창작과 비평

近代克服の実学研究とは何か―学人の林栄沢、その学びの軌跡

2014年 冬号(通卷166号)

 

 

宮嶋博史 / 成均館大学校東アジア学術院教授。東京大学名誉教授。著書に『日本の歴史観を批判する』、『宮嶋博史、私の韓国史勉強』、『兩班』、『朝鮮と中国の近世五百年を辿る』、『国史の神話を超えて』などがある。

 

 

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私が林熒澤(イム・ヒョンテク)教授の名を始めて知るようになったのは、今から約40年前の1974~5年頃だと覚えている。その当時、朝鮮後期の農業史に関心を持っていたが、李佑成(イ・ウソン)・林熒澤共著、『李朝漢文短篇集(上)』(一潮閣、1973)という本を通じてであった。この本を読みながら朝鮮後期の社会像をこの如く生々しく描いた資料があるということに驚いたが、驚くべきことはこれだけではなかった。歴史を勉強する私としてはその後、直接林教授にお会いする機会がなかったが、2002年に成均館大学校東アジア学術院に赴任することとなった際、初めて会った。

学術院の先生たちが設けてくれた歓迎の席に、林教授も出席していらっしゃることを見て再び驚いた。上記の本を読んでは、特別な根拠もなしに私よりずっとお年寄りの方だと思っていたが、実は5歳しか離れていないことがわかったからである。このような個人的な回顧をここで述べた理由は、それほど林教授が長い間研究活動をやってこられたなという感慨が深いからである。

その林教授がまた驚くべきことに今年に入って二冊の本を上梓した。その本の書評を書いてくれという依頼を創批編集部からもらったが、名誉あることではあったものの大きな負担でもあった。特に林教授の主な研究領域である文学に対しては門外漢なので適任者ではなかろうが、しかし文学研究者なら誰かが別に書評を書くはずだし、歴史研究者の立場で少しでも意味ある話ができるのではないかと思って本書評を書くこととなった。

 

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今回、刊行された二冊の本とは、『21世紀に実学を読む』(ハンギル社、2014)と『韓国学の東アジア的地平』(創批、2014)である。これらの本は著者が明かしているように、2000年以後に発表された論考を集めたものであり、2000年に刊行された『實事求是の韓国学』(創作と批評社)の続編としての性格を持つ。『實事求是の韓国学』が言わば20世紀パラダイムの決算であるのに対して、今回の本は21世紀パラダイムを模索する探求の所産である。そして、著者によると、21世紀パラダイムの核心的な概念は「新実学」と「東アジア」であり、この二つの概念に対する著者の立場をそれぞれ一冊の本として綴ったわけである。

まず、著者の主張のなかで最も重要だと思われるところを簡略に捉えながら、著者の研究が持っている特徴と意味をまとめた後に、いくつか論議されるべき問題に対して私なりの考えを提示しよう。

周知のように、著者は1970年代以後の実学研究を導いてきた中心的な研究者のなかの一人だと言えるが、21世紀になって新実学研究の必要性を主張するほとんど唯一の学者ではないかと思われる。それでは21世紀の新実学とは何か?

著者は20世紀における実学研究を三つの段階に分けて捉えるが、第1段階が20世紀初めの近代啓蒙期、第2段階が1930年代の朝鮮学運動の時期、それから第3段階が1960~70年代の内在的発展論に基づいた実学研究の時期である。実学研究は第3段階に来て大きな成果を挙げたが、同時に近代主義と民族主義という問題点も内包していた。

1960~70年代は西欧偏向の近代論が大勢を主導した時代であった。内在的発展論は、植民主義史観の清算を意図していただけでなく、その意識の底辺で西欧偏向の近代化論に抵抗したことは勿論である。ところが、近代化そのものに問題を提起する考えはできなかった。「近代」を理想的な目標点として想定した発展論を追従したわけである。解放以後、実学研究において先鞭をつけた故千寬宇(チョン・グァンウ)先生は、「それ(実学)は近代的志向意識と民族意識の二つの尺度を共に充足させる場合が典型的だと言える」と、実学の尺度を近代志向と民族意識でもって設定したのである。このように実学を重要視したその意識の中には近代主義と民族主義が同居していた。(『21世紀に実学を読む』、17~18頁)

20世紀の実学研究に対するこのような反省を土台とするので、21世紀の研究方向は当然近代主義と民族主義を批判するところから見い出されることとなる。その中で近代主義批判の問題に関する著者の立場は、近代克服を21世紀の世界史的な課題として認識した上で、近代克服の方法として近代を原則的に否定する立場ではなく、近代に抵抗する批判的克服論である。

近代を一面で消化し、一面で修正し、一面で否定して、近代克服という目標を継起的に水準高く達成しようということが、その(批判的克服論—引用者)思想的立場である。この立場に立つと、西欧主導の近代が成し遂げた物質的・精神的価値を人類的次元で批判的に受容する態度を持つし、東洋の学術思想の伝統に対しても原則的に同じ態度を守ろうとする。ところで、西欧主導の近代世界、近代文明が抱えている病弊を手術し、他なるある生道を模索することが要請されるが、そうするためにはどうやら東洋の学術思想へ真摯な関心が戻ってくることとなる。この立場では実学の意味が格別に重視されるだろう。(同書、32頁)

近代を批判的に克服しようとする立場、その際、東洋の学術思想を再び認識する必要があるという著者の主張は正しいことと思われるが、その問題と実学の意味を格別に重視すべきだという主張は、充分に説明されていないような印象を受ける。この問題に対しては後で再び検討しよう。

もう一つの問題である民族主義を批判するために著者が指摘する21世紀パラダイムの核心的な概念が東アジアである。東アジアという概念は民族主義的な研究方法である一国的観点を克服するために選ばれた方法である。

私の頭のなかに地域概念がはっきりと入ってきたのは、去る世紀末以来、世界化が急速に進行される状況を目の当たりにしてからである。グローバルな環境に主体的でありながら積極的に対応するための方途として地域的認識に着目したわけであるが、一国主義的偏向と世界主義的偏向を解消するためには、視野を東アジア的地平へと拡張することが緊要だという考えを持つようになった。(『韓国学の東アジア的地平』、6頁)

つまり、著者にとって東アジアは一国と世界との間にある一つの地域として認識されているところ、それでは東アジアを一つの意味ある地域として捉えうる根拠は何なのか。この問いに対する著者の解答が他ならぬ東アジアの実学である。こうして実学と東アジアという二冊の本の主題が不可分の関係にあるということが、著者が提示する構図である。二冊の本には上記のような立場から執筆された33編の論文と補論が一つ収録されている。各論文の一つ一つにも重要な見解と提言、そしてより論議されるべき問題が多いが、ここでは二冊の本を含めて著者の研究が持っている意味と特徴を指摘した後、若干の批判的見解を披瀝したい。

 

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林教授の50年に近い研究活動を特徴付けるものは、何よりもその領域の広範囲さであろう。学問分野で言うと、文学と歴史、思想、文化など人文学のすべての部門を含めるだけでなく、時間的にも三国時代から解放後までを実に自由自在に行き来する、容易く追いつけない領域を対象とする。そういう面から著者は東アジアの伝統的な文人学者の面貌を今日示す珍しい存在だと言えるし、本書評の副題を「学人の林熒澤」と始めたのもそのためである(林教授の幼い頃の経験と、学問に志すこととなった経緯については、「古典学者の生・学問・世界、その拡張と深化の道程」というインタビューが興味深い。延世大学校国学研究院HK事業団編、『社会人文学との対話』、エコリブル、2013)。

このように広い研究領域を持ちながらも学問の道を長い間歩んでこられた理由は、実学という研究の柱があったからではないかと思われる。このことが林教授の二つ目の特徴である。少し先述したが、1960年代以来の実学研究を主導してきた研究者のなかで、21世紀に入ってからも引き続き実学を研究する者はほとんどいないようだが、著者は新実学という立場から実学を新しい観点から見ようと努めているのである。研究者の鑑だと言えるし、それほど実学思想には未だ発掘されるに値する内容が存在するという話でもある。

実学という柱を中心に、研究を持続しつづけることができた理由は、私が見るには著者の文献発掘に対する並みならぬ努力と、若い研究者との対話、そして新たな研究動向に対する鋭敏な感受性にあるようだが、このような著者の開かれた姿勢を三つ目の特徴として指摘したい。著者の文献発掘と公開の軌跡は、『わが古典を探して:韓国の思想と文化の根』(ハンギル社、2007)にも如実に現れているが、その下地には広範囲な人的ネットワークと開かれた人間性があることと見える。私も林教授と10年ほど同じ職場の同僚として過ごしながら、一緒に食事をする際(もちろんお酒を飲む際にも)、旅行する際どれほど多くの質問を受けたことか!その若い熱情が驚くべきだ。

最後に林教授の研究者としての特徴として欠かせないことは、教育に対する大きな関心である。ここで詳しく論ずることはできないが、今まで刊行された著者のいくつかの本には教育論に関する文章が含まれている。このことは専門的な学術書としては珍しい現象であるが、著者の教育者としての面貌をよく示していると言えよう。

 

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次は著者の研究に対していくつかの疑問点と、これから一緒に苦悶すべきことと思われる問題らを捉えてみよう。

まず、新実学という用語に対してであるが、この用語自体が曖昧である。新実学といった際、それが以前の実学と異なる新しい実学という意味なのか、それとも実学に対する新たな角度からの研究だという意味なのか紛らわしい。また、前者の場合、以前の実学研究では対象ではなかった人も含めるという意味で「新」というのか、それとも対象は同じであるがこれまであまり注目されなかった部分を注目しようとするという意味なのか、曖昧な感じである。おそらく著者は実学に対する新たな角度からの研究として新実学という用語を使っているようだが、そういう場合もその範囲はやはり曖昧である。

しかし、より重要な問題点は、20世紀に成された研究が近代主義的・民族主義的偏向性を持っていることを批判し、21世紀には近代克服的な研究が必要だという著者の主張に同意するとしても、それがなぜ実学であるべきかという問いである。実学が研究者の大きな注目を受けた理由は、言うまでもなくそこに近代志向的な内容が存在すると認識されたからである。ところで、近代志向ではなく近代克服を課題とする際、研究対象が実学に限定されるべき理由はどこにあるか。この部分が私としては最も理解しにくかった。

例えば、丁若鏞(ジョン・ヤクヨン)という人を考えてみよう。これまでは彼の近代志向的な側面を明らかにしようとしたが、これから彼の思想のなかで近代を批判した側面、あるいは近代を批判しようとする時、参考となれると思われる側面に注目するといった話になるが、果たしてそういうことが可能なのか。そしてそうして新たに描かれた丁若鏞をわれわれはどのような人として理解できるのか。

内在的発展論が盛んであった時期に、在日韓国人研究者の故安秉珆(アン・ビョンテ)教授は内在的発展論の方法を浮彫的な方法だと批判したことがある。浮彫的方法とは全体から一部分を際立たせることを指す言葉であるが、つまり内在的発展論は社会の全体構図を度外視したまま、一部の発展的な部分のみ注目する誤謬を犯しているということがその批判の核心であった。内在的発展論や実学研究が持っていたこのような問題点を、著者の新実学研究もまた、免れにくいのではないかと考えられる。

従って、近代を批判してそれを克服する方向を見い出そうとする著者の立場に対しては、私も全的に賛成するが、その際、研究対象としては実学だけでなく、性理学、衛正斥邪思想、東学を始めとして宗教思想など、多様な思想を再検討することが必要だと私は考える。

二つ目の疑問点として指摘したいことは、東アジアの実学という著者の主張に対してである。実学という言葉は広い意味と狭い意味を持つが、狭い意味としても研究者によっては性理学こそ実学だと主張する人もいるし、それも充分根拠のある話である。しかし、著者の言う実学は17~19世紀に登場した新たな学風、思想傾向を指す概念として、時間と場所を限定した固有名詞である。

ところで、17~19世紀の新たな学風、思想傾向を実学という概念で呼ぶことは韓国に固有な現象として、もちろん中国と日本でも韓国と同じ意味で実学という概念を持って研究する人がありはあるが、少数派に過ぎない。これから韓国で始まった実学という歴史的な概念が東アジア全体に波及される可能性が全くないとは言えないが、率直に言って私は非常に懐疑的である。

ここで興味深い現象は、日本学界で起こっている朱子学(日本では性理学を朱子学と呼ぶ場合が多い)に対する関心の高揚である。日本では朱子学に対する関心が非常に低いほうであった。それは朱子学が封建的で体制を維持しようとする保守的な思想であり、なので朱子学を克服してこそ近代化が可能だという認識が長い間支配的であったからである。朱子学を批判した荻生徂徠の思想から日本の自生的な近代の萌芽を見い出そうとした丸山真男の研究、より時代を遡ると、儒教を徹底的に批判して文明開化を主張した福沢諭吉など、朱子学に対する否定的な認識は根深いものであった。

ところが、最近となって日本思想史研究において朱子学熱気と言えそうな風潮が現れてきた。その中の一つの中心は、徳川時代の思想史において朱子学の存在とその意味を新しく見ようとする研究が相次いで出てきている現象である。丸山の理解では徳川時代の初期から支配思想として続いてきた朱子学が、徂徠の登場によって徹底に批判された結果、その思想的影響力が無くなったという話であったが、実は朱子学が社会的・政治的に大きな影響力を持つこととなったのは19世紀に入ってからであったという事実、その切っ掛けとなったことは1790年に実施された「寬政異學之禁」であって、その後、幕府や大名たちが作った学校で朱子学以外の学問を教えることは禁止されたという事実、徂徠学から朱子学へと転身する儒学者が大量に現れたという事実などが明らかになった。朱子学が正学としての地位を得ることとなった理由はこのようにいろいろあったが、決定的な要因として清国から輸入された大量の儒学書籍の影響が重要視されている。そして、こうして朱子学が普及されるにつれて武士たちの政治意識が高まり、政治に対する論議が活発となりながら、公論が形成され始めて、それが明治維新を起こさせた重要な要因となったという主張までも出てきている(そのような主張は、バク・フン、『明治維新は如何に可能であったか』、民音社、2014、に明確に出ている)。従って、以前の通説的な理解とは反対に、徂徠学から朱子学へ、そして朱子学が明治維新に決定的な影響を与えたというのが最近の主張だとまとめられるが、もちろんこのような研究が多くの賛同を得ることとなったとまでは言えないが、丸山のような理解がほとんどその基盤を失うことになったということは確実である。

朱子学に対する関心は徳川時代の研究だけでなく、明治維新以後の時期に関する研究でも同じく現れる。明治維新以後の代表的な啓蒙団体として知られた明六社に参加した人々の多数が、儒学、朱子学を基にして西欧の近代思想を受容したという事実、この際、儒学者なのに西洋思想を受容したということではなくて、儒学者であったからこそ西洋思想を積極的に受容できたという主張、明治維新を儒教的理想主義の追求という視角から見ようとする研究など、つい先までは想像もできなかった新しい研究が出てくるようになったのだ。

周知のように、1960年代以後、韓国の実学研究は丸山の研究を強く意識しながら始まった。丸山が徂徠から近代の萌芽を見い出そうとしたことと同じく、実学思想の中で近代の萌芽を探索したのである。ところが、日本で丸山の学説が多くの批判を受けるようになり、朱子学に対する再検討が進行中の状況を、韓国学界の立場ではどのように考えるべきであろうか。

日本でこのような現象が起こっている理由は、それ自体として興味深い現象であり、いろいろと吟味されるべきであろうが、少なくとも東アジア実学という方向と全く異なる方へ日本学界の関心が向いているということは否定しがたい。では、中国はどうか。中国では最近儒学が再び脚光を浴びることとなりながら、特に社会的な統合のために儒学の遺産を活用しようとする姿勢が目につく。こういう現象もまた、いろいろと検討されるべきであろうが、儒学に対する批判よりも儒学を再解釈し、現在的な意味を探そうとする方向へと進んでいるように見える。

このように日本と中国では今のところ、朱子学や儒学そのものを新たな角度から検討しようとする動きが活発であるが、そういう状況で実学が立つ場はどこにあるかと懐疑的であらざるを得ないのである。もちろん、だからといって林教授が主張する近代批判、近代克服の努力が東アジアで必要ではないと言いたいわけでは、決してない。その出発を新実学という概念でもって定めることには懐疑的だという意味である。それではその方向はどこへと向かうべきなのか。この問題を考える端緒も、林教授の研究のなかで見い出せるのではないか、と私は思う。

率直に告白すると、私はこれまで林教授の研究のなかで実学と関わる論文は数多く読んだが、文学史関係の論文はほとんど接し得なかった。この書評を書くこととなって始めてそれら(もちろん一部に過ぎないが)を読むことになった。ところで文学史関連の論文を読みながら、実学に関する研究との違いというか、何か違った印象を受けることになった。その違いとは何か。

林教授の文学史研究では、私が始めて彼の名を知ることとなった『李朝漢文短篇集』が象徴するように、以前はあまり注目されなかったジャンルや作品、作家を発掘して学界に紹介することと共に、その文学史的意味を探求した研究が相当な比重を占めている。例えば、『(朝鮮後期)閭巷文學叢書1』(ヨガン出版社、1986)の解題を始め、「18、9世紀における「語り手」と小説の発達」(『韓国学論集』2輯、1975)、「『朝鮮開国録』研究:民間的想像の歴史小説」(『民族文学史研究』5号、1994)、「野談の近代的変貌:日帝下における野談伝統の継承様相」(『韓国漢文学研究』19巻、1996)、「『東稗洛誦』研究:野談の記録化過程と漢文短編の成立」(『韓国漢文学研究』23巻、1999)などがそれである。これらの論文は士大夫ではない人々の文学活動や、民間で流布される物語を士大夫が記録して残した作品を対象としたものであるが、私としては非常に興味を持って読むことができた。これらの研究で使われた資料もまた、著者の努力で発掘された作品が多数を占めていて、著者の眼力がどれほど鋭いかを如実に示している。

ところで、このような文学史研究と実学研究との関係が著者にどのように認識されているかが不明瞭のようだ。私としてはこのような文学史研究が韓国文学史の特徴を解明することに大事な成果として、これから大きく発展させる必要があると感じられるが、著者はそう思っていないような印象を受ける。その理由はよくわからないが、もしかしたら次のような19世紀文学史に対する著者の認識と関わったものではないかと考えられる。著者は19世紀文学史を主題とした論文で、19世紀に伝統文学が最高点に到達したということを認めながらも、同時に「最高点から下降曲線を描く過程で内容の変質・俗化が進められた事実も見逃せないくだりである」と指摘する。それから19世紀に生じた戯作化傾向と、その代表的な存在として金笠を取り上げながらその特徴を次のようにまとめている。

戯作は旧形式を逆に利用して笑いを誘い、変わった興味を感じさせる特徴がある。それ自体が権威に対する挑戦であり、旧形式を解体する意味を持ちうる。だが、あくまでも過度期的な現象であって、新しい文学の道を自ら開けていくことは難しい。そこで筆者は戯作を、寄生的性格なので宿主を殺害する役割が果たせるが、そうすると、自分も死亡する運命を生まれつき持っていると診断したことがある。戯作化を通じて見る際、19世紀は新しい文学史の段階へ進出したとは言いにくいだろう。(「19世紀文学史が提起した問題点」、『国語国文学』149号、2008、20頁)

文学作品の評価に門外漢である私があれこれ言う資格はないということは充分自覚しているが、このような評価は何か容易く納得のいかない感じである。そうかと思うと、著者は他のところでは次のように述べる。

ところが、叙事漢詩の世界は「叙事的状況の発展」の新局面を捉えることにおいては鋭敏であり得なかった。李朝後期の社会において体制矛盾の深化とその中で発生した力動的・進取的動きは、叙事漢詩の形式に盛られるよりは野談-漢文短編に多彩に反映されているのだ。この点から見ると、叙事漢詩の現実主義的成果は漢文短編に及んでいない。詩人の自覚的意識がかえって現実を直接呼吸する庶民大衆の感覚に追い付かない面があるという点を考えるべきであろう。(「現実主義の発展と叙事漢詩」、『李朝時代叙事詩1』総説、創作と批評社、1992;改定版、創批、2013、49頁)

金笠の戯作化を批判した尺度と野談を高く評価する尺度とが同じものなのか、著者の教えを受けたいところである。韓国文学の特徴を如何に捉えるかの問題とも関連があろうが、私としては支配的な文学・文化に対する拒絶と抵抗を盛った野談、「語り手」、諧謔と戯作、春香等など豊かな遺産に韓国文学の特徴があるのではないかと考える。

そしてこのような文学史の理解が全く間違ったものではないとしたら、思想史研究においても儒学や実学の外で成された思想的営為(例えば、宗教思想)に注目すべきだという話となるが、このような方向へ進もうとすると、思想や文学という概念そのものをこれまでとは異なる次元で理解する必要があるかもしれない。韓国史研究の分野では内在的発展論が多くの批判を受ける状況で、それに取って代わる新たな枠を模索する渦中だと言える。同じく文学史研究においても近代を克服して新しいパラダイムを開くためには、既存の漢文体系、基本的な概念までも根本的に再検討すべきだというのが私の考えである。

以上、林教授の二冊の本が刊行されたことを切っ掛けに放言を重ねた。少なくない誤解があろうとは思うが、これから意味のある討論をするための妄言であったと寛容な了解を乞うところである。著者の研究を批判することに他ならぬ著者の研究を利用するといった妙な格好となったが、それほど著者の研究が広くて深いものであることを改めて痛感した。まことに恐るべき研究者である。

 

翻訳:辛承模(シン・スンモ)