창작과 비평

[論壇]K-現代史の成就とダイナミズム (K–言説を模索する2)

創作と批評 204号(2024年 夏号) 目次

論壇

K-談論を模索する① 


K-現代史の成就とダイナミズム 




洪錫律(ホン・ソンニュル)

誠信女子大史学科教授、『歴史批評』副主幹。主著に『統一論議と政治社会的葛藤:1953~1961』「1960年代の知性界の動向」「5・16クーデターの原因と韓米関係」「4月革命と李承晩政権の崩壊過程」「民族主義論争と世界体制、朝鮮半島の分断問題に対する対応」など。

srhong@sungshin.ac.kr 



K-現代史の成就を語る理由


韓国現代史の成就というと多少怪訝に思う人も多いだろう。韓国においておおむね保守は現代史の成就を強調する反面、進歩は問題点を指摘してきた。達成を自画自賛するのではなく、問題点を取り上げてその解決方向を模索する方がよりよい歴史的省察であろう。だが、歴史的に蓄積された問題点を列挙するだけで、成就について取り上げないとすれば、問題解決のための自信や能力、内的動力は、いかにして発見できるだろうか。

また、韓国現代史の成就というと、李承晩、朴正煕の建国と富国の偉大な業績という「ニューライト」の歴史観が連想されやすい。近代を越えて脱近代を語り、複数性と多様性を追求する21世紀の現実において、このような最高指導者中心の歴史観には違和感がある。大統領の功過を中心とした歴史論争は、基本的にその他の様々な行為者の役割を副次化する。重要な歴史的達成が最高指導者の偉大な成果としてのみ説明されるならば、人々は重大な問題に直面するたびに、英雄的な指導者が出現し解決してくれることを期待するだろう。そうなれば、自らを歴史の能動的な主体として確立することは困難である。

1945年の解放以降、韓国現代史において多くの成就があったことは否定できない。2010年代を経て、特に2020年のコロナ19の危機を前後して、韓国人はいつのまにか自らの国がいわゆる「先進国」になったと感じるようになった。またK-popを披露したK-culture(または韓流)に対する全世界的な熱狂など、過去には想像もできなかった現象を目撃した。しかし、このような歴史的達成を自ら説明する論理には、多くの問題がある。

しばしば韓国は、過去に植民地だった経験を持つ国のうち、産業化と民主化の双方を達成した唯一の国であると語る。このような主張は、まず近代史の発展経路を産業化と民主化にあまりに単純化する側面がある。経済発展は単に経済成長や工業化だけを意味せず、民主化は政治的民主化だけを意味するわけではないという点で、これらの双方を達成したと語るのも大きな問題である。さらに、産業化と民主化を「先・産業化/後・民主化論」のように二分法的に分離して前後関係に定立する論理はさらに大きな問題である。政治と経済を前後関係で分けられるのかも問題だが、この論理には、民主主義を、産業化が進んだ後に自然に達成できる結果的な派生物とみなす、民主主義の独自の価値と、それを志向する過程で捧げられた数多くの人々の努力と犠牲を副次化する側面がある。

K-現代史の成就は、最高指導者と権力を握った主流集団だけでなく、彼らによって疎外され、はなはだしくは弾圧された集団までをも含む、様々な主体の参加と活動をもとに、基本的に歴史の進む経路の複数性を認めながら、より多角度的に考える必要がある。


はじめに分配があった


先・産業化/後・民主化論を主張する人々は、大部分、先・成長/後・分配論を公式のように考える。これは経済発展という枠組みで成長と分配を二分法的に分離して、分配を副次化するという面で問題だが、実際の韓国現代史の展開過程とも符合しない。

韓国経済の高度成長を語るとき、その基礎として取り上げられるのが大韓民国政府の樹立直後と朝鮮戦争のころに進んだ土地改革である。はじめに分配があった。もちろん韓国の土地改革は、北朝鮮などの共産主義国家が行ったように、国家が地主の土地を没収して農民に無償で分配する急進的な方式ではなかった。基本的に私的所有権を認めた背景の上で行われた。地主が所有する農地のうち3町歩までは残し、残りの農地は国家がその価格を年平均生産量の150%と定め、地主から一律買収して農民に分配した。土地を分配された農民は5年間、1年の収穫物の30%を償還した。土地改革は国家が強制的に所有権を統制し調整する政策だった。土地改革が遅滞して多くの問題が引き起こされたが、その後、大韓民国において土地改革に比見できるほどの画期的な経済改革を見出すことは困難である。同様の時期に台湾も土地改革を行ったが、土地価格を年平均生産量の250%と定め、農民は10年にわたって現物で8%の利子まで付けて償還した。韓国の土地改革は台湾よりも農民にとって有利な方法で行われた。[1]土地改革は韓国社会において地主階級の消滅をもたらし、これが産業化と急速な経済成長を達成する基礎として作用したという点は、ほとんどの学者たちが認めている。[2]

当時、大韓民国の政府と国会を占めた主流集団は、地主など有産者層であり、保守的な右翼人士たちであった。だが、どのように自らの既得権を制約する土地改革を断行することができたのだろうか。まず東学農民戦争から日帝植民地期の急進的な農民運動につながった農民たちの抵抗、下からの圧力を考慮せざるを得ない。もちろんこのような運動を導いた左翼勢力は、解放直後、民族分断と朝鮮戦争を経て、大韓民国から暴力的に排除された。しかし、彼らが醸成した下からの圧力は、保守右派としても土地改革の必要性を無視できない政治的環境を醸成したのである。北朝鮮の土地改革もソ連の主導だけで行われたのではなく、基本的に朝鮮半島の内部で形成された要請と動力によって進められた部分が大きかった。[3]

一方、大韓民国の枠組みを規定した制憲憲法の経済条項は、いま見ると少し驚きだが、重要資源と産業の国有化を追求する内容を含んでいた。さらに憲法条項には、「営利を目的とする民間企業においては、労働者は法律の定めるところにより利益の分配に均一の権利がある」(18条)、「すべての国民に生活の基本的な需要を満たすことができるようにする、社会正義の実現とバランスのとれた国民経済の発展を期すことを基本とする。各人の経済上の自由はこの限界のなかで保障する」(84条)、「農地は農民に分配し、その分配の方法、所有の限度、所有権の内容と限界は法律で定める」(86条)などの内容があった。自由放任主義とはかなり距離があり、修正資本主義、さらに社会主義を連想させる部分もある。これも基本的に下からの圧力に関連しているが、それだけでは説明しにくい側面もある。

韓国は植民地だったため、近代の世界秩序を主導して、その標準と考えられた西欧とは異なり、理念的な地形がはるかに複雑な様相を帯びざるを得なかった。近代は西欧で始まった新しい資本主義文明が帝国主義/植民地体制の中で全世界的に拡散する様相で展開された。植民地人たちは近代を受け入れ、これに適応して生きざるを得なかったが、一方で近代の帝国主義/植民地体制をはじめとする西欧中心的な秩序は、植民地人から政治的自由と機会を奪い取り、隷属と従属、高度の搾取などを強要した。したがって植民地人は、近代のあらゆる側面をそのまま受け入れて順応し、自らを自由で独立した個人という近代的主体として確立することが困難な状況に置かれる。そのために白楽晴が指摘した通り、「近代に同時的に適応して克服する二重課題」[4]を遂行しなければならない状況、近代に適切に適応するためにも近代克服の努力が必要な状況に直面する。つまり産業化など資本主義的発展のためにも、前近代的な地代搾取を維持して拡大した植民地の遺産を清算するためにも、資本主義社会が基礎とした個人の所有権を統制・調整する改革を断行し、さらに社会主義的な指向性も標榜する必要があったのである。

日帝植民地下の韓国人の中にも有産者層がおり、その一部は日本の植民統治に協力したりもした。しかし植民地には基本的に民族差別が存在するため、もし韓国人が植民統治に協力して地位上昇を図るとしても、日本人と完全に同等の機会を享受することはなかった。彼らも植民地体制に対して不満がまったくないわけではなかった。このような事情のため、植民地期に保守的な有産者層であっても現実批判的で改革的性向を示すことができた。

たとえば日帝強占期に『東亜日報』グループを率いた宋鎭禹は、保守的な右翼民族主義者だったが、早くから自由放任主義に批判的で、修正資本主義的な理念を示してきた。彼が主導して作った解放直後の代表的な保守政党である韓国民主党も、「工場の経営および管理に労働者代表の参加」「土地私有の極度制限と農民本位の耕作均権などの確立」「大規模な主要工場および鉱山の国営ないし国家管理」など、進歩的政策を公式に標榜した。[5]これに対して解放直後に米軍政を率いたホッジ司令官(J. R. Hodge)も「韓国の右翼勢力もアメリカ人の思考と比較してみると極端に急進的である。彼らの綱領も急進的で社会主義的」[6]であると語った。事実、日帝末期と解放直後において、韓国の保守集団と進歩集団の間に理念の違いは明らかにあったが、その格差はさほど大きなものではなかった。したがって、解放直後の左右合作を推進した動きも、当初から非現実的だったとは言えない。大韓民国制憲国会でも、中道的性向の少壮派議員グループが存在したが、彼らが国会内で地主の立場を代弁する勢力を制御し、「農地改革法」を、地主の地代搾取を根絶させるより改革的な方向にすることに寄与した。[7]問題は、朝鮮半島を分割占領したアメリカとソ連の両強大国が、冷戦的関係を形成していくなかで、韓国人の脱植民に向けた動きに深刻な亀裂と歪曲を発生させたという点である。[8]


4月革命と5・16クーデター、そして高度経済成長


1960年代に入って韓国は高度経済成長を始めたが、これは韓国社会の様相と世界的地位を大きく変化させた。1960年代から1990年代までの30年間、韓国は年平均経済成長率が9%を超える成長をしてきたが[9]、このように30年間つづけて高度経済成長をした事例は世界的にきわめてまれである。しかし、1997年のIMF金融危機のころから経済成長率は5年に1%ずつ下落する傾向を示す。[10]

韓国の高度成長を政治と関連づけて説明するとき、1961年の5・16 クーデターと朴正煕軍事政権の登場をよく取り上げる。しかしその前に1960年の4月革命があったという点を想起せざるを得ない。4月革命と5・16 クーデターは断絶と連続が重なった非常に微妙で複雑な関係にある。

4月革命こそは、様々な側面で韓国現代史にダイナミズムを付与した出来事であった。朝鮮戦争が休戦してわずか7年しか経っていない時点で、大衆的な抗争によって最高指導者の李承晩が退く出来事が発生した。韓国には強い国家も存在したが、市民社会の力量も手ごわいものがあった。軍事独裁政権は長期持続したが、4月革命の「勝利の記憶」を振り返り、軍事政権に対する抵抗も長期的に激しく展開された。

グレゴリー・ヘンダーソン(Gregory Henderson)は当時、駐韓アメリカ大使館で外交官として勤務し、4月革命を直接目撃した。彼は「この革命を目撃した人々は、当時、韓国の各都市を席巻した全員合議性、自発性、また徹底した信念を決して忘れないだろう。より多元的な社会も、そのような感情の色調を作り出せるとは信じ難い」[11]と所感を明らかにした。自然生動性にあふれ、発展した民主主義国家にも見られない独特の雰囲気と行動があったということだが、昨今の韓国のろうそくデモで西欧の知識人とジャーナリストが受けた印象に似ている。

4月革命は内閣責任制への改憲と保守野党による政権交代という制限的な政治的変化に帰結したが、それだけがすべてはなかった。4月革命直後、社会の各部門で分断と戦争、独裁政権の下で隠蔽され抑圧された各種の不満が噴出し、様々な社会運動が出現した。これらの動きは1960年秋を経て、南北朝鮮の分断克服を追求する統一運動に合流していく様相を示した。当時の統一運動は、経済発展の問題と緊密につながって進められたが、韓国人はもちろんのこと、アメリカの官吏たちも、韓国は統一なしでは発展困難だろうと考える人が多かった。[12]

当時、韓国の保守集団は、まず経済を先に復興させて北朝鮮との体制競争で優位を占め、北朝鮮の住民を韓国の体制に引き込もうという「先・建設/後・統一論」を主張した。張勉政権も経済第一主義を打ち出して外国資本を導入し、韓日関係も改善しようとして、5・16 クーデター直前に経済開発5か年計画を作成していた。一方、改革的な性向の集団は、朝鮮半島を永世中立化する形で冷戦から脱して統一を達成すべきであるとした。このグループの人々は、概して西欧の福祉国家をモデルとした民主社会主義的な経済発展を主張した。一方、より急進的な集団は、反外勢・反封建・反買弁民族革命を主張し、統一こそがこのような民族革命を達成する道であると考えた。これらのグループは反帝国主義的で民族革命論的な立場で外国資本の導入自体に批判的だった。[13]このように4月革命直後に多様な政治・社会集団が統一問題と連携した経済発展の方向設定をめぐって論争し競合するダイナミックな状況が創出された。これに対して詩人の金洙暎も「最近は詩集を読むよりも経済学の本を読む日の方が多い」と言っていたほどである。[14]このような過程を通じて経済発展に関心と力量を集中していく、下からの合意と雰囲気が醸成されたのである。

5・16 クーデターの主体は、朴正煕少将を中心に組織された若い領官級将校たちだった。彼らは4月革命直後、韓国軍の先輩格の将軍の中で、腐敗と不正選挙に責任を持つ人々は退陣するという、いわゆる「整軍運動」を通じて規制された、最初から軍隊内部で出現した4月革命の改革集団であるといえる。しかし、クーデターの最初の段階でその成功可能性を高めるため、北朝鮮の間接侵略を阻むという反共と韓米同盟を核心公約として掲げ、クーデターに成功した。[15]

5・16 クーデターは基本的に、4月革命当時の分断克服と経済発展の方向をめぐって、多様な集団が競合する状況の間隙を縫って成功したものだった。朴正煕軍事政権は、4月革命期の張勉政権および保守政治集団が主張した、外国資本の導入を通じた経済建設論や統一は、こうした経済建設以降に留保するという、先・建設/後・統一論の立場を基本的に継承した。ただ張勉政権との違いは、保守集団とは異なる、統一と経済発展の方向を披歴した改革的・急進的集団を、軍隊の物理力を通じて暴力的に抑圧して封鎖したという点である。また張勉政権は経済開発のために軍隊を縮小しようとしたが、朴正煕政権はベトナム派兵、軍事主義の拡散など、極めて軍事化された近代化を推進したことが異なっていた。[16]

1960年代初頭、張勉および朴正煕政権が推進した経済開発政策は、アメリカの第三世界開発政策である近代化論との密接な関連の中で展開された。近代化論の重要な特徴は、すべての発展経路は単一であり、したがって「後進国」は「先進国」がすでに通過した経路をたどって近代化されねばならず、後進国の発展は西欧先進国との接触を通じて加速化できると考えることであった。[17]しかし、韓国の経済開発は、アメリカ発の近代化論を無条件に追従し順応する形だけで成立したわけではなかった。

解放直後に噴出した改革的・進歩的動きは、分断と戦争を経て徹底的に封鎖されたが、制憲憲法の経済条項と土地改革においてその痕跡を残した。クーデターで挫折した4月革命期の改革的・進歩的な動きも、1960-70年代の高度経済成長にその痕跡を残したが、民族・国民経済の自立的土台の建設を強調する「内包的工業化論」などがそれであった。

1950年代末から始まって4月革命で活性化された多様な経済発展論は、外国資本の導入可否をはじめ、経済の対外開放性、国公有化や私有化など、様々な問題で違いを示したが、基本的に外国の援助に依存しない自立経済を追求し、消費財産業だけでなく重化学工業などの基幹産業を発展させて自立的経済の土台を構築するという、内包的工業化論を一定部分共有した。[18]内包的工業化論は解放直後の土地改革のように進歩と保守が重なる地点に位置した主張であるといえる。朴喜範は代表的な内包的工業化論者であり、初期の朴正煕軍事政権の経済政策に影響を及ぼした人物である。彼は民族革命論を主張する急進的な人士たちとは異なり、外国資本の導入に肯定的であり、近代化論者らと同様に不均等発展論を受け入れた。しかし、近代化論を批判して、「内包的工業化の努力なしに先進国の利害関係に追従して無計画的に〔外国資本を〕受け入れた後進地域は、経済的隷属を招来したに過ぎなかった」としながら、「国際分業」に順応するよりは基幹産業を育成すべきと強調した。[19]

当初の張勉および朴正煕政権が企画した第1次経済開発5か年計画(1962-66)は、世界市場の論理に順応する輸出主導型ではなく、内包的工業化論に立脚したものだった。しかし1963年を経て、アメリカの勧告と圧力で、外国資本を取り入れて安価な労働力をもって世界市場で比較優位を占める消費財軽工業産業に優先的に投資し、その生産品を輸出する形に経済開発計画が修正された。[20]

朴正煕政権はしばしば輸出主導政策を推進して高度経済成長を成功させたと評価される。第2次経済開発5か年計画(1967-71)が輸出主導政策で大きな成果を収め、韓国は高度経済成長に突入したが、ここにはもちろん韓日関係の改善およびベトナム派兵など国際的変数が重要に作用した。このような成功で韓国政府の経済開発政策は輸出主導型に位置づけられた。

だが、経済開発計画の実施の様相を、当時の韓国政府およびアメリカ政府の記録を通じて綿密に分析したパク・クンホの研究によると、第2次5か年計画の実際の進行は政府の計画通りに行われたわけではなかった。たとえば、繊維産業部門で朴正煕政権は主として織物を輸出しようとしたが、実際にはセーターをはじめとする衣類や靴、玩具類などで大きな輸出実績を上げた。また、政府の計画は、電子産業部門を強調せず、ラジオなどの電子機器の輸出に重点を置いたが、実際にはトランジスタやコンデンサー、およびこれらの部品を組み立てた直接回路(IC)などの電子部品分野で大きな実績を収めた。これら電子部品産業は主としてアメリカ企業が韓国に進出して、アメリカから持ち込んだ素材を韓国の低廉で質の高い、主に女性労働者の労働力を活用して組み立て、アメリカに戻して完成品を作る形で発展した。[21]このような様相は、軽工業中心の輸出主導産業化が、政府の政策的な実効というよりは、企業と優れた資質を示した労働者の活動により依存して成功を収めたことを示している。

1960年代後半に輸出主導産業化が推進されはしたが、内包的工業化政策が完全に放棄されたり消えたりしたわけではなかった。第2次経済開発5か年計画にも石油化学、製鉄、金属など基幹産業の育成が大きな割合を占めた。内包的工業化論が主張した国民経済の自立的土台建設、重化学工業の建設を強調する思考は依然として潜在していた。1970年代に入って朴正煕政権は重化学工業化を本格的に推進した。浦項製鉄の建設に代表される重化学工業化については、アメリカの援助機関はもちろん、韓国の経済官僚もすべて時期尚早と見なして否定的な見解を示したが、朴正煕政権が意志を持って推進した。[22]この部分では政府の政策がより比重をもって作用したといえる。重化学工業化の推進過程で様々な難関や問題点が発生したが、とにかく1980年代に達すると、韓国は重化学工業でも国際的に比較優位を確保することになった。重化学工業化は、台湾やシンガポール、香港などに比べて比較的規模のある国土と人口を持つ韓国が、長らく高度成長を達成できる重要な足場として作用した。このような側面は、韓国の経済成長が世界市場、国際分業の論理に単に順応するのではなく、時にはそれに挑戦して克服していく過程で進められたことを示している。


注入式の教育を越えて


韓国の経済成長を説明する研究は、そのほとんどが教育の役割を強調する。教育が高度経済成長に必要な良質の労働力を提供したというものである。そのような研究は、韓国政府が1950年代から積極的に各級学校を作り、相当な教育費を支出した点、できるだけ多くの人に教育の機会を提供する普遍教育を進めた点などを指摘する。もやし栽培のような教室で暗記中心の注入式教育が行われたが、韓国が先進国の知識と技術を吸収して先進国を追撃していく過程で、こうした教育が効果的な側面もあったと主張する。[23]このような見解は、まず労働問題を労働力の提供に限定し、教育の役割を優れた労働力の養成のみに限定するという点で問題がある。また、韓国で行われた教育と知識活動の領域をあまりに狭く設定したまま、やはり単線的に解釈するのも限界がある。

大韓民国の学校は国家が主導する注入式教育の場だったが、また4月革命以来、学生運動の空間でもあった。学生の意識が国家の統制する制度圏教育の内容によって一律に規定されたとすれば、学生運動を通じて表出された学生の現実批判的な意識と行動はどのように説明できるだろうか。

1950年代に李承晩政権は学徒護国団を作り、学生に反共意識を注入したが、学生はこの活動を通じて民主的意思を決定する方法を学び、各学校の護国団幹部の間に形成された絆とネットワークを活用して4月革命のデモのために街頭にくり出した。独裁政権期の大学街では、公式・非公式の様々な理念サークルがあり、学生たちが自発的に作った非公式新聞や各種印刷物などの出版物が刊行された。[24]学生たちは学校が教えない本を読み、発表し、討論し、現実批判的な意識と自ら思考する能力を育んでいった。学生だけでなく労働者も、1970年代の民主労組活動に見られるように、各種労働団体と労働組合の活動過程で多様な次元の知識を築いていくことに熱意を示した。[25]

昨今のろうそくデモの現場などで、韓国の大衆が各種オンライン/オフライン空間で行うパロディ、風刺、パフォーマンスなどは、その奇抜さと創造性に感心するほどである。これは制度圏教育だけでなく、学生と大衆が自発的に形成した領域で構築してきた多様な知識活動を通じて、注入式教育の限界を補完し克服していったために可能だったと考える。[26]


不平等解消と平和定着という課題


韓国現代史の成就はこのように、近代化でも先進化でもある種の単線的な道をたどったのではなく、基本的に複数の経路をめぐって多様な集団が多様な領域で能動的に参加し、競合し、葛藤する過程で行われた。そのために格別なダイナミズムを示した。もちろん、こうした競合と葛藤は平和的に進められたわけではなく、分断や戦争、長期持続した独裁政権下できわめて暴力的な様相で進められ、多くの問題と被害を量産した。しかし、主流集団に抵抗して弾圧されたり排除された人々の行動と主張も、明らかに韓国社会の発展過程に影響を与え寄与した。

1987年以降、韓国が民主化への移行を開始し、これまでダイナミックだったがきわめて破壊的だった競合過程で発生した被害と問題が明らかになり改善がなされた。しかし、いまだ解決されていない課題が残っている。なかでも不平等と平和定着の問題が目立っている。

解放直前の韓国は非常に不平等な国だった。しかし、植民地からの解放、土地改革などを通じて、解放後の不平等問題は大きく改善された。高度経済成長期には財閥企業に経済力が集中するなど不平等な構造が形成されたが、急速な成長のおかげで下層階級も収入が増加して上層に上昇する機会を得て、経済的不平等の程度は他の国々と比べてさほど悪くなかった。しかし、1990年代半ばから経済成長は停滞して不平等問題が悪化している傾向である。[27]1987年以降、韓国の民主化は政治的・手続的次元だけでなく、経済的・実質的平等を追求する方向になかなか進んでいない。

韓国社会は民主化によって、政治的葛藤を平和的に解決する方面では大きな進展を示した。2016-17年、朴槿恵大統領の弾劾をめぐる数か月のろうそく抗争の過程で、死者がたった1人も発生せず、逮捕・拘束された人もいなかった。本当に感心すべきことだった。しかし、北朝鮮との関係、周辺強大国との関係を平和的に確立する問題では、むしろ退歩する様相を示している。これまで南北朝鮮の関係改善、朝鮮半島の平和定着のための少なからぬ試みと努力があったにもかかわらず、2019年のハノイ朝米首脳会談が座礁した後、南北関係は長期間空転状態である。特に近年、米中の覇権競争が可視化し、ウクライナ戦争やイスラエルをめぐる中東戦争など、尋常でない国際的雰囲気において、朝鮮半島の平和をどのように維持して強固にするかという問題がさらに緊迫している。しかし政治圏はもちろんのこと、市民社会でも、この問題に対する本格的な討論と行動は見出しにくい。問題を問題として認識できないとき、危機は簡単かつ大きく訪れるものである。

不平等解消と平和定着の問題は、先・建設/後・民主化論のように相互につながったものを二分法的に区別し、二者択一にしたり優先順位を決めたりするような考え方では解決できない。これに関連する多様な次元の問題を互いに結びつけてネットワーク的に思考し、複数の主体の参加の中で解決するしかない。一方的で単線的な経路に設定された目標に向かって、すべての手段を動員してひた走る、軍事主義的な突進方式を追求するのではなく、基本的に経路の複数性を認めるべきである。多様な政治・社会集団が複数の道をめぐって競合するとき、ダイナミックな歴史が可能であり、創意的で民主的な問題解決も可能である。この点こそが、韓国現代史が成就を成し遂げた形でもある。このような面で、韓国現代史が主として理念闘争の道具として活用される現実はきわめて残念である。単線的でなく複合的に様々な主体の利害関係と行動を包括し、韓国現代史を継続的に省察していく姿勢が必要である。

〔訳=渡辺直紀〕




[1]シン・ビョンシク「韓国と台湾の土地改革の比較研究」『韓国と国際政治』4巻2号、1988。

[2]キム・ナクニョン『韓国経済成長史』へナム、2023、368-372頁。

[3]キム・ソンボ『南北韓経済構造の起源と展開』歴史批評社、2000。

[4]白楽晴『近代の二重課題と韓半島式の国づくり』創批、2021、27-52頁。白楽晴は、適応と克服という二重課題は、両者が分離して先後関係として段階化したり、並立させたりできない、同時的かつ二重的な単一の課題であることを強調する。

[5] ユン・ドクヨン「日帝下・解放直後の東亜日報系列の民族運動と国家建設路線」延世大大学院史学科博士学位論文、2010、46-61頁、321-324頁。

[6]“Corps Staff Conference,” 1946.3.25, United States Army Forces in Korea XXIV Corps, G-2 Historical Section, Historical Files 1945-1948, RG 332. チョン・ヨンウク編『解放直後政治・社会資料集』1巻、タラクパン、205頁を参照。

[7]シン・ビョンシク「第1共和国の土地改革の政治経済」『韓国政治学会報』31集3号、1997。

[8]最近出版されたチョン・ビョンジュンの研究は、解放直後、韓国人の脱植民に向けた動きが、米ソの朝鮮半島分割占領状態で発生した早熟な冷戦によって、どのように分裂し歪んだかを具体的に示している。チョン・ビョンジュン『1945年解放直後史』トルペゲ、2023参照。

[9]キム・ナクニョン、前掲書、40-42頁。

[10]キム・セジク『模倣と創造』ブライト、2021、46-66頁。

[11]グレゴリー・ヘンダーソン『渦巻型の韓国政治』、パク・ハンウン・イ・ジョンサム訳、ハンウルアカデミー、2000、268頁。

[12] ブルース・カミングス『ブルース・カミングスの韓国現代史』、キム・ドンノほか訳、創批、2001、435頁。

[13]拙著『統一問題と政治・社会的葛藤』ソウル大学校出版部 2001、213-308頁

[14]金洙暎「真水」(1961.4.3)、『金洙暎全集/2巻・散文』民音社、1981、27頁。

[15]拙稿「4月革命直後の整軍運動と5・16クーデター」『韓国史研究』158号、2012。

[16]軍事化された近代化、軍事政権期の軍事主義については、ムン・スンスク『軍事主義に閉じ込められた近代』イ・ヒョンジョン訳、もう一つの文化、2007。クォン・インスク『大韓民国は軍隊だ』青年社、2005参照。

[17]マイケル・レイサム『近代化というイデオロギー』クォン・ヒョグンほか訳、グリーンビー、2021、17-52頁。

[18]チョ・ソッコン「1970年前後に提示された韓国経済発展論の比較検討」『民主社会と政策研究』17号、2010。

[19]朴喜範「ロストウ史観の批判的考察」『政経研究』1966年3月号、97-98頁。

[20]木宮正史『朴正煕政権の選択』フマニタス、2008、122-176頁。

[21]パク・クンホ『朴正煕経済神話の解剖』キム・ソンチル訳、フェファナム、2017。

[22]パク・クンホ、前掲書、216–218頁。パク・ヨング「構造変動と重化学工業化」、イ・デグン他『新しい韓国経済発展史』ナナム、2005。

[23]キム・ナクニョン、前掲書、132-143頁。キム・セジク、前掲書、182-209頁。

[24]オ・ジェヨン「1960-1971年大学学生運動研究」ソウル大大学院国史学科博士学位論文、2014。

[25]拙著「糞と知識:女性労働者とトンイル紡織事件」『民主主義残酷史』創批、2017、83-116頁。

[26]ラ・ジョンイルは民主化運動が韓国人の進取性と創意力を育てるのに大きく寄与したと指摘する。ラ・ジョンイル他『韓国の発見』ルアーク、2021、121-124頁。

[27]キム・ナクニョン「韓国の所得分配」、イ・ヨンフン他『韓国型市場経済体制』ソウル大学出版文化院、2014。