창작과 비평

[現場] 沖縄、東京そして福島: 201号の対話「福島問題、原電事故から汚染水放流まで」を読んで

創作と批評 202号(2023年 冬号)目次

現場


沖縄、東京そして福島: 201号の対話「福島問題、原電事故から汚染水放流まで」を読んで


崎濱紗奈

東京大学東洋文化研究所東アジア藝文書院特任助教。

著書:『伊波普猷の政治と哲学』などがある。


東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の爆発が起きた当時、私は大学3年生で、就職活動の真っ只中にあった。あれから12年が経つが、当時のことを鮮明に覚えている。私は沖縄に生まれ育ち、18歳で大学進学のために上京した。それ以来今に至るまでずっと、東京に住んでいる。だから「フクシマ問題」について考えるとき、それは自然と、沖縄での経験と東京での暮らしという、私の中に混在する二つの立場が交錯することになる。

2011年3月11日、私は就職活動のために名古屋のある会社を訪れていた。ロビーで社員と面談を行っていたとき、突然大きな揺れに襲われた(ちなみに名古屋では震度4が観測された)。ほどなくして、携帯電話のニュースで、東北地方で巨大地震が起こったことを知った。その日はもともと名古屋で一泊する予定だったので、東京には帰らなかった。後から友人に聞いたところによると、電車もバスも何もかもが止まって、大勢の人が自宅に帰れなくなった「帰宅難民」という事態に、彼女・彼らも巻き込まれたということだった。翌日、新幹線で東京に戻り品川駅に降り立った時、普段なら蛍光灯で眩しく照らされている駅構内がほとんど真っ暗なのを見て、この地震が単なる災害ではないことを実感した。「原発が爆発するかもしれない」という危機感が、実態を伴って私を襲った。沖縄にいる母に電話をかけ、どうすべきか相談し、沖縄出身の友人を連れて、岐阜に住む叔母のところに避難することを決めた。沖縄出身の友人に声をかけたのは、空港がどのような様子かわからない中で、すぐに沖縄の実家に避難することも叶わないだろうと思ったからである。何人かに声をかけたが、数日後沖縄に帰った人もいれば、東京に止まった人もいた。

あの時避難したことは、私の中で今も大きなしこりのようにわだかまっている。個人的なことだが、今私は妊娠していて、あの時避難していなければ、もしかしたら胎児への影響があったかもしれない(対談で先生方が指摘されているように、原発事故の影響は直ちに測定できるものではなく、長い年月の中で初めて色々と明らかになるので、実際にどのような影響があるのか無いのか、現時点でもはっきりしたことは分からないが)ということを考えると、あの時の判断は正しかったのだ、と思えるし、1ヶ月間の滞在を許してくれた叔母家族にはとても感謝している。しかし、皆が私のように避難できたわけではない。何より、福島に住む人々には、それは叶わなかった。その後、福島で育つ子供たちの甲状腺の数値に異常が見られると聞いたり、それに類するニュースを耳にしたりするたび、私は罪悪感を感じた。

沖縄出身者として、いつも思うことがある。日本の安全保障のために、なぜ、沖縄は在日米軍基地の約70パーセントをも負担しなければならないのか?日本国憲法によって定められた基本的人権は、同じ日本国民として沖縄の人々にも適用されるはずなのに、どうしてこのような構造的不平等が何十年も継続しているのだろうか?その意味で、私は「不平等を告発する立場」に立たされることに慣れてきた。しかし、フクシマをめぐっては立場が全く逆転した。品川駅の電気が、福島第一原子力発電所から供給されていたかどうかはわからない。けれど、駅の電気が消えていたのは間違いなく、原発事故の影響であっただろう。18歳以降、福島から搾取する東京という立場に、私は知らず知らずのうちに立っていたのである(まさに南相旭先生が16頁で指摘している問題である)。東京に住み続けている以上、今も私のその立場は変わらない。今回の汚染水放出のニュースを聞いたときに真っ先に思ったのは、その汚染水は東京の人々のために作られた電気の副産物なのだから、もし放出するのだとしたら、福島の海ではなく東京湾で行うべきだ、ということだ。そんなことをしたからといって、東京の福島に対する搾取が帳消しになるわけでは全くないし、汚染水放出という事態そのものが持つ問題は解決されないが、東京の福島に対する責任として、政府や東京電力、あるいは東京の市民によって、そのような議論がなされてもいいはずだと思った。

叔母の家で避難している間、毎日呆然とテレビを眺めていた。繰り返し映される津波の映像と、爆発した原発の映像、そして国民の不安をなだめるために登場した天皇。何もかもに対してやる気を失って、私は就職活動を一時休止したのち、放棄した。3月12日以降も休みなく会社や就職活動サイトから届く沢山のメールを見て、これほどの異常事態なのに、それに目を瞑って日常生活を滞りなく送り続けようとする日本社会に嫌気がさした。ある出版社の面接試験が3月12日に予定されていて、絶対にキャンセルになるだろうと思っていたのだが、予定どおり行うと電話で連絡をもらったときに、異常事態を異常事態と受け止められないこの会社に絶望した。こうした一連の負の感情を、うまくいかない就職活動を放棄するための理由にしてしまったという反省の気持ちもあるが、あの時立ち止まってよかったと思う。言葉にならない鬱屈とした感情をなんとか整理したくて、私はその後、大学院に進学した。

博士課程1年目、四川大地震のボランティアチームで働いた経験のある中国の先生方と一緒に、福島にフィールドワークに行く機会を得た。その時の視察記録が手元にあるので、ここに記したい。「11月23日、川内村視察。いわなの郷、家路ロケ地、天山文庫、大津辺仮置場、直売所あれ・これ市場、五社の杜サポートセンター、コドモエナジー川内工場を見学。同工場が管理する施設「両忘庵」にて宿泊。11月24日、川内村から富岡町への移動中、福島第一原子力発電所を橋より遠望。富岡町、浪江町にて原発事故および津波の被災状況を視察。いわき市にて富岡町からの避難者の方が居住する仮設住宅を視察。」ここに記されているとおり、私にできたのは、文字通り「視察」することだけだった。川内村、富岡町、浪江町に足を運んだからといって、誰もいなくなってしまった町や、津波によって押し流され放置されたたくさんの瓦礫、避難所で生活を送っている人たちを目の前にして、何ができるわけでもなかった。バスで走行中、放射線量を測るガイガーカウンターが時折けたたましく鳴っても、それを聞き流すことしかできなかった。

訪れた場所の中で最も印象に残っているのは、大津辺仮置場だ。そこには、うず高く積まれたフレコンバッグの山が、緑のシートに覆われて延々と連なっていた。フレコンバッグに入っているのは汚染土である。フレコンバッグの耐用年数には限りがあるため、速やかにこれを焼却処分し、中間貯蔵施設に保管する必要があるとのことだったが、当時、中間貯蔵施設の建設にはまだ見通しが立っていなかった。焼却処分施設は既に建設されたものがいくつかあるとは言うものの、勿論反対の声があったのも事実だ。実際、「焼却炉建設反対」と書いた立て看板をところどころで目にした。いずれは無くなるものだから、「仮置場」という名前がついている。だが、それを無くしていく過程には様々な困難が立ちはだかっている。

フェンスで囲われた「仮置場」の広大な敷地を目の前に、私は沖縄の軍事基地のことを思い出していた。沖縄の基地には、“Base”と名のつくものもあるが、そうでない場合は大抵“Camp”という名前が付けられている。Camp Kinser、Camp Schwab、Camp Foster、Camp Hansen、といったところだ。“Camp”というからには、一時的にそこに駐屯しているが、いずれは移動していく、という意味があるはずだ。だが、沖縄にある複数のCampは現時点で70年以上、そこに留まり続けている。「仮置場」や「中間貯蔵施設」もきっと同じだろう、と直感的に思った。もちろん、沖縄の米軍基地の中でも、返還された土地はある。だが、返還された土地が薬剤汚染されていて、すぐにはその土地を使うことができない事例もある。土地の除染に何年かかるのかも分からなければ、今まで汚染されてきたことによって、周辺の住人にどのような影響が及んでいたのかさえ、はっきりと知ることはできない。

もちろん、軍事基地と原子力発電は、さまざまな位相において異なる。だが、ここで考えたいのは、どちらも国家や巨大資本という、その大きさの規模に関わる事象として私たちの前に立ちはだかっているということだ。そして、そうであるにもかかわらず、その影響は、国家や資本という枠の中には回収され得ない、一人一人の命や尊厳に関わるレベルで生じる、ということが共通している。対談「フクシマ問題、原発事故から汚染水放流まで」の中で最も印象に残ったのは、李憲錫先生が「エネルギー、特に電力問題は、基本的に規模の経済が作動する産業です」と指摘していたことだ。だからこそ、「国家やテクノクラートたちに任せておくのではなく、市民が監視して積極的に介入する戦略が作られなければ、資本、利益、国家間の論理に引き込まれてしまう」し、その介入を行う際には「国際連帯が重要な媒介」となるべきなのだ(対談14頁、括弧内は李先生の言葉から引用)。

そして、その国際連帯のためには、「私たちはこのシステムの一部であり、いつでも同様の事故を経験する可能性があることを自覚」することが必要である、という呉殷政先生の指摘に強く共感する(17頁)。このことは、李先生が「事故と地域を人と分離して他者化する傾向」に対して警鐘を鳴らしていることに通じるだろう。沖縄を「他者化」しないでほしい、といつも思ってきたのは私自身であるのに、「フクシマ」について何をどうしてよいかわからないがために、無力感を言い訳に、あるいは罪悪感を言い訳に福島の人々をどこかで他者化してきてしまったのではないだろうか、と思った。自分にも起こり得ること(実際、私の場合、東京に住んで福島の電気を消費してきたという意味において、すでにある意味で当事者なのである)であると意識することによって、この問題の普遍性に初めて思い至ることができるのだし、それこそが、国家や巨大資本に対抗するための勢力を形成するためのきっかけになるはずだ。たとえ国家レベルでの協調が難しい時局においても、宋基昊先生が指摘するように「東アジアの非核地帯を強調し続けるべき」だと思うし、今自分が立っている立場においてできる実践はたくさんあるはずだ。