〔対話〕 平和と統一、どう教育するか / 文雅鍈・張容勳・鄭道相・鄭容敏

 

創作と批評 182号(2018年 冬)目次

 

文雅鍈(ムン・アヨン)社団法人PEACEMOMO代表。平和教育学博士課程。

 

張容勳(チャン・ヨンフン)聯合ニュース記者。北朝鮮学博士。

 

鄭道相(チョン・ドサン)小説家。『民族語大辞典』南北朝鮮共同編纂事業会常任理事。

 

鄭容敏(チョン・ヨンミン)ウォルゲ高等学校教師。北朝鮮学(統一教育)博士、教育省平和統一教育諮問委員。

 

 

鄭容敏(司会)こんにちは、平和と統一の教育を主題にした『創作と批評』冬号の「対話」の司会を担当することになりました。私の紹介からすると、私は高校で「倫理」科目を教える教師です。教職を始めてから統一教育の分野に参加し、2001年には「ソウル小中等学校統一教育研究会」を組織しました。今は「朝鮮半島の平和のための教育者の会」の代表をやっています。現場の統一教育をさらに研究し改善するために博士号も取得しました。最近では、京畿道教育庁の認定教科書『平和時代を開く統一市民』(創批教育)の執筆に参加しました。4・27板門店首脳会談以降、教育省が作った平和統一教育諮問委員会に教師代表として参加しています。他の方々も各自、自己紹介をお願いします。

文雅鍈 私は平和活動と教育活動、平和運動と教育運動をつなぐことに関心があります。2011年には平和教育団体「PEACEMOMO」を設立して、より平和で暴力的でない社会のための活動をしています。政治的であるという理由で、公教育の中で平和が綿密に扱われることもありませんでした。政治教育・市民教育の次元で平和を活性化する方法に取り組んでいるところです。その一環として、参加的で水平的な教育プログラムをデザインして、教員を含む教育者研修(Training of Trainers)を進めています。また、平和運動の市民団体と連帯して、軍縮関連キャンペーンをはじめとする平和活動も進行中です。

鄭道相 私は小説家ですが、民族語大辞典共同編纂事業会の常任理事も引き受けています。『民族語大辞典』は故・文益煥牧師が1989年の訪朝時、金日成主席に初めて提案した事業です。『標準国語大辞典』が休戦ラインの南側の分断辞典であり、『朝鮮語大辞典』が北側の分断辞典であるならば、『民族語大辞典』は15世紀のハングル創製以降、私たち民族が作る最初の統一辞典です。世宗大王の言語の領土である韓国、北朝鮮、中国・延辺地方、中央アジアの一部、日本の僑胞、その他の海外に在住する韓国人の社会などを包括する初めての辞典なのです。『民族語大辞典』は中・高等学校教科書にも紹介された統一教育の事例ですが、十分に準備した後、統一を迎えようという意志が投影されています。

張容勳 私は北朝鮮、そして南北朝鮮の関係を観察してきた記者です。2000年の第一次南北首脳会談から最近の4・27板門店首脳会談まで、すべての首脳会談も現場で取材しました。このような取材活動によって自然と南北朝鮮の関係や統一政策に対して理解するようになりました。南北朝鮮の関係が変わることによって、それに合わせて韓国社会が変化する様相を興味深く観察していますが、おそらくそのような関心事のおかげで、今日、この場にも呼んで頂けたのではないかと思います。

鄭容敏 錚々たるメンバーが集まりました。朝鮮半島が平和体制に転換する時期を迎えたおかげで、市民たちや学生たちも平和と統一に対して新たに考えられるようになりました。そこで今日は、韓国社会全般の平和教育および統一教育の現況を顧みて、また展望を見出す場を準備しました。お迎えした方々は統一教育の現場にいらっしゃった方々ではないので、むしろより広い省察が可能で、創意的な可能性も開かれるだろうと期待します。教育についてお話しをお聞きするのに先立って、まず現在の朝鮮半島の状況に対する見解をお聞きしたいと思います。南北首脳会談が3回開催され、南北朝鮮の関係が多くの変化と進展を遂げたにもかかわらず、第2次米朝会談の日程が確定しないなど、朝鮮半島の平和定着への道は相変らず不確実かつ不透明です。それぞれどのような展望を持っておられますか。

鄭道相 今、朝鮮半島は一日一日が「拡張現実」(augmented reality, AR)のようだと思います。ある目標に向かって動いているようで毎日状況が変わりますが、これは南北朝鮮とアメリカの指導者のキャラクターに起因するところが大きいようです。金正恩国務委員長に首脳会談を提案された対象が、バラク・オバマやヒラリー・クリントンだったら、検討だけで1年以上はかかるのではないでしょうか(笑)。ドナルド・トランプというキャラクターは、40分で「クールに」この提案に応じました。トランプの反平和的で反人権的な面とは別に、南北朝鮮の問題では、ビジネス感覚に依存する直観論者の彼の性格も、かなり功を奏したのでしょう。そして文在寅大統領はすべての球を相手に返すキャラクターでしょう。絶えず相手を動かしてモメンタムを維持しようとします。もしかしたら真の意味での実用主義者ではないかと思います。金正恩委員長はイデオロギーに凝り固まらない若い実用主義者であり、新しい道を開く開拓者のキャラクターのようです。彼らが今、朝鮮半島の非核化と恒久的平和のためのシナジーを作り出そうとしていると思います。しかし、アメリカ主流社会の北朝鮮不信、そしてトランプ不信は、ずっと障害物になりそうです。アメリカの中間選挙の結果、下院で優位を占めた民主党が、むしろ朝鮮半島の平和を遅延させるのではないかとも憂慮します。民主党はトランプ大統領を圧迫するために、北朝鮮の人権問題を着実に提起して北朝鮮を刺激するでしょうが、これは非核化の過程すら破綻させることもあります。今、トランプ大統領が対北朝鮮の制裁強化をしばしば言及するのも、このような状況を内部的に管理してのことではないかと思います。

張容勳 私もこの局面を作るのに3人の指導者が大きな役割を果たしたと思います。しかし、さらに重要なのは、今後これを進展させる追求力です。出発には行為者の変数が重要ですが、朝鮮半島の平和を定着させて構造化するためには、国際社会とアメリカ社会が力を加えなければなりません。ですが、おっしゃったように、アメリカ内にトランプ不信が広まっています。またアメリカと中国は貿易戦争を行っていて、イラン核問題をめぐるアメリカとヨーロッパの葛藤があり、東北アジアの重要な行為者と言える日本が、朝鮮半島の平和形成の局面で疎外されているという問題もあります。このようなことを考慮してみると、現在の交渉の局面がすぐに平和体制の構築につながると大言壮語することは難しいでしょう。韓国社会が現在、南北首脳会談に対して熱い反応を示しているというのは鼓舞的です。すべてが閉塞していて脱出口が必要だという考えが広まっているためではないでしょうか。その出口を南北朝鮮の関係、あるいは北朝鮮であると考え、現在の局面を打開策とすべきであるという欲求が増幅されているようです。そのためにはさらに多くの平和が必要であり、韓国社会もさらに積極的に動くべきでしょうが、まず北朝鮮と南北朝鮮の関係に対する理解度が高まるべきだと思います。そのような面で今日の対話がさらに重要でしょう。

文雅鍈 ですが、韓国社会は北朝鮮を経済的な脱出口とのみ見てはいけないと思います。現状況を経済成長の機会としてのみ眺める視角が過度にあります。平和の定着は「終戦宣言」や「平和協定」のような出来事中心に構成されるわけではないと思います。むしろ北朝鮮の社会構成員と私たちがどのような関係を結ぶのか、差異のために発生する問題をどのように予測し準備するかの方が重要だと思います。今は韓国も北朝鮮も危険な状態です。おっしゃったように、韓国にはこれ以上成長が困難であるという不安感があるとすれば、北朝鮮にはすでに市場などを通じて資本主義を経験した世代の出現とともに、体制維持に対する不安もあるようです。ともに脱出口が必要な状況でトランプ大統領が登場して今に至っていますが、平和はこのように単一な出来事だけでは不可能でしょう。現在は米朝首脳会談の成功の是非に、平和に対する期待が揺れ動いていますが、そのような出来事がなくても着実に平和に進める均衡が必要だと思います。北朝鮮を対象化しない方式でです。

 

今は「どのような」について語る時

 

鄭容敏 南北朝鮮・米朝の対話が、上から作られた平和モードであり、この局面が安定的に成果を得るためには、社会的な環境と構造の変化も必要だというお話しとして理解しました。事実トランプ大統領の決定だけに依存して解決されるものではないでしょう。今、関心のない数多くの市民まで、朝鮮半島の平和政策に参加する過程が伴うべきでしょう。このためかもしれませんが、政府もやはり既存の統一政策とは違った方向を提示しています。ひとまず意図的に「統一」という言葉を使わずに、「平和」という言葉を、最優先価値であり繁栄のための土台としています。平和が定着すれば統一の道も自然と開かれると考えるのです。大統領府のチョ・グク民政首席が自身のフェイスブックに「平和がすべてではない。しかし平和がなければすべてが何でもない」という、戦後ドイツのウイリー・ブラント首相(Willy Brandt)の話を引用して、「平和があってこそ統一がある」(2018.10.15)と付け加えたのが、このことを端的に示していると思います。先の政権の対北朝鮮政策が、北朝鮮の急変事態に備えた吸収統一、あるいは人為的な統一政策だとすれば、現在は接近方法自体が違うのでしょう。この点を参考にして、今回は「平和」と「統一」についてしばらく議論をかわしてみましょう。

文雅鍈 大統領府が南北首脳会談の標語を「平和、新たな始まり」と提示しました。それとともに「平和が先決だ」というメッセージが次から次へと出てきています。これについての態度には世代差があるようです。私も統一教育を受けて成長しましたが、事実、統一という目標が平和定着より優先視されることには疑問を感じます。金正恩委員長の年頭教書を筆頭に、平昌五輪を経て急速な転換が起こりましたが、わずか1年前ですら朝鮮半島は一触即発の危機的状況でした。朝鮮半島の軍事的緊張と不信で固定化された様々な問題が複合的に絡まって解けないので、政府が「平和」という話題を前面に出して、新しい道を開こうと努力しているようです。ですが、平和活動家の立場で、現在、言及される「平和」には皮肉な側面も多いようです。端的な例として、板門店で「段階的軍縮」を宣言しましたが、国防省の「国防改革2.0」にはそのような兆しさえ見えません。「平和外交」という名称はすばらしいですが、これがどのような平和を言うのかについての疑問は相次いで出ています。私は「統一か、平和か」という2つの選択肢を提示することからが、議論を貧弱にする危険があると思います。平和だとすればどのような平和なのか、また統一だとすればどのような統一なのか、というように、今は「どのような」に傍点をつけることが必要だと思います。

張容勳 「平和」と「統一」は同一線上に並べられる言葉ではありません。平和は過程であり、統一はその結果でしょう。ですが、多くの人々が、平和という段階を無視して、統一が空から落ちてくるものだと考えています。ドイツの統一でも彼らがどのように平和的な共存に苦悩したのか、どのような方法で支援し、取引し、交流したのかには、あまり注目していません。そのような苦悩の終局的な結果が統一なのにです。むしろ今は統一と平和が相反する概念になっているようです。平和は「永久的に分断状態で、仲よくやろうということ」、統一は「本来のように一緒になろうということ」のようにです。私は統一を、窮極的に私たちが進むべき最終段階として置き、今は平和という過程をきちんと管理するべきだと考えます。このためには分断という現実を無視してはいけません。分断が現実なだけに平和も相互的です。そのように考えれば、軍縮も相互的であってこその問題です。ですから、第3次南北首脳会談でも「平壌共同宣言」よりも「南北軍事合意書」の方がはるかに大切かつ価値があると思います。

鄭道相 朝鮮半島のような分断地域の平和と、分断のない地域の平和は質的に異なります。日本国内の平和と朝鮮半島の平和が違うようにです。多少矛盾しても政権の存立基盤のために強い国防政策を維持するのは、ある程度、理解する余地があると思います。私は、平和は多様性に進む過程であると思います。互いのアイデンティティと他者性を十分に認めるのが平和な状態でしょう。ですが「統一」という言葉には、多様性ではなく単一性を追求するようなニュアンスがあります。統「一」ですから。ですが、真に統一しようとするならば、「統二」「統三」「統多」になるべきです。互いに異なる者同士、疎通する土台で、多様性が調和するように共存する状態が、真の統一であると思います。似たような脈絡で北朝鮮を対象化せずに北朝鮮とともに存在するのが朝鮮半島における平和ではなかろうかと思います。北朝鮮を国家保安法上の敵と考えず、憲法を根拠に反国家団体と考えることもやめたらいいと思います。ですが、今「統一」といえば、かならず連合制や連邦制の中から選択しなければならないでしょう。この話をする瞬間に韓国社会が四分五裂します。ですから、今、政府はそのような話を最初から飛ばしているのだと思います。平和は単純に戦争のない状態ではなく、日常において成就すべきはるかに大きな概念です。平和教育が指向すべきことも、このような心を植え付けることだと思います。もちろん、恒久的な平和追求が、朝鮮半島で両国体制が安定的に維持される「分断管理」であってはならないでしょう。そのような意味で、統一を排除して平和だけを教育するのも、朝鮮半島で最も重要な価値を否定する結果であると思います。

鄭容敏 盧武鉉政権は「平和繁栄政策」という表現を使いましたし、李明博政権は「共存共栄政策」といいました。北朝鮮をどのように見て、関係をどのように設定するかによって、平和概念が変わるということをよく示しています。「平和繁栄」は、緩い統合を前提に北朝鮮を抱き込もうという意味なので、分断を維持しながらも平和な状態を育て、「事実上の」統一を指向するというものでした。韓国・北朝鮮の完全な統一は段階的で徐々に進行しようというものです。「共存共栄」は辞典的な意味とは異なり、北朝鮮を崩壊の局面として見る排除の戦略にもとづき、強い統合を要求するというものでした。北朝鮮の崩壊にともなう統一がすでに目の前に到来したと考え、北朝鮮が相変らず存在するにもかかわらず、北朝鮮との平和に対する検討が足りなかったと思います。結果的に北朝鮮にどのように対すべきかについての概念自体が動揺してしまい、既存の「消極的な分断平和」の基調さえも維持できませんでした。文在寅政権は「平和繁栄政策」を再開したようです。李明博・朴槿恵政権が10年間、平和なき統一論を持続してきたので、また過程なき統一を前面に掲げるよりは、平和をまず前面に押し出し、統一は平和が成熟すればついてくるものと設定したのではないでしょうか。

張容勳 去る9月19日、平壌5・1競技場で文在寅大統領が「私たちは5千年をともに生き、70年を別々に生きてきた」「今日この場で、70年の敵対を完全に清算し、また一つになるための平和の大きな歩みを踏み出すことを提案する」と言いました。多くの人々がこの発言に驚きましたし、私もやはり少なからず感動しました。結局、いつかは一つにならなければならないという考えが、私たちにあると感じました。そのような考えがこれまでの保守政権にもありました。ですから、崩壊論に依拠した李明博・朴槿恵政権は、いつも費用を強調しました。そのうち統一するだろうが、だから多額の金が必要だという論理でしたが、統一自体に対する疑いはなかったようです。統一という指向点が左・右ともにあるならば、結局、その過程で、平和をどれほどなしとげるのかが重要です。これまでの政権のように、統一すれば北朝鮮に「ストローを挿してみな吸い込む」というような便益の観点だけで接近してはなりません。平和なき統一があり得ないだけに、平和論者と統一論者を互いに対立する概念として見てもいけないでしょう。

鄭道相 今でも私たちの国民の相当数は、統一を内部植民地を作ることだと認識しています。これまでの政権の「統一大当たり論」もそのような意味です。北朝鮮を植民地にしたいから、統一すれば私たちの暮らしもよくなるだろうと考えているのであって、北朝鮮地域を発展させることには関心がありません。そのために北朝鮮を対象化する見解を平和教育を通じてただす必要があります。北朝鮮の住民を安価な労働者とばかり考えているわけですから。開城工業団地がまた稼動し、南北朝鮮の経済協力が本格化するためには、まず「常識的な商取引」が前提になるべきです。開城工業団地の場合、閉鎖される直前に人件費を含めて労働者1人にかかる費用が1か月に175ドルでした。韓国の10分の1にもならない水準ですが、これは与えることでなく搾取でしょう。南北朝鮮の経済協力がまた始まるならば、正常な商取引の原則を互いに保障してくれればいいと思います。

文雅鍈 そのような賎民資本主義が統一にまでつながって出てきたのが「統一大当たり論」でしょう。「大当たり」というのは、期待していなかったのに、突然、儲かったときに使う言葉です。丹念に統一を作るべきという過程を度外視していることを端的に示してます。このような非合理的な統一観が、メディアや公式・非公式の教育過程に入り込んでいます。南北朝鮮の関係がよくなると、民間統制ラインの地域の地価が上下することだけを見ても、「統一大当たり論」が社会全般に内面化されていることを示しています。ですが、統一の過程を考えるならば、いつも今のように南北朝鮮の関係がいいことばかりではありません。上り坂があれば下り坂もありますが、今、韓国社会は、その下り坂の時期が耐えられないようです。

 

安保教育が残した傷

 

鄭容敏 さきほどされたお話しで、既存の支配的な統一観を形成してきた統一教育を自然と振り返ります。統一大当たり論が、今、政治の領域では冷笑的に認識されていますが、統一教育では「統一費用」「統一便益」という定形化されたパラダイムが定着しています。「統一韓国」という用語だけを見てもそうです。ひとまず北朝鮮崩壊を前提にして、そののちに、私たちが彼らを受け入れて管理する費用は大きいが、それより便益の方がはるかに大きいから、統一韓国を成就すべきであるというわけです。今、韓国社会が統一を考える水準を見てみると、ユーチューブで「ソル・ミンソク」「統一」と検索してみるといいと思います〔「ソル・ミンソク」は韓国で活躍中の「ユーチューブ韓国史」の名物講師―訳注〕。中国と日本の領土紛争の話から始めて、北朝鮮のレアアースへと続き、統一すれば北朝鮮の資源と労働力、韓国の資本と技術が合わさって、どれほど富強になるかを説明しています。時宜適切な統一教育の資料がないので、教師たちが授業の時間にこのような放送資料を活用しています。このような統一論にもとづいた統一教育では、南北朝鮮の関係改善や統一過程に対して考える余地がなくなります。そして北朝鮮は統一を妨害する嫌悪の対象となり、北朝鮮の住民は支援すべき同情の対象であり、統合後に食わせなければならない二等市民になります。これは、教育省の第5次教育課程の時に施行された「統一・安保教育」と同じ土台にあります。北朝鮮を敵対的に教えると統一意志の育成になりませんので、統一への熱望が形成されるように指導しながらも、体制を威嚇する北朝鮮に対する警戒心を維持させようというものでした。そして「北朝鮮は民族同胞だが警戒対象である」というような、ダブルバインドの統一・安保教育が施行されました。この統一・安保教育が李明博政権の時に復活して、これまで10年間、進められました。これに対する評価をお聞かせ下さいますか。安保と平和の関係についてもお話し下さい。

鄭道相 ある中学校に講演に行ったことがありますが、そこに統一教育パンフレットがあって、ページをめくってみるとすべて反共が主題です。事実関係もめちゃくちゃで、北朝鮮の公衆便所には仕切りがないというようなものでした。問題はこのような話を脱北者たちが自ら話しているようです。他人の経験を自分の経験のように語る一部の脱北者たちがいますが、彼らが相変らず安保教育という名の反北朝鮮教育に動員されています。これからは安保教育の方向を敵対的な安保から非敵対的な安保へと修正するべきです。安保はかならずしも軍事・国防だけに必要なのではなく、個人・家族・社会にもあるべきでしょう。安保を越えて「安全」の観点にまで拡張された教育が必要です。

鄭容敏 平和にもとづいた統一・安保教育への転換について講義したら、20代末から30代半ばまでの教師たちから特に質問が多く出ます。彼らは中学・高校の時、天安艦沈没事件(2010年3月)や延坪島砲撃事件(2010年11月)などのような北朝鮮との軍事衝突事件を経験し、李明博・朴槿恵政権の下で「統一・安保教育」を受けた世代です。しっかりした対北朝鮮安保があってこそ、統一を指向できるということを真理として学びましたが、そのような形の安保が追求した結果としての平和が、いったいどのようなものだったのか、その平和を通じて実際に南北朝鮮の関係が進展したのかと反問すると、統一の過程と平和の問題に対する混乱が生じると思います。

鄭道相 そのような混乱を少なくするためには、まず分断体制に対する理解を高めるべきだと思います。あまりに当然な話も、北朝鮮で主張すれば真と言うのがためらわれる部分があるでしょう。こうしたことが個人の内面の成熟を阻んできた分断体制の核心的な情緒だと思います。これを小・中・高などの学生それぞれの水準に合わせて、よく説明して教えることが必要だと思います。事実、韓国は政治過剰の国です。ですから、すべての話を政治的に解釈したら、敵対的な理念対立が生じるんです。分断体制が韓国社会にどのような被害をもたらしたのかについても考えて、一方的に北朝鮮を悪魔化してきた教育過程とメディアを批判する過程も経るべきです。

文雅鍈 平和教育が北朝鮮擁護になると考えて憂慮する教師たちは、おそらく主要敵の概念の影響を強く受けた人たちでしょう。さきほど言及された世代は、特にパク・スンチュン前・国家報勲処長主導の「愛国教育」を経験しました。2014年7月、ソウル市江東区のある小学校で、首都防衛司令部所属の少佐が安保教育として上映した、残忍な北朝鮮での拷問の動画を見て、子供たちが泣きわめくなど、集団パニックに陥った事例があります。この時使われた映像も「愛国教育」の資料でした。この他にも「愛国」という名で北朝鮮に対する敵概念を注入する教育が国家主導で長くなされましたが、これに対する評価はほとんどありません。その教育が間違っているのは、教育内容が互いに相反するという点にもあります。北朝鮮は韓民族と統一するべきだと主張しながらも、その目標に到達するまでは、北朝鮮を常に警戒して敵とみなすべきというわけですからね。平和の核心的な前提である相互信頼の形成が不可能な教育課程でした。国家中心、安保中心教育に脱北者の講師が動員され、「敵イメージ」を強化する役割をしてきた点についても、かならずや評価が必要です。脱北者の声を、統一のたたき台でなく、障害物として利用したわけですから。

鄭容敏 実際に教室で、南北朝鮮の分断について話せば、それを過去の話と考える場合が多いようです。学生たちにとって南北分断は歴史的出来事にすぎず、今、自らの人生や未来に影響を及ぼすものと考える余裕がありません。そのために南北分断が人間性や市民性にどのような被害を及ぼすかを感じたり考えたりすることが難しいようです。南北分断を体で経験した世代と、今の学生たちの世代との間の間隙がかなり大きいです。これを描いた小説や映画は着実に存在しましたが、実際に当事者の経験を体感する機会が足りないようです。

張容勳 そのようなことは、かならずしも学校教育だけの問題ではないようです。特にメディアは、南北分断を隠す役割を最も大きく果たしてきました。映画や小説にはもちろんいい作品もありますが、大多数は問題が多いようです。南北分断を素材にする映画を見ると、まず北朝鮮の人たちは銃を持って登場します(笑)。爆破して麻薬を密売して偽造貨幣を作って……このようなイメージです。トークショーを見ると、脱北者たちが出てきて、なぜあのように自分たちの故郷の悪口をいうのか、本当に人間が暮らせないところのように語ってしまいます。ですから、学校でいくら統一教育や平和教育をしても、受け入れられることはないようです。メディア従事者たちも、ある意図があって分断体制を強化するというよりは、平和や統一に対する想像力が足りないようです。記者たちも南北朝鮮の交流の話が出ると、最初の質問がこのようなものです。「今、対北朝鮮制裁があるのに、そのようなことが可能か?」。誰一人、可能性を語る人がいません。ですから、私は1994年の金日成死亡後に韓国社会に吹いた「北朝鮮を正しく知る運動」のようなものが、今こそ切実だと思います。北朝鮮を正しく知ってこそ、教育のパラダイムも変えられるのですが、今はそのことを先導すべき主体となる専門家グループが非常に不足しています。大学の北朝鮮学科もかなり廃止されてしまいました。

文雅鍈 自身がどのような構造の中に暮らしていて、どのような抑圧を受けているかを知ることが市民性の核心的な要素であると思います。これを識別させるのが市民教育です。ですが、韓国社会には市民性を教育する土壌が足りません。南北分断を考える基盤自体がないわけです。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)は、暴力を「直接的暴力」「文化的暴力」「構造的暴力」と区分しましたが、「分断暴力」――研究者たちがこの枠組を使ったりもしました。私は「分断暴力」と「学校暴力」が密接につながっていると考えます。国家安保を威嚇する「アカ」(共産主義者)を近所で見つけなければなりませんでしたし、自分が生きようとするならば、他人の名前を出さざるを得なかった厳酷な時期の記憶、そのように摘発されれば、社会で孤立せざるを得なかった経験が、目立たずに平凡に生きろという気持ちを一般化させました。主流と違った声を出すことに対する恐怖は、分断暴力の結果であり、また他の原因にもなってきました。分断によって「私」と「私たち」、すなわち自分と親密な集団の安全を威嚇する要素は、どうにかして直ちに除去すべきであるという考え方が、長い時間の中で内面化されたと思います。不都合なこと、危険なこと、不確実なことは除去する方がいいという分断暴力の様相が、個人的で直接的な暴力の経験へと転移し、学校の中でも他者化される存在は除去の対象として、学校暴力の被害者になるような状況でしょう。もちろん学校暴力は複合的な問題ですが、安保以上の言語がなかった韓国社会の特性と「暴力」の属性を考えると、十分に可能な推論であると思います。

張容勳 一理あるお話しです。韓国社会に安保はもちろん必要です。ですが今は安保から「敵」の概念を取り出すべきでしょう。敵を想定しなくても、自分と自分たちを守ることが可能です。教育もこのような方向でなされるべきです。そうしてこそはじめて、今のように北朝鮮を敵対視する教育も自然になくなるでしょうし、そうなれば本当に実用的な安保教育になると思います。

文雅鍈 自分を守るのと同時に、みなが自分自身を守りたいという事実を認めるべきです。そして自分の領域が侵犯された時、どう対処するのかに対する練習が教育の中でなされるべきです。国家中心の安保教育が廃止された後に、その場で地域と世界をつなぐグローカル(glocal)な市民性の教育が位置を占めるべきだと思います。特定の利害関係を中心に構成された国家間の多者安保の概念は、とにかく敵対関係を想定せざるを得ないと思います。全地球的に思考する教育が必要です。

鄭道相 哲学的には、平和教育において国家主義を放棄し、遊牧主義を採択する必要性があります。遊牧民は生計のために境界を崩して絶えず移動する存在です。境界を越えて移動するのが遊牧主義ならば、国家主義は境界やタブーを明確に規定して、移動すら阻むものです。安保教育も、北朝鮮というタブーをかなり明確に規定していました。たとえば敵陣に閉じ込められた兵士を救うために、国家が命令を下す「ライオン一等兵救出作戦」(1998)のような映画が代表的な国家主義の作品であるならば、国家がタブーとして定めた境界を行き来する「共同警備区域JSA」(2000)のような映画が遊牧主義の事例でしょう。遊牧主義が教育の哲学になるならば、安保教育の弊害も克服できるのではないでしょうか。南北朝鮮の当局も国家主義を克服できればいいのですが、きわめて難しいでしょうね。

張容勳 私も北朝鮮に行った経験が少なからずあり、北朝鮮側の記者たちとある空間で取材もかなりしました。個人的に会ってみた北朝鮮の人たちは、そのまま隣人として生きる友人のような感じでした。取材をして、時々、個人的な話を交わしたりもするんですが、息子や娘のことを自慢するのを見ると私たちとまったく同じです。そのような私的な対話には敵意がありません 。その瞬間、「敵」という概念も、私たちの政治の中だけに存在するようです。その私的な瞬間に、「ああ、朝鮮半島で平和が可能なんだ」と感じました。

 

朝鮮半島の平和をどう教育するべきか

 

鄭容敏 世界史的で普遍的な視角から南北統一に接近するのは妥当なのですが、現実的な枠組の中に話を限定してみます。分断状況においてどのような統一、どのような平和を教育できるのか、また教育するべきなのかについてお聞きします。ソウル大統一平和研究院のキム・ビョンノ教授は、朝鮮半島の状況において「平和を包括的に構想しない統一も、統一を積極的に思考しない平和も、ともに適切ではない」ということを話されたことがあります。ならば、「朝鮮半島の平和」はどのような形で教育されるべきでしょうか。普遍的価値としての平和と、西欧の平和教育を参考にしながらも、実質的に朝鮮半島において平和と統一を成し遂げようとするならば、「平和市民」「統一市民」を育てる教育が必要でしょうが、どのような教育を準備し実行していくべきでしょうか?

張容勳 平和教育は、差異を認める土台において、同一性を見つけ出す作業であるべきだと思います。「朝鮮半島の平和教育」や「朝鮮半島の統一教育」にとどまらずに、さらに包括的になされるべきです。実際に『平和時代を開く統一市民』の教科書にも、共存の問題と差異を認める問題がかなり盛り込まれていますが、このようなことがさらに拡張されるべきです。そうしてこそ、自分が同意しなければ、他人に呪いのような言葉を浴びせる現在の状況も、少しずつよくなるでしょう。自分とは違った相手を包容できないのに、2700万の北朝鮮の住民と共存することは不可能です。ならば、平和教育は、朝鮮半島と政治と現実を越える、個人の「性格」の領域に達するべきだと思います。そうしてこそ、統一を準備する「メンタル」が用意されるでしょうし、一つになった時の副作用も最小化されると思います。

鄭道相 平和の観点から見れば、現在、行われている多文化教育も問題が多いでしょう。教育だけでなく、韓国の多文化政策の全般が、韓国文化を一体化させることが目標のように見えます。移住民に対して、韓国に来た以上、韓国的アイデンティティを持て、というのです。ですから、結婚移住民についても、「言うことをよく聞く嫁」「義父母への真心」のようなものを要求します。移住民を一つの人格体として見ず、やや劣った存在として見る傾向を「国家主義の視線」といいます。ですが、島のように孤立した文化などありません。現存するすべての文化は、移動し、互いに混ざり、蓄積されながら形成されてきました。タブーを越える移動が新しい想像力と創造力を作り、それとともに異なる文化が共存することになるんです。私はその共存が「平和」であると考えます。そのような面で真の多文化社会にならなければ、脱分断の想像力を持つことも困難であると思います。統一も異なる文化をありのまま尊重する土台において、移動し混合する過程を経るべきだということです。自分がいてこそ相手があり、相手と違って自分が光り、自分と違って相手が光る状態を「華厳」といいますが、このような華厳の状態こそが、望ましい統一であり平和です。

文雅鍈 2018年の平昌・冬季五輪の時、北朝鮮から選手団が来ました。韓国社会にも感動的なことでしたが、全世界にも大きな波紋を残しました。その時、アントニオ・グテーレス(Antonio Guterres)国連事務総長が訪韓して、文大統領に「私は朝鮮半島の平和が朝鮮半島だけに限定されなければいいと思う」といいました。よく韓国をめぐって「唯一の分断国家」というでしょう。ですが、このような規定は、解釈する観点によって変わります。互いに往来できない状態に置かれた国家がいくつもあるからです。ですが、分断を韓国の特殊性とのみ強調すれば、教育の領域も分離されざるを得ません。市民教育、平和教育、統一教育、多文化教育が多様に存在しますが、これらがまず朝鮮半島という境界を越えるべきでしょう。

鄭容敏 教育者の立場で、平和は、過度に包括的な概念です。現在、統一省の統一教育院は「平和・統一教育」、教育省は「平和統一教育」という用語を使って、市や道の教育庁もそれぞれ名称は少しずつ違いますが平和を強調しています。ですが、そのような教育が追求する平和がどのような平和なのかについての合意は足りないようです。理念としての平和なのか、教育方法の平和なのか、それぞれ解釈次第の状態でしょう。「どのような平和なのか」、そして「平和をどのように教えるのか」の問題が残っているようです。

鄭道相 ろうそく革命がその参照点になると思います。私は、2016年の冬、ろうそく広場に響いたスローガンが、大きく「サード反対、戦争アウト」「朴槿恵退陣」「セウォル号真相究明」だったと思います。朝鮮半島に新しい武器を配置せずに、戦争を防止しようという主張が含まれていました。その後、大統領が弾劾されて政権が交代し南北朝鮮の関係が好転しています。この局面を作った力の源泉はろうそく革命です。平和教育にもこのような観点が入るといいと思います。統一の過程に市民がどのように参加するべきかを中心にです。白楽晴先生が「市民参加型の統一」を語りましたが、彼は特に、統一の過程において「心の勉強」が必要だといいました。「心の勉強」は円仏教(韓国の仏教系新宗教)の用語ですが、社会的に拡張してみるといいと思います。そうすれば争いのようなものも起きないでしょう。統一運動でも社会的な「心の勉強」が必要だと思います。

張容勳 同意します。事実、実生活ではよく感じられませんが、平和は人間の生において基本中の基本です。平和がなければ何もできません。ただ、平和というものが空気のように常に存在すれば、大切さが理解できません。時々その大切さを感じさせる必要があります。戦争や内戦中の人々の生活がどれほど荒廃しているかも理解するべきです。朝鮮戦争のことを語る時も、「南への侵略」「共産化」を強調し、北朝鮮に対する敵愾心だけを育てるのではなく、その戦争が私たちをどれほど崩壊させたのか、いかに多くの家族を失ったかを一緒に語るべきです。戦争はスタークラフトのようなゲームではないということを知らせるべきです。

文雅鍈 平和は、教育の内容であると同時に、過程でなければなりません。ユネスコも「平和についての教育」(education about peace)ではなく「平和のための教育」(education for peace)になるべきだといっています。「ついての」を「ための」に変えるということは、平和に対する知識教育だけにとどまってはいけないということです。教育の過程もやはり平和の実践になるべきだということです。今、韓国の教育は、「平和についての教育」の状態にとどまっています。ですから、脱分断的な想像力も困難で、これを生成させる文化さえ作られていません。分断を出来事として眺めると、統一も出来事として解釈することになります。分断の過程を綿密に検討し、現在進行形の分断、日常の分断を見つけ出し、脱分断の可能性へと切り替える作業、つまり平和のための教育が必要です。この平和教育を、統一教育や民主市民の教育と両立不可能と考えるべきではありません。そうなるときわめて消耗的な論争に流れます。

 

ろうそく革命以降の市民教育

 

鄭容敏 平和な教室のために、教師である自分から努力するべきようです(笑)。ろうそく革命を教育に反映するべきという主張は多いと思います。教育というものが社会の変化の相を盛り込むことも必要ですから。私は、ろうそく革命が、地球上のどこの国にも見出しにくい市民の自発的参加であったと思います。この経験を通じて市民政治と公論の場が発展し、韓国社会が市民権を回復しましたし、積極的な市民性も発見できました。ろうそく革命は、市民が市民らしい存在として成長する練習でしたし、世の中を変化させる意思決定の過程に参加したということが、その練習の要諦であったと考えます。既存の教育方式は、知識の次元で民主主義をきちんと学べば、学生たちが民主市民の意識を持った成人として育つだろう、平和を教えれば平和市民として成長し、統一を教育すれば統一意識が大きくなるだろうという感じでした。ですが、学校で学んだことを土台にろうそく革命に入ったのでなく、参加の経験を通じて市民として成長する学習ができましたし、むしろ学問的関心もできるというのが現在の状況です。青少年の目で韓国社会を診断する観点と省察ができるんです。このような参加の意味が、教育の過程や学習の方法にも含まれるべきではないかと思います。

鄭道相 学生たちを教育の対象としてのみ見てはいけないでしょう。実際に2002年に米軍装甲車による女子中学生圧死事件があった時、そのデモの動きを初めて作ったのも中学生でした。2008年のろうそくデモの創出にも青少年が主導的に参加しました。彼らを「対象」として見るのではなく「若い市民」として対するべきです。そうしてこそ社会の変化も早くなるでしょう。広場を闘争の空間から遊戯の空間に変化させるのに、青少年が大きな役割を果たしたではないですか。このようなこともまた平和の動きであると思います。

文雅鍈 青少年が未来の市民にとどまらず、今日の市民として声を出すことをよくないと考える人々が相変らず多いようです。青少年参政権運動を恐ろしいものと考えているようです。これは青少年の判断力を信じられないのではなく、青少年が指向する方式が既成世代と違うためのようです。私は、青少年の声を制約する最も強力な手段が、現在の入試制度であると思います。市民権を猶予させる核心的な構造が入試制度です。ひとまず若い時は勉強して、やりたいことは大学に行ってやれと、市民も大学に行ってからでいいといいます。ですから、ろうそくの広場に出てきた青少年を、その場にいた大人たちが怒ったりもしたわけです。「私は広場でも、既成世代の男たちと戦わなければならなかった」というような回顧が理由なく出てきたわけではありません。ろうそく広場のことをとても正しく平等な空間と感じるものの、そこにも序列があったということでしょう。ろうそく革命を教育に含めるべきといいましたが、私は、ろうそく革命自体は、民主主義教育の躍動的な場であったと思いますが、ろうそく革命以降に民主主義はむしろ退歩したようです。大統領府の請願掲示板を見ても、慈しみ深い「君主」に泣いて訴える「民」が増えました。市民が自分の意思を表現する討論が多様化するべきですが、そのような討論の場も明確に減りました。これを見れば、ろうそく革命の精神が本当によく具現されているのか疑わしくなります。ですから、ろうそく革命を教育過程に盛り込むならば、誰かが誰かを教えるという形になってはいけないでしょう。ブラジルの教育思想家パウロ・フレイレ(Paulo Freire)が示した「対話的関係の実現」が教育に盛り込まれればいいと思います。教師と学生の役割を越えて、一つの存在ともう一つの存在との間の対話関係を形成してこそ、青少年が本当に同等な市民として生きていけるのではないでしょうか。

張容勳 事実、統一は、指導者個人によってなしうるわけではありません。社会構成員の大多数が願ってこそ可能であり、未来のその社会で生きる人々の意志が重要です。ですから、今、青少年が統一をどう考えるのかが最も重要です。最近は未来がかなり不確実なので、多くの人々が社会的変化に消極的です。心配になりますが、それでもろうそくの広場を熱い雰囲気にした青少年を考えると、肯定的な展望をするようになります。ろうそく革命には、社会のために自らを犠牲にする心も底辺にあるでしょう。共同体のために何かをすると言うのは簡単ですが、実際に行動するのは難しいですから。李文烈の小説『私たちの歪んだ英雄』(1987)に出てくる平凡な学生のように、他の生徒たちと一緒に様々な不条理に目を閉じた中・高生の時期の自分と、現在のろうそく広場の青少年を比較してみるならば、朝鮮半島の未来も明るいのではないでしょうか(笑)。

鄭道相 統一教育でも平和教育でも、先生と学生が課題をともに考えるべきです。今は統一でも平和でも具体性が足りないので、かならずしも教師の方がわかっているとも言えません。ですから、教師と学生が同時に学びながら、平和と統一についてともに考える機会がさらに多く必要です。その過程で、統一教育や平和教育のコンテンツも、さらに多く生産されるでしょう。今はコンテンツ自体が絶対的に足りません。

文雅鍈 国際社会で平和学、平和教育関連のコンテンツはかなり多い方ですが、これらが韓国社会に合う形で定着していません。平和学に対する韓国社会の関心がとても低いです。平和に対する理論と内容を、社会がどのような方法で共有できるか、さらに深く考えることが必要です。その過程の中で、主要敵のイメージとして強化されてきた北朝鮮を違った形でとらえ、共存の可能性と統一に対する多様な想像力も培われるでしょうから。

 

市民が参加する平和と統一教育

 

鄭容敏 韓国の様々な学者や活動家がそのような努力をしていますが、世界的に普遍化した意味での平和教育や平和学が、相変らずあまり知られていない状況です。学問と理論が実際の葛藤を解決する過程で使用されてこそ習得できるだけですから。アメリカやヨーロッパを見ると、実際に地域社会の葛藤を仲裁しながら、平和学や葛藤解決の教育が発展しました。ですが、私たちは、葛藤を仲裁して、平和のなかで調整した経験を土台に、韓国社会に適合した葛藤解決の方法が提示できませんでした。多くの葛藤がありましたが、これらを平和の観点で解決する方法論が発達することもありませんでした。平和を学習できるようにするなら、教育環境と教育方法も転換されるべきでしょう。今、どのような困難があり、また、どのような改善が必要なのかお聞かせ下さい。

鄭道相 関係と共同体の回復を阻む最も大きな力が陣営の論理です。そして陣営の論理は南北分断の体制が産んだ怪物でしょう。このような陣営の論理を壊す自覚を植え付けることも平和教育の役割です。しかし、それは簡単ではありません。相変らず陣営の論理の力があらゆる領域で強いからです。学生たちには陣営はありませんが、おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんは、すでにある陣営に属しています。そこから生じる問題が多いようです。セウォル号事件の遺族を「北に追従的なアカ(共産主義者)」であると規定する力が実際に存在するのをみると、陣営の論理は本当に恐ろしいです。陣営という陣地にこもり、街頭戦と思想戦を同時に遂行する状態、この政治過剰の状態がまさに分断体制の怪物でしょう。韓国の政治過剰による葛藤を解決できる平和学が、特に必要だと思います。

文雅鍈 私はむしろ新しい陣営が出現していて、学生や青少年もそこにすばやく抱き込まれていると思います。過去には左・右という区分だけがあったとすれば、今はインターネットを基盤とした数多くの陣営が構築されています。彼らがユーチューブやポッドキャスト(podcast=インターネット放送)やSNSで未整理の話を広めていますが、青少年もその生産者であり受容者の1つでしょう。ですから青少年も今、数多くの陣営に分かれていて、葛藤の溝もかなり深いと思います。過去にはいわゆる「北朝鮮追従」や「反北朝鮮」だけであったとすれば、今は単純に半分に分けられないほど多様な陣営が形成されているようです。ですが、このような論争的な主題を教育でどう扱うかは、はるかに用心深い問題です。今は討論自体が大変な土壌なので、このような葛藤を授業の主題にした瞬間、相手を「○○虫」といいながら、虫けら呼ばわりする視角だけが確認できるに過ぎません。このような嫌悪にもとづく敵対的な呼称を、批判的で合理的な討論に変えるのが、教育の核心になるでしょう。ですが、このような試みさえ、「教師の政治的中立性」や、「教育空間は理念的に偏ってはいけない」というような、証明不可能な論理のために行き詰まるばかりです。

張容勳 政治的中立性という言葉は、政権によって異なって解釈されたりもします。教師の政治的中立性が、教師の自律を保証する1つの武器になる時もあります。中立性というものを便宜的に、ある時は廃止すべき対象として、またある時は守るべき価値として見るならば、これもまた1つの陣営の論理になるのではないかと思います。

鄭容敏 韓国の憲法(第31条4項:教育の自主性・専門性・政治的中立性および大学の自律性は法律が定めるところによって保障される)と教育機関法には、教育の自主性と中立性が明示されています。この中立性は、近代国家が形成される過程で、国家や教会などが教育に過度に介入することを阻むために作られました。換言すれば、国民の教育基本権を守ろうということでしょう。ですが、これが最近では、「全教組の教師が意識化の教育をしている」という次元の非難と、そのスケープゴートを探す時の根拠になります。国家の中立性は影も形もなく、教師の中立性だけを過度に要求する状況でしょう。最近、ソウル市教育庁が「制服を着た民主市民」を強調し、ドイツの「ボイテルスバッハ合意」(Beutelsbacher Konsens)にもとづいた、民主市民教育論争の授業を開発中です。ボイテルスバッハ合意は、左右の葛藤が深刻だった1970年代の西ドイツで、青少年の主体的な判断能力を高めるために左右が合意した、政治教育のガイドラインです。私は冷戦期の分断国家であるドイツですでに行われたこの授業ガイドラインさえ、韓国社会に適用される時には議論を起こすだろうと予想します。社会がこのような態度を包容できなければ、参加式の学校教育や授業展開ははるかに困難にならざるを得ません。ですから、韓国社会も前向きに授業の指針に合意して確立することが重要です。最小限のガイドラインがあってこそ、教師たちが法の保護の下で希望する授業ができます。最近、統一教育院が配布した資料にも、相変らず「健全な安保思想」「バランスの取れた北朝鮮観」が維持されています。この程度の水準がガイドラインなので、教師たちが現場できちんと平和を教育するのが困難です。そして、政府が一方的に配布して規制する統一教育よりは、市民参加型の統一教育の可能性も模索するべきでしょう。

張容勳 弾圧を受けない自由が中立性であるというお話しに共感します。自分が考えるところを示さないこと、決して示してはならないというのは、中立性ではありません。もう1つ問題があるのは官僚です。取材してみると、ろうそく革命の以降に市民の変化が感じられます。大統領も変わりました。ですが官僚組織はそのままです。統一省の予算の70~80%は相変らず脱北者活動と統一教育に使われています。この時の統一教育は安保教育が中心です。彼らは前政権の言語を踏襲していて、安保教育の枠組を逸脱する考えさえないようです。ですから限界があります。

鄭道相 以前、私は日本の官僚主義をうらやましく思いました。ですが、東日本大震災以降のフクシマの事態を見ながら、官僚主義がどれほど虚弱であるかを知りました。韓国社会の官僚は特に南北分断の体制の下で活動してきたので、政権が変わっても大きな枠組で変化がありませんでした。このような変化を様々な領域で導くべきですが、特にメディア環境から変えるべきだろうと思います。新しい時代に合わせて新しい想像力を呼び起こす人が発掘できればと思います。毎日テレビに出てきて、どんな主題についても騒いでいるような人ではなくてです(笑)。そして学校単位で参加型コンテンツを数多く作り出すべきです。関係のない理論を引いてきて韓国の葛藤を治癒しようとせずに、私たち内部の葛藤を治癒した経験を共有すればいいと思います。そしてその過程で、疎外され破壊された者の痛みについても語るべきです。破壊を行った者が南北分断の体制を利用して相変らず既得権を行使する事実を知るならば、平和教育をめぐる葛藤も減るのではないかと思います。

文雅鍈 韓国社会に生きるすべての人々が、生存に汲々とするようになった状況が、とりわけ悲しく感じるこの頃です。子供を例にあげるならば、彼らの市民権を尊重するところまで教育環境が進むどころか、以前のように「童心を守るべき」という水準にもならないのでないかと思います。子供たちが「ボロ屋乞食」「公団乞食」というような言葉で、居住地によって友人を乞食呼ばわりすることが一般化した状況はぞっとします。このようなことも、互いを対象化することがとても当然だからのようです。対象化を通じて優位を占めようとする弱肉強食の構造のために、さきほどおっしゃった内部植民地の論理が生じて、北朝鮮が絶えず他者化されているようです。私は、教育を含む現政権の平和政策が、北朝鮮を同等な人格体として尊重する方向になればいいと思います。そのような面で平壌市民に最敬礼して挨拶した文在寅大統領の姿勢が、1つの模範になるかと思います。そのような形の転換が社会的にも起きて、経済的・社会的条件を離れて、存在と存在で互いの尊厳を重んじる関係が築けたらいいと思います。このような対話的関係を創り出すことが平和教育の緊急の宿題でしょう。

張容勳 李明博・朴槿恵政権の対北朝鮮政策の半分以上は脱北者政策でした。統一教育もこのような枠組で「統一担い手言説」を中心になされました。ですから、今、社会が脱北者を同等な存在として認識できていません。認識転換のための教育が必要でしょうが、そのためには教育を学校だけに任せてはいけないと思います。事実、今、発生する問題の解決策が、大きな枠組では教科書にすべて出ていると思います。それでも解決されないのは社会的な教育がされていないからでしょう。1つだけ付け加えるならば、まず北朝鮮の人々に会ってみるのが一番いい教育だと思います。私は2006年に家族と金剛山に行ってきたことがあります。うちの子がとても幼い時ですが、その時、北朝鮮の人に会えて、アメを食べたことをまだ思い出します。なので北朝鮮に対するイメージもいまだに身近なようです。私は金剛山観光だけでもまず再開して、私たちが統一の現場を直接見て回ることができればいいと思います。そうすれば統一教育、平和教育を可能にする土壌が今よりはるかに早くできるでしょう。

鄭容敏 学校の統一教育だけで平和や統一に対する考えを変化させることは事実難しいでしょう。市民社会において、私たちが到達すべき平和や統一とは何か、また、そのような平和や統一をどう作っていくべきかを語る、公論の場が形成されればいいと思います。今度は、ろうそく革命の広場が「学びの場」の形態として再現されるべき時です。互いが互いを教える教育が、平和や統一問題に対する新しい解釈と新しい想像力を誕生させるだろうと信じます。でなければ、変化はとても遅いか、あるいは到来すらしないでしょう。これまでの経験に照らしてみれば、市民社会が先に道を開いてこそ、学校教育がその道に沿って進むことができます。このためにはさきほどおっしゃった多様な努力が必要でしょう。入試制度にも変化があるべきでしょう。平和や統一を、学校の中だけでなく、学校の外で、そしてメディアや日常でも学ぶ時、「市民参加型の統一教育」が可能になるでしょう。今日の3人の先生方のお話しがその基礎になるだろうと思います。ありがとうございました。(2018年11月1日/創作と批評社・細橋ビル)

 

〔訳=渡辺直紀〕