창작과 비평

[特集] 金大中思想とK民主主義 / 李南周

創作と批評 207号(2025年 春号) 目次

特集

金大中思想とK民主主義―“変革的中道”の視角から



李南周
聖公会大学中語中国学科教授、 政治学者、『創作と批評』編集主幹。著書は『中国市民社会の形成と特徴』、共著は『21世紀の朝鮮半島構想』『東アジアの地域秩序』『中国、新たな  パラダイム』『百年の変革』、編著は『二重課題論』など。


1.なぜ金大中思想なのか
金大中は、自らが追求する理念と路線を様々に説明しつづけた。1956年民政党の創党(正式な創党時の党名は共和党)を推進しながら、党の路線を「合理的かつ健全な進歩主義」と説明したが、1960年代に所属した民主党と新民党の路線は、それぞれ「漸進的な保守主義」と「反共・自由民主主義の政党」と説明した。1987年大統領選への出馬を決め、自らが主導して創党した平和民主党では「穏健改革主義」を標榜し、1991年の野圏連合で創党した新民主連合党の路線は「中道改革主義」とした。1995年7月の政界復帰宣言後に創党した新政治国民会議は「中道」で、大統領在任時の2000年に創党した新千年民主党は「国民的な改革政党」と規定した。
 進歩、保守、中道など理念的スペクトルに分類される概念を総動員した様々な路線の間で、一貫性を見つけがたいと思われる。しかし、重要な社会的・歴史的な足跡を考察する際に注目すべき点は、テキストの形式論理的な正当性よりも、当該テキストが当時の歴史と相互作用して創りだした新たなレベルの一貫性、つまり歴史の中で形成された“思惟の精髄”というべきであろう[1]。持続的に変化した金大中の政治的修辞の裏には、他の現実政治家には見いだしがたい一貫した態度と体系が存在する。その点で、金大中の思惟と実践を一つの独自的思想として照明すべき理由は十分である。特に、金大中思想は民主主義を基に構成されただけに、今日のK民主主義の論議にも多くの示唆を提供しうると思われる。
 すでに金大中を思想家として照明する試みもあった[2]。信仰と良心、政治路線、政治哲学、民主主義、平和主義、女性主義など多様な角度から金大中思想を照明したのである。そのうち、特に金大中の中道主義、中道改革主義に対する論議[3]は金大中思想の大きな流れを眺望するのに助けとなりそうだ。ただ、金大中思想において中道と急進主義の間の対立的な側面をあまりに強調すると、彼の思想の全貌を理解するよりも偏った理解に傾く懸念もある。
 金大中が、非現実的な急進主義路線を一貫して批判したのは事実だが[4]、彼自身が急進主義から滋養分を供給されていた面にも注目すべきである。これを見過ごして急進主義に対する批判と否定だけを強調すれば、韓国現代史で彼が示してきた思想と実践の意味を矮小化することになる。金大中思想と「第三の道」(1994年に英国労働党トニー・ブレアが提案し、中道主義を標榜する政治理念)など西欧言説との類似性を強調する方式も、彼が韓国と朝鮮半島における実践に基づき、新たに創りだした地平を消し去る問題がある。政党の路線を説明する過程で具体的な表現は変化したが、「保守的な資本優位の方向や、あるいは韓国の現実的条件を無視する観念的な社会主義を拒否」(「民政党の基本方向」『月刊政経』1956年4月創刊号)[5]する志向から、新政治国民会議の中道性に対して「保守政党と革新政党の間の中産層と庶民のための政党」(「『マル(言葉)』誌とのインタビュー」『マル』1995年9月号)と称するまでの裏には“一以貫之(終始一貫)”する態度、つまり急進主義を韓国の状況にあわせて消化し、実行可能にするにしようという奮闘が根づいている。「理想主義が消去された“中道”ではなく、理想主義や急進主義の可能性を維持しながらも現実と遊離せずに、その可能性を実現する道を求めようとする試み」[6]である“変革的中道”は、金大中思想のこうした精髄をより効果的に包みこむ。
 変革的中道は、資本主義世界システムの克服に対する意志を変革性の基礎としている。資本主義世界システムは歴史的システムとして、様々な成果を創りだしたと同時に、人類共同体の持続を脅かすメカニズムも創りだした。そのメカニズムを克服することが近代変革運動の基本方向である。ただ、変革的中道は時間と空間によって変革性を実現する方式が異なるべきだと主張しており、朝鮮半島では分断体制の克服をその核心課題として提示した。分断体制の克服と結合しない急進主義は非現実的な路線に転落しやすく、分断体制の克服を放棄した改革主義は改革という目標もついには達成しがたい[7]。本稿は、金大中思想がK民主主義という新たな地平を切り開くのにいかなる寄与をしたのかと、その過程で変革的中道の発想がどのように作動したかを考察しようと思う。

2.金大中の資本主義認識
 金大中が資本主義に対する問題意識をもったという事実は、歴史的に見れば当然である。解放1年後に米軍政庁の世論局が全国8453人を対象にした設問調査で、資本主義、社会主義、共産主義のうち、社会主義に賛成するという答弁が70%(6037人)に達した[8]。金大中もやはり資本主義に対して批判的に認識し、ソ連式の社会主義には否定的だったが、社会主義の理念を帯びた価値、例えば“正義”を肯定的に評価した。休戦直後に発表した文章に、これと関連した具体的な端緒が見つけ出せる。

  罪悪的な搾取と支配を恣にする資本主義を拒否する一方、私たちの実情を認めないどころか、全体主義的な統制と生産能率の後退を免れがたい社会主義自体もこれを受け入れられないし、結局私有財産と個人の創意はこれをどこまでも尊重し、従来のような資本だけの優位支配を断固排撃し、労働・資本・技術の三者が平等な立場で互いに協同することで生産の急速な向上を期し、その利潤の分配においても労働者と技術者もまた応分の参加が許されることを主張すべきだろう。 
――「韓国労働運動の進路」(『思想界』1955年10月号)

 こうした方向は、その後1960年代まで修正資本主義や大衆資本主義として説明されもした。「計画性(国有国営)を加えた修正資本主義(協同経済)の方向を志向すること」(「民政党の基本方向」)が適当だと語るのに次いで、次のように大衆資本主義にも言及した。

  大衆資本主義は私たち自らの主張である。人民資本主義ではもちろんない。現代的な意味の修正資本主義でもない。私たちの経済、私たちの社会を基盤にして原生的に展開させていくべき、私たち自らの資本主義なのである。韓国経済の実情で見る場合、階級構造の両極化をかきたてる独占資本主義的な諸矛盾を修正すべき必要もあるだろうが、同時に私たちにはそれ以前に貧困の悪循環から解決をはかるべき修正以前の責任もある。私たちの大衆資本主義は修正以前の段階で修正的な内容までも実現させようというものであり、そうした意味で、単なる修正資本主義ではない、独自的な私たちの進路を提示するものである。    
――「大衆資本主義の進路」(『ビジネス』1966年第6巻第3号、強調は引用者)

 大衆資本主義という概念には社民主義の影響もうかがえるが、社民主義の枠内にのみ閉じられるものではない。特に、上記の文章で“原生的”という表現に注目する必要がある。金大中は当時、西欧の修正資本主義を資本主義が高度に発達した状況で、その弊害に対応しようとして出てきた概念とみて、資本主義的な発展が達成していない韓国は、西欧と異なる資本主義の発展経路を歩むべきと見たのである。1960年代後半から提示した「大衆経済論」もまたこうした模索の結果である。

  仮にいくつかの国で経済の高度成長を達成し、その高度成長には近代経済学の理論が大きく貢献したというが、高度成長が即大衆生活の高度な向上ではないという現実を目撃すると、絶対多数の大衆は相変わらず疎外されていることがわかるのだ。したがって、大衆のための大衆の経済学も不在状態だといわざるをえないし、ここにまた“大衆経済論”が提唱される理由があるのだ。
 ……大衆経済とは、社会の実質的な生産力である勤労大衆の知恵と能力を最大限に発揮すると同時に、彼らの福祉を“制度的に”かつ“事前的に”保障する経済システムを形成し、彼らの権益を永続的に保障、拡大する一連の経済政策をいう。
   ――「大衆経済を主唱する」(『新東亜』1969年11月号、強調は引用者)

 “事前的に”保障する経済システムの核心的内容は、「国家の介入による資本に対する若干の干渉と勤労者の経営参加が許容されるべき」(「70年代のビジョン:大衆民主体制の具現」『思想界』1970年1月号)と要約される。
 1980年代になり、金大中は自由経済と市場経済をより強調した。そうだとしても、資本主義を無批判的に受けいれる方式ではなかったし、現実社会主義と古典的資本主義を克服しようとする模索は続けられた。1987年の大統領選挙では、五大公約中の一つとして“正義経済”を提示し、1988年16年ぶりの国会本会議での演説では、「20世紀の世界史は人類史上初めて“自由と正義を一括して実現”するという偉業を達成しようと着実に進展して」いると語り、次のような立場を鮮明にした。「自由経済の目的が正義の実現にある場合にのみ、その意味があります。……平和民主党と私は自由経済を支持します。しかし、正義ある自由経済のみを支持します」(「第13代国会第142回第11次本会議:1.国政に関する交渉団体代表演説」、1988年6月29日)。
 彼が脱冷戦期に強調した市場経済も同じ脈絡で理解できる。「今日の資本主義はアダム・スミス(A. Smith)やリカドー(D. Ricardo)などが考えた資本主義に比べれば、ほとんど資本主義を放棄した新たな経済体制といっても過言ではない」とし、資本主義が「継続的に自己革新を断行し」「政治的な民主主義体制と結合」してきた姿勢を評価した部分だが(「20世紀の回顧と21世紀の展望」『月刊中央』1994年1月号)、「資本主義は社会主義の挑戦のみを受け入れるのではなく、資本主義自体からくる挑戦も受け続け、今日の資本主義は資本主義を捨てる脱資本主義時代へと入っています」[9]という発言からもわかるように、現実社会主義では失敗した資本主義克服への志向を盛り込んでいる。
 金大中のこうした模索において、中心的な役割を果たすのは断然民主主義である。金大中にとって民主主義は政治的な権利と自由を保障する制度を越え、共同体の生の質を高める道でもあった。その結果、彼の民主主義に関する論議は常に民主主義の経済的・社会的次元と分断克服のための平和的次元を含んでいる。

3.金大中の民主主義論
・民主主義と市場経済
 1950年代、金大中は官僚経済と特恵経済が韓国の経済発展を妨げて不平等・不均衡を拡大する主な要因だと指摘しながら、バランスのとれた発展のために民主主義が必要だと力説した。1960年代末に大衆経済論を提起しながら、何よりも民主主義体制の完成が先行条件になるべきであり、「大衆経済は大衆の福祉を制度と政策の面から実現しようというもので、大衆の意志が権力として具体化される」べきであると主唱した(「大衆経済を主唱する」)。
 彼は、民主主義に基づく経済発展戦略として内包的な発展と均衡発展を強調し、中小企業の育成、農業発展、地域均衡などを具体的な政策として提示した。その延長線上で、庶民と中産層のための政治を掲げたのはもちろんである。こうした発展方式が民主主義の質的な進展にもより適合しただろうが、歴史の中でこの経路は封鎖された。大企業の主導、輸出産業中心の発展戦略は、経済の量的な成長を呼び起こすと同時に、様々な不均衡もまた招きよせ、これが現在のわが民主主義の質を下落させ、不満を加重させる要因になっている。したがって、当時金大中が構想した経路が現実では実現できなかったとして、何の意味もなかったと貶めるべきではない。むしろ韓国経済の既存の成長方式が限界に直面した今日、より有用に顧みるべき部分である。
 脱冷戦後、特に大統領に当選して金大中の経済政策は成長により重点を置く方向に転換した。IМF危機も主要な原因だが、グローバル化(globalization)という変化した状況に符合する新たな国家戦略を追求すべきだったからである[10]。だがこの時も、民主主義の重要性は相変わらず強調された。「社会主義が資本主義に負けたとは思いません。民主主義をしない社会主義、民主主義をしない共産主義が負けたのであり、あるものは自ら崩壊したと思います。……資本主義と社会主義は同じく民主主義をすれば成功し、民主主義をしない資本主義と社会主義は共に失敗しました」(「労働運動の自由が民主主義の尺度」『社会評論』1992年1月号)という言葉で確認できるように、彼にとって民主主義は社会主義や資本主義よりもより根本的な原理として強調される。どんな社会体制であれ、民主主義と結合してこそ追求するものがまともに実現されうるという主張である。こうした問題意識は(前に考察したように)民主主義がまともに作動する場合、資本主義は新たな地平へと発展しうるという洞察につながった。これは、資本主義体制を新体制に代えようという試みだったが、失敗した既存の革命モデルの限界を克服できる思惟としても意味がある。
 金大中は脱冷戦とともに進行した社会経済的な変化が、経済と民主主義の間の連関性をより強化されるだろうと認識した。1990年代になると、彼は情報化時代、先端科学の時代へグローバル次元の転換が進行していると強調するようになる。そして、こうした変化に対応するための技術開発と技術教育、多品種少量生産を支えうる中小企業の育成、対等な労使関係の樹立などの必要性を力説した。何よりも、「自由な情報の流れを保障するためには徹底した民主政治が必要不可欠」だと強調した(「第13代国会第151回第12次本会議:1.国政に関する交渉団体代表演説」1990年11月23日)。大統領在任時に、情報通信産業および文化産業の発展のために積極的な政策を展開したこともこうした延長線上にある。韓国民主化の元年である1987年、1人当たりのGDPは3554ドル(2022年価値基準)である。これは2022年の世界銀行の国家分類で中下位所得国家のレベルに属する。韓国が中上位所得国家段階を経て高所得国家へ進入(2007年)したのは民主化とともに進行した変化である。民主主義と経済発展の好循環を追求する金大中の思惟と実践は、民主主義を主張する勢力は経済発展に寄与できないとか、否定的な役割をしてきたという一部の主張や、朴正熙時代の国家発展モデルに対する過度な神話化が根拠のないことをよく示している[11]

・南北関係と民主主義
 “安保論理”は、民主主義のための金大中の奮闘において直面した最も大きな壁だった。こうした状況は、逆に韓国の民主主義のためにも南北関係の発展が必要であることを傍証しており、金大中はこれを誰よりも鋭く認識していた。「彼らの唯一の希望とは、南の民主勢力による北の解放にある」(「北の解放と南の労働者」『新太陽』1957年10月号)という主張にうかがえるように、1950年代の金大中は北を協力対象ではなく、競争と克服の対象と規定した。だがこの時も、要点は単なる南北の陣営対立ではなく、南の民主勢力の形成と強化にあったし、北との対決を、民主主義の抑圧に活用する政権の行動形態を、誰よりも先頭に立って批判した。その後の1960年代後半、南北関係に対する金大中の接近法は積極的協力の方向へと変化し、新民党の大統領候補として指名された後の最初の記者会見では、南北交流と四大国の安全保障方案という画期的な提案をした。

  70年代に統一が達成される展望は大きくないが、ただ今までと同じ閉鎖的な無交渉状態は変化させなければなりません。南北間の手紙交換・記者の交流・体育競技など非政治的な直接接触が考慮されるべきです。
  新民党の外交は戦争を抑制して民族の平和と安全を保障することに比重を置いています。私たちは、北が今までの宣伝が真実ならば、南北は互いに戦争による統一を完全に放棄すべきであり、スパイやテロ分子を浸透させることを一切止めるべきだという私たちの要求を受諾するように主張するつもりです。同時に、米・ソ・日・中共の四大国に対し、朝鮮半島の戦争抑制を共同で保障するように要求するつもりです。
   ――「希望に満ちた大衆の時代を具現しよう」(1970年10月16日)

 こうした変化には、ニクソン・ドクトリンと米・中和解による陣営対立の緩和が重要な契機を提供したが、金大中は早くから国際情勢の変化を注意深く観察したことが緊要に作用した。朴正熙政権は、この主張を金大中に対する容共攻勢に活用する一方、あまり日をおかずに金大中の提案を政府の政策として推進もした。もちろん、朴正熙政権のこうした行動は、統一に対する真摯な意志の表明ではなく、独裁体制を強化するのに統一を利用するためのものだったという点もすぐに露呈した。その後、金大中は三段階統一方案を提示し、統一の道をより積極的に模索していく。

  朝鮮半島における平和と統一のための方向を、私は次のような三段階で設定しようというのです。
  第一段階は、南北間の戦争抑制と緊張緩和のために総力をあげるという問題です。……第二段階では、南北の交流を果敢に実施していくという問題です。これは一部、第一段階と並行して実践していくことができるのです。しかし、真実かつ成果のある交流は南北間の不戦保障が確信された後にこそ、可能なものです。……第三段階は、政治的統一の段階です。
    ――「ニクソンの中共訪問と韓国の将来」(1972年2月24日)

 1972年日本の外国特派員協会の演説で、この発想は“平和共存―平和交流―平和統一”の三段階統一論として整理された[12]。ただ、ここまででも統一段階以外に具体的な統一の方案は提示されなかったし、同年に海外亡命のために米国に出国し、米国内の主要人士に伝えた英文パンフレット資料にその端緒が見られる。維新体制の問題点と民主化の必要性に対する訴えが盛られた中で、統一方案も言及されたのである。

  私たちの民族は27年間、互いに異なる政治的・社会経済的な制度の下で、分断された状態で生きてきたために、即刻的に南北が統一するのは現実的に不可能です。その代わりに、“一民族二政府”のような連邦制方式を追求することが現実的でしょう。
――「朝鮮半島の状況と私の信念(Korean Situation and My Belief)」(1972年11月)

 しばらく後にこれについて、「低い段階の連邦制統一を統一の範疇に入れます。南北が相互間に外交・国防・内政の独立権をそれぞれ持ちながら……そうすれば、時間は余りかかりません」という説明も付け加えた(「“アジア・アフリカ問題研究会”の講演」1973年2月7日)。2000年に成就した6・15南北共同宣言の第2項の「南と北は国の統一のため、南側の連合制案と北側の低い段階の連邦制案が互いに共通性があると認め、今後この方向で統一を志向していくことにした」という合意の主要内容は、すでに1970年代初頭から構想されたのである[13]
 1960年代後半から、金大中が南北関係の発展を重要な議題として提起したのは、分断体制の克服という変革的課題を遂行する時、韓国の政治・社会改革が円満に進められるという変革的中道の趣旨に符合する。ただ、1970年代の海外亡命時から強調した“先民主―後統一論”もしくは“先民主論”は、やや変革的中道の趣旨と距離があると思われる。この場合も、機械的に“先民主―後統一論”を理解するより、韓国の民主主義が根本的に否定されている状況で、先ず統一を主張して北と接触する場合、弾圧の口実になりえていた当時の政治状況を考慮すべきである。民主主義とは一度に完成しないし、深化し続けて発展すべきだという点を考慮すれば、民主と統一を先後関係でのみは見られない面が明確になるだけでなく、南北関係の進展は民主主義の進展と暮らしの質の向上とも対応している重要な問題である。金大中もこうした認識があったために、執権時の南北関係の発展を積極的に推進することができた。他の政治指導者とは異なり、統一問題を持続的に強調した理由について、金大中自身は「わが民族は北側であれ、南側であれ、独裁の下で苦しんできたが、こうした独裁が合理化できたのはまさしく分断状況のためでした。それゆえ、私たち政治が統一志向的にならずには、南北の内部に民主主義もなく、国民が平和に暮らすこともできません」(「『月刊朝鮮』とのインタビュー)『月刊朝鮮』1991年7月号)と答えているが、金大中と変革的中道の精神が結合する地点が表示される。
 1987年6月抗争と民主主義の進展、脱冷戦期に陣営対立の解消、特に米・中関係の変化は、金大中には統一に対してより積極的な意味を付与させはじめた。分断を固着化させる条件が弱体化したと判断したわけで、1993年のある講演では、「今や冷戦が終わり、固着の足かせは解かれました。わが統一は初めて当為性だけではなく、可能性までもっています。そして、必要性はより切実です。……統一だけが私たちの生きる道であり、先進国として登場できる道なのです」と積極的に発言した(「世界史の流れと東北アジアの情勢」1993年9月8日)。
 もちろん、分断体制の克服と統一の道は、金大中が予想したよりもはるかに困難だった。2006年北の第一次核実験以後は、彼の太陽政策に対する攻撃も強まった。しかし、彼の統一方案の核心である「一民族二(独立)政府」という方向は、南北関係がより大きな困難に直面している今も、依然分断体制の克服のために、そして朝鮮半島の平和と民主主義に向かう重要な座標となっている。

4.K民主主義の新たな地平
 金大中の思惟は韓国的現実に見あう変革的志向と韓国的現実に見あう実現の模索を込めていたし、その中で民主主義、正義、平和が互いに緊密に結びついた関係として提示されたというのは偶然ではない。K民主主義の力と可能性はまさにこうした結合から生じるものである。K民主主義が切り開く新たな地平において、特に注目して考察すべき部分は、金大中が西欧民主主義の限界を越えていく思惟を鍛えたという点である。
 これに関連して紹介したい文章がある。1975年に書いたものと推定される「わが民族の歴史的特性に立脚した“韓国的民主主義”に対する私説;民族への敬愛と信頼」[14]である。ここで“韓国的民主主義”とは、朴正熙政権の“民族的民主主義”に対抗する用語として、当時の朴正熙政権は南北対立が進行している限り、民主主義を実施できないという式に維新体制の名分を掲げていた。これに対し金大中は、民主主義の実現において我々の民族はすでに不足するものはないと強弁して文民優位、平和主義、教育に対する強い熱望など、豊富な民主主義的な伝統と資源が我々の中にあることを強調した。特に、東学革命に対する次のような叙述が目を引く。

  すべての歴史的事実は成功したといって必ずしも偉大なものではないし、失敗したといってその価値が落ちるものではありません。東学革命はたとえ惨憺たる失敗に終わったが、この国のあらゆる歴史を通じてそのいかに成功した事実よりも高く評価されねばなりません。民主主義の基本理念そのままである人乃天思想、国民の大部分であり、すべてである農民階級の解放と福祉のための闘争、大衆を収奪・搾取する腐敗した両班階級に対する挑戦、そして民族独立を侵害して入ってきた外勢との対決など、どれ一つでも今日の私たちに教訓にならないものはなく、今私たちの民主主義と民族独立のための模範にならないものはありません。東学を考えると、私たちはこの民族の偉大な資質と、今日私たちの民主主義に対する自らの中にある無限の可能性を確信できるのです。

 これは、東学革命に対する驚くべき評価でもあるが、K民主主義の可能性を誰よりも早く先取りした先駆的な思惟であった。こうした認識は、1990年代のギデンス(A. Giddens)の表現を借りて強調した“グローバル民主主義”ともつながる。次の文章で明確に言及されたように、グローバル民主主義は西欧民主主義の拡張ではなく、その限界を超える地平をめざしている[15]

  問題は、英国やフランス・日本・米国など、自分としてはそれなりの民主主義をしている国が、まさしくアフリカや中南米・アジアなど弱小国家の様々な犠牲の上でよく暮らしているのです。いわば、国内でのみ民主主義をして外に出れば民主主義をしないのです。これが今日、世界最大の矛盾である南北問題なのです。絶対多数の人口を占める南側の国家が少数の北側の国家によって支配され、収奪されているのです。
  いま、民主主義は自らの国境を越えて隣人と世界を含めた民主主義になるべきです。……自国民の自由、自国民の福祉のみを考える民主主義は今や限界に来たのです[16]

 1994年、シンガポールの李光耀(リ・クァンユー)前首相との論争も、こうした脈絡から再照明される必要がある。この論争は、リ・クァンユーがアジア的価値を掲げて西欧民主主義を批判した反面、金大中は発展した西欧民主主義の普遍性を擁護したという調子で理解されている。だが、「私たちは国家内のみではなく低開発国家を含めたすべての国家間にも自由と繁栄と正義を図る、新しい民主主義を創出すべきである」という言葉が表すように、金大中は西欧民主主義の限界を超えうる新たな民主主義的な志向を明確にした。そして、「急激な産業化によって引き起された社会的攪乱に対し、西欧の文化を犠牲のヤギと見なすよりは、アジア社会の伝統的な長所を見つけだし、それがどのようにより良い民主主義を創りだせるのかを考察することがよりふさわしいのだ」とし、アジア的な文化や価値を民主主義否定の口実にするのではなく、より幅広く高レベルの民主主義を創りだしていく資源と可能性へ活用すべきだという点も強調した(「文化とは運命か(Is Culture Destiny?)」,Foreign Affairs, Vol.73, No.6. 1994)。「精神的な一大革命を伴う民主主義は、数千年内にあらゆる天下を区別なく包容してきたが、自然と一体の中で生きてきた思想的な土壌をもったアジアで創造され、再定立されねばならないと私は考える」という言葉も同じ脈絡で理解できる(「20世紀の回顧と21世紀の展望」)。
 もちろん、こうしたグローバル民主主義に対して論議が抽象的なレベルにとどまったし、帝国主義とともに発展した西欧民主主義の限界を超える模索はアイデアのレベルを超えられなかったという反論も可能である。しかし金大中は、その後も国民あるいは大衆の力量に対する信頼を一貫して強調したし、これは今日の現実から振り返れば、価値ある貴重な信頼だといえる。彼は2008年、キャンドルデモで新たな民主主義に対する模索、特にエリートの寡頭支配の手段になっている代議制民主主義の限界を克服していく重要な資源と意味を発見したりもした。

  キャンドルデモには一種の直接民主主義の傾向があると思います。昔ギリシャのアテネでしていた、そういう直接民主主義のことです。キャンドルデモで重要なのは、直接民主主義の状況でも平和が維持されたということです。……そのように、平和的に続いていくなら、今後私たちの政治に大きな変化が生じるようです。今までの政治は立法・行政・司法の三部が率いて、市民団体が政治に影響を与えましたが、今はこうしたキャンドル文化祭に汎国民的に、自発的に参加する市民が政治に大きな影響を行使するでしょう。
   ――「民主的な市場経済と平和共存への旅程」(『歴史批評』2008年秋号)

5.思想から現実へ
 金大中の思想は、国政の責任を分担すべき野党指導者はもちろん、国政に責任を負うべき大統領としても在任した彼の実践と連結して評価せざるをえない。野党指導者の時は、在野および運動圏から多くの批判を受けたし、大統領としてはIМF危機の克服過程で新自由主義を拡げる経済政策を展開したとの批判を受けた。特に労働市場の柔軟化の受容は最も胸痛む部分である。
 こうした金大中思想の限界に対する論議も、K民主主義の発展のためには重要である。だが、韓国政治の保守的な――正確に言えば、守旧的な――環境を考慮しないとか、グローバル化の影響およびグローバル化が否定的に作用して招いたIМF危機の影響を考慮しないまま、彼の実践を評価することは適切でないだけでなく、生産的な論議へとつなげていくのも難しい。金大中は、民主労総の合法化などを通じて労働者の権利を強化し、福祉制度の構築を通じて労働市場の柔軟化による副作用に対応しようとしたが、こうした程度では不足していたという評価もある。しかし、金大中の限界を語る場合、当時の環境を克服できる適切な変革論を進歩陣営では提示したのか、あるいは今しているのかに対する省察もやはり伴うべきである。韓国現代史の困難な条件の中で、金大中が進展させて達成した成果をより積極的に評価する必要がある。さらにその成果が、かなりの部分で変革的中道の精神がうまく発揮される時に可能だったという点に注目すべきである。
 いま、K民主主義は金大中の限界を克服することはもちろん、彼が直面しなかった問題まで解決しなければならない。力の対決がより大きな影響力を発揮するようになった国際秩序の変化、既存の経済成長方式の限界がますます明らかになった状況などは、グローバル次元で民主主義に新たな挑戦を提起している。K民主主義はこうした挑戦に対応する可能性と資源を不断に創りだしてきたし、キャンドル革命は特に重要な転換点である。それでも、革命に対する主観的かつ狭隘な認識に基づいてキャンドル革命を貶める見解が相変わらず少なくない。キャンドル革命の過程で現れる、当然現われざるをえない問題を解決しようと力を集めるより、キャンドル革命を否定する口実とする場合も多かった。しかし、民衆は韓国の民主主義を進展させてきたし、今も進展させている。尹錫悦集団の内乱が成功できなかったことも、その傍証である。私たちは何よりもK民主主義が制度としてだけでなく、人間解放の志向を堅持して民主主義の新たな地平を創りだすという運動とともに発展してきたことを忘れるべきではない。今後も、疲れることなく、新たな道を切り開いていくK民主主義において、変革的中道は重要な思想的な動力であり、金大中思想もこの滔々たる流れを創りだした貴重な資産であることを記憶すべきだろう。



<注>

[1] 本誌の60周年である2026年を前に企画された“チャンビ韓国思想選”シリーズ(2024年第一次分10種刊行、総30種を刊行予定)でもこの点を強調し、学術的な基準として適用されやすい「哲学」の代わりに「思想」という概念を使用した。白敏禎・林熒澤・許錫・黄貞雅 対話「韓国思想とは何か:」チャンビ韓国思想選の刊行にあたり」『創作と批評』2024年冬号、271~72頁。

[2] 黄テヨン他『思想家金大中』、黄テヨン責任編集、知識産業社、2024年参照。

[3] 黄テヨン「金大中の中道政治と創造的中道改革主義」、同上書。

[4] 例えば“三非論”(非暴力・非容共・非反米)は、急進主義批判の代表的な事例である。しかし、“反”ではない“非”という表現を使った点でわかるように、金大中は急進主義が追求する価値を根本的に否定しようとはしなかったし、暴力・容共・反米などが運動の発展に否定的な影響を与える点に焦点を当て、急進主義勢力の現実感覚の欠如を批判したのである。この点を理解するにあたり、この間の社会運動および言説界で特定の変革モデルを絶対視して革命と改良を単純に対立させる慣習的視角を示してきたのではないかと指摘する必要もある。変革に寄与できる理念と実践を“改良”と規定して潜在力を抑圧し、結果的に変革に否定的な影響を招いた事例を探すのは難しくない。

[5] 以下、金大中の文章の一部は金大中図書館ホームページの“史料館――全集閲覧”(www.kdjlibrary.org/president/activity)から再引用した。文のタイトルは該当するオンライン資料を準用し、表記はより見やすいように変えた。金大中図書館ホームページの同資料は延世大学金大中図書館編『金大中全集Ⅰ』(全10巻、延世大学出版文化院、2015年)と『金大中全集Ⅱ』(全20巻、延世大学出版文化院、2019年)をデジタル・コンテンツ化したものである。

[6] 拙稿「“書生的問題意識”と“商人的現実感覚”はいかにして出会ったか」、『創作と批評』2024年冬号、416頁。

[7] これに対する具体的な論議は、白楽晴『どこが中道で、どうして変革なのか』、チャンビ、2009年、320~22頁を参照。

[8]「軍政庁世論局、朝鮮国民はどういう種類の政府を要望するかの世論を調査」、『東亜日報』1946年8月13日;韓国史データベース資料大韓民国史第3巻。

[9] 金大中・姜萬吉対談「わが民族を語る」、金大中『私の道、私の思想』、ハンギル社、1994年、82~83頁;姜萬吉『私の人生の歴史勉強/顧みる歴史認識』、チャンビ、2018年、218頁。

[10] これに対して金大中自身は、民主的な市場経済という方向は一貫しているが、朴正熙政権時は不平等問題により焦点を当てたとすれば、1990年代には国際競争力の確保を通じた経済成長に強調点を置きながら、均衡成長を合わせて推進することへと変化したと説明した。延世大学金大中図書館企画『金大中 肉声回顧録』、ハンギル社、2024年、426頁。

[11] 国家間の不平等を説明するにあたり、包容的な政治制度を備えているか否かが最も重要な変数だと主張したデロン・アセモグル(Daron Acemoglu)が、2024年ノーベル経済学賞を受賞したことも注目に値する。彼の主張は、金大中の民主主義―市場経済の並行発展論と一致する点が多い。彼は韓国について、「しばらくは搾取的な政治制度下でも経済成長は可能であるが、持続はできない。韓国で経済成長が持続したのは、1980年代に経済的な成功を保障する包容的な政治制度へ移行したからである」と評価した。デロン・アセモグル、ジェームス・ロビンソン『国家はなぜ失敗するのか』、崔ワンギュ訳、時空社、2012年、16頁。

[12] その後に発表された“南北共和国連合体統一方案”で金大中は、「南北連合―南北の地域自治政府で構成する連邦―完全な統一(各自治政府で構成される米国式の連邦制を含む)」の三段階統一論を新たに提示した。1970年代に提示した三段階は、南北共和国連合体の統一方案で三原則として提示されるのに変えた。亜太平和財団『金大中の三段階統一論』、亜太平和出版社、1995年、289頁。

[13] こうした統一方案の名称は連邦制、共和国連邦制、共和国連合へと変化した。金大中は、連邦制の形式は多様で、自らが主張した連邦制と北の連邦制が異なるという点を(自らの連邦制の提案が北の高麗民主連邦制より先立つという点とともに)長い間強調したが、連邦制が容共攻勢の口実になる現実を考慮して表現を修正していったのである。だが、内容の一貫性は維持し、むしろ北が次第に金大中の方案を受容する方向へと動いた。6・15南北共同宣言の第2項については、南北連合や低い段階の連邦制がともに南と北に国家としての権能は認めようということが双方の考えだが統一を志向するために独立国家とは言わないことだと説明した(「北の核と太陽政策」、2006年10月19日)。

[14] この文章は、日本で出版された講演・論文集に収録された。金大中『民主救国の道:講演と論文』、和田春樹・東海林勤編、新教出版社、1980年。

[15] 金大中の民主主義論のこうした特徴は、盧明煥「金大中の東西融合の民主主義思想」(『思想家 金大中』)で詳細に説明されている。そこではグローバル民主主義の生態的レベルも重要と見ている。ただ、私は民主主義の普遍性と関連して、それぞれ多様な民主主義の要素が融合する過程以前に、あるいは少なくともそれと同時に帝国主義とともに発展した民主主義モデルに対する抜本的な省察が必要だという点をより強調したいと思う。

[16] 金大中・姜萬吉対談「わが民族を語る」、金大中『私の道、私の思想』52~53頁;姜萬吉、前掲書181~182頁。






(訳=青柳純一)