[卷頭言] 「梨泰院惨事」後の問い / 白智延
「梨泰院惨事」後の問い
白智延
文学評論家
10月29日晩、ハロウィンを楽しもうとする人々が押し寄せたソウル市梨泰院の路地で、あっという間に多数の死傷者が発生した。10万人の人波が予測される都心での行事だったが、当日の現場には事故を防止するいかなる安全対策もなかった。この日午後6時34分以降、危険を知らせる通報が続いたが、緊急の状況を指揮して救助を図るべきシステムは稼働しなかった。「予見された惨事」「対策の不在」そして「国家はなかった」という診断通り、国民を保護すべきはずの国家の内実はがらんどうの状態だった。
今回の惨事は都市災害に対応する安全システムの問題のみに限らない、国政運営全般にわたる総合的な危機を露わにした。セウォル号惨事が残した傷痕が今も生々しいにも拘らず、予防可能な災難を大惨事にしてしまうことがまたも繰り返された。「国家は災害を予防し、その危険から国民を保護するために努めなければならない」という憲法条項が台無しにされたのだ。
その後、国家主導の哀悼期間が迅速に宣布されたが、これは真相究明と責任の所在の把握を回避して、犠牲者や遺族、負傷者はもちろん、数多くの市民の苦痛を深める時間に費やされた。「惨事の犠牲者」ではなく「事故の死亡者」として命名され、また「(惨事による哀しみを)政治的に利用するな」という注文自体が真相究明とは全く無縁の責任逃れの発言だった。こうした公職者の非常識かつ覚醒のない言葉は惨憺たるものだった。市民が「自発的に」参加したものなので公的責任を問うのは難しいとか、「警察や消防の人手を事前に配置して解決できる問題ではなかった」などの暴言は、市民に深い憤怒と虚脱感を抱かせた。
さらに問題なのは、当然行われるべき真相究明をめぐり、司法処理の原則だけをあげて責任を転嫁する政府の対応である。大統領を含む関連公務員の誰もが自らの責任と義務を反省、省察しないまま、「尻尾切り」的な捜査により第一線の警察・消防の担当者に対して法的責任を追及している。いかなる事案であれ、
ただ法理的な解釈を前面に立てることを繰り返す姿勢で、その全過程で国政を運営する者として政治的・道義的責任への自覚と知性が徹底的に欠けている。
私たちの長年の伝統では、国を率いる人なら、当然民生と民本に重心を置いた愛民の気持をもつべきであると強調されてきた。今日でも信頼される政治共同体やリーダーの徳性は、国民を愛して大事にする心と無縁ではない。老人と子どもをお世話し、苦しい立場に置かれた人を助け、葬祭では哀悼し、病人をケアし、災難から救済すること指導者とは行政担当者の基本的な職務だと思う。だが、現政権には公益に関連ある、こうした真心を見いだすすべがない。民主共和国の指導部は国民に向ける気持において、長年の儒教国家の思想にも及ばないほど悲惨なレベルを示しているのだ。
生命や安全より利益の創出を優先する政策方針は、新政権が発足して半年にもならない時点で、社会的セーフティ・ネットを弱体化させる結果を示している。ケア分野の予算が次々に削減される一方、工場や鉄道の労働現場で貴重な命が失われる死亡事故が相次いで発生し、企業に実質的なブレーキをかけられない不十分な重大災害処罰法の限界が露呈している。経済政策の不安もこの上なく、米国のインフレーション削減法(IRA)をめぐる不十分な対応やレゴ・ランド事態(訳注:江原道のレゴ・ランド誘致に端を発した金融不安)の展開過程は惨事を彷彿させるレベルである。さらに、私たちが感知する危機は国内状況のみに限らない。朝鮮半島の平和の危機とともに世界各地で発生している戦争の危険と軍事主義の浮上は、民主主義と社会秩序を深刻に破壊しており、深化している気候危機と戦争による物価の不安定、世界的な景気沈滞の兆候もまた、人々を苦痛の渦中へと追いたてている。困難な状況を克服する賢明かつ大胆な、新たな政治的リーダーがいつよりも必要な時である。
梨泰院惨事の犠牲者を追悼するキャンドル集会で、参加者が掲げたプラカードには国家と政府の真の機能を問う言葉があふれていた。そのキャンドルには、セウォル号惨事の時と同様、「これが国か」という根本的な問いが出されている。再び私たちの前に戻ってきたこの問いを前に、私たちはこの間果たしていかなる国を念願し、そういう国を創るために、いかなる努力をしてきたのかを考えてみた。民主的な秩序を混乱させ、民生を度外視する無能な政治を改革して実現しようとした「国らしい国」とはいかなるものなのか。さらに、その国の主人である私は隣人と社会のためにいかなる役割を果たしてきたのか。国民の暮らしを平和に維持し、安全に保護すべき国家運営の基礎的な職務に大きな穴が開いた現実を前に、この問いは重ねて骨身にしみる。
そうした点から今回の惨事に対処していく今日が、私たちの共同体の危機を乗り越えるために重要な瞬間であることを鋭く感知する必要がある。政府と公職者の徹底した反省と刷新を引きだすことができる共同体の圧力が必要なことはもちろん、国会もまた真相究明のために全力を尽くして努力すべきである。裁判所は行政府・司法府を牽制する民主主義と人権の拠点として、適切な役割を果たすべきである。事件の真実の報道に目をつぶっている一部の言論機関と公論の場の改革もあきらめて放置すべきではなく、市民の批判的な思惟と討論が切に望まれる。
何よりも今、私たち自らの生命と安全をケアすることは先送りできない切迫した地点にきている。巨視的な視野で大惨事後に浮かび上がった課題や問いをじっくりと整理して検討すると同時に、隣人の苦痛と悲哀に共鳴して互いの心をケアする力が切実に求められる。国家、社会、共同体が互いに繋がっているという、その大切な感覚を社会構成員が取り戻す時、よい国を創ろうとするキャンドルの願いもまた実現できるだろう。ひと時でも思惟と反省のパワーを緩められない、あらゆる知恵と賢明さを集中すべき緊迫した時が近づいている。
本号の特集は「危機の時代、文学の知恵」というテーマで編集した。気候危機、資本主義と労働の現実に対する文学的・言説的レベルの診断と幅広い作品分析を通じ、当代の文学が進むべき道を模索しようと思う。黄静雅は、巨大な叙事の層位に注目する最近の批評言説の功過を細密に点検し、資本主義世界体制への批評的な思惟と文学的な問いを新たに措定する。現実の変化を夢見る文学とは、その変化の経路を思惟して想像する「移行の文学」を志向すべきだと主張し、鄭智我と権汝宣の短編を通じて文学が育てていくべき移行の動力を考察する
金美晶は、最近の小説に現れた資本―労働の関係の変化と、それに絡まる様相を分析する。張琉珍、林率児、朴曙孌、李書修の小説に再現された労働の時代的な意味を測り、今日の私たちを実質的に包摂していても、資本主義体制の「外」を思惟しうる解放的な想像力の可能性を探索する。
梁景彦は、申東曄の「詩人精神論」に触れて気候―生態の複合危機に要請される実践の事例を、最近の詩から掘り起こす。「全耕人」の心根に基づく詩的想像力と抒情詩の再発見を強調し、李鐘旼、鄭多娟、曺温潤の詩を分析して「私」と「私たち」を別個に考えず、「いま、ここ」で希望を構築すべきだと提案する。
近代文明を形成した世界観を感覚レベルから転換すべき必要を伝える金容暉の文章は、私たちの社会の経済的不平等、気候危機問題に対する抜本的な思惟を盛りこむ。東学の哲学的な思惟に基づいて自然と生に向きあう態度の根本的な変化をはかるべきだという主張とともに、生態的な感覚と美学的な感受性の回復のために文学の想像力が必要だという論旨が印象的である。
論壇で崔元植は、林熒澤の『東アジア叙事と韓国小説史論』を読んで、詳しくも明解な論評を展開する。古典と現代、韓国と東アジアにかけて叙事様式の変遷過程を解釈した著者の独歩的な著作を鋭利に探求する批評的な視角が際立つ。文章烈は、朝鮮半島での核戦争の危険性が高まっている最近の状況を多角的に分析し、核戦争の勃発の可能性および被害の程度を詳しく究明する。平和が非核化に優先する条件になるべきで、朝鮮半島の平和プロセスの重要性が重ねて強調される。現場では河昇秀が、2024年国会議員総選挙に先立って選挙制度の改革を熟考する文章を送ってくれた。改革の潜在的主体を呼びおこし、女性と青年、少数者の声がもう少し幅広く反映されうる代案を模索する過程で、特に大選挙区比例代表制の可能性を詳しく検討する。
白英瓊の司会で進められた対話には姜怡守、金賢美、厳慧珍が参加し、大学改革の必要性とフェミニズムの役割について話が交わされる。参加者はフェミニズムの観点から大学の現実を点検することが、私たちの社会の民主主義の現状を点検する過程であると強調し、ミー・トゥー運動後の大学の変化、大学内の性平等機構の役割、フェミニズム知識の生産と教育の問題など、多様なテーマについて生産的で熱を帯びた討論を展開する。
印雅瑛の文学評論は、ゲーム・ジャンルの叙事から引いてきた「ループ式時間」の概念を中心にして、最近の小説に現れた時間性のリアリティを探索しているのが興味深い。文学焦点は、春号に次いで地域探訪の第二回企画として慶尚北道安東市の「嫁入り図書館ポエム」で進行する。司書教員の金善愛、詩人の安相学、文学評論家の林貞均が参加し、今季の注目すべき作品について率直かつ鋭敏な感想を提示する。作家照明では、『父の解放日誌』で読者から熱烈な支持を得ている小説家の鄭智我に、後輩の小説家林賢が出会う。作家の幼年期の記憶から父親の伝記的人生を文学的な虚構空間で新たに再現する過程、豊かな人物群像に対するモチーフなど、小説の誕生にまつわる秘話が興味深く展開される。
金鳳駿の散文は、1970~80年代の民主化運動ともにあって創意的な芸術性と政治的な想像力を高めてきたマダン文化芸術の歴史に光をあてる。キャンドル大抗争期に変革的な市民運動として合流するマダン文化芸術の現在的意義が新たに近づいてくる。連載企画第4回の「私が生きる場」では、出版編集者の朴大雨が江原道高城郡アヤ津の話を開陳する。山火事が多発した故郷の歴史とともに、咸鏡道以北の人々が定着して作った共同体固有の雰囲気が、筆者の愛情こもった眼差しを通して描かれる。
創作欄も充実している。詩では、金根から崔伯圭まで詩人12人が多彩な詩的個性で誌面を輝かす。小説では、金夷貞・朴旼圭・朴曙孌・李書修・李在恩の新作短編が読者を喜ばせ、李柱恵の連載長編小説が完結する。この連載に熱い声援を送ってくださった方々に感謝し、単行本として再会できる日が待ち遠しい。毎号多彩な分野の良書を選定し、紹介する寸評欄にも温かい関心をお願いしたい。
第37回萬海文学賞の本賞は金明気の詩集『帰るところのない人のように立っていた』、特別賞は障がい者言論ビマイナーが企画し、チョン・チャンジョらの記録活動家7人が参加した『デマに直面した世界』が選定された。第24回白石文学賞は陳恩英の詩集『私は懐かしい街のようにおまえを愛し』が受賞した。受賞された皆様に心からお祝いを申し上げる。
大惨事の悲劇が残した憤怒と哀しみで、人々の心は重苦しいだろう。本号を編集しながら、執筆者が送ってきた文章の端々に深い衝撃とともに苦痛と悲哀に連帯する気持がこもっていると感じた。犠牲者を哀悼して遺族に心からの慰めを伝え、負傷者の速やかな快癒を願う思いは切実である。本誌もまた、省察する姿勢を保ちながら、あらゆる思いと力量を集中してこの困難かつ深刻な局面を着実に切り開いていけるように精進したいと思う。
訳:青柳純一