창작과 비평

〔対話〕 隣家の天使を探して――セウォル号トラウマ、いかに克服すべきか

2014年 冬号(通卷166号)

 

 

鄭惠信(チョン・ヘシン)
精神科専門医。ソウル市保健事業支援団長。株式会社マインドプリズム元代表。拷問被害者会「真実の力」及び双龍車解雇勞動者家族治癒センター「ワラク」の設立に参加。現在案山治癒空間「イウッ(隣人)」で活動中。著書に『男vs女』『人vs人』『気楽に』『あなたで充分だ』など。

陳恩英(チン・ウニョン)
詩人。韓國相談大學院大學校の文學·人文學相談敎授。詩集に『七つの単語につくられた辞典』 『私たちは毎日に』『盗んだ歌』。著書に『純粹理性批判、理性を法廷に立たせる』『ニーチェ、永遠回歸と差異の哲學』『文學のアトポス』など。

 

 

 

「安山(アンサン)に行くのが本当につらい」。セウォル号惨事以降、京畿道・安山にあるソウル芸大に出講している作家からこのような話を聞いた。作家だけではない。ワドンの焼香所に行ってきた多くの人が、そのように告白した。だが、あの日以降、荷造りをして、安山に移住した人がいる。精神科医のチョン・ヘシンである。彼女は今、自らがワドンに準備した治癒空間で、セウォル号の遺族をはじめとして、セウォル号の惨事で傷ついた多くの人々と毎日をともにしている。2014年9月11日、静かにオープンしたこの治癒空間の名は<隣(イウッ)>である。私は当地を訪ねて、エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)の詩句を想起する。「地上で天国が見つからない人は、天でも天国が見つからないだろう。私たちがどこに行こうと、天使が私たちの隣家を借りるから」。私はこれまで数年の間、いろいろなところでこの詩句を想起した。だが、彼女に会いに行く今ほど、詩句が心の深いところで渦巻いたことはない。そこに行けば、隣家の天使を見つけることができるだろうか? チョン・ヘシン先生は、死の瞳孔のように、生と魂が深く刻まれた安山で何をしているのだろうか?(チン・ウニョン)

 

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陳恩英 セウォル号の惨事から6か月の歳月が流れました。セウォル号の話がとてもつらく、もうたくさんだという人たちがいます。ある人は、遺族のためにも心を落ち着けて日常に戻るべきだといいます。もちろん、遺族を最後まで助けて、事件の真実が明らかになるまで、街頭や広場で戦うべきだという人たちもいます。また、先生のように、犠牲者の子供たちの学校や家のある街に、とるものもとりあえず駆け付けた人もいます。先生は檀園(タンウォン)高校の学生犠牲者が最も多く発生したこのワドンという街で、遺族と出会う治癒空間を準備されました。どうして彼らと生活をともにされることになったのでしょうか?

鄭惠信 これまで精神科医として、私は国家的な災難でPTSD(Post Traumatic Stress Disorder、外傷後ストレス障害・トラウマ)を体験する人々と主として相談してきました。拷問の被害者とながらく相談し、双龍(サンヨン)自動車の解雇労働者を助けるために、平沢(ピョンテク)地域に心理治療センター「ワラク」を作って活動したりもしました。すべて国家暴力による外傷後ストレス障害を体験した人々でした。そうするうちに、セウォル号の惨事以降、大きな苦痛を味わう人たちを助けなければならないと思って、それまでの仕事をすべて整理して安山にやってきました。檀園高校の生存者生徒たちが学校に復帰する前、中小企業研修院にいるとき、ともに寄宿しながら、檀園高校の教師と生存者生徒の両親の心理的な危機状況に治癒的な介入をおこないました。生存者生徒たちが事故の初期に接した精神科治療に対する反感が、きわめて深刻な状態だったために、生徒たちに直接近付くよりは、教師と両親の混乱を鎮め、状況に対する統制力を保てるように心理的に支援すれば、子供たちが安定できると判断しました。それで、檀園高校2年生の担任教師の集団相談と、生存者生徒の両親との対話に最も集中しました。
かなり心配しましたが、幸いにも、初日、子供たちが学校にうまく復帰しました。研修院にいる間、女子生徒は悲しみと苦痛を表現しましたが、男子生徒はそれを拒否したり避ける場合が多かったようです。遺族も、母親たちはかなり泣いていますが、父親たちはそういうことがよくできません。子供でも大人でも、男性は感情的な表現がうまくできません。ですが、登校初日に男子生徒がかなり泣いて、亡くなった先生と犠牲になった友達に手紙も書きました。それまで友達にできなかった話をしたのでしょう。そして先生や友達に送るためにその手紙を焼きました。この子供たちは治癒のための一歩を踏み出したわけですが、依然として彼らに多くの支援が必要です。今は主として治癒空間<隣>で遺族の心理相談をして、犠牲者生徒の兄弟姉妹のための治癒システムを作っています。生存者生徒の両親のための治癒プログラムも進めていますが、遺族を支援している安山の社会福祉士たちの感情の疲弊も相当なもので、彼らのためのプログラムも進めています。

 

倒れる方にハンドルを切るべき

 

陳恩英 遺族を「死体商売人」と罵倒する悪意の視線があったりもしますが、セウォル号の疲労感を語る人たちが、特別に冷酷で不人情だからというわけでもなさそうです。周辺の知人の中にも、セウォル号の話はもううんざりだ、やめてくれと愚痴るケースもありました。私が怒って当惑して、その友達にどうしてそんなことを言うのか尋ねました。すると、話し続けてみたところで、これといって助けになるわけでもなく、韓国社会が変わるようでもないのに、同じつらい話をなぜ繰り返さなければならないのかということでした。セウォル号の話をやめたいという心の奥底には無力感があるようです。どうすべきかまったく分からないのです。ですが、少し違う角度で考えてみれば、少しでも助けになり、変化が可能であるとわかれば、セウォル号がうんざりだということはこれ以上言わないでしょう。事件がうんざりなわけではなく、結局、大きな苦痛や不幸をただ何もせず眺めていなければならない、無気力な自分たち自身が耐えられないということですから。どうすれば私たちが、苦痛を受けている彼らに少しでもより近付くことができるでしょうか?

鄭惠信 遠くから見ると、支援できそうな隙間が見えないので、茫漠として無気力になりますが、近く来てみると違う形に見えることがあります。ですから詳しく聞いてみることが重要です。まず、その人がどんな苦痛を味わっているのか、繊細に理解しようとする努力が必要です。ある遺族のお母さんが、最近、家の外にあまり出られないといいます。外出して子連れの親を見ると、「あの人たちは今、私に見せ付けてるのかい?」という気がして、本当に叩いてやりたいといいます。振り返って考えてみると、そうしている自身が本当にあきれ、外出できないというんです。他のケースでも、遺族の夫婦が、事故が起きて以降、これまで家に帰らずにずっと車の中で寝起きしています。子供を亡くしたわけですが、昼間は家にいても、子供が学校に行っているようで、友達に会いに行っているようで大丈夫だそうですが、夜、夫婦だけでいると、子供が死んだことが実感されるんです。その状況に耐えるのが苦痛で、夜、家に入れないそうです。家の前に車を止めておいて、そこで寝起きして、朝、家に行って風呂だけ入ってまた出てくるそうです。
遺族だけが苦痛なわけではありません。生存者生徒やその親たちの立場では、遺族を見ると無条件に罪の意識を感じます。子供たちが登校する時、遺族の両親20-30人が来たことがあります。子供たちに元気でねと、友達の分までがんばれと言いながら抱きしめていました。にもかかわらず、この子供たちは、犠牲になった友達の両親に会うと胸がドキドキします。誰が何か言わなくても、自分だけが生き残ったことに対する罪の意識で、責められているような気がするのでしょう。このように様々な苦痛が私たちの周囲にあります。
すべての人間は、何かを終わらせることに対する欲求があります。映画を見始めたら最後まで見て、次の段階に行こうとするのが人間の本能です。ですが、終わらせられずに途中で急に終わると、そこから次の段階に行けずにそこで留まり続けます。災難で誰かと突然別れた場合のように、突然、死と関連した途方もないトラウマを体験すると、忘れなければならない、日常に戻らなければなければならないと、いくら言ってみても効果がありません。終わらずに途中でぷつんと切れたこの欲求が、心の中で充分に完了するように助けてあげなくてはなりません。そうやって初めて、この悲しみの経験、この苦痛の感覚から自由になることができます。それが言うところの「哀悼」です。私たちは哀悼が重要だと強調しながらも、いざというときには互いに哀悼をしないようにします。たくさん泣き、たくさん悲しむべきだと言いながらも、きちんと泣けません。子供の父親が我慢しているから、妻はこう考えるんです。「あの人もつらいはずなのに、家長だから泣くこともできずに我慢しているのね、私のためにまたつらいことがあってはいけない」といいながら、そばで泣かずに我慢します。兄弟姉妹が死んだ子供たちは「両親が兄を亡くしてつらいはずなのに泣けないんだな、だから自分もこのまま我慢しなくちゃ」ということになります。またその子供たちのそばで親が我慢するといった感じです。結局、互いが互いに配慮すると言いながら、誰も哀悼することができません。それとともに人々が徐々に歪んだり病気になったりするんです。
幼少時、自転車の乗り方を習う時、時々倒れそうになったら倒れる方向にハンドルを切れと言われたでしょう。幼い時はその言葉が理解できません。こちらに倒れようとすると反対にハンドルを切ったら倒れないけど、倒れる方向にハンドルを切ってもいいのか? ですが直接学んでみるとその通りでした。人生を生きていると、人の心の法則もまったく同じです。私たちが生きていて、とても悲しい時、悲しい方にハンドルを切ったら倒れません。悲しいのがあまりに当然である時、反対側にハンドルを切ると必ず倒れます。ひっくり返ることになっています。思う存分、悲しまなければなりません。悲しい時、より安定的に、より楽に、より思い切り、悲しくなれるように、激励しなければなりません。そうすることで初めて倒れずに、より早くその窮地から自由になることができます。

陳恩英 生存者の生徒や遺族が、悲しみを自らのうちに閉じ込めずに、充分によく外に表現できるようにしてあげることが一番の至急の課題です。そのためにするべきことと絶対してはいけないことは何でしょうか。事実、多くの人々が、こうしたことに賛同したいけど、具体的にどうすべきか分からないという話をよく聞きます。

鄭惠信 ひとまず、これ以上の心の傷を与えてはいけません。遺族に近くで会う人々も遺族に対してかなり誤解しています。そばで見ていて理解できない姿がときに見られるといいます。遺族がビヤホール行って酒を飲みながら笑って騒ぐのを見て、あの人が遺族だろうか、という気がしたというのです。ある遺族のお父さんと相談して聞いた話ですが、事故が起きて1か月少し過ぎた時ですが、お父さんがいつも集まっている事務室のテレビで、それまではいつもセウォル号の惨事のニュースが放映されていたそうです。ですが、いつからかチャンネルを回す人がいて、一度は野球の中継がついていました。お父さんがなにげなく見て面白くなり、ある瞬間に歓呼したそうです。そうして互いの顔を見たのでしょう。私たちは今、何をしているのかと思ったんでしょうね。そのお父さんがその話をしながら、まったく子供を亡くしたのに野球を見て歓呼するなんて、自分が人間だろうかと考えて苦しんでいました。ええ、人間です。人間だからそうするんです。ですから、私たちが頭の中で遺族とはおそらくこのようなものだという枠組みを持っていると、その人々にとってはそれが非常に苛酷な暴力になります。
実際に遺族に対するそのような先入観のせいで外出できない親たちがいます。外で誰かと話してうっかり笑う姿を見て、他の人が、あのお母さんは継母ではないか、などとひそひそ話しているという噂を聞いて、大きな衝撃を受けたそうです。子供を亡くした母親も、状況によっては話していて笑うことがあります。遺族は、私たちが見ているときに、ずっと泣き続けなければならないのでしょうか? 私たちはそうだろうと勘違いします。自分たちの前提が間違っているのに、遺族の方が変だと考えるんです。私たちが見ている姿がその人のすべてではないという事実を知ることはとても重要です。その事実だけを感知していても、私たちが誰かにそのように暴力的にふるまうことはありません。それを認識できなければ、不本意に誰かにとって凶器になることがあるんです。安山で私がやっている主なことのひとつは、生存者生徒たちや遺族が周辺の人々によって、このような2次トラウマを体験しないように、遺族の状態を知らせて、彼らに配慮する方法を教育することです。遺族が感じる心の苦痛を充分に理解できなければ、彼らをかなり大きく誤解することになります。そして、その誤解によって、空しい心を周辺の人たちが他に伝え、またその話に枝葉がつけば、遺族に対する悪意あるデマが飛び交うことになり――そうして遺族が国民から孤立する状況が広がるんです。

陳恩英 そうですね。セウォル号の遺族のようにPTSDを体験する人々が直面する心理的な困難としては、どのようなことがあるでしょうか?

鄭惠信 拷問の被害者や解雇労働者を対象にトラウマ相談をしていると、共通して発見される現象ですが、すべてのトラウマ患者には加害者がいます。たとえば80年代の拷問の加害者は、政権責任者の全斗煥(チョン・ドゥファン)と拷問捜査官でしょう。濡れ衣を着せられてアカとして10年、20年、監獄で過ごして、出てきたら子供はみなアカの子供になり、妻は離れてしまいます。自分の人生も、もちろん破壊されるだけ破壊されています。そんな時、その人と相談すると、誰に対して怒りを一番強く表わすでしょうか? 政権の最高権力者でしょうか? あるいは自分を拷問した人? そうではありません。自分が監獄にいる時、自分の子を見てくれなかった兄嫁とか、そのような方向に怒りが向けられます。双龍(サンヨン)自動車の解雇労働者も、当時、かなり無慈悲かつ殺人的に鎮圧した趙顕五・警察総長や鎮圧現場の警察特攻隊でなく、同じ工場ラインで仕事をしていたけれど解雇されなかった同僚の中で、官製デモに出てきて、解雇された自分たちに「出て行けけ!」と叫んだ人々や、ストライキの時、自分にパチンコをぶつけた昔の同僚に対して、最も強い殺意を感じています。
警察総長でも李明博(イ・ミョンバク)政権でもなく、なぜ周辺の同僚なのでしょうか? ある巨大なトラウマが生じて、そのトラウマの事件の明白な加害者がいます。ですが、その加害者が出てきて、とても遠くにいて、圧倒的な力を持つ場合には、被害者の中で互いに相対的な加害者を探す、一種の心理ゲームが生じます。自分の子供を世話してくれなかった兄嫁や長兄、生活が困難だった時、自分が助けてやった叔母がすぐそばの近所に住んでいるのに、自分が監獄に行った時は、叔母が自分の子供たちを面会に行かせようとしないなど、そのようなことが深く傷つくんです。ですが、その叔母の立場では、親戚がアカとして捕まったから、その家に出入りすれば自分の家族もみな捕まるわけで、家庭がいっぺんに崩壊します。だから行けない場合があるのですが、そのような合理的な判断ができません。被害者同士、相対的な加害者を探す状況に陥ると、実質的な加害者はみな消えてしまいます。被害者が互いに葛藤しながら集団が瓦解します。今、セウォル号のトラウマでも同じ現象が見られます。はじめは怒りがきちんと救助作業できない海上警察や大統領府、政界に向かいましたが、少しずつセウォル号の一般人犠牲者の家族や檀園高校の遺族の両親、生存者生徒や両親との間に、または檀園高校の遺族相互の間に怒りや憎しみが生じます。もうひとつの共通の敵は学校です。檀園高校の先生です。遺族や生存者の両親に学校や先生の話をすると目つきが変わるとずいぶん感じました。船長や大統領よりも、学校や先生に対する怒りの方が、さらに具体的で生々しく、時にはより大きいと感じたこともありました。ですが、この感情は、客観的にその人の誤りを確認すれば、解決できるような問題ではありません。実際に善悪の可否と関係なく、周辺の人に自分の怒りを表出することが、このような場合に起きる、きわめて共通の現象であるということです。被害者同士、互いに心に傷を負わせながら、その傷がさらに深くなる現象が広がっています。

 

子供に対する愛に区切りをつける時間を

 

陳恩英 遺族のそのような苦痛を、近くで見守る安山の隣人たちには、どのような点を集中的に教育していますか?

鄭惠信 市庁のある公務員が私に個人的に話したことです。犠牲者の家庭に訪問すると子供の写真があるでしょう。すると「誰々のお母さん」といってその子供の名前を呼んでもいいか、あるいは名前を呼んではいけないか、写真を見て、そのような配慮をするべきかしないべきかというような問題で悩むといいます。その場合、当然「誰々のお母さん」と呼ばなくてはなりません。ああ、この子があの子なんだ、ハンサムですね、印象はどうでしたか、この子はどんな子でしたか?――このように聞いて、話をしなければなりません。遺族の立場では、子供の話をするのが一番難しいこともありますが、世の中で子供の話ぐらい話したいこともありません。ですが、みなが周辺で隠して避ければ、誰ともその話ができないでしょう。誰もそれについて話しかけなければ、この遺族は一生、その記憶から自由になることができません。レコードの針が飛ぶように、ずっと同じところで回り続けるんです。そうなると、人生がその瞬間で停止したまま、それ以上、前に進むことができません。ですから、隣人たちは、遺族が関係の進度を進ませて、それが終わるように助けてあげなければなりません。
私が<隣>で始めた治癒的な方法の一つが、このことと深い関連があります。死んだ子供の友達がいます。生存者生徒だけでなく、中学校の同窓もいますし、教会の友達もいますし、塾の友達もいます。その友達が、子供を亡くした友達の両親に手紙を書く運動です。それは、この友達の治癒プログラムでもあり、犠牲者の生徒の両親を治癒する時間でもあります。生きている友達が、自分の中の犠牲者生徒に対する記憶、経験、思い出、印象をひとつひとつ書いて友達の両親に送ります。この手紙を伝える人を、私たちは「黄色い郵便配達人」といいますが、その郵便配達人が両親の反応を聞いて、友達に伝えることまでが過程に含まれます。友達が両親を慰めようとやってきて、そのまま自分たちの話をして行くと、両親はものすごく心に傷を受けます。私の子供だけがいない、あの子たちはあのように生きている、大学にも行くだろう、私の子供は一生、高校の制服を着たままだろう、このようなことがさらにはっきりしてくるということでしょう。ですが、友達が、「修練会に一緒に行ったけど、誰々がこんな話をして、ものすごくみなを笑わせました。おとなしいと思ってたけど、その時から誰々のニックネームはこんな風になりました」と、このような話をすれば、両親が、友達の中に生きている自分の子供のことを感じます。自分の子供の記憶が鮮明に残っているという感じを受けるから、この友達が生きていることに感謝するんです。そしてこれまで思春期の子供とさほど疎通できず、ただ虚しく感じられた子供の人生が、生き生きと花を咲かせていたということを実感しながら慰められます。これがこの治癒の核心です。
一方で、両親の反応を友達に知らせることも、子供たちの治癒にとって重要な要素です。子供たちが手紙を書きながら、みな不安に考えます。自分が何か間違ったことを書いて、ひょっとして友達の両親を傷つけはしないかと思うので、その反応を知らせると気持ちが楽になり、これまであれほど申し訳なかった友達のために、何かをしてあげられたような気がします。事実、子供たちがはじめ手紙を書くと、「がんばって、勇気を失わないで下さい」というようなことを書きます。私たちはそのようなことを書く必要はないと、友達と一緒にいた、とても具体的なことや感情を書けと言います。それがどうして両親に慰めになるのか、みな説明します。そこで初めて安心して話ができるからです。このようなことが治癒のメカニズムの中で進められる手紙の活動です。
このような形で、友達でも、隣家の他の母親でも、その子供の話を積極的にしなくてはなりません。亡くした子供との関係において、終わっていないことを終わらせられるように、その人に充分な機会を与え、もっと話をして、もっと多くのことを感じさせてあげること、それが治癒の核心です。そうした点で見る時、遺族が、子供たちの携帯電話の復元後に残っていた写真を一緒に共有することも、治癒に役立ついい方法だと思います。私の子供の携帯電話では見つからなかった写真なのに、友達の電話機に写った写真の中に自分の子供がいることがあります。両親が互いにそれを探して、子供について話をかわしながら、互いにとてもいい治癒者になることができます。こういうことを、今、犠牲者の両親たちがやっています。本当にいい自然発生的な治癒法です。両親の中には、遺品を見るたびに胸が痛むので、整理をしてしまった人たちもいて、整理できずにただ持っているだけだけど、どうすればいいものかと聞いてくる人々も多数います。私はもう少し持っているように言います。正解はありませんが、それを整理した人々の中で、後になって後悔するケースをかなり多く見ました。「私はあのとき子供のものをなぜ整理したのだろう、なんとなく見たい時、懐かしい時、取り出せるように、もう少し持っていればよかったのに」といって苦しみます。遺品を通じて子供と語る過程が充分にできあがった後に決定してもいいのです。
そのように悲しみに没頭していると、うつ病にならないかと心配する視線もありますが、そうではありません。外傷後ストレス症候群は病気ではありません。彼らは本来、患者だった人ではありません。ある日、突然、交通事故に遭ったのと同じ状況なんです。自分が本来、体が弱かったら、ある刺激のせいでうつ病になったり、それがさらに悪くなったりすることがあります。ですが、トラウマ事件では、思う存分哀悼して、それに没頭するほど、そこから早く自由になる力を持つことができます。

陳恩英 遺族たちによる、清雲洞(チョンウンドン)での座り込みの場を訪問された時は、生き残った子供に対して世話をする方法についても講演されたと聞きました。

鄭惠信 子供たちは、私たちが考えられないような方法で、この状況に対して自分自身想像して、様々な形で考えを進めながら傷を負ったりもします。そのような考えをよく引き出して、両親や周辺の大人たちと対話させたり、相談を通じて、彼らに対応する機会があるべきです。意外と子供たちは、両親のために、両親が心配するかと思って、大変かと思って、自分の話ができません。いじめのために自殺する子供たちがいます。そんなに苦しいのなら、両親になぜ話さなかっただろうと、両親たちは胸を叩いて悲しみますが、普段、対話がなかったり仲が悪かった両親だからではありません。意外とその時、子供たち考える共通のことは、自分のために両親がさらに胸を痛めるのではないかということです。ですから、充分に話せるようにするには、両親がまず話を切り出さなければなりません。
お姉さんを亡くした中学生の子供が1人いるんですが、学校に行って、突然、先生の背後に隠れたんです。姉さんが見えるというんです。ですから、両親がとても驚いたんでしょう。精神的に問題が生じるのではないかと心配されるので、私がこう言いました。私は知らない子供たちですが、珍島(チンド)の身元確認所に1日中いながら、犠牲になった子供たちを見守っていたところ、しばらくしてその子が私に話しかけてきました。話しかけてきそうな感じがしばらくありました。子供が、自分の姉さんがやってきたと感じるのは、心理的に何かやりたい作業があるということです。ですから、その経験、その存在、それと対面する時間、その瞬間を邪魔してはいけません。当然、見えるものがあり、聞こえるものがあり、夢にずっと出てくるものがあります。とても正常なことです。出てきてくれたらと思うのに出てこなくて胸を痛める両親の方が多いと思います。目に見えるものならいくらでもいいです。また会えたら姉さんに何を話したいのかと聞きながら、一緒に充分に話すべきです。そうすれば、子供が姉さんを恐れずに、そのような状況がきた時、自分に問題があると考えずに、姉さんとするべき作業をすることになります。
そうした点で、檀園高校2年生の教室がそのまま保存されているのは、非常に幸いなことです。生存者生徒や3年生の生徒が、時々、その教室に入ったりします。友達や親しい後輩の席に座って、泣きながら手紙を書いたりもします。日常に早く戻るべきだという強迫から自由にならなければなりません。早く忘れなきゃ、いや、それじゃだめだ、遠ざけきゃ、しっかりしなきゃ、と思ったら、問題がまた出てきます。犠牲の生徒の兄弟の中でそのような子供たちに何人か接しました。学校で勉強するといって、夜の12時、1時に家に戻ってくるんだそうです。つらいので勉強に没頭しているといいます。それがかならずしもいい信号でない場合もあります。お父さんの中にも仕事に熱中される人々がいます。苦しさを忘れるために、その苦しさの大きさぐらい何かに強く没頭するのですが、それがそんなにうまくいくわけもないのですが、すぐに集中するといっても、後になって、ある瞬間「自分が自分の子供のためにきちんと悲しまなかった、できなかった」という思いが津波のように押し寄せると、その時は本当に、それに巻きこまれて流されることがあります。ですから、遺族や生存者生徒に対して、かなり意図的に現実に戻るよう注文しない方がいいと思います。そのような必要ありません。人の心は満たされれば自然と戻ってきます。それを信じなければなりません。人には本来持っている健康性や均衡性があります。

 

トラウマ治癒には真相究明が最も重要

 

陳恩英 悲しみを打ち破って、自然と現実に戻れるようになったと言う人もいます。これ以上、広場や街頭で真相究明を訴えずに、個人的な治癒作業を通じて悲しみを克服する必要があると言う人もいます。いまや個人の治癒的観点から接近するべきであって、セウォル号の惨事を社会的な次元で扱うのは正しくないと考えます。先生がおっしゃる治癒的観点は、このような立場とは大きな違いがあるようです。この観点を先生は「社会的治癒」と表現されました。

鄭惠信 先日、遺族たちが市内で署名運動をしている時に登場した「お母さん部隊」を見ましたか? 光化門(クァンファムン)の断食の現場に来て暴言を吐いていきました。いつまでこんなことをやっているのか、あなたたちの方が国民に申し訳ないと思うべきだと遺族に言いがかりをつけました。このような人々が周辺にかなり増えています。いつまで記憶するべきかという問いに答えるには、トラウマを体験した人々の心理に対してまず語らなければなりません。トラウマを体験した後から、彼らの時間は私たちとは違います。トラウマという傷を負って、その傷が広がれば、その人の時間はそこで停止します。たとえば以前、10代の時期に、死の威嚇の中で性暴行に遭った女性が、30年後にその男のところに行って殺害した事件がありました。事件後に、生物学的に年は取っていたけど、心理的には止まっていたのでしょう。ずっとその周辺で生き続けるんです。ですから、その人が刺殺したのは、30年後ではなく性暴行された翌日なのです。こういうものがトラウマです。一般的なストレスとは完全に違います。
セウォル号の惨事があって半年以上が過ぎました。遺族に対して、もう半年も過ぎたけど、あなたたちはいつまでこうしているのかと言えば、この人は腹が立って悲しくなる前に、まずびっくりされるでしょう。この人は昨日、事故に遭ったんです。昼も夜も、夢でもずっとその周囲を徘徊しているんです。だけど時間が過ぎたのだから忘れろだなんて。時間がまったく感じられない状態だということでしょう。それがトラウマの本質です。治癒ができなければ人生の進度を進めることができず、次の課題に移ることができないのがトラウマです。私たちの時間と彼らの時間がまったく異なるということ、私の時間は流れても、その人々はそうではない可能性もあるということを認めることが重要です。
ならば、どのようなことがトラウマの治癒か、どのようにすれば、この人の人生が止まらずに進むことができるかという問題において、最も核心は、真相の究明だと思います。精神科には数百の疾患があります。うつ病、不安症、精神分裂症、アルコール中毒、強迫観念など、多くの病気が、内面の心理的な問題のために起こる病気です。ですが、唯一内因性でない外因性で始まる疾患があります。それがまさに外傷性ストレス症候群、すなわちトラウマです。精神科の数百の疾患が、自分の考えや環境的な問題を考えながら治療されますが、外部的な問題のために人生がものすごく歪んだ場合には、その外部的要因を解決せずしては治癒を始めることができません。
トラウマを体験した人を見ると、もちろん怒りや無気力症も、その人を疲労させて破滅させますが、決定的に生きていけないほどに疲労させる感情は悔しさです。精神科の疾患で自殺率が最も高い病気が外傷後ストレス症候群です。人は悔しければ生きられません。死んではならない子供たちが、死ぬ理由が1つもない子供たちが、みな救助できる子供たちが、様々な問題が重なって、悔しいことに死んでいきました。そして、ほとんど国民みなが、それも生中継で、その子供たちの死をみな見守りました。真相究明のために遺族が東奔西走していますが、それは精神的な治癒に向かう苦闘なのです。その過程の中にいる遺族に対して、果物をむいてあげたり、水を持ってきたり、しばらく肩を揉んだりという素朴な奉仕や、真相究明のために署名をして、少しの間でも助けになるすべての人は、セウォル号トラウマの根源的な治癒者です。そうした点で心を静めるのは、精神科医よりも隣人の方ができることが多いでしょう。ですから、私は、社会的治癒の重要性を絶えず申し上げているのです。

陳恩英 社会的治癒の重要性についてお聞きしながら、もしかしたら多くの人々がさらに複合的な感情を持つこともありそうです。共同体全体が立ち上がって解決すべき大きな傷ですが、自分は涙を流す以外、きわめて些細なこと以外はできることがないという深い無力感を感じるということです。これまで多くの人々が、自らの家族が犠牲になったような衝撃、共犯になったような罪悪感、この社会を無謀にも放置したことに対する羞恥心、決定的な原因提供者などに対する怒りなど、かなり複合的な感情の旋風を自分の中に感じて混乱していました。この共同体的な治癒の第一歩を、どのように踏み出すべきでしょうか?

鄭惠信 とても切実な気持ちで動く時、ささいなことであっても人々の胸に深くささるということを信じるべきです。ある遺族のお母さんが国会に初めて断食しに行った日、私にこのようなメッセージを送ってきました。自分がはじめ珍島の体育館にいる時、夜になるととても寒くて、われ知らず体育館で身をかがめて眠ったといいます。ですが、ある女子生徒がそばに来て、簡易カイロをいくつか自分の足の間と背中に入れて、目を覚ますかと思ってすぐに立ち去ったというのです。少し目覚めて、一瞬、その女子生徒を見ましたが、その後、その人の心が大きく揺れたのです。ありがとう、私はこれまで生きていて、自分の子や家族しか考えずに生きてきた、自分の全生涯を反省したといいます。自分は今、子供を亡くしたが、これからはこれ以上、利己的に生きないよう誓ったと私に長く書いてきました。この人が今、本当に熱心に闘争しています。闘争する理由が、自分の子供は死んだけど、再びこのようなことがあってはいけないといいます。私は、その女子生徒が、本当に深い治癒者だと感じます。ですが、その女子生徒が、自分の入れた簡易カイロのために、ある遺族の両親の人生がまるっきり変わったということが認識できるでしょうか? 想像もできないでしょう。そのような出会い、そのような瞬間によって、人の心が揺れるのであって、他の大袈裟なことで動くのではありません。私は、その女子生徒に、ある切実さがあったのだと思います。20代初めの学生が、何かの原因でそこに来て雑用をしていました。そのような切実さが他人を動かし、意味ある何かを与えるのでしょう。私はそれが治癒だと思います。
結局、治癒はとても素朴なものです。人の心にある瞬間にそっと触れること、特別なことではありませんが、人がよろめいたり、かっとしたり、くらくらしたりする瞬間。それがまさに治癒の瞬間です。精神医学の観点で、どんな人が最高の治癒者なのかを議論している人々がいます。「傷ついた治癒者」(wounded healer)という用語があります。傷を負った人が、癒された経験を通じて最高の治癒者になるといいます。自分の傷がどうにか治る経験をした人は、人が何に対して動くかをすでに経験した人です。ですが、人は誰でも傷を持っています。傷のない人は存在しません。ですから、自分の傷を認識し、癒された経験がある人は、誰でも治癒者になることができます。そのような人が誰に対してであれ最高の治癒者であるといえます。
安山(アンサン)市民は、2014年4月16日以降、みなが傷つきました。近くにいる隣人が大きな痛みを経験し、本人も感情的に大きく傷つきました。1980年の光州(クァンジュ)を経験した人たちを見ながら、私は治癒的な人が多いと感じました。傷を経験し、その過程を生き延びたので、治癒的な要素にとても敏感になったのでしょう。今、セウォル号の遺族と一緒に過ごしている人達の中で、そのような事例が多いと思います。昨年、泰安(テアン)海兵隊キャンプ事故で子供を亡くした両親も、珍島の体育館までやってきてくれました。私は、この地域共同体が、市民自身の傷を治癒し、人生で最も大きな苦痛の瞬間に処した隣人に対して、最もいい治癒者になるように願いたいと思います。

 

傷ついた人が最高の治癒者

 

陳恩英 先生のお話しの中で、ヘンリー・ナウエン(Henri Nouwen)の「傷ついた治癒者」という概念が大きな響きを持っています。ナウエンは司祭であり心理学者でした。彼が、牧師の重要な徳性として、傷ついた治癒者を強調したので、私はこれまで、この単語を宗教的脈絡としてのみ受け取っていました。もちろん、韓国の教会は、そのような宗教的な意味さえきちんと理解できず、遺族に傷を与えたという話も聞こえてきます。数人の犠牲者が通っていた安山のある大きな教会に、セウォル号の遺族が署名をもらいに行ったといいます。ですが、その次の日曜日は、署名運動は一度でいい、これ以上来るなといって、キリスト教信仰を持つ遺族が大きな衝撃を受けたといいます。これまで最も深く心を分かち合ったと感じていた共同体から、排斥されるような気持ちだったようです。先生は治癒共同体を作る方式の1つとして、「近所のロウソクの火」が重要だとおっしゃっています。

鄭惠信 他の集会に行くと、かたい発言をして、行進して、立ち止まって、警察と小競合いをしていましたが、近所で隣人たちとロウソクの火をつける時、少し違った雰囲気を分かち合うことができます。自分自身に注目し、聞き入れて、受け入れる感じの集いです。個人的に言いたいことを言いながら休める、だから、故郷の家に来て、上座に横になるようなロウソクの火の集まりになったらと思います。私は、隣人が一緒に集まるのは重要ですが、その集まりを集会のようにするのは、別に効果的でないだろうと思います。今、遺族たちには話したいことが山ほどあります。ですから、そのような機会を与えて、ひそひそと話をかわすんです。1人の人間として自分の人生を話させなければなりません。そのようにすることによって、話す人もさらに気が楽になり、聞く人もその心にさらに多く共感し、心を痛めます。そうすると、この問題に対してさらに助けたいという気持ちも生じます。
ですが、セウォル号の集会で遺族たちが発言するのを見ると、ある人々は活動家のように話します。特別法の正当性を表明して、私たちの話の中で、これは捏造されたものであり、これは国家情報院がやったことだという風にです。もちろん重要な話でしょう。明確に理解すべき部分です。ですが、それだけで人々の心は動きません。遺族の持つ1人の人間としての苦痛、子供に対するいとしさ、自分と自分たちの生活に対する考え、このようなものをさらに多く共有すれば、人々の心が遺族たちの望む方にさらに傾くだろうと思います。ですから、そのような1人の人間としての自分の内面を、心を、感情をさらすことができるように、話を進めることが重要です。特に私は、光化門(クァンファムン)前の集会のように、刺激的な映像を見せ続けることに対しては反対です。遺族の両親の中でも、あの映像のせいで光化門に行けない人がかなり多いんです。普通の人々も、衝撃的な動画を見ながら、結局は苦痛なので、セウォル号のことを忘れたがるんです。人は自分を守るようになっています。そのように刺激的なものは長く続かず、むしろそのために、人々がさらに避けたり冷遇したりするようになると考えます。つねにのぞいてみたくなってこそ共感が広くなるのであって、苦痛で開いてみることも難しければ、共感が広くなることはありません。

陳恩英 傷ついた人が最高の治癒者で、悲しみの過程にともに同行する隣人が最も立派な治癒者であるという先生の言葉が、本当にやわらかく美しく聞こえますが、少しだけ考えてみると、実に急進的な主張でもあります。現代の専門家主義に正面から挑戦する話です。すべての領域で、専門家で構成された委員会が必要ですが、韓国社会には有用な専門家がおらず問題だというのが、多くの人々の考えでもあります。実際に口でそうおっしゃるだけではなく、そのような観点で、ソウル市の治癒プログラムも進めておられます。

鄭惠信 はい、私はソウル市の精神保健事業の支援団長です。ソウル市民全体を対象に「ソウル市ヒーリングプロジェクト」を昨年からやっています。「誰にでも母親が必要」というプログラムです。このプログラムは、専門家が非専門家たちを対象にする治癒でなく、プログラムに参加して治癒を経験した市民が、その次に自分が直接治癒を進めるというシステムです。一言でいえば、市民治癒活動家を養成するものです。10月からは、「誰にでも母親が必要――セウォル号トラウマ編(仮称)」です。セウォル号事件で傷ついた彼ら、いわゆる国民的なうつ病を経験している多くの人々を対象にした治癒プログラムです。1回の参加に3時間ほどかかります、子供を育てる母親たち、無力感や罪の意識、また子供に対する感情移入の程度が、職業上、格別なものになってしまう教師たち、それから高2の生徒たち。このように3つの集団を対象にする予定です。「誰にでも母親が必要」はソウル市民のためのプログラムなので、そこで最初にやりますが、このプログラムの本来の趣旨は周囲に少しずつ広めることです。ソウル市民もこのように苦労しましたが、安山(アンサン)市民も同様に大変です。なので、このプログラムを安山でもやろうと思っています。
このプログラムを体験したすべての市民は、治癒活動家になることができます。ですが、このように申し上げると、未熟な者が人をダメにするのではないかと心配します。下手にやって、ただ一緒に胸を痛めて手を握り、話を聞く程度で満足するのかというのです。治癒活動家などというので、少しこわい感じがするといいます。これは資格証のない彼らの持つ、人々に対する健全な恐れです。それは治癒者の役割をする時にとても重要な徳性です。資格証のある彼らは、人間に対して持つ健全な恐れがありません。なぜなら、資格証明があり、また知識を持っていると考えるからです。そのような彼らの方が、むしろ多くの傷を与えます。人間に対する健全な恐れを持つ人の方が、治癒者として適格であると思い、私はこのようなモデルを構想しました。ですから、この治癒プロジェクトは、いま一度、本質に戻ろうというプログラムです。自分が治癒を受けなくてはなりません。1人の人間として参加して、自ら治癒的な経験をすれば、治癒がどのようなものであるかを体得するんです。そのように情緒的な体得をまず経験した後、だけど、私たちはなぜよくなったんだろう? 私はなぜ安らかになったんだろう?――ということを、知的に整理できるようにします。そして始める前にリハーサルするのを見てあげます。実際、始める時も管理者がついて行って見ます。このようなシステムになっています。ですが、管理者やリハーサルを助ける人が、以前の段階ですでに同じことを経験した人です。セウォル号のトラウマは、安山のほとんどの人々が治癒者になってこそ解決できます。専門家の何人かに頼っていてはできません。
私がここで申し上げる治癒は、専門的な相談技法を言うのではありません。たとえていうならば、私たちが家で食事を作るでしょう。資格証などなくても、誰でもあまりおいしくなくても、どうにかして食事を作って暮らしています。そして、高級料理は食べなくても問題ありませんが、家で長いこと食事ができないと、人は情緒的にも問題が生じます。ですから、味はそこそこでも、家での食事は私たちに心理的に重要な土台になる要素だということです。今、私がお話ししている治癒は、市民がみな治癒活動家になって、家で食事をするという過程です。高度な精神疾患があって、医療的に介入しなければならない場合は、もちろん専門家に見せなければなりません。そこに行って入院をしたり、薬を飲んだりしなければなりません。ですが、今、お話しするのは、日常的に生活していて生じる、様々な心理的な困難です。ひどくない擦り傷は、病院に行って並ばずに、家にある常備薬で治療するでしょう。そんなことは私たちが解決できます。心理的な領域でもそのような部分が必要だということです。家庭の常備薬のように。日常的に起きるストレスや心理的困難に対処する治癒は、私たちが自ら処理できるようになるべきです。私たちがもっと上手くやれる領域があります。このプログラムは、そのような治癒の本質が何であるのかを共有します。精神科医の大部分は、人生で迫りくる一般的な心理的困難に対する専門家ではありません。精神疾患に対する知識を持って医学的な治療をする人々で、その医学的措置ができる資格証明を持っている人々です。精神科医は人間の苦痛や傷をみな解決できる訓練を受けてもいません。

 

多様な被害者に対する繊細な理解や配慮が必要

 

陳恩英 結局、セウォル号惨事の遺族のすべての隣家に、天使が住むようにするプロジェクトとも言えます。だとすれば、<隣>の核心活動の1つは、隣人の治癒活動家を養成するということです。安山地域の隣人の治癒活動家100人の養成が目標であるという話も聞きました。その他に<隣>をやっていて遺族に会いながら、特にどのような点を念頭に置いていますか?

鄭惠信 被害者グループで、特定集団に集中的に感情移入をしていると、他の集団には不本意に傷を与えたり、アンチ勢力を作ることがあって、その部分に注意深く配慮しながら活動しています。繊細に動くには、被害者グループにも様々な位相があり、その関係が複雑だということを理解すべきです。一般人犠牲者の遺族がいて、失踪生徒の家族がいて、犠牲者生徒の遺族がいます。そして生存者生徒とその両親もいて、檀園高校の先生もいます。安山地域で小学生や中学生を教えた周辺の教師たちもいます。檀園とは違いますが、中学校の時の友達がかなり死んだ生徒たちがいて、檀園高校にもセウォル号に搭乗した2年生だけでなく、1年生や3年生の生徒もいます。また、その1年生や3年生の父兄がいます。ですから、被害者群のスペクトラムがとても広いんです。そのような状況で、2年生の子供たちだけに話し続けて、2年生の父兄だけにずっと発言すれば、3年生の父兄は反感を持ちます。2年生の父兄と生存者生徒に対してです。そのような点などを考慮しなければ、さきほど申し上げたように、被害者の間に相対的な加害者と被害者の関係が再びできあがります。そして、このような問題が調和するように処理されなければ、極端な仮定ですが、3年生の両親たちが外に出て行って、生存者の両親に対するアンチ勢力になることもあるということです。そのような葛藤の輪が様々な位相で存在します。
セウォル号の搭乗者の中でも、似たような葛藤が生じます。失踪者、生存者、遺族が対策委を一緒にやっています。生存者の家族の中では、全体会議に行ってくると、とてもつらいという人もいます。遺族の立場を考えると、自分の意見や感情、考えなど、多くのことを抑えなければならないからです。生存者生徒の両親も、天刑のように負わねばならない荷物があります。生存者の子供が示すトラウマのために取り組む両親は、自分がつらいことは誰にも分からないと感じています。最近、少しずつ、子供たちが薬の処方を受ける場合が増えて、当時の話を初期よりも積極的に始めています。ですから、両親が耐えられないのです。両親たちも毎日泣きます。今までは、生還した子供が様々な問題を起こし、子供の管理をするのに話ができませんでしたが、最近徐々に本人が受けたトラウマのことを話し始めています。事故現場で子供を探す直前までの時間があります。その瞬間、自らの感情状態、そのとき自分が想像したこと、もし子供が見つからなければ、自分はどうするかという極度の不安感を、スロービデオのように、その瞬間に思い出される症状を、共通して体験しています。今までは一度も思い出させなかったことでしょう。
そのトラウマのために、両親の不安が全体的に高まっています。ですから、子供たちに統制を科するようになります。それで子供たちが心理的に退行したり、あるいは荒々しく反発したりのどちらかに行くことになります。かなり非合理的な水準まで、子供を統制する基底には、両親たちのトラウマがあるんです。両親自身の不安が統制できないから、そうなるんです。ですから、子供たちは子供たちなりに相談しなければなりませんが、両親の治療も重要なのです。ですが、このような話を遺族の前では本当にしにくいんです。遺族がこの事実を知れば理解困難ですから。遺族の立場では、どんな拷問でも、子供さえ生きているならば、100回でも1000回でも受け入れるという心になりますから。自分たちは今でもこのように戦っているが、あなたたちは子供も生き返ってきて、そんなことの何が心配なのかと、悲しい気持ちになるんです。ですが、すべての苦痛は個別的なもの、主観的なもので、自分の爪にトゲを刺さったことと、隣人の体が腐っていくことが、そう大差なく感じられるのが人間であるということを、各自が自らにあまりにも重い苦痛を有しているということを、容易ではありませんが受け入れる過程が必要です。
そしてもう一度申し上げたいのは、生存者生徒をはじめとして、セウォル号の被害者がまた2次、3次のトラウマを体験することがあってはならないということです。子供たちが追悼の様々な過程に自然に参加して、治癒の過程を経験するべきですが、そうすることが難しい障壁が存在します。たとえば、子供たちが初期に、悪性コメントでとても大きな傷を受けています。事実、子供たちが1泊2日の徒歩行進の参加の問題で、その前に数日間討論しました。遺族の両親たちが国会に行って、野宿して座り込みするのを見て、子供たちも何かやりたがっていました。自分の友達、またその両親に対してできることが何もない、だからこれでもしよう。それで徒歩旅行に参加しようというのですが、一方ではこれまでの悪性レスのために負担となり心配になるんです。当時、インターネット検索で「檀園高校」と打つと、「特例入学」が関連の検索語として出てきました。このように罵倒するので、子供たちの元気な反応が自然に出てくることが難しくなりました。そして他方では、生存者生徒の両親たちが、悪性レスで子供たちが傷つくのを見ながら、保守化する部分があります。不安や恐れのようなものも理解され尊重されるべき感情です。子供の内面状態と、両親のトラウマによる不安や恐れを考慮すれば、普段のように合理的な思考体系が作動しないということを理解するべきです。ですから、セウォル号の遺族に対する「イルベ」のような悪性レスだけでなく、生存者生徒の両親たちの消極的で防御的な態度に対して、かなり簡単に利己的で保守的だと非難されるのも少し自重してもらえたらと思います〔イルベ=韓国の2ch的ネット掲示板サイト―訳者注〕。

 

治癒過程は芸術的に

 

陳恩英 檀園高校の犠牲者ユ・イェウンさんの17歳の誕生日が10月15日にありました。先生が私に、<隣>で開かれるイェウンの誕生日会で、イェウンが家族と友達に伝える言葉を詩で書いてほしいと言いました。亡くなった子供の心に自分が果たして近付けるだろうか、自分の人生よりも大切だった子供を亡くした両親の気持ちを、どのような言葉の襞で触れることができるか、まったく自信がなくて何時間か悩みました。ですが、イェウンの心と声を入れるために、イェウンのお父さんであるユ・ギョングン氏のフェイスブックも熱心にのぞいて、イェウンが友達と春の日の桜の花の下で歌った動画や、夕方、ハンモックに横になっている写真を長時間ぼんやり眺めて過ごした1週間が、私には本当に特別で治癒的でした。そのようにイェウンの詩を書いてからは、亡くなった子供の助けと支援を受けて、ぼろぼろの世の中を、少しずつ直していけそうな勇気が生じました。私のように詩や小説を書く人々、また文学が好きな人々は、自身の体験を通じて、芸術的な治癒の瞬間にしばしば出会います。先生も、文学や芸術を単に治癒の手段や媒介として使うのを越えて、治癒の芸術性を信じているという印象を受けました。先生が「黄色い郵便配達人」の手紙作業をすること、また詩を通して犠牲者の子供の声を伝え、家族と友達が交感できるようにすることなどは、治癒過程に、文学、さらに広く、書く行為をきわめて深く介入させる作業のように見えます。芸術の治癒的能力と治癒の芸術性に対する先生の意見をお聞きしたいと思います。

鄭惠信 私は精神医学でいう精神分析という言葉自体があまり気に入りませんが、そのような機能的な接近では、人間をすべて理解できないという感覚があります。芸術こそ人をすべて理解させる1つの観点、態度だと思います。芸術的であってこそ治癒的であり、治癒的なものはみな芸術的だと思うんです。単に美術治療、音楽治療、動作治療などのことを言うのではありません。芸術治療という時の芸術は、美しさの極限状態をいいますが、ある人は音楽を聞きながら、自分の中のある種の美しさが刺激される瞬間を経験し、ある人は田舎の家を眺めて、赤ん坊の服が洗濯ロープにかかっているのを見ながら、美しさの極端を感じることができます。私はそのようなことがみな芸術性だと思います。ですから、今、このように死ぬほど苦痛で人生がめちゃめちゃになった人が、たとえば誰かがカボチャを料理して持ってきたのを見て、ふと「そうか、カボチャの季節になったんだな」と考えること、それも美しさが感じられことだと思います。そのような元気が、結局のところ、人を生かすことができるんです。そのような微細な心の動きを日常でたくさん感じれば感じるほど、完全に治癒できるのであって、分析し説明して解決法を提示することが治癒ではないということです。すべての人間は(自己)治癒的です。美しさをたくさん感じれば感じるほど、さらにそうなりますが、そのような美しさがまさに人に与える治癒的刺激だと思います。

陳恩英 治癒空間<隣>が、美しさの力で、このすべての苦痛や悲しみの意味を理解しようとする人々でにぎわったらと思います。貴重なお話しをお聞かせ下さってありがとうございます。

鄭惠信 ありがとうございます。これまでは<隣>を訪問したいという市民に、もう少し待ってくれと言っていました。遺族がこの空間に適応する時間が必要なので。ですが、そろそろ市民の訪問も問題にならないかもしれません。むしろ遺族にとって力になりそうです。(2014年10月24日/治癒空間<隣(イウッ)>にて)

 

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エピローグ――愛の科学のために(チン・ウニョン)

 

1906年、米国サンフランシスコで地震が発生し、3千人が死んで都市が焦土化した時、現場にいた作家のメアリー・オースチン(Mary Austin)は、多くの市民が家を失ったが、家庭は失わなかったと伝えた。「市民が、単に壁と家具のある場所の代わりに、家庭になるほどの場所と精神を発見したからだ」。私たちはセウォル号の惨事で子供と家族を亡くした人々のそばで苦痛をもって言う。家庭を亡くしたけど、人生を失ってはならないと。しかし、冷静にいって、私たちは、家庭を亡くした人々に、人生を続ける場所と精神を提供する代わりに、死んだ子供たちと、なんとか生還した子供たちを、みじめなほど侮辱し、事件の真実を明らかにしてほしいという家族の哀願を握りつぶしてきた。

治癒空間<隣>に入った時、私が初めて感じたのは安堵感だった。遺族が少しの間でも休み、懐かしがって、人生を続ける場所があるということをこの目で確認したからである。海の中から子供たちを連れてきた話や、子供のいない家に帰る気持ちや、真実を明らかにしようとする過程に参加することで生じる、新たな傷や悩みまで、数多くの話が流れさまよう場所だった。チョン・ヘシン先生と対話した、とりわけ明るい部屋は、格別に防音に気を遣ったという。「きちんと泣く場所さえない人たちのための場所です」と紹介した彼女の暖かい声が耳元に残る。真の繊細で詩的な配慮だと思った。

しかし、その後に続く説明はこうだった。子供を亡くして家に帰ってきた夜、両親が号泣すると、隣家でも一緒に泣いた。夜ごと泣き声が続いた。そうするうちに100日ほど過ぎると、隣家で警察に訴えたという。薄情な話のように聞こえるが、充分にそのようなことがありうる。子供を亡くした両親のことを考えれば、依然として不憫でならず、子供があのようになったことも限りなく不憫だが、翌日になれば会社に出勤して、自分の子供を学校にもやらなければならない立場では、夜中じゅう聞こえてくる泣き声をずっと聞いているのがつらいのである。そのような隣家の苦渋を理解するために、両親たちは大声で泣くこともできず、静かにしくしくと泣く。だから、彼らには邪魔されないで、いつでも駆け付けて思い切り泣ける空間が必要だった。

チョン・ヘシン先生の「隣人の治癒者」は感傷的な概念でなく、傷ついた彼らの状況をよく観察し、彼らに実質的に役立つことが何か、緻密に思いやる機敏な精神の結果である。彼女は愛の科学者だ。隣人に対する歓待と愛は、愚直なまでの犠牲的で善良な心を通じて実現されるのではない。そのような心の神秘が強調されるほど、私たちは無力感と恥辱感に陥る。少数の何人かを除けば、私たちは隣人に寄り添えるほどの神聖さを有しているどころか、生計のために愛の純潔を留保しなければならない、無力で不完全な存在だからである。私が出会った彼女は、隣家の天使になるために偉大な愛が必要だと強弁することはなかった。ただ、こわれやすい存在なので、私たちが互いに愛することができるということと、だから近くに行って愛することにも学びが必要なのだということを、彼女は言ったのである。

 

〔訳=渡辺直紀〕