창작과 비평

[論壇] なぜ鬼神の公共性なのか?

創作と批評 203号(2024年 春号) 目次

論壇

 


K-談論を模索する① 


なぜ鬼神の公共性なのか? 

茶山とわれわれの談論の模索

 

 


白敏禎(ベク・ミンジョン) 

カトリック大学校哲学科教授。著書に『丁若鏞の哲学』、『講義室にやってきた儒学者たち』、『孟子:儒学のための哲学的弁論』、共著に『茶山学勉強』、『恵崗崔漢綺研究』などがある。

mjbaek@catholic.ac.kr

 


丁若鏞と出会う道


茶山丁若鏞(チョン・ヤクヨン、1762~1836。茶山は雅号-訳注)の思惟に至るいくつかの道がある。20世紀の初め、植民地知識人たちは丁若鏞を代表的な経世家、国家と民族の危機を打開する社会改革論者として呼び出した。民族独立と富国強兵という西欧式発展モデルではなく、いわゆる儒教的近代性、あるいは実学的近代性を語る際も、茶山は深刻なる病弊を示した朝鮮後期の社会を改革する経世方案を設けた人物として照明される。『牧民心書』など政法書が丁若鏞の代表的な著述として刻印されたことも、同じような理由からである。だとしたら、彼の思想はどのような点で西欧式発展経路とは異なる儒教的近代性の特徴を見せたのであろうか。[1] 果たしてこのような方式の質問と答えが可能なのか。私はこの問題を苦悶するため、ここで茶山の鬼神物語を展開してみたい。

丁若鏞の家系には初期カトリック教会の成立と関わる人物たちが数人布陣している。長男の丁若鉉(チョン・ヤクヒョン)の妻の兄弟である李蘗(イ・ビョク)、義兄の李承薰(イ・スンフン)、甥婿の黄嗣永(ファン・サヨン)などは、カトリックの伝来過程において欠かせない人物である。特に曠菴李蘗(曠菴は雅号-訳注)は丁若銓(チョン・ヤクジョン)と丁若鏞兄弟が西洋の学問とカトリック学の意味を理解することにおいて決定的な役割をした。1784年4月15日に丁若鏞は故郷の南楊州馬岾で兄嫁の祭祀を終えて、船路で上京する途中、李蘗から初めて天主の天地創造と霊魂不滅説を聞いて相当な衝撃を受けた。[2] 丁若鏞が上京した後、李蘗の家を訪れて『天主実義』と『七克』など、カトリックの教理書を借りて読んだことが、西学との初めての出会いであった。1791年、湖南地域の儒者である権尚然(グォン・サンヨン)と尹持忠(ユン・ジチュン)が、母親喪で霊牌を燃やし、カトリック式の葬式を行ったことで処刑された珍山事件が発生した。尹持忠は茶山の母方の従弟であった。

1797年、丁若鏞は西教に染まったという政治的誹謗が続くと、もうこれ以上官職につくことは難しいと判断した。当時の国王である正祖が彼を同副承旨に任命すると、茶山はこれを辞退する長文の上書を奉った。[3] 茶山はいわゆる「自明疎」として知られたこの文章で、自分がカトリック学に初めて接した時は、祖先への祭祀を閉止するという話は聞いたことがないと抗弁した。1801年以後、流配の時期に丁若鏞が書いた文章を見ると、彼の話は単なる弁解ではなかったことがわかる。茶山は『喪礼四箋』、『祭礼考定』など、喪礼と祭礼に関する礼学書を書いたし、祖先の魂を取り扱う多様な儀礼の手続きを紹介した。また、『春秋考徴』と『尚書古訓』では国家儀礼に当たる祭天儀式と、社稷祭、禘祭祀、時享、廟祭などに対する精密な考証と代案も提示した。興味深いことに、丁若鏞のこれらの著作には世の中をぎっしり埋めた様々な鬼神たちの物語が登場する。茶山は上帝を始め、多様な天神と人鬼で構成された鬼神たちの世界を繰り広げて見せる。特に彼は鬼神のなかでも親を含めた祖先たちの霊魂を重んじ、祖先報本の祭祀儀礼がどのような意味を持つか苦悶した。  

茶山はカトリック学の書籍を読みながら、上帝の存在を認めた。そして、上帝が世の中と人間とを監督し、賞善罰悪するという点も頷いた。ところが、西洋の神父たちはなぜわが祖先に祭ることを禁止したのであろうか。取りも直さず、この問題が茶山が心のなかで抱いた重要な苦悶であった。祖先の祭祀を行いながらも上帝に仕える道はないか。茶山の思惟の核心には祖先への祭祀を始め、儀礼を通じて天神と上帝に至る紐帯の長い過程を復元しようとする熱望が存在する。茶山は霊性を共有した上帝と天神、人鬼の超越的世界を稠密に構成したし、それに応じて君主と臣下、万民の世俗政治を同一な論理で設計した。彼は上帝が地上の君牧(君主・牧民官)を選り抜くと見なしたので、上帝の命令は世の中に布陣したあらゆる名神たちと君臣すべてに及ぶ。茶山が提示した多様な鬼神祭祀は、このような超越と世俗の存在とを連結する重要な政治的行為だと言える。

茶山が信じた上帝と天地の名神たち、数多い祖先の霊魂は繁茂な鬼神の森を成す。合理的精神と実用主義、改革思想でよく知られた丁若鏞、彼はなぜ鬼神と祭祀、祖先の魂をそれほど重んじたのか。私はこの問題を突破しながら、儒教的近代性の名をもって茶山を呼び出すことがどうして不適切なのか論じてみたい。  



儒教的近代性論、何が問題なのか?


丁若鏞は19世紀の前半まで思惟し、文章を書いた。彼はカトリック学と西洋の中世科学を紹介した本を多数読んだと思われる。カトリック学に連累された彼の家は、厳しい苦難を経たし、茶山自身も正祖が死亡した後、長い流配の道についた。古典学者で実学研究者である林熒沢(イム・ヒョンテク)は17世紀以後、急変していた東アジアの秩序、つまり明清交替と西勢東漸の動きを目睹しながら、時代的変化を明確に自覚した主体たちが模索した新しい学術思想を実学として紹介したし、「実学がそもそも西学から触発されて生じたこと」を指摘した。[4] 彼は丁若鏞と崔漢綺(チェ・ハンギ)の思惟を「東西の学的出会いにおける二つの道」と紹介する際、これが二人の思惟を西学に対応するために構築されたものとして断定しようとする意図ではないと述べた。ただ関心を外に向ける時、西勢の側面が決定的な要因であったことは見逃せないし、17世紀以来の新たな学風である実学も、西勢東漸という世界史的潮流に対する主体的対応の一つの方法だと評価した。

ところで、私は西洋から起きた波長が極東地域に上陸したのは16世紀半ばからであるが、「少なくとも19世紀半ばまで東アジアに何か衝撃的な状況を演出することはなかった」という彼の言葉に注目したい。実際に朝鮮知識人が西洋文明を非常に警戒し、恐れながら対応を模索したのは、アヘン戦争以後であり、それが極まった時点は1894年の日清戦争で、西洋を学習した日本が東アジアの覇者として登場したときである。こうして見ると、茶山は西欧文明を全く意識していた人ではない。彼は西洋の本を読み、カトリックのため政治的破局を経験したが、西欧近代性を警戒したり、その代案を模索してはいなかった。彼にとって西学は朝鮮社会を批評し、新たに省察できる小さな端緒を提供しただけである。東アジア文化に対する自負心が強かった丁若鏞は、儒教的文明の文法を革新し、補完することに力を注いだ。[5]

ここで西欧近代性を反省しながら、いわゆる「儒教的近代性」の意味を猛烈に模索してきたキム・サンジュンの主張を見てみよう。彼は現代の社会科学者たちが提示した多重近代性(multiple modernities)、代案近代性(alternative modernities)理論は、西欧近代の特徴を近代性の指標とし、これが非西欧地域で多様な方式で具現された結果に注目したという点で、明らかな限界を持つと批判した。[6] 彼は「近代性とは人類文明の合作品であって、特定の文明や地域の特産物、独占材ではなかった」と評価しながら、「重層近代性論」を提示する。[7] 彼は近代性の歴史的層位を原型近代性(紀元前)、植民-被植民近代性、地球近代性(現在)の層位で分類する。朝鮮後期実学の可能性を論じた文では、グローバルな近代史が初期近代(11、12世紀)-西欧主導近代(18世紀前後)-後期近代(19世紀から現在進行中)の三段階を経て、相互包括的で重層的に働いたと述べる。[8] 彼にとって「儒教的近代性」はすでに中国宋代の程朱學において明白な性格を示したし、それ自体の力動性でこれまで深い底流を形成してきた。

キム・サンジュンは儒教的近代性論を朝鮮後期に適用する。そして、礼訟を通じた「儒教式近代的主権論」が形成される過程、国中が両班となる儒教的平等化現象のメカニズム、大衆儒教あるいは儒教の大衆化現象で誕生した東学を、儒教的動力が噴出された歴史的事例として紹介する。私がキム・サンジュンの儒教近代性論を引いたのは、彼が主張した朝鮮における近代主権の誕生過程が非常に問題的であるからだ。キム・サンジュンは17世紀以後、 礼訟論争を通じて朝鮮型、あるいは儒教的国民国家がすでに誕生したと述べる。彼は18世紀の朝鮮で儒教型(君主)絶対主義が現れて、そこから19世紀社会の底から儒教型人民主権運動が発生したと評価する。もちろん東学の流れはその代表的な事例である。私が同意できぬ地点は、彼が朝鮮で近代的主権が登場できたわけを、中世における最後の輪のような儒教の「親族要素」、「親族倫理」を断ち切ることによって可能であったと主張した点である。彼は宗法の名をもって宗法を消し、親族的要素をさっぱり除去することで、高い抽象的水準の絶対君主主権が建てられて、血縁的・親族的束縛から脱した近代主権が、次の世紀、人民主権の形成へとつながったと分析する。高度に抽象化された君主の絶対権力が貴族勢力を弱化させ、君主以下、万民の平等化過程を促したと見なしたわけである。このくだりで彼は朝鮮とフランスで人民の平等が成される過程が外形上、あまりに同じようだと主張する。   

私はキム・サンジュンが尹鑴(ユン・ヒュ)、丁若鏞の主張を借りて南人の礼論が家と国との連結輪を断ち、近代的君主主権論を誕生させたと主張したくだりで、西欧近代のフレームがどれほど強固なものなのかを再び痛感する。家族は私的で、社会と国家は公的だという二分法、血縁的親族倫理の輪を断ってこそ、近代的主権、人民主権の社会が可能だと見なす観点、これらには儒教的家父長制、あるいは儒教の親族原理である宗法制が前近代的な氏族社会の産物だと見なす長い慣行が潜んでいる。私は政治学界のある論文で、韓国は氏族の血縁的紐帯が一度も崩れたことがなく、このような氏族の紐帯が学縁・地縁・血縁の多様な姿で表出されたし、氏族内部と外部を画然と区分して組を作る韓国社会の様相を「拡大氏族体系に基づいた非常に分節された部族社会」と表現したくだりを読んだ。[9]

韓国市民社会の公的可能性は狭隘で閉鎖的な家族倫理から脱してこそ可能だと見なす点で、キム・サンジュンの儒教近代主権論もこれと同じような盲点を示していると考える。彼は茶山が親族的倫理から解放された国家礼(国家儀礼)を構想し、それが『邦礼草本』(後日の『経世遺表』)の執筆へとつながったと見なした。彼はこれを今日の憲法と類似した茶山の憲法的王朝礼だと述べる。[10] このことは茶山が宗法と慣習から解放された公的権力として、近代王権を『経世遺表』で提示したと見なしたわけである。だとしたら、儒教的近代論者の茶山は親族倫理から政治倫理を解放させた者なのか。彼は私的な家族と親族集団の血縁的拘束から逃れて、公的な近代主権を作り出した者なのか。丁若鏞の思惟を儒教的近代性論として解明したこれらの議論がどのような難関にぶつかるのか、茶山の鬼神物語を直に聞いてみよう。 



上帝と鬼神、天上で繰り広げられること


茶山が語った鬼神には最も高くて尊い上帝と、上帝が天と地でこき使う数多くの神たちがいる。その中でも重要なのは人の鬼神、つまり人鬼である。人鬼とは誰かの祖先なので、茶山が語った人鬼とは、取りも直さず祖先の霊魂を意味する。彼の鬼神論を見てみようとすると、まず『春秋考徴』と『尚書古訓』を見てみる必要がある。茶山は『春秋』という経典が、周の制度と儀礼が春秋時代に実際具現された歴史的証拠だと見なした。『周礼』の「春官」には、五種類の国家礼〔五礼、吉礼、凶礼、濱礼、軍礼、嘉礼〕が出る。茶山は『春秋考徴』において吉礼と凶礼を集中的に分析した。特に吉礼は神たちに供え物を捧げる儀式なので、吉礼を見てみると茶山が考えた鬼神たちの性格と意味、役割が理解できる。重要なのは彼が念頭に置いた上帝と鬼神は、単に個人的信仰の対象というより、国家の祭祀儀礼で仕えと恭敬を受ける対象だという点である。彼の鬼神説は王朝の政治的企画および運営と密接な関連がある。  

茶山は漢の儒学者たちが霊のない天界の星を根拠なく崇め、天上の天庭を加工したことを辛辣に批判する。[11]  だが、当の自分も上帝と天神・霊魂を伴わせて鬼神たちの帝庭を作り、超越と世俗、宇宙と地上とを緊密に連結した。茶山が描いた上帝と鬼神の朝廷は、君主と臣民で成された世俗の朝廷と正確に一致する。茶山は漢の儒学者である鄭玄のような注釈家が日月星辰に仕えたが、自分は霊験な鬼神を祭ることを強調しながら、こう語った。「ただあらゆる神たちが分属して、上帝の帝庭で命令を受けるが、(天神たちは)日月星辰を担当して管理し、(地の神は)土谷と山川を担当して管理した。聖人が彼らを祀展に配列して上帝に明るく仕える志を繰り広げた。注釈家たちは毎回形のある事物を捧げて神にするが、それが正しいことか。[12]

果たして鄭玄が語った天上の天庭と、茶山が提示した上帝の帝庭とを区別させてくれるのは何か。茶山は天上の天庭に霊験な存在がないと批判したが、これより重要なのは茶山が強調した鬼神の功と徳、つまり鬼神の公的価値だと言える。私はこれを鬼神の公共性と表現する。茶山はすべての祭祀は天の祭祀から出てきたので、郊、禘、祖、宗の祭祀が配天(天と一組にして祭る)の儀礼様式を持つと語る。自分の祖先と祖先の古い始祖に祭る禘祭祀、地と穀物の神に祭る社稷祭など、すべての祭祀は上帝を主亨として、祖先と天神を彼に配亨して祭ったということだ。茶山は王家の祖先と、その祖先の始祖である五つの帝王(五帝-伏羲、神農、軒轅、少昊、颛顼など)を、上帝に配亨する際、最も重要な基準は功と徳だと見なした。彼は古代の祭祀が功徳を基準にして、その徳が上帝と一組になれるほどであり、その功が下民に及ぶほどであってこそ、天神と人鬼が上帝の祭祀に配食できたという点を強調した。[13] 彼は上帝が命令した功と徳を天神が遂行するように、地上の君牧もそのような功徳を遂行することで天神と上帝に配亨され得ると見なした。上帝と鬼神と人間(人鬼)は功徳を産む存在という点で、互いに密接に照応しながら祭祀を通じて疎通する。

茶山は、五帝の禪讓と夏殷周三代の世襲は価値が異なるという点に注目した。三王は世襲したので祖先血縁の私的価値を重んじたが、五帝は世の中を公物として見なしたので禪讓を通じて聖賢の道統を継承したということである。「三王は子孫に王位を譲ったので彼らの祭祀は祖考(祖先)の血脈(血縁)を伝えることを大事にし、五帝は賢人に禪讓したので彼らの祭祀は神聖の道統を伝えることを大事にした。(…) 天に配亨したことは同じだが、五帝の礼は専ら聖徳のみを考慮し、三王の礼は専ら祖考のみを崇めた。このことが両者の異なる点である。だいたい五帝は「官天下」(世の中を公的に管理すること)したので、颛顼・帝喾・堯・舜はみな皇帝の子孫ではあったが、重んじたのは道と功と徳であって、血脈ではなかった。」[14]

聖人君主たちが公的であり得るのは、まず彼らが命を奉ずる世の中の天神たち、そして命令の根源である天〔上帝〕そのものが公的な存在だからである。茶山は天を至公無私の存在として描く。[15]  茶山は穆穆な上帝が上に在り、名神たちが四方を照らしながら配列しているが、彼らの威厳は鬼神の完全な徳から出てくるということを明らかにした。[16]  また、天の賞と罰は貴賤を問わず、地位と身分にこだわらないという点も強調する。[17] 天神と人鬼が天命に従うのは、上帝の完全な徳と公的な価値のためであって、威圧的な命令によることではない。祭祀は最も公的な存在である天、つまり上帝と上帝の命令を遂行する天神たち、そして人鬼たちの徳性と功労を公的に称える儀礼である。人間にとって祭祀は最も公的で徳が備わっている鬼神の能力を見習うことであり、子孫にこのような公的存在の価値を忘れないように教育することである。日常における祭祀儀礼は模範となる鬼神の公共性を継承する自発的行為なのだ。

茶山は祭祀の道理を論じながら、「ただ徳だけが供え物となる」〔惟德繄物〕という論点を強調する。徳のある者が供えた供え物であってこそ、祭祀に備えた黍稷と牲幣がまともに役割を果たせるという話である。[18] 茶山は上帝が歆饗する人間の徳と邪悪さはすべて形のないものであり、形のあるもののよい匂いや悪臭は上帝には意味がないと語る。肉身を持つ人間は形のあるものの姿を見て匂いを嗅ぐが、上帝はただ無形な徳の香りと、悪の汚くて不快な悪臭だけを判断する次第である。[19] 専ら功徳のみが鬼神が歆饗する無形の供え物である。

ここで私は二つの点を強調したい。一つは仕えるに値する鬼神であってこそ仕えられると見なした点である。いかなる理由であれ功徳のある鬼神であってこそ、人間から尊敬され得る。尊敬に値する功徳がなければ、鬼神は祭祀で歆饗する資格がない。もう一つは祭祀の主管者たち、つまり君牧と子孫たちが自ら功徳を積んでこそ祭祀に当たることができると見なした点である。禘祭祀の対象となる人鬼も、彼の徳が上帝と天神と一組になるほどであってこそ、配亨になり、祭祀を行う子孫も彼の徳が鬼神と同じであってこそ、祖先に有効な供え物が供えられる。従って、天上の神たちの間でも、鬼神と人間との間でも功徳の修行に欠けていたら有意味に論じる価値がない。 



孝とは何か?悪い親を恨む


親はつまり未来の祖先である。儒教では死後の祖先祭祀と普段の孝をすべて重視した。親に対する親愛の感情である孝と、兄を始め年長者に対する恭敬を意味する悌は、儒学者たちが人間関係を調律する際、最も重視した態度であり方法である。孔子は「孝悌する人は外でも乱を起こさないだろう」と信じた。[20] 孟子は「親しい者を親愛し、大人を大人として敬うと世の中が治められるだろう」と言ったし、[21]「仁義の核心はつまり親を親愛し、兄を敬うことにある」と言った。[22] 孔子と孟子が強調した孝悌は、人間が持つ孝の先天的情感に注目したものというより、春秋戦国時代における激しい無秩序と戦争を終息させ、平和と秩序を回復することに関心を持ったものである。孔子と孟子のように、親と子息の良し悪しを問わず、守ってあげる親愛さが結局、社会的安寧と共存に役立つと見なした立場があった半面、荀子学派のように大孝は分別なく親に従ったり、親の意思に従うわけではなく、義理の是非を問って親に諫爭する子息があってこそ、秩序が回復されると見なした立場もある。[23]

茶山は家族間の孝悌をどのように理解したのだろうか。『論語』には羊を盗んだ父親を隠してくれた子息に関する有名な物語が出る。茶山は親が違法な行為をした時、子息は泣きながら諫言するだけで、親の意思に逆らう行為はできないと見なした。[24] 『孟子』には舜王の父親である瞽瞍が殺人をしたとき、舜王とその臣下である皐陶はどう対処するかを問う仮想の質問が登場する。茶山は臣下の皐陶が王を逼迫して舜王の親を法の通り処罰することは難しいと診断した。[25] だとしたら、茶山は親と子息との間における孝悌を自然的本能として認め、違背することはできないと見なしたわけか。 

孟子とその弟子である萬章との対話を見てみよう。舜王は父親の瞽瞍に手厚く孝を尽くしたものの、親は彼を慈愛深く愛することがなかっただけでなく、甚だしくは虐待し、殺そうとまでした。そうすると舜は天を仰ぎ見ながら恨み、思慕する心で泣き叫んだ。萬章は孟子に舜がどうして親を恨むことができるかと反問した。[26]  朱熹と朝鮮の学者たちのほとんどは、このくだりについて子息が親を恨んだのではなく、親にまともに愛されない子息の足りなさを自ら責めたことだと解釈した。残酷な親である瞽瞍ではなく、そのような親から愛され得ない舜王自身を恨んだくだりとして理解したわけだ。茶山は先輩たちの解釈は間違ったと批判しながら、舜が親を恨んだのだと主張する。「瞽瞍は毎日舜を殺そうとしたが、舜は何気なく心配しないまま、言うに「私は恭しく子息としての本分を尽くすだけである。親が私を愛しないことが私にどんな関係があるというのか」と言ったならば、舜は心が冷静で親をあたかも道端の人を見るように遠ざけた者である。だから天に向かって泣き叫びながら親を恨み、思慕したわけで、これが自然な道理である。[27]

茶山は子息を愛しない悪い親は恨むべきだと言う。そのような親を恨むことは、むしろ親に仕える孝道の一つの方法である。もし残酷で冷淡な親を恨まなければ、それは親を他人のように思うことなのだ。彼にとって孝は親に対する服従ではなく、子息に対する親の責務〔慈〕と共にする相互的で互恵的な関係原理であった。恨むことを分析した茶山の文章がある。「父親が慈愛深くなければ、息子が恨んでもいいのか。まだいけない。だが、子息が孝を尽くしたのに、父親が慈愛深くなくてあたかも瞽瞍が舜王にしたようにするならば、親を恨んでもいい。王が面倒を見なければ臣下は恨んでもいいか。まだいけない。臣下が忠誠を尽くしたのに、王があたかも懷王が屈平にしたように面倒を見なければ、王を恨んでもいい。」[28] よく儒学的関係原理を、家族から社会へ拡張することとして理解する。しかし重要なことは、親と子息の関係においてもすでに私的で公的な親疎の二つの原理が共に働いたという点である。孝と悌が指し示す親愛さと恭敬さは、親密で近い関係と敬い、恐れ、距離を置く関係をすべて含む。

茶山は基本的に親に仕え、その意思に従う親愛さの態度を重視した。しかし、誤った親を責め、恨みながら子息に対する親の責務を喚起すべきだと見なした。もちろんこのことは親と子息関係の軽重によって異なりうる。孟子は弟子の公孫丑とともに、親を恨む事例を語った。『詩経』の「小弁」は周の幽王が褒姒の讒言で太子の宜臼を廃位した物語が描かれた詩である。孟子は宜臼が父親を恨んだのは、親の過ちが大きいから子息が親を恨むことが、親愛のある態度だと共感した。それに反して『詩経』の「凱風」は親の過ちが微々たる場合である。親の過ちが小さいのに、子息が引き続き恨むと、これも不孝となる。[29]  茶山は孔子が詩をもって恨みを表現することはできると言ったし、当然恨むべき時、恨まないことをむしろ心配したと解釈する。[30]  親が私を虐待するならば、「私が天に何の罪を犯したのか、わが罪は果たして何なのか」と反問するより、慈愛でない親の間違いを直視して、舜がするようにその親を恨むべきだということである。

茶山のこのような発言には、親と子息の関係を親愛さと恭敬さという二つの側面から調律する、儒教的関係原理に対する省察が含まれている。例えば、親の喪を行う際の姿を見よう。初喪の時は亡くなったばかりの親の魂に対する子孫のもどかしくて絶望の感情、深く親しみ愛する態度を表現することが、最も優先的なことである。この時は亡者と喪主を媒介する煩わしい儀節を省き、装いを最小化する形で喪礼を推し進める。死体を棺に入れて、借り喪狩りの間に安置すると、喪服に着替えるなど、数段階の装いが細密に付け加わる。それから死体を埋葬する葬式儀節を手続き通りに終えると、その時から近い血縁間の親愛を表現する哭を完全に止める卒哭の段階へと進む。この瞬間からは亡者の魂を鬼神として見なす。親と子息との親愛ではなく、鬼神に対する恭敬、言い換えると、私と距離のある存在に対する恭敬と尊重の態度を示すわけである。[31]  このことは子息が親にどのように孝を実践すべきなのかに対する手がかりを示してくれる。親の意思に従い、親に仕える親愛の態度だけでなく、親の間違いを諫言し、親を責める態度もまた、必要である。

儒学者として茶山が理解した親と子息との関係は、私的親密さだけの対象ではない。茶山は人が親に本能的に孝心を感じるとは考えなかったし、子息に対する愛と責務を経験してこそ、親に対する孝心も理解できると見なした。[32] ここで重要な点は、儒学者たちが親に対する孝心を親に限定しなかったという点である。親に孝行することは、親が愛していた人々まで面倒を見ることだと理解したからである。生死を問わず親に仕えることは、その親が愛し、大切にしていた人々を、親の死後も共に世話をし、面倒を見ることを意味する。国家の太学(成均館)で、地方の郷校で、門衆で年寄と年長者の世話をし、孤児を共にケアしたのは、孝悌の家族的原理を日常の共同体へと拡張した事例である。[33]  茶山は賢君が天命を受けて政治を行う際、孝を拡散して達孝を成すことを急務としたと見なした。そして、家中の歓心を得て祖先に仕えることが士大夫の孝であり、国中の歓心を得て先王に仕えることが諸候の孝であり、世の中の人々の歓心を得て上帝に仕えることが天子の孝である。(…) あの方々が敬っていた者を敬い、(…) あの方々が親しみ愛していた者を親しみ愛する」と語る。[34] 茶山は祖先に供える供え物が香ばしいわけではなく、ただ明徳のみが香ばしく、鬼神はただ明徳のみを歆饗すると語る。この際の明徳とは、空しいものではなく、多くの人々が共に感じる大きな喜び、歓心を意味する。[35] 自分の明徳はつまり鬼神が好み、歆饗する功徳である。鬼神が好むことは、親愛さと恭敬さ、世話を拡充してわれわれが共に喜ぶ大きな歓心である。 



茶山、そしてわれわれの談論の模索


茶山の発言を踏まえて儒教的近代性論の問題を再び見てみよう。家族と社会の二分法ではなく、親と子息で代弁される家族の公共性が核心問題である。氏族の血縁的束縛から脱してこそ、近代的主権と市民社会が形成されるわけではなく、家族関係と孝悌慈に現れた相互ケアと責務の公的性格を見抜いてこそ、儒教的人倫関係の公共性が省察できる。私が祖先霊魂と鬼神の話で茶山を紹介したのは、祭祀儀礼が持つ公的指向性のためである。功徳のない鬼神は供え物を歆饗する資格がなく、功徳のない子孫は祭祀を行う資格がない。親が慈愛でないと、子息は親を恨む。祖先が貪官汚吏であったとしても清吏と見なしてこそ、子孫を糾合して祖先祭祀を行う名分ができる。祖先魂と鬼神の公共性、親の責務と子息の孝道は家族が必要とする公的価値の性格がどのようなことなのかを見せてくれる。家族は単に血縁で連結された生物学的集団ではなく、よい価値を共有し、共に守っていく共同体である。そうでないと、家族のアイデンティティは代を継いで継承することができない。[36]

いわゆる「儒教的近代性論」で丁若鏞の思惟を照明することはできないというのが私の立場である。儒学者である茶山は絶対王政に等しい君主の絶対主権を苦悶した者ではなく、家族の公的孝悌慈が地域の老人と子供の世話をする相互ケアと、共存の価値へと拡散される道を模索した人物である。彼は家族の公的運営が村と地域社会の公共性を高める土台だと考えた。家族が公的でないと、社会も公的であり得ない。私は本稿で西欧近代に対する強迫や負債感がなかった茶山の鬼神物語を通じて、突破口を苦悶してみた。われわれの談論の可能性を模索しようとする長い道程で、祖先魂と親・子息の関係、家族の公的機能を熟考していた茶山の省察がどのような糸口を設けてくれるか考えてみる。 

19世紀半ば以後、われわれが体で体感した西洋文明の圧倒的流れと威勢は、今も続いている。軍事的物理力と科学技術、資本主義を装着した西欧の近代性は、相変わらず避けられない問題である。[37]  この点で白楽晴(ベク・ナクチョン)が提案した近代克服と近代適応の二重課題は、われわれが直面した現行の問題が何かをよく示している。誰かは、賛成するにせよ、批判するにせよ、近代性問題にこだわることが、むしろ西欧中心主義を自ら内化する結果をもたらすと心配するかも知れない。だからといって、この問題を避けたり、無の状態で始めることもできない。西欧近代性がわれわれに付加した精神的足かせの中の一つは、伝統に対する中道的批判を難しくした点である。伝統否定論、批判論に劣らず伝統肯定論、礼賛論も均衡がとれにくいのは同じだ。[38]  自己中心をとろうとする中道的批判意識をより深く苦悶することとなる。 


      訳:辛承模


 

[1]「近代性」は英語のモダニティ(modernity)の翻訳語である。モダニティは近代、近代性、現代、現代性など多様な方式で翻訳される。ある時期としての近代、西欧近代の重要な特徴を意味する近代性などを厳格に定義しないまま、「儒教的近代性」を語ることは問題の本質を避ける危険を生み出す。要するに、近代と近代性を規定なしに幅広く使うことによって、資本主義近代、植民地収奪、環境破壊などに対する批判の焦点をむしろ曖昧にする。この問題点については、白楽晴、『近代の二重課題と朝鮮半島式の国造り』、創批、2021、29~31頁参照。

[2]『茶山詩文集』巻15、「墓誌銘」「先仲氏墓誌銘」。

[3]『茶山詩文集』巻9、「疏」「誹謗を弁解し、同副承旨を辞退する上書」。

[4]林熒沢、『21世紀に実学を読む』、ハンギル社、2014参照。引用は88頁。

[5]林熒沢は批判談論として実学を紹介しながら、黄宗羲(ファン・ゾンヒ)と丁若鏞に主に注目した。彼によると、茶山は東アジアにおける中華秩序の変化を熟考し、政治体系においては権力の正当性を省察する「原牧」と「湯論」のような文章を書いたし、修己治人を完備するための学問的方法を模索した。林熒沢、「批判談論としての実学」、『韓国実学研究』第31号、2016参照。私は茶山の学問的成果が西欧近代の狂暴な流れに飲み込まれる以前の、儒教的文明社会の企画と理想をよく示す事例だと考える。

[6]キム・サンジュン、『孟子の汗、聖王の血:重層近代と東アジア儒教文明』、アカネット、2011参照

[7]同書、68~69頁。

[8]キム・サンジュン、「実学は一つなのか、いくつなのか、それともそもそもなかったものなのか」、『韓国実学研究』第32号、2016参照

[9]イ・ヒョンフィ、「韓国政治と価値の権威的破綻」、『政治と評論』第9巻、2011、193~94頁。彼は他の論文においても韓国社会の政治的跛行と、妥協しないことを伝統的な血縁的氏族中心の価値観のためだと辛辣に批判する。イ・ヒョンフィ、「政党スポークスマンの言葉と韓国政治の慣習」、『政治と評論』第4巻、2009参照。

[10]キム・サンジュン、前掲書、474頁。

[11]『尙書古訓』巻6、「24. 君奭」」。

[12]『春秋考徵』巻1、「吉礼」「郊九」。

[13]『尙書古訓』巻1、「堯典」「月正元日、舜格于文祖」。

[14]『尙書古訓』巻1、「堯典」「正月上日、受終于文祖」。

[15]『論語古今註』巻9、「陽貨」(下)。

[16]『尙書古訓』巻7、「30. 呂刑」。

[17]『尙書古訓』巻2、「3. 皐陶謨」。

[18]『梅氏書平』巻3、「旅獒」「孔壁本有文無注、在十六篇中」。

[19]『尙書古訓』巻7、「30. 呂刑」。

[20]『論語』、「學而」第2章。

[21]『孟子』、「離婁」第12章。

[22]『孟子』、「離婁」第27章。

[23]『荀子集解』、「子道」。

[24]『論語古今註』巻6、「子路」(下)、「葉公語孔子曰吾黨有直躬者」。

[25]『孟子要義』巻2、「盡心」(上)、「桃應問、舜爲天子、皐陶爲士、瞽瞍殺人」。

[26]『孟子』、「萬章」第1章。

[27]『孟子要義』巻2、「萬章」第5章。

[28]『茶山詩文集』巻10、「原怨」。

[29]『孟子』、「告子」(下)。

[30]『詩經講義』、「小旻之什」「小弁」。

[31]イ・ボンギュ、「人倫:争奪性の解消のための儒教的構成」、『泰東古典研究』第31巻、2013、131頁参照。

[32]『大學講義』、「傳九章」。

[33]丁若鏞、『訳注牧民心書』(全7巻)、茶山研究会訳注、林熒沢校閲、創批、2018。第2巻第4部「愛民六條」参照。茶山は養老、慈幼、振窮、哀喪、寬疾、救災の条目で地域の老人と孤児、子供、貧しい者、疾患者を救済し、災難に共に備える方策を詳しく紹介した。

[34]『中庸講義補』、「踐其位行其禮」。

[35]『茶山詩文集』巻10、「原德」。

[36]宮嶋博史は18、19世紀の朝鮮後期と日本とを比較、分析しながら、2代以上代を継いで「継承される家族アイデンティティ」というものは非常に特異な現象だと主張した。「18~19世紀における東アジアの朱子学:社会的拡散とその背景」、成均館大学校東アジア学術院国際学術会議基調講演発表文、2023.1.12。

[37]キム・サンジュンの「重層近代性論」も、この問題に対する知的苦悶の一つの結果だという点では有意味だと思う。

[38]白楽晴は西洋近代文化に対する両価的情緒が、始めは民族文学論の形で、次は朝鮮半島の現実を解明する分断体制論へ、そして近代世界全体に関する二重課題論へと発展したと紹介する。私はこれが伝統批判と克服、そして伝統発掘と再創造という二つの欲望と類似した性格を持つと考える。白楽晴、前掲書、33頁参照。