[特集インタビュー] “私たちは戦争を行いません” / 佐藤久·李順愛·佐藤久
特集インタビュー
“私たちは戦争を行いません”
李順愛(イ・スネ)
佐藤久(さとう ひさし)
李順愛 今号の『創作と批評』は200号を記念する特別号として、同誌と因縁が深い、日本を代表する知識人の一人である和田春樹先生のインタビューが載ることになりました。和田先生は現在、世界的問題として浮上しているウクライナ戦争をめぐって活発に発言しておられます。そこからは、分断に至る朝鮮半島の姿もかいま見えます。
佐藤久 私が和田先生と出会ったのは、高校3年生だった1968年5月、先生がベトナム戦争反対のチラシを駅頭で配っておられたときでした。先生はご自分の戦争体験を、著書『ロシア革命 ペトログラード1917年2月』(2018年刊)のなかでこう述べられています。
「私は、1938年1月、日中戦争の最中、日本軍による南京陥落の熱狂の中で生まれた。そして日本が、中国との50年戦争に敗れ、ロシアとの40年来の戦争に敗北し、米国との5年戦争に完敗した1945年には、私は7歳で、国民学校の2年生であった。だから精神的には、私は戦後日本の子、その第一世代に属している。だが、中学校に入学した1950年に朝鮮戦争が勃発し、それが停戦協定締結で休戦したのは高校に入った1953年のことだった。私は二つの戦後で育ち、歴史家となった。したがって、戦争と平和の問題が、80歳となった私の歴史学にとって生涯の基本問題であったのである。」
このような先生の戦争体験はこのたびのウクライナ戦争に対して「即時停戦」を主張してやまないお立場とどのような関係があるのでしょうか?
和田春樹 最初の戦争の時は子供で、軍艦や飛行機、軍人や侍の絵ばかり描いていました。しかし私の家があった清水市も米空軍の空襲を受け、防空壕の中から上空を飛びすぎるB29の姿を見ました。だから8月15日には、戦争が終わって、ただうれしかったです。朝鮮戦争はわたしの中学時代に重なります。戦争が続いているのが不安であっただけでした。ですから1965年にベトナム戦争が起こると、30歳の社会人になった私は初めて戦争に正面から向かいあったのです。最初は「ベトナムに平和を」「殺すな」というベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のスローガンに同調しました。だが、68年に自分のグループを作って運動を始めた時(佐藤さんはその時から一緒に運動してきた50年来の友人です)には、侵略者アメリカを追い出し、罰を与え、裁くべきだとして、正義を求めていました。「米軍解体」、「さあここで戦争の機械をとめよう」などのスローガンは私たちが中心になって出したものです。私たちは米軍の中の反戦兵士と一緒になって、米軍が敗北するように運動しました。1975年ついに米国は敗北し、ベトナムから逃げ出しました。しかし、正義は実現しませんでした。米国は謝罪もしなければ、賠償も払わず、裁判も受けませんでした。だから、核大国は侵略を繰り返します。米国はイラクが大量破壊兵器を隠していると言い立てて、2003年にイラクに攻め込み、サダム・フセイン政府を打倒し、フセインを処刑させました。
だから、正義の実現よりも戦争を止めることが大事だと思うようになりました。ウクライナ戦争が始まったら、最初から「即時停戦を」と言い出したのは、私の80年来の経験からです。
李順愛 ところで、昨年2月24日にロシアがウクライナに侵攻した直後から、先生は戦争を止めるべく行動を開始されました。3月5日に最初の声明『ウクライナ戦争を止めるために日本政府は何をなすべきか』を他の歴史家とともに出された後、5月9日に第二次声明として日韓共同で『日本、韓国、そして世界の憂慮する市民はウクライナ戦争即時停戦を呼びかける』、7月7日には国連事務総長あてに『ウクライナ戦争の停戦を仲介して下さい』という公開書簡をこれも日韓の市民・研究者の名前で出されました。今年に入ってからは3月に『広島に集まるG7指導者におくる日本市民の宣言』を発表されるなど、精力的に活動しておられます。こうした和田先生たちの即時停戦の訴えは、いまだ少数の声であるとしても、日本の世論形成において無視しえない重みを帯びるものとなっています。今回の戦争を契機に突如テレビ報道の常連となったいわゆる軍事専門家という人たちによる現実把握、状況解説があれよあれよという間に常態化してしまった日本社会で、「傍観者にとどまってはならない」という第一次声明の最後の一節は今も鮮烈な呼びかけであり続けています。
和田春樹 昨年の2月24日、ロシアのプーチン大統領が「ウクライナ東部で特別な軍事作戦を開始する」と発表し、ウクライナに侵攻した時、ロシア史研究に生涯をささげてきた私は大きな衝撃を受けました。350年ほど一つの国であって、30年前にウクライナが独立するといって、二つの国になった同じ東スラヴの国ロシアとウクライナが戦争するとはまさに兄弟殺しの戦争です。しかし、どうしてアメリカは開戦を止めなかったのかという意識が私の中で消えませんでした。2021年10月、ロシアがウクライナ国境の軍を10万人規模に増強させた時に、バイデンがプーチンと話し合い、ロシアがそれほどにウクライナのNATO加入を恐れているなら、ウクライナを加入させないことにする、その代わり、ウクライナの領土保全を保障せよと言って、約束をとりつければ、開戦を回避することができたのではないかと思いました。見ていますと、ロシア軍がキーウめざして進軍し、ウクライナ軍が必至の防衛戦を戦っている中で、開戦から4日後、ロシアとウクライナの停戦協議が始まったのには驚きました。そして3月29日になって、イスタンブールでトルコが仲介して第4回の協議がおこなわれ、ウクライナ側がはっきりした停戦条件案を出すと、ロシアはこれを歓迎してキエフ方面の軍隊を撤退させました。ここで停戦の希望が生まれたのですが、その希望はすぐにつぶれてしまいます。後になって分かったのですが、この二日前の3月27日、ワルシャワでバイデン大統領が、この戦争は「民主主義のための長期にわたる闘争の最新の戦闘」だと宣言し、ウクライナとともに戦う、われわれはこの闘争に長期間身を投じると決意を披瀝していたのです。米国のこの決意からすれば、ウクライナが2日後に妥協的な停戦の条件を出したことは支持されなかったと考えられます。4月3日、ウクライナ検事総長が、ロシア軍の撤退したブチャで市民410人の虐殺遺体が発見されたと発表すると、それへの怒りの爆発はアメリカとヨーロッパを覆い、停戦会談は吹き飛ばされてしまいます。戦争は東部方面で本格的に始まることになりました。
バイデンのワルシャワ演説は、ロシアに対する「アメリカの新しい戦争」の宣言でした。アメリカ兵は参戦せず、戦うのはウクライナ人だけです。アメリカは武器と財政支援、情報と作戦助言を最大限供与し、自らは制裁による経済戦、官民あげての情報宣伝戦を進める。この戦争はイラク戦争、アフガン戦争までのようにアメリカ兵の戦死者を出さないので、そのかぎりではいつまでも続けられる夢のような戦争なのです。アメリカは米ソ戦争(核戦争になります)にならないうちはこの戦争を続けるつもりです。
李順愛 ワルシャワでのバイデンの発言は私も記憶に残っています。テレビのニュースを見ていて「あれっ」と思ったことを闡明に覚えています。停戦の動きと「反対のことをやってる」と、びっくりしました。どうなるんだろうかと不安がよぎりました。停戦協議は一度目は早々とつぶれてしまったのですが、先生方はねばり強く停戦の必要性を何度も訴えられましたね。
和田春樹 私がウクライナ戦争について、ズーム会議「ロシアのウクライナ侵攻を一日でも早く止めるために日本は何をなすべきか」を呼びかけ、その会議で声明を出すことを呼びかけ、「憂慮する日本の歴史家の訴え」として最初の声明を出したのは昨年3月15日のことです。日本政府に中国、インドと一緒になって、停戦を呼びかけ、仲裁をしてほしいと望む内容のものでした。翌日、外務省に申し入れをしましたが、日本政府はやってくれません。それで24日にロシア大使館を訪問し、大使に即時停戦を要請しました。次に出したのが5月9日の声明「日本、韓国、そして世界の憂慮する市民はウクライナ戦争即時停戦を呼びかける」です。アメリカの介入で戦争が本格化したことを念頭において、5月末に東京でクワッド(米日・オーストラリア・インド)の会議が開催されるのを意識して、日韓共同の行動に向かったのです。韓国の国会議員会館で4月11日に学術会議「ウクライナ戦争と韓半島」が開催され、その席で韓国神学大学の李海栄氏が注目すべき報告をされたことはすぐに伝わり、私は佐藤氏らと直ちに翻訳し、紹介したのです。ソウル大学の南基正氏を通じて李海栄氏に連絡し、一緒に声明を出すことができました。その声明の署名者の中に白楽晴兄も加わっていただいたのを知って、大いに元気づけられました。その延長線上で、6月21日には国連事務総長グテレス氏にあてた公開書簡も出すことになりました。これも基本的に日韓共同の行動でした。
李順愛 その最初から、先生は1950年に始まる朝鮮戦争の顛末を意識しつつウクライナ戦争の停戦を展望なさっていますね。1995年に『朝鮮戦争』を出し、徐東晩訳で創批社からその韓国語版を99年に出し、2002年に『朝鮮戦争全史』を新たに出し、その韓国語版を近く出されるというふうに研究を進められた先生であればこその問題提起だと思われます。「停戦協定で戦争を終えたほぼ唯一の事例である朝鮮戦争」と先生は話されています。
和田春樹 私は即時停戦を呼びかけた者として、停戦はどのようにして実現されるかを当初から考えていました。ウクライナ戦争の終わらせ方を考えようとする時には、朝鮮戦争を参考にしてそれとの比較から考える他ありません。世界戦争とそうではない戦争、地域的な戦争と二国間の戦争はそれぞれ事情が異なります。ウクライナ戦争は、起源からするとソ連解体から生じたウクライナのロシアからの独立にからむ対立の結果ですが、朝鮮戦争も日本帝国の降伏、解体から生じた朝鮮の独立、連合国による分割占領、敵対的な二国家の誕生、武力統一の戦争という流れですので、民族的な悲劇としても似ているところがあります。
佐藤久 先生は第一次声明の発表直後に、雑誌のインタビューで「『朝鮮戦争』の教訓から学べること」について話しておられますね。ちょっと引用してみます。「仲裁者不在、しかも戦争しながらの停戦交渉だったため、1951年7月に始まった交渉が停戦協定に結実したのは1953年7月だった。米国も北朝鮮も停戦モードで、米国務省のジョージ・ケナンがソ連のマリク国連大使にとりなしを依頼し、スターリンが中国と北朝鮮を説得して、交渉が始まったのだが、中国は捕虜の扱いをめぐり米国と意見が対立、米国は自分の要求をのませるために猛爆撃を加えた。金日成はたまらず戦争をやめたいと言って、毛沢東に叱られた。教訓は、仲裁者を立てること。停戦をして交渉することだ」(『サンデー毎日』2022年4月17日)。きわめて明解な教訓を導き出しておられます。
和田春樹 朝鮮戦争においては開戦から、北朝鮮の南侵、洛東江まで占領、米空軍の猛爆、国連軍の反撃、朝鮮人民軍敗走、韓国軍北侵、国連総会決議による国連軍北侵、平壌陥落、中国人民志願軍参戦、国連軍敗走という経過があって、両軍が38度線近辺で対峙状況となったところで、停戦が提起されました。マッカーサー国連軍司令官は戦争を拡大し、中国本土を爆撃、原爆を使用、台湾軍の本土進攻をおこなうことを提案しましたが、米国トルーマン大統領は戦争を「第三次世界戦争」に拡大させない、停戦をもとめるとして、マッカーサーを解任し、ケナンにマリクと会って、停戦の意思を伝えさせます。もっとも朝鮮領内での原爆使用はかまわないという態度でした。しかし米国は韓国政府には停戦の問題について相談しませんでした。ソ連のスターリンは停戦会談をしながら、戦争を続けていいと金日成を説得しました。中国も朝鮮もそれを受け入れ、停戦会談が開戦1年と15日になる日に開城で始まりました。今回のウクライナ戦争もすでに一年がすぎたことを思えば、今日、停戦の現実性と可能性について考えることは突飛なことではありません。ウクライナとロシアの間で停戦会談が始まれば、最大の問題はおそらく軍事境界線の決定問題だと思われます。軍事境界線をどこに引くかという問題です。朝鮮戦争では1951年7月に始まった停戦会談でしたが、軍事境界線の合意がなされたのは11月23日のことでした。これによって停戦にむかって大きく前進したと言えます。しかし、軍事境界線について合意ができたのに、停戦はすぐには実現しませんでした。米国大統領が自由のための戦争なのだから、捕虜は各自が望むところに帰るように選択させるべきだと主張して、対立が続いたからです。共産側はジュネーヴ条約にしたがって、捕虜をすみやかに引き渡せと主張しました。国連軍側は共産側に要求をのませるために北朝鮮に対する猛烈な空爆をおこないました。平壌はこの空爆で廃墟となったのです。金日成は即時停戦を望みます。他方で李承晩は統一がなしとげられないのに停戦するのに反対でしたから、捕虜を収容所から解放して、捕虜引き渡しを妨害する行動に出ます。停戦が近づくにつれ、李大統領の抵抗が大問題となり、米軍では李承晩をクーデターで解任することも一時は真剣に検討されたほどです。いま米国は停戦の時、方法を真剣に研究しています。ウクライナの勝利を目指して、クリミアを奪還するまで戦争を続けるというゼレンスキー大統領との対立が心配されていると見ています。
李順愛 最近になっても北朝鮮は日本海にむかって頻繁にミサイルを撃ち込んでいます。和田先生は今年の2月、ある講演で配られた「2023年年頭の世界の危機」と題されたレジメの最後にこう記されました。これは主に日本人を念頭に語りかけておられますが、私は北朝鮮にいる同胞たちにも先生のこのメッセージを読んでもらいたいです。
「現在のぞまれるのは日本海の平和不戦の誓いである。
日朝国交正常化の申し出によって日本海平和への合意を勝ち取ることである。
日本海を戦争の海にするな、日本海を平和の海に、ブルーシーに」
今現在、先生はどういうことをお考えでしょうか? また、東北アジアの連帯と平和などについて、25年後、つまり長期と短期の中間あたりの展望などについてお聞きできればと思います。
和田春樹 ウクライナ戦争を世界戦争に至らしめないためには、即時停戦をよびかけると同時に、ウクライナ戦争を別の地域に拡大させないようにすることが必要です。この戦争を戦っている米国は全世界的にロシアを包囲して、ロシアを追い詰めることを求めており、ユーラシア国家ロシアに東アジア側からも、米国、日本、韓国の力で圧力を加えることを願っています。こちら側にはロシア非難の国連総会決議に反対票を投じた北朝鮮がいて、ミサイル発射で暴れていますから、北朝鮮を圧迫すれば、ロシアを圧迫することになります。日本は国交正常化という国民的課題をかかえているのに、2006年に安倍首相が拉致された日本人はみな生きている、全員をただちに帰還させよと迫る対北朝鮮敵対宣言をして、日朝関係を極度に緊張させてしまいました。日本は北朝鮮に対して制裁を全面化し、極限にまで高めており、あらゆる関係を断絶させています。きたる5月に開かれるG7の広島サミットでは北朝鮮の核ミサイル開発に対する制裁を極限にまで高めようとしています。その上で日本の敵基地攻撃用のミサイル獲得の決意が表明されるのです。日本がしていること、やろうとしていることは韓国にとって致命的です。韓国が日本との関係を改善するのは日朝国交正常化を支持し、米朝、日朝の関係の緊張を緩和する方向に進むことです。4月5日に私たちが出した新しい声明「『今こそ停戦を』『私たちの地域の平和を』――2023年5月広島に集まるG7指導者におくる日本市民の宣言」では、次のように主張しています。「ロシアとウクライナは、朝鮮戦争の前例にしたがって、即時停戦のために協議を再開すべきです。(略)ウクライナ戦争をヨーロッパの外に拡大することを断固として防がなければなりません。(略)日本は朝鮮の独立をみとめ、中国から奪った台湾、満州を返したのです。したがって、日本は朝鮮、韓国、中国、台湾と二度と戦わないと誓っています。日本に生きる市民は日本海(東海)における戦争に参加せず、台湾をめぐる戦争にも参加することはなく、戦わないのです。」「日本海」、「東海」という海の呼び名の争いが日韓朝3国国民の間の対立の種でした。「日本海」を本当に「平和の海」にできたら、そのときは「ブルー・シー(青海)」とよぶように合意するということではどうでしょうか。