[寸評] ケイト・ビートン(Kate Beaton)の 『アヒルたち』
寸評
ケイト・ビートン(Kate Beaton) 『アヒルたち』(キム·ヨンサ 2024)
崩れない、鈍らない
金成熙 / 漫画家
hobangee@naver.com
「苦労しないために大学に通ったんじゃないか」
『アヒルたち:お金と油の地、オイルサンドで過ごした二年』(Ducks: Two Years in the Oil Sands, 2022, キム・ヒジン訳)は、カナダ東部の沿岸に住む就活生の「ケイティ・ビートン」の回想で始まる自伝的グラフィックノベルである。大学を卒業したばかりのケイティに両親が投げかける問いは見慣れなくない。「苦労しようとしない」若い世代を非難する両親。「苦労」の内容が変わっただけなのを理解できぬ以前の世代。どこか見慣れている。ケイティは専攻を生かして就職したかったが、文学士の学位で就職できる「よい」勤め口はない。学資金の貸出を返すために好きなことをする機会を逃したくない。そういう理由でケイティは「お金が溢れるところ」(13頁)カナダアルバータオイルサンドに向かう。息を詰める「学資金貸出を返済したい心だけ」(25頁)なのだ。その後は自分の好きな、学校で習った仕事ができるだろうと信じて。
オイルサンドはカナダの代表的な化石エネルギー開発産業であって、油井から抜き出した原油に、砂や赤土などを混ぜて加工して作る石油製品である。危ない事業場を選択しようとするケイティに、叔父は「工具室」に行くようにと助言する。現場の本当のお金は石油会社が運営する「キャンプ」にあるが、工具室はキャンプに配置されるから「お金が溢れる近所」にいると、機会を得るに有利だというわけだ。工具を出すことは難しくないし、特別な技術がなくてもできるから合理的な助言であると言える。
選択の結果を最初から知って始める人がいるだろうか。学資金の貸出を返すという明白な動機があるので、ケイティがオイルサンドに向かう心は一見明瞭に見えた。ほとんどの職員が男性であるキャンプで女性として働くということは、どのような意味なのか。冗談を装ったセクハラ、露骨的で敵対的な視線とこそこそ話、ひいては実質的な身体的脅威が横行する現場で、何気ないふりをしながら耐え忍ばなければならないという意味であった。それにも関わらず、ケイティは「シンクルード工具室」で働いてから、そこよりもっと多くの賃金がもらえ、居住の費用がかからない「ロングレイク工具室」へ移していくことを選ぶ。「キャンプ」のより深いところに入っていくという意味であった。
孤立された仕事場で無礼な人々に疲れていくケイティは質問する。「人々が家にいる時と、ここにいる時とで違うと思いますか。」(201頁) 「ここに来る前はどんな仕事をしましたか。」(225頁) 「人生にひびが入ると知っていながらなぜここに来るでしょうか。」(232頁) ほとんど唯一の選択肢がここオイルサンドしかない人々は、他の選択肢がある者に線を引く。「君は辞めたければいつでもそうできるだろう。」 ケイティも反駁する。「まだ学資金の貸出が残っていますもの。」 「学資金貸出であって、家族の生計が君にかかっているわけではなかろう。」(232頁)
人々はそれぞれの理由で「お金が溢れる」キャンプに親戚を呼ぶ。ケイティもまた、オイルサンドで働いてから一年位経つと、学資金貸出を返済しなければならない姉をここに呼んだ。一年間、一人で孤立されて働きながら貸出金を半分くらい返したケイティは、姉に自分が経験したジェンダー暴力を打ち明けながらしばらくの間オイルサンドを立つと言う。疲れ切ったケイティに長女である姉が言う話を聞くと胸が痛む。「私が長女だから、君を保護することが私のやるべきことなのに。」「私が真っ先に立って先に鞭で打たれると、君たちみなの盾に取ることができると思ったよ。」(249頁) ここカナダなの。大韓民国かも、ちくしょう!
バンクーバー島ビクトリアの海洋博物館で、専攻を生かして働きながらこれまでの経験を盛った漫画を描きながら、ようやくやりたいことを始めたケイティ。しかし、生活費にも充てない月給では貸出金どころか、家賃を払うことさえぎりぎりである。特にオイルサンドでの生活以後、ケイティは以前のように明るくいられない。「平凡な」人々の間で「招かざる客となった気分」(253頁)なのだ。
一年後、再び戻っていったオイルサンドで、ケイティと姉が交わした対話が印象深い。「お父さんもあんな男たちのようになったかな」(316頁) ここオイルサンドに来ると、男たちは変わる。家でなら絶対やらないはずの行動がここでは横行する理由を問い続ける。ケイティは自分が受けた暴力の分ほど、これらの男性たちがなぜこうなったかに集中する。孤立と寂しさは人間を再び獣に墜落させるのか。自分を困らせない男性たち、自分の安否を確認してくれる男性たちを思い浮かべながら努力する。それぞれの理由で「今ここにいる」男性同僚たちを眺める。性暴力加害者が怖くて沈黙したわけではなく、キャンプに残っている他の人々の視線と非難が怖くて沈黙していた記憶まで。ケイティはオイルサンドと自分とを引き離して見ることができなくなった。
著者はオイルサンドとここの男性に責任を転嫁することで思惟を止めることはしないよう努めた。自分だけでなく、彼らを含めた「われわれみなの心」が崩れないために、この物語を世の中に出そうと決心したようだ。人にとって労働する機会とはどのような意味なのか、それを切に守らなければならない切迫な心は何なのか、ケイティと共に工具室にいると、現場の労働者たちがどれほど劣悪な保護具と備品をもって耐えるかが見える。孤立と孤独、寂しさに耐え切れなかった人々は、感情が鈍くなるか麻薬に陥る。すぐ立つ人々と見なされて、問題ができてもいなくなればそれまでだから、記録もされない。
安否が伺える関係なしに浮遊する環境で、平常心が維持できると誰が言えようか。あるいは安否が伺えない石油採掘そのものからが問題の始まりだったろうか。そこにいる皆に向かった「安否を確認したい」心が『アヒルたち』の叙事をぎっしり埋めている。ここ数年間読んだ本の中で最高のグラフィックノベルだと言える。
視覚的魅力も相当である。巨大な重装備と、それに比べ蟻のように小さい人。臭いだけで目が覚める悪臭の現場と、視線を圧倒するオーロラ。石油産業のための巨大な設備と、その向こう側の自然とが強烈な対比でやってくる。些細なことのように見える一個人の選択が、社会への進入障壁を作る学資金貸出の深刻性から、ジェンダーイッシュー、産業災害、環境問題をすべて通過する。孤立が与える寂しさが人をどこまで追い詰めるか、その内面に入り込む繊細さもまた、際立っている。環境と暴力、孤立を深く理解するケイティが渡す慰めに胸が打たれる。最後まで見え隠れする残像は、キャンプでうろうろする、一足を失くした野生の狐を追い出すケイティの姿であった。人間の分別のない開発で居場所を失った狐が、再び自分の生命を脅かした人間に依存して餌を探さなければならない姿から、ケイティはもしかして自分自身の姿を見たであろう。足の一方を失ってもキャンプにぶらつく狐、汚染された生息地で群れをなして死んだアヒルたちは、もしかしたらやってくるわれわれの未来なのかも知れない。 (翻訳:辛承模)