという事実は、現実においてケアが行われる方式を批判的に見なければならない必要性を提起する。現実世界においてケアが行われる方式にすでに「帝国的生き方」がいろいろと染み込んでいるというのである。したがって、ジェンダー分業がどのように行われているのかだけではなく、国際的にはどのような分業体系が作動しているのかを検討する必要がある。今日ケア労働が行われる方式は、移住の問題を外して理解することは難しく、ジェンダー化しているほど、人種的位階も伴っている。脱成長フェミニストたちは、女性に集中されているケア労働の現実を改善し、男女が賃金労働者として平等な地位を営為しようとするグローバルな北半球国家の努力が、グローバルな南半球に意図せぬ副作用を与えないためには、地球的レベルの不正義に対する認識及び脱植民と脱成長に対する理解が伴われなければならないと強調する[11. Corinna Dengler & Miriam Lang, “Commoning Care: Feminist Degrowth Visions for a Socio-Ecological Transformation,” Feminist Economics, 2021.9.16, 1~28頁を参照。]。

実際に、ケア労働、とりわけ無給のケア労働は既存の経済理論に内在しているジェンダー規範と男性中心主義的傾向を表す。脱成長を掲げない既存のフェミニスト経済学では、これを克服するための戦略として「回避する(avoiding)、変化させる(modifying)、移転する(shifting)、再配置する(redistributing)」という四つの方法論を提示するが[12. Ulrike Knobloch, “Geschlechterverhältnisse in Wirtschaftstheorie und Wirtschaftspolitik,” Widerspruch 62: Beiträge zu sozialistischer Politik 62, Rotpunktverlag 2013, 60~65면. Corinna Dengler & Miriam Lang, 前掲論文より再引用。]、このような戦略には限界がある。もちろん個人的なレベルで自身に与えられる不当なケア労働を拒否することもでき、日常から生じるケアの必要を自ら解決することによって、他者に転嫁するケア労働の総量を減らすこともできる。しかし、基本的なケアさえ十分に受けられない人々が多い現実において、今よりいっそうよい社会とはより多いケアが行われる社会であり、ケアが減少する社会ではない。したがって、脱成長フェミニズムは女性や目下の人に任せられるケアを個人的に避けるのは根本的な対策とはいえないと指摘する。一方、ケアの方式を変化させる技術的解決方法を探すのも根本的な解決ではないことは明らかである。洗濯機や掃除機等が手間を多く省いてくれたのは事実だが、ある労働は機械に代替できず、機械化が労働の効率性及び成果に対する期待を高め、長期的により多い労働と管理をもたらすこともできる。そして何より生態費用の増加を無視することができない。最近ケア労働人材の人件費が上昇し、家電製品の需要が大きく増えたが、製品の生産に入る資源の問題は言うまでもなく、速い周期で作られ、捨てられる製品がゴミの増加にも大きく影響を及ぼしている。さらに、グローバルな北半球の大多数の消費者が耐えられる価格に合わせるために、グローバルな南半球の低賃金労働が前提とされなければならない状況である。

四つの戦略のうち、脱成長フェミニズムが最も大きく問題視するのは、ケア労働を無給から賃金領域に「移転」させる戦略である。無給で行われた労働を有給に転換することによる問題点については、フェミニズム内でも意見が分かれる。運動の現実的なレベルから見れば、あまりにも低評価されているケア労働の対価を高めることを度外視できないからである[13. 女性労働社会・全国女性労働組合政策資料集『20代大統領選挙、女性労働者が提案する大統領選議題:性平等労働価値の実現のための社会的大転換のために』2021.12.9を参照。]。しかし、脱成長フェミニストたちは現在行われている方式、すなわち国家支援の拡大を通じたケアの社会化は、結局市場を媒介とせざるを得ず、生活のより多い部分を貨幣化するようになるととらえている。脱成長フェミニストたちは、国家がケアを保障する福祉国家モデルが、実際には特殊な歴史的脈絡の中で行われており、特に西欧の福祉社会はグローバルな南半球に対する搾取及び現在の環境災難をもたらした化石燃料基盤の大量生産・大量消費体制がなければ不可能だったという点を忘れてはいけないと指摘する。もちろんケア体制への転換に国家が遂行すべき役割がないわけではなく、またすでに行われている国家支援までいつにでも撤回しようとする政府が、世界の所どころに存在する状況において、国家責任を低くしてみようということではない。重要なのは、国家の支援拡大はフェミニズム脱成長論が使用できる一つの方法であるだけで、目標にはなれないという事実である。脱成長フェミニストたちはケアの領域においても貨幣化した関係を縮小させることが重要だと思っているが、これは公的領域と私的領域、生産と再生産、生産と消費のような概念をどのように再定義し、その境界を画定するのかという問題と絡んでいて単純ではない。賃金労働と不仏労働の境界をどのように設定するのか、労働の価値をどのように評価するのかは、資本主義社会を作動させる根幹でもあるのである。

したがって、脱商品化したケアを追求しながらも国家の支援に全く依存しない方式を模索していくと、結局国家と市場を越えた共同領域、言い換えれば、コモンズ(commons)が必要だという認識に至るようになる。実際に、生活の共同領域としてコモンズが作動するためには、貨幣化されない自発的なケアが必須であり、コモンズの核心にケアがあるとみてもかまわない。ところが、フェミニストたちにとって、コモンズは女性の自発的な労働を当然視し、少ないけれど賃金を支払う市場レベルにも達していないという疑惑を受ける対象でもある。例えば、生態的価値を掲げて便利な製品の使用を拒みながらも、それによって増える労働を民主的に分けて担おうとする努力は足りない時、結局その仕事はいつもその仕事をしてきた女性や無理してせざるを得ない下級者の仕事になったりする。このような事例を何度か経験すると、コモンズに対する拒否感や疑惑も増加せざるを得ない。

しかし、現実におけるコモンズが、必ずしもそれが志向する価値をすべて具現するわけではない。果たして体制変革のためのコモンズなのか、それとも単なる共同体的な価値を掲げるだけなのかによって、その性格を区分してとらえる必要がある。コモンズが公的領域と私的領域、個人と共同体、自然と人間の間に存在する二分法を問題視するのは、体制を変化させるためだが、そのような志向の中にケア労働が特定の性別の人々に偏らないようにする方案が含まれているのか、さらに小さい単位の集合的生活を超え、現在ケアが行われている国際的分業構造に対しても問題意識を持っているのか、その如何によって体制変革の可能性には大きな差異が当然出てくる。国家と市場の変革ではない、共同体それ自体を目的にしていると、ボランティアとあまり変わらないケア労働を強要することもしばしば発生し、むしろ市場でケア労働の妥当な賃金を認めてもらった方がよいという反発だけを招くおそれがある。

ケアコモンズ論議においてジェンダー的観点が重要だということは、別途強調する必要がないが、脱植民的観点の必要性に対しては疑問を提起する人もいるだろう。ケアコモンズをグローバルな北半球の視野に限定して話すと、共同育児や高齢者ケアのための社会的協同組合、社会的企業、あるいはマウル(地域)共同体が運営するケア空間程度で想像力が止まる場合が多い。このようなオルタナティブなケアモデルも意味がないわけではないが、すでに私たちが知っており、経験してみたレベルでは、体制転換のモデルとしては弱く感じられ、懐疑を招いたりもする。そのようなところでケアを提供する主体が主に女性であるという事実まで加われば、希望どころか、敵対を生むこともできる。それゆえ、都市中産階層の生活やグローバルな北半球の視野を越え、資本主義的な方法の外側に存在してきた多様な共同の生活を見る必要がある。グローバルな南半球の諸地域はもちろんのこと、韓国内でも貧民の生存にケアのコモンズは非常に重要な役割を果たしてきていた。例えば、チョクパン村(貧民窟―訳者)の再開発の場合、原住民が定着し直すとしても、変わった住居形態及び空間配置の中で、以前のように共助する関係は不可能となり、共同の生活そのものが破壊されたりもする。このように現実世界にはすでに家族を越え、国家や市場に依存しない形で行われてきた多くのケアが存在しており、きちんと認めてもらえなかったこのようなケアがなかったら、おそらく世界がこれほども持続できなかっただろう。重要なのは、このようなケアを脆弱階層や貧困・低開発地域が生き残るために、やむを得ず行われてきたこととしてのみとらえるのではなく、ここから社会変革のための手がかりを発見することである。

都市の中産階層が想像する便利で安全な生活が、実際には帝国的生き方に近いという話はすでに提起したが、ケアが行われる単位を私の家族としてのみとらえると、またケアを通じて維持したい生活の品位を私の家族の地位と財産に限定すると、そのようなケアは決してオルタナティブな価値になれない。ケアが転換的な価値になるためには、新しい想像が必要である。家族とは何であり、血縁にはどのような価値があるのか、隣人とは誰なのか、良い休息あるいは私の体をよくケアするということはどういうことなのか、よく生き、よく死ぬというのはどういう意味なのか、人間という存在は自然と宇宙の中でどのような存在なのかなどについて、既存の西欧的な近代的思考から脱して考えてみる必要がある。ケアを可能にさせる新しい男性像の開発はもちろん、他の女性に労働を転嫁しないケア労働の再配置が求められており、そのためには地球的レベルで行われる分業の問題や人種主義問題、西欧的な生き方でなければすべて遅れたものとして取り扱いながら、弾圧し差別してきた歴史に対する具体的認識が伴われなければならない。そのような意味で脱成長社会は利潤ではなく、生活の維持や安寧が最も優先視される社会であり、COVID-19以後ケアが中心価値になる新しい社会に対する展望が本当に変革的であるためには、脱成長はもちろんのこと、脱植民を含めて交差性の視点を忘れないフェミニズムが求められる。

 

「最前線共同体」という意識

 

ケア労働における女性の偏り現象を打開し、ケアを行える時間的余裕を確保するということが、帝国的生き方を強化する方向へ行かないようにするためには、ケア問題が現体制の枠内では完全に解決することができない性格のものであることを認知しなければならない。さらに、ケア問題が気候危機を悪化させる植民主義や成長主義的資本主義のような一層大きな問題の一部であるという事実を認識することも緊要である。実際に、気候危機と感染病が持続される状況において、ケア労働者の負担が加重され、差別もひどくなったという現実がすでに指摘されている[14. キム・ヒョンミ「コロナ時代の『ジェンダー危機』と生態主義社会的再生産の未来」『ジェンダーと文化』13(2), 2020.12を参照。]。いまやケア労働者の現実を告発するところから一歩進んで、ケア労働者たちも気候危機がもたらす脅威の「最前線」におり、同時に体制転換のための「最前線共同体(frontline community)の一部であるという意識へと発展させる必要がある[15. Myrah Nerine Butt, Saleha Kamal Shah & Fareeha Ali Yahya, “Caregivers at the frontline of addressing the climate crisis,” Gender & Development 28(3), 2020, 478~98頁を参照。]。

気候危機と関連して最前線共同体という用語は、気候変化の結果を最も早く、最も深刻に経験する集団を意味する。ここには貧困層、有色人種、土着民、マイノリティ集団や気候変化が特に酷く影響を及ぼす地域の住民が含まれる。彼らの大半は、気候危機以前にもすでに不利益と差別に露出されてきたが、特に気候変化状況において、それに対応する資源をろくに持っていない集団である。気候危機の解決において最前線共同体の現実と観点を反映することが重要な理由は、まさにこれらが問題解決の主体になり得るという認識につながっている[16. Angel Santiago Fernandez-Bou at al., “3 challenges, 3 errors, and 3 solutions to integrate frontline communities in climate change policy and research,” Frontiers in Climate, 2021.9.6.を参照。]。最前線共同体は気候変化に最も脆弱に露出されている集団でもあるが、同時に言葉通りに気候変化の「最前線」で抵抗してきた集団でもある[17. Jaskiran Dhillon, “Introduction: Indigenous resurgence, decolonization, and movements for environmental justice,” Environment and Society 9(1), 2018, 1~5頁を参照。]。現在世界各地で行われている主要な環境正義闘争は、原住民によるものであり、すでに1990年代に形成された「原住民環境ネットワーク(Indigenous Environmental Network)」という名称の組織が、最近の「サンライズ運動(Sunrise Movement)」へとつながるところにみられるように、彼らはただの脆弱な集団ではなく、労働及び女性問題をはじめ、経済的正義イッシュを広く取り扱う新しい社会運動勢力として浮上している[18. Phoebe Dolan, “Inclusion of Frontline Communities in the Sunrise Movement,” Brandeis University,博士学位論文,2020.]。

最近韓国の気候危機対応運動においても、最前線共同体という用語を使い始めている。去る8月、炭素中立市民会議は政府の炭素中立委員会を批判しながら、名ばかりの市民参加の代わりに「最前線市民と領域の声」を聴くことを求めており[19. 炭素中立市民会議声明書「炭素中立市民会議、『市民参加』を装った非民主的論議を糾弾する」、2021.8.6。]、10月には気候正義行動参加者一同の名で「気候危機の最前線に立った私たちが代案だ、私たちが希望だ」という声明を発表した[20. 気候正義行動参加者一同「気候危機の最前線に立った私たちが代案だ、私たちが希望だ」、2021.10.14。]。気候正義行動参加者たちは「気候危機最前線の民衆と共同体は『脆弱階層』ではなく、変革の主体で」あり、青少年、青年、貧民、障害者、女性、労働者、農民等が気候危機時代にもっと大きな被害を被るようになるのは、「民衆の脆弱さではなく、体制が作り出した権利の剥奪と排除の結果なので」あり、「このような搾取と暴力」に立ち向かって戦う気候危機最前線の民衆と共同体は、気候危機を乗り越える変革の主体であることをすでに証明している」と宣言した。ここでも脆弱な存在であり、かつ闘争の主体であるという最前線共同体の二重の意味が表れるが、重要なのはその二つの側面が決して分離されないという事実である。もし脆弱さの性格や原因がきちんと共有されず、闘争の展望も見出せないのであれば、そして多様なやり方で立ち向かう主体が共に連帯する可能性が確保されなければ、脆弱さはただの脆弱さに止まざるを得ない。そのような点から、最前線共同体の場合にも、自分たちが立ち向かって戦っている脅威の内容がどのようなものであり、現在どのような種類の脆弱さに露出されているのか、しかしどのような方法で闘争しながら新しい可能性を切り拓いていくのかを積極的に規定し、意味を読み取ることによって、新しい連帯を切り拓いていくことが重要である。

これをケアの問題として拡張してみると、女性の再生産労働を非経済的な領域に規定しながら低く評価し、ケアを安い低賃金労働として搾取し、ケアの地球的連鎖効果を通じてグローバルな南半球にその負担を転嫁する体制が、自然を搾取し、費用を外注化して利潤を極大化しながら、気候危機を激化させる体制とあまり変わらないということが明らかになる[21. ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)「資本とケアの矛盾」『創作と批評』2017年春号を参照。]。現在の危機は、いわゆる生産的労働だけが労働であるととらえ、物質的にだけではなく、感情的な面においても社会を生産・維持・補修しながら、生態系をケアすることにおいて核心的だった再生産労働を低く評価してきた体制の結果である。今日ケア労働者が気候危機からもたらされた感染病の危機によって、いっそう悪化した状況に置かれているという点で、彼らの問題を脆弱性と闘争可能性とを同時に抱えている最前線共同体の観点からとらえる必要がある。最前線共同体という発想と実践が気候変化と関連して出現したのは事実だが、その概念が狭い意味の気候災難被害にのみ限定されるものではない。特に、COVID-19が気候危機と無関係ではないということを認めれば、3年目に入ったパンデミック状況で苦しんでいる医療及び教育労働者は、最前線共同体の一員であることは明らかである。このような観点を持つ時、公共医療の拡充と医療関係者の安全、感染病の中でも、しっかり学び、教えられる権利も新しい意味付与が可能となる。公共交通、住宅、教育、福祉など生活の領域において公共性を確保し、保障していくことは、利潤だけを追求する資本主義的体制においては簡単に達成できない課題であるため、このような闘争なしにケアの危機を解決することができると期待することは難い。

このような観点は、ケア問題の転換にも重要な示唆を与える。ケア労働者の現実が厳しいからといって、彼らの問題を脆弱性レベルだけでアプローチするのは望ましくなく、転換の目的がケアの空白を埋めるレベルにのみ限定されてはもっと困る。単にケア負担を軽減する方法を模索する程度でアプローチすると、地球的な不平等や環境正義をいっそう悪化させるおそれが大きい。COVID-19以後、私たちが経験しているケアの危機は、気候危機と無関係ではないばかりでなく、生活に対する根本的な認識の転換及びそれを通じて社会構造を変えようとする努力なしには解決することのできないことでもある。このような点からみると、ケアの現場で私と私の属している社会、さらに人間を越えた世界をケアしようと努力する人々は、すべて最前線共同体の一員ということができ、ケアの空白の中で受ける苦痛を克服するための実践は、すべて新しい世界のための闘争の最前線なのであろう。

 

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)