창작과 비평

[特集] 米中覇権競争の時代、再び顧みる東アジア論/白池雲

 

創作と批評 201号(2023年 秋)目次

 

特集/韓国という叙事

 

米中覇権競争の時代、再び顧みる東アジア論

 

 

白池雲

ソウル大学校統一平和研究院HK助教授。

著書に『抗米援朝』などがある。

 

 

1. 中国の浮上と東アジア論の危機


今われわれは、後日歴史書に記録されるほどの重大な転換期を生きている。ウクライナ戦争の長期化と南シナ海および台湾海峡で高潮される緊張は、強大国の衝突を管理してきた冷たい平和の体制が、その根底から揺さぶられていることを物語る。1940年代における米・英・ソの三つの強大国が世界秩序を管理するヤルタ体制の構想は、1950年代の米ソ「平和共存」のネオヤルタ体制へと、1970年代以後は米中敵対的共助体制 へと変形を経ながら持続された。だが、米中関係が戦略競争体制へと転換され、ロシア変数まで加勢した今、未来の行方を予測することはなかなか容易くない。「一帯一路」と「インド—太平洋イニシアティブ」の二つの巨大なる地域戦略が対決体制に入りつつある目前の形勢は、少なくともやってくる未来が米中両国間の競争を越えて、全世界の数多くの国々を行為者として呼び寄せる、全面的で複合的なアリーナになることを予告する。 

この巨大なる変化に直面して、去る30余年、知的・実践的運動として学界と社会に至大な影響を及ぼした東アジア談論の評価と展望に対する質問が提起されている。今の変化した現実を分析し、それに対応することに東アジア論が相変わらず的確なのか、それとも清算の手順に差しかかったかという質問である。どちらであれ、東アジア論が危機を迎えたという認識をその前提にしている。1990年代初め頃、創批が発信した東アジア論は、社会主義圏の崩壊と、殺到するポストモダニズムの波のなかで方向を失った韓国社会の抵抗談論に新しい窓口を開いてくれた。社会主義圏との国交の樹立、世界化の風などで日常的・認識的視野が飛躍的に拡大されながら、東アジア論は学問的範疇を超えて、市民運動、国家政策談論にまで幅広く拡大された。しかし、談論としての東アジア論がいつしか日常のなか、飽和状態となった東アジアを超える進展が設けられなくなりながら、停滞状態に入ったのも事実である。米中間の覇権競争体制が東アジアに例の冷戦時代の分裂と対決の記憶を呼び出す今、脱冷戦という時代の転換を迎えて韓国の知識界が先導的に提起した東アジア論に対する点検は、もう後回しできぬ課題となった。 

東アジア論は今も有効なのかという重い質問の糸口を、2022年の『東方学志』特集座談から見い出してみたい。雑誌の200輯を記念する座談 で、創批の東アジア談論の発信者のなかの一人であった白永瑞(ベク・ヨンソ)は、最近、東アジア論が危機を迎えた原因を二つにまとめた。一つ目は時代的雰囲気の変化である。東アジア論が提起された時期は、冷戦的対決を超えて脱冷戦和解の雰囲気が韓国社会に満ち溢れていた時期である。社会全般的に民族と国家の境界を超えようとする熱望が高く、新しい文明に対する関心も大きかったし、南北関係もまた好転される趨勢であった。ところが、もう米中競争体制が本格化し、基層においても互いに対する好感より嫌悪の感情が増大しながら、東アジア論が立つ場が急に狭くなったということである。二つ目の要因は中国の浮上である。1990年代当時にしても中国は朝鮮半島の南側に閉じ込められていた半国という地理的想像力の限界を克服することに重要な窓であったし、またそのような中国を相対化・歴史化することにも東アジア論は有用であった。しかし、去る10年余りにおける中国の急激な膨張と、それが惹き起こした国際秩序の構造変化は、東アジア論の範囲を越えてしまった。白永瑞は中国が東アジアを超えて世界史的問題となった状況で、東アジア論もまた、地域的視野に付け加え地球的視野を併せ持つ更新が必要だと診断した。 

座談のほかの参加者たちの指摘も傾聴に値した。韓基亨(ハン・ギヒョン)は韓国の東アジア談論が中国の知識人と思想的接点が見い出せなかったと告白した孫歌の文章に触れて、東アジア論がもしかして韓国に安住して東アジアの知識界と意味ある交感を交わすことに失敗したのではないかと問った。このような指摘は去る30年余り、東アジア学界と市民運動との活発なる交流と連帯活動の成果を、評価切り下げした面がなくはない。だが、長い交流にも関わらず、終局的に東アジアの最も重要な一員である中国の知識界に、東アジアが重みのある話頭として落ち着くことができなかったとしたら、そのこともまた真摯な省察が求められる。ある面でそれは談論自体の限界というよりは、東アジアに在りながら東アジアを超える中国の存在を、東アジアの一員であるわれわれがどのように認識し、受け持つかという、東アジア論本然の難題でもある。 

金聖甫(キム・ソンボ)もまた、東アジア論が直面した苦境として中国要因に注目した。東アジア歴史教科書の集いなどの経験に基づいて彼は東アジアの知識人と市民社会、青少年たちの交感と連帯活動が相変わらず大事だと見なしながらも、巨大となった中国の存在が東アジア共同体を考えることに障害として働かないか憂慮を示した。それと共に、中国の膨張と米中衝突をもって代表される21世紀の現象をまともに扱えないならば、果たして東アジア論は存在の意味があるかという彼の問題提起は、現在、東アジア論が直面した苦境の正鵠を射ている。 

『東方学志』の座談は、東アジア論が危機に至る過程に中国の浮上があることを改めて悟らせる。つまるところ、東アジア論は冷戦時期堅固であった認識的障壁で隔絶されていた他者を見い出し、彼らとの連帯を通じて主体的脱近代の像を模索する熱情であった。東アジア論には国民国家の境界を超えて、周辺と少数者の視角をもって根深い民族主義を質疑する遠心力と共に、去る世紀、東アジア人の視野と思考を制約してきた西欧的視角を克服し、東アジア各地の生々しい歴史的経験と実践を相互鏡として新たな主体性を構築しようとする求心力が一緒に働いていた。そのせいで、膨張する中国とそこから育つ東アジア内部の亀裂と葛藤の兆しに対して、東アジア論は意識的であれ無意識的であれ積極的に対応できなかったわけだ。すべての原因を中国の浮上として帰結させることはできないだろうが、中国問題が東アジア論の重要な出発点であるとともにアキレス腱となったことを否定することは難しくなった。 

しかし、逆説的に中国の浮上が惹き起こした米中戦略競争の世界秩序が、東アジアをもう一度地球上で最も問題的な場所に仕向けるはずだという点もまた、火を見るように明らかなことである。従って、われわれが直面した大転換の時代に学問的・実践的範疇として東アジアの重要性は決して退色しないはずだし、東アジアの視野で朝鮮半島の問題を分析し、展望を探す作業もまた、そうであろう。もちろん既存の東アジア論が今の巨大な転換にまともに介入しにくいという事実もまた、冷徹に認識すべきである。顧みると、1990年代の初め、東アジア論が登場した背景そのものが1970、80年代の民族民主運動の視角でもっては脱冷戦という巨大な時代的転換に対応できないという危機意識の所産であった。創批の東アジア論は民族文学論の胎内から育って、自ら殻を割って出たものとして、それ自体が思想の柔軟性と自己革新の産物であったわけだ。またそれは1970年代の民族文学論に内在した重大な思想的切っ掛けであった第3世界論を批判的に受け継いだものでもある。  2000年代以後、東アジア論が学界と市民社会の多岐なる層位で花咲かせた連帯運動の認識論的淵源は、民族文学論が抱いた第三世界民衆連帯の熱望へと遡る。長い眼目から眺める際、思想の継承とは必ずしも意識的・連続的ではなく、時に自己否定と克服という断絶の契機を通じて無意識的・非連続的に成されることかも知れない。そう見なすと、東アジア論の危機が切実に感じられる今こそ、思想談論として東アジア論を真に継承する転機を探す絶好の機会ではなかろうか。東アジア論が民族文学論を克服することで継承したように、新たな何かが東アジア論の殻を割って誕生することを待つべき時である。 



2. 転換時代、李泳禧の極東アジア論


東アジア論の克服と継承の道を探す思惟の旅程において、1970年代、「転換時代」の論理と意味を極め尽くした李泳禧(リ・ヨンヒ)先生の中国および極東関連の文章は多くの啓発を与えてくれる。1971~73年の間、いろんなジャーナルに寄稿されてから1974年、『転換時代の論理』(創作と批評社)として出版された彼の論説は、冷戦の真っただ中を生きていた韓国社会に、予告もなしに渡来したデタントの衝撃に対する実感、そして反共体制に安住して国際情勢の変化がまともに予見できなかった知識人に対する批判から始まっている。 

韓国国民はニクソンの中共訪問に天が崩れ落ちるかのように驚いた。中共を「永遠なる敵」でしかないと確信していた韓国国民は、その報道が出た瞬間から韓国の安危と国家的方向と自己の利害関係を心配し始めた。最近、先を争って極東情勢の海氷の不可避性を知っていたことを自慢する知識人と言論が、普段その任務を10分の1だけでも充実に行っていたならば、国民は国際情勢の進展に、ある程度気づいていたであろう。

1990年代の東アジア論の出現が、脱冷戦という時代的変化に対する呼応だというが、李泳禧は1970年代の初め頃、デタントから脱冷戦の瑞光を感知していた。1969年のニクソン・ドクトリンは1947年のトルーマン・ドクトリン以来、対中共孤立主義を軸としたアメリカの東アジア戦略が終結したことを宣言したものとして、1972年のニクソンの訪中と中日修交はそれに従う結果に過ぎなかった。当時、韓国社会は地球的脱冷戦はもちろんのこと、東アジアの真中へ染み入るデタントの機運から、おかしいほど断絶されていたのである。李泳禧が声高く警告したように、デタントが持ってくる世界秩序の再編は、何より極東(東アジア)と朝鮮半島に最も深い影響を及ぼすはずだったのにも。

李泳禧の論説で注目したいことは、デタントを陰から突き動かした時代的論理を弁える彼の眼目である。李泳禧はデタントがアメリカが主導したことでも、1970年代に入って急に発生したわけでもないし、戦後25年の世界情勢の変化、特に1960年代以来、10余年の変化が作り出した帰結だと見なした。  冷戦の緊張が一層高まった1950、60年代にも「平和共存」、「中立非同盟」など冷戦の論理を離反する多元化の力が、国際社会の底辺に多様な形で存在したし、1970年代初め、巨大な遠心力として可視化されたのがデタントだというわけだ。 

その流れの真ん中にいたのが中国であった。人工衛星の発射成功、対外援助事業として「タンザニア—ザンビア鉄道」の建設、人民幣の国際金融市場への進入、国連代表権の獲得、全世界修交国55ヵ国達成など、中国が1970年の一年間、国際社会に見せてくれた成果は、「竹のカーテン」がアメリカが作った神話に過ぎなかったことを示した。むしろ「国際的に孤立されたのは、去る20年間アメリカが孤立させようとした中共ではなく、取りも直さずアメリカ」という自嘲の混じった話までアメリカ内から出たほどである。  李泳禧が見るに、アメリカの対中共孤立政策の失敗は冷戦時期にも強大国の力が全的に統制できぬ、粘り強い趨勢が国際社会に存在したことを裏付ける。彼が執筆していた1970年の時点で中共を承認した55ヵ国のなかで42ヵ国が非共産圏であったし、その他にも数十ヵ国が国交樹立を打診中であって、近いうちにアメリカの反共体制に編入されたアジア国家と、NATO(北大西洋条約機構)に加入されたヨーロッパのアメリカ同盟国のほとんどが中国と修交を結ぶ展望であった。  李泳禧が見るに、このような逆流は冷戦の初期から存在していた。その例として彼は1957年、イギリスが対中共輸出統制委員会(CHINCOM)の一方的破棄を宣言してから、ほとんどの国々が相次いで離脱していった状況を挙げた。  関連の研究を見てみると、アメリカが1952年、CHINCOMを結成した背景自体が韓国戦争の途中にも中国との貿易を止めなかったアメリカの西ヨーロッパ同盟国を統制するためであったわけだから 、冷戦という人為的論理が生活世界の実像からどれほどかけ離れていたかが窺える。

李泳禧の論説が改めて諭させる重要な事実は、冷戦体制が決して画一化した両分構造ではなかったということだ。スターリンの死後、米ソ間で結ばれた「平和共存体制」、1969年頂点に及んだ中ソ分裂、中立路線を追い求める第3世界の国々およびアメリカと利害関係を異にするヨーロッパの先進国の独自路線など、国際社会の粘り強い「政治的多元化」 の志向は、アメリカが敷いた冷戦軌道の地盤を崩しつつあった。米中の勢力競争体制の形成で「新冷戦」という二分法的思考が再びわれわれの認識体系を襲いかかる今、冷戦体制底辺の、それを弛緩し、解体しようとする巨大な遠心力に注目した彼の慧眼は、やってくる大転換の時期を準備するわれわれに大きな示唆を与えてくれる。つまり、世界は外見のように強大国の論理だけで動くわけではないということ、従ってイデオロギーで包まれた虚像に安住せず、世界を動かす多岐なる動力に実事求是的に着目することで時代の真の論理を読み取るべきだということである。 

李泳禧が時代転換の一つの軸として中国に注目した点も、今の時点で重要な参照となる。中国の革命歴史と現実との乖離を見過ごし、政治体制と指導者の評価においてバランスが取れなかったところは限界であるが、国際情勢の中で中国を読み取る李泳禧の視角は、今の視角から見ても非常に鋭い。彼が中共を高く評価した核心の理由は、中国が冷戦の表層に隠された遠心力を読み取り、その側に立ったというところにあった。米ソ冷戦の二分法に支配されない広大な「中間地帯」があり、その中間地帯の力に頼る限り、時間は中国側だという毛澤東の楽観主義こそ、世界の超強大国であるアメリカの包囲網に耐えきった力の源泉であった。1960年代、ソ連とも関係が悪化するにつれて、中間地帯論は米ソ帝国主義(第1世界)と世界の弱小民族(第3世界)との間における第2世界の範囲を思い切り広めた「三個世界論」に取って代わられる。中間地帯論—三個世界論へとつながる冷戦時期の毛澤東の世界認識は、李泳禧がデタントの時代的論理を読み取った視角と一脈相通ずる面がある。両者が着目したものは、冷戦の真っただ中で冷戦の論理を離反する多元化の力であった。冷戦の論理で中国を締め付けたアメリカ、そしてアメリカが作った冷戦軌道の地盤を揺さぶる遠心力に寄託した中国の長い戦いは、結局、中国の勝利に帰結されて、その結果がつまりニクソンの訪中で象徴される米中デタントであった。  

それから半世紀が経った今、アメリカのアジア戦略はもう一度大きく旋回した。ニクソン・ドクトリンでアジアから一歩下がっていたアメリカは、「アジア再均衡」 を宣言したオバマ行政部以後、「インド—太平洋イニシアティブ」、日米豪印戦略対話(QUAD)などを主な理由としながら対中国包囲網を再構築している。50年前にそうであったように、アメリカの東アジア戦略変化の中心には中国があり、朝鮮半島はその変化の最も直接的な影響圏のなかにある。『転換時代の論理』で獄中生活の苦しみを経験した李泳禧が「上告理由書」に書いたところ、「中国に対する性格でバランスの取れた科学的認識能力を培うことが、国家と民族の安全および繁栄を保証する大事な道」 という認識は、今もなおその上なく的確である。 

白永瑞は1950、60年代の『思想界』と『青脈』から1990年代の創批の東アジア論へとつながる思想系譜の飛び石として、李泳禧を配置した。1970、80年代、韓国知識界の第3世界認識地図から外れていた社会主義中国とベトナムの実像を伝えて、冷戦の偶像に閉じ込められた韓国社会の病んだ構造を打ち破ろうとした李泳禧の努力は、韓中修交以後、変化した現実に対応する知的責務として東アジア論の道を早くから準備したことと言える。  ただ、当時の創批の東アジア論が李泳禧の遺産を直接的に意識したかは不明である。一時、中国革命に希望を寄託した多くの東アジア知識人たちがそうであったように、李泳禧もまた、改革開放以後、中国の急激な変化から受けたはずの幻滅を思想的にうまく処理できないまま沈黙していたことを東アジア論が課題として受け持てなかった点も、考えると惜しいところである。もしかしたら思想の系譜化とは、時代が一回循環して、また異なる転換期に入り、危機が襲いかかる時点に至ってこそ、過去に見えなかった自分の足跡と出会うことで形成されることなのかも知れない。 



3. 再び、思想の中間地帯を求めて


1970年代転換時代の意味を透視した李泳禧の眼目が、改めて意味深く考えられる理由は、アメリカと勢力競争に突入した今の中国の戦略が冷戦時期とそれほど変わっていないからである。過去、冷戦的二分法に帰属されることを拒む中間地帯と連帯して、アメリカの包囲網を徐々に無力化したことのように、現在中国はユーラシアとアフリカを繋ぐ「一帯一路」の巨大な帯をもって、アメリカの包囲網を外から取り囲んでいる。1970年代、李泳禧が注目した、東アフリカのタンザニアから中央アフリカのザンビアを連結するタンザニア—ザンビア鉄道( TAZARA)は、今も中国—アフリカの友愛の象徴として残っている。この路線の後続として2015年、西アフリカのアンゴラからザンビア国境に至る鉄道が中国鉄道公社によって完工された。真ん中に空いているザンビア横断路線まで完成されるならば、アフリカの東西を横切る大陸横断鉄道が中国の資本で敷かれることになるわけだ。  端的な例に過ぎないが、このことは「一帯一路」の歴史的淵源が冷戦時期における中国の第3世界援助に遡るし、その底辺に働く論理もまた、例の中間地帯論であることを暗示する。

違いがあるとしたら、過去の中間地帯論とその後身である三個世界論が帝国主義に対する世界弱小民族の抵抗であり、世界革命という理念によって裏付けられたならば、今の「一帯一路」にはそれがないという点である。その理念の空席を、過去に比することができないほど屈強な中国の資本が埋めていることは言うまでもない。これより根本的な次元で、その名称からが古代文明の交融と繁栄を象徴する「シルクロード」を参照したことからわかるように、「一帯一路」が模索する新しい理念は、つまるところある種の文明論的志向を隠している。「一帯一路」を資本主義経済様式を克服し、中国の歴史文明と社会主義を連結する脱近代的文明企画として解釈した汪暉の作業は、決して簡単に成されたことではない。  中国政府は「一帯一路」が経済開発プロジェクトに過ぎないと公言しながらも、それに理念的中身をつける作業はうまずたゆまず模索中である。興味深くに、ユーラシア大陸を中心に置いてインド洋と太平洋とを両側に抱える「一帯一路」と、アメリカの対中国包囲戦略として提出された「インド—太平洋イニシアティブ」の地図は、両者ともにインド洋と太平洋を地政学的に注視するという点でどこか重なる。日本の安部晋三政府が提案し、バイデン( J. Biden)行政府が受け取った「インド—太平洋イニシアティブ」の基礎を提供した「インド—太平洋」という概念は、アングロ—アメリカが支配する大西洋—太平洋に対抗する圏域として、ドイツの地政学者であるカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer)が創案したものである。太古の時から一つの「生活圏」( Lebensraum)として、西欧の植民支配に抵抗する対抗的海として誕生した「インド—太平洋」は、ナチスドイツの膨張主義はもちろん、太平洋戦争の時期、日本の汎アジア主義と京都学派にまで影響を及ぼした。  戦間期、ドイツの反西欧的地政学の産物である「インド—太平洋」が、アメリカの対中国戦略として戻ってきた点も逆説的であるし、太平洋中心の近代地図を超克する「文明再創造の企画」として「一帯一路」もまたインド洋と太平洋を「一つの海」と再規定する という点が思いがけない。二つの巨大な地域戦略が競い合う米中覇権競争に、文明対決の可能性が潜伏しているという予感を振り切ることが難しい理由である。

ここで30年前、東アジア論が初めて提起されていた際の問題意識が思い浮かぶ。当時、問題意識の核心は社会主義実験の失敗に直面して、より根本的な次元で資本主義の代案文明を模索すべきだということであった。白楽晴(ベク・ナクチョン)が1993年に指摘したところ、生産様式の変化に偏っていた社会主義と、精神文明を過度に強調する空虚な文明論とを超えて、日常生活の次元で人間の感情と情緒、「人間と宇宙との関係、人間と自然との関係、そして人暮らしの礼儀作法と修養法」の根本変化を合わせる代案的生産様式を、東アジアの文明資産から勝ち取って「世界史的な問題解決に動員してみよう」というのが創批の東アジア談論の出発点であった。  同じ号で崔元植(チェ・ウォンシク)は「現存の社会主義の崩壊こそ、国家と民族の境界を越えて世界的次元における民衆の世の中を開く第3世界論の真正性にもっと近寄る」基礎が設けられたと述べることで 、東アジア論が1970年代、民族文学論を率いた「第3世界的視角」 に認識論的基盤を置いていることを明らかにした。彼が東アジア論の話頭として堅持した「第3世界」とは、特定の地域や場所に留まる概念ではなかった。それは資本主義と社会主義を同時に止揚しながら、冷戦時代の思考を支配してきた二分法を克服して世界を主体的に眺めようとする認識論的議題であった。以後、「知的実験」と「実践的プロジェクト」とを結び付けた白永瑞の作業のなかで、東アジア論は具体的生の現場と結合した生きた談論として生命力と拡張性を得ることとなった。彼が提起した「二重的周辺」、「核心現場」、「複合国家」は運動の現場で互いを参照しながら連帯の経験を思想化した結実として 、東アジア人の連帯こそ、東アジア談論の実存的基盤であることを確認してくれた。こうして東アジア論は思想的に代案文明の模索、認識論的に第3世界的視角、実践的に他者/周辺部の連帯という鼎足の構造を備えたのである。 

しかし顧みると、2000年代以後、東アジア論が学問的・実践的に繁盛しながら、資本主義と社会主義を止揚する代案文明の模索という当初の問題意識に対する切迫性が形骸化した面がなくはない。米中覇権競争がともすると危ない文明論的対決に飛び火しはしないか、戒めの心を持つべきである今、生産様式や体制の次元を超えて人間の存在方式、人間と自然および宇宙との関係に対する根本的な省察から資本主義が処した危機を克服する代案文明を模索する東アジア論の問題意識こそ、今の現実に立ち遅れるどころか、根本的な次元で最も鋭く現実に近寄るものではなかろうか。 

1970年代、転換時代の論理を冷戦の二分法から逃れようとする力から見い出した李泳禧が今のわれわれに与えてくれる教訓は、迫ってくる米中覇権競争体制においても二分法の偶像が隠せない広大な中間地帯が存在することを認識し、準備すべきだということである。米ソ対決から米中対決へと姿を変えた二者択一の論理に再び支配されないために、われわれに必要なのは毛澤東の中間地帯論を相対化する思想の中間地帯を開拓することである。われわれの視野は両強大国のある一方に味方することを拒む地球上の数多くの国々と協力することはもちろん、国家理性を超えて連帯を必要とする幅広い思惟と実践の領域に向かうべきだ。迫ってくる米中覇権競争時代は冷戦時代とは異なる。敵対的に走るには生活世界がすでにあまりにぎっしりと連結されており、気候環境および生態危機とグローバルパンデミックの恐怖、希望を失っていく青年たち、地球的現象となった嫌悪問題、核戦争の不安など、これまで経験してこなかった人類史的難題に共同で直面している。この圧倒的な知的使命に応える思想の名が、必ずしも東アジア論である必要はないだろう。重要なのは東アジア論が今の現実において有効なのかそうでないかではなく、30年前の東アジア論がそうであったように、変化した時代が要求する思想の領域を切り開く冒険を敢行することである。巨大談論が不在であった、否、巨大談論を拒んでいた一時期が過ぎて、朝鮮半島の運命を世界史的転換の観点から眺める巨視的な視野が再び求められている。談論や思想は決して無から創造されはしない。前世代の韓国の知的系譜をまともに受け継ぐためにも、東アジア論をどのように踏まえて超えるか、知恵を集めるべき時である。(翻訳:辛承模)