창작과 비평

[卷頭言] 「どうせ」訪れる変化はない

2016年 秋号(通卷173号)

 

 

人はもちろん四方万物は無事なのか、また地球は安全なのか、そのすべてが心配になるほど長くて蒸し暑い夏だった。ところが、今夏を熱くしたのは記録的な蒸し暑さだけではなかった。電撃的に発表されたサード(THAAD)の朝鮮半島配置決定をはじめ、生涯教育単科大学の新設をめぐる梨花女子大学事態に至るまで、最近起こった様々な事件は卓上での暑さ云々が恥ずかしいくらい厳重なものであり、反対闘争の熱気は依然として熱い。

サードが配置された際、朝鮮半島と東北アジアの平和に加わる脅威や有・無形の損失に比べて、韓国の得る安保的・外交的利得は極めて不透明だという憂慮が高い中でも、政府は慶尚北道星州郡を配置地域として電撃発表した。初めて候補地となった地域の代わりに、星州郡に決まった理由としてはいろいろあったと思われるが、一旦抗議のため訪問して来た地域住民の前で、国防部次官が星州と尚州を混同する騒ぎが起こったほど、「中央」から見た時、星州がそれほど大した地域ではなかったという理由が大きく働いたと考えられる。それだけではなく、星州が伝統的に与党支持率の強い地域でなかったら、事前協議も一切せず、今回のような方法で発表することはできなかったであろう。一言でいえば、星州を「くみしやすく」思っていたといえよう。しかし、地域内配置を反対することから始まった星州郡民の闘争は、朝鮮半島の平和のためにサード配置それ自体を原点から再検討してほしいという主張に拡大発展しており、地域を孤立させようとする政府の戦術を嘲笑うかのように平和集会を通じて「外部勢力」との連帯を拡張している。

サード配置に対して否定的な世論が沸き立つ中でも、星州の闘争をめぐっての内心は思ったより複雑に見える。闘争そのものに対する冷笑的反応もあるが、それは、サード配置はもはや元に戻せない事案であるという悲観論に基づいているものである。さらに、このすべての事態はこれまで保守政党を熱烈に支持してきた当該地域の自業自得だと皮肉る声も後を絶たない。野党は否定的な世論に便宜的に頼っているだけで、サード配置を実際阻止しようとする意志は明確には見えない。サード配置が深刻な問題と言いながらも、すでに既定事実として受け入れる態度からも、そして現在行われている闘争の潜在性を信じ、連帯して協力するより、その限界の論評に没頭する態度からも共通的に見られるのは「どうせ」の情緒である。野党は、自分たちが時代の核心的な問題を背けるとしても、結局選挙で自分たちを支持する人々は「どうせ」支持してくれるだろうと思っている。与党もいくら疎かにしても自分たちの核心支持層は「どうせ」離脱しないだろうと信じる傲慢な態度を見せてきた。最近の韓国政治を支配してきたと言っても過言ではないこの「どうせ」の計算法は、前回の総選挙を通じて一定の審判を受けたにもかかわらず、依然として衰えることはない。

このような態度は政治圏にだけ蔓延しているわけではない。これまで教育部が財政支援を武器にしながら押し進めてきた大学改革事業を最初に中断させた梨花女子大生の闘争をめぐっても一般市民の間で似たような動きが感知された。闘争を支持するといいながらも、「どうせ」特殊な事例だから、いくら頑張っても教育部の政策を変えさせることはできないと予断したり、さらには学閥既得権守りと見なしたり、デモに参加した女性たちに非難や嘲弄、セクハラを加えたりもした。「どうせ」大学教育全般の公共性の拡大にまでつながるには限界があるというとらえ方であった。

現実の闘争を認め、抵抗の声に慎重に耳を傾けて連帯を模索するよりは、彼らが「どうせ」持たざるを得ない限界を先に指摘し、論評しようとする態度は、当該闘争が既存の見慣れた運動文法に符合しない際、より際立ったりする。星州のサード配置反対闘争や梨花女子大生の闘争に直ちに連帯することを躊躇する反応が続出したのも、やはり彼らの闘争がこれまで与党を支持し続けてきた地域や、相対的特権層に見える「名門」女子大学のように通念を背反する現場から起こった理由が大きい。ところが、星州の闘争こそが、サード配置が取りかえすことのできないことであるという「どうせ」の論法に真っ向から対抗した闘争であり、梨花女子大学の闘争も、最近の大学が教育部による上からの政治に対しては「どうせ」の態度で順応しつつも、学内では専横を繰り返してきたことにブレーキをかけた事件であることは確かである。

「メガリア(MEGALIA)」に代表される新たな流れの女性主義運動に対する最近の論難も「どうせ」の情緒を克服することができなくて生じた現象といえる。昨年フェミニストが嫌いだと韓国を離れてイスラム国家(IS)に加担した金君事件や、「ISより無脳児的フェミニズムがもっと危険です」と語るコラムを契機に、女性主義活動が急速に広がった。インターネットコミュニティ「メガリア」もこのような流れの中で女性嫌悪に対する闘争を名分として掲げてつくられた。特に、今年の5月、江南駅で起こった女性殺害事件以後、女性たちが日常的に感じる脅威に対する証言が相次ぎ、韓国社会に蔓延している女性嫌悪に注目する必要性を喚起させた。女性嫌悪に立ち向かうために男性の女性に対する卑下的な言語をそのまま真似して遣り返すというメガリアの戦略は、社会的に大きな論難を呼び起こした。もちろん受けた通りに遣り返すという運動方式が問題視される可能性はいくらでもある。ところが、メガリアも、これまで韓国社会で女性たちが相当の部分を諦め、忍耐してきた女性嫌悪的な情動に抵抗しながら、「どうせ」情緒に亀裂をつくった重要な運動であることは明らかである。それにもかかわらず、この運動方式の限界に対する批判に必死になっている勢力は、むしろ女性嫌悪的な行動に対しては「どうせ」存在する社会現象として見なしてしまう場合が多かった。

今号の特輯でデヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)も指摘しているように、今は多様な場所で多様な主体によって予想外の闘争スタイルが発生する時代である。したがって通常的観念から抜け出した運動の持つ潜在性を判断し、拡張することは、体制の根本的な転換を行うことにおいて決定的である。ところが、多様な闘争はそれぞれの内部で使用する言語や文化的慣習が相違であり得るし、現場が違えば相互の背景や歴史について理解することも難しく、わかるとしても完全に同意しがたい場合は度々あり得る。男性と女性の間にも視点の差があるとはいえ、既存の体制から排除されてきた多様な少数者たちの運動が、体制を与えられたものとしてとらえる人々に自ずと理解されるはずがない。それゆえ、漸次社会運動において重要な流れを形成している少数者運動ときちんと連帯するためにも、見慣れた「どうせ」の誘惑を乗り越えようとする積極的な努力が必要であることを忘れてはならない。

結局「どうせ」の情緒では連帯を実現することはできず、連帯の可能性を見つけられない限り、新しい社会に対する希望も生まれるはずがない。したがって、新しい変化をつくり出し、希望を見つけようとする努力は運動においてであれ、生活においてであれ、まさにこの「どうぜ」の情緒を克服するところから出発しなければならない。現在の闘争はいつも物足りないのが当たり前であり、さらに過去取り扱われなかった問題を新たに提起する勢力は荒くて尖っている部分が多いかもしれない。しかし、その結果が決まっている闘争もなく、すべての結果が決まっている人生もない。したがって、新たな連帯の可能性を信じ、「どうせ」に慣れている自身を振り返り、新たにする刻苦の努力こそが大転換の礎になる積功の重要な方法の一つと信じる。

 

今号の「特輯」では「危機の資本主義、転換の契機」をテーマとした。現代資本主義体制において起きている変化や危機的様相に注目しながら、それによって私たちの日常がどのように変貌しているかをまず検討した上で、緻密な現実診断に基づいて新しい生活の可能性と社会運動のあり方を模索しようとする努力の一環として見ていただきたい。特輯の最初の論文は、今年6月『創作と批評』創刊50周年記念行事の一環で来韓したデヴィッド・ハーヴェイと本誌の名誉編集人である白楽晴の特別対談である。世界と中国の未来の行方に対する議論から資本主義の歴史やマルクス主義に関連する理論的争点、そして最近「都市に対する権利」闘争にいたるまで、読者が興味を持ちそうな多様なテーマが盛り込まれている。続くデヴィッド・ハーヴェイの講演文は、資本主義がこれまで過剰蓄積の危機を解決してきた「空間的解決」方式が世界を統制不能状態に追い込んでいるので、私たちは果てのない成長の幻想から脱皮して資本主義体制で行われる「蓄積のための蓄積」を統制する手段を探さなければならないと強調する。とくに、この時代における富は、価値が実現される過程で創り出されるという事実に注目しながら、投資者のための都市ではなく、そこに住んでいる人々のための都市をつくらなければならないという主張は、今後私たち社会運動の議題を新たに設定していく過程にも重要な視点を与えてくれると期待する。

金鍾曄は、世界体制内で世界中位都市に該当するソウルの地位が所得・資源のソウル及び首都圏集中現象を強化することによって、韓国社会における様々な病理現象を強めていると指摘する。彼は、このような問題点を解決する手がかりを参与政府時代に試みられた首都移転プロジェクトと国立大学統合案とを結合するところにおいて探る。世宗市を中心に国立大学統合ネットワークを構成していくことによって、資本主義的蓄積に対して「空間的解決」ではない「教育的・社会的解決」を模索しようということなのである。彼の大胆な提案が活発な議論へとつながってほしい。

ソ・ヨンピョは、資本が支配する都市ではなく、人間らしさを基準とする都市をつくるためには、構造的矛盾を法則をもって説明し、規範的に与えられた目標を提示する運動では足りず、急速な都市化がねじれてしまった「身体の感覚」を回復することによって資本主義的時空間の暴力性に目覚めなければならないと強調する。

イ・ピルリョルは、去る12月パリで行われた気候変化協約が速く変化している人類社会の現実を勘案しないまま、到達不可能な目標を設定したと批判する。太陽エネルギー・デジタル時代の注目を要する技術の発達、人口変化、資本主義の変化を指摘しながら、気候変化についての議論を根本的に再検討する必要性を提起する彼の挑戦的な主張が熱い論議を触発するだろうと期待する。

「文学評論」では評論家のファン・ヒョンサンが故朴永根詩人の10周忌を迎えて出版した『朴永根全集』を丁寧に検討しながら、「労働者詩人」朴永根の辛酸な人生と切実な詩編の響きを今日蘇らせる。新鋭評論家のキム・ヨソプは、セウォル号事件以後、韓国社会において「競合する言葉」に注目しながら、イ・ギホと黄貞殷の小説を誠実に分析するが、その方式や様相は違うものの、両者とも「セウォル号以後」の共同体に向けてずっと発火してきたことを見せる。

「創作」欄を読む楽しみを欠かすことができない。まず、「詩」欄には夏号に続き、韓国詩壇を代表する中堅詩人の新作詩を掲載した。チョン・デホからコ・ヨンミンまで詩人25人の視線が留まるところがそれぞれ美しく輝く。創批新人詩人賞を受賞したハン・ヨンヒの新鮮な詩編がその後を繋ぐ。「小説」欄には独特な美学と語法を披露するキム・オムジの中編と、相異なる個性と作品世界を味わわせるチョン・ファジンとキ・ジュンヨンの作品、そしてただならぬ器量で創批新人小説賞に当選されたイ・ジュへの短編を収録した。

「文学フォーカス」では、白智延と金素延がパク・ジュン詩人とともに、最近話題となった詩集と小説集を幅広く検討した。文学の言語と語法に敏感な3評者が互いに共有する地点はもちろん、異なる地点を追っていく楽しみが特別である。「作家スポットライト」では、シム・ジンギョン評論家が『軍艦図』の作家・韓水山に会って「軍艦図」にまつわる哀切な話と作品構想から改作にいたるまでの険難な過程の話に耳を傾ける一方、作品の意味深長な部分を取り出す。

「対話」は、本誌の連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の3回目のテーマをもって保守的社会団体の歴史的背景と現状、未来に対する展望を扱う。オボイ(父母)連合をはじめとする保守的な半官半民団体の取り組み及び各界との癒着関係は、韓国の民主主義が持続的に退行していることを露にした主な事例である。「対話」に参加した専門家4人は従北攻勢をはじめとしたこれらの団体の活動を歴史的に検討しながら、韓国の保守運動に未来はあるかを問う。

「論壇」に掲載された徐進鈺と押川淳の論文は、創批50周年記念行事の一環として開かれた「東アジア批判的雑誌会議」の発表文をもとにした。徐進鈺は会議で中国の「一帯一路」政策がアメリカの覇権的対外政策を代替する「包容的グローバル化」パラダイムであると同時に、南南協力の新しい模範と主張することによって、共感と批判を同時に受けた。彼の論文は朝鮮半島の平和と大転換にも重要な意味を持つ一帯一路政策の性格を論じることにおいてよい出発点になると思われるが、特輯に紹介されるデヴィッド・ハーヴェイの対照的な見解と比較して読めば、より有益であろう。押川淳は大地震以後日本で保育問題のような日常的イッシュで触発された憤怒がそのまま国家全般の腐敗と民主主義の毀損に対する抵抗へとつながるようになったと明らかにする。平和憲法を守る力も結局は生活の中で起る腐敗に対する抵抗から生まれるという主張が目を引く。

「現場」欄の連続企画「少数者の目から韓国社会をみる」は、セクシャルマイノリティ問題をもってつないでいく。ナ・ヨンジョンは、セクシャルマイノリティの市民権論議の意味が単にセクシャルマイノリティも市民であるという包摂戦略に限定されるのを拒み、性的抑圧に対抗することが社会正義を駆り立てる過程であることを強調するためには、「クィアな市民権」という転覆的概念が必要だと力説する。少数者市民権論議の地平を拡張するこの論文は、セクシャルマイノリティ問題が実に韓国社会の多様な側面に接続していることを気づかせる。

夏号に続き、「創批に要望する」インタビューでは、本誌の古い読者であるチョ・ヒヨンソウル市教育監とリュ・ハンスンソウル市労働権益センターチーム長に本誌の編集委員のキム・テウとハン・ヨンインがそれぞれ会った。厳しい批判とともに、創批が今後果たすべき役割について温かくて詳細な助言を寄せてくださったことに感謝し、それをさらなる雑誌をつくるための覚悟の契機としたい。一方、「寸評」欄は今号でも相変わらず様々な分野の本に出会う手引きの役割とともに、個性あふれる有益な論文に出会える喜びを与えてくれる。

萬海文学賞は創刊50周年を迎えて賞金を引き上げ、特別賞を新設して審査過程を整備するなど大々的な改編を行った。今号に収録された最終審査における大賞作の発表に多くの関心をお寄せいただきたい。申東曄文学賞は詩人のアン・ヒヨンと小説家のクミに与えられた。創批新人文学賞は、評論部門では当選者を出すことができなかったが、詩と小説部門でそれぞれ優れた資質の新鋭を発掘して披露するようになったことを誇りに思う。

 

終わらないかのように嫌になるほど続いた暑さも間もなく終わり、夏は秋に席を譲るであろう。しかし、季節が変わるように、時間が経てば自ずと訪れるようになる次の世界とは異なり、他の世界は「どうせ」訪れる未来ではない。創刊50周年記念企画を引き継いだ今号も、創造的な連帯や切実な積功なしには訪れない新しい社会をつくることに寄与しようとそれなりに奮闘したが、依然として努力すべき点が多い。国家安保のためにじっとしていなさいという莫大な圧力に耐えながら、この時代に蔓延している「どうせ」の論法に抵抗する星州郡民の闘争を見習って、これからもっと努力することを約束する。読者の皆様も一緒に参加してくださると期待しながら、ご声援とともにご鞭撻をお願いしたい。

 

白英瓊

(翻訳: 李正連)