창작과 비평

[特集] ケアはどのように文学となるか / 宋鐘元

 

創作と批評 196号(2022年 夏)目次

 

特集 / 文明転換の世界感覚と文学

 

ケアはどのように文学となるか

 

 

宋鐘元(ソン・ジョンウォン)

文学評論家、ソウル芸術大学校文芸創作科教授。主な評論に「共同世界に向かった詩の冒険」、「生きている歴史とよい詩の言語:申東曄論」、「詩人と市民、どう出会うべきか」などがある。

 

 

今はケアの価値をケアすべきとき

 

ずっと以前から語られたものの、うまく捉えられなかったケアの価値が誰にでも鮮明に見えるように転換されたことには、全地球的パンデミックの影響がなくはない。だが、この経験がケアに対する正しい感覚と認識を形成したかは、また異なる問題である。相変わらずケアを患者や年寄りのための看護、養育と保護のような特定の「身体的ケア活動」に限って考える傾向が強い上に、ケアを私的な関係のなかで行われることとして縮小しながら、それが共同体に寄与できる公的価値の面貌が深く考慮されずにいるからである。資本主義に帰属された商品としてケアを思惟し、その価値を制限することで新たな体制転換を成し遂げる可能性を消去する問題がなお存在しているわけである。なので、ケアの価値に対する体感が高まったこの頃、われわれはよりよい世界のための社会的議論を促す媒介としてケアを活用する知恵を発揮すべきであるかも知れない。

ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)は「世話をすること(affection)と物質労働で構成され、しばしば賃金も支払われないこの労働は、社会的に必須不可欠である。この労働なしには文化も経済も政治構造も在りえない」[1. ナンシー・フレイザー、「資本とケアの矛盾」、『創作と批評』2017年春号、330頁。]と断言する。ケア労働を中心にして文化・経済・政治が再編されうるという意味であろうが、このことと関連してフレイザーは「普遍的ケア提供者モデル」を通じて社会を再構成する思考実験を提案して示したことがある。[2. この提案によると、すべての勤め口がケア提供者であると共に労働者である人々のための方式で考案され、それに従って生計扶養労働とケア労働との性別対立的設定を解体してジェンダー正義が増進される。また、このような解体は公的環境と私的環境の二分法を無くし、同等な社会参与を再考することにつながると予測される。ナンシー・フレイザー、『前進するフェミニズム』、イム・オクヒ訳、ドルベゲ、2017参照。]ケアの議題化に努めてきた白英瓊(ペク・ヨンギョン)もまた、「ケアを中心に人々の間の新しい関係を想像し、現在の社会再生産の危機を解決することにおいても緊要なる糸口が」[3. 白英瓊、「福祉とコモンズ」、『創作と批評』2017年秋号、24頁。]見い出せると主張する。最近、彼女は「ケア中心社会への転換」を再び強調しながら、「最前線共同体」という概念を通じて、気候危機の現場でケア労働を遂行する民衆が持った変革的主体としての面貌を確認してくれた。[4. 白英瓊、「ケアと脱植民は脱成長とどう出会うのか」、『創作と批評』2022年春号参照。]これを通じて見るに、ケアがわれわれにとって重要な理由は、それを媒介にしてこれまで見逃されてきた「社会的なこと」を多様に再発見して然るべき場に復元させながら、よりよい未来のための社会的秩序を想像し、遂行することが可能となるからであろう。

今の時代が当面した主な課題、不平等と気候危機の問題を考慮すると、ケアの価値はより一層明白となる。ケアの権利と責任は社会構成員の誰にでもあるわけであるが、現実でケアを提供する主体は特定の性別と階級に集中されている。ケア命令者とケア提供者、そしてケアを受ける者の席に誰がいるかを見てみると、韓国社会が抱えている構造的問題が確認される。さらに多様な生命存在を複雑な依存網、あるいは関係網のなかで見てみるケアの視線は、気候危機と関連してわれわれが自然生態とどのように関係を結んでいくべきか、有意味な糸口を提供するだろう。[5. ソ・ボギョンはジョアン・C.トロント(Joan C. Tronto)のケアに対する定義、「世界を維持し、持続し、直していくすべての活動」を引用しながら、この際ケアの対象にはわれわれの体と自我、環境がすべて包括されると説明する。そして「生/生命を維持する複雑な関係網を紡ぎ出し、その中で可能な限りまともに生きていこうとするすべての努力がケア」だと述べるが、これは自然生態に連関されたケア議論を繰り広げる際、参照に値する見解である。ソ・ボギョン、「急いで去らないならば:コロナ19とまだ到来していないケアの生命政治」、『文学と社会ハイフン』2020年秋号、39頁参照。]

 

互いにケアする人々の政治性

 

韓国の詩史においてケア議論を触発した現場は、意外なところにあった。新しい詩的傾向の出現とそれに関する批評的議論が活発に進行されていた2000年代の半ばへ戻ってみよう。いわゆる「未来派」論争として言われるこの談論の場で「ケア」が話頭となったことはないものの、当時、未来派詩人の代表格として言及されながら注目されていた一人の詩人の作品には、ケアの観点で捉えられる詩篇が少なくなかった。しかし、作品の持ったジェンダー的性格に無感であった批評は、惜しくもこのことを見逃した。

 

泣く子たちをあやすことはできないですよ。私は頭の中がだぶだぶ揺れ動くまで泣きます。子たちが私をなだめないと子たちが……子たちが……溺死するかも知れませんよ。

 

子たちは本当に怖気がないですよ。水のなかで歌うのよ。母さん……母さん……母さん……あのぱくぱくする口々を見てください。

 

表面に上ってきた水玉が相次いではじけていますよ。空気が棘のように刺すみたいだね。子たちがあまりにも長く水のなかで遊んでいますよ。

—金幸淑(キム・ヘンスク)、「泣く子」全文[6. 金幸淑、『思春期』、文学と知性社、2003。]

 

子の泣き声と母親の泣き声が取り違えられたような表現が一瞬見慣れなくやってくるが、子供ケアの現場を考慮すると、このような転倒はあまりに事実的な風景である。泣く子をあやしながら一緒に泣きたい母親、そのような母の感情とは無関係に歌のように「母さん……母さん……」を呼ぶ子の泣き声、そして時にはその混乱とした状況を一人で遊戯するような子の姿まで。「母性」と「愛」という言語の包装をそっと剝がすと、そこには子供ケアの実体が生々しく現れる。その現場で脆弱な存在は生存のために養育者のケアを必要とする子だけでなく、出産と育児という生涯周期を通過しながら自分の人生を完全に再編しなければならない養育者でもある。子の泣き声ほどそこで本当に「泣いている」人は母親であろう。特に養育が全的に女性に割り当てられたならば、一層そうである(この詩からしてあの養育者の場に男性はいないように見える)。だからあの母親の泣き声は思ったより複雑な社会的脈絡に置かれている。だが、当時の批評は「感覚」、「脱主体」、「幻想」、「難解」、「無意識」、「分裂症」などの用語で金幸淑の詩を分析しながら、詩が描き出している緊迫した社会的現場から離脱した。社会が女性の場を構造化する過程のなかで発生するいろんな不平等はもちろんのこと、ケアの主体として生まれ変わる行為に込められた苦闘と葛藤、あるいはそのような経験から触発された異なる人生に対する想像を、より深く踏み入って言語化する機会を逃したわけである。今になって顧みると、2000年代半ばに新たな詩的傾向に付けられた「難解性」という表紙が特定の経験に対する無知、あるいは看過から始められたことではないか、是非を問ってみる問題である。

批評の失策とは無関係に詩人たちの作業は続いたであろう。見慣れない生命と向かい合ってケア労働を遂行する過程のなかで、多様な感情の浮き沈みと考えを経験した女性詩人たちは、それに基づいて自分の人生を再感覚する作業を行っていったりもした。もちろんこれは母性神話の反復とは無関係なことであった。近来の作業を振り返ると、ハ・ぜヨンの『宇宙的なさようなら』(文学と知性社、2019)とアン・ミオクの近作詩[7. 「サウンドブック」という詩が代表的である。「次のページを開いて/ボタンを押すと歌が出ますよ//(…)//ただでは習えませんよ/見て習ってこそ可能です//私はたくさん見ていますよ」のようなくだりからわかるように、この詩は幼児用のサウンドブックを素材にして書かれた。このことと関連してはインタビュー「アン・ミオク×キム・ナヨン 愛を書いてから考えることになったことは」、キム・リユンのほか、『シーソー一番目』、子音と母音、2022参照。 ]の世界が事例として挙げられよう。ハ・ゼヨンの詩集が生命に対する観察を宇宙に対する想像へと拡張するなかで、生命の一つの極端である消滅に集中して宇宙を抒情化して探索する作業ならば、アン・ミオクの詩は未成熟の子から未知に対する感覚を新しく習っていきながら、人生を創造的に転換する想像を示し、子との生活のなかに宿られた新しい生成の瞬間を鋭敏に感覚する。彼女たちの成果を認めながらも、一方で「子」と「宇宙」との間に異なる詩的経路はもっとないのかという疑問もする。そのまた異なる経路は詩が向かい合った現実で取り合えず感知してみることができるようだ。

 

これまで離れ島のように存在していた母親たちは、そのように「われわれ」として生まれ変わりました。家の中に閉じ込められていた「家庭の天使」たちは家の外へ堂々と歩き出てこの社会の真ん中に立つことにしました。[8. 政治する母親たち、『政治する母親が勝つ』、考えの力、2018、8頁。]

 

「母親」たちが家の外へ歩き出た理由は、ケア提供者をケアできるシステムを要求し、設けるためであった。養育を始め、ケア労働の真っただ中にいる彼女らは、自分たちのためのケアが家族内で解決できる事案ではなく、社会全般の構造と認識が変わってこそ可能な問題だという点を悟って、政治的結社体を形成する場に集まった。ケアを遂行する間、人間の主体性を自律性・独立性ではなく、相互依存性・脆弱性中心で捉えられる視野の拡張があったからこそこのような行動もできたと思われる。[9. ケアの遂行が人間をして相互依存性と脆弱性を中心に眺めさせるという見解に関しては、エヴァ・フェダー・キテイ、『ケア:愛の労働』、キムヒガン・ナサンウォン訳、バクヨン社、2016を参照。]「政治する母親たち」の姿は、ケア労働の遂行過程がどのような社会的行為へと拡張されうるかを確認させてくれる。社会を変化させようとする自発的動きが現れる時、文学もこれに感応する姿を示すか。再び詩へ目を戻してみよう。

イ・グンファの最近の詩集『熱い息遣いで構成された未来』(創批、2021)には、女性としての生を鋭敏に意識して書かれた詩篇が少なくない。例えば、「君は君の生を変えなければならない」には子と家庭をケアしていた女性が、いざ自分自身はケアできずに病気にかかってベッドの上に横になった形象が描かれている。詩のタイトルは自分と同じ経験を繰り返すかもしれない、娘の場に立った者に話す文章のように読まれる。病気にかかって横になっている母親の姿は、この他にも詩集の所々に隠されている。時には地べたに横たわっている魚のイメージで(「タチウオ」)、時には倒れてけがをして横たわった姿で(「1918年」)母親が登場する。彼らはだいたいどこか疲労困憊の姿をしており、少しずつ毀損された格好である。原因は特に書かれていないものの、われわれは女性たちの過度なるケア労働と母親の病苦が無関係ではないと、十分推測できる。ここで注目されるところは、ケア提供者の席にいた者がケアを受ける席に移動してきたものの、当の人をケアする者の姿はうまく見えないということである。

だからといって、詩集全体がケアをめぐった陰鬱な形象だけを描いているわけではない。同僚の女性の病苦を聞いて苦しい心を記録した「水玉のように」には、「明朗であること、待つことに疲れないこと」という固い誓いが書かれているし、平凡な人たちの生が祈願する、単純で透明な未来の夢が生々しく現れたりもする。[10. 未来のために十分裁断をしておく洗濯屋のおじさんの姿を描いたり(「縫い込みをする、という洗濯屋のおじさんの言葉を考えてみる」)、店の商号に込められた希望の意味を吟味してみる叙述(「白光や巨星、このような店の名をつぶやいてみる」)がそうである。]

そして、次のような詩がある。

 

トイレの底であった

幼くて小さい鳥一羽

しきりにばたついていた

生きようとするのか

死のうとするのか

わからなかった

急いで蛇口を回した

水を流している私の手は

生のためなのか

死のためなのか

わからなかった

鳥は流されずに

私の足元でこなごなになった

透明な鳴き声がひりついた

洗い出しても手は赤かった

木の枝一つ掴めなかった

突拍子もない惨たらしい方向へ

水は流れていった

生きてあるいは死んで

緑の指になって

揺れる苔となって

生きた鳥がのたくり

死んだ鳥が呟いた

大丈夫、急いで行って

止まらない声で

体を変えた

生臭いにおいがして

たちの悪いひもじさが寄ってきた

隠れたわが顔が私にやってくる時

生あるいは死の方向へ

幼くて小さい鳥がしきりにばたついていた

終わらない底であった

止まない鳴き声であった

—「生きた鳥死んだ鳥」全文

 

トイレの底でしきりにばたついている幼い鳥のイメージから、われわれはある生命の危急さ、あるいは危険を見る。「赤いものがひっついた手」を見る際、あの幼い鳥は女性(労働者)の過労と、それによる不吉な病勢を暗示するかのようで、「鳥」は「生」の毀損された表紙としても読まれる。「横になっている母親」の生が若い女性(労働者)に遺伝されたのか。ところが、詩が半ばを過ぎて異なる次元の想像へとにじんでいくとき、われわれはこの詩の場に徐々に現実のある悲劇が進入しているということがわかる。2016年江南駅10番出口で起こった女性嫌悪殺人事件の現場と、この詩で描かれた一つの生命が血を流すトイレが重なるわけである。「突拍子もない惨たらしい方向」という表現には、詩がその現場を呼び戻してもいいのかためらう詩人の意識がちらりと写されるようでもある。だが、生動する現実が介入する瞬間、詩は自分の場を開放する。女性嫌悪が醸し出した不当な死と、それに伴った事件がもう詩の主人となって語られる。

この語りを、止むことなく哀悼する文学の声として意味化することもできる。世越号から始まって相変わらず頻繁な産業災害事件まで、社会的惨事と呼べそうなことが止まない韓国社会で、哀悼する文学の姿は見慣れなくない。ところで、この詩で最も特別な声、「大丈夫、急いで行って」は哀悼として限れないところがある。文脈上、死んだ鳥の鳴き声のように見えるが、「声が体を変え」「隠れたわが顔が私にやって」くるという表現は、あの発話が誰かの私的所有物ではなく、「誰」らの「共同のもの」だという暗示を与える。江南駅の悲劇以後繰り広げられた一連の流れ、つまり共同のこととして成された「自発的語り」の過程の目撃もまた、あの発話が作られることに力を加えたであろう。その哀悼の場に登場した「助けてください、生き残った」というメモ[11. 江南駅殺人事件を追慕するところに貼られたポストイットのひとつのくだりである。「2618件の江南駅追慕メモ、みんなに共有します」、ニュースラビット、2016.6.16参照。]は、事件をめぐって生産される声が個別者のものだというより、集合的主体のものに近いということを象徴的に示す。(訳注:「助けてください、生き残った」の韓国語原文には同音異義語として「助けてください」には女、「生き残った」には男の発音がそれぞれ当てられている。) なので、「急いで行って」という表現において省略されたところは、ただ被害者や生存者の場ではないはずだし、悲しみと恐怖を超えたどこかであろう。われわれはそこが互いのケアを通じて社会的主体として生まれ変わって、孤立を超えて拡張された世界に生きる主人の場だと推し量れる。だとしたら、「止まない鳴き声」という表現も両義的である。これは哀悼に終わりはないという言葉でありながら、「前へ前進する鳴き声」という意味も共に持っている。言い換えると、この詩は哀悼の歌であると共に、壊された世界を回復させようと努める者たちの「熱い息遣いで構成された」闘争の歌である。このことに基づいて最近、韓国の詩壇に女性たちの政治的連帯と、それを通じて基盤を新たに固める力がくっきりと現れていると言ったら大げさなのか。もう一つの詩集、朴笑蘭(パク・ソラン)の『一人の閉ざされたドア』(創批、2019)を見てみよう。

 

コップは静かに知らせてくれた 私を訪ねてきた誰か

空いた食卓の前にしばらくの間座って行ったと

語れない内情をなだめるように水を注いで一口飲んでから行ったと

 

どういうわけか、私は

それがわかるようで

焦がれる表情がしぐさが推し量れるようで

 

まことに不思議なこと

 

もう一回は訪ねてくるだろう

あの誰か

わけもなく待つ人の心となって

 

沸く席に横になって

水を考えるといった青白い唇がにじんだ水を、

せいぜい水を

一口飲む

 

誰か

誰か

誰か

 

我が家に来た

まだ帰っていけずいつの間にか昏々と寝入った

—「水を飲む」部分

 

詩における、その前のくだりは「長い夜を歩いて家へ戻って」きては、誰かの痕跡を感じながら、水が半分くらい減ったコップを眺める場面である。私が留守だった間、食卓に置いておいたコップの水が半分減った。おそらくそれは自然な蒸発現象であろうだが、話者は誰かが自分の家に立ち寄り、のどが渇いた彼が水を飲んだという想像に陥る。それから「まことに不思議なこと」という言葉を加えて夢中になる。自分の想像がどうしてこのように自然に展開されたのか、他人と他人の渇きがどうしてこのように具体的に思い浮かべられるか考え直させられる。詩人はその訳を特に書かない。その代わり他人に対するもう一回の待ちと話者の沸き返る心情を描くのみである。

誰かはあの待ちと沸き返る心情から深い寂しさ、あるいは孤独を読み取ることもできよう。詩集の解説を書いたジャン・イジは、この詩集における一つの軸としてワンルームで暮らす青春のイメージを導き出す。「2000年代以後を代表するこの社会学的な空間が「私」を支配する。その狭い空間で暮らすということは、「私」のすべてを雄弁に示してくれる」[12. ジャン・イジ解説、「まさにそこ、ドアがあるということだけでも」、『一人の閉ざされたドア』、160頁。]と説明しながら、狭い空間で自分の他者性に夢中になり、それを隠ぺいする二重的主体性を読み取る。朴笑蘭の詩が生成される具体的生の空間を指し示したことには同意するが、ここで「私」の階級的でジェンダー的な次元を漏れなく捉えているかは疑問である。この詩に描かれたワンルームを社会学的に理解するならば、「正常家族」に合流しない一人暮らしの女性の居住空間に対する説明があって然るべきだし、詩集の話者がワンルームで暮らしながらどのような安定、または恐怖を感じるのか、その二重的状況を解明するためには、話者の内面に込められた他者性ほど、ワンルームをめぐった世界に影を落とすある暴力に対して語ることが必要であろう。

しかし、詩集にはその暴力がどこから起因するか、表面化されてはいない。その代わりそれは「機微」としてある。この特性は詩集に影を落とすある暴力の感覚を弱めるわけではなく、むしろ妙な実感を与える。その機微は「モデルハウス」や「電気寝床」におけるように、華麗なる家と家具を所有しない人のそばを回る何かとして顕現したり、「この固い」や「明日」の投げられた「石」あるいは「煉瓦」のように周りの隣や親密であった相手が起こした横暴の痕跡として捉えられたりもする。

なので、「水を飲む」において自分の家を予告もなしに密かに立ち寄った誰かを心深く理解し、さらには彼を待つことまでする、解放された心の状態は話者自らにとっても「まことに不思議なこと」に他ならない。ところで、この詩集にはこのようなまことに不思議なことがしばしば起こる。例えば、「互いが互いの手をつなぐ/つないでから離す//そうしていると/ドアはすうっと開かれたりするのである、やむを得ないかのように/握力を緩めたりするのである」(「取っ手」)と、誰かの手をつないでドアを開ける場面を描く際や、「誰かしきりに/手をつなぐのよ、ぎゅっと握って離してくれないよ」(「誰かしきりに」)と、その手が自分のひもじさと悲しみまで収めていくと告白するときのように。

この詩集で頻出される単語は「誰か」と「あなた」である。詩人は「あなたは誰ですか」という質問を一つの軸にして詩集を構築した。[13. 実際に『一人の閉ざされたドア』には「誰か」を描いたり、「(あなたは)誰なのか」を問うかのように見える詩がたくさん登場する。]「誰か」は時に正体不明の状態で恐怖を醸し出す存在でもあるが、「あなた」の方へ傾いた「誰か」は手を差し出して私の生をワンルームという狭い私的空間から救出する不特定多数のイメージをも孕んでいる。見知らない誰かと手をつなぐことは、広場で成されることが多い。世越号とキャンドル革命、そして女性たちが手をつないで共同の生をケアしていた記憶が、「誰か」に向かった呼び出しをただの一回に留まらないように、この詩集全体を通じて数回に渡って優しくねんごろに分けて行わせたかも知れない。そして、他人という場を設けることに極度に慎重であった朴笑蘭の詩にもその間「誰か」の親密さが少しずつ刻み込まれているようだ。

イ・グンファと朴笑蘭の詩集は、再現の倫理を挙げながら誰かの姿を代わりに描くことから一歩下がっていた文学が、もう誰かの声を共に出すことに慎重に参加する姿へと変わっていくことを感知させる。このことは再現の単位が独立された人物や対象ではなく、「共にいること」の状態に変化しているのではないかを問い直させる。

 

「エコロジー文法」を書き取ること

 

ラテン語でケア(cūra)という言葉には、「自然と共に生を生産することという意味が含まれている」[14. チェ・ヒョジョン、「誰がこの世界をケアするのか」、『今日の文芸批評』2020年冬号、49頁。]と言う。あえて語源を挙げなくても今日、生態とケアの問題を分離して考えることは難しい。文学においても自然は背景であれ対象であれ、常に離そうとしても離せないものであったが、特に自然生態を取り扱う問題が特に注目されていた時期があったところ、これは21世紀になる直前のことであり、21世紀の敷居のところで「生態詩」に対する関心は急に消滅した。

キム・スイは現実の矛盾と傷跡を消去した「自然のマトリックス」という表現を通じて、自然を美学化する90年代の詩的傾向が陥った問題点を捉えた。「美学的に縮小され再構成された自然と、その中で幸せを感じる詩人たちの心理的で恣意的な現実」[15. キム・スイ、「自然のマトリックスに引きこもった抒情詩」、『抒情は進化する』、創批、2006、18頁。]の領土は、思ったより狭くて息苦しかった。詩の中で詩的主体(人間)と対象(自然)との幸せな同一性が構成され、葛藤と亀裂がないという診断は特に注目に値するところである。それに付け加えられた「熾烈な質問は無くなり、安定した答えはすでに設けられている形勢」[16. キム・スイ、上掲書、22頁。 ]という表現は、妙にも2020年代の韓国文学が症状のように患っている「政治的正しさ」の問題を連想させたりもする。

過去をバランスよく捉え直すためには、キム・スイの鋭い診断と共に、羅喜徳(ナ・ヒドク)の寛大な評価も見てみなければならないだろう。羅喜徳は「詩に「自然」が呼び出されるのは、浪漫的同一化の欲望よりは文明的生を克服しようとする本能や意志と深く関わっている」と診断する。釣り合いの取れた現実が不在であるとき、「詩はそのような欠乏を「記憶」と「自然」を通じて、「逆像」としてながら照ら」し、そのような迂回路を通して抒情詩の領域が厚くなり、多様となる最中だということである。[17. 羅喜徳、「記憶と自然、その地層のなかへ」、『創作と批評』2005年夏号、36頁。]

両方の診断は互いに対立しているように見えるが、韓国の詩が自然をどう「文化化」していたかに対する分析だという点では共通している。ただこのような観点では自然生態の言語が対象化されやすいし、その分その言語の特異性が捉えられにくい。自然に「対して」、あるいは自然を「通じて」語るのではなく、自然生態が自ら発信する言語をより深く苦悶する方法が、詩においても、そして批評の領域においても必要であったのではなかろうか。

 

気候変化を考えるためには、生態的に考えるべきであり、生態的に考えようとすると、われわれは自分がより広い自然世界に含まれている方式と共に、非人間事物が独自的な能力と効き目を備えている方式をも考えるべきである。[18. レヴィ R. ブライアント、『存在の地図』、キム・ヒョジン訳、ガルムリ、2020、21~22頁。]

 

人類世時代の全地球的パンデミックを経験しながら、自然生態をよりケアしなければならない状況に置かれたわれわれにとって、ブライアント(L. R. Bryant)が提示した「存在の地図学」[19. 「存在者たちの間における関係や相互作用の地図と、これらの関係が存在者たちの動きとなることを構築する方式の地図」を意味する(上掲書、27頁)。ブライアントは「非人間存在者」たちと人間存在者たちをすべて機械として見なし、これらの相互作用がどのような事件を形成し、呼びつけるかを解明する。]という概念は相当な暗示を与えてくれる。「非人間事物が備えた独自的な能力と効き目」というくだりは、自然がわれわれにとって何かではなく、自然にとってわれわれは何かを問うべきだと述べながら、「自然と連結された新しい文明」を創造し、その中でわれわれの責任をどう分配し組織すべきかに関する特別な視野を確保してくれる。難解で抽象的な話のようだが、必ずしもそうでもない。われわれのそばにはすでにより広い自然世界に入って暮らしながら、自然の言語を鋭敏に聴き、自然と同一な位相で協力しながら生きてきた存在たちがいる。例えば、農事は天と地が行い、農夫は手伝うだけという言葉もあったのではないか。この際、農夫の手伝いは単に微弱な力を加えるという次元というより、時には下がり、時には諦めることが分かる、繊細な相互作用を行っていくと意味であろう。

チェ・ジョンはそれほど知られた詩人ではない。初詩集の『私の血は不純である』(ウリグル、2008)は、大都市で彷徨った青春の記録であり、初年生賃金労働者の生を描いている。二番目の詩集『山里恋歌』(リトピア、2015)からは生活の基盤を変えて、農作しながら生きていく労働の日常を詩で描き出す途中である。ここで見てみようとするものは、彼女の三つ目の詩集『青い石畑』(ハンティゼ、2019)である。誰かは山里に入って詩を書く人生を浪漫的陶酔のように見るかも知れないが、それは事実、想像のなかでやっと可能なことだ。自然と農村は逃避先ではなく、新たな生の方式のために体を変え、意識までをも掘り返さなければならない激しい訓練場である。「腰が曲がるほど働くほど/指の節だけ太くなるおかしい職業」(「山里農夫」)という表現のように、自然と全身で向かい合う労働は骨っ節を変えなければならないほど大変だ。ところが、その一方で農作は生態の文法を習い、それの価値を経験する過程、生命と密着してそれをケアし、育てることでもある。

 

一皮

脱皮するに

山里暮らし五年がかかった

 

むずむずしていた蝉の背が

脱皮するとすっきりして

初の鳴き声が自ずと出ると思っていた

 

その背が痛いとはこれまで知らなかった

—「蝉の背」全文

 

『青い石畑』には詩人が五年間脱ごうと努めたという「抜け殻」の内容が所々に描かれる。「食べて生きようと/この地に流した抜け殻」(「石塔」)、「空気の抜けたタイヤ」のなかのような自分を騙して、おおまかに目を閉じたまま生を運行しながら生きていたこと(「怖くないの」)、「谷間に巣篭って生きる数多くの生命」を知らなかった頃、工事に明け暮れる「油圧ショベルのショベル」と変わらなかったはずの自分の生(「始農祭」)などがそれである。ところが、脱皮してからやってきたものは新生の生ではなく、見慣れない苦痛である。農作する人の背は真夏の、すべての生命が動きもできないほどの爆炎を耐えなければならない背であり(「長い昼間」)、彼の肉体は大変な干ばつが続いても、「今年の農作はかなり大変だ」と書く代わりに、「槿の花が咲きました」と書きながら自分の背後で少しでも動いているはずの希望の機微を離さないようと緊張しなければならない(「槿の花が咲きました」)。容易く適応しにくい自然の力の前で、初歩の農夫である詩人が苦労する間、幸いにも詩の背には力が付いて、彼が詩的な瞬間を持ち上げる節々も増えていく。大都市で生存のために疾走していた間感知できなかったこと、つまり自然の運行と声に少しずつ目覚めながら詩人は「生態文盲」から次第に脱することになる。

 

雨が降って畑を耕すことが遅れると

ジャガイモの種子にはにょきにょきと芽が出てきて

早く植えておくれと喚きたてている

 

ツツジが咲く頃、植えてという

お年寄りたちの言葉が思い出され、気が急く

 

手足がちくちく痛むことも知れず

芽が折れとも折れなくとも

雨が降らないうちに全部植えると騒いでいる

 

その間、黒ジョウビタキは初の卵を産んだ

 

まる三日間ジャガイモだけ植えていて

爪についた地の垢となって部屋の床に寝てしまった

 

とても遅れてしまった桜が咲こうとするのか

つぼみははち切れそうにふくれている

—「ジャガイモ植えること」全文

 

話者が急ぐ心で騒ぐように行う耕作の姿には、どこか頼もしくないところがある。話者の耕作行為にはある慌ただしさに取りつかれた人の姿のみが見えるだけで、確定と予測ができない自然の運行に対する感覚がない。その反面、「ツツジが咲く頃、植えてという」「お年寄りたち」の言葉はどうか。これには長い経験に基づいた直観と、可変的な状況に柔軟に対応するある感覚が載せられている。正確な測定が曖昧な自然の速度と変化に開かれている、少しは遅くとも余裕の漂う感覚のことである。このことを概念的用語で表現すると、「土着知識」と言える。それは特定の環境や地域に居住しながら、長い間経験によって体得した知識体系を意味する。地元産の種が生物多様性を維持させてくれるように、土着知識は文化多様性を維持させてくれるし、生態系の循環と関わる有用な知恵を保存する。[20. 土着知識と地元産の種に関する内容は、ゾ・ヒョゼ、『沈黙の犯罪 エコサイド』、創批、2022、230~38頁参照。]また、土着知識は当の地域の人々のネットワークを通じて維持される。ネットワークはその中においての絶え間ない相互作用を促すと同時に、そのような作動としてネットワークそのものを維持していく機能をするという点で、共同体性を持続させることにも大きな役割を果たす。言い換えると、このネットワークのなかには地域の生と隣[21. 韓国の詩壇において土着知識と関わるネットワークの中の「隣」の形象をうまく描き出す代表的な詩人はキム・ヘジャである。彼女の最近の散文集である『偉大なることが過ぎていっています』(ハンティゼ、2022)もまた、同じ性格の作業物であり、興味深くにこの本の副題は「地と隣、詩の物語」でもある。]が共にいる。チェ・ジョンが農作しながら書いていく詩は、あの土着知識に内在した生態感覚と無関係ではなかろう。

何よりこの詩の白眉は、詩の運行に急に入り込んで卵を産んだ黒ジョウビタキの形象である。人間が騒ぐように労働をしていた間、自然も自分の仕事を憮然と遂行していた。[22. 崔元植(チェ・ウォンシク)は「ジャガイモの芽」を取り上げながらチェ・ジョンの詩創作を「人間の労働が自然の労働の前で謙虚となる最高の瞬間を「書き取る」「敬虔な詩作業」と表現したりもした。『青い石畑』の裏表紙における推薦のことばを参照。]詩で黒ジョウビタキの姿が独立した聯として処理されたように、自然のことは人間から独立されている。それに黒ジョウビタキの産卵から開花直前の桜の形象まで描いた詩の後半部の展開を見てみると、人間もまた自然と分離されている。この際、産卵と開花は話者の労働と直接的な関連があるわけではないが、またそれが全く無関係な事態だとも言い難い。人工の道と自然の道が緩く連動中であるこの形象は、どちらとも言えない状態でわれわれに妙な刺激を与えてくれる。この連結性は人間が非人間の領域である自然と関係を結ぶ過程で、鋭敏に覚めているべきある感覚の具体的な面貌のようにも読めるし、生命をケアすることを遂行する者が長い経験のなかで自ら見出すことになる「生命感受性」の発現のようにも見える。

この詩でまたわれわれが注目すべき対象は、戦争のような労働を行ってからの詩人の肉体である。土色に染まって部屋の床に寝ている詩人の体は、この詩がわれわれに伝える感覚がほかならぬ土に触る労働の中から始められたという事実を明白に知らせてくれる。当たり前にも生態的感覚を習い、それを体化するために皆が自然に戻って農作をするわけにはいかない。だが、消滅されていく農村と共に農作しながら生きる生を描く文学をケアし、保存することはわれわれの責任と無関係ではありえない。それがまさに気候危機時代においてわれわれに特別な知恵と感覚となるはずの土着知識と生態リテラシーを受け継ぐこととも違わないからである。[23. そうしてみると、90年代末、「農業博物館」を素材とした李文宰(イ・ムンゼ)の詩篇は、その意図と無関係に生きている農村の現場を博物館の場に移しておくことによって、ある落胆をあまりに早くしてしまったのではないかという物足りなさもする。]先述したブライアントが存在者たちの相互作用を論じながら、物語やテクストのように談論的なものもまた、公平で持続可能な生態を生産するための行為主体素のなかの一つだと説明するという点を見てみてもよかろう。[24. レヴィ R. ブライアント、前掲書8章を参照。]興味深くに農夫―詩人のチェ・ジョンの詩でもあのケアの形態が見いだされる。

 

少しずつ割れている

 

ジャガイモの種子を植えてかぶせてやった土が

か細く震える

 

土を押し上げようと

努めて

 

三四日間

 

土の割れ目から

黄色みがかかっている顔

かろうじて突き出してする言葉

 

辛うじて生きていく

 

重いお言葉

おそれ多くも書き取った

 

強い日差しの下

ジャガイモの芽は半日ぶりに青みがかってくる

 

深緑の葉として膨れ上がる

—「ジャガイモの芽」全文

 

「権正生(グォン・ジョンセン)先生の文章」という引用表記が付けられた「辛うじて生きていく」は、児童文学者の権正生先生と農夫詩人の全遇翊(ジョン・ウイク)先生の対話のなかで登場する言葉である。乾いた地で生き抜く松に対する話を全遇翊先生が切り出すと、権正生先生はよく生きることはもしかしたらその松のように、そう辛うじて生きていくことだと言ったという逸話がある。詩人は生命の躍動を観察した自分の経験の上に、自然に頼って人間が志向すべき生の態度を見て取った前の世代の声を重ねておきながら、自然の声を「書き取った」。だから、ここには二つの書き取りがあるわけだ。エコロジーの価値を見て取って、その中から何かを見い出そうと努めた前の世代の声を書き取ったこと、そして、自然、あるいは地が言う言葉を細密な観察で書き取ったこと。この両方ともわが社会のなかに「辛うじて」生き残っている声を記録するという点で変わらない。それと共に、その声らが気候危機の時代に自然生態系をケアする知恵を求める過程で、われわれが共有の領域へと広げていくべき指針である点でも類似である。

「辛うじて生きていく」という言葉の響きは、自分の権利を自分だけの絶対的なこととして主張しないで、共存のなかで醸し出そうとする賢い生命の感覚のように聞こえる。また、あの言葉を重く書き取る姿からは、自然の権利を素直に認め、ケアする人間の感性が感知できる。このことは地球生態系を成すすべての主体の権利を保障し尊重する「地球法」の理念を思い浮かべさせてもいる。チェ・ジョンの書き取りは、今だわが社会に明白に居座れなかった自然生態の言語を種のように蒔いて、われわれに「エコロジー文法」と「生態的リテラシー」を共有することと期待される。そのためか、詩人が「草と土に/税金」を払うという言葉(「山里農夫」)や、自分の書いた詩をもって「前の山に訊いて/裏山に確認」してもらうという表現(「三時三食」)は、単なる比喩に留まるのではなく、自然と疎通する実践的方法のようにも聞こえる。

 

ケアすることと文学すること

 

骨を折り搾取されたわれわれの母親たちのためにみんな共に黙祷します。[25. 政治する母親たち、前掲書、50頁。]

 

生きているすべての人が今だ生まれていない子一人ずつを肩車にして、人類世を渡るという心構えを持つべきである。[26. ゾ・ヒョゼ、前掲書、317頁。]

 

「政治する母親たち」の創立総会は、上の一つ目の引用のように黙祷で始まったという。民衆儀礼の形式を専有するあの黙祷のなかで「政治する母親たち」において「母親」の場は歴史の地平に新しい関係網を切り開く。生きている生命が自分の周辺と関係的地平を生成する具体的行為がケアだとすれば、ケアを政治化するあの母親たちの黙祷には生と死の区分を無くすことによって、「生きていること」の地平をもう一度切り開く力、さらに「真に生きていること」は何なのかを問わせる力が内在している。当然、この質問は社会領域の枠に閉じ込められていては答えを見い出しにくいし、共同領域を再構成することと触れ合っている。彼らが「私たち会いましょう」という言葉に情動的に接続し、出会いに共に参加した理由もそのためなのであろう。さらにあの「ケア」の場に「文学」を入れても表現はそれほど違わない。

ゾ・ヒョゼは人類世に似合う「地質学的時間観念」を強調しながら、生態危機をケアするための善意の行動が即刻的に望む結果を出さなくても、それを根気強く持続する姿勢が必要だと言いながら、引用文のように詩的な表現を提示する。否、あれは詩的表現ではなく、人類世の時代に韓国の詩が志向すべき一つの方向として読んでもいいのではないか。もう韓国文学で作品の深さと価値はその志向と決して無関係な問題ではなかろう。

 

 

(翻訳=辛承模)