[特集]グローバル化以降の世界と物語
特集/世界の物語、いかに書くべきか
グローバル化以降の世界と物語
徐東振
徐東振(ソ・ドンジン)
韓国・桂園芸術大融合芸術学科教授。著書に『自由の意志、自己啓発の意志』『同時代以降:時間・経験・イメージ』、共編書に『非同盟独本』など。homopop@kaywon.ac.kr
気候危機をいかに物語化すべきか
気候変動ではなく、体制変化のために戦うべきという気候正義の運動が声を高めている。気候危機を単に自然世界で起こるものに還元できないことをみなはっきりと自覚するようになったためであろう。現在、気候危機が社会的かつ歴史的な現象であることを否定する人々はさほど多くないだろう。しばらく前に周辺でよく見られた、声を大きくした気候危機否定論は、圧倒的な科学的証拠と論争の末に姿を消した。しかし昨年、ドバイで開かれた国連気候変動枠組条約締約国総会(COP28)はみなを失望させた。もはや今のような状態ではいけないと、即刻の化石燃料の段階的廃止(phase out)を叫ぶ人々の要求を見捨てたまま、化石燃料からの「転換」(transition)という曖昧な目標の採択にとどまってしまったからである。気候危機の緊急性を憂慮し、遅れたり熟慮したりする暇もない、迅速な介入と解決を要求する人々の怒りなどの主張が受け入れられないのはなぜか。それは気候危機において言及される気候がさほど自明なものでないからだろう。気候危機を解決するために大気中の二酸化炭素の濃度を減らしたり、炭化水素をベースにした化石燃料の使用を減らしたり、大気の温度を1.5度以上下げたりするなどの物語は、気候危機に瀕した世界をより鮮明に理解するのに十分役に立つ。それは、科学的証拠を通じて問題を定義し、解決のための措置や対策がいかなるものかを示唆する。しかし、それが気候危機に対処するために要請される完全な物語であると断言するのは困難な状況である。
気候危機をどのように象徴化すべきか、つまり批判的に物語化すべきかという問題は、気候危機だけに限られたものとはいえない。気候危機の再現という問題が直面した困難は、まさに資本主義の再現という問題を重ねて想起させるからである。気候危機が時空間的に人間の個人的な知覚の範囲を超えているという点、すなわち人間の尺度(human scale)では到底把握できない大きな力として考えられざるを得ないことを想像してみたり、気候危機を生産する社会的行為が、特定の人物や場所に局在化し得ない、体系自体の暴力であることを想起してみても、このことは現在の資本主義を物語的に再現しようとするときに起きる困難と距離的にさほど遠くない問題である。したがって、気候危機と物語の関係を考えることは、新自由主義的なグローバリゼーション以降の資本主義をいかに象徴的に物語化するかという問題に取り組む際にも役に立つ。
図式的な主張のように聞こえるかもしれないが、理解の便宜のために、気候危機において言及される気候を三重の次元にまたがったものとして考えてみてはどうだろうか。[1]たとえば、科学的事実としての「気象」、社会・歴史的実在としての「気候」、そして現象的な主観的経験( lived experience)としての「天気」に分けてみてみよう。まず最後の、経験としての天気から考えてみよう。私たちは一日またはある瞬間の天気をふと感じる。蒸し暑かったり寒かったりする日に、私たちはこのような天気が気候危機の余波であろうと推測し、深い憂慮の表情を浮かべる。しかし、いつものような穏やかな天気も気候危機の中の天気である。個人的経験の世界にとどまる天気は、天気予報の中の気温や風速、湿度が示す科学的抽象としての天気とは異なる。天気は公約不可能な個人の経験における謎のようにかなり遠い問題である。気候危機に対処しようとする公共キャンペーンは、通常このような天気の感覚に訴える。これは気候危機に対する自覚のために、かなり乱れている異例の天気と、それを取り巻く私たちの衝撃や不安を絶えず想起させる。そのような象徴化が共感と感情を効果的に引き出す修辞的な戦略だからであろう。
しかし、それほどにも個人の経験する天気に心理的に訴えるアプローチは、気候危機を完全に「経験」する道を阻んでいる。急に関心が増大している「気候人文学」が没頭している領域もこれである。たとえば、これを代表する学者の一人であるアミタヴ・ゴーシュ(Amitav Ghosh)は、気候危機とはすなわち文化の危機であり想像力の危機であると力説し、「人新世」(Anthropocene)時代の気候危機の再現に起因する困難を憂慮する。気候危機がすなわち文化危機であると彼が言うのは、現在の文化(彼が念頭に置くのは文学と芸術)が気候危機を再現するうえで、つまり象徴的に物語化するにあたって無能きわまりないからである。彼は、近代の叙事詩といえるほど、近代文学の主な文学の形として定着してきた小説が、果たして気候危機を物語化できるかという興味深い問いを投げかける。それもそのはずで、小説に対するこれまでの理解に従えば、気候危機は決して小説が相手にできるものではないからである。
何よりもゴーシュは、ジョン・アップダイク(John Updike)が近代小説とは「個人の道徳的冒険」を扱うにすぎず、ある小説家の作品を低く評価したことに執拗にこだわる。石油油田の開発と搾取の歴史を小説化したヨルダン出身のアブドゥル・ラフマーン・ムニーフ(Abdelrahman Munif)の『塩の都市』(Cities of Salt)という小説は、今日一つのジャンルとして浮上している「気候小説」(cli -fi)の先駆ともいえる歴史小説といえる。アップダイクはこの小説をめぐって、作品が個人の道徳的冒険を示すことができないために、きちんとした小説の資格を備えていなかったと批判したことがある。だが、ゴーシュはそのようなアップダイクの主張に反論する。ゴーシュの批判は明快である。個人の道徳的冒険を物語化することが小説ならば、そして小説こそ現実と個人が結ぶ関係を象徴化する主な文化的形式ならば、近代文化のアイコンとして君臨してきた小説が、気候危機をどうやって再現できるのだろうか。そして、このような再現の危機は、人新世時代における文化の危機であり、想像力の危機であるというのが、ゴーシュの痛切な診断である。
ゴーシュは「人新世の地球は、まさに想像困難な広大な力が左右する、不可避で執拗な連続性(continuities)の世界」であり、「時空にかけた膨大な隙間をさらに緊密につなぐ「考えられない」規模の諸力で構成」された世界であると言う。[2]ならば、これをどう主観的な経験と結びつけるのか。文化的象徴であり再現としての気候は、気候危機に対応する集合的主体を形成すべき政治的プログラムにおいて、絶対に看過できない層位であることは明らかである。気候危機は直接経験できる対象ではないが、にもかかわらず文化的象徴化を通じて、つまり物語的な再現を通じて経験可能な対象にすることができ、またそうしなければならない。そのような点でゴーシュの発言は、気候危機に介入する小説を集めた『クマとともに』という小説集の序文で、ビル・マッキベン(Bill McKibben)が語りかける物語と同様である。マッキベンはこう言う。「地球温暖化は当然のごとく想像が困難なため(とにかくこれより以前には発生したことがなく)あまり注目されていなかった。変化が起こるまで、私たちは困難な状況の解決に十分な行動をひとつも取らないだろう。科学が導く地点はここまでである。科学者たちはこれまでやることをやってきた。可能なすべての警告を発して非常灯をつけた。現在、残りの人々、すなわち経済学者、心理学者、神学者、そして芸術家が出てくる時である。特に芸術家たちは漠然とした感情の理解に資するべきである」。[1]
気候人文学を強く主張するロブ・ニクソン(Rob Nixon)も考えは同じである。彼もこう言う。「最も重要な課題は再現(representation)に関連している。つまり、影響力が遅く現れる、蔓延はするものの、なかなかつかめない暴力の究明に格好の、衆目を集める物語やイメージ、シンボルをどう見つけるかという問題である」。[4] 文化的象徴化がなければ、政治的な主体化もやはりはるか彼方の課題である。急進的なエコ政治が自らを政治的に組織化するには、このことに留意しなければならない。しかし問題が物語化にかかっているからといって、いかなる物語も容認される、放漫な思弁的虚構の濫発につながってはならないだろう。無限に多様な物質的実在からなる世界の一部として、人間―自然という種を位置付け、人間中心主義や人間種例外主義を克服すべきという忠告はそれらしく聞こえるが、それが気候危機をめぐる想像を促すどころか、それをめぐる歴史的・社会的想像を制限する力になる公算すら強い。それは人間という超歴史的な概念に頼ることで、気候危機を生み出す歴史的社会現実から逃避する。
気候の最初の次元である科学的事実であり実在としての気象がいかなるものかは比較的理解しやすい。気候危機に関連する目のくらむような物語は、通常このことを通じて伝えられるからである。それは気候科学や地質学など様々な科学が分節して測定、記録、予測する、抽象的な自然の一部といえるだろう。問題は社会・歴史的実在としての気候という第二の次元の気候にある。社会・歴史的実在としての気候という概念は思ったよりかなり面倒である。人新世という概念で地質学的な時代区分を行うとき、人新世の始まりをいつと確定するかをめぐる広く知られた論争、すなわち火の発明か、蒸気機関をはじめとする化石燃料の使用を開始した産業革命か、それとも植民主義的な征服の始まりか、さらに核爆弾の爆発なのかをめぐる議論は、すでに人間と自然の関係で、人間という概念と自然という概念が絶対に明瞭なわけではないことを重ねて想起させる。いずれの概念も社会と歴史という物質的実践の総体とは切り離したまま規定できる、超越的な諸範疇ではないからである。だからこそ、いつからかかなり盛行している人間中心主義に対する批判はちぐはぐに聞こえざるを得ない。人間と称されるその主体/対象というものが、資本主義という歴史的社会関係のなかの主体であるブルジョアジーを暗黙に指すかもしれないと十分譲歩したとしてもそうである。そのようなために、人新世に代わる多様な概念(資本世、クトゥルー新世、大農場世、金融世など)をめぐる議論は、ただ人新世の起点を確定しようとするにとどまらない。それは自然の中の社会、社会の中の自然という、自然と社会の弁証法を規定しようとする婉曲的ながらも潜在的な試みといえるだろう。
世界化か、世界不在か
後期資本主義と名付けられた現時代の資本主義を批判的に再現しうる物語を獲得するために、アメリカの文化理論家フレデリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)は自らの審美的なプログラムであると同時にリアリズムの偽装された別名ともいえる「認識的マッピング」(cognitive mapping)を執拗に提案した。[5] 認識的マッピングの美学とは、言い換えれば個人の現象学的な主観的経験と、直接的に再現できない資本主義の抽象的で全体的な秩序をつなぎ仲介する想像のことをいう。フランスのマルクス主義理論家アルチュセール(L. Althusser)のイデオロギーに関する定義を借りるならば、これは個人が現実と結ぶ想像的関係を再現することであり、そのような想像を「封鎖」する現在のイデオロギーを突破する行為を指す名称でもある。私たちは現実と関係を結ぶが、それと直接相対するのではなく、想像を通じて、あるいは象徴的秩序を通じて、最近は人気のない概念になったが、もう一つ追加すれば「イデオロギー」を通じて関係する。
後期資本主義、今日私たちにより慣れた表現に従うならば、新自由主義的グローバル化以降の資本主義は、明らかに私たちの生活を支配し規定する。しかし、私たちはそれを個人の心理的経験と結び付けることに困難を感じる。グローバル化以降の資本主義とは、初期資本主義段階の家族企業資本のように、特定の人格的主体の形を通じて存在するものでもなく、株式会社やカルテル、トラストのように、抽象的ではあるが、にもかかわらず同時に具体的な象徴を通じて自らを示すものでもなく、新たな形態の資本の支配を生み出した。それを多国籍企業、超国家企業と呼んでいたのが昨日のようだが、今はただのグローバルサプライチェーンのような概念としてそう呼んでいる。グローバルサプライチェーンとは、よくわからない専門用語のように聞こえるが、簡単に言えば世界的規模の生産と流通秩序を指す名称であろう。
『マンスリーレビュー』(Monthly Review)誌の編集長ジョン・ベラミー・フォスター(John Bellamy Foster)は、日本の東日本大震災後に起きた事態をめぐって次のように興味深い逸話を伝えている。フクシマの核事態が発生したとき、福島地域で世界の必須自動車部品の60%を生産し、世界中のリチウム電池化合物の大部分を生産し、世界中の300ミリシリコンウエハーの22%を生産するなど、産業生産で必須のものが生産されていることがわかった。その当時、いくつかの独占金融企業が彼らのサプライチェーンの地図をマッピングしようと試みた。『ハーバードビジネスレビュー』によると、「日本の半導体生産社の経営陣が、2011年に発生した地震と津波(そしてフクシマ核事態)以降、その会社の非常に低い下位段階までのサプライチェーンのマッピングをするのに、100人を超える人々がつきっきりで取り組んで1年以上かかったと言った」という。[6]ここで私たちは認識的マッピングの反面教師ともいえるものを一瞥にする。サプライチェーンとは、今日、世界全体を取り巻く資本の生産と流通チェーンを指す。それは資本自体も明らかに描き出せない謎として立ち現れる。彼らはそれを投入と算出の経済的過程において、商品の流れという抽象として認識するだけで、それについては「わからない」。しかしサプライチェーンのマッピングの困難と認識的マッピングの困難は区別される必要がある。新自由主義的グローバル化以降の資本主義に関する興味深い哲学的思弁を示したジャン・リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)の論争を想起すればさらにそうである。認識的マッピングが、個人の主観的経験と全世界的範囲で展開される資本の歴史的運動の関係を想像するものであるならば、それはとにかく世界的次元で動く資本主義という「現実」があることを前提とする。ここで私たちは、現実という概念を世界という概念に置き換えることもできるだろう。
私たちはしばしばグローバリゼーション(globalization)を「地球化」と翻訳する。グローバル化とはいかなる差異も容認することなく、私たち全員の生を一つに統合し支配する資本主義の圧倒的な普遍性を指すだろう。言い換えれば、私たちはグローバル化とともに、これまでには見られなかった恐るべき世界の様相と相対するようになったのだろう。だが、ナンシーは(新自由主義的)グローバル化を指すグローバリゼーションを、やはり「世界化」という概念に翻訳するしかない「モンディアリザシオン」(mondialisation / worldification)という概念と対立させる。[7] ナンシーが見るところ、グローバリゼーションはモンディアリザシオンの廃止、すなわち世界不在(worldless-ness)、または無世界性をもたらす。私たちは資本主義的な普遍性が支配する1つのグローブ(globe)に暮らすことになった。しかし、グローブは外的現実を経験し認識する地平としての世界(world)とは異なる。グローバリゼーションは、すなわち世界化の反対項である無世界化を意味する。現象学的な意味において私たちが世界の中にいるということは、無意味な事実に満ちた混乱した世界から離れ、世界が私たちの前にどのように立ち現れて存在するのかを理解し経験することである。しかし、資本主義の空前絶後の普遍的な支配は、私たちの生から世界を奪う。私たちは与えられた実際の事実を不可抗力の自然のように感じて生きている。だからナンシーは新自由主義的世界化とともに無世界が登場したと考える。
同様に、芸術批評家のジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)は、力作『24/7:眠らない社会』で、同時代の資本主義の「一般化された無世界性」に言及している。[8] 彼が詳細に告発するように、私たちはほとんど一時も休む間もない知覚の衝撃の中にさらされている。手離せない携帯電話や消えないテレビは、私たちの注目を得るために刺激的なイメージとサウンドを24時間通じて垂れ流す。それが生産する知覚的衝撃に憑かれたまま、目覚めている状態を否定できる最後の砦である「眠り」という世界さえ侵犯し剝奪する。皮肉なことに、世界から自分を隠して「世界なし」に没入する仕事ともいえる眠りを、クレーリーは世界を出現させることができる力として見る。だが、蔓延した不眠は、注目と関心を販売しようとする文化商品がじゅうたん爆撃のように注ぐ、無限の知覚的衝撃に植民化されてしまった、眠りの危機を意味する。だからクレーリーは、「個人的窮乏(privation)」として「一般化された無世界性」を嘆かざるを得ない。
現実を経験するように導く有意味な地平が不在であることを意味する「無世界性」という観念に接するとき、なんとなくかつて流行していた「別の世界は可能」という政治的キャッチフレーズを想起せざるを得ない。現実社会主義の崩壊以降、資本主義とその政治的形態である自由民主主義が、私たちの持てる最終的な世界であり、もはや他の歴史は存在し得ないという支配的な物語に対抗し、多くの人々が「別の世界は可能」というスローガンを叫んだ。このスローガンの中の世界とは、資本主義の向こう側の世界を指すこともあるが、同時に純粋に受動的に与えられた世界を受け入れること以外は何もできないという虚無主義に対抗して、私たちが世界を創設すべきだという、さらに別の方法で世界を再現する物語を生産すべきだという願いを内包しているだろう。
このような点で、無世界性に対する反転した思考を示した哲学者バディウ(A. Badiou)の考えを参照してもいいだろう。彼は沈鬱な悔恨に陥らず、無世界性こそは世界を創設する行為である「出来事」を可能にする条件であると思惟する。だから、バディウの出来事の哲学は、おそらく「別の世界は可能」という政治的プログラムの哲学的な表現かもしれないのである。バディウにとって純粋な多様態で構成された実定的諸事実の無世界性は憂慮すべき問題ではない。バディウは、存在とは閉鎖された世界の形態を持つ外的な総体ではなく、そのような限界もない無限の多様態で構成されると規定する。無限に多様な実定的な諸事実に満ちた現実は、世界がないことを意味する。つまり、最初から世界というものは存在しないのである。彼の言う世界とは、彼の有名な表現のように「一つに数える」(the count-as-one)を通じて定立される。バディウにとって出来事とは、単に現存する秩序を破るものではない。彼が語る世界創設の行為としての出来事とは、真理を成立させることであり、事実の多様態に意味を課すことである。真理とは、すでに与えられた事実から演繹できるものではない。これは政治的行為の場を通じてさらに明らかになる。昨日まで全く不可能な虚構のように見なされていたものを、今日の現実を理解する基準に変身させる革命的変化は、真理の前に諸事実を服従させる。事実の世界から真理を導き出すのではなく、真理を通じて事実、すなわち無限の多様態が再整列されるのである。
しかし、無限の多様態としての無世界と、解放的政治を通じて世界を樹立する行為としての出来事を対立させるバディウの思惟は、新自由主義的グローバル化以降の資本主義が直面した難関を突破するための哲学的突破口として魅力的かもしれないが、説得力ある代案の構成には役立たない。ジジェク(S. Žižek)は、そのようなバディウの接近が持つ限界を非常に辛辣に批判する。[9]批判の論点は明らかである。世界を創立する出来事の領域をすべて「政治的な場」に還元することで、経済という領域を陳腐で平凡な多様態的な存在に格下げしているというのである。このような「マルクスなき共産主義」、あるいは「政治経済学批判なき共産主義」は、経済から存在論的な威厳を奪い、世界を形成する唯一の力をひたすら政治に与えるというのがジジェクの診断である。
ジジェクの見るところ、バディウの解放的政治の限界は、「経済的領域の革命的潜在力」の考察を拒否することに由来する。ハイデガー(M. Heidegger)の表現を借りるならば、バディウは存在論的秩序とは異なる「存在の秩序に属するものであり、潜在的で出来事的な場を持っていない」という理由で経済を排除する。経済的領域は、多様な事実からなる無世界の次元に属する。一方、真理を課して(prescription)世界を構成することは政治の領域に属する。したがって、バディウにとって可能な政治の道は「国家の境界の外で作動し、基本的に自らを動員の宣言に限定する、「純粋な」政治的組織の道である」。ならば、このような難関から抜け出すことができるのはどのような道だろうか。ジジェクはこう断言する。「この膠着状態から抜け出す唯一の道は、「経済的」な領域に真理の威厳と出来事のための潜在力を再建することだけである」。[10]
新自由主義的なグローバル化以降を想像して
今日の現実を無世界性の時代と診断することが、新自由主義的グローバル化が生み出した歴史的資本主義を明らかにしようとする哲学的思弁ならば、皮肉にもそれは無世界性という概念を経て新たな世界を構成する変革の物語がいよいよ要請されていることを示している。しかし、無世界性を経済的事実の地平として規定し、出来事という政治的行為を通じてのみ「世界」が形成されうるというバディウの考えはあまり満足できるものではない。彼の主張は、資本主義に対する批判を迂回したまま、資本主義を超えて進むべき道を探っているという点で致命的な限界を抱いている。しかし、私たちをより一層憂慮させるのは、ここ数十年間、猛威を振るった新自由主義的グローバル化が危機に直面し、自己否定の局面に至っているという点である。私たちは、新自由主義的グローバル化以降の資本主義が果たしてどのようなものかについて、まだ明確な答えを持っていない。ただ新冷戦体制の形成や脱グローバル化といった曖昧な概念を借りて、そのぼんやりとした輪郭を描こうと努力しているにすぎない。
一方、新自由主義的なグローバル化以降の「世界」に関する期待やビジョンも不明確である。私たちの置かれた歴史的時間を捉える、最も説得力のある表現「古いものは行き、新しいものはまだ来ていない」だけを見てもこのことは推測できる。[11] そのような点で、文化研究者パオロ・ジェルバウド(Paolo Gerbaudo)のような人は、「現在のイデオロギー的空位の時代」、すなわち古いものは行き、新しいものはまだ来ていない時代を「メタイデオロギー的な移行の局面」と描写し、「政治的共通感覚」 の変化が進歩的なモメンタムになるのか反動的なモメンタムになるのかについて、まだ私たちは少しも確実に語ることができない」と診断する。[12] 彼は、新自由主義的グローバル化の危機に対する反応を、新自由主義自体の論理を逆にすること、あるいは新自由主義的グローバル化の外向的論理を否定する内向化の経路として捉える。そして彼はこの内向化の経路に沿って、右派は「有産者保護主義」(proprietarian protectionism)を、そして左派は「社会保護主義」(social protectivism)をそれぞれ提示すると見ている。[13]すなわち、現在の保護主義は、新自由主義のグローバル化がもたらした外向性を反射的に屈折させた内向性の政治であり、それぞれ金融資本をはじめとした資産階級を保護する方向と、労働者階級および大多数の社会階層の社会経済的な貧困や生存条件の危機を保護する方向という、ひょっとすると互いを反映するような政治経路に置かれているということである。しかし、私たちはそれがはるかに複雑な資本主義の歴史的弁証法の中にあることに気付くべきである。
一方、「ヘゲモニーの危機は客観的な体系危機の主体的(subjective)対応物」と規定するナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)の主張にも耳を傾ける必要がある。[14]先にジェルバウドがイデオロギー的空位の時代と言ったのと同様の「覇権の危機」に言及し、彼女は、新自由主義的グローバル化時代の政治を進めた2つの政治的方向、進歩的新自由主義と超反動的新自由主義という2つの流れのどちらも、近い将来、政治的覇権をになう適切な候補になり得ないと分析する。彼女は「両者とも社会的現実の権威ある全体像、すなわち広範なスペクトラムを持つ社会的行為者が所属感を感じるような、1つの物語を提供することができない」と断言する。[15] 進歩的新自由主義とは、新自由主義の経済・社会的秩序に喜んで沈黙し、多様性や差異などに基づく政治的イデオロギーを積極的に動員する政治的イデオロギーを指す。つまり、多元的認定の政治を擁護するものの、労働者階級と民衆のための分配の政治を放棄したのが進歩的新自由主義であった。一方、やはり新自由主義的グローバル化を積極的に擁護するものの、反民族主義的・反移民者的・親キリスト教的な地位秩序をまた擁護したのは超反動的新自由主義である。彼らが新自由主義的グローバル化を導いた階級と民族の政治を主導したことは言うまでもない。そのような点で反動的新自由主義も進歩的新自由主義も、いずれも新自由主義的な資本主義秩序を擁護するという点で同じ分配の政治を支持したが、2つの間に差異があるならば、まさに認定の政治という次元における対立だけである。
このように新自由主義的ヘゲモニーが危機に瀕した現在、それに代わる新しい政治的物語の出発点として、ナンシー・フレイザーは「進歩的ポピュリズム」を提案する。そして「進歩的ポピュリズムという選択肢を追求しなければ、現在の覇権の空白事態が延長されるだろう」と忠告する。彼女が語る進歩的ポピュリズムとは、「排除的な種族民族主義のみならず、自由主義的で能力主義的な個人主義も」拒否すること、その代わりに「ひたすらしっかりした平等主義的な配分政治と実質的に包括的な階級問題に敏感な認定政治を結合」することである。彼女はこれを行うときにはじめて、私たちが「対抗ヘゲモニーブロック」を構築できると断言する。[16]もちろんこれについては様々に異なる意見を提出することができるだろう。
言い換えれば、先に引用したジェルバウドは「21世紀のポピュリズム言説は、本質的に新自由主義のアンチテーゼであり転倒( inversion)に該当し、言い換えれば、ポピュリズムはまさに反-新自由主義を意味する」という点で、フレイザーと意見を同じくしながらも、ポピュリズムは真の対抗覇権を構成する過程で、せいぜいのところ「対抗文化主張の水準」にとどまる傾向があると非難する。[17]ポピュリズムの限界を指摘し、積極的で肯定的な階級政治プログラムを用意すべきという彼の主張には躊躇なく同意できるが、ポピュリズムを「対抗文化」に格下げする考えを受け入れるのは困難である。対抗文化とは、先の心理的個人の主観的経験と抽象的な資本主義の歴史的支配を媒介することを指す。私たちはそれをジェイムソンの表現通りに「認識的マッピング」と呼ぶこともでき、私たちの時代のリアリズムと呼ぶこともできる。
しかし、それをどのように指称しようとも、新自由主義的グローバル化以降の急進的なオールタナティブ政治が、個人の経験と資本主義的な総合性を媒介する象徴的物語なくして実現しうると期待するのは困難である。問題は、このような物語を生産する場所が、以前のように文学や映画のような場にはなり得ないという点にあるだろう。文学と政治という組み合わせが当然のように思われた歴史的時代があったということを私たちは覚えている。古きよき時代、文学の中の人物と象徴は、すなわち社会のアレゴリーのように見えた。個人の経験を明らかにして表現する文章が、まさに時代的現実を証言するように思われた時が消失してしまったという悔恨が、文学と芸術をめぐる批評に蔓延したことも私たちは忘れていない。だが、個人の経験を社会的総体性と結びつけるべきという要求から逃れることは不可能である。誰かの個人的な経験の声に耳を傾けようとする試みは、その公約不可能な完全な差異に目を向けるのではなく、むしろ私たちを横切る公約された世界のイメージを得るためである。だからいますぐ政治を個人的な経験と接合させる物語を生産する場所がどこであるか予測できないとしても、それを不運なことと考える必要はない。ブレヒト(B. Brecht)の言葉のように、古き良き昔日を思い出すのではなく、「まったくもってひどい新しい日」(bad new days)を選ぶならば、私たちはいつ終わるかわからない暗いトンネルのような新自由主義的グローバル化以降の資本主義の時効や終末を恐れる理由はないだろう。もちろん、新しい文化的・政治的実践と言うべきものが登場すれば、それが私たちの置かれた世界の輪郭を描き出し、それをになう個人の経験を明らかにすべきだろうという事実も、やはり忘れてはならないだろうが、である。
訳: 渡辺直紀
[1]以下、気候の三重の次元の議論については、2023年12月28日、成均国際文化研究年次フォーラム「東アジアSF、世界観の拡張と破裂」の発表「太陽光コミュニズム」をもとに修正・補完した。
[2]アミタヴ・ゴーシュ『大混乱の時代』キム・ホンオク訳、エコリブル、2021、86~88頁。
[3]マーガレット・アトウッドほか『クマとともに』チョン・ヘヨン訳、民音社、2017、12~13頁。
[4]ロブ・ニクソン『遅い暴力と貧者の環境主義』キム・ホンオク訳、エコリブル、2020、19頁。
[5]ポストモダニズムという後期資本主義の文化形態の分析を試みて提出された認識的マッピングという概念は、1980年代に刊行された『政治的無意識』ですでにリアリズムを指し示す名称として登場する。ジェイムソンは、リアリズムが「認識的な、構図を描く(cognitive、mapping)、またはほぼ「科学的」な見通しを日常生活の経験と組み合わせる物語言説として、伝統的に様々な形でマルクス主義美学の中心モデルになってきた」と述べる。フレデリック・ジェイムソン『政治的無意識』イ・ギョンドク・ソ・ガンモク訳、民音社、2015、130頁。強調は引用者。
[6]ジョン・ベラミー・フォスター+インタン・スワンディ「コロナ19と災害資本主義」キム・ヨウク・チャン・デオプ訳、『マルクス主義研究』2021年夏号、60頁。
[7]Jean-Luc Nancy, The Creation of the World or Globalization, translated by François Raffoul and David Pettigrew, State University of New York Press 2007.
[8]ジョナサン・クレーリー『24/7:眠らない社会』キム・ソンホ訳、文学トンネ、2014、37頁。
[9]スラボイ・ジジェク「私たちはまだ世界の中に住んでいるのか?」『視差的視点』キム・ソヨン訳、マティ、2009。
[10]前掲書、645頁。強調は引用者。
[11]これは、アントニオ・グラムシがその『獄中手稿』でヘゲモニーの危機をめぐって語った言葉である。これを同時代分析の指針としたナンシー・フレイザーは、そのフレーズを自らの著書のタイトルにする。ナンシー・フレイザー『古いものは行き、新しいものはまだ来ていない』キム・ソンジュン訳、チェクセサン、2021。
[12]パオロ・ジェルバウド『巨大な反撃』ナム・サンベク訳、他の百年、2022、71頁。
[13]前掲書、26~27頁
[14]ナンシー・フレイザー、前掲書、47頁
[15]前掲書、38頁。強調は引用者。
[16]前掲書、51頁。
[17]パオロ・ジェルバウド、前掲書、66頁。