창작과 비평

[寸評] 金二求『編集者の時間』(私の時間、2023) 小雨編集論

創作と批評 203号(2024年 春号) 目次

寸評



金二求『編集者の時間』(私の時間、2023)

小雨編集論



イ・ハナ / 編集者、児童青少年文学評論家
smallgreenthings@naver.com



私はメールアドレスを注意深くチェックする方である。その人について想像できるヒントが含まれていると思うからである。長い間憧れてきた出版社に入社した時、一番最初にしたことの一つは社内メッセンジャーアカウントを調べることだった。そうすれば、なんとなくむやみに似たい先輩たちに近づく小さな糸口が得られるような気がした。そのような希望を持って探してみたメッセンジャーリストの中で断然目を引くメールアドレスがあった。「editkim@ changbi.com 」。第一歩を踏み出したばかりの新人編集者として尊敬するしかなかった。アドレスの持ち主は金二求先生だった。
残念ながら、私が入社した頃、先生はすでに一線を退いていたため、そばで見て学ぶ機会が多くなかった。それでも時々遠くからそれとなく与えてくださる教えは、すべて優しく的確だった。どの分野の本も注意深く検討され、実務者に緊要な助言を惜しまなかった。
「編集者」という職業を一冊の本になぞらえるならば、「金二求」という名前はその定本に近いだろう。『編集者の時間』は「金二求」という定本をめくる機会を享受できなかった後輩の編集者たちにとって彼の肉声が聞こえてくるような嬉しくて貴重な本である。1984年に創作と批評社に入社し、一生を編集者として過ごした先生が『大山文化』等に連載した遺稿を集めたこの本には、編集者として備えるべき基本技はもちろん、自負心と哀歓、悩みやミスまでが率直に盛り込まれている。「版権に著者と訳者、編者だけが名前を載せただけなので」、編集者は「はしがきやあとがきに『編集部の〇〇様の労苦に感謝する』(···)などで『デビュー』した」(33頁)過去とは異なり、今は(大体)版権に担当者の名前を書くだけでなく、編集者が著者としてそれぞれ編集論を積極的に展開したりもする。誰よりも本に愛情が深い人たちであるだけに、編集者たちが書いた本にはあまねく耳を傾ける話が多いが、1980年代から2010年代に至るまでの1世代にわたる出版風景を通史的に網羅した編集論、子ども・青少年文学と成人読者対象の韓国文学を広く調べて検討した編集論はこの本が唯一だといえる。プリントアウトした紙の代わりにPDFで校正紙をやりとりし、赤いペンの代わりにタッチペンで校正事項を書く今日の編集者たちに史料としても価値が大きい。活版印刷の時代が終わり、今は本意から遠ざかり語源が分からない場合が多い「組版」の由来、同じ理由で固有の使い方が消え、「豚のしっぽ2つ(二重引用符[“”])」と混用される「豚のしっぽ一つ(単一引用符[‘’])」の本来の役割、版権に書かれた印刷日と発行日の違いまで、編集者ならば日常的に使いながらも何気なく見過ごした出版常識がぎっしり詰まっている。
この本は校正知識や語文規範だけでなく、編集者が肝に銘じなければならない姿勢も一つ一つ指摘する。慕っている著者の新作を担当するのももちろんわくわくすることだが、まだ誰も知らない新人作家を自分の目で発見する瞬間は最高の喜びの一つである。一目で多少質朴だった投稿作の束から「孔善玉」という「新人」を発掘した話はいつ聞いてもしびれるような感動がある。黄晳暎の大河小説『長吉山』(初版は玄岩社1984、改訂版は創作と批評社1995)を再出版し、以前の版本には抜けていた新聞連載一回分の原稿を見つけ出したエピソードでは、さすが抜け目のない編集者の輝く目が見られる。所々に染み込んでいる密かなユーモアは特に先生らしい。孔枝泳の小説集『存在は涙を流す』(創作と批評社、1999)が「『存在は涙を流さない』に突然正反対の意味のタイトルに変わって」(41面)載せられたエピソードは胸がどきっとするが、そっと笑いが出たりもある。
大きな足跡を残した編集者の本を読んだ後、同じ道を歩む一員として、私ならこの本をどのように書いただろうか考えさせられる。2013年に出版された先生の評論集『韓国小説の世界を読む」(図書出版作家)に載せられた論文の中で、評論家であると同時に編集者としての面貌が滲んでいる「媒介知識人として編集者の楽しさと苦しさ」、「子ども青少年文学賞の公募、果たして『私が一番売れているのか?』」 などは、『編集者の時間』を出版する際に再収録してもよかったのではないかと思われる。論文の性格上、この本にふさわしいだけでなく、予想読者がいくらか制限的な評論集に比べて出版、編集に関心を持る人たちと幅広く会える紙面が与えられたらもっと良かっただろう。
本の著者紹介文に故人の略歴が詳しく載っているが、執筆し編集した本だけが言及されているのは残念である。白楽晴先生が裏表紙の文案を見て称賛の一言を述べたという駆け出し時代の思い出が盛り込まれた『民族文学と世界文学Ⅱ』(創作と批評社、1985)をはじめ、韓国出版文化大賞を受賞した『おもしろい! 韓国古典』シリーズなど、先生が大事にしていたはずの代表編集図書を年譜のように収録していたら、一層意味深かったのではないだろうか。彼が企画・編集した本の目録は、韓国出版地形の主要な流れを一覧することができる一つの系譜でもある。幼少期からの科学小説に向けた愛情によって制定された韓楽源科学小説賞、青少年文学分野で「小説」だけでなく「詩」創作を督励し開拓した「創批青少年詩選」シリーズなどは批評作業を並行した先生の評論家としての功労でもあるが、長年の編集者生活で会得した現場感覚と実務推進力があったからこそ実現可能だった。
1980、90年代の出版社の風景、2000、2010年代の子ども・青少年文学の出版動向を垣間見ることができるのは、この本の貴重な価値だが、その一方で収録文の中で最も古いものは2002年、最も最近のものも2016年に書かれたものであり、2024年である今の時点で読むと過ぎ去った過去の話として読まれる部分もあり残念である。本の最後に載せられた「ウリマル(韓国語)クリニック」に日々更新される標準国語大辞典の見出し語や用例が反映されなかったのが全くそうである。常に新しいことに好奇心が多かった先生なら、連載した論文を編集しながら最新の出版傾向、変わった語文規定について加筆したに違いない。いくら立派な「編集者」であっても満たすことのできない「著者」の不在を切なく実感する。
社内メッセンジャーで目立った「editkim」というIDに憧れを抱いた新入社員は、後日彼の個人アカウントでメールを受け取ることになるが、そのIDは「boslbi(ボスルビ)」だった。そういえば「ボスルビ(小雨)」は「edit」を先生の語法で言い換えた表現ではないかと思う。『編集者の時間』で先生は「下級編集者は文章全体を修正するが、中級編集者は文章の半分を修正する。上級編集者は指示代名詞一つを追加したり、助詞を替えたり、文章符号一つを修正し、筆者の文体をそのまま維持しながらも、誤文を正して意味を明確にする。 (…)上級編集者の修正は編集者が白状しない限り、筆者が修正に全く気づかないほどである」(48-49頁)と書いている。ここで言う良い編集者とは、小雨のような編集者ではないだろうか。降るようで降らないようで、普通は気づかない弱い雨でも小雨が降れば、世の中は確かに以前とは変わっている。視界は鮮やかになり、新緑は生き生きとしている。土砂降りのように自分の話を大きな声で前面に出したがる時代だが、春先に種を発芽させるのは依然として小雨である。小さな声で世の中に新しい可能性一つを提示する大きな力を、小雨の編集論から学ぶ。


訳:李正連