창작과 비평

[卷頭言] 未来について知っていること / 黄静雅

 創作と批評 199号(2023年 春)目次


未来について知っていること

 

黄静雅

文学評論家

 

 

新政権が発足してからまだ一年も経っていないが、これまでの時間は、一日が千年のようだという嘆息をつく時間だったと言わざるを得ない。固有名詞を付けて呼ぶのも辛いところがあって、「新」政権と書いてみたら、それはそれなりに惨憺たる気持ちである。何か新しい点があるとすれば、大半の人々が経験する前例のない苦しみであろう。現政権の腐敗と無能と無責任は10・29惨事が端的に示すように、数多くの死をはじめとする物理的暴力の苦痛を国民に抱かせただけではなく、驚くほど露骨で厚かましいという点で深刻な精神的・感情的試練でもあった。聞く耳を疑うほどの嘘、目を開けて見ていられないほどの猟奇的な行動もその試練の一部だが、なぜこのようなとんでもないことが私たちの試練になったのかと、慚愧の念に堪えない。もたもたする改革の足取りを今こそ促す時だったので、苦痛の体感度はいっそう倍になるのである。

振り返ってみると、李明博政権初期は一抹の実用主義はあるのかという期待が一時だったが、しばらくあった。また、選挙結果に対する大きな失望の中でも、朴槿恵政権初期には、見て学んだうわべだけでもある程度は形になるだろうという幻想がなくはなかった。そのような誤解や幻想の余地を微塵も与えないのが、現政権の新しさというならば、そう言えよう。1回目の3分で大筋がわかってしまうドラマのように、果たしてどのように展開されるのか待たなくても残りの任期中の様子が想像に難くない。予想されるあらゆる害悪と破綻の段階を一つひとつ踏んでいくことが明らかなので、鬱憤と怒りだけを刺激するこの分かりきったストーリーのマクチャンドラマ(日常では起こり得ない、非現実的なことが勃発するどん詰まりドラマ-訳者)は、やはり早期終映が望ましい結末だろう。要するに、あえて支持率を言及しなくても、現政権に対する私たちの集団的判断はとっくに終わっている。判断が終わったからといって必ずしも直ちに効力が発生するわけではないというところに制度の頑固さがあるが、これまでの歴史が示すように、民主主義はいかなる制度の枠組みよりも強力で柔軟であるため、この民意が具現される道は近いうちに見つかると信じている。

政権の害悪は、私たちが大切に発展させてきた民主主義的共同体の価値を崩そうとすることに止まらず、それらが「大切だ」という感覚自体を毀損しようとするところにまで及ぶ。法の外で横行する独裁は法治の重要性をかえって気付かせたりもするが、法を犯罪的に執行するタイプの独裁は法治の意味に嫌気を抱かせる。10・29惨事以後、位牌も遺影もない焼香所を急造し、明らかに哀悼の本意を歪曲したように。井戸に毒を入れてから、綺麗な水はそもそもないと言い張ろうとする人たちの行動がきわめて透明に現われるところは、他でもなく彼らの「言葉」なのである。大統領室、検察を問わず政府機関が出す発言に偽りのない日が1日でもあったのか疑わしいほど、嘘はこの情けない政府が頻繁に駆使する暴力メカニズムであり、「構造的」統治メカニズムである。真実と両立できない権力であることを示すこの事実において本当にぞっとする一面は、偽りの圧倒的流通を通じて真実と偽りの区分を無意味にしようとする本音なのである。虚偽であることが明かな嘘でも嘲笑って済ませない理由がここにある。レガシーメディアに対する怒りがいつにも増して高まったのも、このように偽りと戦うことが民主主義の最前線になったためである。時には偽りの増幅装置を自任することで、また時には「僭越」になるのではないかと思い、質問を省略することで、多数の既成言論は政権の「賦役者」という非難を自ら招いただけではなく、最終的には誰も「言論の自由」という表現に心が動かない事態と向き合うようになるだろう。

しかし、私たちを苦しめるこれらのすべてが本当に価値を崩して歴史を後退させるのか。言論の自由のもとで起こったことだけを見ても、今日のとんでもない状況が、実はある程度学んだと思っていた民主主義を改めて深く学習する機会であることに気づくようになる。「市場の自由」が残酷な二極化の別名であることをすでに経験しながらも、また大統領の時代錯誤的演説を通じて劇的に虚しくなったその地位を再確認してからも、自由は依然として強いオーラを持つ言葉であった。しかし、嘘も言論の自由という態度の前で、私たちはついに名ばかりの自由から自由になっており、真実の追求が民主主義のより基本的な要素であることに鋭く気付く。それでも進行した変化さえ取り戻そうとする試みのおかげで、唯一大胆な改革こそ揺るがない改革であることがわかるように、民主主義の意味を色褪せさせようとする企画は、繰り返し意味を更新する民主主義だけが生きている民主主義だという認識に私たちを導く。

ウェブ小説やドラマで最近よく見られる特徴として「回帰」という装置がある。完敗した現在を挽回するために「今私が知っていること」を資産として持ったまま、過去に戻って成功した人生を設計するストーリーである。この回帰を可能にさせるのは、概ね敗北の凄絶さとそこから生じる恨み感情の強烈さで、その高度に集中したエネルギーが天を動かして回帰の機会を得るやり方である。このような成功叙事が深い無力感の別の表現であり、韓国社会のどのような症状であるかを推測することは難しくないが、実際に私たちに必要なのは正確にその反対である。実際、私たちは将来どうなるのかについて思ったより多くのことを知っている。気候危機に対する無関心がもたらす結果、南北関係の破綻がもたらす悲劇、そしてそれより近くは現政権の持続不可能さのようなものである。その点で私たちはすでに「回帰」した人たちであり、未来について知っていることに対する確信で現在を変えることができる。ただ、敗北の凄絶さと恨みの強烈さに匹敵する強度の志向や希望、当面は私たちにそのようなものが不足しているようにも見える。しかし、それだけ長く熱く戦ったためだが、これからは一時の挫折を乗り越え、お互いを励まし合いながら、すでに始まった大小の戦いを励ます時である。

 

「危機の韓国、何をすべきか」というタイトルの今号の特集は、私たちが奮い立たせる戦いがなぜ切実であり、どのような方向へ進むべきかについて注目する。まず白楽晴は、尹錫悦政権の登場がキャンドル革命の中断であるどころか、まさに尹政権のせいで起きた「変則的事件」であり、政界とマスコミ等随所で発見されるあらゆる奇現象も、キャンドル革命が生んだ結果であることを明かにする。それゆえ、「これまで通りに生きていては」この局面さえ打開できないと強調する彼の論文は、政権退陣も想像力を発揮する事案であると説明するとともに、国らしい国をつくる私たちの戦いが人類社会を根本から変える「開闢」の核心契機であるだけに、目の前の課題に背を向けずに、開闢の「標準」に充実した創造的実践方式を練磨しようと提案する。

李泰鎬は、積極的な展望や政策が全くない政権が自分たちに逆らう集団を「敵」にしながら延命する間、韓国社会を襲った複合的危機の深刻性を詳細に点検し、社会的連帯の回復と政治改革の実現を中心に市民社会運動の課題を提示する。生命の犠牲や人権侵害が重なった10・29惨事、弾圧が露骨化された産業災害の現場、反社会的行為として烙印を押された障害者の権利闘争など、現政権の誕生以後、特に社会的弱者の生活において目撃された人権後退の生々しい事例を伝える庾海貞の論文は、それにもかかわらず抵抗と希望も決して消えたことがないことを証言しながら、「そうっと」一緒に行動しようと誓う。「激変する世界、岐路に立たされた韓国経済」をテーマにした「対話」は、特集の問題意識と歩調を合わせ、国民に体感され始めた経済危機の世界史的脈絡と対応案を論じる。李日栄の司会で金良姫、南鍾錫、李龍雨が参加してロシア-ウクライナ戦争で明らかになった「激変」の政治経済的意味から出発し、韓国経済の危うい実状と重点課題をあまねく分析したこの「対話」は、責任を放棄した政府の代わりに今私たちが経済に関して知っておくべきほぼすべてのことを指摘してくれる道標である。

「論壇」も興味津々な読み物になると信じている。金容沃は1883年天安・木川で行われた東学経典の集中的発刊が持つ意味を他宗教と区分される東学の核心的な面貌、とりわけ「ケリュグマ(説教)」がないという点と関連づけて説明し、一方、この木川版をめぐるこの間の認識を正す具体的事実を特有の躍動感あふれる筆致で解きほぐす。「品行批評」というテーマで目を引く金鍾曄の論文は、政治家の品行問題が政治変動を媒介した事例を振り返り、私たちの政治認識の主な習俗となった品行批評の枠を脱することが、まさに大転換のための勉強の一環であることを示している。

「現場」では、金時衍が少し不慣れな分野かもしれない青少年住居権運動に私たちを招待する。家出という名に隠された「脱家庭」の脈絡と施設の問題を喚起し、青少年住居権保障がより平等で幸せな社会に進む重要な契機であることを知らせる。

今号の「創作」欄も盛りだくさんである。「詩」欄では、姜宇根から皮在睍に至る13人の詩人の新作詩篇が私たちの感覚を悟らせ思惟に導く。「小説」欄は多彩で密度のある省察を盛り込んだ朴ソルミェ、白秀麟、尹ゴウン、全成太、鄭成淑の新作短編を掲載した。

「文学評論」で呉ヨンギョンは前号特集のテーマを引き継ぎ、「資本主義の悪天候」を敏感に感知した詩を中心に「移行の文学」の可能性を探求する。金周源は、黄貞殷と金ユダムの小説を詳しく検討しながら、女性叙事が家族とケアについてどのような話を聞かせてくれるのかを検討する。

「作家スポットライト」で朴瑩浚は、詩選集『風が来て体になる』を出版した高炯烈詩人の肉声を、「詩人としてできることをすべてやり遂げた」彼の人生と作品世界の全般を紹介した話に盛り込んで伝える。安姫燕詩人が進行した「文学フォーカス」では、金昭栄作家と梁宰熏評論家が参加し、今季に注目する6冊の詩集と小説に関して豊富で率直な対話を交わす。

いつの間にか明確な存在感として定着した散文連載『私が住む所』の今号の主人公は慶尚北道奉化郡である。植物分類学者・許泰任の格別な視線で奉化の「抜け目のない」面々を盛り込んだこの散文は、素敵な生態エッセイとしても遜色がない。「寸評」欄も多様な分野にわたって目を引く新刊を糸口に、各自の思惟を展開した短い散文として読んでいただきたい。

春号には大山大学文化賞の受賞作も紹介される。第21回受賞者の崔朱淵(詩)、金旅凛(小説)、金娜炅(戯曲)、閔宣恵(評論)の覇気溢れる活躍を期待してお祝いを贈る。編集陣内部のニュースを一つ付け加える。長い間編集委員として活躍してきた金ヨンヒ教授が編集顧問に異動する。これまでのご苦労に感謝し、今後とも惜しまぬ助言をお願い申し上げる。

春を迎え、むしろ気持ちを引き締める理由は、今年1年、私たちに与えられた課題の厳重さを知っているからである。とんでもない石にかかった戸惑いを収拾し、再び主権者の力量を発動しようとする市民の動きに『創作と批評』もいつものように共にするだろう。その意志を込めて創刊200号になる夏号で、様々な新しい試みと企画を丹念に準備しているので、読者の皆様の多くの期待と激励をお願いする。

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)