창작과 비평

「ブルドーザー」なき地域活性化

2011年 秋号(通卷153号)

 

特輯 | 「李明博(イ・ミョンバク)以後」を準備して

 

 

柳時珠(ユ・シジュ)
希望製作所所長。著書に『我々はより多くの民主主義を求める』(共著)、『逆から読むギリシャ・ローマ神話』、訳書に『米国史に投げかける問い』などがある。ysj@makehope.org

 

 


1.「地域」の登場

 

ここ10年のあいだに韓国社会で重要な国家的アジェンダとして新たに浮かんできたもののひとつが地域問題だ。そうなったところには大きく二つの原因あるいは流れが作用したと思われる。第一の理由は、言うまでもなく地域問題そのものが本当に重大な国家的事案となったためである。韓国社会は似たような発展段階にいる他国と比べてみても、前例のないほどに深刻な首都圏集中と地域間不均衡の問題を抱えている。首都圏の面積は国土の約12%に過ぎないのに人口の約半数がここに居住しており、地域総生産の48%、製造業の50.5%、金融預金の65.1%、公共機関の79%を首都圏が占めている 。 統計庁の資料(2010年)を利用して算出した数値である。公共機関占有率は2011年広域自治体別公共機関本社入居現況資料を根拠とした。 統計数値をわざわざ引用することが食傷気味なほどに、誰もがこの奇異だといえるほどの現実について良く知っている。首都圏は過密によって苦しみ、非首都圏は欠乏によって苦しんでいる。このことが長期的に国家発展を阻害するだろうことも、常識があれば誰にでもわかることだ。そう考えると、2000年代に入ってようやく「地域」が国家的アジェンダの場に本格的に登場したことの方がむしろ異常である。

他方、地域理論や地域開発政策をめぐる世界的潮流も少なからず影響を与えた。我々よりも先に都市問題や地域格差問題を経験したヨーロッパとアメリカでは、90年代に入ってから既存の地域発展理論に対する批判的問題意識が政治学、経済学、地理学、社会学など、さまざまな分野で多様に提起された。理論のルーツとコンテクストは分野ごとに異なるが、このような問題意識は地域研究と連携しながら一定の方向に収れんされた。地域開発施策の観点と方法に大きな変化をもたらしたこの流れの要点は、地域こそ経済および社会生活の基本単位であり、地域発展は当然にして国家発展の原動力であるというものである 。 一部ではこの流れが地域の自律性と地域間連携を強調した19世紀末のヨーロッパやアメリカの地域主義の理論的系譜を引き継いでいるとの見方から、新地域主義(new regionalism)と呼ばれてもいる。 自由市場と国民国家の境界を前提とした既存の地域発展理論において、地域は市場と国家を構成する下部空間かつ発展させるべき対象であり、地域の発展は国民経済の発展の結果と位置づけられていた。しかし、新たな理論ではその関係が覆され、地域は自らの発展を追求していく能動的主体であるのみならず、それを通じて国家経済力が創出されると主張される。このような流れは90年代以降、急速に進展したグローバル化とも密接に連関している。グローバル化は世界を単一の市場にしたうえで、国家の力と国家間の経済を弱めた。世界が一つの市場となることで国家は相対的に局地化され、これによって国境を越える国際分業構造が形成され、都市と地域が経済活動単位として新たに意味付けられていったのである。地域そのものを発展の主体と見做すことで、この新たな流れに立脚した地域開発政策は、地域の能動的なコミットメントと自立、地域内資源を動力とする内生的発展を強調する。現在、ヨーロッパ各国やEU、OECDが提起する地域開発関連の報告書のほとんどが、上記のような立場をとっている。

辞書的な定義によれば、地域とは「同質的な特徴をもつ空間領域」のことである。もちろん「同質的な特徴」は、自然的・人文的・政治的・機能的などさまざまな基準で分類できるだろう。「人々が共同体をなして暮らしている地域的・行政的区分単位であり、住民の日常生活が営まれる生の場」という生活感覚にもとづいた説明もある。学界では「国家の下位空間単位であり、独特な物的・文化的特性をもつ地理的範域」という定義がもっともよく使われている。

一時、地域運動家のあいだでは「『地方』という言葉は使わないようにしよう」という話がされていた。ソウルも一つの地方に過ぎないのに、実際にはソウル、さらには首都圏以外の地域を「地方」と呼ぶことは、政治的に正しくないという理由からだった。辞書的定義に従うのなら、大韓民国のあらゆる地域がそれぞれの独特さと同質性を帯びた均質な空間である。しかし現実はそうではない。地方という言葉の使われ方からわかるように、ソウル(あるいは首都圏)と残りの地域とのあいだには、強い序列と位階が存在する。本稿では「地域」問題や「地域」の活性化という場合、それは歴史的・政治経済的・社会的に中央と同等ではない、雇用がなく人々が去っていくような、中央に従属し依存する地域を指すこととする 。 「地域」の範囲を多少狭く限定する理由は、本稿の限界に関連している。筆者の属する希望製作所は主に村や郡単位、広域市の自治区とともに活動することが多い。また、希望製作所は具体的な現場で実事求是の力量を育てることに重点を置いているため、観点の幅がそれほど広い方ではない。しかしその限界をきちんと認識したうえで、希望製作所がよって立つ場から見えること、感じられることを率直に出すことにもそれなりの意味があると考える。

 

2.地域発展戦略の転換

 

<外発的発展と内生的発展>


現在の深刻な地域間不均衡は、知られているように、国家主導の経済開発期にその根をもっている。朴正熙(パク・チョンヒ)政権は首都圏を中心に工業化し、その成長拠点都市に財源を集中投資することで圧縮的成長を図った。経済的効率性を基準に、それに合った条件をもつ地域を選んで産業団地を育成する方法は、地域政策とは何の関係もなく、国家が立案した開発計画を推進するために地域を選択的に徴発し動員した産業立地戦略だった。大都市への過度な集中とともに、首都圏と非首都圏、都市と農漁村、嶺南と湖南〔嶺南は慶尚道の、湖南は全羅道の別名〕間の不均衡な発展は全てこの時期に始まったものである。

このような格差は、韓国経済が開放され脱工業化したことでさらに深刻化し、90年代に入ると、とうとう社会的葛藤と政治的争点として表面化しはじめた。80年代後半からこれへの対策として奥地や島嶼といった発展の遅れた地域を開発する事業 島嶼開発促進法(1986)により島嶼総合開発事業、奥地開発促進法(1988)により奥地総合開発事業、地域均衡開発および地方中小企業育成に関する法律(1996)により開発促進地区事業が推進された。 が推進されたが、主に医療福祉施設や道路建設、住宅改良など、定住条件を改善するというもので、「地域をなだめる政策」に近かった。

この時期、発展の遅れた地域を開発する事業は、土建事業が中心だった点のほかにも、韓国型地域開発事業が抱えている様々な問題点の原型をそのままに見せている。事業は地域でなされるが、決定権は全的に中央政府にある。事業対象地の選定も中央政府がおこない、基本計画を策定して下ろすのも中央の政治家、公務員、専門家である。開発というのも、地域的特性を考慮することなく全国で同じ。また、中央の幾つかの部署が似たような事業を重複して推進し、予算を浪費する。他方で地域は中央から予算と事業を獲得するために必死になり、運よく予算が回って来れば中央から降りてきた計画に合わせて事業を進める。自分で計画を立てる機会など得ることもできず、そんな力量も足りないので、執行過程で地域の特性を活かした案を試みようとしても権限がない。事業が終わってみれば端正な施設だけが残り、持続的な発展を可能にする所得基盤や自生力は形成されない。となると、再び支援事業に頼るしかなくなる。このような悪循環の根底には「地域は遅れた場で、発展のためには外から資源を投入するしかない」という固定観念がとぐろを巻いている。これがよく言う「外発的発展」のフレームであり、サイクルなのである。

1990年代になって、村づくり運動をはじめとして地域に根差した草の根運動が多様なかたちで展開され、政治的には地方自治制の実施によって自治と分権の要求が組織されたことで、外発的地域開発政策への批判的問題意識が広がり始めた。自治分権運動が地域の自己決定権を強化する制度改善を要求した一方で、地域運動側は地域内で資源を探し出して、地域主導で推進し、事業の成果を地域内で循環させられるような「内生的発展」を地域活性化のオルタナティブとして提示した。

<参与政府の華麗なる里程標>

2003年の参与政府〔盧武鉉政権〕の発足は、内生的地域発展言説の拡散に大きく影響した。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領をはじめとして自治分権運動に携わっていた人物が政権の革新勢力となったことで、参与政府は「地方分権と国家均衡発展」を12大革新国政課題の一つとして宣言した 。 国民の政府〔金大中政権のこと〕時に以前の地域政策に比べて質的に進展した政策が樹立されはしたが、政策の最優先順位がIMF経済危機の克服にあったうえに、当初の企画もそれほど画期的だとか総合的ではなく、特別に意味ある成果を出すことはできなかった。青瓦台〔大統領官邸〕秘書室に地域均衡発展企画団が設置され、地域産業振興計画にもとづいてテクノパーク造成、地域技術革新センター設立、地域振興事業などが推進された。地域振興財団については、初めは大邱の石油産業、釜山の靴産業、慶南の機械産業、光州の光産業から始まり、後には13の広域都市へと拡大された。 少なくとも地域政策に関する限り、参与政府は政策アジェンダにおいても、政策方向においても、韓国社会をそれ以前と以後に分けることができるほど重大な転換を試みたと言える。

盧武鉉大統領は就任あいさつで、「地方分権と国家均衡発展を、非常な決意をもって推進していく」との意志を明らかにし、以降、地方分権、国家均衡発展、行政首都建設と首都圏機能の地方分散の三つを軸として緊密な相互連関をもつ総合的な政策プログラムを実施した。

参与政府の地域政策は、少なくとも方向の面では国内外で提起されていた問題意識をかなり高い水準で収れんしたものだった。地方分権においては、単純に権限を地方に分け与えるというレベルではなく、既存の中央集権的国家運営に代わる新たな分権型国家運営システムをつくるレベルへと「分権」を格上げした。長い間、依存的な存在として中央の恩恵に頼ってきた地域に、市民権を付与したというわけだ。また、国家均衡発展においては、地域内部で革新力量を創出し強化することで地域活性化を図る「自立型地方化」を打ち立てたのだが、これは地域運動が根強く主張してきたことだった。

しかし、参与政府の地域政策は派手な里程標に比べて、開発主義政策と一線を画す成果をあげることはできなかった。地域均衡発展は長期にわたって政策的一貫性を維持して推進してこそ成果を出すことができるだけに、まだ評価を確定するには早いという見解もあるが、「均衡」によって飾り立てられた「新開発主義」「新成長主義」に過ぎないという批判もある。これは、政策の中心軸だった分権と均衡発展、首都圏機能の分散のうち、分散政策、すなわち行政中心複合都市の建設や公共機関の移転、核心都市・企業都市の建設に重点が偏り過ぎた結果だと評価できる。均衡発展政策のなかでも地域の協力ネットワークの形成を支援したり、知識・技術・文化資源の発掘を促進するという良いプログラムもあったが、その推進の仕方はやはり現場の活動家たちから既存の上意下達式支援事業と大差ないと批判された 。 チェ・シヨン「誰のための『住みやすい地域づくり』か?」『都市と貧困』81号、韓国都市研究所、2006年。 全体的に、開発主義と成長連合(growth coalition)が強力に温存されており、内生的発展を駆動する地域内部の力量が至極弱かったという現実において、政策の趣旨と方向を細かな事業に具現できるだけの政策手段と執行能力に欠けていたと言える。

<李明博政府も反転できないこと>

李明博(イ・ミョンバク)政権は、参与政府の地域政策を「算術的・結果的均衡に執着したあまり実質的地域発展と国家競争力への連携に限界」があったと批判し、参与政府との差別化を推進した 。 崔相哲「MB政府の国家均衡発展の方向と戦略」国家均衡発展委員会、2008年。 「均衡」「革新」といった参与政府の語彙を追放し 、 国家均衡発展委員会は地域発展委員会に、均衡発展特別会計は広域・地域発展特別会計に、地域革新協議会は地域発展委員会に変わった。「持続可能性」という用語も、ほとんど緑の成長に置き換えられた。 競争と効率性を基本原則として立てたこと以外に、政策上の最大の違いは、地域発展の基本空間単位を5+2広域経済圏に設定したこと 、 5つの広域経済圏(首都圏、忠清圏、湖南圏、大慶圏、東南圏)+2つの特別広域経済圏(江原特別経済圏、済州特別経済圏)。 これによって首都圏を非首都圏の対立項ではなく五大広域圏の一つとして、その特権的位相を薄め、首都圏に対して規制緩和を試みるものであった。もちろん、地域政策の優先順位も低くなり、参与政府時には国家均衡発展委員会で扱われた首都圏関連政策を、国家競争力強化委員会の担当に移し、規制緩和を試みている。30大先導プロジェクト   5+2広域経済圏活性化戦略の軸となる事業として広域経済圏に5年間で50兆ウォンを投入し、30の大型投資事業を先導プロジェクトとして推進しようとする計画である。や水辺地域開発といった土建事業を新たに立案し、地域革新力量強化の予算を削減した。

しかし李明博政権の地域政策を詳細に検討すると、意外な事実がわかる。国政全般にわたる新自由主義的観点が地域政策にも当然に溶け込んではいるが、地域発展に関するここ10年間の進展を完全に逆転させることはできないという点である。たとえば、李明博政権の地域政策を総合的にまとめた『MB政府の国家均衡発展の方向と戦略』には、「地域の競争力が国家の競争力」であるとか「地域の与件と特性をもとに特化した地域発展を追求」せねばならないとか、「地方分権・自律をつうじた地域主導の発展体制への転換」をするべきとかいうような、参与政府の地域政策と違わない主張が並んでいる。この事実は、洪哲(ホン・チョル)地域発展委員会二期委員長のインタビューを見ると、より明らかである 。 「地域政策の核心は連携と協力……葛藤解消は分権で」『ハンギョレ』2011年7月5日。 彼は常日頃、地域が自らの内生的発展を強調してきたと主張しているが、市・道研究院で「コミュニティーセンターを建て、研究センターを設立するというようなハード面だけでなく、もっとソフトな方」、たとえば「裏通りをどのように整備するのか、地域の歴史や文化など固有の資産をどのように活用するのか」を研究すべきと語っている。また、内生的発展のためには「市・道研究院と公務員、地域の大学、市民団体間の協力が重要だ」と強調している。

四大河川事業のような大きな「ブルドーザー」から緑の成長事業といった小さな「シャベル」に至るまで李明博政府が韓国社会を開発主義へと退行させたことについては、すでに多くの批判があるので屋上屋を架す必要もないだろう。しかし、そのような李明博政府も地域の自律性と権限、自己革新力量を高めることが内生的発展をなす道であることを否定することはできなかった。それは、李明博政府が民主主義を深刻なまでに後退させてはいるが、民主化以前には戻れないのと同じ道理である。首都圏の規制緩和が地域の強力な抵抗に遭っていることからもわかるように、地域活性化は不可逆の地点に置かれている切迫した当為である。

 

3.「政府の領分」と「市民の領分」

 

参与政府の地域政策の評価については、総論においては分権と均衡を標榜しているが各論は未だ土木や建設に偏った政策であると多くの人が批判してきた。もう少しソフトに言い換えれば、「新しくて狭い道に入ったはいいが、どこかで道を外れて昔の道へと戻ってしまった」   鄭建和「地域政策、壮大な始まりとお粗末な結実」韓半島社会経済研究会編『盧武鉉時代の挫折』創批、2008年。というわけだ。なぜそうなったのだろうか? 参与政府が根本的に李明博政府と同じく開発主義的だったり、あるいは無能だったのだろうか? とすれば開発主義的でなく有能な政府はどうしたら作られるのだろうか? 政治エリートたちはすげ変えたとしても政策を執行する専門官僚集団はどうすべきか?

地域問題には地方自治や地方分権といった制度的・構造的問題、地域間不均衡を抱え続けさせた政治経済的・社会文化的・歴史的葛藤のタネ、そのなかで生きてきたさまざまな行為主体の行為様式、草の根民主主義の現実などが複雑に絡み合っている。市民団体に基盤を置く組織であることを自任し、地域活性化を主要な課題として多様な仕方で地域の現場と出会ってきた希望製作所の一員として、筆者は、参与政府であれ李明博政府であれ、当局を批判することにとどまるのは恥ずかしくもあり、無責任でもあると思う。地域を活かすためには「政府の領分」があり「市民の領分」がある。地域を活かす力量の源泉は「市民の領分」から湧き出て来る。そして、そのような力量は現場での多様な試みと実験、時には成功、時には失敗の試行錯誤を経てこそつくりだされる。

参与政府は自立型地方化を推進する動力として「地域革新システム」を立案し、市道別、基礎自治体別に地域革新協議会を構成した。地域内の政府、大学、企業、NGO、メディア、研究所など、多様な主体が協力体系をつくって、研究開発、技術革新、新産業の創出、行政制度の改革、地域資産の発掘、文化活動、住民参加など、いろいろな分野で相互作用し協力することで地域発展の中心役割をしようというものであった。その一環として、地方の大学を支援する事業をはじめとして、多様な革新力量強化事業が進められた。しかし、これもまた注目すべき成果を出すことはできなかった。力量とネットワークは、数年のうちにサッサとできるわけがないからだ。

地域を活かす主体的力量は、その切迫性に比べてまだ弱い。自治体長は未だに中央から建設予算を引き出すことに主な関心を向けているし「地域住民がそれを望んでいる」と弁明する。実際、多くの地域住民が「私たちも一度汚染されてみたい」と口にするほど、開発主義に閉じ込められている。たいがいの公務員は「住民は主体性を見せずに要求ばかりする」とか「私たちに何の権限があるのか」と嘆息し、まだ意欲のある団体長や公務員までもが「変化させようとしてもそれができる意志と能力のある人がいない」   イ・ウォンジェ「地域活性化のキーワードは『知識』と『人』」『地域リーダー』2009年3~4月号。と吐露する。以前に比べて顕著に力を失った地方国立大学の位相が語っているように、能力のある人材は地域に残ろうとはしない。知識基盤経済とは言うが、地域は知識基盤そのものが危機に晒されている。地域企業は資金や広報、流通の面で困難な状況にあり、地域の市民団体や活動家は劣悪な条件下で働いているため、団体の枠を越えて幅広い展望を開いていく余力がない。要するに、内生的発展を押し進めていくコンテンツもなければ、人もいないのである。地域の有力者集団は、この隙に根を張って温存する。地方自治や分権に反対する勢力は、こうした現実を事挙げて「自治力量が足りないので分権は時期尚早」との論理を繰り広げる。

この現実を変えるためには、それぞれの役割がある。地域の自己決定権強化、住民参加の経路の拡大、自治財政の拡充、地方大学をはじめとする知識基盤の育成など、新たなコンテンツを発掘し、人々を育てることのできる政策的環境をつくることは「政府の領分」である。市民社会はこれを根強く促し、必要な時には監視・批判しながら協力し、参画せねばならない。それとともに、否、その役割を果たしていくためにも、地域の現場で内生的発展を押し進めていく「源泉力量」を育てねばならない。地方自治と地域発展の主体は地域住民であるという言葉を真に信じるのなら、すなわち地域住民の力量が地域の革新を可能にする根源的な力であることを信じるなら、その根源の力を育てることこそ「市民の領分」である。

私たちは、支援が途絶えれば事業も中断されるとして中央の支援事業を批判しがちだし、実際にもそのようなケースが多いが、地域に準備された力量があれば、それが内生的発展へと転換する線路変更の契機となりうる。たとえば舒川郡〔忠清南道の郡〕がその可能性を示している 。   宋斗範「舒川 政府代案事業の意義と地域共同体事業の展望」忠清発展研究院、2011年。

舒川郡は長項干潟を埋め立てて国家産業団地を造成する計画をめぐって葛藤が生じ、この計画を中止して生態都市への転換を選択したことで有名である。現在、中央政府との協約に基づいて国立生態園、国立海洋生物資源館が建立中であり、長項国家生態産業団地の造成も立案されている。注目すべきは(外部支援で建設されたハードウェア事業である)「この事業が創出した付加価値が地域内に帰属し、地域住民の安定した雇用増大に寄与し、地域内の別の支援と連携して、他の分野の成長を促すことで、循環と共生の地域づくりの土台につながりうる方案」として構想され推進されている数々の施策である。

舒川郡では現在、中央政府が支援するさまざまな地域共同体事業 中央政府の部署別に見ると、雇用労働部の「社会的企業」、行政安全部の「村企業」、農林水産食品部の「農漁村共同体会社」、知識経済部の「コミュニティ・ビジネス」、女性家族部の「農村女性雇用事業」などがある。 が進められているが、まずこれを生態団地と連携させる方案を準備している。共同体事業への共感を引き出すために地域住民の学習サークルを奨励し、数十個のサークルが運営されており、地域内の農漁業法人、自活共同体、民間非営利団体、婦女会・セマウル会、青年会といった自生組織などの力量強化を支援してネットワークを構築する一方、これらとともに民宿や食堂、記念品、景観づくり、観光ガイドの人材、動物用飼料、地域ツアー、施設管理、ローカルフードなど、今後、生態団地と関連づけて事業化できそうな資源を発掘している。忠清南道が忠南発展研究院と協約を結び、社会的経済支援センターを設立・運営し、道議会が社会的経済研究会を構成して地域内の大学、民間団体、活動家などと協力しており、事業推進環境も良好な方である。

「政府の領分」すなわち制度と政策は、それを地域の具体的現実のなかで作動可能なチャンネルやプログラムへと変化させる「市民の領分」がなければ、単なる張り子の虎にも等しい。その点で、中央の市民社会団体と同じく、地域の市民社会団体にも自己革新が必要だ。「市民社会団体」を「市民運動団体」と同一視するほどに、韓国社会ではこれまで批判と監視を主たる活動とするイッシュー主導型市民運動団体が市民社会を過剰に代表してきたといえる 。  市民社会団体(CSO, civil society organization)はNGOの一部で、NGOはそもそも福祉機関、教育機関、宗教団体、各種の自生組織や利益団体を包括した広い概念である。 市民運動団体は「暴露、批判と監視、『影響の政治』による『審判者』としての役割」を重視し、「社会ビジョンを提示し具体化する『問題解決者』としての役割」の面では弱かった。そのため、住民との接触や共感、交流が不足し、地域ガバナンス(local governance)に積極的に参加しようとする団体に対しては原理原則に立脚して厳しく批判し、特に地域経済の懸案を解決することについては無知であったり無関心だとも批判されてきた。しかし最近になって、このような流れにも重要な変化が生じていると思われる。たとえば環境運動では、村と地域に根差して「住民とやりとりして生活上の要求を把握して問題化することで、空間と意識を生態化するマトリクスとしての環境運動」を新たなビジョンとして強調しており、地域の市民運動団体とも「もう少し住民のなかに入って住民を市民運動の主体にしていくための」模索や転換を試みている 。  この段落の引用は全て市民社会団体連帯会議創立10周年記念シンポジウム「市民運動、これまでの10年と今後の10年」資料集、2011年6月9日

また他方で、地域に密着して住民とともに日常的な生活の問題を扱ってきた草の根団体は、これまでの活動を通じて、意味のある進展をしてきた 。   これらの団体とその活動内容については、市民社会団体連帯会議が草の根運動を強化するために制定した「草の根市民運動賞」(2003~2008年)の受賞事例を参照のこと。まだ相対的に資源が豊かな大都市の庶民地域と中小都市が中心ではあるが、その成果を土台にしてより発展の遅い地域へと経験や事例が共有されていくだろう。

 

4.「ブルドーザー」なき地域活性化のために

 

地域を変える根源的な力、源泉的力量は、最も底辺で苦闘する原始的蓄積の時間を必要とする。幸いにもすでにそのような努力が積み重ねられており、ブルドーザーなき地域活性化のために私たちが何をすべきかを語ってくれている。希望製作所の直接的・間接的な経験を頼りに、私なりにその方向を整理してみよう。

<共同体性と地方性の回復>

地域運動が住民の参加を拡大するためにおこなってきたさまざまな活動のなかでも、共同体性を回復することに焦点を当てた代表的なものが村づくり運動である。村という最も小さな単位に住民が参加し、村を活かす代案を試み、その過程で地域に固有な自然、歴史、文化に対する愛着を呼び起こすことで共同体性を高める運動だと言える。清州(チョンジュ)ユッコリ市場、水原(スウォン)モッコル市場のような寂れつつある商店街や住宅地域を活性化させる試みや、統栄(トンヨン)のトンピラン村、仁川(インチョン)のペダリ村など文化的媒介を活用した事例、南漢山初等学校や楊平洗月初等学校のように学校を中心に共同体を復元したこともあれば、光州の緑の道育てよう運動のように放置された空間を住民が憩いの場にしたり共同体の空間にしたりもしている。これらの運動は、主に農村や中小都市で行われているが、小さな育児共同体から出発して生活協同組合、フリースクール、コミュニティ・ラジオ、コミュニティ映画館、カフェや食堂、介護ネットワークに至るまで、広範囲な地域ネットワークとして発展したソンミ山村のように、大都市でも注目に値する成果を出した事例もある 。   ユ・チャンボク「都市のなかの村共同体運動の形成と展開に関する事例研究――ソンミ山村の人々の村づくり」聖公会大学校NGO大学院、2009年。

いろいろなところで素晴らしい成果が積み重なることで、関連団体同士のネットワークが形成され、最近では自治体との協力体系も作られて、安山と江陵、大邱中区に村づくり支援センターが設立された。また、村づくりのメッカとなった全羅北道の鎮安郡では、毎年全国から活動家と住民が集まって経験や事例を共有し、より広いビジョンと協力体系を議論する村づくり祭りを開いている。

共同体性の土台となるのは地方性である。地方性を活かすためには、地域の固有な資源を発掘せねばならない。歴史、文化、自然、景観、慣習、気候、人物、食物、産業遺産など、あらゆるものが資源となりうる。

<地域社会教育と人材育成>

地域住民に対して、村単位の小さな問題まで政府に解決をお願いするのは「権利要求型」だとか、「変化の主体ではなく利害関係者」であると言って懐疑的な視線を送ったりすることがよくある。しかしそれは、長い間参加の機会を封じられ、開発主義以外の代案を経験したことがないためである。村づくりに参加したある住民リーダーは、隣近所の住民を説得して参加させるために最も効果的な手段が見学だったと言った 。 「『村づくり事業1年』点検座談会」『ソウル新聞』2007年12月10日。 他の方法が可能だということを見るだけでも、彼らは変わる。住民の開発主義的欲求の本質は地域発展に対する願いであり、ただ正しい表現を得ることができずにいただけである。住民自治委員や里長〔里は日本の村ほどに該当する行政単位〕といった地域の公共リーダー、公務員のための教育も必要だ。義務として受ける陳腐な教育ではなく、市民社会の観点と問題を理解し協力を促す内容を開発せねばならない。

地域の活動家にも新しい流れと方法論に触れ、力量を育てていくことのできる教育が切実である。しかし、地域にはこれを担う人材がほとんどおらず、ソウルから多くの講師が出張しているのが実情である。これに関しては、大学の猛省を促したい。地域の知的基盤の拠点としての大学には、地域の実情と要求に合わせた多様な社会教育プログラムを開発する責任がある。日本の多くの地域大学は、自治体と協力して中間支援組織や地域活動家のための地域密着型教育プログラムや専攻学科を運営している 。   コミュニティ・ビジネス関連の課程や学科を運営している学校として宮城大学、滋賀県立大学、横浜国立大学、首都大学東京、立教大学などがある。 大学が決心さえすれば、小さくは教育空間の提供を手始めに、現場の事情、住民の要求や特性に明るい地域団体の活動家と連携して多様なテーマの教育プログラムと講師プールをつくりだすことができる。

地域活動家への支援も切に求められる。現在、各地域には長い間献身的に活動してきたリーダーがいる。彼ら・彼女らは政府の支援とは無関係に独自に成長してきた。しかし少ない人数に十分な事務室もなく、きちんとした生活もままならないほどの給料で働いている。耐えられなくなって活動から離れる場合も少なくない。彼ら・彼女らを支援して活かさねばならない。また、地域出身の若者や退職者など、潜在的な人的資源を故郷に呼び寄せることも非常に重要である。彼ら・彼女らが帰郷して地域のために働くことのできるクリエイティブな方案について真摯に考えるべきであろう。たとえば、希望製作所では帰農や帰村、帰郷を希望する中年層の社会人や退職者のための帰農帰村コミュニティ・ビジネス(CB, community business)アカデミーを開き、現在、何人かが村づくりの現場でインターンとして働いている。

<地域循環経済・社会的経済づくり>

地域に企業を誘致して雇用や所得を引き上げる方法は、もう限界に達している。伝統的な製造業の雇用誘発効果はどんどん低くなっているし、大企業の支配構造のためにお金は回り回って結局中央へと流れ込んでしまう。地域内で消費と供給が循環するような基盤をつくりださねばならない。郷土の小企業や地域の中小企業を活性化させることで、協同組合やコミュニティ・ビジネス、社会的企業といった社会的経済を広げていくべきであろう。協同組合の都市として有名になりつつある原州(ウォンジュ)市では、17か所の協同組合と5か所の社会的企業が原州協同社会ネットワークを構築し、同市の人口の1割近くが協同組合に加入している。生産者と消費者を結ぶ生協も、四大生協のハンサルリム、アイクプ、トゥレ、女性民友会生協を全て合わせれば2010年現在で総売り上げ額が6000億ウォン、組合員数は45万人に達するほど成長した。アイクプ生協は数年前から槐山(ケサン)に生協クラスターを造成しはじめた。玉川(オクチョン)農協や利川(イチョン)のトドゥラム養豚協同組合のように、地域における農協の本来の役割を取り戻した場所もある。最近広まっているローカルフード運動も、循環経済の好例だ。ただ、コミュニティ・ビジネスの場合、市民社会が地域の活性化の一つとして採り入れたものを政府が短期的な雇用創出目的と受け取り、憂慮すべき状況になっている。村企業(行政安全部)、農漁村共同体会社(農林水産食品部)、地域型社会的企業(雇用労働部)、CB師範事業(知識経済部)など、幾つかの部署が地域の力量と特性を考えずに、共同体の復元や地域の課題を解決するというコミュニティ・ビジネス固有の趣旨を無視して、何年のうちに何か所を育成するといった成果主義的なやり方で財源を投入しているのである。

<地域財団と中間支援機関>

地域活性化は少なくとも10年ほどの長期的なビジョンをもって根強く推進してこそ成果を出すことができる。しかしながら政府や自治体に財政を依存していると、支援が終われば事業も中断してしまう。この限界を越えるためには、市民社会内部で安定した財政基盤を確保しておかねばならない。その有力な方法が地域財団である。地域財団とは、寄付金を集めて財団を設立し、地域の非営利団体や市民団体の公益的なプロジェクトを広範に支援する組織である。1914年にアメリカのオハイオ州でつくられたクリーブランド財団が、最初のコミュニティ財団として知られているが、現在アメリカには700以上、カナダには140、ドイツには84、イギリスには57のコミュニティ財団がある。地域住民だけでなくその地域の出身人物や地域企業などからの寄付金を助成する。現在、韓国にも天安(チョナン)草の根希望財団、金海(キメ)生命分かち合い財団、城南(ソンナム)地域財団、富川(プチョン)希望財団、安山(アンサン)希望財団などのコミュニティ財団があるが、公益活動を支援する天安草の根希望財団を除くと、今はまだ福祉分野に支援が集中している。そのほかにもよく知られているアルムダウン財団では、特定の地域を基盤にしてはいないが、配分原則にしたがって地域団体にもある程度支援している。

地域財団は財政的安定のためのものであるが、中間支援機関は個別の村や地域、個別機関や団体だけの力では扱いきれない問題の解決を手助けする機関である。教育、経理・税務・財務・会計・法律などの専門実務、資金調達、コンサルティング、セミナーやシンポジウム・ウェブ・機関紙といった情報発信機能、交流の促進、広報とマーケティング、コーディネイト、調査研究といったあらゆることが可能である。そして住民と大学、行政機関、企業、メディアなどの地域主体間、地域と地域、地域と中央を連携し仲裁することも重要な役割だ。先に言及した村づくり支援センターや全北完州のCB支援センターがまさにその中間支援機関である。最近では光州の光山区が市民公益活動支援センターを推進している。必ずしも新しく作らねばならないわけではなく、大邱市民センターのように、地域活動をつうじて信頼を得た市民団体が中間支援機関の役割を担うこともできる。

<参加と交流、協力と連帯>

住民と行政、都市と農村、生産者と消費者、公務員と市民団体、保守団体と進歩団体、決定機関と執行機関、基礎団体と広域団体など、地域のあらゆる行為主体が境界を越えてより多く出会い、観点と経験を交流させねばならない。地域という空間は簡単に顔を合わせられる空間であり、そのような出会いをつうじて共有した地方性をもとに、互いに理解を深めながら、新たな協力のモデルと規範をつくることができる。テーマと部門、セクターと規模を行き来しつつ、タテにヨコにときめ細かくしっかりとした協力と連帯の関係網をつくらねばならない。その関係網こそまさに地域ガバナンスである。

 

5.おわりに

 

本稿は地域活性化と関連して主に市民社会の課題と解決法について述べてきた。国家政策レベルの課題と争点については本格的に扱うことはできなかったし、内生的発展という国内の地域発展戦略が国境を越える国際分業構造、あるいは地球地域化(glocalization)とどのように連携されるべきかといったことも論じられなかった。これは、国家のアジェンダよりは現場中心の実行プログラムに重きを置いた希望製作所の経験値によって本稿を書いたためでもあるが、部分的には「政策を論じる声に比べて政策を牽引し具現できる力量を黙々と蓄積する手足が未だ不足している」という筆者の「実務者的」問題意識がゆえである。

市民社会の自己革新と力量強化に主な関心があるからといって、国家政策が及ぼす影響力がどれだけ大きなものかを知らないわけではない。中央政府の地域政策は地域活性化の不可欠な条件であり基幹線路である。地域の現実を深く理解したうえで設計された政策や制度配列、それを持続的に体系的に推進する新しい政府の出現は、地域の現場からみても喫緊のことである。四大河川事業をはじめとした大規模開発計画、首都圏規制緩和など、李明博政府が退行させてしまったことを取り返さねばならないだけでなく、地方分権と国家均衡発展など、参与政府が試みつつも中断もしくは変質してしまった課題についても、その原因を突き止め、道を広げねばならない。2013年体制を準備する議論の過程で、地域活性化こそ民主主義を拡張し、精緻化する課題であることが共有されんことを、地域の現場で働く人々の経験と声がもっと尊重され傾聴されんことを、そうして2013年体制においては、地域の働き手とリーダーたちが頑丈な資源として基幹線路を活用することができるようにならんことを希望する。

 

翻訳 : 金友子 (キム・ウヂャ)

季刊 創作と批評 2011年 秋号(通卷153号)
2011年 9月1日 発行

 

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