창작과 비평

[寸評] 羅鍾奭の『大同民主儒学と21世紀の実学』 / 金上煥

 

創作と批評 200号(2023年 夏)目次

寸評

 

 

羅鍾奭、『大同民主儒学と21世紀の実学』、図書出版b、2017。

大同民主儒学論が超えるべき疑い

 

金上煥(キム・サンファン)

ソウル大学校哲学科教授 

 

 

『創作と批評』200号記念の寸評欄にはどのような本が似合うか。このような質問にまず浮かんだ本の一つが羅鍾奭教授の『大同民主儒学と21世紀の実学:韓国民主主義論の再定立』である。米中覇権競争の時代に副う東西比較思想の分野で際立った成就を成し遂げたからである。東アジア的近代性は勿論、韓国的民主主義に実体的内容と個性を与えようとする努力も、本に含まれたよい討論の種である。1000頁以上を一杯詰める著者の熱情と確信は、そこに盛られた膨大な内容ほど強烈で、短い紙面に移すことは難しい。生産的な対話のために主な論点いくつかだけを簡略に見てみよう。  

この分厚い本は東西古今の多様な論争の場所を縦横無尽しながら、朝鮮半島の固有な思想的潜在力を復元しようとする。われわれの歴史(特に政治史)の流れの背後でうまずたゆまず蓄積されてきて、その分、決定的な時期ごと歴史的経験そのものを造形する力として噴出した儒教的伝統と思想を明確に示そうとする意志が並外れている。「大同民主儒学」と命名されたこの背後の思想は、遠くは朝鮮の義兵運動から、近くは最近のキャンドル革命に至るまで韓国の政治文化を規定する、ある類似先験的な基に当たる。 

このような類似先験的基礎を発掘する考古学的作業は、西洋中心の近代性理解や文化的オリエンタリズムと対決する道の上で繰り広げられる。西洋的思惟の覇権の下、忘れ去られた儒教的近代性を確証することは勿論、そのような儒教的近代性を土台にして西洋文明を受容する過程で形成された韓国固有の近代化の経路を追跡する。このような韓国式近代性の探求はわれわれの思想的なアイデンティティーを明らかにすることであると共に、西洋的思惟の限界を露にする規範としての観点を構築することでもある。 

この本で西洋的思惟、特に実践的思惟の特性と限界は、対称性と相互性、そして普遍主義と個人主義として集約される。自由と平等という対称性と相互性を中心に社会秩序を構成すること、そして普遍的な正義の原則に従って個人主義的社会規範を形成することが西洋的思惟である。その反面、大同民主儒学は依存性と非対称性を基本論理とする。他人のケアを要求する人間の根本的な脆弱性に副って非対称的依存の共同体を構築するのが大同民主儒学である。 

大同民主儒学を基礎づける基本概念は「他者に対する無限な責任と自律性の均衡を追い求める大同的な仁、忠恕的個人主義、民の人質としての君主、和而不同の調和および大同的平等、天下的世界平和(平天下的世界市民主義)、そして生命尊重志向の民主主義などのようなものである。」(33頁) このような概念に基づいた大同民主儒学と、われわれの歴史的現実の中で実現された大同民主主義は西欧モデルの近代性や、西欧中心の民主主義を相対化するに十分な理想であり、その暗い面を露にする美しい光である。 

このような哲学的概念化の作業のほかにも、韓国近代史を独特な視角から再解釈しようとする試みも目を引く。著者によると、韓国の近代政治史は儒家的理想が大衆へ一般化される過程であり、ソンビ(昔、学識はあるが、官職につかない人、または学徳を備えた人を古風に言う言葉―訳注)意識が国民全体へと拡散する過程である。そのように大衆化した儒家思想は、わが国が西欧文明と制度を受け入れる際、外来の衝撃を吸収し、人のものをわが風に変容する媒体として今日の民主化と産業化に至る歴史を根気強く裏付けてきた。 

このことを具体的に見てみると、17世紀の公論政治(朋党)、18世紀の改革政治(蕩平)、19世紀の一揆(甲午農民戦争)、20世紀初めの独立運動を経ながら、少数の専有物であった儒家思想は一般の民衆にまで内面化されたし、世界市民主義と出会うほど、普遍性の水準を高めてきた。いつかから民族の習俗として落ち着いた儒教的ソンビ意識は、大昔から最近のキャンドル革命に至る主な政治的事件の背後動力である。この地の歴史は高い大同儒学の理念がますます広い範囲の現実と触れ合って肉化される過程であり、世界平和を約束する未来の理念として生まれ変わる過程である。 

われわれはここで「理性的なことは現実的であり、現実的なことは理性的である」という類似ヘーゲル的なテーゼと出会う。著者は大同民主儒学が盲目的な西欧中心主義と「問うな」東洋中心主義を同時に排除しながら、第三の道を切り開いたと叫ぶ。同時に、その儒学的理想が他のいかなる理念より理性的であるだけでなく、その最高の価値が韓国の歴史を通じて漸進的に拡散および実現されてきたことを主張する。そして、ついにきらびやかな理想が客観的現実と完全に合致する未来の消失点を指し示す。 

夥しい量の文献と先端思想を消化しながら開陳された大同民主儒学論に、少し疑いを抱くようになるのは、まさにこの地点である。疑いは理念と現実、両次元で開陳されうる。事実、自由、平等、民主のような最高理念は科学的概念とは違って、還元不可能な曖昧さを持つので常に多様な解釈ができる。そういうわけで数多くの悲劇をもたらした政治扇動と欺瞞の道具へ転落したりもした。評者が見るに、このような危険を避けるためには一つの知恵が必要である。それは抵抗の文脈と支配の文脈とを区分することである。暴力に抵抗する状況で理念はいくら理想化されても別に問題はないだろう。抵抗は力の非対称性を克服する主観的確信を動力とする。理念はそのような主観的確信を消えない炎として奮い立たせる魔法のエネルギーである。権力から逃れて自由に息づく外を呼び寄せる暗号になったりもする。しかし、権力を行使し、現実を統治する状況で理念は一般化されたり絶対化されるほど、陰を作りやすい。疎外と不均衡の関係を生み出す可能性が高くなり、その分、謙遜の美徳が必要である。 

著者は大同民主の理念を理想化するために、儒学の仁概念にいろんな西欧理論の精髄を注入したりもする。レヴィナス(E. Levinas)の歓待の倫理、フェミニズムと連関されたケアの倫理、環境運動と結びつけられた生態主義のようなものがその事例である。だが、これらはもともと西欧の近代主流思想に立ち向かう抵抗談論として、少数者の側で主流談論がもたらしてきた非対称関係(暴力)を是正する位置に置かれてきた。つまり、既存の非対称関係(例えば、父性的関係)を、逆転された非対称関係(例えば、母性的関係)に校正する理論である。評者はそれらが権力を委任してもらって現実を組織する実質的な談論となるためには、制限が必要だと見なす。例えば、レヴィナスの場合、特定の他人に対する無限な責任と倫理的応答という問題は、すべての他人に対する法律的責任と均衡をなすべきなのだ。

大同民主の理念は過去の義兵運動、甲午農民戦争、独立運動、いわんや1980年代の民主化運動に活気を吹き込んだ抵抗談論の源泉であったかもしれない。これからあるはずの政治的不義に歯向かったり、外来談論の帝国主義と戦う際、有効な解放の旗となれるかも知れない。しかし、それが果たして危機状況ではない日常の平凡な現実を持続的に造形していた積極的原理であったかは疑わしい。儒教は過去、民衆に平等志向的で解放的な政治の原理であったというよりは、抑圧的で権威的な政治の原理であった場合がより多かったわけではないか。 

ここで理念型談論に接近するもう一つの知恵として、ヘーゲル的な客体化の基準を呼び入れるに値しよう。つまり、法と制度を通じて客体化されなかったならば、いくら美しくて崇高なる理念だとしても実在性が足りない虚構であるしかなく、従って歴史に記録される価値がない。これもまた行き過ぎたところがなくはないが、反対の行き過ぎを防ぐために思い浮かべるに値する主張である。先述したように、大同儒学の理念は危機状況を突き破り、不義の支配に歯向かう抵抗運動のなかではその実効性を遺憾なく発揮したかもしれない。血なまぐさい権力闘争のなかで大義名分としても、民衆を動員するための反乱の呼び掛けとしてもよく姿を現しただろう。しかし、正常状態を造形する統治原理として法制化されたことは、あまりなかったのではないか。 

羅鍾奭教授の著作は韓国の人文学がある程度、自生的生態系を備えていっていることを物語る重要な指標でもある。隣接学問の豊かな成果を反映し、関連主題に対する多様な立場の違いを顧みながら、自分の独特な観点を構築していく風景を見せてくれるからである。儒教的公共性、儒教的能力主義、そして儒教的民族主義の世界的普遍化の可能性に対する議論は、先述した疑いとは関係なしにそれ自体として意味があるし、隣接学問に寄与できる驚くべき成果である。生まれたばかりの大同民主儒学がこれからわれわれの質問を滋養分にして、その根をより深く下せることを望んでやまない。

 

訳:辛承模