창작과 비평

[卷頭言] 虚位と違法だらけの「新型法治」(2009 冬)

韓基煜

 

 

 

これまで李明博政権が行った主要政策は、4大江事業を除けば、その大半が金大中•盧武鉉政権時代の主な政策を覆すことであった。総合不動産税の事実上の廃棄(「富裕層の減税」)、南北和解政策の実質的廃棄、メディア法の拙速かつ強引な(かっぱらい)通過、行政中心複合都市(世宗市)原案の白紙化等がそれである。金大中•盧武鉉政権時代を「失われた10年」と慨嘆する李政権が去る2年間力を注いだのは、その「失われた10年」間、いや6月抗争以後20年間積み重ねてきたものを崩すことにすぎなかった。さらに、李政権が外交的成果として掲げるG20首脳会談のソウルへの誘致の功労も「失われた10年」がなかったら、果たして可能だっただろうか。その10年間発展した韓国の民主主義と経済力のお陰で成り立ったことであるからである。問題は、20年前に用意され、その10年間確立されてきた民主主義と南北関係の基盤が、李政権の登場以降急速に破壊されているということである。

民主化20年の逆進を端的に見せているのは、現政権とその参加機関が民主主義の根本である法治をむやみに踏みつぶし、嘲弄する慣行ではないだろうか。市民には口癖のように法治を言っているが、自分たちは治外法権地帯にいるような行動をとる。BBK事件 BBK事件とは、キム・キョンジュンという人が1999年に設立したBBKという会社を通して株価造作で数百億ウォンの差益を上げ、横領した事件である。この事件は2007年の大統領選挙にハンナラ党の候補として出馬した李明博が関わっているという疑惑が提起され、検察の取り調べが行われたが、李明博とは関係ないという結果が出され、終わった事件である。 や各種人事聴聞会において明らかになったように、大統領から国務総理、長官にいたるまでの為政者らが法を軽視し、嘘と違法を恥ずかしく思わない。以前の政権にも政策を過大評価し、嘘をついた事例は多かったが、虚位と違法が暴露されたときには反省もし、当事者がその職を退いたりもした。重大な違法が明らかになったのにもかかわらず、図々しく対応する姿勢が、昔は例外なことであったが、いまは常例になっている。

このような虚位と違法だらけの「新型法治」は、メディア法のかっぱらい通過と、4大江事業の便法的な推進において著しく現れる。例えば、メディア法の場合、言論人、言論学者、市民団体、野党の激しい反対に直面すると、ハンナラ党の議員らはこの法律の「通過」を強行し、その過程において代理投票と一事不在の原則違反等の明白な不法を犯したのである。法律の制定過程において違法行為が介入されたが、法案自体は有効であるという憲法裁判所の判決もとりとめのない話で、無責任であるが、その後、ハンナラ党が憲法裁判所の判決にしたがってメディア法についてはいかなる再論にも応じないと公言したのも荒唐無稽な話である。不法に制定された法案であるということが、憲法裁判所の厳然たる判断であるにもかかわらず、これを是正しなくても構わないと思っているその図々しさが驚きである。そして、その傲慢な独善を「憲法裁判所判決の尊重」をもって包装する「新型法治」を披露している。

4大江事業の問題点も同様である。22兆ウォン(約2兆円)という莫大な予算が配当された同事業は、河川と運河の差や4大江事業のそれぞれの特性を考慮しない、生態工学的にもとんでもない事業である上に(『創批週刊論評』連続企画を参照)、その拙速な推進過程において国家財政法、河川法、環境政策基本法、水資源公社法等の現行法を違反している。このような違法をよく知っていながらも、強く押し進めればよいという態度である。政府が提出した4大江事業の予算案に対する国会審議が始まってもないのに、政府案がそのまま通過されるだろうという仮定の下で、先に工事に着手するという恥知らずも驚きである。総634km区間に達する4大江事業に対する環境影響評価を4ヶ月で終えたというのも到底納得しがたい拙速の証として思われる。違法の手続と政策自体の不実さとが結合されたこの二重の問題を指摘するためにも、メディア法と4大江事業における違法性を徹底的に調べなければならない。

虚位と違法だらけの李明博式「新型法治」は、彼の経済政策と同様、最上位の既得権階層に利点を与えるために、違法や便法も平気に用いる。その反面、龍山惨事にみられるように、一般市民には無慈悲であり、人が死んでも人権蹂躙を反省しない。真の法治が確立された民主主義社会なら、司法部がこのような違法を断罪するであろう。しかし、憲法裁判所のメディア法の判決や龍山惨事訴訟において一方的に検察側の手を挙げた裁判所の判決にみられるように、司法部だけを信じている場合ではない。このような李明博式「新型法治」が維持されるのには、既得権階層の支持とともに、鄭雲燦総理のような教授、知識人、専門家集団の自発的な協調が大役を果たしている。逆にいえば、民主主義を信じる市民各自が協力を拒否する日常的運動に参加することこそが、李明博式の「新型法治」を退治し、それによって汚れていた言語と生活と法の健康性を回復する道である。

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今号の特集「我が時代の文学・言説が問うもの」は、今日韓国文学の現場において登場する核心的な問いを追跡し、検討する4本の論文で構成される。各々の論文は、最近の論争的流れに批判的に介入し、既存の論議の虚実を見分け、新しい論点を提示する。問いの性格や問いを追及する方式がそれぞれ異なるが、4本の論議はすべて抽象的な空論にとどまらないように、詩、小説等の具体的な文学作品に対する批評と結びついている。
白樂晴は、詩の政治性に対する陳恩英の素直な悩みに共感しながら、言語実験を敢行する新しい語法の詩を簡潔であるが、繊細な方法で評する。例えば、白は、この実験詩人らが行う「禅僧」と「特攻隊」のような任務の意義を評価すると同時に、大衆の生活と疎通する大乗の道が必要であることを付け加える。その勉強の一環として、李章旭のモダニティ論議とランシエール(J. Rancière)の芸術体制論を批判的に検討し、一見「易しい」詩の慣れない語法や実験的側面を鋭く指摘する。咸燉均もまた陳恩英と李章旭の論議を受け継ぎ、詩の政治性を論じるが、詩人の政治参加と詩の政治性との間隙は不可避であるかという問いから、詩人の世界と連累なく「詩(の政治性)」の発生は不可能であるかという問いへ進む。ラカン(J. Lacan)とバディウ(A. Badiou)をはじめとする西欧の言説を幅広く参照し、最近の韓国詩の事例を挙げながら、咸は世界との連累を超える剰余と超過の場において詩が発生するという主張を繰り広げる。

白智延は、最近韓国の小説において新しい流れを形成する他者に対する叙事に注目する。同氏は、バトラー(J. Butler)とアレント(H. Arendt)の論議を活用して全成太•孔善玉の小説に登場する他者的経験と越境の叙事を分析し、それが民族、人種、性等の境界を間に置いた憐愍に止まらず、自己省察の契機として作用する点を高く評価する。他者を見る「私」自身も見知らぬ他者であることを認知する省察の瞬間、公共的生活の空間が新しく構成されることができるからである。黃靜雅は、「異邦人」または「外国人」を「他者の倫理」言説の脈絡から論じ、前号で自分の論文を批判した徐東煜の論文に対して再び反論する一方、「普遍主義・メシア主義と法」に関するバディウとアガンベン(G. Agamben)の論議を点検する。異邦人、法、普遍主義という3者の複雑でアイロニーな関係は、セキスピアの「ベニスの商人」についての論議を通して提示されるが、この概念をめぐる既存論議に対する厳しい論評として読まれる。

今号には、文学特集の外にも注目できる評論がもう2本ある。評論家の鄭男泳は登壇40年を迎えた李時英の詩篇を縦横無尽に検討しながら、スピノザの「情動」の詩学に基づいて精緻な批評的詩論を展開する。(李時英)詩の活力がどこから出るのかを、説得力をもって論じる論文であり、最近詩の論議における争点と関連づけても示唆する点が多い。今年創批新人評論賞の受賞者である金伶熙は、陳恩英の詩を細心に読み、詳細に解釈する。今後より充実した批評を期待しながら、お祝いを申し上げる。「文学焦点」欄の新刊の詩と小説に対する論評及び村上春樹の長編『1Q84』についての寸評は、文学評論の豊かさを増してくれる。創作欄も豊富である。高銀詩人から今年の新人詩人賞の受賞者である朱夏林にいたるまで、12人の方が各自の感覚体験で綴った詩を送ってくださった。金炯洙、孫洪奎、尹英秀、イ・パンジャン、金衍洙が布陣した小説欄も、我が時代の叙事の個性的な語法とリズム、幅広いテーマと問題意識を十分見せている。特に、新人小説賞の受賞者であるイ・パンジャンに歓迎の挨拶を、1年間の連載を成功に終えた金衍洙に深く感謝の意を表す。

今号の「対話」は、4・19時代からこれまで40余年を韓国学研究の中心で活動した林熒澤教授と韓基亨、洪錫律という二人の学者が韓国学の成果と発展過程、今後のあり方について、真率に意見を交わす場を設けた。漢文学と国文学の統合問題、東アジア文明に対する識見等の主要事案を広く取り扱う。漢文学と国文学のビジョンを研き、人文学的基礎を立てることに長年悩んだ彼の慧眼と洞察が注目できる。

今号の「論壇と現場」は、主張の明確な4本の論文が載った。金錫澈は、4大江事業の政策立案者と官僚集団が韓半島の空間戦略や4大江に対する認識の不在を批判し、その対案を提示する。4大江ごとに各々異なる豊富な細目の計画については討論の余地があっても、4大江それぞれの特性についての専門家的卓見や人文地理的洞察には耳を傾けなければならない。「統一新羅論」の淵源に関連して尹善泰は、前号の金興圭の批判を真正面から反論する主張を打ち出した。二人の学者間の熾烈な論争は、史料の解釈上の問題だけではなく、史観の問題までを内包する。この論争を契機に植民地近代性論や脱植民主義言説に対する深い討論が続くことを期待する。21世紀「東アジア共同体」に対する坂本義和の構想は、基本発想において平和主義的であり、他の「東アジア共同体」構想が見落とす北朝鮮問題を中心に置くという点において注目できる。木宮正史は、分断体制論の意義を白樂晴の新刊『どこが中道でなぜ変革なのか』に対する書評を兼ねて、詳細に論じる。今年台湾の批判的機関誌である『台湾社会研究』(75号、2009.6)が企画した分断体制論特集号とともに、分断体制論の東アジア的意味を反芻させる異色の読み物である。

これまで文学的争点が占めていた「視線と視線」コーナーに、今号は法学者の金斗植の『不滅の神聖家族』に対する二つの視線を並置させた。社会学者の尹相喆と弁護士の河昇秀は、同書のもつ基本的な美徳を認める上で、司法改革の代案をどのように見つけ出すか熱い討論を行う。2人の論者、そして分量に比べて手間がかかる「寸評」「文化評」欄を豊富に飾ってくださった筆者の皆様にも深くお礼を申し上げる。「新型インフルエンザ」と「新型法治」が横行する恐ろしい時期に、読者の皆様の心身の健康を心よりお祈りする。

 

翻訳:李正連
季刊 創作と批評 2009年 冬号(通卷146号)
2009年 12月1日 発行
発行 株式会社 創批
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