창작과 비평

[巻頭言] 今ここの「中立」は偽物だ/姜敬錫

創作と批評 203号(2024年 春号) 目次


今ここの「中立」は偽物だ


姜敬錫



ソ・テジのシングルアルバム「時代遺憾」が今年初めにリマスター形式で再発売された。新しく作ったアニメーションのミュージック・ビデオとともに、初発表から29年ぶりの発売である。表現の自由を制約する事前審議制の時代錯誤や矛盾を暴露し、論争を増幅させ結局消させた象徴的な曲である。三豊百貨店崩壊事件(1995)を見て書き始めたというこの歌詞の中で、おそらく最も多くの人々の脳裏に残っている部分は「正直な人々の時代は過ぎ去った」だろう。当時、事前審議を担当した公演倫理委員会は、この一節を含め計3ヵ所を問題視し、大衆からの激しい抗議で論争は一瞬にして政界にまで広がった。結局「アルバムおよびビデオ物に関する法律」の改正案が1995年11月に国会で可決された。このようにより拡張された創作の自由が、今日のK-popブームの土台になったことは言うまでもない。要するに「時代遺憾」はそのような歴史的文脈と分離できない歌であるため、実際の理由がどうであれ再登場の時点がまさに今であることもまた意味深長に思われる。

一緒に制作された新しいミュージック・ビデオがこの歌を今日の文脈につなげているようである。ここで何よりも目立った特徴は、歌詞のテキストをグラフィックにして画面いっぱいに繰り返し映写しているという点である。

パンク・ロックという音楽的基調に加え、視覚的にも何かを叫んでいるような構成なのである。それはいわば、この歌を通じて今この時代、この世の中に向かって依然として、そして改めて言いたいことがあるという意味であり、歌詞のメッセージに集中してほしいという注文ではないだろうか。かつて公演倫理委員会が問題視した歌詞の3節のうち、残りの2節は「すべてが覆され、新しい世の中が訪れてほしい」と「君の胸に宿ったハン(「恨」と書くが、恨みだけではなく、未練や悲しみ、悔しさといった感情−訳者)を晴らすことができるよう、今日だよ」である。三豊百貨店崩壊のような社会的大惨事に対して無責任で偽善的な人々のために「正直な人々の時代は過ぎ去った」と宣言されたが、希望はあたかもこのような悲観と絶望を餌にして初めて育つというように、相変らず新しい世の中が訪れることを願っており、その新しい世の中は遠い未来の約束や待つ対象ではなく、まさに今日ここにあるという意味だろう。

2024年の「時代遺憾」を生じさせる矛盾は満ち溢れる。10・29梨泰院惨事で数多くの生霊が悲鳴を上げたが、誰も責任を負わず真相調査や責任者に対する処罰のために発議された特別法は、極寒も厭わなかった遺族たちの徹夜祈願にもかかわらず、大統領の9回目の拒否権行使によって遮られた。チェ・スグン海兵隊上等兵死亡事件を捜査していたパク・ジョンフン大佐は、捜査外圧を告発し、かえって抗命罪で裁判を受ける境遇になったが、その一方では司法壟断事件で起訴された元最高裁長官と労働契約承継を目的に不当な合併と粉飾決算に関与した疑いを受けている財閥総帥には無罪判決が下された。キャンドル大抗争で弾劾された元大統領が、国民の前で「恥ずかしいことはしたことがない」と平気で言っている時代であるため、その配下の者らは刑が確定する前に現職大統領の特別赦免で次々と釈放される。

例のミュージック・ビデオの叙事的背景はモニター画面のような形をしている顔の群衆が随時登場し、四方から偽りと恐怖を注入するデジタル機器、ケーブル形状の怪物たちが主人公に向かって緊縛してくる一種の悪夢である。したがって2024年の「時代遺憾」が狙っているのは、もしかしたら偽善と捏造で歪んだ主流のメディア環境といえるかもしれない。大統領夫妻の権力が専ら私益のためだけに濫用されているという批判は、最近のことではなく、一々問い詰めることがかえって無力感をかもし出すほどだが、マスコミや放送は適当に権力側の意向に合わせた批判的な言説に安住し、「こちらも問題だし、あちらも問題だ」というような攻防論のフレームの裏に隠れるばかりである。過ちと責任の大きさが全く違う両者を一つの天秤にかけてバランスを取ることも中立でバランスといえるのだろうか。批判の重さと強さは、権力と責任の大きさに比例してこそ公正なのではないだろうか。 守旧言論は言うまでもないが、いわゆるファクト・チェックや「中立」を前面に出すメディアの問題はより一層慢性的であり、いわゆるリベラル系言論さえこのような疑惑から完全に自由ではない。白昼に野党代表が殺害未遂に遭っても対岸の火事のように与野党・左右派の攻防論として扱いがちな彼らの中立はすでに偏向しているからである。

まるですべてがキャンドル革命以前に戻ったような錯覚を呼び起こすが、実は政治、経済、司法、言論を区分することなく主流社会が陥っている共通の錯覚がある。良く言えば、自分たちが人々の考えと行動を導いたり指導したりすることができ、またしなければならないという錯覚であり、悪く言えば、それを自分たちの考え通りに組織したり操縦することができるという妄想だろう。いわゆる保守と進歩の両大陣営が権力の交代を通じて維持されてきた87年体制は、キャンドル革命ですでに終息した。かつてなかったことが頻繁に起きる現在の無秩序はすべてその悪い結果と言えるが、カギは「すべてを覆して新しい世の中が訪れてほしい」という時、何をどのようにしていくのかにある。総選挙による政権審判が最終目標ではない。それさえも新しい憲政秩序や社会体制の建設に進む過程の一つであってこそ、初めて意義を持つことになるからである。しかし、この類例のない膠着した局面を打開し、次の段階に移行していくためにも、一日も早くこの政権を終息させなければならないという点だけは明らかである。辞任であれ、任期短縮であれ、それとも弾劾であれ、いかなる手続きもそれ自体憲政秩序を壊すわけではなく、むしろそのような危険さは現政権が長く維持されればされるほど増えるだろう。ここで各自違うことを考える傍観者を生み出すだけの「中立」であるならば、それはすでに偽物なのである。


このような国内情勢の混乱は、韓国社会の内部要因だけで起こったわけではないだろう。尹錫悦政権の反中、日米偏向外交や敵対的対北朝鮮政策などは明確な実益もなく多様な国内外的危機を煽っており、これは米中競争の激化や脱冷戦以後全地球的に広がってきたグローバル化・開放化イデオロギーの急激な崩壊の兆しと無関係ではないだろう。本号の特集テーマを「世界叙事、どう書くか」とした理由でもある。これは昨年の秋号特集「韓国という叙事」と呼応する一方、私たちがこれまで「世界」をどのような叙事として認識してきており、今後どのように認識して新しく書いていくのかを点検する企画である。

徐東振は気候危機または新自由主義的資本主義の危機などにより、これまでの世界叙事モデルがこれ以上作動しないという診断を前提に、個人の経験と資本主義的総体性を媒介する新しい象徴叙事の可能性を探究する。いわゆるグローバリゼーションは、考えてみればグローバル化ではなく、個人が外的現実を経験し認識する地平としての世界をむしろ消す「世界なし」の状態、すなわち無世界化を指すという指摘が特に興味深い。

これとは異なる角度から、朴魯子は朝鮮時代の中華主義から近代初期の文明開化論議を経て、戦後の民族主義と西欧普遍主義を系譜化しながら、韓国社会のグローバル言説が直面してきた一種の膠着と矛盾を一目瞭然に描く。韓国社会の固有の歴史的闘争がどのように西欧中心主義を越えて新しくて正当な「普遍」に到達できるのかを模索する基礎作業として有益な参照になるだろう。

韓国経済が直面している危機の本質を世界体制の変動とそれに対する認識・解決能力の不在ととらえている李日栄の文章は、世界経済、南北経済、韓国経済の相互作用を称する三層経済の認識フレームに基づき、南北分断経済が持続発展不可能性の危機をどのように乗り越えるのかを真剣に問い詰めている。 経済の基本単位を国民経済ではなく、世界経済と捉える彼の韓半島経済論は、世界体制の移行という条件の中で、共和主義的革新という議題と接続しており、活発な討論を期待する。

李恵正は、いかなる個別大国も国際体制全般を統制できない覇権不在の時代に、米国が直面している国内的葛藤と国際政治的危機を立体的に分析する。内部ではトランプ再執権の展望の中で政治的内戦を、外部ではウクライナ戦争とイスラエル・ハマス戦争を展開していると同時に、中国との戦略的競争まで遂行しているバイデン政権は、アメリカの分裂を赤裸々に示す象徴である。今日のアメリカが国際的無秩序の原因の一つであり結果だという事実を指摘し、今年行われる米大統領選挙後を展望する。

本号の「対話」では、李南周の司会で、金容民、白殷鐘が参加し、これまでの尹錫悦政権退陣運動について評価し、2期キャンドル政権樹立の方向について討論する。尹錫悦政権の相次ぐ失政と反憲法的独走をこのまま放置できないという世論が沸騰しているが、にもかかわらず野党をはじめ退陣論議に消極的な場合が少なくない。非常な状況では非常な解決策が必要だという前提の下、退陣運動が民主的ガバナンスの復元のために、「2期キャンドル政権」の樹立という展望としっかり結合しなければならない必要性を提起する。2期目のキャンドル政権を課題として提示した白楽晴が、「対話」に続き一緒に読むべき文章を付け加える。韓半島が直面している危機状況を点検する一方、憲政中断事態を早く終わらせ、新しい国を作るための道を探ろうという提言である。

「作家スポットライト」では、最近詩集『君たちの時間』を出版した金海慈詩人を招待し、後輩詩人の庾炳鹿がインタビューする。2人の先輩・後輩詩人間の関係と出会いを背景に、金海慈の詩の世界において比較的あまり注目されなかった「笑い」というテーマを温かく説得力をもって浮き彫りにする。涙の人生を経験していなかったら、笑いにも至ることができないという逆説が穏やかな感動を与える。

「文学評論」には、黄静雅と崔宣教の文章を掲載する。黄静雅は、中国系アメリカ作家ケン・リュウの小説を分析しながら、最近浮上しているポストヒューマン論の成果と限界を点検する。ケン・リュウの小説に対する興味津々な分析とともに、ポストヒューマニズムが頼っている発想の安易さを捉える視点が鋭い。崔宣教は、セウォル号惨事10周年を機にこれまでの文学的応戦を回顧し、朱民賢とピョン・ユンジェの詩集に注目することで、言葉の力に強い信頼を示す。惨事の記憶を消そうとする勢力に対して、激しく繰り返される質問の重要性をぶっつける結論が重く伝わってくる。

「論壇」では、西欧言説が溢れる中で主体的韓国学と自生的言説の振興のために「K-言説を模索する」という連続企画を始める。韓国に対する外部の認識や評価が画期的に増えている現時点で変わった自己認識を覗き見る企画であり、新たに再発見できる韓国の思想的資源を探ってみたい。その第1話に白敏禎の論文を載せる。茶山丁若鏞の思惟を西欧近代に対する主体的対応企画としての「実学」と規定することが果たして適切なのかという明確な問題意識に立つこの論文は、儒教的祭祀の政治性を「公共性/相互ケアの責務」という文脈から再検討し、儒教的近代性議論の弱点を鋭く指摘する。連続企画にも多くの関心と応援をお願いしたい。

「現場」には、セウォル号惨事10周年を迎え、4・16運動の現場で休むことなく活動し続けてきた朴来群の文章を掲載する。この10年は惨事の遺族が被害者に留まるのではなく、運動の主体として生まれ変わった期間であり、記憶の重要性を悟らせ、韓国社会に新しい道しるべを立てる時間だった。しかし、一方で「キャンドル政権」と自任した政権でさえ、十分な真相究明がなされなかったことに対する残念な気持ちがひんやりと残る。

散文連載「私の住んでいる所」の9番目の主人公は現在潭陽に住んでいる小説家の孔善玉である。「潭陽散歩」という題名とよく調和した自由な文章と構成で、地域の歴史や多様な隣人の暮らしを書いていく文体は、まさに「散歩」体の白眉ともいえよう。出版とともに文化遺産踏査ブームを起こした兪弘濬の『私の文化遺産踏査記』が今年で出版30周年を迎える。これを記念する姜仁旭の散文は著者との関係から出発し、『私の文化遺産踏査記』がなぜ拡張を繰り返しながら、依然として必要なのかを豊かな文章で解説する。

本号の「創作」欄も豊富である。高明載から崔智恩に至る12人の詩人が力を入れて書いた新作詩と、ソン・ヘナ、全春花、崔旻宇の短編小説を掲載する。各作品はそれぞれ異なる色の文学的個性と感動で読者の期待に応えるだろう。本号を最後に、金錦姫の長編連載が幕を閉じる。声援してくださった読者の皆様に感謝申し上げる。

リニューアルされた「文学フォーカス」欄もある程度定着してきたといえる。本号には黄有源と閔九の詩集を扱った朴相守の文章とキム・チョヨプ、金恵珍の小説を扱った朴麗仙の文章、そして姜受芄の評論集を論評した田己和の文章を載せる。季節ごとに厳選された新刊を紹介し、論評する「寸評」欄にも読者の皆様からの格別な関心を期待する。

毎年春号には大山大学文学賞の受賞作を紹介する。第22回受賞者である金書癡(詩)、姜秀斌(小説)、金秀麗(戯曲)、李元基(評論)の精進と活躍を期待するとともに、お祝い申し上げる。最後に編集部内のニュースもご紹介する。白敏禎教授が本号から本誌の常任編集委員として新たに加わったことをお知らせする。多大なるご声援をお願いしたい。

毎年春はやってくるが、李日栄が特集の結論で話しているように「皆が大変な時期」である。しかし、道がないはずがない。今春は国会議員総選挙を控えており、多様な情勢変化も感知される。将来の変化を希望にする責任が完全に私たち自身に与えられていることを再確認しながら準備する時なのである。希望は遠い外から来るものではなく、私たちの周りにすでに来ているが、手を拱いていてもある瞬間目の前に現れる季節のようなものではない。希望はただではないからである。


訳:李正連