[特集] ろうそく民主主義の時代の文学 / 韓基煜
韓基煜(ハン・ギウク)
文学評論家、仁済大学英文科教授、『創作と批評』編集主幹。評論集『文学の新しさはどこから来るのか』がある。
ろうそく民主主義の新しさ
ろうそく革命一周年を迎える今も、昨冬の光化門広場と全国の都心の街頭をぎっしり埋めつくした市民の明るい表情と熱を帯びた喚声が鮮やかによみがえる。数多くのろうそくと人びとの熱気が合わさって巨大な共感の波をなした驚異の瞬間だった。人びとが久しぶりにまっとうな自分に戻ったように、生気あふれて世界の主人であるかのごとく堂々としていた。しかしながら、こうした明るい顔の裏面には「ヘル朝鮮」と呼ばれる暗澹たる、過酷な生があったのだし、人びとがろうそく広場に出てきたところには、ありとあらゆる権力の横暴と嫌悪に満ちた世界を変えようとする熱望が込められていた。
ろうそくが開いた新しい光によって私たちの文学の現在を照らしてみようという本稿では、ろうそく革命そのものに対する本格的な議論を展開する紙幅はないが、その特別な性格は指摘しておく必要があるだろう。すでに指摘されているように、延べ1700万人の市民が参加したとてつもない規模、現場を指揮・統制する指導部が不在であるなかで市民が自らその都度適切な要求と主張をまとめあげていった集団知性の知恵、平和的デモと合法的手続きの順守など、あらゆる面で従来の革命とは違っていた。革命にたいてい伴う「創建的暴力(foundational violence)」がなかっただけでなく、革命空間で表出される「公的自由の新たな制度化」が伴っていなかったことも、既存の革命論を裏切っている。このように特異な欠如がゆえに、キム・ジョンヨプは「今日も87年体制の守護にとどまっている」[1. 金鐘曄(キム・ジョンヨプ)「ろうそく革命の新たなステップに向けて」『創作と批評』2017年夏号、3ページ。]と診断しつつも、「気負いなくろうそく革命という名を与えた大衆の直観的洞察」を尊重して、ろうそく革命を「新たな制度の創設ではなく社会の自己理解そして革命の自己理解の更新の成就という面から考察することを提案」した[2. 金鐘曄「ろうそく革命に対するいくつかの断想」『分断体制と87年体制』創批、2017年、469ページ。最初からろうそくが革命であり、どうしてそうなのかを主張した例としてソ・ジェジョン「市民が空だ――継続されるべきろうそく革命」、創批週刊論評、2017年6月21日。]。
ろうそくが「革命」であるという「大衆の直観的洞察」に共感するのは、ろうそくが――とりわけ政権交代以来の変革的ダイナミズムが弱まる前である初期に――李明博と朴槿恵政権が傷つけた87年体制の民主主義を「回復」することに留まらず、その体制の境界を「突破」したと感じたがゆえである。両政権以前の87年体制へと戻ることだけではろうそく市民の「差別なき」民主主義の要求、世界を変えようという大転換の要求に応えきれないであろう。じっさい、ろうそくは基層ですでに幅広い変革的要求が生成されていることを露わにしたのではなかったか。87年体制のもとで平等な人権/市民権を認められなかったり、そもそも排除されていた人びと(女性、労働者、障がい者、移民、性的マイノリティ、青少年など)の生きた声があちらこちらから噴き出したのに、これを既存の制度ややり方で収斂することは、もはや不可能であろう。
ひとつ意味深い変化は、裏面憲法として通じる、国家安保を言い訳にして市民の憲法的権利を蹂躙してきた反共反北イデオロギーの印籠が通じなくなったことである。ろうそく市民たちは「大韓民国の主権は国民にあり、あらゆる権力は国民から生じる」と、呪文のように唱え続けることによって、国民が唯一の主権者であることを宣言したが、これは大統領弾劾をリードした主権者たちをアカ〔共産主義者の意〕や従北左派として退けるなという警告にも聞こえた。もちろん星条旗を手にしたいわゆる太極旗集会では、未だ険悪な従北のレッテル貼りが乱舞していたが、ろうそくに圧倒されて時代錯誤な笑劇に終わった。要するに、朝鮮戦争以来力をふるってきた裏面憲法という天下無敵の魔法は、解けてしまったのである。この意味深い進展と突破をもとに「ろうそく民主主義」と呼ぶべき新たな民主主義の流れが形成された。
ろうそく民主主義の志向性は、ろうそくの背景となった数々の事件、すなわち最も直接的には朴槿恵・崔順実の国政壟断事件と、最も起源的なセウォル号惨事をはじめとして、星州(ソンジュ)へのサード配備反対闘争、梨花女子大占拠闘争、江南駅女性殺害事件、九宜(クウィ)駅非正規職労働者死亡事件などに垣間見ることができる。これらの事件は韓国社会を構造化するいくつもの層の「傾いた運動場」――権威主義国家と国民、持てる者と持たざる者、米国と韓国、男性と女性、正規職と非正規職のあいだの不平等な関係――の、余りにひどく傾いた傾斜のせいで起こった。ろうそくは、このように傾いた運動場と化した世界を根本的に変えんとする淵源をもっている。
ろうそく革命の未来は平坦であろうと期待だけしているわけではない。市民の自発的参加にもとづいたろうそく革命の駆動力が弱まったうえに、新政府のビジョンと実力が変革の諸課題にひとりで耐えるには重すぎるとも思う。しかし私たちはすでに古びた世界を背にして新しい世界へと出てきたのであり、楽観と悲観の次元を超えて「後戻りできない道」の上にいるのである。
ろうそく集会でとくに印象的だった場面は、自由発言ステージに上がった人びとの、各々に生き生きとした発言と身振り、柔軟で個性的な語法である。中高生からおばあさん、おじいさんまで、労働運動家から非正規職、アルバイトまで、実に多様な人が自らの生を基盤に自分がなぜこの場に出て、何を願うのかを情熱的に聞かせてくれた[3. 自由発言ステージの生き生きとした発言は、黄静雅(ファン・ジョンア)が主張するように「広場は権力を退陣させる闘いのみならず我々自身が何者で、誰であろうとするのか、民主主義とは何で、何であるべきかを知り、また理解しようとする「情熱的な闘い」の現場」であることを実感させてくれる。黄静雅「民主主義はどのような「気持ち」なのか――金クムヒと黄ジョンウンの最近の小説」『創作と批評』2017年春号、55ページ。]。硬直した口調で準備された闘争スローガンを叫ぶ伝統的な運動圏の弁士もいたが、彼らよりも熱い拍手を受けたのは、常套句にしばられずに自分なりの語法で生き生きと語りを聞かせてくれた人びとだった。
これらの発言ににじみ出ていた生々しさはどこから来たのだろうか? おそらく世界と自己の生を変えていこうとする熱望から出たのではないだろうか。しかしともすれば、臆しない発言の瞬間、すでに私たちは新しい生と新世界の真骨頂をちらりと垣間見たのではないだろうか。文学がろうそく革命に参加したということは、文学が新世界作りの政治社会的プロジェクトに寄与するという意味だけではない。たとえば文壇内の性暴力とブラックリストといった積弊を清算することが要されてはいるが、これに限定されてはいない。むしろその真意は、何が古い世界で何が新たな世界なのか、何が生きている生で何が死んだ生なのかを明らかにする文学的実践そのものが、必ずや新世界作りのコアをなす一部であるというところにある。
次節では、ろうそく民主主義の新しさと関連した作品を扱うが、先に指摘した古い世界と新しい世界、生きている生とそうではない生を分ける思惟と感覚に注目しようと思う。制限された誌面で選別的な議論をするしかないが、ろうそく革命前後に続々と出版された最近のフェミニズム小説の数編と、10年前に出た韓江(ハン・ガン)の『菜食主義者』、そして惨事以降の生を掘り下げた金呂玲(キム・リョリョン)のいくつかの小説を検討することにする。
最近のフェミニズム小説と『菜食主義者』
ろうそく革命を契機に噴出した「差別なき民主主義」の要求のなかでも、女性差別と女性嫌悪に対する反発と抵抗はとくに顕著であったし持続的であった。この流れに歩調を合わせてラディカル・フェミニズム批評と女性嫌悪批判の言説もまた活発に繰り広げられ[4. ジェンダー不平等と女性嫌悪批判の言説に関連して多数の議論が出た。最近の議論の流れを整理した論考として白智延(ペク・チヨン)「フェミニズム批評と‘嫌悪’の読み方」『創作と批評』2017年夏号、19-25ページを参照。]、フェミニズム小説が雪崩を打つかの如く世に問われたことは偶然ではない。
韓国におけるフェミニズム文学の歴史も短くはないが、ろうそく革命との強い連関のなかに登場した小説――チョ・ナムジュの長編『82年生まれのキム・ヂヨン』(ミヌム社、2016)、カン・ファギルの小説集『なかなかの人』(文学トンネ、2016)と長編『別の人』(ハンギョレ出版、2017)、パク・ミンジョンの小説集『妻たちの学校』(文学トンネ、2017)、キム・ヘジンの長編『娘について』(ミヌム社、2017)――の雰囲気というか、情動は、以前の小説とは違う感じがする。ラディカル・フェミニズムが勢いを得たりレズビアン・フェミニズムが台頭したりしていることに現れているように、女性独自の主体化が顕著であるためであるように思われる。違いを誘発するもうひとつの要因は、この時代の若い女性の大多数が「プレカリアート(precarious+proletariat)」と呼ばれる不安定な労働者として生きているところに起因する。いうなれば、下層労働者であり女性であるという二重の差別体験からにじみ出る質感が、前世代のフェミニズム文学とは違った特徴であると言えるだろう。
これらの小説間の違いにも注目する必要がある、チョ・ナムジュの長編は主人公のキム・ヂヨンの生を中心に的確な状況設定と出来事の配置をつうじてその世代の女性たちが経験するであろう様々な種類の差別と抑圧を一様に提示する美徳があるが、キム・ヂヨンが一個体として生きている存在であるというよりは、差別される女性の特性を等しく組み合わせて作った平均的人物のような感じを与える。このような美徳と限界によって『82年生まれのキム・ヂヨン』は、フェミニズムを指南するお役立ち「啓蒙小説」のように読める[5. この作品に対する詳細な議論としてはシン・セッピョル「プレカリアートフェミニスト――チョ・ナムジュ、カン・ファギルの小説に注目して」、文章ウェブジン、2017年7月1日参照。]。カン・ファギルの長編『別の人』の目立った長所は、フェミニズムを説得するというよりは情熱的に呼ぶような(人物よりも作家の)声にある。ただ、その情熱が先走っているせいか、性差別と村八分、性暴力などを見せるために設定された事件と関係があまりに複雑で、意図された志向性を失って混乱が引き起こされうる点が残念である。強烈な声が既存の形式を破裂させるが、新しい形式を見出したようではない。これに反してパク・ミンジョンは「幸福の科学」と「A子に送った遺書」(『妻たちの学校』)で見せたように、精巧なプロット感覚があり、プレカリアート女性労働者の生と国粋主義マッチョ文学に対する理解が深く、独特な女性人物たちを提示することに成功している。ただ、発想が自由なだけに設定が作為的でメロドラマチックな点が引っかかる[6. パク・ミンジョンのレズビアン叙事『妻たちの学校』に対する議論は車美怜(チャ・ミリョン)「向こう側のクィア――2010年代の韓国小説と規範的性の問題」『創作と批評』2017年夏号、64-68ページ参照。]。
キム・ヘジンの『娘について』は様々な面で注目すべきである。まず、レズビアンの娘ではなくその母を語り手とした話法のおかげで、小説はレズビアン・フェミニズムのための啓蒙的な抵抗叙事に還元されていない。この観点によって読者はレズビアンの娘よりも「実は、母について」(「作品解説」のタイトルでもある)遥かに多くのことを知ることになるだけでなく、年をとった異性愛者の女性が持ちがちな偏見に、批評的な距離をおいて向き合うことになる。たとえば真夜中に二階建ての家の酷い夫婦喧嘩の声を聞いて家庭内暴力を通報した娘カップルに対して、語り手は心中で「あの子たちは夫婦になって家庭を築く大変さを知らない。そんなこともわからないという恥ずかしさもない。恥ずべき人が誰なのかも考えられない」(50ページ)と嘆くが、読者はその嘆きに同調するというよりは批判的に読むことになる。
母の「(血縁)家族」中心の思考方式は既成世代には正常で通じるが、少数者差別を撤廃しようとするろうそく民主主義時代にはそうした正常性は疑問に付され、それだけに母は「信じられない語り手」となる。そうして母の語りは異性愛家族中心の先入見を逆にかみこなして聞く面白さを与えることはあっても、これ以上望ましい生の典型を提示することはできない。しかし母は娘に対する愛情で気をもんでいるうえに、一生を労働者として生きるなかで他者に対する配慮と共同体的品性が備わったおかげで「信じられる語り手」になりうる可能性が開かれる。たとえば母は自身が世話していたジェンが最後に移送された療養所に訪ねていき、数日だけ家に招きたいと要請する。療養所の職員が「家族じゃなければ絶対にだめ」だと言うと、母は「あの人は家族がいないんです。血を分けた直系家族のようなものがいないんですって。訪ねてくる人がこの世のどこにも一人もいないんですって。家族でもそうじゃなくても、それがいったい何がそんなに重要なの」と抗議する(176ページ)。血縁家族を重視してきた母は、この地点で自分でも気づかぬ間にその境界を突破したのだが、おかげで小説はあまりにアイロニーな効果を獲得する。要するに「信じられない語り手」と「信じられる語り手」のあいだに批評的空間が開かれることで発生するアイロニーが、この小説の魅力である。
適切な話法の駆使とともに、認知症療養所の保護司としてのケア労働と、そこで出会ったジェンとの関係、さらに娘カップルとの関係まで、すべてが写実的実感を生かして描かれたことも評価に値する。たとえば娘が母にぞんざいに接するのに反して、娘のパートナーは深い配慮の心の持ち主として形象化された点もそうである。ただ、このように人物とその関係がすべて適切に提示されていると、設定の作為性が気にならなくもない。母が娘カップルに「私がおまえたちを理解できるなんていう奇跡のようなことがおこるだろうか。時に奇跡はおぞましい姿でやって来ることもあるから」(194ページ)と吐露するように、娘カップルの関係を認めつつもまだ理解はできないという設定も説得力があるが、これさえどこか「正解」のようだ。成功作であるが、あまりに模範的というか、あまりに適切だというか。たとえばレズビアン・フェミニズムという「進歩的」なテーマを扱ってはいるが、適正な線を越えることはない。
四人の作家がそれぞれのやり方と叙事戦略でフェミニズム文学の前線で奮闘していることは確認できたが、ろうそく革命に相応しい文学的突破にまで至ってはいないようである。ともすれば1970~80年代の労働文学・民衆文学がそうだったように、いくら先進的で革命的な思想でも、普遍主義的な発想に頼るとむしろ文学的効力は半減するという現象ではないかと思う。この地点で韓江の『菜食主義者』(創批、2007。日本語訳はきむ・ふな訳、クオン、2011年。以下、引用ページは韓国語原文のものを表示)を思い浮かべるのは、この連作小説はフェミニズムという普遍主義的な発想をもって出発しているわけではないが、やはりそれゆえにフェミニズムの観点からも非凡な叙事として読まれる面があるからである。このような様相を示すのはこの小説が美学的であれ政治的であれ、あるアジェンダを決めて進むというよりは、存在論的に未知の領域を探求する「発見的」方式をとっているためである。これは「存在(Being)」の次元では「ひとつの世界を生じせしめる行為」[7. ハイデガーの「worlding」概念を敷衍したものである。この概念に関連してハイデガーの時間性としての世界概念についてはPheng Cheah, What Is a World?: On Postcolonial Literature as World Literature, Duke University Press 2016, 93~130ページを参照。 “I will discuss Heidegger’s argument that radically finite temporality is a “force” of worlding, a process that, in giving rise to existence, worlds a world”(97ページ)を参照。]に比肩するものである。もちろん、このときの世界は私たちがよく思い浮かべる事物と人間の総合としての世界、すなわち空間的概念としての世界ではなく、主体と客体の区分以前の世界、時間性のなかで常に新しく自己更新していかねばならない世界である。
『菜食主義者』のこうした探求的・発見的特性は、この中編連作――「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」――の複雑で精巧な叙述構造に反映されている。三つの小説の主要な叙述者は、ある日だしぬけに菜食を決断する主人公のヨンヘではなく、彼女の謎のような行動を見守る夫(「菜食主義者」の一人称の話者)、姉の夫(「蒙古斑」の三人称の焦点話者)、姉のインヘ(「木の花火」の三人称の焦点話者)である。ヨンヘの生はいくつかの発言およびイタリック体〔日本語訳ではゴチック体〕の内面叙述を除いては、この三者の観察と描写をつうじてのみ叙述されるので、この連作はヨンヘという不可解な存在を探求しながら同時に私たちの時代の典型である叙述者たちの心の内と生のありようを効果的に描き出せることになる。いうなれば、それぞれの叙述者がそれぞれのやり方でヨンヘを解釈する物語を聞かせてくれることによって、自らを晒すと同時にヨンヘを再構成していくという叙事の装置なのである。
もうひとつ注目すべきは、三人の叙述者の物語の信頼度が、各自異なるという点である。「菜食主義者」のヨンヘの夫は完全に「信じられない語り手」であるのに反して、ビデオアーティストである「蒙古斑」の姉の夫と「木の花火」の姉は、それよりはるかに信頼できるが、かといって完全に信じられる物語のみを語っているわけではない。たとえばヨンヘの夫は「世界で最も平凡な女」(10ページ、26ページ)とみなされてきた妻が急に肉食を拒否するや「これほど自己中心的で身勝手なところがあったとは」(20ページ)と反感と嫌悪感を露わにする。彼は悪どいというよりは普通の俗物的欲望と通念をもったサラリーマン男性だが、だからこそ妻の変化を理解できない。他方で中年男性の日常に垢じみた姉の夫は、芸術家的情熱に真正性もあって、妻であるインヘの目に「彼の情熱に満ちた作品と、水族館に閉じ込められた魚のような彼の日常のあいだには、決して同一人物だといえない隙間がはっきりと存在するかのよう」(162ページ)に見えるほど分裂した存在である。アーティストとしての彼は信頼できるが、中年男性としてはそうではない。インヘは家計に責任をもち、アーティストの夫と幼子の面倒を見て、妹のヨンヘの世話までする誠実な人だが、それだけに自分は最善を尽くしたという小市民的な虚偽意識にとらわれている。妹と夫の性行為の場面を目撃してその虚偽意識が打ち壊されたことで、インヘは少しずつ信じられる叙述者へと変わっていく。そうして「ふとこの世で生きたことのない感じ」「ただ耐えてきただけ」という感覚(197ページ)であるとか、ふと「自分がずっと前から死んでいたことを」(201ページ)悟る自己省察の瞬間を迎える。要するに、この作品には純然たる真実を探知した話者/叙述者も、作家の立場と完全に同一視できる話者/叙述者もいないのである。
三人の叙述者の世界観の違いを要約すると、ヨンヘの夫はこの世界を適切に生きていこうとしているだけで新世界を望んではいないし、姉の夫はこの世界に縛り付けられているが蝶のようにその境界を超えゆくことを渇望し、姉はこの世界で生きていくことに最善を尽くしたがただ耐えてきただけで真に生きたわけではないという悟りに達する。ヨンヘは異常症状にもかかわらず、いや、ともすればそうした「非正常性」がゆえに、この世界の境界を越えてしまった人である。このヨンヘと通じる人物はアーティストである姉の夫、そして自己の生の問題に気付いた後の姉だけである。ここで一つ争点となるのは、姉の夫とヨンヘの性行為をどう見るか、である。それは社会的道徳律の観点からは不倫に違いないが、(夫がヨンヘにしたように)強圧による性暴力ではないうえに、セックスの後に交わされる二人の対話からヨンヘが久々に平穏を取り戻すという事実は、特記しておくべきだろう。ヨンヘは肉食を拒否することになったおぞましい夢の話をしながら「もう怖くないの。……怖がらない」(143ページ)と自分に言い聞かせるかのように語る。タブーの性行為がヨンヘに治癒の効果をもたらすのは、ヨンヘの存在的追求がこの世界からの脱出を夢見る姉の夫の芸術行為と親和的だったからであろう[8. この点を考慮するなら「蒙古斑」の核心は「姉の夫による妻の妹の性的搾取」と要約する崔元植(チェ・ウォンシク)の解釈には同意しがたい。崔元植「われらの時代の韓国文学の二つの軸――韓江と権ヨソン」『創作と批評』2016年冬号、83ページ。この解釈は事件当時のインヘの見解と通じるが、自己省察後の彼女はそれが真実ではないかもしれないことを感じ取る。問題の場面に対するインヘの「それはあきらかに衝撃的な映像だったが、おかしなことに時間が経つにつれ性的なものとして記憶されなくなった。花と葉っぱ、青い幹などに覆われた彼らの体は、まるでもはや人間ではないかのように見慣れぬものだった。彼らの身振りは、まるで人間から脱けだそうとするもがきのように見えた」(218ページ)と心情を吐露している。]。
ヨンヘに加えられた多様な暴力については、どう見ることができるだろうか。三つの場面に注目してみよう。一つは、家族みんなが集まった場で父の主導のもと弟が手伝って母がなだめすかしてヨンヘに肉を無理やり食べさせる場面である。インヘだけが父を思いとどまらせようとするが、それが通じないであろうことは分かり切っている。家父長制暴力、それも集団暴力ではないかと思う。二つめは、妹と夫のセックスシーンをビデオで見て衝撃を受けたインヘが二人を精神病院に閉じ込める措置をとったことである。一般的にこうした措置が深刻な暴力とみなされることは稀であろう。まず夫と自分の妹とのあいだの赤裸々なセックスとそれを撮影までしたことは、ポルノの作動方式と酷似しており、そのうえこれによって自分に最善を尽くしてくれた姉を深く傷つけたことも深刻な暴力であるといえば暴力である。しかしヨンヘの存在的追求と姉の夫の芸術的行為とのあいだの親和性に焦点を合わせれば、この措置は治癒の気配を見せていたヨンヘの生をふたたび無残に破壊する仕打ちだった。それがヨンヘを最も大切に思っていたインヘの手でなされるという事実も目を見張る部分である。
三つめは、精神病院で菜食さえ拒否するヨンヘにチューブで強制的に経管栄養補給をおこなう場面である。断食による死亡を防ぐために行うこの措置は、死とは無条件に避けねばならないものであるという世界の論理が振りかざす暴力である。食べ物を強制的に食べさせようとする病院の措置に反発する妹に対して、インヘが「あんたが!死ぬかと思って心配してるんじゃない!」(190ページ)と抗弁すると、ヨンヘは「……なぜ、死んではいけないの?」(191ページ)と反問する。この場面は肉を無理やり食べさせる最初の場面に続いて、食べ物を拒否することによってこの世界の支配から抜け出そうとするヨンヘの試みが世界のシステムによって源泉封鎖されているような感じを与える。
ヨンヘが菜食になり、後には木になることを念願して食べ物を拒否することを、どのように解釈したらよいだろうか? この小説には菜食―花―木へと連なる植物性のモチーフが散在しており、意味深長な響きを醸している。しかしヨンヘが自身に加えられた数々の暴力に対して、ナイフで手首をかき、獣のように―「獣のように悲鳴」(51ページ)、「まるで獣のような声」(211ページ)――叫ぶことによって決死の抵抗をする点で、植物的主体性とは距離がある[9. シン・セッピョル「植物的主体性と共同体的想像力――『菜食主義者』から『少年が来る』まで、韓江小説の軌跡と意味」『創作と批評』2016年夏号参照。]。また、「木になる」熱望が軽度の精神分裂者であるヨンヘの妄想である可能性も排除できない。植物的主体性のコードだけで読むことは、テクストに込められている曖昧さ(ambiguity)の諸要素を無視する読みになりうる。ヨンヘは何よりも存在の不可解さを見せているが、彼女がどのような存在なのかを暗示する端緒がまったくないわけではない。ヨンヘを苦しめる夢とそれゆえに始まる肉食拒否・断食は、存在の心と体に決定的な影響を与える要素である。近代的合理性に反するこの二つの要素に、ついて行くところまで行くヨンヘの存在的動きは、隠喩的な次元では家父長的秩序と肉食を当然視する近代文明への批判の響きがこもっている。
死にゆくヨンヘを乗せてソウルに向かう救急車で、インヘがヨンヘの耳に「夢のなかでは、夢が全てみたいでしょ。でも目がさめればそれが全てじゃないってことがわかる……。だからいつか私たちが目を覚ましたら、その時は……」(221ページ)とささやく最後の場面は、深い余韻を残す。何が夢で何が夢から覚めた現実なのだろうか。インヘとヨンヘのそれぞれに別の形で現れたが、悪夢のような現実であるこの世がむしろ夢で、そこから目覚めさえすれば新しい生が可能になるという意味が込められているようである。ヨンヘの本当の気持ちは未だ知りえないが、インヘはヨンヘを初めて同情心も憎しみもなく純粋に抱きしめる。そうして少なくとも隠喩的な次元では、地獄のような世界を通過した姉妹が生の終わりにさしかかって真の「私たち」となるこの終結は、すばらしいフェミニズム叙事としても遜色がない。また、ここでインヘは自身の生を締め付ける小市民意識から抜け出したばかりでなく、不可解な存在であるヨンヘにも自分の存在を開放することによって自己変革を成し遂げたのではないだろうか。
惨事以降の生、金呂玲の小説群
セウォル号惨事とろうそく革命がこの時代を特徴づける二大事件である理由は、惨事に凝縮された時代的な問題点がろうそくをつうじてのみ明らかにされうるからである。これは主体外部の世界で展開される話だけではない。この時代の人びとの相当数が規模や様相は異なれど、それぞれの惨事とろうそくを経験している。惨事を死に限定せずに惨憺たる事件まで含めるならば、惨事の外側でこの時代を生きることは可能だろうか。惨事に遭ってもろうそくが不在の人は、インヘのように生を生きるというよりは「耐えて」いるのである。ろうそくなくして新しい生を始めるのは困難だからである。この点で、近年、セウォル号惨事とろうそく革命に関連したドキュメンタリーとともに、惨事とその後の生を掘り下げる詩や小説が多数出版されたことは偶然ではないだろう。
キム・タックァンの『嘘だ』(ブックスフィア、2016)、韓江の『少年が来る』(創批、2014)が歴史的惨事のなかでこのテーマを扱っており、ある一個人や家族の次元でこのテーマを探求した小説は相当な数に上る。ファン・ジョンウンの『続けてみます』(創批、2014)と中編「笑う男」(『創作と批評』2016年冬号)、クォン・ヨソンの『アンニョン、よっぱらい』(創批、2016)、チョ・ヘジンの『光の護衛』(創批、2017)、キム・エランの『そとは夏』(文学トンネ、2017)など、事実上、この時期の力作はその大部分と重なる。「青少年文学」に分類されがちな小説のなかでも、このリストに載るであろう作品は少なくない。たとえば『優しい嘘』(創批、2009)からはじまり、すでに惨事後の生を跡付けてきた金呂玲の小説集『シャンデリア』(創批、2009)と、ソン・ウォンピョンの長編『アーモンド』(創批、2017)こそ、このテーマを集中的に探究した作品である[10. 韓国の評壇はいわゆる「青少年文学」を真面目に評しないが、この慣行は再考されてしかるべきである。青少年の生は「ヘル朝鮮」の外側ではないばかりか真っただ中にあるというのに、彼ら・彼女らの生と家族の生が絡み合って回っているがゆえに、青少年の生のみをとりだすわけにはいかない。「青少年文学」をひとつのジャンル文学とみなすなら、その中にはこのジャンルにおいては成功作であっても当代文学の水準作には届かない作品もあるかといえば、傑作もある。金呂玲の場合、『優しい嘘』が後者に属し、小説集『シャンデリア』に収録された小説のほとんども後者の側である。]。
金呂玲の小説を読むと、作家の大胆でありつつも繊細な感受性が多々実感される。ところがその大胆さが主流小説の「美学化」傾向から抜け出る長所として作用するかといえば、時に通念的情緒や常套句を何となしに使用する弱点として現れもする。作家が為した美徳があるけれども、評壇や読者から大きな呼応を得られなかったのは、通俗的な要素をあまりに「大胆に」引き入れたせいでもある。しかしその大胆さが非凡な芸術的効果を発揮するときがある。それはまさに死に対するときである。
大多数の小説とは違って、金呂玲の小説は惨事であるほかない死を簡単に知らせることで始まる。「事件の中心に(in medias res)」すぐさま入っていくのである。長編『優しい嘘』では小説の冒頭で「明日を準備していたチョンジが、今日死んだ」(7ページ)と告知し、中編「イヤフォン」(『シャンデリア』)では最初から不吉な対話(「本当に何の音も聞こえなかったの?」/「はい」/「そんなことありえる?」、165ページ)が提示される。数ページ後の「母さんの体の上に白い布がかけられた」(170ページ)という一言で、惨事が起こったことが明らかになる。チュンイルは自分の部屋でイヤフォンをつけて音楽を聞きながらゲームをしていて、台所で母親が倒れて死にゆくことに全く気付いていなかったのである。
最初の場面ですぐに死を登場させるこの手法は、主要人物の死がクライマックスに配置される通常の叙事方式とまるで違う。多くの小説で死は生の終わりであるが、金呂玲の小説における死は、生の真っただ中に置かれる。大部分の小説で死は格別な意味を持たされる代わりに、徘徊されると困る凶物のように片隅に閉じ込められているのに反して、彼女の小説で死は大きくまくしたてないながらも、全編にわたって存在感をもつ。死以前の生を振り返る作業は、まさに死の原因究明のプロセスでもある。「イヤフォン」で死の原因は公式的には「不注意で発生した事故死」(202ページ)と判定されるが、死の実際の原因究明はイヤフォンの意味に集中する。チュンイルにとって高価なイヤフォンは、友達のあいだで自慢できるものであるだけでなく、学校―塾―家を行き来する大変な生活から抜け出して自分だけの世界を生きさせてくれる、なくてはならない装備である。しかし皮肉にもそれはチュンイルの生を家族の生と完全に遮断しもする。チュンイルの父の場合もそれほど違わない。生活費を稼ぐことに追われて「だんだん小言がふえる妻とイヤフォンひとつで一人天国に住む息子」(200ページ)に「ムカついて」気晴らしにしているのが息子のようにイヤフォンをつけてゲームをすることだった。倒れた母を最初に発見したのは父だが、母親が倒れた瞬間、父親もイヤフォンをしてゲームをしていたことが暗示される。この段になるとイヤフォンはただ単なる機器を意味しない、疲弊して過酷になる生の圧迫を避ける通路であると同時に、まだ残っていた家族的・共同体的つながりを遮断・解体する機制の象徴なのである。よく聴くための装置であるイヤフォンがむしろコミュニケーションを断絶するというアイロニーをつうじて、現代技術文明の逆説的性格が露わになっているといえる。
死/惨事以降の生は治癒のプロセスであるが、ろうそくのような生を明るくする精気がなければ真の克服はなされ難いだろう。「イヤフォン」の場合、惨事以降の暗い時間を明るく照らすろうそくは、祖母と伯母から出てくる。それは現実とあるがままに対面するプロセスでもある。祖母は大胆な性格と共同体的品性によって息子と孫を抱擁し、思慮深い伯母はチュンイルの深い傷を見て精神科のカウンセリングを受けさせる。そうしてやっとチュンイルは母の死の瞬間を、きちんと想像して直視できるようになる。「ドア一つをはさんで、一方には母が椅子から落ちて頭を床に打った。ガチャン、と音を立てて砕け散った皿。チュンイル……。もう片方ではチュンイル自身がイヤフォンをはめて踊っていた。好きな歌手の新曲はちょうど好きなリズムで、サッカーゲームは逆転勝利をおさめた瞬間だった。いいぞ、プンパパパ、プンパパパ……椅子に座ったままでリズムに乗った」(240-241ページ)。この小説は「イヤフォン」という実物かつ強力な象徴をつうじて、現在の私たちの社会で家族がどのように断絶された状況に瀕しているのかを洞察する秀作であるが、祖母と伯母の力を借りた治癒のプロセスが、多少出来過ぎた話のような感も否めない。
『シャンデリア』の別の短編もまた、ある特定の類型にしばられずに、生き生きとした人物を作りだす金呂玲の能力を実感させてくれる。死と生のリズムのあいだを行き来する心の動きを繊細につかみとる作家特有の感覚が力を発揮する一面でもある。先に論じた「イヤフォン」のチュンイルとチュンイルの父の形象化もすばらしいが、カギカッコもなしに連続する対話の言葉をつうじて、青少年の生と言語の生き生きとした現場を足早に描き出す「つらら」は、この点で秀作である。たとえば、「知り合い」は一人の女子高生が家庭教師グループの仲間と先生の性暴力の罠にかかる過程をぞっとするほど真に迫って描き出す。人物の形象化の面で最も注目すべきは「彼女」と「ミジン」の連作である。この連作で身体的な死と生だけでなく、「生きている生」とそうできない生に対する作家の人並み外れた感覚が、人物の形象化をつうじて遺憾なく発揮されているからである。
「彼女」の一人称の話者は祖父の葬式を準備しに田舎に来た中学生の男の子で、そこに住む「ブタばあちゃん」の孫娘である〈彼女〉に出会う。彼女に対する話者の第一印象は「胸糞悪さ」そのものだった。「体中に胸糞悪さを装填していて、シグナルさえ送れば糞を発射しそうだ」った(40ページ)。そうして二人のあいだに何かいい関係が芽生えそうかというと、小説は彼女の胸糞悪さがそれほど悪くはなく、実は「生きていること」の印でありうることを暗示する。その気配を感じさせるところには、いくつかの要因が作用している。
まず、この小説に登場する田舎町が、少年話者の立場から実感ありげに描かれている点が重要である。たとえば葬式を準備する過程と本家と分家の家族親戚たちが一緒に働くことで町中が活気をおびる過程がそうである。話者が伝え聞いていたこの町の偏屈な一面、すなわち村の老人たちがわざわざ訪ねてきた若者の一挙一投足に干渉し、説教するに留まらず小言を言いつらねる場面も、いかにも生き生きとしている。あるいは、話者の父が本家(父と父の兄の家)に来て、帰ろうとするときに一人のおじいさんから聞いた小言(「姉さんたちにお小遣いはやったのか? 毎日タダ飯ばっかり食べていてはいけないよ」、56ページ)がそうである。ところが〈彼女〉は田舎の大人たちの偏屈な小言にもまったく悪びれることなく「生意気ぶりが自由な魂」(55ページ)なのである。
胸糞悪い性質の彼女と、手ごわい「中坊」の話者が暗闇のなかでけりをつけようとする場面は、この小説の白眉であり、生きている生の感覚と関連して意味深長な響きを与える。その対話の絶頂で彼女が「大人たちの言いなりになって学校なんかに通うつまらん奴が……」と攻撃すると「出て行ってまた戻って来たからって、お前がすごいって? お前、マジつまんねー」と応酬する(45ページ)。二人のこの言い争いの場面では、「つらら」の言語的活力からも感じられた今日の青少年たちの生きたエネルギーが実感される。話者は「胸糞悪くてしょうがない彼女」(44ページ)のせいで胸糞悪い性質を出しながらも彼女の性質のなかにべったりと張り付いた弾力に惹かれる。
「ミジン」は〈彼女〉にいかなる連累が都市の生を放棄して田舎の祖母の家で暮らすことを「選択」させたのかの顛末を語っている。この小説もまさに「事件の中心に」入っていく叙事方式をとっている。ミジンにとっての一大事件は、これまで何でも聞いてくれた母の態度が一変することから始まる。ミジンは勝手に塾の代わりに家庭教師に見てもらうことに決めて、母親をこれまでと同じように丸めこもうとするが、母親の反応は全く予想できないものだった。雰囲気をつくっても無駄だということがわかるとミジンは「私、家庭教師を頼む」と言い出す。すると母親は「通報?」とまるで鋭いジャブのように短く反問し、瞬間的に衝撃を受けたミジンに「いったいあんたは何の根拠があってそんなに堂々としてるの?」(67-68ページ)ともう一発お見舞いする。
「私が堂々できないことなんて何かある?」
「あんたは自分のことをどうやって証明したの?」
「何て?」
「あんたが何様だからって、あんたの決めたことを親に一方的に通報するわけ?命令してるの?」
「そう、命令。母さんが勝手に生んだんだから、責任とって当然でしょ!」
「どんな命も本人の許可を得て生まれるんじゃない。あんたの言う通りなら、私が勝手に生んだんだから、あんたの生命権も私があげたってことでしょ? 殺してもいいの?」(68-69ページ)
つねに言い負かしてきた母との口論でミジンは「殺してもいいの?」という致命打を打たれて初めて惨憺と打ち崩れる。そのうえ母親から「(おまえは)ただの平凡な子だから、あんたは全然特別な人じゃない。憶えておきなさい」(69ページ)と寒々しいことこの上ない評価までされて、どうすべきか方向を失う。もちろん「胸糞悪くてしょうがない」ミジンが素直に引き下がるわけはない。父親に訴えてみたり一週間家出をしてみたり、最後には学校を退学するとまで言って抵抗するが、まったく効果がない。母親は深刻な鬱のせいで、父親はそんな母親の世話をするために、娘の抵抗に対処する余力がなかったのである。
こうしてミジンはこれまでと同じようなやり方で生を続けられなくなる。この状況でミジンは養豚業をつぶした祖父の自殺によって一人になった田舎の祖母と一緒に暮らすことを「選択」する。なぜそうしたのだろうか? 表面的にあらわれた理由は、親が自分の駄々をもう受け入れてくれないためであるが、もう少し掘り下げてみると、存在的次元にたどりつく。すなわち、ミジンのソウルでの生というものは、本質的に空虚だからである。学校―塾(家庭教師)―家を転々しながら忙しく動き回っても空騒ぎにすぎないその生は、彼女の存在を「証明」することとは距離が遠い。ショーのようにポーズで生きる生だったのである。そのうえ母親は母親で酷いストレスによって鬱病になり自殺衝動に駆られる危機状態だった。ミジンが家出した時、父は「妻は家で、娘は外で、自殺しそうだった」(80ページ)と告白する。要するに、ミジンの選択は窮余の策に見えるが、家族全体が危機に瀕していた状況で虚偽意識の生に疲れたミジンの直観的な選択だといえる。その選択の瞬間、ミジンの古い生の境界は「突破」されたのである。
「彼女」で見たように、ブタのにおいよりも偏屈な近所の人びとの干渉のせいで田舎生活も思ったほど楽ではなかったが、ミジンはそれにもめげずに、「無礼に」迎え撃つ。「あれ?もう行くのかい、あんたもうガッコ通ってるの?」/「はい」/「おばあちゃんはどうするの?」/「じゃあ、おばあちゃんを学校に連れていくのですか?」そうして次にミジンは内心でこう語る。「本当にすごい村だった。それでもここの方が家よりも良かった。なぜそうなのかは私にもわからない。近くで見てイライラするよりは、遠く離れて懐かしむほうがむしろいいみたいだった」(87ページ)。ところがミジンが自分でもわからないその理由を、読者にはわかるようにするところに、この小説の秀逸さがある。
ミジンが田舎の人びとの干渉と闘いながら自分の性質をすべてぶちまけることができたばかりか、村人たちからその「本性」を認められるまでになることは、ソウルでかっこよく見えるからと高額の家庭教師を雇い、友達を意識してアイパッドを買い、母親から何かを得ようとショーをすることよりも良い生であることが感じられるのである。生きている生とそうはできない生の違いに気付く作家特有の感受性が、ソウルと農村それぞれの現実にたいする写実主義的な認識と結び付くことによって、ともすれば観念的になりうるミジンの「自己変革」の物語を生き生きしたリアリズム叙事へと具現したのである。
私たちの社会が深刻に中央中心的であるとか青少年世代の展望がかなり暗いだとうかいう事実の固定化された像に執着したなら、こうした小説を書くことは難しかっただろう。金呂玲はそうした像にしばられずに一人の具体的な個人の変貌過程を――その個体内部で交差する生のリズムと死のリズムを繊細に区分しながら――周密に追っていく。そのプロセスで青少年世代と既成世代、田舎と都市、さまざまな家族形態を横切る幅広い小説的探求がなされる。とくに子ども世代の生を批判する相互批評的空間を作り出したことは特記に値する。一人の母親が子どもに対するいかなる期待も捨てたような最新作「掃除」(『創作と批評』2017年春号)もまたその延長であるが、これまでとはまた違った舞台の、新しい試みに見える。
おわりに
ろうそく革命に相応しい文学とは、「差別なき民主主義」といった進歩的なアジェンダと無関係ではないが、それを反映したり主張するといって成し遂げられるものでもない。古びた言語と語法で語る瞬間、その内容がいくら進歩的で革命的でも、無駄なものになってしまうからである。それは文学の言語が頭だけの言語ではなく、体の言語だからでもあり、その語法が違っていく瞬間、心の動き方も違っていくからである。一見、ろうそく革命と無関係なようにみえる韓江の『菜食主義者』と金呂玲の小説群を考察したのは、両作家の作品のなかで「自己変革」をなした人物が探求されていることもあるし、何よりもその過程を提示する特別なやり方に注目したからである。
個別作品を批評しながら自由発言ステージに立った生き生きした市民たちの姿と発言をしょっちゅう思い浮かべた。変革に向けた情熱と分かちえないその生き生きとした姿がろうそく民主主義時代の文学に、道しるべのように感じられたからである。おかげで、本稿で言おうとしたことがずいぶん鮮明になった。それは、私たちが今まで生きてきたようには生きないことを真に願う心をもった瞬間、文学の出現は不可避であるということである。それゆえ、その何ものでもない世界と自身の生を変えようとする熱気だけで光り輝いていたろうそく広場の市民たち一人一人の心のなかに、数多くの詩が書かれえたのである。この時代の詩人と小説家の作業は、人びとが心で書いた詩に耳を傾け、その意味を考えて自分なりのやり方で新世界へと歩み出す冒険を敢行することである。詩を抱いて生きるろうそく読者の役割は、その勇敢な作業の真価を理解し、ともに歴史の開かれた道を進むことではないだろうか。
翻訳:金友子(きむうぢゃ)
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