[特集]連帯で拡張された広場と民主主義
特集
連帯で拡張された広場と民主主義
金昭摞(キム・ソラ)
ジェンダー研究者、済州大学社会学科講師。共著書に『みなのための男女平等の学び』など。
stellatis@gmail.com
2024年12月3日の夜にあった尹錫悦大統領の非常戒厳宣言は、災難のように私たちの日常を飲み込み、以降2か月余りの間に、多くの人々が、絶望と希望、怒りと連帯意識の交差する日々を送っている。非常戒厳が宣言されるやいなや、国会前に駆けつけ、武装した戒厳軍や装甲車を阻止した市民の積極的な行動のなかで、国会が迅速に非常戒厳解除を決議し、状況が急速に安定するように見えたが、戒厳を正当化し、事態の解決を妨害する与党や高位官僚の詭弁、度を越した行動が依然として続いている。
この事態に責任を負うべき与党・国民の力は、「非常戒厳宣言は野党の相次ぐ弾劾が原因」、「内乱は過度な表現」、「非常戒厳は憲政守護のためのもの」 などと主張して尹錫悦を庇護し、党の存立だけを憂慮する一方、自称「白骨団」〔もとは1980-90年代の韓国で私服警官で構成されたデモ鎮圧のための警察部隊〕だと尹錫悦を守護するという人たちを国会に呼び込んで紹介するなど、数十年前の独裁勢力と変わらぬ行動を示した。尹錫悦は、内乱の情況が続々と明らかになるなかでも、長い間、逮捕と拘束、捜査を拒否し、謝罪どころか対国民談話を数回発表した。談話の内容は、自らと対立する人々を「反国家勢力」「アカ」「国憲紊乱勢力」であると罵倒し、「野党の暴挙」と「不正選挙」を戒厳宣布の原因であると指摘、捜査を無視してこれに応じない理由を適法性の有無に見出すなど、荒唐無稽な自己合理化に満ちたものだった。このような尹錫悦と国民の力、そして極右勢力の煽動に呼応した人たちは、拘束令状を発布したソウル西部地方裁判所を襲撃し、暴力で法治主義を否定した。極右勢力が強く集結し、民主主義体制に対する憂慮が大きくなり、信頼は下落している。
このように絶望と怒りを醸成する状況においても、希望と、異なる形の未来を夢見させる力は、非常戒厳宣言と同時にすぐに国会前に駆けつけた市民の勇気、色とりどりの応援棒〔もとは韓国でアイドルを応援するときに使うペンライト〕や奇抜な文句の旗を持って、広場で弾劾を求める市民の連帯意識である。彼らは非常戒厳が解除された後も、しばらく国会の前を守り、万一の第2の非常戒厳を警戒し、怒りを醸成する相次ぐ行動のなかでも、集会を愉快で楽しい祝祭のようにし、より多くの人々を広場に呼び集め、長期化した事態のなかでも疲れぬ姿を示している。弾劾訴追案が可決された瞬間、国会前に集まった数多くの人々がKポップや民衆歌謡をともに歌って踊っていた姿、「開放農政撤廃」「尹錫悦逮捕・拘束」などを叫ぶ農民たちのトラクターが、警察の車列の壁に阻まれてしまったソウル市南方の南泰嶺の現場に、直接参加と物品後援などで連帯し、32時間後に車列の壁を突き破って、トラクターと市民たちがともに行進した姿、被疑者・尹錫悦が捜査機関の逮捕令状執行を拒否し、官邸に隠れたなかで、尹錫悦逮捕を要求し銀箔毛布を身にまとって雪のなかでもその場を守った、いわゆる「キセスデモ隊」〔酷寒の中、銀箔の毛布をかぶって座り込みをする姿が、ひと粒ずつ銀箔に包装された「キスチョコ」を連想させるところからついた名称〕の姿は、希望や連帯意識を発見することができた場面であった。
広場に芽生えた希望と「20~30代の女性」
この場面、様変わりした広場で欠かせないのが、20~30代の若い女性たちである。彼女ら20~30代の女性とともに、非暴力デモと社会変化に対する大衆的念願の象徴だったろうそくが様々な色の応援棒に生まれ変わり、料金先払い飲食物、防寒用品や医療用品、暖房バスやキッズバスなどが、新しい集会風景として位置づけられた。2016~17年の朴槿恵退陣集会の当時、参加者のバックグラウンドを探査する旧時代的な発想に対して、機知で対応した市民の旗は、「子犬足臭研究会」「全国おうちでゴロゴロ連合」「全国寒くてもアイス連合」「本を読んで飛び出した活字中毒者の会」「プーバオ〔福宝:韓国のエバーランド動物園で生まれたパンダ〕の幸せを願う会」など、ユーモアと風刺、笑いと滑稽で武装した新しい世代の旗で一層強力になった。広場には「ニムのための行進曲」「岩のように」といった民衆歌謡とともにKポップがこだました。特に弾劾訴追案可決の瞬間をはじめ、集会の主要な場面で歌われたのは、後日、朴槿恵大統領の弾劾の流れにつながる、2016年の梨花女子大本館での籠城で、警察に対抗してスクラムを組んだ学生たちの間と歌われた、少女時代の「また巡り逢えた世界」(Into the New World)だった。
このように20~30代の女性たちは、弾劾要求の集会に大挙参加して集会の風景を変化させた。[1] 何よりこのことに注目すべき理由は、彼女らが広場と民主主義を、拡張する女性たちの役割と寄与を、これ以上認めざるを得ないようにするためである。実際、女性たちはつねに広場にいた。2008年のアメリカ産牛肉輸入交渉と李明博政権の疎通なき動きのなかで続いたろうそく集会でも、また2016~17年の朴槿恵の退陣を促すろうそく集会でも、若い女性たちの存在は目立った。当時も彼女らは新しい集会文化、生活政治の実現、オンラインを経由した直接民主主義の可能性などで注目された。しかし、注目されただけに、あるいはそれ以上に、オンラインコミュニティ内の背後勢力であるかを疑われたり、集団行動の持続可能性、政治的ビジョンの有無、新自由主義的な消費主体の登場などを理由に過小評価された。
しかし、2010年代半ば、フェミニズムの大衆化とともに、女性たちは引き続き街頭に足を運んだ。2016年の江南駅無差別殺人事件、2018年の#MeToo運動や不法撮影の偏向捜査、2019年の堕胎罪廃止、2020年のテレグラム性搾取、2024年のディープフェイク性搾取などの問題で集会を開いて様々な社会的変化を推進し、女性たちは無視できない政治的集団になっていった。広場に参加して制度政治に介入し、問題解決のために連帯して行動したこの時の経験は、議論と討論、結集と行動のための土台でありネットワークとなった。このような政治的活動に積極的に参加した経験がなかったり、少なかったりした女性たちも、アイドルのファンダム活動のような日常の経験のなかで、直接・間接的に議題形成と集団行動に参加することが多かった。オンラインコミュニティとソーシャルメディアは、「推し活」からフェミニズムの議題に至るまで、各種の情報に接して議論する空間であり、情報を加工し伝播するメディアであり、考えをともにする人々と集まり連帯する場として位置づけられた。非常戒厳宣言は、このように経験を蓄積してきた女性たちが爆発せざるを得ない局面だった。
先の大統領選挙の前後に、政治に対する女性たちの関心が一層高まったという点も注目しなければならない。2022年の大統領選挙の当時、尹錫悦候補は「構造的な性差別はない」として女性家族部の廃止を主張し、反フェミニズムの歩みを支持層結集の手段として活用した。当選後も尹錫悦政権のこのような歩みは続いたが、性暴力、ストーキング、デート暴力、デジタル性暴力など、女性を対象にした暴力が発生するたびに、それがジェンダー暴力であるという事実を否認し、性差別構造がジェンダー暴力の原因であるという主張も、やはり社会分裂を触発する不要な声として退けた。[2]女性をはじめとして、性少数者、障害者、移住労働者など、弱者に対する嫌悪も黙過して煽動した。
これは政策や予算にも反映され、尹錫悦政権は、ジェンダー暴力被害への支援や雇用平等相談室の運営など、性平等関連予算および社会的弱者を支援する予算を続けて削減してきた。女性の政治活動に対する非難と攻撃も大きくなった。学校の非民主的な意思決定構造には目を背けたまま、男女共学への転換に反対する同徳女子大学の学生たちの抵抗を「暴動」と罵倒し、ラッカー塗りのフロアの復旧費用および責任の所在だけに社会的関心が集中したのもその例である。政治活動や集団行動に参加した経験と、差別に対する鋭い認識、高まった政治に関する関心のなかで、積み重なった女性たちの怒りは、非常戒厳宣言を基点に爆発した。これは単なる怒りではなく、社会の変化に向けた熱望が爆発する地点でもあった。
このなかで広場の民主主義はその様相と内容を変えて拡張している。歌ったり踊ったり、掛け声をかけながら、おもしろさや楽しさを諦めない集会の様相は、軽くなった形式を通じて、広場を誰でも簡単に参加できる場所にした。怒りを疲れぬエネルギーに転換する場になったのである。同時に、広場に参加する多様な人々の違いを尊重し、少数者に対する差別・嫌悪発言をしないという約束も、集会主催側と発言者に共有され拡張中である。この問題意識は2016~17年の朴槿恵退陣のろうそく集会で鍛えられたものでもある。当時、広場では「今後100年間、女性大統領など夢も見るな」とか「めんどりが鳴けば国が滅びる」など、大統領職務をきちんと遂行できなかったことに対する批判に、女性嫌悪の言質が激しく入り混じり、広場で少数者に対する嫌悪表現や性暴力があったという告発も続出した。女性界はこれを批判して、広場内で「フェミゾン」(Femi-Zone)を運営したりもした。[3]
これまでの経験、また2016~17年のろうそく集会以降、期待したほどの社会変化が続かなかったという反省が、広場において最大限多くの声を包容しようとする実践につながった。特にこの10年間、女性をはじめとする様々な集団に対する嫌悪が激しくなり、互いに連帯すべきという認識が大きく、広場でともに活動しながらリアルタイムで積み重なる信頼が、再びそのような連帯の土台になった。20~30代の女性たちはその中心に立って、ともに活動する人々の声と生に耳を傾けている。他の生に対する関心と尊重は、特に農民との連帯、長期闘争中の労働者の籠城現場との連帯、障害者の移動権闘争との連帯など、弾劾要求を越える広範囲な連帯として示されている。新しい世代ではなく、新しい政治が広場に登場したのである。20~30代の女性が主軸になったなかで、韓国の民主主義において広場がどのように変貌しており、それが民主主義をどのように進展させているのかを見るべき理由がここにある。
歴史的視野の拡張とオン/オフラインのつながり
多くの人々を広場に呼び出したのは、単に非常戒厳宣言の違法性だけではなかった。教科書と活字だけで見ていたと思っていた「戒厳」の場面が、歴史的現実に引き出されたことに対する恐怖や怒り、民主主義の歴史が退行しているという憂慮が、寒いなかでも多くの人々を広場に呼び出した。歴史教育だけでなく、映画や小説などメディアを通じて、民主化運動に対する共感と想像の可能性が広がったのもこれに一役買った。1979年の12・12事態を扱い1300万人以上の観客を動員した映画『ソウルの春』(2023)は、戒厳の現実を生々しく再現し、作家ハン・ガンのノーベル文学賞受賞で、国家暴力と光州民主化運動に対する関心も大きくなった。そのようななかで行われた非常戒厳宣言は、その非現実性と同じくらい人々に大きな衝撃を与えるに十分であった。
若年層により直接的に戒厳宣言の深刻さを感じさせた契機は、2014年のセウォル号惨事と2022年の梨泰院惨事であった。巨大な災難惨事から国民を保護できなかった国家の無能さ、また惨事の真実を究明しようとする動きが政治的な攻勢であると罵倒され、被害者に向けた非難と侮辱が降り注ぐ光景を目撃した経験は、国家権力の絶対性を疑わせた。若年層にとって12月3日の戒厳宣言は、戒厳が教科書を飛び出して実際のものになった最初の経験だったが、様々な惨事を通じて接続して想像できる歴史でもあった。
同時に1980年の光州や先の世代の民主化運動、2004年の盧武鉉大統領弾劾に対する反対ろうそく集会や2008年のアメリカ産牛肉輸入反対のろうそく集会、2016~17年の朴槿恵退陣のためのろうそく集会も召還された。戒厳宣言が若年層に民主化全般に対する歴史的視野を広げる契機になったとすれば、それよりも先に民主化運動や集会を経験した世代には、民主主義に対する若年層の高い関心を確認し、彼らが拡張していく政治に接する契機になった。若者の探求は大きく2つの方法で行われた。1つは広場で出会う他の人々に対する関心である。広場を埋め尽くした20~30代の女性たちは、そこでまた様々な年齢層の他の参加者に出会った。40~50代の集会参加者も相当数だった。1980年代の民主化運動からこれまであった様々なろうそく集会に関する関心が高まり、中高年層から過去の経験を聞こうとする意志も増えた。「戒厳廃刊キャリア職」という『創作と批評』の旗や広場に撒かれた号外が注目されたことや、民衆歌謡が大きな関心を受けたのもこのためである。
2つ目として、活発なオンライン言説とオン/オフラインのつながりも、やはり世代間接触を増幅させる役割を果たした。オンラインコミュニティやソーシャルメディア、デジタル文化に慣れた20~30代の女性たちは、今回も情報の加工・伝播にこれを積極的に活用した。
このようなオンラインの動きは、様々な状況における即時の対応と迅速な連帯を可能にした動力でもあった。オンライン言説がオンラインだけに残らず広場への参加につながり、拡張された歴史的視野が物理的実体を持つようになった。広場を埋め尽くした人々とともにスローガンを叫びながら怒りを表出し、互いにとってよく知る歌を学んで一緒に歌い、ダンスで雰囲気を作り出し、そばにいる人々に拍手と歓呼を送りながら、一時的だが強力な、互いに対する信頼と連帯意識が作られた。これを通じて市民たちは自分たちの世界もまた拡張される瞬間を経験している。
12・3戒厳以降、最も印象的な現場である南泰嶺でもこのような様相が発見される。レガシーメディア〔新聞・地上波・ケーブル放送など伝統メディア〕で注目しなかった南泰嶺の話が、ソーシャルメディアや個人放送を通じてリアルタイムで広がった。警察が農民とトラクターを阻み、トラクターの窓を割って農民を鎮圧・連行しようとする場面が伝えられると、現場に多くの人々が集まった。農民運動家・白南基の死(2016年9月)、また2016年冬、朴槿恵退陣を要求してトラクターを運転してきた農民たちが、当時においてもソウルに進入できなかったという事実、警察が農民集会を暴力的に鎮圧してきた歴史が知らされた。南泰嶺にともに集まった人たちは、互いに「農民歌」や「また巡り逢えた世界」を学びながら、長い冬至の夜をともにし、それまでまったく近い関係に見えなかった農民と若年層がつながった。歴史が単純に過去を振り返るのではなく、現在を問うことで未来を図るように、多くの惨事を経て民主主義を学んだ人々は、その経験を土台に過去に接続し、その意味を現在化し、異なる未来を描き出し示している。
他人と共同体に対する懸念
農民がトラクター行進を始めたのは12月16日だった。全国農民会総連盟(全農)と全国女性農民会総連合(全女農)は12月16日、全羅南道と慶尚南道で「全琫準闘争団」〔全琫準は1984年の東学党の乱の農民指導者〕という名の下でトラクター行進を始め、19日、忠清南道・公州のウグムティで合流した。警察の案内のなか、無事に上京したトラクターは、ソウルの南方・南泰嶺で12月21日、警察の車壁に阻まれた。彼らがトラクター行進を始めたのは、穀物管理法など農業4法に行使された拒否権を糾弾し、尹錫悦の逮捕・拘束と弾劾を促すためだった。大統領の尹錫悦が初めて拒否権を行使した法案が糧穀管理法であり、韓悳洙大統領権限代行が弾劾政局で初めて拒否権を行使した法案も糧穀管理法など農業4法だった。しかし、市民を南泰嶺に導いたのが、必ずしも農民の生、農業4法、開放農政の問題点や食糧主権確保の重要性などに対する知識と理解だというわけではなかった。[4]それよりも、自らの声を出す人々が公権力によって負傷させられたり、連行されたりしないことを願う気持ち、警察に阻まれて寒さに震える人々に対する懸念、市民の関心が薄れればさらに危険になるかもしれないという懸念、ともに活動する人々や見守る視線が多ければ、むやみに公権力を行使できないという悟りと、公権力に対する不信が、1年の中で夜が最も長い冬至の日に南泰嶺に人々を呼び集めた。社会的弱者であり非可視化されやすい存在であるため、これまで警察が農民を暴力的に扱ってきたという事実に対する怒り、なぜ警察が市民を保護せずに道を遮って暴力を行使するのかに対する問いもともにあった。
トラクターの上に即席で設けられた演壇に立って、自由発言を続けた人たちが、自らが体験した差別とそれぞれの生の困難を数多く分かち合ったことは、すでに様々なメディアを通じて報道された。それほどに印象的な発言は、農民の生に無関心だったことに対する反省と、もっと知りたいという気持ちを伝えるものだった。現場ではその気持ちに答えるように、自らを「農家で生まれた農民の娘」と紹介し発言する人々がいた。彼らはトラクターが農作業にどれほど必要か、しかしどれほど高いかを説明し、高いので村単位で金を集めて買って順番に使った後、農閑期にはきれいに洗車して大切に保管するという話を聞かせた。このトラクターは、応援棒のように農民たちに最も大切なものだとし、タイヤがアスファルトのせいでひび割れて、高価な燃料を道路にこぼしながらも、トラクターを運転してきたのは、それだけ農民たちに言いたいことがあるからだという発言がみなの心に響いた。
農村と農民の生について学ぶという誓いを示すかと思えば、女性農民が育てたものを販売する「姉さんの菜園」を紹介する発言も続いた。そして「農家の娘」だが、なかなか乗りにくいトラクターの上に立ってみたくて発言したという話に笑いが起こり、農民の行列を車壁で阻んだ警察は、飯も食うなと叫ぶ機知が、寒い冬の夜を溶かした。先に述べたように、以前は互いに触れ合わなかった農民と若い女性、農民と市民の間の連帯を可能にしたのは、他人の具体的な生に対する優しい関心、彼らとともに生きていく共同体に対する懸念だった。[5]農業と農民の生に対する知識と理解はその後だった。南泰嶺に集まった人たち、直接来られずに温かい食べ物や防寒用品、暖房バスを送った人たち、そして徹夜でライブ放送を視聴し、警察署に抗議電話をしながら、ソーシャルメディアやマスコミにこの事実を知らせた人たちの間に連帯意識が芽生えた。ついに32時間で車壁が破られ、市民の行進とトラクターが漢江鎮で出会った。
南泰嶺の経験は、慶尚南道・巨済のハンファオーシャン造船所の下請支会と慶尚北道・亀尾の韓国オプティカルハイテク籠城場など、長期闘争中の労組に対する後援で、全国障害者差別撤廃連帯(全障連)がソウルの安国駅で進めた「ダイイン行動」(die-in、死んだように横になって抗議するデモ)への参加で、同徳女子大の中央サークル連合会が学校を抜け出して、恵化で開催した「民主なき民主同徳」集会で、労災治療のための全泰壱医療センターの建設後援につながった。他人と共同体に対する懸念は、互いの具体的な生に対する関心のなかで作られ、このように拡張された懸念は、市民の間に幅広い連帯意識が作動しうる条件になる。「この世の中で繰り返される悲しみはもうさようなら」と言えるようにするのは「愛」であるという、「また巡り逢えた世界」の歌詞のように。
再編された日常/政治と拡張された民主主義
民主主義のために自らに最も大切な「光」をかかげた人たちは、日常と政治の境界を再編し、民主主義に対する根本的な問いを投げかけたりもする。2016~17年のろうそく集会に続き、現在のろうそく集会でも人々の目を引くものの1つは多様な旗である。組織や所属ではない、趣向や関心を前面に出した旗は、集会のバックグラウンドを探査する古い問いに「私のバックグラウンドは私」として応酬する手段であった。また現在さらに多様化した旗は、集会に面白さと活力だけでなく、共感と連帯の心も呼び起こしている。筆者の視線をとらえた旗は、「朝型不安性リロード団体」だったが、私と同じように12・3の戒厳後、深く眠れずに強迫的にマスコミ報道を確認する人々の姿が脳裏に描かれたためだった。私が大切に思って応援する人のために手にしたのだが、戒厳宣言という反民主的形態に抵抗し、民主主義を回復するために広場に持ち出した応援棒もやはり同じである。広場で自分の趣向や関心などの日常を示した旗や応援棒は、逆に政治が私たちの日常にどのような影響を及ぼすのかを思考させ、日常と政治の境界を再編する。
そのようななかで、労働組合や市民団体に対する一部の否定的な認識が変わったりもした。1次弾劾訴追案の表決が失敗した12月7日、警察が国会前にバリケードを築き、集会空間を統制することを批判し、民主労総のヤン・ギョンス委員長は「民主労総公共運輸労組の組合員同志たち、全員起きて下さい。民主労総が道を開きます」と叫んだ。このような壇上の叫びとともにスクラムを組んだ全国民主労働組合総連盟の組合員たちが、狭い汝矣島で道を開く場面が繰り広げられた。この様相は、民主労総に対する市民の否定的認識を肯定的なものに転換し、「違うと言った。民主労総を呼ぶよ、本当に」のようなミーム(meme)〔ネット上の拡散コンテンツ〕まで作り出した。本来「警察呼ぶよ、本当に」と書かれたミームが変わったものだが、市民の安全を守るべき警察に対する不信と、連帯できる同僚であり同志としての民主労総に対する信頼を同時に示している。貴族労組、暴力デモ、市民に不便を誘発するストライキなどのように、糊塗されてきた既存の認識が変わったことを垣間見ることができる部分である。
労働組合に対する市民たちの様変わりした認識は、忘れてはならない重要な一場面を作った。逮捕令状執行を拒否し漢南洞の官邸に閉じこもった被疑者・尹錫悦の逮捕を促し、「まもなく応援棒を持って駆けつける私たちの同志を待っている」という民主労総のソーシャルメディアメッセージに応えた「キセスデモ隊」である。彼らは漢南洞の官邸前に集まって、降りしきる雪の中にも銀箔毛布を巻いたまま、夜通しその場を守った。弾劾要求集会に参加した若年層は、いまや「団結闘争」と書かれた民主労総の鉢巻を巻いて、労働者に労働組合がどのようなものであり、これまで市民社会団体が行ってきた役割は何かを考え、医療民営化、気候危機、社会福祉予算削減などにともに苦悩している。これは単に連帯の拡張と実践を越え、以前は自らの生と関係のない政治問題であると考えたり、自らのことではないと考えてきた問題を、これ以上そのまま放置できないことを知った主体の登場を告知し、したがって日常/政治の再編のなかで民主主義に対する根本的な問いを呼び起こす。
法律上の集会・デモは申告制なのに、なぜ許可制のように運営されるのか、農民のトラクター行列が脅威でもないのになぜトラクターを阻むのか、警察の車壁がむしろ交通渋滞と市民の不便を引き起こしていないかといった問い。さらに、非常戒厳宣言の前にも戒厳状況のような生を生きる人々がいたのではないか、非常戒厳が解除され、尹錫悦が弾劾されたからといって、すべての問題が解決され、私たちが日常を回復できるのか、このとき回復する日常は、私たちが本当に望むものなのかといった問い。ジュディス・バトラー(Judith Butler)は、広場の声は議会や制度政治の中では行き来しないため、常に一時的で予期せぬ形で形成され、「一時的」であるからこそ批判的なのであると言及したことがある。[6]では、このように拡張された広場で提起された問いが、引き続き力を持つためには何が必要なのか。
拡張された広場の活力が続くために
戒厳宣言という未曾有の事態による怒りと事態解決の緊急性が広場に市民を呼び集めたなかで、帽子とマフラーで顔を包みロングダウンを着て、カバンに防寒用品や応援棒、立て札と旗を手にした20~30代の女性は、広場と民主主義の意味を拡張し、政治の意味を変化させている。しかし、経験と知識の拡張に重要な役割を果たしたオンラインコミュニティとソーシャルメディアという場は、似たような意見を持つ人々だけでネットワークを構成し、考えと意見の偏向を作り出すという批判を以前から受けてきた。広場において幅広い連帯の象徴になった応援棒も、ファンダム内の所属感だけでなく、その裏面の排他性、ファンダム間の牽制と競争の象徴に近いものだった。一方、極右勢力もまた別の意味での広場で集まり、叫ぶ経験を通じて鼓吹され、力を育てている。弾劾という共通の目標のなかで民主市民の広場が拡張されたが、同時に広場を威嚇する人々もまた勢力を拡大している状況である。どうすれば現在の韓国の広場の活力を維持・強化できるだろうか。
まず、これまでオン/オフラインで女性を威嚇し暴力を行使してきた人々と、ソウル西部地裁を攻撃し、法治主義を傷つけた極右勢力の間の関連性を見るべきである。そのような行為のすべてに断固として対処することが必要である。尹錫悦に対する拘束令状の発行を理由にソウル西部地裁を攻撃し、現行犯で逮捕された人々の半分以上が20~30代であり、そのうちの多数が男性だった。[7]彼らを煽動した中心には新男性連帯があるが、これまで新男性連帯は女性嫌悪をはじめ労組嫌悪、地域嫌悪などを説き、20~30代の男性に影響力を行使してきた。彼らの暴力はオンラインだけにとどまらなかった。2021年に20~30代の女性を主軸に設立されたフェミニストの集い「チーム津波」の女性嫌悪糾弾デモの現場に、数年間、持続的にやってきて、乱暴をはたらいて代表に向かって暴言と脅迫を日常的に行い、これを中継して2024年に刑事処罰を受けた。彼らはディープフェイク性犯罪の解決を促す集会の向かい側で対抗集会を開くかと思えば、同徳女子大前で集会を開くと集会申告をして学生たちを威嚇したりもした。
このように不満と怒り、憎悪と嫌悪に満ちた人たちが、問題の原因を社会的弱者と他者に見出す陰謀論を信奉し、暴力とテロを厭わない前兆はすでに以前からあった。ソウル西部地裁に対する攻撃は、極右勢力の煽動のなかで発生したものだが、同時に偏向したネットワークとコミュニティで疎通して嫌悪犯罪を犯してきた人々を深刻に扱わなかった代価でもある。したがって、女性をはじめとする特定集団を嫌悪し、威嚇し、暴力を行使することを、民主主義に対する脅威と認識すべきである。暴力に参加して、望み通りに状況や社会を統制できるという効能感を、誰も持てないようにするべきである。
さらに政治領域では、拡張された広場を満たしたエネルギーと声を、法律と政策で制度化する一方、制度政治の外でも他の人々と共同体に関する関心が持続できる、空間と条件を用意するための努力を継続するべきである。自分たちの広場での貢献が認められ、政治においてその役割が果たされ、女性たちの生に実質的な変化が起きなければならないと主張する20~30代の女性に注目するのも1つの方法である。彼らは多様な集団に連帯すると同時に、政党の党員として加入して活動し、支持する政治家を後援し、必要な政策を提案して政界を圧迫するなど、積極的に政治に参加する姿を示している。彼らがオンラインコミュニティやソーシャルメディアを通じて、法案発議の現況、本会議への出席と表決、国会議員の常任委活動や地方区での活動など、議政活動の情報を共有し、関心のある議題と法案において地方区議員や当該常任委員会の議員を圧迫する活動を継続するのは、社会正義と民主主義拡大という大義を追求すると同時に、自分たちの力で自らの生に実質的な変化を作り出すためである。政界がこれに積極的に応じて法律と政策を用意することで、市民が政治的な効能感を経験するならば、これはまた、互いの生と共同体に関する関心であり、そして広場の活力につながりうる。循環して拡張される民主主義は、制度政治が本来の役割を果たすように監視し、個別の法律と政策の改善だけでは一挙に解消できない、韓国社会の構造的問題を看過しないようにし、政治的ビジョンと方向に関する議論が続かせる動力になるだろう。
〔訳=渡辺直紀〕
<注>
[1] 国会で弾劾訴追案の可決が行われた2024年12月14日、ソウル市の生活人口データで集会参加者を推定した結果、20代女性が17.9%、30代女性が12%で20~30代の女性が全体集会参加者の30%に達することがわかった。50代の男性が11.2%でそれに続いた。「弾劾当日、国会前に一時41万人余り集まる……20~30代の女性が最も多かった」『京郷新聞』2024.12.19。
[2] このような雰囲気は、性暴力に対する司法的判断にも否定的な影響を及ぼした。非常戒厳宣言を前後して、オン/オフラインで女性たちの怒りを醸成して公論化された議題の1つは、2024年1月の最高裁のいわゆる「千大燁判決」である。この判決(主審・千大燁最高裁判事)は、性暴力処罰法違反(公衆密集場所での醜行)容疑で起訴された被告人に、有罪判決の原審を破棄して無罪を言い渡した。これは刑事事件に初めて「性認知感受性」を適用した2018年の最高裁判決を誤読・否認し、性暴行事件で被害者陳述の証明力排除を合理化しただけでなく、下級審の裁判所で性暴行事件の無罪判決の増加を招いたという批判を受けている。
[3]当時の詳細な状況は次が参考にできる。イ・ジウォン「フェミニズム政治の場、フェミゾン(Femi-Zone)を振り返る時」『女/性理論』36号、2017。
[4]これに関してチョン・ウンジョンは、市民の連帯を記憶するほどに、農業4法についても忘れてはならないと語る。「尹錫悦の退陣を叫ぶトラクターは、道を越えたかもしれないが、農業4法は峠の頂上で止まっている。市民の応援棒とともに、農業4法も南泰嶺の峠を越えることができるだろうか」、チョン・ウンジョン「農業4法は南泰嶺の峠を越えることができるだろうか」『創批週刊論評』2025.1.6。
[5]南泰嶺で自由発言を行ったとある女性は、20~30代の女性は国から捨てられたが、危機に瀕した国を救うために出てきたと語ったりもしたが、このときの「国」は制度と装置で構成された政治体としての国家とは異なり、人々の心に位置した共同体に近いものであると言える。セウォル号惨事以降、韓国社会が体験した集団的憂鬱を説明し、「国家」と「国」を区分する議論については次を参考のこと。キム・ホンジュン「心のかけら:セウォル号惨事と主権的憂鬱」『社会と理論』26号、2015。
[6]ジュディス・バトラー(キム・ウンサン・ヤン・ヒョシル訳)『連帯する身体と街頭の政治』創批、2020参照。
[7]2025年1月18~19日、ソウル西部地裁を襲撃し、乱暴を働いて現行犯で逮捕された86人のうち、男性が77人で約90%、そのうち20~30代が45人で約52%を占めた。「西部地裁で起きた暴動犯86人のうち、男性77人……52%は2030」『ハンギョレ』2025.1.22。