[卷頭言] 覇権以後のアメリカと韓半島的実践 (2008 冬)
危機が迫ると、「他の対策案はない」(TINA)といっていた新自由主義的世界化の熱烈な主唱者らは急に沈黙を守るようになった。むしろ世界化の標準であるかのように主張されてきたアメリカモデルの位相が国際政治的にも、経済的にも失墜したという話が増えている。ところが、事態は、アメリカがこれまで主張してきたモデルの危機よりいっそう深層的なものかもしれない。我々がいま目睹しているのは、世界の資本主義体制が「覇権以後」の時代に入った場面でありうるからである。
世界の資本主義体制の歴史が覇権の競争と交替の歴史であった点に照らしてみると、競争でも、交替でもない覇権以後の時代は確かに前例のない現象である。それはいかなる新しい秩序を含んでいるものなのだろうか。今の段階では、アメリカが国際政治において多者間交渉という取り組みをみせるようになるだろうということや、巡航するかはわからないが、G20会議の招集にみられるように国際的金融秩序が寡頭的集団指導体制へ移行する可能性が高いということ以上の具体的予想は容易ではない。いや今は予測より新たな秩序をより民主的で、等しいものにつくりあげるための実践的介入が求められる時代というべきであろう。
危機の中、アメリカはバラク・オバマを次期大統領として選んだ。黒人ハーフの大統領の誕生がもつ文化的意味は小さくない。それだけではなく、彼に対する期待がアメリカを越え、世界の人々のあいだで形成されている。彼がアメリカの内部問題を小幅改善するのに止まるか、それともアメリカを新たに革新したフランクリン・ルーズベルト大統領のレベルにまで、あるいはそれ以上の変化を導き出せるかは未知数である。国際的なレベルにおいても、下り坂で加速ペダルを踏んでいるようなブッシュ式の国際政治や破産したワシントンコンセンサスから急進的に脱却できるかは確言しがたい。しかし、オバマは、もし彼自身に与えられた課題を完璧に解決したいのであれば、たとえ彼が考えてきた方向へ着々と進むとしても、それよりもっと遠くにまで前進しなければならない。
世界体制内におけるアメリカの役割調整という面においてもオバマの選択は重要であるが、すでに可視化された彼の韓半島政策が韓国社会に及ぼす影響は少なくない。もちろん去る10月北朝鮮に対するテロ支援国指定解除にみられるように、北朝鮮の核問題の解決や米朝関係の改善方法に関してはワシントンにおいてすでに合意が行われている。しかし、その合意された方向へやむを得ずひきずられていくか、それとも積極的に進み出るかは、非常に異なる結果をもたらしうるのである。オバマの前向きな姿勢は韓半島に新しい時運として訪れてくるであろう。
ある人は、保守的な韓国政権と進歩的なアメリカ政権とのずれによって金永三-クリントン時代の様相が繰り返されるのではないかと危惧する。ところが、すでにアメリカ民主党政府と北朝鮮政権に、あの時代に対する学習が蓄積されているので、米朝間交渉が急速に進む可能性はあっても、韓国政府によって足踏み状態になる可能性は低いと思われる。むしろ今求められているのは、李明博政府が自ら主張してきた実用に符合する姿勢を見せながら、現在の状況をはやく学習することである。
しかし、今の状況ではそのような期待がとても虚しく思われる。キャンドルデモ以後、李明博大統領が見せた態度は国の公的資産を投資してまで自分の支持率の結集度を高めようとしたものであり、厚顔無恥といえるほど、現在の金融危機さえ彼らにサービスする機会として活用しているからである。世界的な住宅市場におけるバブル崩壊の中で、バブルを徐々に沈静させる政策どころか、国を建設会社に改造しようとするような最近の政策を見れば、無能と学習拒否意志との結合としかとらえられない。このような姿勢から考えれば、韓半島の平和を振作する時運に逆行する歩みを見せる可能性はきわめて高い。
それが故に、李明博政府に対する期待を完全に諦め、進歩改革勢力が自らを刷新し、結集しようとする手厚い努力が今切実に求められる。手厚い努力が強調されるのにはいつも言ってきた言葉以上の念願と覚悟が盛り込まれている。李明博政府の危険な逆走と攻撃的新自由主義を大衆がキャンドルを持ち上げながら防ごうとしたことは、韓国社会の蓄積された力量を自ら立証した誇らしいことであった。ところが、それとともに李明博政府が揺らぐ姿を見せると、自らを革新するための非常な意志を固めないといけない進歩改革勢力がその努力を緩める面があった。民主党や進歩政党から目立つ斬新な構想と変化の機運が発見されず、環境運動連合の不透明な会計処理にみられるように、これまで信頼されていた市民団体さえ安逸な慣行に陥っていることが明らかとなった。さらに、近年市民社会団体が一緒に構成した「民生民主国民会議」も遅々として進まない状態にある。大衆が今の経済危機と窮乏生活の中で希望を持つことができないのであれば、それは、これ以上期待することのない李明博政府のせいではなく、冷酷な自己改革に基づいて新しいビジョンを創り出せないでいる進歩改革勢力のせいといえる。覇権以後の時代をより生きがいのある時代に改造していくためには、いかなる構想と姿勢で参加するか、またそれを韓半島的レベルでどのような実践をもって実現するかを課題とし、今は自分にむちを打ち、より奮発しなければならない時なのである。
今号特集のテーマは「文学とは何か」である。創批が古い質問を再び取り出した理由は、危機の時代であればあるほど真の文学的感受性こそが人々の心を癒し、方向感覚を気づかせることができ、さらにそのような課題をやりこなすためには文学者自らが抜本的な問題に立ち戻る必要があるという判断からである。今号の特集は国内の筆者による4本の論文と海外からの論文1本で飾ったが、最初の論文で白楽晴は、キャンドルデモという当代的経験がどのように見慣れた作品との新たな対面を誘導したかに対する響きの豊かな所懐から出発する。その後、1970年代以降彼自身の文学観が見せた軌跡が当代とどのように呼吸しているかを明らかにし、その呼吸を最近の文学的成果へと拡張していく。白楽晴が披露する文学論はブラジルの文学批評家であるホベルト・シュヴァルツ(Roberto Schwarz)の論文「周辺性の突破」と内面においてつながっている。シュヴァルツは作家のマシャード(Machado)の写実主義的成就に注目し、中心部の文学形式が混交された形で同時受容されたブラジルにおいてそのような文学形式が変形を経験せざるを得ない、一方で地域的反響を越える響きをつくりだす可能性を見せる。彼の論議は、韓国文学の位置を点検するためには中心部文学との対照のみならず、周辺部と半周辺部文学との比較が必要であることを私たちに教えている。
一方、韓基煜と陳恩英は2000年代以来の韓国における批評と小説、そして詩の様相について検討している。韓基煜は最近の文学批評と作品を論争的検討し、文学における真の新しさとは何かを問うており、陳恩英はランシエール(Rancière)の文学論をもって詩と政治との真の結合を主張する。アプローチの方法は異なるが、いずれも文学的自己批判を通して時代との関連を確立し、またそれを作品の中に内面化するために「文学とは何か」という質問を投げかけている。こうした問題意識は時代診断的質問を易経の大過卦に対する解釈の中で遂行する金上煥の論文にもみられるが、彼は古賢の思想を行き来する思想的迂回を通して本然の問題に対する望外の悟りへと我々を導く。
今号においても、韓国社会に山積している課題を検討し、解決策をみつけるために「対話」を行い、「論壇と現場」の論文を集めた。「対話」では、希望の芽が見えない今日の教育を診断するためには現場の声を聞くのが第一であるという考えから記者、親、私的教育の専門家等を招いた。教育学者や教育団体関係者の話とは異なるニュアンス、異なる視角を感じることができると思われる。「論壇」では金基元と李南周が世界金融危機と李明博政府の経済政策、として市民参画型統一運動について議論し、「現場」では李明博政府の言論政策に立ち向かい、粘り強く戦っているYTN(Yonhap Television News)労働組合の闘争を盧宗勉委員長の肉声で伝える。
今号は、特集を含めていつもより文学関連の読み物が豊富である。詩欄では登壇50周年を迎えて日常と現実の重さを繊細に描いてきた詩人・黃東奎の新作の詩から創批新人詩人賞を受賞した白象雄の詩まで計12詩人の多彩な作品に出会える。念入りに用意した小説欄では、新人小説家6人の作品を通して文壇の若い作風を味わうことができ、文学焦点では最近出版された詩、小説、評論のうち、主要作品5本を丁寧に検討した。そして文学評論には林和誕生100周年を記念する廉武雄の評論と創批新人評論賞の受賞者である李京眞の鄭梨賢論を一緒に載せた。両論文が持つ意義を再吟味することはもちろんのこと、両論文が韓国文学の過去と今日を大きく取り上げながら隣接している姿には何か考えさせられるものがある。
国内外の新刊書籍8冊に対し、小味の利いた評論をしてくださった「寸評」の筆者の方々にこの場を借りて感謝の意を表したい。また白石文学賞の受賞者である詩人・金海慈氏、創批長編小説賞の受賞者であるハン・ゼホ氏、創批新人賞を受賞された皆様にもお祝いを申し上げる。そして前号で本誌に変化を呼び起こす新しいメンバーを迎え入れる計画をお知らせしたが、その一環として金賢美教授と黃靜雅教授が新たに編集委員として加わることになった。今後お二人の女性編集委員の役割に大いに期待する。
昨年、本誌冬号の巻頭言において大統領選挙を控え、現代史の分岐点となりうる年が近づいていることを指摘したことがあるが、2008年はその分岐点以後がいかなるものだったかを実感させられる一年であった。一年が終わろうとする時期になると、多事多難だったと思うようになるのだが、今年は現代史の中で長く記憶に残る年になると思われる。韓半島に流れる冷気が消えず、すべての人々が深刻な経済危機のど真ん中に置かれているが、光化門を縫い取ったキャンドルの暖かさと明るさを盛り込んで創批を飾ってくださった筆者の皆様と、相変わらず温かい声援を送ってくださる読者の皆様に温かい送年の酒一杯を捧げる。