人文学の新しさはどこから来るのか
1.人文学の新しさ探し
近年、わが国では「人文学の危機」言説とともに「新しい人文学」あるいは「人文学の創新」を追求する論議が盛んである本稿の出発点は、「人文学の新しさ」を同学期の大テーマに掲げた大田人文学フォーラム第100回(2013年11月12日)の講演だった。当時は要旨のみ配布して内容を敷延する形式で、その後要旨を補完して周辺の同学の論評を求めた。本稿は、講演当時の質疑応答とその後の個人的助言を参考にして大々的に改稿した結果である。本稿の前編に該当する「近代世界体制、人文精神、そして韓国の大学――『二つの文化』問題を中心にして」(拙著『どこが中道で、どうして変革なのか』、チャンビ、2009年に収録)も、「21世紀人文学の創新と大学」という大きなテーマを掲げて2008年1月に開かれた成均館大学大東文化研究院の創設50周年記念国際学術シンポジウムで発表した内容を補完したものだった。。とはいえ、果たして人文学の新しさはどこから来るのか。
結論から言えば、それは、一方で近代以前の伝統的人文学という「懐かしい未来」(Ancient Future)から、他方で「日々新しい現実」から生じる。いや、その2つが出会う地点で発生する。この2つの「出会い」が重要なのは、「懐かしい未来」イコール持続可能な現在ではないし「懐かしい未来」は、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ『懐かしい未来、ラダックから学ぶ』(中央ブックス2007年:英訳本は Helena Norberg-Hodge, Ancient Future: Lessons from Ladakh for a Globalizing World, Sierra Club Books, 1991,2009)からきたものである。同書に描かれたラダックも、すでに急速な変化と伝統流失の過程に入っており、その懐かしい生活様式が人類の未来のための教訓を与える程度にのみ維持されていた。、新しい現実、それ自体は一定の知的規律をもった「学」を形成しないからである。同時に、こうした学的成就は知的領域に限定されず、個人の心の作用と人類文明の次元において一大転換を伴う課題でもある。
「人文学の危機」説が全国的な論点になった契機は、思うに2006年全国80余りの大学の人文学部長による宣言だっただろう。その後、研究費の増額を含めて政府支援の拡大など、目に見える効果がなくはなかった。しかし、大学内の人文学科の苦境が基本的に改善されたと思う人は稀である。社会全般に行きわたる就職競争を重視する風土で――人文学はベンチャー企業家にも大事だというスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)の発言が繰り返し引用される中でも――人文学科の卒業生の立場は狭められ、大学当局の新自由主義的な経営論理を強化する趨勢はそのまま続いている。だが、より本質的な問題は、人文学科教授の大多数が現存の人文学が危機に直面せざるをえない歴史的脈絡や認識論的前提を省察するより、相変わらず既存の学問の分業体制の中で自分の取り分を増やすとか、守ることを主眼に置いている点だろう。
その反面、大学外では「人文学ブーム」が論じられるほど、あれこれの活動が盛んである。もちろん、これらの中には既存の人文学の単純な大衆化、さらには俗流化・商品化の事例も多い。さらに、「何にせよ、人文学的基盤がなければ怪物になる」朴槿恵大統領のメディア論説室長との夕食会(2013年7月10日)での発言。盧在鉉コラム「人文学はブームなのか、バブルなのか」、中央日報、2013年11月1日から再引用。という大統領の一言で、政府機関をはじめとする多くの団体が「人文」という看板磨きに奔走してブームを加速化させる状況は、独立性と批判意識を生命とする人文精神に逆行する現象と言わざるをえない。しかし、そうした形態とは別個に対案人文学、実践人文学、現場人文学などの名前によって遂行される様々な真摯な活動は、人文学の新しさを探し求める作業の一環として評価すべきだろう私はそうした努力の極く一部を知っているだけである。これに関連して、『創作と批評』2009年夏号の特集「この時代はいかなる人文学を要求するのか」に載ったオ・チャンウン、コ・ボンジュン、イム・オクヒ、イ・ヒョヌの文章と、制度圏の学者ながら大学外の人文学にもまじめな関心を表明した崔元植・白永瑞の対談「人文学の/に道を問う」、そして『内と外』第35号(2013年下半期)の小特集「対案人文学の可能性」に収録された李洙栄、クォン・ミョンア、チョン・ナミョンの文章などを参照。。
ただ、彼らの作業が新しい人文学を定立するにはまだ至っていないようだ。例えば、李洙榮の「憐憫の福祉を超えて人間尊厳の福祉へ:人文学が見渡した一つの現場」は生き生きとした現場事例のみならず、スピノザ(B. Spinoza)、ニーチェ(F. Nietzsche)、ベルクソン(H. Bergson)、ドゥルーズ(G. Deleuze)のような「伝統的な」哲学テキストを、「単に教養主義的な人文学では決して越えられない地点」李洙栄「憐憫の福祉を越えて人間尊厳の福祉へ」『内と外』第35号、110頁。に向けて新たに読む道を切り開いてくれる。さらに、「福祉」に対する通念や既存政策の根本的な再検討を要求しており、これまた人文学の実践性を刻印させる重要な面である。だが、人文学の新しさを実現する問題自体は文章の範囲内には入っておらず、読者の宿題として残されたわけである。
この宿題を担うためには、やはり大学という現場とのコミュニケーションと連帯を無視することはできないこれは前期の崔元植・白永瑞の対談で強調されてもいる(25~29頁など)。。その点で、大学内部の動きとして、「21世紀実学としての社会人文学」をテーマとして十年間の研究計画を遂行中である延世大学国学研究院の努力が際立っている。その一環である社会人文学叢書の発刊辞は、「社会人文学(Social Humanities)は単に社会科学と人文学の出会いを意味しない。人文学の社会性回復を通じて『一つの人文学』、つまり統合学問としての人文学本来の性格を、今日に適合するように創意的に蘇らせる」白永瑞「社会人文学叢書の発刊にあたって」、金聖甫ほか『社会人文学とは何か:批判的人文精神の回復のために』、ハンギル社、2011年、5頁。努力だと表明している。研究はまだ進行中であり、私は刊行された成果の一部にしか接していないが、共感できる趣旨だけに、大学がもつ莫大な人的・物的資源が部分的とはいえ、そうした趣旨に動員しうるという点を高く評価したい。だが、白永瑞事業団長の度重なる強調にもかかわらず、人文学が社会科学に加えて近代学問の主軸にあたる自然科学ともどのように出会うのか、という核心的課題は掘り起こされていない感がある。この叢書の責任企画委員による『社会人文学とは何か』の序文の冒頭の文章も、「人間と社会の問題を探求して解決法を提示しようという知的努力」同書7頁で、白永瑞は前に引用した発刊辞以外に、自らの論文「社会人文学の地平を開いて――その出発点である公共性の歴史学」でも同じ主旨を表明する。(21頁)。一言つけ加えれば、この論文中で私が「一つの人文学」の実践的(=現在的)性格を強調したことが、「ウォーラーステインがすべての学問は過去に関するもので、『歴史的社会科学』は過去時制で書かれねばならないと主張したのに対する批判」(23頁)としたのは、ウォーラーステインと私の違いを誇張した解釈である。前述の拙稿「近代世界体制、人文精神、そして韓国の大学」において、私は「すべての学問とは過去に関するものである」というウォーラーステインの発言を、「知識の本質に関する画期的な主張」と高く評価しながら、しかし「学問」ではない「批評」の場合は反対であることを主張したのは事実である(前掲書381~382頁)。だが、これはウォーラーステイン自身が「政治と不可分に連結された単一の歴史学的社会科学」(a single historical social science integrally linked to politics)を主張した時、学問の実践的(=現在的)側面も認めたことを勘案した発言だった(同書368頁、注4参照)。を語るだけで、「自然に対する探究」には言及していない企画員中の一人である朴明林は、あえて「人文学と社会科学の融合を前提にして学問と社会の正しい関係設定、および同時に発展を通じて学問の社会化と社会の人文化がともに達成される学問と社会」を提案する(「なぜ、そして何が社会人文学なのか:社会の人文性を高め、人文学の社会性の発揚に向けた融合学問の模索」、同書48頁)。。これまでの「社会人文学」研究において疎かにされた自然科学との出会いがどうして核心的課題なのかについては、今後あらためて言及することにする。
2.人文学の「懐かしい未来」
ヨーロッパと東アジアなどの――また、私は疎くて論じるのがはばかられるが、インドやイスラム圏など他地域の――伝統時代の人文学を「懐かしい未来」と呼ぶのは、昔日の人文学が各々それなりに人間を人間らしくする道を探求する総合的かつ実践的な学問としての人文精神の実践であり、同時に体系的知になるべきだという難しい要求に応えており、そうした知恵を含んだ「古典」を残したからである。ややもすると、これは温故知新という、それこそ伝統的な学習および教授方式に適合する。だが、伝統が一旦解体または変容した新しい現実において「懐かしい未来」を現在化しようとする試みは、伝統がそれなりに生きてきた時代の「昔のものの醸成」とは別次元の作業となる。
このため、何よりも「懐かしい未来」イコール「現在」ではなくなった経緯を知る必要がある。つまり、それが新しい人文学の学的課題でもあるが、これは社会科学的な課題であると同時に、既存の社会科学の基本前提を再検討する作業でもある。この関連で私は、「近代世界体制、人文精神、そして韓国の大学」においてウォーラーステインの『知識の不確実性』イマニュエル・ウォーラーステイン『知識の不確実性』、ユ・ヒソク訳、チャンビ2007年;原著は、Immanuel Wallerstein, The Uncertainties of Knowledge, Temple University Press, 2004. を主に援用したが、ここでその論議を繰り返す必要はないだろう。
昔日の人文学と性格を異にする近代的知識体系がヨーロッパで成立した決定的要因は、ウォーラーステインの説明通り、資本主義世界体制の誕生だった。近代科学の「客観的」知識は資本主義との親和性を誇示しながら、知的権威をしっかりと認定されたのである。「私が導き出す明確な結論は、技術革新が中心になろうとすれば、他の何よりもまず資本主義がなければならず、その逆ではないという点である。これは権力関係の現実に対する端緒を提供してくれるので、極めて重要である。近代科学は資本主義の申し子であり、資本主義に依存してきた。科学者は実在する世界で具体的な改善の展望(…)を提供した(…)ので社会的裁可と支持を得た。科学は成果を生んだのである」イマニュエル・ウォーラーステイン『社会科学と現代社会:合理性に対する保障の消滅』、『私たちが知る世界の終焉:21世紀のための社会科学』、白承鈺訳、チャンビ、2005年、197頁;原著は、The End of the World As We Know It: Social Science for the Twenty-first Century, University of Minnesota Press, 1999, 140p.(翻訳は引用者が少し直した)。こうした主張は『知識の不確実性』において堅持され、後続の著書『ヨーロッパ的普遍主義:権力のレトリック』(キム・ジェオ訳、チャンビ2008年;原著は、European Universalism: The Rhetoric of Power, The New Press,2006)で敷延する。。
18世紀末のフランス大革命という急激かつ大々的な社会変動の後、そうした知識を人間社会にも適用しようとする試みとして、分科化された社会科学が成立することになったこれと関連して、イマニュエル・ウォーラーステイン『社会科学からの脱皮』ソン・ペギョン訳、創作と批評社、1994年(原著は、Unthinking Social Science, 1991)。特に第一章を参照。。実際にそれ以前は、今日社会科学の古典に数えられるホッブス(T. Hobbes)とアダム・スミス(Adam Smith)、ルソー(J. Rousseau)などの著書が、ある一分野に局限しがたい「人文学的」な性格を帯びていた。もちろん、その流れはフランス革命後も断絶したわけではない。
20世紀半ばを過ぎて、学問各分野の内部で自然科学の真理を含めた「客観的真理」自体を疑うようになる拙著『分断体制変革の勉強の道』(創作と批評社、1994年)に収録された「世界史上の論理と人文教育の理念」、第四節「権利概念に対する挑戦」を参照。。こうした変化は、資本主義世界体制が最終的な危機局面に侵入した現象の一環であり、ウォーラーステインの本のタイトル通り、「私たちが知る世界」が二重の意味で、つまり私たちに知られた「資本主義世界」と、私たちの知を構成してきた「知識世界」の同時的終焉を意味するのである『私たちが知る世界の終焉』は、第一部「資本主義の世界」と第二部「知識世界」で構成されている。。今や人文学の「懐かしい未来」を現在化する作業が、新しい人類文明の設計に必須となったのである。
この作業で東アジアとヨーロッパの昔の人文学は、互いに通じあいながらもそれぞれ別の潜在力を有する。例えば、西欧近代の科学が資本主義時代特有の知識として発達したのには、もちろん資本主義が唯一西欧でまず発生した様々な要因があるがそうした要因に対し、Immanuel Wallerstein,”The West, Capitalism. And the Modern World-System”,Review 15.no.4(fall,1992):561~619頁を参照。、西洋の伝統的な人文学自体が「客観的」で、「純粋な」知の発達に有利な要素を内蔵したという精神史的背景もある。したがって、それだけ近代的知識の限界を超えにくい慣性をもつと同時に、西洋の知識世界で近代的知識の限界を論証する――例えば、前述の拙稿「世界市場の論理と人文教育の理念」で論じたハイデッカー(M. Heidegger)の思惟や解体論(deconstruction)、あるいは「複雑性の科学」(science of complexity)のような――成果が出る場合には、並外れた威力を発揮しうる。
資本主義と科学技術文明の後発走者として、東アジアは近代世界体制への編入と近代学問体系の受けいれが時期的に遅れただけでなく、他律的に進行した面もある。これはある意味で、伝統人文学の実践的な性格が一層強まったためともいえるが、強要された後発走者であるだけに、相当な期間にわたって西欧の学問と認識論に対する隷属性を脱却しにくかったのは事実である東アジア諸国のうち、日本は「脱亜入欧」を宣言して最も早く、最も自発的に西欧化の道に入り、朝鮮はそうした日本の植民地になった。中国は半植民地状態に陥ったが、抗日戦争に勝利して社会主義革命を達成した。だが、温鉄軍『百年の急進:中国の現代を省察する』(キム・ジンゴン訳、トルベゲ、2003年)によれば、中国の共産党政権の樹立や文化大革命でさえ、その基調は急進的な西洋追いつきと原始的な資本蓄積の過程だったというのである。。だが、21世紀になると、科学技術と経済発展において西欧追いつきにある程度成功したし、資本主義世界体制と西洋学問の危機が深刻になったのを見守りながら、東アジア人文学の「懐かしい未来」を現在化する必要が切実になった。近代に適応しながら、同時に近代を克服する「二重課題」李南周編『二重課題論:近代適応と近代克服の二重課題』(チャンビ談論叢書1)、チャンビ2009年を参照。ここに収録した拙稿「韓半島における植民性問題と近代韓国の二重課題」は、本来ニューヨーク州立ビンガムトン大学フェルナン・ブローデルセンターでの1998年国際学術大会で初めて発表し、その英文原稿は英国の季刊誌『インタビュー』第二巻一号(通巻4号2000年)に「Coloniality in Korea and a South Korean Project for Overcoming Modernity」というタイトルで発表された。は、確かに世界体制の周辺部や半周辺部にのみ該当するわけではないが、今日の東アジアではその課題の切実さとともに、課題を果たす可能性もさらに実感が深まったのである。
このヤマ場で、東アジア特有の「懐かしい未来」がもつ意味は格別である。西欧の伝統的人文学と優劣を争うのではなく、東アジア人を長い間支配してきた「ヨーロッパ的普遍主義」を越えていくためにも、「人文学創新」の言説自体を西欧人文学の言語に依存する習性を振り捨てねばならない。林熒澤が力説するように、「韓国において20世紀前後は新旧文明が交差した時点だった。それから100余年経過した今、再び文明的転換の時点に立っている。私はこの時点でも文明―人文を西欧的概念でのみ認め、東洋伝来の概念とは無縁と思考する態度自体に問題があると指摘したい。西欧中心主義の近代文明を克服しながら、新しい文明の枠組をどのように打ち立てるのか、という人類史的課題である。この人類史的課題の前で、伝統的な人文概念を使いこなす必要がある」林熒澤「伝統的人文概念と問心恵頭:丁若鏞の勉強法」『韓国学の東アジア的地平』、チャンビ、2014年、415頁。。
経済学者の李日榮も、「革新家の経済学」の教育課程を摸索しながら伝統的概念を呼び出す。つまり、多様な革新家の事例を分析して叙述する戦略によって「文史一体の方法」を採択することを提案したが、その典型例として司馬遷の『史記』を挙げる李日栄「革新家経済学の教育課程の模索:経験と事例を中心にして」『動向と展望』第90号(2014年2月1日)、212~13頁。。ところで、東アジアの伝統で「史」は広い意味の「文」に含まれるので、「文」と「史」を並置するよりは、社会科学的な分析に忠実ながら、これを伝統的人文学の方式で活性化しようという本来の趣旨に応じて、むしろ「文・析一体」を新しい人文学の標語とするのはどうだろうかと思う。科学的分析(analysis)こそが近代知識の命であり、「『文化』の外部にある科学、ある意味で文化より重要な科学の概念」イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義』135頁:原著77頁。という近代世界体制の支配イデオロギーを拒否しつつも、自然科学と社会科学を合わせる人文学を志向するのだ。
「リアリズム」をめぐる韓国論壇の論議もこうした角度から整理することができる。換言すれば、それは近代の二重課題を円満に遂行して「文・析一体」に対応する文学観を摸索する作業として把握されねばならず、そうした精神で進めねばならない。もちろん作品を論文を書くように書こうという話ではない。しかし、文学芸術も近代的知識を修練する新しい人文学に見合った道を模索する必要がある。作家と与えられた現実の望ましい関係が決して単なる写実主義や自然主義にはなり得ないのに、写実主義との絶えざる混同に耐えてまでリアリズムという概念を完全に放棄しないのもそのためである拙著『民族文学と世界文学2』(創作と批評社、1985年)に収録した「リアリズムに関して」の第二節「リアリズムと古典主義」において、私は「ロマン主義の騒ぎを経て形成されたリアリズム文学の理念が、ある意味で、現代の真の文学的古典を創造する文学理念としての「古典主義」に該当するものであり、それでも「古典主義」というより「リアリズムと称すべき理由はまたどこにあるのか」(370頁)という問いに解答を試みた。。同時に、新しい人文精神は近代科学と西洋の伝統的な形而上学の「真理」とは全く異なるレベルの真理を追究したため、その精神に対応する文学と芸術も「リアリズム」を含めた一切の形而上学的な理念を越えた知恵を追求するものとなり、「知恵がより普遍化した世の中の芸術は、たぶん『リアリズム』という厄介で問題の多い単語を用いる理由がなくなる可能性が高い」拙稿「民族文学論とリアリズム論」(1991年、『統一時代の韓国文学のポラム:民族文学と世界文学4』、チャンビ、2006年、412頁)。と見通したのだ。
最後に、私の専攻分野である英文学に目を向ければ、新しい人文学は一方では文学研究に新しい理論を動員して知識を生産する作業よりは、立派な作品をじっくり読んで深く省察する「古い」文芸批評を重視する。だが、他方では「世間で考えて語られる最上のものを知ること」により、自然に何かの答えが出てくる伝統的な人文主義とは区別される。こうした脈絡から、リービス(F.R. Leavis)の作業が特別な関心対象になる。大学教育で英文学の勉強の中心性を力説し、そうした勉強によって鍛錬された批評的能力が、今日の「技術工学的・ベンサム的文明」(technologico-Benthamite civilization)に打ち克つためにも必須だ、という彼の主張が古くて偏狭な人文主義に過ぎないのか、あるいは新しい人文学に対応するレベルの「温故知新」を提唱したのか、を熟考するのは望ましいことであるリービスに対する私自身の考えは、金明煥・薛俊圭との会話「英文学研究から市民社会の懸案まで」(2003年、『白楽晴会話録』第四巻、チャンビ、2007年)の中で、「盛りが過ぎた」リービスの現在性(404~407頁)について披歴したことがある。リービスが現代文明を称える表現にベンサムを持ち出す点については、一言説明する必要があるようだ。彼がベンサムに注目するのは、彼の功利主義や他の何か哲学的な学説というより、ミルが注目したベンサムの「細目の方法」(the method of detail: Mill on Bentham and Coleridge, with an introduction by F.R. Leavis, Cambridge University Press, 1950.48p.)、つまりあらゆる現実をその最小限の基本単位に細分して説明する還元主義的な方法である。リービスは、それがあらゆるものを細目別の分析の対象として還元する、現代技術文明の本質的特徴だと把握する。つまり、「文・析一体」で「文」を取り捨ててひたすら「析(=分ける)」にのみ没頭する方法論の主唱者として、ベンサムに注目したのである。「技術工学的・ベンサム的文明」の現況を集中的に論じたリービスの著者としては、 F.R. Leavis, No Shall My Sword: Discourses on Pluralism, Compassion and Social Hope(Chatto & Windus, 1972)を参照。大学教育で英文学の勉強が占める中心性については、初期の Education and the University, (Cambridge University Press, 1943)から晩年の The Living Principle : English as a Discipline of Thought,( Chatto & Windus, 1977)に至るまで一貫している。。
3.「日々新しい現実」と人文学
人文学の「懐かしい未来」が出会うべき「日々新しい現実」の一部が、かつての人文学の衰退と変質を招いた近代的知識の世界であることは前述した。つまり、これは資本主義に関する徹底した「社会科学的」分析と現代技術に対する「科学技術学的」探求が新しい人文学の一部になるべきだという意味である。科学技術学(science and technology studies、STS)が自然科学や工学技術の一分野ではないことは明らかでありシーラ・ジャサノフ(Sheila Jasanoff)「テクノロジー、政治の空間であり対象」『創作と批評』2010年秋号、を参照。、『資本論』をはじめとするマルクス(K. Marx)の著書が経済学の古典であると同時に、哲学、歴史学、社会学、そして革命戦略論まで網羅する総合的かつ実践的な学問、つまり元来の意味での人文学でもあるという事実はまた否認しがたい。いや、自然科学の古典として有名なダーウィン(C. Darwin)の『種の起源』の場合も、「人文学と自然科学の亀裂と二分法が入る前の学問的な探求が到達できた模範的レベルを具現した」金明煥「文学の目で見たダーウィンの『種の起源』:文化学問の障壁を超える統合的学問のための契機」『内と外』第35号(2013年下半期)、262頁。という金明煥の主張は説得力をもつ。
ところで、はじめから人文精神との親和性または緊張関係を完全に脱しきれなかった社会科学やダーウィンのような創造的天才の業績とは別に、トマス・クーン(Thomas Kuhn)が「正常科学」(normal science)と呼ぶ、大多数の科学者の作業を新しい人文学がどのように包容するかは、また別の問題である。あれこれすべてを包容する人文学は何もできない、余りに膨大な作業ではないかという反論ならば、答えるのはそう難しくはない。新しい人文学の要諦は、一人の人間がすべての分科学問を渉猟して総合化しようというものではなく、特定の方式で分科化された――そんな方式で分科化せざるをえなかった――近代的知識体制の基本前提を超える「脱分科学問的研究」(post-disciplinary studies)への転換にある。こうした新しい発想に立脚した研究が行われるならば、現実では各自の性向と力量により、そして「日々新しい現実」の多様な要求により、分化と分野別の深化が新たに起こるものである。むしろ既存の分科学問体系をそのままにして、すべての分野を「通渉」して「融合」しようという試みこそ、何人かの特出した天才碩学でなければ思いもよらない可能性が高い天才の如何を問わず、科学教育に対する「人文学的」接近が、本質上専門家・分科化されざるをえない科学研究をどのようにつくり出しうるかという指摘も傾聴に値する(尹泰雄『科学教育と人文学、そして融合!』、ハンギョレ、2014年4月1日)。もちろん、こうした指摘が脱分科学問的な努力に対する無関心から来る面もなくはないだろう。。
現実が科学と技術の持続的な発達を要求する限り、その専門的かつ分科化された研究を包容することは、人文学が「日々新しい現実」と出会うのに必須だと言わざるをえない。問題は、いかに人文学として出会うかということである。これは先ほど「社会人文学」に対して吐露した物足りなさにも直結するが、私自身が何か満足できる答えを提出する立場にはなく、今後この問題により精通した方々による補完と叱咤に期待する。ともあれ、人文/社会科学間の障壁よりはるかに頑丈かつ堅固なものとして知られる人間社会と自然界の間の狭間について、根本的な再検討が要求されることだけは確かである。例えばラトゥール(B. Latour)は、科学が対象とする「事実」というのは一種の「社会たち」(societies)であり、「事件たち」(events)であることを強調し、「事実問題から関心事へ」(from matters of fact to matters of concern)と移るべきことを提案するBruno Latour, “Why Has Critique Run out of Steam? From Matters of Fact to Matters of Concern”,Critical Inquiry 30(Winter 2004).。「社会たち」の概念は、ラトゥール自ら表明したように、彼の独創的発想というよりはフランスの社会学者タルド(G. Tarde)やイギリスの哲学者ホワイトヘッド(A.N. Whitehead)が既に強調したものである。これは、科学の対象になる「客観的事実」と人文学または生活人の領域とみなされる「主観的な観念(ないし関心事)」という二分法に対する挑戦である。特にデュルケム(E. Durkheim)と同時代人であるタルドは、社会的現実も「客観的事実」であることを強調し、科学としての社会学を礎定するのに大きく寄与したデュルケムの立場に正面から対峙したホワイトヘッドおよびタルドに関するラトゥールの論議は、前述の文章以外にも、 B. Latour, What Is the Style of Matters of Concern?(Van Gorcum, 2008)を参照。ウォーラーステインは「社会学の遺産、社会科学の約束」において、ラトゥールの「私たちは一度も近代的なことはなかった」という命題を社会学の分化に対する六大挑戦の一つとしているが(『私たちが知る世界の終焉』、342~346頁、原著241~243頁)、ラトゥール以前にイリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine)の「複雑性の研究」で、すでに自然世界と社会現実という二分法が否定されていると指摘する。「プリゴジンは社会科学と自然科学を再統合したが、人間活動を別の物理的活動の単なる変異として見ることができるという19世紀の仮定の上にではなく、物理的活動を創造性と革新の過程として見ることができるという転倒された土台の上で、そのようにした」(334頁、原著237頁)。。このようにみると、社会現実はもちろん自然界の現象も人間的(または人文的)関心事の一部と位置づけられる。その反面、そうした関心事を追求する一つの方便として「科学的客観性」を堅持することはいくらでも尊重されうる。科学研究と技術開発を科学史、科学哲学、科学技術学などで代替して科学と技術を無理やり人文学に包摂する代わりに、新しい人文的実践と人文学的探求という大きな枠内で――換言すれば、科学を文化の優位に置く科学主義イデオロギーに縛られることなく――、それなりの自律性と特殊な真実性をもって進行する専門化・分科化を受容できるようになるのだ。
今、ここでの「日々新しい現実」ともっと直接的に出会う具体的方案を二つ考えてみたい。
先ほど東アジア的「懐かしい未来」の特徴を論じたが、韓国(および韓半島)の場合にはそれなりの特徴がある。韓(朝鮮)半島が早くから漢字文化圏の豊富な遺産を共有するようになったのは、中国の一方的な影響というより「受容者側の能動的な姿勢と創造的な努力によって実現したもの」林熒澤「伝統的人文概念と文心恵頭」、前掲書398頁。であるが、中国文明の圧倒的影響によって主体的な人文学の発達が抑圧された面も無視できない。例えば、共同文語と大衆の日常言語の間の乖離は、共同文語が表音文字を使用して使用者の大部分が同一の語族として構成されたヨーロッパよりはるかに深かった。この点は地理的周辺性とともに韓半島人文学の主体性を制約する要因になっただけでなく、長い視野でみると、教養階層の幅を制限して一般大衆との隙間を拡大することで――つまり、漢文は大衆が読めない文字である上に、まったく見慣れない外国語でもあったので――学問風土の偏狭性を深化させもした。そうした問題点が15世紀のハングル創制と、朝鮮末期に国文ないし国・漢文混用体が論説文章にまで拡大されて緩和される中、近代への転換が日本の植民地支配という極端な他律性を帯びてなされた。植民地治下で人文学の発達が順調でありえなかったのは言うまでもない。その上、日本の統治を離れた後も分断時代が持続して人文学的資産の絶対的な貧困、それなりにある学問力量の相互断絶と分散、またひどい場合は物理的な除去、南北双方で主体的かつ実践的な学問に対する学問外的な制約など、数多くの難関を経験している。
それでも私たちに、韓半島と東アジアの「懐かしい未来」がそれなりに豊かにもたらされたのは明らかである。いや、次第に一つになっていく世界で、東アジア外の「懐かしい未来」も私たちが生きていくにつれて、いつでも私たちのものになりうる。問題は、それをいかにして「日々新しい現実」と出会えるようにするかだが、このためにも世界体制全般の現実と東アジアの現実に対する研究が必要なのはもちろんである。何よりも韓国および韓半島の現実を直視する作業が必須である。
特に、今日の韓国人(と韓半島住民)がまだ分断時代を生きている現実との出会いが、新しい人文学の核心的課題の一つになるべきである。このように言うのは、分断体制論を長年主唱してきた当事者としてあまり謙遜な立場ではないかもしれない。だが韓国の知識界、特に制度圏の大学の人文・社会科学分野で分断体制研究を真面目に学問的作業と考える例がほとんどないという事実は、韓国人文学の貧困および現実鈍感症と無関係ではないだろう。
しばらく想像力を発動し(もしかして「ファンタジー文学」の領域に侵犯し!)、大学内に「分断体制研究」という教科目が設定されたと仮定してみよう。現存の大学編成では、あえて言えば社会科学学部に開設される性格だろうが、もしそうなっても社会科学専攻者中には担当教授を探すのは簡単ではないだろう正規学科ではない研究所の場合ならば、現存する北朝鮮学または統一(平和)学研究所のように、社会科学の教授と他分野の教授の共同参加が可能であると予想される。実際、こうした研究所の作業はある分科学問に局限されないという点で、新しい人文学の要求により近づいている。だが、分断体制に対する認識がはっきりした研究は極めて例外的である。人文学側で大学院の正規科目として「統一人文学」を最初に開設したのは建国大学である(2014年)。人文学科教授が中軸になった点が限界と言えば限界だが、重要なのは分断体制論のような脱分科学問的な認識に到達するか、否かである。。この科目では「単一な歴史的社会科学」という新しい人文学の別名に合わせて、分断時代の前史に当たる植民地時代から今日に至る歴史に対する講義が重要な一部を成すこの点で分断体制研究は、金聖甫が社会人文学の重要課題として提起する「批判的韓国学」に通じる(金聖甫「批判的韓国学の探索」『社会人文学とは何なのか』)。さらに彼は、第三節「分断後の韓国学の省察」で私の分断体制論に対する関心も表明する(302頁)。しかし、分断体制論の世界的地平を認めるようではなく、批判的韓国学を「世界普遍の言語に」(同頁)翻訳する問題は、はるかな宿題と先延ばしする印象である。分断体制を克服する韓国学問の「民族経綸」がまさに「世界経綸」であるべきだという点は、林熒澤の前掲書の最終章「分断体制下の韓国で学問すること」でも提起される。。それと同時に、該当時期の世界体制の現実、特に韓半島の分断が世界史のどういう局面でどのように始められ、分断体制の成立とその維持過程で、韓半島を中心にして世界体制がどのように作動してきたかに関する授業もしなければならないだろう。また、分断時代の文学・芸術・学術・技術などが分断体制によっていかに規定され、歪曲されたかに関する批評作業も必要である。いや、実践的人文学の一部として、「分断体制研究」のすべての分野で分断体制の克服方案についての探究が含まれる。こうした調子で考えれば、いつしか「分断体制研究」が一科目の授業で終わる性質ではなく、様々な分野の専攻者が「脱分科学問的研究」を志向する姿勢で、一つの「協同課程」を設定すべきものである。この協同課程が、「分断体制研究大学院大学」のような特殊大学に発展する光景は、まさにファンタジー文学の領域に属するものだが、実際に現存する大学と教育制度の根本的な変化なしに、そうした特殊大学を作るのは分断体制研究の自滅の策になりがちである。制度圏内外を越えていく機動性を最後まで維持し、「機会主義的で課外活動的な」(opportunist and extra-curricular)リービスの表現。拙稿「近代世界、人文精神、そして韓国の大学」『どこが中道で、どうして変革なのか』、350頁から引用。作業を進行する方式が、今日の現実では不可避である。ただ、「日々新しい現実」の要求に対応する特定の形態の総合化が、結果的に新しい専攻分野への分化を伴う理致を深めてくれる例として、このファンタジーを駆使しただけである。
実は、幻想文学の領域を侵犯しなくても、講義者や研究者の気持さえあれば、分断体制の現実に密着した研究をする道はいくらでもある。北朝鮮学だけでも、以前その地域学的性格のために統合学問に近づきうると言及したが、やはり関鍵は北朝鮮を分断体制の一部として把握するか、否かである。北朝鮮を別の国家として認めて研究する姿勢は、「反国家団体」と規定する態度に比べてはるかに学術的で、相互の体制認定という南北関係発展の基本要件を満たすのに近づくのは事実である。しかし、つまりそれは分断体制の否認(または忘却)へと進み、韓半島および北朝鮮の現実の核心部を見逃してしまう。同じ話が、南にも作用するのはもちろんである。韓国の学界の主な関心事は、とにかく韓国社会のはずなのに――多くの教授の研究現況をみると、必ずしもそうではないようだが!――韓国社会を分析の基本単位とする研究は世界体制分析の原則にも合わないが、「分断体制の中の韓国」という韓国社会特有の現実を消去してしまうことになる。これでは適切な対応策が生まれるはずがなく、「世界に誇るべき韓国人の大成果」と「一体これが国なのか」という慨嘆をもたらす事案が、いつもない交ぜになった特異な現実を説明する理論的枠組を見つけるのは難しい。その上、こうした現実を理解し、克服することは南北双方をより正常な近代社会へと創るのと同時に、近代的国民国家を超える新しい政治・社会体制の創案に寄与する典型的な「二重課題」に該当する。もちろん厳格な社会分析を要しながらも、「文・析一体」により把握可能な現実であり、「関心事」であるため、既存の学問方法に安住する学者には学問対象にさえ認識されないものである。
韓国の新しい人文学におけるもう一つの核心的課題は、韓国語に対する特別な関心である。もちろん、自分の言葉と自分の文学の探求はどの国でも人文学の基本に該当するが、今日の韓国ではその作業がとりわけ切実であり、金聖甫「批判的韓国学」にあやかって「批判的韓国語学」を社会人文学の一課題として提議したいと思う。
中国文明の圧倒的な影響がわが人文学の発達を制約した面を先ほど言及したが、文学だけでも自国語になった伝統時代の遺産は、例えば隣国の日本に比べても著しく貧困なのは事実である。その上、近代になっても日本の植民地支配下で朝鮮語は公用語の地位を奪われ、後には日常生活での使用さえ弾圧されたため長年発育不全の状態を治癒できなかった。その結果、今も漢字語が余りに多く、韓国語の弁別力と表現力が制約されている。実は、今日の韓国語に英語が氾濫する理由は、もちろん日本の代わりに米国が支配者として君臨した文化植民地的風土が大きく作用したせいだが、同音異義語が余りに多くて時には英語のような外来語を使う場合、むしろわかりやすくなるという事情も無視できない。それでも一部の知識人までがハングルと韓国語を混同して「世界で最も科学的な言語」を云々するのは、私たちの社会の人文的教養がいかなるレベルかを物語っており、国語をまともに育てることにいかに無関心かを示している。実際、身近な小集団内部を越えるコミュニケーションにおける韓国語の弁別力は、知的な内容が高まるほど問題を起こしやすい。文字を書いて正確な意味伝達のために漢字を使ってみると漢字を知らない読者は疎外されやすく、ハングルのみで書く場合、同音異義語はもちろん、綴りが同じで長・短音の違いで音が異なる同綴異義語も加わって混乱を加重させる。反面、話し言葉の場合、音の長短と抑揚の違いが介在して意味伝達を助ける代わりに、同音でも形態要素を生かして異なって表記する正書法の装置が作動しないため、やはり混乱が生じやすいハングルが表音機能に優れた文字であるのは明らかだが、音の長短は現行の正書法では分別できない。もちろん、これを補完する方法はある。国語辞典では長音の後に記号を付け、それがない場合は短音とみなすが、辞典のようにすべての単語の長短を明らかにせず、ぜひ必要な場合にのみ表示することにすれば――これは煩わしさを避けるためにもそうであり、音の長短に自信がない人も気楽にハングルを書くためにも必要である――長音表示と短音表示をすべて定めるべきだろう。例えば、目と雪、言と馬のように漢字を使ってでも区別する必要がある場合、コンピュータで簡単に打てる符合の中で前者は~、後者は―を追加して音の長短が表示できる。漢字語の問題は、ぜひ必要な場合に漢字を括弧の中に入れておくのが、最も合理的な方案だろうと考える。この場合、漢字を露出させて使わないのは外来文字排除という「民族主義的」立場ではなく、漢字を知らない人でも音に出して読んで辞典で見つけ探出せるようにする「民主主義的」立場である。こうした標準書法を(画一的国民国家の原理によって)あらゆる場合に強要する代わりに、公文書と教科書に局限するとかして、残りは個人と集団の自立に任せれば、国民的な合意を得るのはとても容易だろう。。
ともあれ、解放後に分断された南で、英語が韓国語に行使してきた撹乱作用は最近グローバル化の波に乗ってますます威力を発揮している。そして、これに対する精密な診断のためには、過去の韓国語の数奇な発達史や今日のグローバル化、およびその副作用に対する一般論を越えて揺れる分断体制が、その最終的な危機局面に達したという認識、つまり「分断体制研究」に基づく認識が必要である分断時代の長期化によって南北間の言語的異質性が増大するのは、また別次元の問題である。韓半島の共同言語としての韓国語に対する脅威だが、それに先立って南の共用語として韓国語が味わう問題が深刻な状態である。もちろんこれは南北間の言語異質化の原因の一つでもある。。また、分断体制研究が世界体制の一下位体制として分断体制を認知する研究であるように、韓国語の問題もまた資本主義発達の極大化によって英語自体も画一化し、浅薄になる全地球的な現実の脈絡の中で認識すべきだろう。同時に、様々な制約にもかかわらず、韓国語を卓越して駆使し、発展させた芸術と学問・言論の業績を検討する作業も遂行すべきである。そうして、韓国人の語文生活が外国語の影響に開放的ながらも、人文学と人文的実践にどのように適応できるようにするか、を練磨する人文学になるべきなのである。
これは、私たちが追求するにふさわしい学問的課題であると同時に、どうかすると様々な課題の前提条件に該当する。「読んで考える『文学批評』の訓練は人文精神の実現の基礎」拙稿「近代世界、人文精神、そして韓国の大学」、前掲書387頁。だからである。だが、こうした常識的な主張が韓国の教育全般に及んでどれほど革命的な変化を要求するかは、「現行教育が――語文学科の研究や教育を含め――こうした「常識」を果たしてどれほど尊重しているかを反省すれば、露呈するだろうと思う」(同頁)。現実は正反対に進んでいるようだ。最近は名門大学というところこそ、韓国語が大学の教育言語としてさえ(下手な)英語に押される、笑えない現象が広がっているのだこれに対する生き生きとした事例報告と辛辣な論評として金明煥「教育言語としての韓国語を疎かにする韓国の大学」『チャンビ週刊論評』2014年2月5日(http://weekly.chanbi.com/799)を参照。。
批判的な韓国語学も実践性を重視する人文学であるだけに、そうした現実を立て直す各種の教育事業も、その研究課題の一部になる。例えば、人文精神がまともに実現される大学教育のために、初・中等教育から漢文と英語に対する一定の知識をもつ有能な国語教師が先頭に立ち、「韓国語の練磨」と「文学批評的な訓練」が身についた市民を育てるべきだ、という問題も研究の対象である。ここでもう一度ファンタジー文学の領域へと進出すれば、私は最近誰もが口にする「生活英語」教育が、全く違う意味で試行される光景を見てみたい。実は、子ども相手の早期英語教育は――生活条件上、英語に自然に露出される特殊な場合でなければ――さほど効率的ではない早期教育の副作用として、小児神経科専門医の収入ばかりあげて終わる場合が稀ではないという。もちろん、家庭や小学校における英語教育自体に反対するわけではない。ただ、大多数の子どもの場合、初等教育段階では英語に関する基礎知識を教えながら、将来に生活英語を駆使すべき立場におかれた場合、心理的にあまり委縮しないようにする「免疫力の育成」程度で十分だ。より重要なことは、実際に韓国人の日常生活中に深く入りこんでいる英語の単語と用法、そうした意味で韓国人の「生活英語」を解釈し、解説することで、韓国人としての語文生活をより豊かにするように、言語一般に対する洞察を早くから植えつけることである。もちろん、費用と人手の問題がある。だが、こうした「生活英語」教育に一般の国語授業のような時間数を配分する必要はなく、「生活英語」担当教師の数を増やしていく費用も、最近の早期英語教育や不必要な暗記式の教育に投入される莫大な公的・私的予算に比べれば、多くはない水準になるだろう。
4.個人的修行と社会的実践
昔日の人文学は実践的学問として、個人的修行と社会的行動の両面を同時に強調した。東アジアの伝統では「修己治人」という儒学者の目標がそうであったし、西洋で人間らしさ(humanitas)を練磨して具現するという理想もそうだった。原始キリスト教や初期仏教の場合は――そして、不立文字を標榜した禅宗の場合にも――学問自体を遠ざける傾向があったが、西洋ではギリシャ・ローマの伝統を吸収した神学の展開により、東アジアでは社会的実践を重視する大乗仏教の発達および禅教習合(禅宗と教宗の結合)の試みを通じて、人文学の伝統に再び近接し、その豊富化に貢献もした。
しかし、前述したように、東・西洋の人文学の伝統には一定の偏差があり、西洋哲学は近代的な真理観の種を胚胎していた。これは、プラトン自身が哲学者君主の教育で、幼い頃から高度な身体的・精神的訓練を要求しながらも、人間の最高の美徳を超越的な「イデア」に対する知として設定したことに表れている。実際、個人的修行を知の先行条件として、東アジアなど他の伝統との革命的な差別化を成しとげたのはソクラテスだと見ることができる。もちろん、ソクラテス自身は求道者的な面貌が強い人物だったし、プラトンやアリストテレスのように何か学説を提示したというより、絶えず問いかけて省察する生を重視したヤスパースは「規範的個人」論で、ソクラテスのそうした姿勢を特に強調する。Karl Jaspers, Socrates, Buddha, Confucius, Jesus: The Paradigmatic Individuals, ed. H. Arendt, tr. R. Mannheim, Harvest Book,1957.。そして、真理に対する彼の献身に劣らず、模範として残ったのは彼の真理探究の方法であり、市井の誰であれ、彼はつかまえて対話し、弁証することで真理に近づきうることを実証した。これは、『小学』の教え通りに身持ちと心持ちから正しくすることを大きな学び、つまり大学の前提条件だと見た儒学の伝統や、大師に道を学ぼうとする初心者にお寺の庭掃除をして火をくべることからさせるのが常だった、仏家の教授法とは対照的なのである。
しかし、このように個人的修行と分離され始めた知的伝統が、ついに近代的な知識体系から真・善・美の絶対的分離を招き、今やその知識体系全体が危機に直面するに至った。その上、20世紀にソ連を中心にして社会制度の急速な改造を通じて新しい社会と人間をつくり出そうとした大々的な企画が失敗して、個人的修行の重要性に再び気づかされた。実際、これはソヴィエト社会主義の失敗であると同時に、人間が理性を用いて迷信と因習的な制度を打破して幸福な人類社会を建設できるという啓蒙主義の企画の失敗だった。18世紀ヨーロッパの言説地形において、保守派が人間は原罪をもつ存在なので人間社会の根本的な変革は不可能だとか、少なくとも各個人の回心と自己完成が先行すべきだと主張したのに対し、進歩派はそうした主張が不公正な旧体制を擁護するイデオロギーに過ぎず、個々人の変化は社会改造を通じて実現されうると主張した。そして、後者の主張をより極端化して暴力革命によって国家権力を掌握してでも経済制度を変革することこそ人間改造の近道だと信じたのがソ連式社会主義だった。もちろん、この実験が失敗したとしても、人々が聖者になった後にこそ、社会変革が可能であるという古いイデオロギーに立ち戻ってはならない。本来、「修身・斉家・治国・平天下」という大きな学びも、たとえ各自の修身学習を基本にするとはいえ、どこまでもその4つを並行して進める学習だった。今や、近代の歴史と近代的知識の蓄積によって変化した現実に適合する新しい方法で、そうした大きな学びを再び行うべきなのだ。
実際、認識レベルでも、人文学が「学」として成立して機能するためにも、自己修行ないし「心の勉強」が必須である。単なる知識の蓄積、「知解」の蓄積が目標ならば、分業体系を定めて各個人と分業集団が知識競争を展開する方式が最も効果的だろうが、時々刻々変化する世界と無尽蔵に蓄積される知識の狭間で、日々の人文的実践にぜひ必要な知を獲得することは、「心の勉強」なしには不可能である。必要なものを、適時に正しく見ることは、知識の次元を超える慧眼を要するからである。
とはいえ、どういう「心の勉強」がそうしたことを可能にするのか。人文学の新しさを探求する脈絡で、二、三の要件を指摘して結論に代えたいと思う。
第一に、人文学としての要件を充たそうとすれば、「知解」は十分な悟りの障害になるだけだという仏教の伝統的考え方が修正される必要がある。近代科学としての「知解」の蓄積自体は「悟り」とは無関係であり、「知解」に対する執着が「悟り」を妨げるのも確かだが、科学と「知解」もまた「菩薩行」の一方便でありうるし、「知解」の適切な活用が知恵の一部であることに気づく「心の勉強」になるべきなのである知識と知恵の微妙な関係に対する論議として、拙稿「知恵の時代のために」『民族文学の新しい段階:民族文学と世界文学3』、創作と批評社、1990年、131~133頁、および「知恵の時代のために・再論」『韓半島式統一、現代進行形』、チャンビ2006年、第五節(日本語版は、青柳純一訳『朝鮮半島の平和と統一』、岩波書店、2009年、第8章)を参照。。
第二に、人文学の実践性は、個人的修行と社会的行動を同時に進めることで、個人の修養に傾く勉強ではなく、世間において至公無私ながら円満な心身作用を目標とする勉強になるべきである。これは大乗仏教の「成仏済衆」に符合する「心の勉強」であり、儒・仏・仙の総合を追求する韓半島特有の伝統を受け継ぐ円仏教は、「すべてのものを応容する時に正義は勇んで取り、不義は勇んで捨てる実行の力」『正典』教義編、第四章「三学」、第三節「作業取捨」、『円仏教典書』第22版、円仏教出版社、1995年、50頁。を「三学勉強」の最終目標に設定し、正しい実践の重要性をより明らかにする。
最後に、「心の勉強」という単語が多様に誤解される可能性にもかかわらず、あえてこの表現を用いるのは、新しい人文学とこれを伴う新しい世界を建設するための知恵が、西洋の知的伝統では出会いがたい独特な修行と「悟り」を要求すると信じるからである。新しい人類文明の建設のために「実質的合理性」の重要さを認め、このための開放的な討論を進めるとか、カント式の「規制的理念」に従って忠実に努力することも必要だがマックス・ウェーバーの「実質的合理性」を再定立することを強調するウォーラーステインの論議は、『知識の不確実性』197~198頁(原著160~162頁)、『私たちが知る世界の終焉』355頁(原著249頁)などを参照。資本主義を超える新しい世界体制と交換様式の建設のために、カントの世界共和国および永久平和という「規制的理念」の必要性を提起した例として、柄谷行人『世界史の構造』、チョ・ヨンイル訳、図書出版、2012年、418~434頁を参照。、一切の執着と分別智を超える「悟り」の境地から来る徹底した明晰さが主導してこそ、そうした学的・歴史的転換を完遂することができる。とはいえ、これに対する詳しい論議は本稿の範囲をはるかに超えている。
翻訳: 青柳純一
2014年 6月1日 発行
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