[卷頭言] 口蹄疫の災難を迎えて (2011 春)
韓基煜
執権3年目の李明博(イ・ミョンバク)政府が台無しにしてしまったものは社会全般に及び多数に至り、その一つ一つがどれも非常に重大な事案である。比較的に最近の問題としては4大河川事業、総合編成チャンネル(総編)の無差別許可、口蹄疫事態、予算案強行通過、忠清(チュンチョン)地域の科学ベルト公約の白紙化などを挙げることができるのだが、そこには不法と便法、妄言と嘘、非常識と無責任、無能と人のせい、などが浮き彫りになっていた。
口蹄疫事態は政府のこのような無責任・無能・無反省の本能を圧縮して我々に見せてくれる。 口蹄疫が李明博時代に入って大災難へと拡大していったのは決して偶然ではない。今回の口蹄疫は発生してから70日余り経過した2月7日現在、全羅道(チョルラド)と濟州島(チェジュド)を除いた全国69の市・軍・区の153カ所を襲い、その結果、殺処分された家畜の頭数は(牛は全体の飼育頭数の4%、豚は25%が超える)316万頭余りに至っている。これに鳥インフルエンザのため殺処分された鶏と鴨600万羽を加えると被害規模は実に夥しいものとなる。韓国の畜産産業の基盤を崩壊させてしまったと言っても過言ではない。殺処分された家畜は全国4251カ所で埋却されたのだが、春になり土壌が溶けると、腐敗した家畜の体液が土中にしみ出し地下水を汚染したり、堤防を崩壊させる恐れがあり、前例のない環境災害さえも懸念されている。
危機管理の側面からして、当局の初動防疫のミスと安易な対処が大災害を招いた一時的な原因であろう。国際獣医科学検疫院の疫学調査によると、昨年の11月29日に安東(アンドン)で口蹄疫発生が最初に確認された6日前に感染疑いの届け出があった。しかし、政府当局が適切な防疫措置を取らなかったため、口蹄疫のウイルスは京畿道(キョンギド)の坡州(パジュ)地域をはじめとした数カ所の地域に広がったと見られている。その後、四方八方へと拡散する口蹄疫に対するずさんな対処によりワクチン接種の効果的な時期も逃してしまった。2000年の口蹄疫発生の折、金大中(キム・デジュン)元大統領の支持に従って防疫当局が軍との合同により迅速で思い切った初動作戦を繰り広げ、2200頭の殺処分だけで食い止めたことと比較すると、かなり対照的であろう。
李明博大統領は、口蹄疫の発生後40日目に「緊急」関係長官対策会議を開き、50日経ってから現場を訪れるなど、口蹄疫に対する認識は勿論、関心さえもないように思われる。金宗壎(キム・ジョンフン)通商交渉本部長の「喫茶店農民のモラル・ハザード(道徳の崩壊)」発言や尹増鉉(ユン・ジュンヒョン)企画財政部長官の「本人達に泥棒を捕まえる気がない」といった発言などは、まるで農民たちが補償金をもらうために口蹄疫を放置しているかのような言い方であった。流行の言葉で言うと「概念がない」のは大統領も官僚も同じである。
多少でも「概念がある」大統領ならば、このような大災害の真っ最中に、見え見えの改憲論議を持ち出せるはずがない。消耗的な政争と国論分裂を引き起こすに違いない改憲論議を煽るよりも、このような災害を食い止められなかったことに対し国民に謝罪し、これ以上の被害が拡散しないように最善を尽くすべきであろう。現政府の発足当初、検疫主権を放棄した米国産牛肉輸入の拙速な推進により、キャンドル集会を呼び起こした事実を想起すれば、今回こそは心底から「懺悔」すべきである。
牛は安楽死後埋却したが、豚は殆んどが生きたまま埋却したため、その光景は目も当てられないほど悲惨なものであった。牛と豚を我が子のように大切に飼育した農民や生きた家畜を大量殺戮して埋却しなければならない防疫職員は、激しいトラウマに襲われている。防疫現場での過労とストレスによって防疫職員が倒れたり、飼育していた家畜の殺処分に自殺する農民も出てきた。まともな政府ならば、深刻な心的外傷後ストレス障害に襲われている農民や防疫職員への配慮、そして理由も知らず大量殺戮されるしかなかった家畜の霊を供養する措置を行うべきであろう。
罪のない数百万頭の生命を奪いながらも何も感じなければ、我々も政府と然程変わりはない。政府の防疫体系の穴を指摘する一方で我々はもう少し根本的な論議と省察をすべきである。何よりも数百万頭の生きた家畜の殺処分は、畜産農家と防疫当局だけの問題ではなく、いつの間にか西洋人のような肉食中心の食生活に親しんでいる我々全国民の問題であるという事実を直視しなければならない。口蹄疫に感染されやすい密集型工場式の飼育制度とそのような飼育制度を前提とする肉食中心の食生活を変えるための努力が要求されるのではないだろうか。
工場式飼育制度は自然と生命を事物化し、搾取する近代文明の特性が集約されている。このような反生命的な文明のもと、生態親和的で生命持続的な文明へと向かうためには、全ての生命は尊いという事実だけでなく、お互いに繋がっているという発想の転換が必要である。そうして初めて、動物にも品格のある生と意味のある死に対する権利があるという認識が可能となり、現在の度の過ぎた肉食文化と工場式飼育制度から抜け出す糸口が見つかるのではないだろうか。政府のずさんな防疫対策を糾弾するだけでなく、このような根本的な省察が伴ってはじめて口蹄疫の災難によって殺戮された家畜に対する最小限の礼儀を示すことになろう。
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東アジアは1993年の春号の特集以来、本誌の重要関心事の一つであった。今号の特集「再び東アジアを語る」は、中国の浮上と相まって変化と葛藤を体験する東アジア情勢を論議しながらも、「国家主義を乗り越えた東アジア共同体」を目指す言説と連帯の動きに特に注目する。
白永瑞(ペク・ヨンソ)は、本人と創批の主唱してきた東アジア論の軌跡を辿りながら、それが第3世界論をはじめとする韓国思想史の滋養分を摂取すると共に脱分科学問的で実践的な言説として発展してきことを強調する。「二重的な周囲の視覚」「複合国家論」などの核心概念とこれまでの連帯活動の経験を土台として東アジア論と分断体制論の内在的関係を照らし出した彼の文章は、東アジアの系譜と現実的な意義を綿密に整理した論文として注目に値する。朴敏熙(パク・ミンヒ)は、米国と中国の両極体制時代が到来した現実を直視しながらも、その体制がどのように終わるのかは「開かれた質問」として前提し、中国の浮上に対して賢明に対処してゆく方法を問うと同時に、実に実感のわく事例分析を通して韓半島(朝鮮半島)をめぐる米中関係が変化しつつあるにも関わらず、韓国は中国脅威論に陥り、韓米同盟の強化にだけ偏っているのは非常に危険な選択であることを鋭く指摘している。
ガヴァン・マコーマック(Gavan McCormack)は、最近の尖閣(釣魚)諸島の領有権紛争の裏には中国の実力行使と日本の強迫的な過剰反応、そして米国の戦略的曖昧性の絡み合いがあると指摘している。彼は、東アジアの国民国家の合間に位置し歴史的に曖昧な地位を占めている尖閣(釣魚)諸島紛争の解決の糸口を過去の沖縄のような東アジアの架け橋としての役割から模索しようと提案している。孫歌(スン・グー)は、東アジアの「核心現場」としての金門島(チンメンタオ)と沖縄、及び韓半島の持つ含意に注目している。特に岡本惠德や白樂晴(ペク・ナンチョン)などの創意的な論議をもとに民衆に対する新たな理解を引き出し、そのような民主的な視覚から国家の枠を超えた民衆連帯が実現される条件を独創的に書き連ねている。
白樂晴は、南北連合建設を通した分断体制の克服こそが韓半島の国家改造作業と国家主義克服の鍵であり、「国家主義を超える東アジア」の建設の核心となる根拠を提示している。さらに、天安艦事件の真相によって延坪島(ヨンヒョンド)事件が全く違った意味を持つことになるという事実を綿密に分析する一方で、韓半島の悪性の分断国家主義を克服する作業が全ての近代人に要求される近代適応・克服の二重課題とつながっていることを指摘する。
特集において提議された東アジアの国家主義克服問題は「論壇と現場」の錢理群(チェン・リーチーン)の論文でも重要問題として扱われている。彼は、毛沢東時代が残した文化思想的遺産を批判的に検討しながら、中国の浮上と共に一層強化される国家主義と中華中心主義を特に警戒している。そのような流れに巻き込まれやすい世態のもとで彼の見せた正直な自己省察は価値のあるものであろう。林熒澤(イム・ヒョンテク)は、丁若鏞(ジョン・ヤクヨン)の勉強法を例に挙げながら、伝統的な人文概念が文明意識と直結しており、実用と科学を包括する総体的な性格を有することを指摘している。彼は現在の「人文学の危機意識は「文明的な転換」の時代を反映した心霊現象」であるため、人文学の総体性を回復しようという努力が容易ではないからと言って諦めるわけにはいかないと力説する。本誌はそのような努力の一環として林熒澤の論文を筆頭に「社会人文学」の連続企画を試みる予定なので期待していただきたい。李明博政府と参与政府のエネルギー政策の功過を問い質しながら、長期的な観点においてエネルギー計画の至急性を主張する李必烈(イ・ピルヨル)の論文も一読を薦めたい。
白池雲(ペク・ジフン)、沈眞卿(シム・ジンギョン)、李玄雨(イ・ヒョンウ)、金英姬(キム・ヨンヒ)の参加した「対話」は本誌の2007年度冬号の世界文学特集の論議に引き続き、それ以降新たに提議された言説上の争点を点検し、近頃、韓国文学との交流が活発である中国と日本の小説についての討論を行いながら東アジアの地域文学の可能性を打診する。参加者たちは近頃、世界文学言説が浮上する背景から出発し、世界文学の多数の概念(特に「ゲーテ-マルクス的企画」としての世界文学の概念)、韓国文学(民族文学)と世界文学との関係、村上春樹現象などに関して率直な対話を試みる。作品討論では、主に中国小説の豊かな叙事性と活気に比べ、韓国小説は叙事性が弱く、抽象的という評価がなされたが、韓中日文学の特性に関しては今後も多くの論議が必要であると思われる。
今号の「詩」欄では11人の詩人が個性的な詩の世界を繰り広げており、同じく小説においても李施帛(イ・シベク)と白佳欽(ペク・カフム)が優れた短編の腕前を披露してくれる。初回から注目を浴びている金愛爛(キム・エラン)の長編小説は今号を以って最終回を迎える。成功的な長編連載を終える作家にお祝いの言葉と感謝の意を伝えたい。
今号から新設された「作家照明」コーナーでは、近頃、作品集『ダブル』を出版した小説家の朴玟奎(パク・ミンギュ)を招待する。黃靜雅(ファン・ジョン)のインタビューと曺淵正(ジョ・ヨンジョン)の作品論は、今回の小説集の特徴をとらえ、彼の独特な文学世界を鋭く照らし出す。今後も注目すべき小説家や詩人を招待する予定なので、期待していただきたい。さらに、新進の詩人4人の詩語の奥深くまで覘き、その独特の語法を理解しやすく解釈してくれる宋鐘元(ソン・ジョンウォン)の「文学評論」は、韓国詩の先端が目指す方向を示してくれる今号の読み物である。
全て紹介はできないが、「文学フォーカス」、「寸評」、「文化評」の筆者の方々にも深く感謝の意を表したい。今年9回目を迎える大山(デサン)大学文学賞の受賞者の方々は、韓国文学の未来を担う希望である。彼らの受賞作を読み、応援していただきたい。最後に前回の150号記念号に対する多大な声援に心より感謝の言葉を述べながら、読者の皆様と共に爽やかな新春を迎えたいと思う。
翻訳・申銀兒(シン・ウンア)
季刊 創作と批評 2011年 春号(通卷151号)
2011年 3月1日 発行
413-756, Korea