창작과 비평

[卷頭言] 通巻150号を発刊しながら (2010 冬)

白永瑞

 

 
 

季刊『創作と批評』が通巻150号を発刊する。創刊44周年を迎えるのにもかかわらず、150号までしか刊行できなかった事情は改めて説明しなくても多くの読者はご周知であると思われる。我々は今回の記念号の刊行を真摯な省察と再度の自己更新の機会とすることで自ら祝いたい。

これまで創批の成就は、国内外ですでに高い評価を受けたことがあるが、自己更新の必要性を想起させる内外の声も多い。さらに、今は、参与政府(蘆武鉉政権)時期に比べられないほど深刻になっている民主主義の後退、そしてそれと相互作用する分断された韓半島の危機が東アジア秩序の不安定までを激化させる時ではないか。

我々は、創刊40周年を迎えた2006年初、「運動性の回復」を通して機関誌を刷新すると読者に約束した。「自己刷新を経た進歩勢力が制度内外の活動を連動的に進めようとするもの」を運動性の要諦として認識し、「すでに、主流文化の一部になっている『創批』の編集スタッフ自らがまず惰性を捨て、現時代の要求に献身する課題遂行により多くの人々が参加できるように先導したい」と述べた。極めて不安な今日の時代状況は、いつの時代よりも遙かに熾烈な運動性の回復を求めていると、我々は痛感する。

運動性を強化するために、『創批』に対する憂慮と批判を点検し、自分を振り返ることは緊要なことである。まず、各自の趣向に合う専門媒体を好む若い世代の出現と、ブログやツイッターなどの新しい媒体の発展等によって始まった状況変化の中で、『創批』のように総合的知性と全体的展望を重視する紙媒体の雑誌がどれくらい波及力を持つことができるかという憂慮があった。一方では、むしろ『創批』の影響力を重くとらえ、創批が「文化権力」になったと批判する声もある。

前者の問題提起に関して、我々は、一方でオンラインバージョンの創批を運営し、インターネットコラム「創批週刊論評」(weekly.changbi.com)を刊行するなど、インターネット世代に近づけるために努めつつ、他方では新しい媒体を利用しながらも紙の雑誌『創批』を読む必要性を感じる読者をより多く確保することにいっそう力を注いでいる。新媒体の利用有無に関わらず、我が社会には韓半島の具体的現実に対する深層的認識とともに、文学や芸術、科学技術などの様々な分野にわたる総合的な批判意識を提供する知的球心作用に対する渇望があり、誠実に行えば、機関誌を通してもいくらでもそれに応えられるというのが、我々の判断である。

それ故、「権力化」されたという一角の批判はもちろんのこと、創批が怠惰になったり、堕落しないように追及するありがたい鞭として受け入れるが、我々はこれまで創批が積み上げてきた成就に値する影響力そのものを否定的なものとしては考えておらず、むしろ最大限に育てていくために努力したい。実際、創批は保守的主流言論に対抗する立場をとりつつ、そこから疎外されがちであるという点において、依然として非主流の位置にいるのではないか。

事実、6月抗争20周年を迎えた時、ある進歩的日刊紙が下した評価は、軍事政権下で停刊、廃刊、販売禁止処分を経験しつづけながらも、「批判的研究者-文人-著述家グループを一つにまとめた『批判知性クラスター』を形成して維持」し、「唯一市場で成功した批判的知識人メディア」(京鄕新聞、2007.4.30)であるというものであった。またアジアのある批判的雑誌の編集者によって「このグローバル化時代において『創批』は韓国人だけの資産ではなく、全アジア人の資産」(陳光興、40周年記念号)であると、期待されたこともあった。遠い、または近いところで見せてくれたこのような反応は、創批が「変わらないが、日々新しい」姿勢を保とうと努力した結果であると主張したい。時代状況に密着してその日その日の現場に充実するが、いつも長い眼目の視野をともに堅持しようと努力してきた結果でもある。創批は、巨大な言説に冷笑的な一部の態度に対し、巨大言説を無視すれば、自分も知らないうちに他人の巨大言説の虜になる可能性があることを想起させる一方、その都度具体的な情勢に対応して核心要素を探り出し、解いていくことを疎かにした言論的論理も拒否してきた。このような姿勢は、長期的課題と中・短期の課題とを同時に思考しながら、それを一貫した実践へと繋げる取り組みとつながっている。

この取り組みの理論的基盤は、我々の時代認識である。2000年代最初の10年が終わろうとしている今、創批は、韓半島が非常に特異な性格の「統一時代」を迎えているという時代認識を持っている。段階的で漸進的な統一が進められる韓半島式「統一時代」へ進入したため、この時代的特性に符合する総体的改革の実践意志を固めることが、創刊以来守ってきた「創造と抵抗の拠点」としての召名と考える。

李明博政府の出帆以後、南北関係の深刻な悪化を含む「お国治め(ガバナンス)の総体的難局」を、創批は87年体制の末期現象と把握する。1987年6月抗争で始まった民主化への移行は、旧体制を完全に清算した移行ではなく、旧体制との妥協をもとにした移行であり、それが内包した肯定的動力が次第に消尽されるにつれ、様々な社会勢力間に一進一退を重ねる「悪い膠着状態」に至ったが、その末期的症状がより深刻になっているのが今日の状況である。いま韓国は、87年体制よりもよくない、民主主義の退行に順応する破局を迎えるのか、それとも市民参加を画期的に増やす「民主的ガバナンス」を組むのに成功して、分断体制の克服を加速化するのか、という分かれ道に立たされている。

このような厳重な局面において150号以降を見通しながら、創批が40周年以来積み重ねてきた主要な成果を点検し、また今後すべきことを整理したい。

まず、機関誌創刊40周年を記念して始めた事業の一つである「創批週刊論評」は、「機関誌を通して洗練された言説を毎日起こっている事件と対面させ、その説明能力を実践する」ことであるため、より力を注いでいくつもりである。韓米FTA、キャンドル集会、4大江事業、哨戒艦(天安艦)事件など国内の核心懸案に対する論評をはじめ、国内外の様々な分野の争点を密度高く取り扱い、すでに新しい読者層を確保しており、彼らからの幅広い反響を肌で感じている。その主要な内容の一部が毎年『A4用紙2枚で韓国社会を読む』シリーズで刊行されているが、それに対する真摯な反応も大きな激励になる。

これとともに、「運動性の回復」を通して機関誌を刷新する具体的な方案として「創批式言説」の発信と、それをサポートする「創批式文章」の模範を見せたいといった約束を振り返ってみる。その約束はガバナンス危機分析と新自由主義批判から韓半島の代案的発展戦略の提示に至るまで現情勢に熾烈に対応するが、中長期的展望と結合するところにおいてそれなりの成果を見せたと自負する。そのような努力の一環として昨年始めた「創批評言説叢書」刊行作業もいっそう充実に進めたい。

新しい言説と文章が大勢を成すためには、新しい知識体系のパラダイムが必要である。このような判断から我々は150号の発刊を契機に、「創批社会人文学評論賞」を制定することによって、「社会人文学」の具現に寄与したい。社会人文学は自然科学を含め、分科学問の枠を越え、統合的学問を指向する符号である。文学的想像力と現場の実践経験及び人文社会的認識の結合を図る創批の長年の経験が溶け込んだ構想であるが、これを通して脱分科学問的研究と執筆が一層振作されることを望む。この試みが大学内外の核心努力と合わさった時に、既存の学問体制の再編の輪郭が浮き彫りになると信じる。

社会人文学の順調な作動において、文学の役割が大きな動力であることは改めて強調する必要がない。創批は「実に文学らしい文学こそ、人間本然の生活(人生)が求め、時代が求める弁証法的認識の最も充実した表現」であるという認識から、「文学機関誌が人文社会科学の様々な分野の論議を受容することも(…)文学本来の弁証法的性格が自然と実践される過程の一部」であると確信し、そのように実践してきた(「創作と批評を再刊行しながら」、1988年春号)。そこで、機関誌の紙面に優れた創作物を載せるための努力を倍加したのはもちろんのこと、危機の時代に文学とは何かを再び問いながら、文学と時代の相互作用、文学の政治性とリアリズム、実験的な文学と疎通に対する大衆の要求、そして韓国文学と世界の疎通のような重要な論議をリードしてきた。民族文学論以後、創批の文学言説の存在感が薄れてきたという話が一時出回ったりもしたが、実はそうでないということを次第に多くの読者が認めるようになるとみられる。

なお、今年の初めには創批の文学ブログ「窓」(http://blog.changbi.com/lit)も開設した。作家の連載紙面の拡大と良い文学コンテンツをもって、素早く読者と疎通するためである。長編小説または散文の連載以外にも多様な分野を配置させ、たとえ小規模ではあるもの、内実のあるブログで定着しつつある同サイトを多く訪問していただきたい。

 

 

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新しい10年代に移行する現時点において、去る10年間我が文学が収めた成果を振り返り、2010年代の行方を模索することが、今号の特集「2010年代韓国文学のために」である。白樂晴(ペク・ナクチョン)は、1987年6月抗争以後の20余年、より長くは1970年代以来を「我が時代」と把握しているが、去る10年間に集中して詩、小説、批評分野の主要成果を選別的に検討し、韓国文学の「活力と貧困」をバランスのとれた視角からとらえようとしている。2000年代韓国文学のいくつかの事例を、彼が提示した世界的視野で評価することによって、現在の厳然たる貧困にもかかわらず、2010年代韓国文学が世界文学及び東アジア地域文学の一拠点として位置づけられることができるという彼の期待を、読者は共有するようになるであろう。金壽伊は、「自体製作、音を出す箱」という独特の比喩で2010年代の詩の行方をとらえている。「自分自身及び世界と詩の再創造に対する自意識で充電された」若い詩人の詩的企画を批判的に検討し、これを通して今後の詩の更新のための条件を提示する。また李京在は2000年代小説の倫理と政治を「外部との出会い」というキーワードをもって点検する。彼は、外部または他者との出会いという時代的要請を基準として、金薰、金衍洙、朴玟奎等の文学が見せる倫理的省察と政治的責任の様相を細密に比較分析している。

 

本来、特集企画には「フェミニズムと近代性」という視角から去る10年間の文学作品を分析する論文があったが、筆者のやむを得ない事情で載せることができず、非常に残念である。しかし、文学焦点欄に掲載された簡明で鋭利な6編の平文は、創批新人評論賞の受賞者の作品とともに特集を適切に補完している。

 

創作欄では、新鋭小説家6人の短編と元老・中堅・新鋭詩人12人の詩が150号記念特別企画として端然目立つ。また今号で孔善玉の長編小説が感動的な結末で連載を終える。連載3回目を迎える金愛爛の作品も加わり、創作欄はいつよりも豊富である。

 

文学とともに本誌が重視する正論の領域で、最初に目覚める企画はそれぞれ立地の異なる4人の政治家、市民運動家、学者が「2012年」をめぐって交わした虚心坦懐な「対話」である。この座談は、2012年が大きな枠で韓国社会の重大な再編期となるという予感を読者に与えるのに十分である。国民が進歩改革勢力の革新と統合を求めるということが再び確認されただけに、大統領選挙が近付く前の日常的時期に連合政治に対する信頼を構築していけば、進歩改革勢力の共同勝利であると同時に、各自がより大きな勝利を収める結果を挙げることができる。

 

対話で取り上げられた連合政治に対する総論的論議を裏付ける生き生きとした地域現場の体験も盛り込まれている。前号の仁川事例に続き、任根宰が紹介する慶南民主道政協議会の実験は、その外26ヶ所の広域自治体と基礎自治体の多層的経験とともに、2012年を準備する私たちの貴重な資産である。本誌は引き続きその推移を見守りたい。

 

去る10月、政府の哨戒艦(天安艦)の最終報告書の発表にもかかわらず、いやむしろそれによって、「哨戒艦」は大韓民国の常識と合理性を問う国内的な話頭であると同時に、東北アジアの地政学的変化の分水嶺となっている。短いが、正鵠を射る黄俊皓の時評がその構図を、説得力をもって提示する。

 

連中連続企画「韓国史100年をもう一度見る」の最後は、在日史学者である趙景達が飾った。韓国強制併合の今日的意味を問う彼は、規律主義的日本の儒教文化に基盤を置いている日本的近代国家を批判する契機を、教化中心の朝鮮の儒教文化において求める。そして植民地となり、敗北した朝鮮の政治文化において100年後である今の韓国史・東アジア史の方向性を求めようとする。
簡単にしか言及できないので残念であるが、今号で1年間の連載を終える趙光熙の散文と7編の寸評も真心を込めて準備した読み物である。

 

今年、創批新人文学賞の審査委員会は小説部門で崔民錫、詩部門で金宰槿、評論部門で尹仁魯をそれぞれの受賞者として選定した。なお、第4回創批長編小説賞は厳しい競争を経て黄是云が受賞された。今年の白石文学賞を受賞した朴哲詩人にも読者とともにお祝いを申し上げる。最後に、150号の刊行を自ら祝いつつ、読者の皆様に謝恩の意を盛り込んで分厚い記念号とともに創刊号から150号までのすべての目次・索引を別冊付録として用意した。

 

詩人の申庚林は、本誌100号記念祝詩で「我々の明日が見える、百号創批君からは」(「百号創批においては」)と詠った。150号、さらに200号以後にも引き続いて同じ詩が聞こえてくることを心から願う。

 

翻訳・李正連(イ・ジョンヨン)

 

 

季刊 創作と批評 2010年 冬号(通卷150号)
2010年 12月1日 発行

 

発行 株式会社 創批

 

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