창작과 비평

植民主義と近代の特権化を越えて―黄鍾淵の反論に答えて

2011年 秋号(通卷153号)

 

論壇と現場

 

 

金興圭(キム・フンギュ)
高麗大国文科教授。著書に『文学と歴史的人間』 『韓国古典文学と批評の省察』『韓国現代詩を求めて』など。gardener@korea.ac.kr

 

 

 

1、はじめに

 

私は2008年秋から2010年まで3編の論争的な論文を発表した。 韓国の民族主義と近代文学の成立に関連して、1990年代後半以降に注目され、相当な影響力を発揮してきた脱民族主義的な指向の、そして個人差はあったものの、多分にポストモダン的でもあった言説の一部が、その対象だった 。 「政治的共同体の想像と記憶―断絶的な近代主義を越えた韓国/東アジア民族言説のために」『現代批評と理論』30号(翰信文化社、2008年秋)、「新羅統一の言説は植民史学の発明なのか―植民主義の特権化から歴史を救出する」『創作と批評』145号(2009年秋)、「韓国近代文学研究と植民主義―金哲・黄鍾淵の言説枠に対する批判的検討」『創作と批評』147号(2010年春)。以下の議論ではこれらの論文をそれぞれ「政治的共同体」「新羅統一」「韓国近代文学」と略称し、出所ページ数だけ明示する。批判対象は上の順に〔申起旭、ヘンリー・イム〕、〔黄鍾淵、尹善泰〕、そして〔黄鍾淵、金哲〕であった。

これらを書く数年前から最近数年間にわたる、私自身が反省的に整理した学問的立場は、1970、80年代の韓国史/韓国文学研究を主導してきた内在的発展論と、民族単位の認識構図に偏った見解が、それなりの貢献とともに問題点も生み出し、これを狙った90年代後半以降の批判は、大きな筋では傾聴すべき方向調整の必要を提起したということである。そのように考えながらも、新たな動向に対して私が問題を提起したのは、彼らから了承可能な水準を越える「過度な矯正」がたびたび発生し、近年にはそれが慣性化する動きまで示しているためである。私たちは片側に曲がったものをまた伸ばそうと、反対側で過度に引っぱって、新たな奇形を作るようなことを警戒しなければならない。

意図したところがそういうことなので、私の論文に対して反論が出てくるならば、討論を通じて私たちの視野をもう少し豊かにできるのではないかという期待もあった。だが、黄鍾淵(ファンジョンヨン)が応答として出した「問題はやはり近代だ」(『文学トンネ』2011年春号) はきわめて残念なものだった。 以下の議論でこの論文も「問題は」と略称し、参照ページ数だけを明示にする.

黄鍾淵はこの論文で、さまざまな個別事項に対する弁解と詭弁的な水準の反論に没頭するだけで、議論のマクロな構図に対しては、格別に進展した見解を出すことができなかった。代わりに彼は、私の問題提起を「70、80年代の韓国の学界に植民主義史観との戦いの中で形成された古い批判モデルの退屈な延命」であるとして(「問題は」447頁)、「閉鎖的内発論vsトランスナショナルな開放的視野」という90年代的な枠組に依拠し、みずからを防御しようとした。しかし上でも言及し、すでに発表された3編の論文のそれぞれの冒頭でも明らかにしたように、私の立論の出発点は、民族主義的・内発論的な思考モデルの失効を既定の事実としたうえで、私たちの探求が、いかにすれば時空間的な境界の前後と内外の一部を特権化せずに、均衡を保った歴史理解に接近できるだろうかということだった。そしてそのような立場から出た、申起旭(シンギウク)、ヘンリー・イム(Henry Em)、黄鍾淵、尹善泰(ユンソンテ)、金哲(キムチョル)などの問題の著作が、近代や植民的他者に過度な比重を与える一方、前近代から繰り越されるように受け継がれてきた記憶・遺産や被植民者らの作因(agency)はないがしろにする、「過度な矯正」の偏向を示していると批判した。

黄鍾淵はこれに反論するほどの配慮の均衡を立証できないまま、自らの新羅論が「植民地時代の朝鮮語テキストに表象された新羅を、朝鮮人と日本人が互いに接触する知識の境界の上に置いて検討しようという試み」(「問題は」435頁)だったと主張する。合わせて、次のような陳述を通じて、そのような意図が実践されたかのように自負する。

 

私は韓半島最初の統一国家新羅という観念を含む、現在の韓国人一般の新羅観に影響を及ぼした観念とイメージの重要な一部が、近代日本の植民主義歴史学や考古学の産物であるという考えを仮説の一つとして(……)研究を遂行した。(「問題は」425頁)

だが、上の引用に見える「重要な一部」という表現は、「植民主義の特権化」という批判を受けて、少し遅れて着用した修辞的な安全ベルトの疑いが濃厚である。「重要な一部」とは「無視できないその他の部分」を前提とする表現だが、彼の論文「新羅の発見」はこれとは異なり、日本の植民主義が作り出した新羅表象の圧倒的な作用力を主張することに没頭した。「近代韓国の民族的な想像物の植民地的な起源」という副題が示すように、彼が光を当てた「境界」において、韓国の知識人は、独自の知的資源と言説機動力の稀薄な、二次的な主体のように見なされる。そのような中で議論された申采浩(シンチェホ)(1880~1936)は、その影響力が不確かな「一亡命知識人」として周辺化され、文一平(ムンイルピョン)(1888~1936)は植民史学の言説を再加工して流通させた、付加事業者のように例示された 。 黄鍾淵「新羅の発見―近代韓国の民族的な想像物の植民地的な起源」、黄鍾淵編『新羅の発見』(東国大出版部、2008)20、29頁。

にもかかわらず、事態を「境界の上に置いて」、どちらか一方を特権化せずに、立体的に見るべき正当性が原則的に容認されたのは、意味ある進展であると考える。本稿はこの進展を実質化するために、重要な論点の是非をもう少し見きわめたい。ただし、黄鍾淵の反論において言及された事項は、いちいち再論の必要を感じないので、以下の本論では「新羅統一論」「民族主義生成の条件」「民族主義台頭と前近代の遺産」の問題を、相互に関連した小主題としながら主要な争点を概観し、もう少し拡がりのある議論を展開したい 。 「韓国近代文学の成立」の問題は批判的代案の次元から「文学の場の変動と文学観念の変化」という別途の論文を準備中なので、ここでは取り上げない。この論文は遅くとも今年末までに発表する予定である。

 

2、新羅統一と民族主義言説

 

黄鍾淵は彼の同僚・尹善泰と考えをともにしながら、「新羅が朝鮮半島の領土支配という点で最初の統一国家であるという考えが、支配的な地位を占め始めたのは、まさに日本人東洋史家たちの研究によってであった」と主張し、その先駆者として林泰輔(1854~1922)をあげた 。 黄鍾淵、前掲書21頁。尹善泰「「統一新羅」の発明と近代歴史学の成立」前掲書53~80頁。 これに対して、私の反論が、7世紀末以来の金石文から18世紀『東史綱目』の「新羅統一図」まで多数の証拠を提示し、新羅の三国(三韓)統一という観念が、すでに長い来歴を持ったものであることを明らかにすると、尹善泰は自らの主張を縮小し調整した。その要旨は「唐が動揺し退却した時点(676)で新羅統一が達成されたという見解は、林から初めて出てきており、新羅統一の時点に関する韓国の民族主義史学の通説は、まさにこれを受け入れた結果」であるというものである 。 尹善泰「「統一新羅論」再論」(『創作と批評』146号)376頁。 黄鍾淵は、文一平が新羅統一の要因として「人和」を強調したのは,林の『朝鮮史』(1892)を参照したように見えるとしたが、林が『東国通鑑』(1484)などの史論を要約しただけだという点が指摘されると(「新羅統一」390~92頁)、これらのつなぎ目として自らが注目したのは、統一時点の問題であったといっている。つまり、文一平が「林泰輔のような形で新羅の統一を説明」したというのは、林が1912年に出した『朝鮮通史』において、唐勢力の撤収を統一時点と見たことと、文一平の見解が相通じているということを示すというのである 。 林泰輔の『朝鮮通史』(冨山房、1912)は『朝鮮史』(1892)と『近世朝鮮史』(1902)を合わせて修正・加筆したものである。『東国通鑑』などから抜粋したと私が明らかにした新羅統一要因論はここでは消え、「後世において朝鮮の南北部が合一したとするのは、始まりをこの時からと考えるものである」(黄鍾淵訳)という記述が追加された。

ならば、新羅が唐の軍隊を韓半島から追放することによって統一を成し遂げたという見解は、林から初めて出たものなのだろうか? そうではない。これより4年前の1908年に、申采浩は『大韓毎日申報』の論説に次のように書いている。

 

歴史は愛国心の源泉である。よって「史筆」が強であれば民族が強であり、「史筆」が武であれば民族が武であるが、かの金氏諸人が三国の事蹟を撰出し、卑劣な政策を賛美して強硬な武気を挫折させ、新羅文武王が唐兵を撃破して本国統一した功を以小敵大で貶め(……) 「許多古人之罪悪審判」『大韓毎日申報』1908年8月8日付、『丹斎申采浩全集6―論説・史論』(独立記念館・韓国独立運動史研究所、2007)280頁。

金富軾(キムブシク)の史論を批判したこの文章で注目すべきことは、「新羅文武王が唐兵を撃破して本国統一した功」という部分である。これは言うまでもなく、百済、高句麗滅亡以降、8年間、唐と戦って、ついに676年(文武王16年)にその勢力を韓半島から追放することによって、文武王が統一の功を成就したという時代区画を確証する。申采浩は同年8月から12月まで、『大韓毎日申報』に連載した「読史新論」で、金春秋(武烈王)に対して外勢を引き込み同族の国を攻撃したと激烈に非難したが 、 『丹斎申采浩全集6』44~52頁。 その息子の文武王が、唐の直轄州に転落するところだった領土を決然と守護した点は高く評価した。『大東帝国史叙言』にも「文武大王の復地」、つまり領土回復を称賛する部分があるが 、 『丹斎申采浩全集3―歴史』204頁。『大東帝国史叙言』は1909~10年に書かれたものと推定される。慎鏞廈「丹斎申采浩全集3巻・解題」参照。 これは偶然出てきた一回性の発言ではない。申采浩は、王朝の正統性の問題よりも、民族史の領土の統合と主権的な保衛を重視する「近代的」観点から、676年を不充分ながらも三国統一の完成時期と見たのである。

このような資料を放置したまま、1912年に出た『朝鮮通史』の1行に依拠して、「新羅が朝鮮半島の領土支配という点で最初の統一国家であるという考えが、支配的な地位を占め始めたのは、まさに日本人東洋史家たちの研究によってであった」と断言することが果たして穏当だろうか。黄鍾淵は、今西龍の1919年の講演録も補充的な論拠として提示しているが 、 「朝鮮史を本格的に研究した最初の東洋史家とされる今西龍は、彼の1919年8月の京都帝大での講演録「朝鮮史概説」で、新羅が唐との交戦を終わらせた文武王14年(676)以降に「三韓統一」が完成されたと見ている」。黄鍾淵「新羅の発見」前掲書22頁。ここで「文武王14年(676)」は二つの年代が食い違うが、今西の本にある誤りを黄鍾淵がそのまま移したものである。今西龍『朝鮮史の栞』(近澤書店1935)135頁参照。 『独立新聞』や『大韓毎日申報』のような1910年以前の資料や申采浩の著作などに、それほどの注意を注がないのならば、彼が踏み込んだ「知識の境界」とは、どこに位置しており、何に向かって開いているということなのだろうか。

上で確認した事項は、文一平が「林泰輔のような形で新羅の統一を説明」したという黄鍾淵の解明性の主張と、だから植民史学の派生言説であることを免れないという疑いに対しても反省を要求する。唐勢力の追放を統一時点と見た申采浩の史論は、出現時期が最も先であるばかりか、「統一」という表現や時代区画、および意味根拠が、林や今西より明確である。合わせて、文一平は、新羅統一が領土的に不完全な「半壁の統一」であった 文一平「朝鮮叛乱史論―三国編(9)」『朝鮮日報』1930年10月8日付、『湖巌文一平全集5―新聞・補遺編』(民俗院、1995)77頁。という点で申采浩と一致する。申采浩は、新羅が三国を統一したものの、高句麗の土地の大部分を喪失し、渤海が滅亡した後は北方の領土が韓国史から消えたので、新羅・高麗・朝鮮王朝の統一というのは「半辺的な統一」に過ぎないといった 。 「読史新論」『丹斎申采浩全集3』48頁。 申采浩が及ぼした影響力にもかかわらず、このように強硬な統一限界論を積極的に主唱する学者は当時さほど多くなかった。そのようななかで、文一平は、用語も同様に使用して、新羅の「半璧の統一」を強調した。彼は申采浩の『朝鮮史研究草』を書評しながら、「丹斎は言うまでもなく私たちの史学界の先輩であり、光武・隆煕年間に垂木のように大きな筆で(……)一世を驚かせた」巨人であるとして、その著述の価値を高く評価した 。 文一平「読史閑評―朝鮮史研究草を読んで」『朝鮮日報』1929年10月15日付、『湖巌文一平全集5』44頁。『朝鮮史研究草』は1924~25年に『東亜日報』に連載された6編の論考で、1929年に洪命熹・鄭寅普が序と跋文を付けて単行本として刊行された。ここでも申采浩は、新羅統一以来の疆域を「区々とした小統一」と規定した。『丹斎申采浩全集2―朝鮮史研究草』296頁。 このようにさまざまな証拠から見る時、新羅統一の時点に対する文一平の見解を系譜的に遡及するならば、その源泉は申采浩である可能性がきわめて高い 。 贅言かもしれないが、私はこのような位置にある申采浩の歴史学が、帝国主義時代の領土横断的な知識・言説と関係がないとか、前近代の韓国知性史が育んできた「主体認識」の自然な結果だったと単純化しているわけではない。申采浩は近代の激動の中で過去を読み、過去の歴史を問い直して当代の問題と対抗した点で、誰よりも「境界上の人物」として照明されるに値する。重要なのは、そのような実践を解明するために、外部とともに内部を、当時とともに前時代からの場の力を見逃してはならないということである。

黄鍾淵はこのような可能性を疑うこともないまま、新羅が韓半島最初の統一国家であるという言説が地位を持ち「始め」たのは、「まさに日本人東洋史家たちの研究によってであった」と断言し、植民言説からの派生という枠の中に韓国近代史学をはめこんだ。にもかかわらず、学問的な慎重さと「境界」上の均衡を、どれほど自負できるだろうかは疑わしいのである。

 

3、植民化、民族主義生成の条件?

 

黄鍾淵は「民族を想像する文学―韓国小説の民族主義批判」という評論で、ある長篇小説の三・一運動デモの部分を取り上げて、「朝鮮独立」の熱望を叫んだ「万歳」が「近代の政治的神話をめぐって作られた新種の意識の一種であろう」と推測し、一歩進んで、それは1889年に大日本帝国憲法が公表される時、明治天皇を頌祝した「万歳」からきた公算が大きく、「万歳」はまた、ヨーロッパ人らの「フレー」からきたという近代的模倣の系譜を作成した 。 黄鍾淵『卑陋なもののカーニバル』(文学トンネ、2001)97~98頁。 私は『朝鮮王朝実録』にも多く出てくる「万歳」の用例を提示し、それが根拠のない憶測であることを立証した。あわせて「三・一運動は植民地支配に対する抵抗だけでなく、君主に対する忠誠の語彙である「万歳」を「朝鮮独立」という共同体主権の熱望に帰属させた決定的出来事でもあった」と指摘し、「万歳」という語彙が三・一運動で新たな意味を獲得し、政治的熱望の中心に転化した事実に注目した(「韓国近代文学」307~308頁)。

にもかかわらず、黄鍾淵は反論において、自らの軽率さを恥じるよりも「前近代の国王を頌祝する行為の中の万歳連唱と、近代国民儀礼の中の万歳連唱は意味上互いに異なる」としながら、私が朝鮮時代の「万歳」と三・一運動のそれを同じ意味と見なしたかのように言った(「問題は」433頁)。三・一運動の数百万のデモ参加者らが命を賭けて叫んだ「万歳」を、「万歳」「フレー」の模倣であると言いたかったのだろうが、一人の批判者が書いた論文をひっくり返して自己弁明の材料に使うのは、それほどにもたやすいことだろうか。

しばらく説明するならば、「万歳」は前近代において少なからず政治的な語彙であった。中国中心の東アジア名分論において、「万歳」は皇帝のためのみに許容され、諸侯格の周辺国の王を頌祝するには「千歳」を使わなければならなかった。にもかかわらず『朝鮮王朝実録』と朝鮮朝の各種文献には「万歳」と「千歳」が混在しており、時には妥協し、時には競争した。1897年10月に朝鮮王朝が「大韓帝国」を称することによって、この緊張は「万歳」に一元化された。1919年3月1日、高宗の葬儀を契機に集まった群衆が「万歳」を叫ぶならば、「先皇帝陛下万歳」のような表現が自然だっただろう。しかしデモの群衆はその代わり「朝鮮独立万歳」を叫んだ。王朝の統治者のための頌祝の語彙は、この大事件の中で民族という共同体の主権を要求し、その永続を渇望する記標として再定義された。まさにそのような意味で「当時のデモ参加者らは高宗とともに王朝的秩序に対する歴史の葬儀を行ったのである」(「韓国近代文学」308頁)。

これまで指摘してきた類の無理を、黄鍾淵がしばしば犯す要因は、民族主義の発生および民族(国家)形成を植民主義の効果とのみ見ようとする固定観念にあるようだ。バリバールの著作の一部に対する理解のずれから、この点を今一度見てみよう。
バリバールは民族国家という政治的形態の登場の要因を2つに集約した。1つは、ブローデル(F. Braudel)やウォーラーステイン(I. Wallerstein)の見解のように、それが世界体制の不均衡な力学の中で、相互間の競争的な道具として要求された点であり、他の1つはブルジョアの利益のための武力の国内外的な動員と労働力の供給源、および市場の全国化という必要性である。そして彼は次のように小結を締めくくる。「窮極的に分析したところ、それぞれ異なる歴史と社会体制の変形を通じて、民族的な諸形態を取ることになった民族国家の形成を解明する要因は、階級闘争の具体的な諸様態であって、純粋な経済論理ではない」 。 Etienne Balibar, “The Nation Form: History and Ideology,” Etienne Balibar and Immanuel Wallerstein, Race, Nation, Class: Ambiguous Identities (London: Verso 1991) 89~90頁。

黄鍾淵はこの論理の過程の前半部にのみ注目し、そのうちの一文(「ある意味では、すべての近代的民族(国家)は植民地化の産物である。それはつねにある程度は植民地化されたり、植民地を持ったりし、ときには同時にその双方でもあった」)を抜粋して、民族主義の植民地的起源が必然的であり唯一の経路であるという主張の援軍とした 。 黄鍾淵「文学という訳語」『東岳語文論集』32号(東岳語文学会、1997)473頁。 これに対して私は「ある意味では」(in a sense)が明示するように、その文章は世界体制の不平等性が全地球的であることを強調するための修辞的な補充であって、額面通りの事実命題ではありえないと指摘した(「韓国近代文学」304~305頁)。

このことから自らを弁護するために、黄鍾淵は「in a sense」という慣用句の意味に対して奇抜な主張をかかげる。あわせ、私が提示した2つの系列の反証事例のうち、スペインやメキシコは除いたまま、インド・ベトナム・韓国・中国の中で、韓国と中国は民族主義台頭当時少なくとも半植民地であったから、バリバールのその文章も事実命題として正しく、自らの前提も間違っていないと主張する。そのうちの最初の事項は論じることさえ気恥ずかしいが、やむを得ないのでひとまず言及し、後者の問題をもう少し検討してみることにする。

黄鍾淵は問題の一節の「in a sense」が「おおよそその前の陳述を通じて確認したり論証することを根拠に妥当と考えられる主張をする場合に文頭に使用」する語句である主張した(「問題は」450頁)。だが、英語辞典の解説と用例は大きく異なる 。 “in a sense / in one sense / in some senses used to say that something is true in a particular way but there may be other ways in which it is not true or correct.”(Longman Dictionary of American English 2004); “if you say something is true in a sense, you mean that it is partly true, or true in one way.”(Collins COBUILD Advanced Learner’s English Dictionary 2006) この慣用句は全面的妥当性を断言する「in all senses」(いかなる意味で見ようが)と対照的なもので、「一面的だとか特殊に制限された妥当性」を主張するだけで額面通りの全面的真実性は留保し、「他の角度からは真ではないとも言える意味」であることを自ら明らかにする表現である 。 次の例文を見てもこの点は明瞭である。”In a sense, both were right.”(Cobuild); “We’re all competitors in a sense but we also want each other to succeed.”(Longman) 同書のフランス語版Race, Nation, Classe: Les Identites ambiques (Paris: La Decouverte 1988, 1997). でこれに該当する一節は「En un sens」だが、その意味と用法も英語と同様である。さらに決定的なものとして、バリバールはその後の著作で、まさに問題の部分を脚注で明示し、次のように言っている。

 

国民国家の法的・政治的骨組(挿入節省略―引用者)は、世界の分岐またはカール・シュミット(Carl Schmitt)自身が「地球全体の分配法」と呼んだものと対をなす。まさにこのような意味で、私は、近代国民の軌跡は、極限的に言うならば、植民化と脱植民化の歴史(私たちはここから完全に抜け出せずにいる)によって全体的に描かれると主張することになった 。 エティエンヌ・バリバール『私たち、ヨーロッパの市民?』陳泰元訳(フマニタス、2010)127頁。この資料とバリバールの著作に対して助言してくれた陳泰元教授に感謝する。

 

引用された2つ目の文章の「極限的に言うならば」は、彼が先に使った「ある意味では」(En un sens)と修辞的に等価関係をなす。バリバールはこの一節を通じて、自らの主張が額面通りの事実命題でなく、世界体制の不平等の中に、相互間の競争的道具として国民国家が登場したことに注目する次元で、「了解できるほどの強調ないし誇張」であることを明らかにしたのである。小さくはこのような話法を分別せず、大きくはバリバールの国民国家論がとりあげる政治思想的な諸論点を冷遇したまま、彼を保証人としてつかまえておこうとするのはいくら見ても無理がある。

これより重要な実質的な問題は、黄鍾淵が主張するように「植民地を保有したり、植民地であったりする地域ではかならず、またそのようなところでのみ民族主義は発生するのか」、言い換えれば「植民化は民族主義発生の必要十分条件か」にある。

これを否認する事例として、私がまず注目したスペイン、メキシコについて、彼は何らの応答もできなかった。スペインは16世紀以来の近代植民史で最も先んじており、一時はアメリカ大陸に最大の植民地を保有した。しかし1820年代にアメリカ大陸の植民地の大部分を喪失してから、19世紀中葉に民族主義が胎動した。1821年にスペイン植民体制から分離したメキシコは、激しい内戦と外部からの侵略を体験した後、メキシコ革命(1910~17)時期に本格的な意味での民族主義が台頭した(「韓国近代文学」305~306頁)。植民地を保有したり、植民地であったりした、その長い期間に民族主義が出現していないという点で、この両国の場合、植民地(化)は民族主義発生の必要条件でも十分条件でもなかった。

インド、ベトナム、韓国、中国という比較群の場合は、私の論文が簡潔に過ぎて、彼が論点を勘違いしたのだろうか。「民族主義を植民主義の必然的な副産物としてのみ見る場合、これらの地域で1900年を前後する時期に民族主義運動が台頭したという時期的な近接性を説明することは困難である」という指摘について、黄鍾淵は的外れの返答で論点を避けた。当時、これら4つの地域は少なくとも半植民地であったから、自らの仮説が正しいというのである。しかし、民族主義が植民主義の下での模倣学習によってのみ発生するのならば、上の4つの地域のように「学習」期間や植民体制の有無、密度が異なるにもかかわらず、ほぼ同じ時期に民族主義の萌芽が見られることをどのように説明できるか? インド民族主義は、イギリスの東インド会社の設立から起算する場合、3世紀を超過してようやく形成された。植民体制の統治性を勘案し、その出発点を遅めに考えたとしても、民族主義の生成期までの歴史はきわめて長い。反面、ベトナムは阮(グエン)王朝がフランスに完全に服属し(1885)、勤王運動が失敗した後、1903年頃から民族主義の局面が開かれた 。 ベトナム民族主義の出発点としては、通常、ファン・ボイ・チャウ(1867~1940)が1903年に著述した『琉球血涙新書』があげられる。盧英順「露日戦争とベトナム民族主義者の維新運動」『歴史教育』90号(歴史教育研究会、2004)130頁。 韓国の民族主義は1890年代中葉から形成され、半植民地状態の1900年代後半までに急速に成長した。中国もやはり帝国主義列強に数多くの利権を奪われ満身瘡痍になったが、特定勢力の植民地でない状態で民族主義が台頭し、民国革命(1911)、五・四運動(1919)と続いた。そのような点で、民族主義形成の外因を、バリバールの言うように「世界体制の非平衡的な力学が要求した、相互間の競争的な道具」と説明するのはそうだとしても、「植民主義の下での模倣学習」ないし「植民支配の効果」と狭く規定するのは、理論的・実際的に明白に無理がある。

私は民族主義がすべて善であるとは考えない。それが帝国主義時代の潮流と関係なく、純潔な欲望と言語でのみ成立したと主張するわけでもない。同時に、その名で呼称されるさまざまな諸集団の行為やその理由を、ひとからげに植民体制の私生児であるというように総体化する論法は、また別の誤りであると考える。それをここで詳論する余裕はないので、私が最近、その理論的な分析に注目するアフリカ史学者クーパーの話を忠告として喚起しておきたい。

 

私たちは、勝利した局面の反植民運動をロマン化する必要もなく、植民体制の究極的な危機が迫るまで、被植民者の諸行為が決して何の変因にもならなかったかのように考える必要もない。植民主義は「ビリが一番になれる」という可能性に脅威を受けたように、その体制が作動し表象する諸様式に内在した亀裂からも、多くの脅威を受けた。私たちは、植民地時代の歴史が一つの植民的効果に還元され得ないということを認めるとしても、今日まで持続するその歴史の足跡を、精密に探求することができる 。 Frederick Cooper, Colonialism in Question: Theory, Knowledge, History (Berkeley: University of California Press 2005), p.32.「ビリが一番になれる」は、マタイによる福音書(20:16)の一節を借りたファノンの言葉である。フランツ・ファノン(Frantz Fanon)『大地の呪われた人々』ナム・ギョンテ訳(グリーンビー、2004)57頁参照。

 

4、原初主義と近代主義の間

 

黄鍾淵は、私の書いた2編の批判的論説に答えながら、先行論文である「政治的共同体の想像と記憶」も取り上げて論じている。この論文は「民族の近代的発明」という論法が流行するなかで、歴史理解が不適切に単純化されているという警告として提出したものなので、彼の反応は、肯定・否定を問わず、まずは歓迎すべきことである。ただ、冒頭で言及したように、彼は90年代後半以降の「過度な矯正」を憂慮する私の立場を理解せず、民族という「悠久なる実体」に固執する旧時代的な言説と新たな近代的構成論の対立という二分法へと議論の構図を後退させた。これは、民族主義と内発論を批判して得た立地をさらに進展させられないまま、正当性の単純再生産に耽溺し、その外部を見ないという知的自閉症と何が異なっているだろうか。10年ほど前の対立構図に安住し、言説生産性の面ですでに立ち行かなくなった「民族主義的な旧態」を鞭打ち、正当性を享有することに習熟したあげく、むしろその「旧態」に敵対的に依存しているのではないだろうか。

上の論文で、私は、民族形成論の原初主義vs近代主義原初主義(primordialism)は、民族がはるか昔から続く自然的実在であるという主張であり、近代主義(modernism)はこれと対照的に、それを近代的な構成物(modern construction)と考える。  という対立において、後者が「断絶的近代主義」として硬直化したことにともなう問題を批判し、デュアラ(P. Duara)やダンカン(J. Duncan)らが提示した立場を第3のアプローチとして提案したことがある。民族形成論において、近代主義はよく構成主義(constructivism)と同意語と見なされる。だが私は、構成主義は民族観念構成の近代的限定性をかならずしも前提にしないという点で、さらに包括的な概念であると考え、この2つを区別した(「政治的共同体」47~49、55~61頁)。概念上の区別を明確にするならば、私の観点は修正的な構成主義といってもいいだろう。ここで『想像の共同体』という著書で多大な影響を及ぼしたベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)がインドネシア史の専門家だったという事実は、批判的に喚起するに値する。インドネシアを含む島嶼地域の東南アジアは、海洋や種族的・文化的諸要因によって多様に分離されており、植民勢力によって大規模で統合されたり恣意的に再区画され、これが後日、民族主義運動の地理的輪郭を決めた。反面、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムなど大陸地域の東南アジアは、クリスティ(C. J. Christie)が指摘するように、植民支配の境界線がそれ以前の国家の境界と概して一致しており、植民化以前の国家が強力であったほど、民族主義の機動力が大きかった 。クライブ・クリスティ『20世紀東南アジアの歴史』盧英順訳(シムサン、2004)43頁。 日本、韓国、中国の場合は、大陸部の東南アジアより地理的・文化的境界の安全性と政治的統合の来歴が長く、民族主義生成のための遺産がさらに豊富だった。そのような点に注目して、テニスンとアントレエフは、アンダーソンの民族主義発生モデルに疑問を提起し、「中国やその他儒教社会に対する研究の背景があるならば、このような著述は不可能だったはずだ」とまで批判したのである 。Stein Tønnesson & Hans Antlöv eds., Asian Forms of the Nation (Richmond, Norway: Curzon Press 1996) p.9. 私のいう修正的構成主義とは、民族を言説的構成物と見るものの、このような歴史的差異を主要な変因として含む処理方式を指す。つまり私は、民族意識の形成に関する構成主義の立場を取るが、それを「前時代と関係のない、近代の発明」と単純化する近代主義に同意しない。

だとしても、韓国人が開港期以前に「民族形式の結束を達成していた」と私が言ったように黄鍾淵が考えたのは、自らの二分法に引き摺られて作り出した仮想である。民族を「水平的な絆を持った主権的共同体」と定義する場合、身分・権利の水平性や政治的集団主権という観念要素が、近代世界体制との遭遇以前に遡及できる可能性は稀薄である。しかし、それらがまだ介入していない「ある種の文化的・歴史的な絆を持った同質集団」の意識ないし感覚は、その前の時代にも多様な形で形成され、相続・競争・再構成されうる。

このような集団アイデンティティのさまざまな位相をめぐる言説や政治的力学を冷遇したまま、前近代社会は絶対王権と道徳の全的支配のもとで村落共同体の状態にとどまっていたと仮定するのは、デュアラが指摘したように、自己認識を近代だけの独特の現象と見るヘーゲル的観念の誤りである。デュアラは、前近代の政治的アイデンティティがかならず、または目的論的に、近代の民族的アイデンティティへと発展するのではなく、過去との重要な亀裂が存在しうることを認める。しかし「新しい語彙と新しい政治体制(国民国家単位の世界体制)は、これらの古い表象を選択し変形し再組織して、はなはだしくは再創造する」 。 プラセンジット・デュアラ『民族から歴史を救出する―近代中国の新たな解釈』文明基・孫承希訳(サミン、2004)93~95頁。

つまり、政治的主権共同体としての近代民族という「想像」は、その生成の局面で活用可能な社会条件と集団的「記憶」の資源に依存し、またそれに制約を受けることもある。もちろん民族主義内部の多様な分派は、彼らが呼び出す記憶の目録と、これを構成する政治的想像力においてかなりの相違を示す。近代的な民族観念の形成に作用する過去の遺産を私が重視する理由は、民族を「昔からの永続的実在」として主張するためにではなく、このような相互作用の解明が重要だというところにある。繰り返し強調するが、私が批判したのは、過去とのそのような関連を否定したまま「記憶なき想像」だけを強調する断絶的近代主義モデルである。

黄鍾淵はこのような論理の構図を曲解しただけでなく、私が紹介したダンカンの論文も「韓国史において前近代に成立した原形民族的な結束が自然に近代民族の形成に帰着した」と主張したかのように歪曲した。彼は、私がダンカンを援用した趣旨をきちんととらえなかったばかりか、ダンカンの論文をすべて読んでもいないようである。ダンカンの主張は、近代史の特定の局面において、民族が主権的共同体として呼称される以前に、王朝体制の作用やさまざまな社会的諸要因によって集団的(諸)認識が成長し、それがある種の条件と出会って、近代的な民族認識の質料ないし土台になったというものである。煩雑な紹介はやめ、ダンカンの結論の一部をここに引いておく。

 

私はまた、エリート、平民を問わず、韓国人の間で国家によって表象されたマクロ的集団性に対する帰属意識(sense of identification)が、20世紀の新たな産物ではなく、数百年遡って存在するということを指摘しなければならない。
だからと言って、国家単位で規定された集団性が〔前近代の韓国人にとって〕唯一かつ最優先のアイデンティティの根源であったと私が認めるわけではない。デュアラが中国のケースに関する議論で指摘するように、国家という大規模共同体に対する帰属感は、アイデンティティのさまざまな諸水準の一つにすぎない。(……)いかなるアイデンティティが特定の時期に優先権を持つかは、歴史的に偶然の諸状況に依存する。19世紀後半と20世紀の韓国において、その諸状況とは、帝国主義的な国民国家体制と不幸にも衝突したことであった 。 John Duncan, “Proto-nationalism in Premodern Korea”, Sang-Oak Lee& Duk-soo Park eds., Perspectives on Korea (Australia: Wild Peony 1998), p.220. ダンカンのこの見解は、10年後の論文でデュアラが東アジアの民族主義について指摘したこととも相通じる。「東アジアの国家・社会は世界観や目標意識において〔前近代の段階から〕民族主義的ではなかったが、これらの国々がそれぞれの中心的領土内に相当水準の制度化された同質性とともに、政治的共同体の歴史的物語を資産として持っていたということは、民族主義が奥深く、はなはだしくは農村地域にまでも貫徹されうる重要な諸条件として作用した。そうして民族主義は20世紀に入って、非西欧世界の他の地域よりも、東アジアにおいてはるかに強力に根をおろすことができたのである」。Prasenjit Duara, “The Global and Regional Constitution of Nationalism: The View from East Asia”, Nations and Nationalism 14-2(2008), p.325.

ダンカンは、前近代の原形民族的な結束が「自ずから、また必然的に」近代民族主義に進展したとは言っていない。にもかかわらず、黄鍾淵は、ダンカンがそのように主張したかのように記述し、「原形民族的な結束はいくら強固だとしても、一定の条件が備わらなければ近代的な民族形成へと発展することはない」として、厳粛に訓戒する(「問題は」451頁)。この見苦しい喜劇はどこからくるものだろうか。歴史や文化に対する理解において、植民主義を特権化し、植民主義的言説の構成物でありヘゲモニーの道具である近代の特権化に埋没した思考が、その源泉のようである。今回の反論を見ると、残念なことにそのような憂慮がさらに深くなる。

 

5、越えるべきことなど

 

黄鍾淵は、植民地時代の韓国歴史学の新羅認識に関する自らの議論が、「被植民者が植民者の言語を変形させ、植民者の目的から分離させると同時に、被植民者の必要に合うように使用する」専有(appropriation)に注目したのであり、自らの新羅論のどこにおいても「植民主義歴史学の解釈や考古学の発見を合理化しようとする試みなどはしていない」という(「問題は」436頁)。おそらくそうだろう。私が問題視したのは、彼が韓国の近代歴史学を、植民主義の生産した知識の借用や転用という系譜的派生性の「中だけで」見ることに埋没し、韓国の歴史学者が自国の前近代の歴史書・資料・記憶と対話し、解放的理解の創出のために苦闘したことを無視し、歪曲したということである。彼は植民主義を価値論的に合理化しなかったとしても、それが言説生産の源泉として独占的な地位を持っているかのように仮定することで、「発生論的に特権化」したというのが私の批判の核心である。

彼は、韓国史の近代を、植民主義に捕獲された時間と同一視しているので、上の特権化は近代の特権化と表裏の関係をなしている。これを正当化するために、彼は前近代と近代を断絶的に画し、その関連が軽視できないと考える人々のことを、民族主義的な残存物や内在的発展論の残党かのように片付ける。だが、韓国史や文学の前近代が、外部と関係なく近代に向かって進んだという内発論の仮定が誤っていたからといって、前近代がアイデンティティの泥沼であるかのように均質化されたり、次の時代との力学関係から排除されるわけではない。一面的な進歩派史観の信仰とは異なり、歴史は多重的な時間性のからまりとして形成され、過去の時間の順序は蜃気楼のように一挙に消えるのではなく、それらが暴力的に折り畳まれた時空間において、複雑な作用の歴史に関与する。

黄鍾淵は、私の論文に対する反論のタイトルを「問題はやはり近代である」としたが、「ある意味では」私もそのように言いたい。理由は「近代」という語彙の怪しさにある。ドゥッセル(E. Dussel)やチャクラバルティ(D. Chakrabarty)、また最近の韓国の西洋史学者らも指摘するように、「近代」とは植民主義の時代にヨーロッパが世界史の中心であることを自負しながら、進歩の歴史という単一軸上に、近代―前近代、文明―野蛮、進歩―停滞、中心部―周辺部を位階的に配置し、「差異の支配」を正当化した言説の中核である 。 Enrique Dussel, “Eurocentrism and Modernity(Introduction to the Frankfurt Lectures),” boundary 2, Vol.20, No.3 (Autumn,1993), pp.65-76。エンリケ・ドゥッセル『1492年、他者の隠蔽―「近代性の神話」の起源を求めて』パク・ビョンギュ訳(グリーンビー、2011)。Dipesh Chakrabarty, Provincializing Europe: Postcolonial Thought and Historical Difference (Princeton: Princeton University Press 2000)、 Frederick Cooper, 前掲書、113~149頁。ジェームズ・M・ブロート(James Morris Blaut)『植民主義者の世界モデル―地理的拡散論とヨーロッパ中心の歴史』キム・ドンテク訳(成均館大出版部、2008)。エマヌエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義―権力のレトリック』キム・ジェオ訳(創作と批評社、2006)。韓国西洋史学会編『ヨーロッパ中心主義の世界史を越え、複数の世界史へ』(青い歴史、2009)など。それは普遍的な時代概念の外観のもとで、多様な時空間的差異を、近代性という単一尺度の場に追いつめ、近代と前近代を両極端に平板化し、相異なる歴史を省察できるような視野を閉ざしてきた。歴史や文化に対する私たちの議論を脱近代的・解放的にするためには、近代に権威化された言説や概念の構成性を解剖するだけでは充分でない。「近代」という概念は、それを無視しては歴史を論じることが困難なほど、基本的な語彙になったが、にもかかわらず、あるいはだからこそ一層、「近代」という術語と、それにともなうヨーロッパ中心的な物語の脱構築的な再検討が緊要なのである。近代に形成された最も問題的な構成物は、まさに「近代」という観念自体である。

 

翻訳 : 渡辺直紀
季刊 創作と批評 2011年 秋号(通卷153号)
2011年 9月1日 発行

 

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