창작과 비평

[寸評] 金東椿の『試験能力主義』 / 郭泳信

 

創作と批評 197号(2022年 秋)目次

 

寸評

 

金東椿 『試験能力主義』、創批、2022

韓国における能力主義言説の進化のための総論

 

 

郭泳信(カク・ヨンシン):
世明(セミョン)大学ジャーナリズム研究所の研究員

 

 

韓国社会において、能力主義言説が進化しているという事実は非常に喜ばしいことである。英米圏では、1958年にマイクル・ヨンの『能力主義』(韓国語版イメジン、2020)が出版されて以来、能力主義への批判言説は絶えず論じられてきたが、韓国においては、数年前まで能力主義という言葉は一部の批判的な知識人の間でだけ論じられた概念であった。しかし、マイクル・サンダルの『公平であるという錯覚』(韓国版ワイズベリー、2020)(日本語版『実力も運のうち 能力主義は正義か』/原題『The Tyranny of Merit:What's Become of the Common Good?』)が話題を呼んで以来、メディアや大衆の間でも能力主義という言葉が普遍的な用語となった。これまで、能力主義に関しての議論は、いったい能力主義とは何か、この概念がどのように韓国社会の集合的無意識として根付き、既得権層の支配論理を支えてきたのか、教育・労働・政治などの各分野において具体的にどう適用され、発現しているのかなどを説明することに重点が置かれてきた。聖公会(ソンゴンフェ)大学の金東椿(キム・ドンチュン)教授の『試験能力主義』は、「韓国型能力主義」の問題を総体的に盛り込んだ分析モデルを作り出し、その代案を模索するところにまで進んでいるという点で、能力主義言説の進化と言えよう。

韓国特有の能力主義と言える「試験能力主義」は、「順位付けの試験」を学力や能力が正確に評価できる最も客観的な指標として見ている(23頁)。このような思考による韓国社会の中の公正(正義)感は次のように図式化できよう。「名門大学の試験合格=高学歴 →能力 →社会的地位、差別化された報酬 →公正(=正義)」 これによると、韓国社会において、「試験」は単なる教育の領域での評価と選抜の機能を果たすだけでなく、物質と地位の配分、権力の再生産の核心的手段となっており、さらには現在の社会構造を正義のある公正なものに見えるよう支える力となっている。そのため、韓国の高校生の8割が学校を学びの場や人との交流の場ではなく、社会経済的な資源を奪い合う「戦場」として受け止めているという事実が、我々の教育現場の本質を正確に見抜いていると言え、それゆえに一層心苦しい。

この本の中で、著者は試験能力主義が支配的に作動せざる得ない社会構造的な力の作用を把握するにおいて有用なモデルを考案している。限られた「よい地位」とその地位に与えられた特権や独占は、人々に上昇願望を持つよう引き寄せる力となり、中下層の「低い地位」で経験する職場や日常での差別と苦痛は、そこから抜け出すよう押し上げる力となっている。そして、この二つの力が同時に作用する空間が、試験、即ち選別過程の通路であり、この通路での 「ボトルネック」現象によって発生する巨大な力がまさに韓国社会の試験地獄を作り出したと言えよう。この通路が狭かったり、もしくは一本しかない場合、二つの力の圧力によって空間は破裂してしまうことになるが、それが青少年の自殺や暴力、学歴による差別と嫌悪などの病理現象として現れているというのだ。

この指摘は、今日の韓国社会の現実にぴったりと当てはまっているように思われる。韓国の現大統領を見ると、本当に指導者として信頼できるような人格であり、大統領としての力量とビジョンを持ち得ているかという体系的な検証は省略されたまま、「ソウル大学の法学部」で「司法試験出身」という試験能力主義の「特権札」によって、全能のパワーを持つ検察組織の中で莫大な特権と地位の独占を満喫し、それを基盤に最高権力までも手にしている。その一方で、造船所のある下請け労働者は理不尽に削減された賃金を元に戻してほしいと訴えながら、1立方メートルの「鉄製監獄」に一か月余り自らを閉じ込めたまま抗議を続けたが、結局望みは叶わず、むしろ天文学的な損害賠償金を要求された。この両者の違い、即ち、勝者への過剰な補償と敗者への過剰な処罰を教えることが試験能力主義であるのなら、いったい誰がそれに屈服しないだろうか。

そのためであろうか。既に既得権益者のアイデンティティーを持ち合わせている名門大生たちは「仁川国際空港公社の非正規職労働者の正規職への転換」のように試験による資格を備えていない人々や「チョ・グク事態」のようにある種の変則を使った人々が自分たちの群れに侵入しようとするような手続き上の不公正には激しく拒否感を示すが、権力者と大企業が結託して犯す不正腐敗や非正規職労働者への構造的差別などのような巨大な不公正と非正義には沈黙しがちである。勿論、このような現象もほとんどが社会的圧力によるものであり、一部の支配メディアが描き出した姿でもあるが、このような現象に大衆はより一層試験と競争に執着し、没頭せざるを得ないため、支配体制と権力もこれを通じ、より容易く大衆を掌握し、彼らの服従を引き出すことができるのである。

ならば、試験能力主義をどのように克服すべきだろうか。著者は本の冒頭で提示した巨大な力の作用モデルへと話を戻す。つまり、高い地位が引き寄せる力と低い地位が押し上げる力を適切に調整し、それらが出会う通路を広げるか、増やすかするのだ。そのためには、まず、医者・弁護士・高官などの規模を拡大し、権力と富を同時に獲得できるような機会を遮断するなど、専門職の特権と独占を解消することだ。そうすれば、それらに対する熱望と競争を鎮めることができよう。そして次に、公正な競争の確立を通じて労働者の低賃金、雇用不安、労働災害の危険などを解消し、さらには労働者の熟練度にともなう経済的補償が得られるシステムを設ければ、劣悪な労働環境から脱出しようと、もがくこともないだろう。最後に、通路の「ボトルネック」問題を解決するためには、大学の序列を緩和させ、多くの名門大を作るための改革作業が求められる。即ち、ソウル・首都圏の大学の学部の定員を減らし、地域を拠点とする国立大学をソウルの上位大学レベルの研究中心大学へと発展させ、非首都圏の私立大学の一部を自律化させ大学の水平的な多様化体制を作り出す必要があるのだ。

結果的に、著者が強調していることは、能力主義が適用できる領域とそうでない領域を見極め、多元化すべきだということだ。企業と経済活動においては実績に対する応分の報酬、即ち能力主義の原則を適用しながらも、その際に社会的な合意と連帯を通じて成果と努力に対する差別的な待遇が過剰に拡大しないよう調整しなければならない。そして、政治や法をはじめとするその他の社会的な場においては、公正と効率を強調する能力主義の原則をそのまま適用するよりは、正義と公平性の原則を優先的に適用する必要があろう。勿論、このような企画を実際に実現させるためには、社会的慣性と既得権層の抵抗に勝てるような強力な政治的な意志と連帯が必要であり、予想される反作用までも見極める繊細な細部計画が求められる。

この本の美徳は韓国の試験能力主義と教育問題を労働·階級·政治·文化など、全体の「社会」問題と結びつけ支配秩序と補償体系の構造的な不平等という観点から総体的な分析を行っている点だ。ただ、やや物足りないと感じるところは、全体を見ているため、一つの領域に対する細密な代案の提示が足りなかったという点である。著者が特に強調しようとした一つか二つの領域だけでも、より具体的な実現方法を提示したならば、一層有意義だったと思われる。実際、一冊の本に全てを盛り込むことを期待するのは不可能なことであり、そのためには、後続の研究者たちが各分野において、さらに違った観点からの多くの本を書くため悩み、議論しなければならないであろう。この本は、次の段階へと進むための全体的な方向性と下書きを示しているという点で韓国の能力主義の克服のための言説の総論として不足はないと思われる。

 

 

訳:辛承模