창작과 비평

[卷頭言] 不能の政治をどのように克服するか

 2014年 秋号(通卷165号)

 

 

 李南周

 

甲午年の混沌が侮れない。真夏が過ぎたばかりなのに、すでに希代未聞の事件が相次いでいる。生命保全という共同体存立の前提になる価値が徹底に踏み躙られたことだけを取り上げても、年初の大学新入生の歓迎行事施設の崩壊からセウォル号惨事、軍内の過酷行為による銃器事故や自殺、猟奇的殴打死亡まで、息切れするほど連続して事故が起こった。その中でもセウォル号参事はその以前と以後という時代区分が必要になるほど、我が社会の格別な省察と反省を求める事件であり、実際大統領が直接「国家改造」までを誓ったのである。

ところが、現実は国家改造どころか、その一歩である真相調査という敷居を越えることすら難しい。セウォル号特別法制定のための交渉で真相調査委員会に捜査権を与えようとしない政府・与党の強い態度が変わらない限り、調査がどれくらい徹底に行われるか疑問である。すでに7・30再補欠選挙の直前からセヌリ党の主要な党職者らがセウォル号参事を交通事故に比喩したことは、国家改造云々が国民の憤りを慰めるための甘言にすぎなかったことを自白したことではないか。そのような妄言は、セウォル号犠牲者の遺族の命をかけた断食に対して「死ぬ覚悟で臨むべきだ」「まじめにやっていたら、病院に運ばれたはずだ」と言ったある与党議員の発言へとつながった。市民安全に対する感受性がこれほど酷い状態だとすると、数多くの改善約束を嘲ながら、繰り返される軍隊内部の反人権的慣行が断絶されると期待するのは縁木求魚である。言葉その通りに「命をかけて」軍隊に行かなければならず、その家族が不安や不眠に苦しむ状況が我が社会の緊張感を爆発直前にまで上昇させているのである。

私たちをもっと苦しめるのは、事件そのものだけではない。共同体の存在理由に懐疑心を抱かせる事態に対する政治の不能も一要因である。李明博政権の逆走行が民主、民生、南北関係等の国政全般の危機を深化させてから、変化や革新が我が社会と政治圏の主要テーマになった。しかし、現在私たちは、李明博政権の時よりも酷いといえる旧態の反復と国政混乱を経験している。その結果、政治が変化を作り出せるという希望、いや変化のための真摯な努力に着手するだろうという信頼すら持ちにくい。実際、政治の不能は全世界的現象でもある。民間航空機の被撃、パレスチナ民間人に対するイスラエルの無差別砲撃、エボラウィルスの拡散等の事態も問題解決の糸口さえ見つけていない。本誌の夏号の巻頭言で指摘した「臨界事故」の危険は、手綱を放された資本蓄積の要求と力だけで問題を解決しようとした強権主義によって、世界のあらゆるところへ広がって久しい。このような状況において政治的不能は現状維持ではなく、核事故、戦争、伝染病の拡散など想像もできない災害を予備することである。このようにみれば、現在私たちをめぐって発生する一連の事件は、一過的・偶然的ではなく、非常に兆候的であり、したがって不能の政治を克服し、変化のための新しい動力を作り出すことが韓半島と世界における至急の課題なのである。

再び我が社会へ話題を戻すと、少し前に実施された7・30再補欠選挙は、政治的不能を再確認させてくれた。一見したところで、セウォル号事件の真相究明をあらゆる言い訳で回避しようとする与党と、事件に対する責任を明らかにしようという野党のうち、国民が前者を選んだことによって、セウォル号事件を契機に作られた変化のエネルギーが一瞬に消えた形に見えるかもしれない。しかし、政治的不能が必ずしも変化の動力がないことを意味するわけではない。我が社会において変化に対する国民の要求は、キャンドル抗争以後契機がある度に湧き上がった。政治の繰り返される裏切りにも屈することなく、そのように持続的に表出され続けてきたことがむしろ驚きである。再補欠選挙での有権者の選択も変化に対する拒否というよりは、不能の政治を克服できる真の変化に対する渇望としてとらえるべきである。選挙と同じ時期(7.29~7.31)に行われた韓国ギャラップの世論調査でも、応答者の53%がセウォル号真相調査委員会に捜査権を与えることに賛成したことがそれを傍証する。このような状況において事態に相当の責任があるのにもかかわらず、突然と「国民のための政治をしなければならない」と政治圏に責任を転嫁する大統領に国民が如何に多くのことを期待することができるだろうか。再補欠選挙の結果は政府・与党による変化の約束が真の変化を防ぐための手段であることに気づきながらも、国民が望む変化を達成することのできない野党陣営に鞭を加えることがより必要だという民心が表れたのである。凄絶ながらも、悲劇的な選択である。

問題は野党陣営と民主改革勢力がこのような切迫した渇望にいかに答えるかである。現状では、野党陣営は2016年総選挙における没落を避け難い。自己革新なしに政府・与党の実情に依存しようとする態度では未来がない。まさにその点を野党の政治家たちも直視し始めたのが一縷の望みなのかもしれない。しかし、2016年総選挙へ進む過程において、革新に対する集合的要求と個人及び派閥利益間の衝突を乗り越える力が作られるかは、依然として未知数である。政治圏の自省に加えて外部からの持続的圧迫が必要であり、国民が再び大きな荷を背負わないといけない状況なのである。

この大きな荷をどう乗り越えるか。何より時代変化を渇望する人々が真の変化の道が何かを考え、これを自身の現場において実践する作業から始めなければならない。以前の変化に対する要求が政治的不能への効果的処方になれなかったのには、変化という修辞が私的な利益と欲求に汚染された場合が多かったからである。国民もこのような修辞に嫌気を感じている。変化を拒否するための変化の修辞、既得権を守るための変化の修辞、現実と遊離した変化の修辞をその都度鋭く識別できる時、真の変化の道を見つけ、国民の参加を導くことができる。それ故、私たちは変革的中道がそのような識別能力を育て、現在の難局を乗り越える道であると改めて主張するのである。

 

尋常ではない時期を迎えて、今回の特輯はセウォル号と軍内暴力のような悲劇的な事故を生んだ韓国社会の問題点を多角度から診断しようとする趣旨から構成された。まず、金鍾曄は「○○社会」と表現される流行言説の成就と限界を検討する。彼は、分断体制という時間地平を視野に引き入れる際、私たちが直面した社会的制約や構成員の退嬰的行為に対する描写を越え、このような主・客観的問題とこれを克服しようとする革新動力の間に形成される力動的関係を十分に把握することができると主張する。金エリーは分断体制下で長らく構造化された軍事主義が新自由主義と出会って単純な暴力と抑圧の支配方式から抜け出し、大衆の生活の中で自己利益と符合しながら作動する新軍事主義へ進化したと診断する。チョン・ヨンジュは、セウォル号事故の報道から明らかになった韓国言論の問題点と可能性を同時に考察する。「傾いたグラウンド」の典型的事例といえる世論の場における公正性確保のために公営放送の独立性及び公正性の確保が依然として重要な課題であることを強調する。ユ・ジョンギルは、既存の「運動圏」の考え方や実践様式と断絶し、社会の各処に運動する生活の文化が根を下ろせば、変化の道が開くと主張する。そのために憤りや敵対心、優越意識ではなく、幸福、ビジョン、希望のような肯定的エネルギーを運動の動力にしようと提案する。

続く「対話」と「論壇と現場」もこのような問題意識を共有する。「対話」では本誌の編集者であるパク・ジュヨンが、キム・ソンファン、パク・ガブン、チョ・セヨン等多様な領域で活動する若者と話し合った。近年の世代言説が概ね若者層を慰められるべき「辛い青春」として対象化したとするならば、今回の「対話」では未来世代として壊れた韓国社会をどのように変えていくか堂々と主張する主体的面貌を確認することができる。イ・ドンゴルの論文は、「官ピア」が社会問題として浮上した状況において弥縫策ではない、強力で実効性のある官僚改革の必要性とその具体的方案を提示する。

3本の「文学評論」は、秋号が重い社会懸案を中心に作られたような心残りを癒すのに十分である。キム・ソンホの平文は夏号の文学特輯における黄静雅の論文を論評しながら、総体性論議をより拡張する一方、ジェイムスンの最近のリアリズム論に対する批評的検討を通して「存在リアリズム」という筆者自身の立論を提示し、その代表的な事例としてクッツェー小説を取り上げる。彼の果敢で興味深い立論が今後生産的な討論へとつながることを期待する。ユン・ジョンイムは小説家、哲学者、批評家、劇作家など多様な面貌を持つサルトルにとって小説が何だったのかを追究しながら、その特異な地点を細心に指摘するが、小説と伝記のあいだで葛藤し、終局には「真の小説」としての伝記に没頭していたという事実が、示唆するところが大きい。創批新人評論賞の当選者であるイ・ウンジの論文は叙事の利己とその克服としての利他という発想から出発し、イ・ギホの近作小説を没入して読むが、批評的距離を維持しようとする珍しい努力を見せてくれた。

今号の「創作」欄も豊富である。12人の詩人が多彩に「詩」欄を飾る中、創批新人詩人賞の受賞者であるソン・ユミもその隊列に加わる。「小説」欄では申東曄文学賞の受賞作家である金美月の長編連載第1回と権汝宣、ユン・ソンヒ、チョン・ヨンジュンの魅力的な短編が読者に会いに行く。創批新人小説賞を受賞したチョン・ヨンスの第一歩も注目していただきたい。

「作家スポットライト」では長編『少年が来る』を出版したハン・ガンを同年齢の小説家であるキム・ヨンスが訪ねる。公式的な歴史記録の中で化石化されたかもしれない1980年の光州を再び呼び出して目の前に生々しく描き出すまでの創作過程の苦闘とやりがいが強く感じられる。座談形式で今季の話題作を検討する「文学フォーカス」では、文学評論家の白智延を招待して各作品の意味や長短を親切に、時には鋭く指摘する。「寸評」と「文化評」及び「教育時評」も分量は少ないが、本誌の魅力を増やすためには欠かせないパートである。立派に任務を果たしてくださった筆者の皆様に感謝の意を表したい。

今年の萬海文学賞は小説家のハン・ガンに、申東曄文学賞は詩人のキム・ソンギュと小説家のチェ・ジンヨンに贈られた。素晴らしい作品で韓国文学に寄与した3人の方に称賛とお祝いをお贈りしたい。読者の皆様も一緒に声援し、激励してくださると信じる。なお、創批新人文学賞各部門の当選者にも期待の視線を贈っていただきたい。

最後に、本誌の編集委員会の小さな変化をお知らせしたい。2006年から常任委員として活動して来られた李章旭が非常任委員に、陳恩英が常任委員にその座を交代する。これまでのご苦労に感謝し、今後より精進することを誓う。言葉だけではなく、実践が伴う、他人の変化を要求する前に自己革新を実践する態度で自身の現場を変えていく時、時代変化を成し遂げることができる。本誌もこのような姿勢で邁進したいという覚悟を改めて固める。暑さが和らぎ、秋が来ているが、困難なことが相次ぐ今、創批が真の変化を実現するのに小さいながらも力になりたい。

 

翻訳:李正連(イ・ジョンヨン)