창작과 비평

[卷頭言] 民生という言葉の真意 / 宋鍾元

 

創作と批評 197号(2022年 秋)目次

 

民生という言葉の真意

 

 

宋鍾元

文学評論家

 

「静かな時節は戻ってこなかった」。金洙映の詩「愛情遅鈍」の冒頭の一句は、どこか心中が騒がしく、不安な時間が始まったことを暗示するかのようだ。まるでスローガンのように見える「生活無限/苦難突起/白骨衣服/三伏炎天去来」という個所まで読んでくると、金洙映の描くその時間がとても苦しい時期だったことがより深刻に推測される。あの句節は、ともすれば世界的なパンデミックを経験して到達した世界の姿や、大統領選挙後のわが社会が直面する混乱した夏ともピタリ合致しているのではないかと思う。スタグフレーションを予測する経済指標や、戦争のような極端へと突き進む世界情勢などは生活ないし生計の問題が限りなく続くような予測をするようになり(生活無限)、新政権になってから示される様々な嘆かわしい様子は、困難がいつでも訪れうるという予感に陥らせる(苦難突起)。苦しい生活と苦難の予感が不遇な暮らしの影を招き寄せ(白骨衣服)、それに記録的な猛暑と暴雨から感知される気候危機に対する深刻な不安感は、今や私たちの日常的情緒の底辺に定着した(三伏炎天去来)。

 

 こうした時、政界はまたも見慣れた単語を掲げはじめた。政権与党の非常対策委員会の樹立騒ぎを報道した記事の写真には、人けのない事務室に掛けられた「ひたすら民生」という垂れ幕が見える。その文言が伝える既視感(デジャブー)は、それに続く修飾語によって一層増した。各種の規制緩和によって既得権勢力の私益が膨らみやすくなったという報道があったし、ある時事番組では密陽のサード反対集会や、竜山惨事の現場や双竜自動車工場などで露見した警察の過剰鎮圧を論じ、新設された警察局の機能が何なのかを問うている。また、(今は撤回の手順に入って幸いなことだが)ケアの当事者とは何の論議もせずに経済的な効果を掲げて小学校への入学年齢を満5歳に下げようという発言や、水害現場を訪問した政治家が示した惨憺たる言行は何なのか。彼らの「民生なき民生」という話がこれまた思い浮かばれる。

 「民生」とは、辞典上では「一般国民の生計や生活」程度の意味で、この場合の生計は物価という単語と連動し、食べて暮らすことを主に指すという。民生物価や民生安定という表現もこうした脈絡からきている。このように民生は物価と生活の諸問題、労働・貧困・教育・家族・老人問題としばしば関連する。一例として、参与連帯は家計に困難をもたらす三大支出要素として住宅費・教育費・医療費を基準にして民生問題に接近してきた。民生ほどによく言及される「庶民」という単語を通じ、民生の脈絡を描くこともできる。庶民とは、辞典的には普通「何の官職も身分的特権も持てない一般の人」「経済的に中流以下の余裕のない人」と解される。そう見ると、政治家が選挙用イメージを盛りこむために訪れる場所、例えば在来市場、チョッパン(カプセル型簡易宿泊所)街、大衆交通施設、清掃労働の現場は、まさに民生と結びついた庶民の暮らしの場である。

 

 民生に対する照明は、不安定な社会で生存の脅威を実感する人々の暮らしを支えようとする意味があるが、それより一層重要な意味は他にある。民生の現場は、わが社会の主要矛盾が集約された場だという事実である。非正規労働者と零細自営業者の拠りどころ、そして依然として影の労働として取り扱われる各種ケア労働が遂行される場などが、まさに民生の切迫した現場である。したがって、民生を解決する過程は、単に「食べて暮らす」問題の解決に留まらず、不平等を深化させて各種の差別と社会不安を引き起こす原因を問題にして、体制を転換する契機にすべきである。下請け労働者が惨憺たる産業災害で犠牲にならないようにすること、「不満があるなら出世しろ」という言葉が通用しない社会をつくること、そして子どもを養育して身体的な弱者をケアすることの高貴な価値を知らせること、すべてが民生をケアすることと緊密に連動する私たちの課題である。さらに民生は、「借金投機」「過剰借入れ」「早期退職した投資家」という単語が醸しだす投機と労働嫌悪の世界を脱し、労働と夢が分離しない世界へ進みだすべきだという切迫した社会的課題とも決して別立ての事案ではない。

 

 民生をケアする政治は、民が愛して夢見ることを助けねばならない。民の生存をケアすることは、その小さな部分に過ぎない。もちろん、これを政界人士のみに任せるわけではない。「愛情遅鈍」で金洙映は、苦難の時期にむしろ愛は強まったと語る。苦難の生活が続く「畳々たる恐ろしき昼夜」を過ごしながら、どういうわけか愛に関する自らの歌は地に染みると書いた(「私の歌は水滴のように/地中に向かって入っていく」)。これは、現実を無視した愚鈍な歌なのか、詩人の幻想なのか。どちらでもない。金洙映のその詩は1953年、だから戦争を経験する中で書かれたものと推定される。創作の時期を念頭に置けば、「白骨衣服」は単なる修辞ではないし、この詩が語る苦難が想像以上の苦痛だったことを切実に感じる。そして、そうした時期に詩人が地に植えつけた愛とは、それがどれほど激烈かつ深い生の欲望だったかを、あえて語ることを留意する。だが、それが生きている存在が現在の束縛から脱し、他の未来を夢見る極めて自然なことに関連するという事実を推定することは難しくない。私たちはまた、詩人が歌った愛がいくら特別だとしても、その愛は他でもない、この地の民の暮らしを観察し、学ぶ過程で発見した結果という事実もわかる。金洙映が生きた地の上に私たちは生きる。今こそ、その地から沸きあがる愛の歌を学ぼう。体裁を繕った現在の生き方に騙されず、私たちが本当に願う生の姿とは何かを問い直そう。

 

 

 大統領選挙後の混乱は根深い。政府与党は党内対立の渦中で混乱し、民主党などの野党もまた相変わらず明確なビジョンがないので存在感を示せずにいる。まともに作動しない国を懸念する民の声は大きくなっている。「またキャンドルを掲げるべきか」という話までしきりに流れてくる。活路を求める時が来ている。混乱の中で活路を模索した直接的かつ身近な経験が私たちにはなくはない。知らず知らずに、人々が「またキャンドル」という表現を使うのもそのためだろう。

 

 本号の特集は「大統領選挙後、キャンドルの進むべき道」を検討する。まず、李南周はキャンドル革命の現状を考察し、そこに内在した問題状況を打開する方策を模索する。キャンドル連合になぜ亀裂が生じたのか、キャンドル連合を再編成する道は何なのかを問い、具体的には多様な社会・政治勢力に開放的な「プラットホーム政党」としての民主党の役割を強調し、変革的中道主義を考慮する実践を注文する。特に民主党の変化が必要な領域を具体的かつ詳細に説破する第4章は、より多くの読者が身につけたならというメッセージを含んでいる。

 尹永商は、韓国の進歩政治の意味と歴史を様々な局面で検討する。2000年代以降、進歩政治のダイナミックな変化と最近までの浮沈を考察する過程はきめ細かい。慣習と当為にとらわれた進歩政治が現在の難関を打開しようとすれば連合政治の能力を養うべきであり、社会的な葛藤を創造的に解決する公論の場を通じて公共的なことをどのように思惟すべきかが関鍵だと明確にした部分が注目される。

 朱丙起は、この5年間の文在寅政権の経済政策を冷静に振り返る。文在寅政権が多くの経済指標では良い成果を収めたが、実質的にどういう限界があったのかを考察するバランス感覚が際立つ。すべてを市場に任せることを基調とする新政権の経済政策を批判的に分析する部分もやはり鋭い。結論として、いま私たちに必要な経済政策のパラダイムは成長至上主義と決別し、どういう姿勢で進むべきかを描いて見せる。

 金重美は、仁川地域を中心に貧しい人々の学びの場と共同体をつくって手助けしてきた経験に基づいて文章にした。「青年世代」という言葉から排除されている青年たちの現実の暮らしと彼らが世の中を見る方式を生き生きと伝える。豊かな経済的資源を保有できなかった人々が「互いにケア」のネットワークに参与し、それを拡大していく経験の中で膨らむ希望の芽が感動的である。

 

 白永瑞の司会で金聖文、白敏禎、柳英珠が参加した対話「新たな韓国学と開闢という話頭」はスケールも大きく、内容の密度も高い。韓国の文化力量を評価し、国内外の韓国学の課題を点検することを第一次目標にして、新たな韓国学の必要性を具体化し、その過程で韓国学を再構成する動力として「開闢」を論ずるところまで進む。文明の大転換が求められる時代に開闢の韓国学が「韓国の土着的思想を今日に甦らせ、韓国学の新たな方向を定立」し、「西欧に対する“文化的再起”を遂行する」企画たりうるという発言はかなり印象的である。韓国学の課題を診断する論議から出発し、いつしか開闢とキャンドル民主主義まで合わせて広げていく討論の活気を、そしてその活気に内在する韓国の思想的流れと可能性を読者も感じてもらえればと思う。

 論壇には二編の文章を載せた。廉武雄は、詩人・金芝河の死を追悼して詩人の身近な場から観察できた、眼識ある評者として成長することのできた金芝河の生と文学に関する話を伝える。詩人が経験した苦難はもちろん、真心のこもった追悼辞の品格を深く感じさせる文章である。趙亨根は、「K防疫の影」を考察することを通じて韓国社会が抱いている矛盾を指摘する。韓国の防疫を成功だと評価する中で十分に考慮されない問題を見つけて詳細に見つめる過程で、社会に内在するヘイト感情と権威主義に対する隠微な憧れなどを暴き出していく。

 現場のナオミ・クラインの文章は、ウクライナ戦争と気候危機という事態が全く無縁ではないし、その根幹に同一の原因がある点を鋭く指摘する。化石燃料に深く依存している現実と理想化された過去に執着する右翼、グロ―バル市場での販売のために地球資源を思う存分に採掘して使いまくる資源浪費的な思考との結びつきが気候危機を深化させ、化石燃料を媒介にする戦争を呼びこむのだ。クラインは私たちに至急なすべきことは、戦時レベルの緊急性と行動力に基づいて緑色変革の実践を実現させるべきだと強調する。金敬源・朴宣影の文章は、「持続可能な環境と水産物の責任ある生産のための国際的認証活動」に焦点を当て、漁村の実態と問題点について多様な視角を提供する。海の生態系の健全さと、「意識ある沿岸住民の暮らし」が互いにどのように依存しあえるのか、私たちみんなが傾聴すべき部分である。

 

 文学評論欄も読み応えある。張恩暎は、姜知恵・李謹華・金宣佑の詩を中心に、最近の韓国詩壇の作品が「ケアを公的領域に拡張し、平等の問題を思惟し、政治的権力を分かちあうコミューンを語りあう」方式を興味深く提示する。金曜燮

は、丁美京・崔恩榮・姜ファギル・韓貞賢の作品を通じて忘れられた過去を聞く作業を描く小説を一瞥し、その中に現れる時代的感覚とよりよき人生への探究を綿密に分析する。

 文学焦点は詩人の慎鏞穆、文学評論家の崔真碩、編集者の金南希が参与した。各自が異なる方式で本と緊密に関わる作業をしてきた三人が、この季節の意味深い作品を選別し、自らの経験に照らして興味深い対話を交わす。

 作家照明では、小説家の金成重が『トロッキーと野生蘭』を出版した李章旭に会った。終始一貫して目を離せなくさせるほど愉快かつ興味深い質問と、まじめで才知溢れるやり取りが相次ぐ。ちょうど波長がうまく合うダブルスの球技を見るように、読者の楽しい時間を保障する。

 散文は、詩人金海慈の文章で「私が暮らす場所」の連載を続ける。詩人が住む天安の広徳山の麓で、詩人ほどに詩人に見える隣人たちの話が展開される。散文を読んでいくと、こぎれいなナムルご飯をいただくような、健全な食事を贈り物としてもらったような感じがするだろう。

 寸評欄では、良書を紹介してその本のようにいい文章を送ってくれた評者に出会える喜びで一貫している。本号では、いつよりも多い12冊の本の書評が多彩に掲載される。

 詩欄もまた豊富である。新鋭と中堅を合わせる12人の詩とともに、今年のチャンビ新人詩人賞に当選した金相希の詩を一緒に掲載した。小説欄もまた、金正雅・鄭善任・崔恩榮の新作短編とともに、チャンビ新人小説賞の主人公・周瑛河の作品が誌面を埋める。李柱恵の長編連載は本号でも創作欄を力づける。

 また、第40回申東曄文学賞を受賞した詩人の崔志認、小説家の鄭成淑、文学評論家の金曜燮の皆さまにお祝い申し上げます。この秋号では、萬海文学賞の最終審査の対象作も見ることができるが、冬号へと続く受賞作の発表にも多くの関心をお願いしたい。

 

 雑誌を企画し、その企画が様々な筆者と編集者の助けにより具現化されるのを見るたびに神秘さを感じる。韓国語の力量と韓国人の知恵は侮りがたく、それは今も少しずつ高まっていると実感する。また、その現場に参加しているという事実に自負を感じる。国内外の政治・経済状況と気候危機など、あれこれ不安で暗く見える局面だが、その中でも道を照らすために努める人間の創造と努力と協同に信頼を寄せる。こうした信頼と実感を読者に伝えて分かちあうこと、それがチャンビの課題だと考える。本号の編集を通してその課題を遂行できた、やりがいのある夏であった。

 

 

訳:青柳純一