창작과 비평

民主主義は進展しているか: シンゴリ5·6号機の公論化委員会の活動評価 / 河昇秀

 

創作と批評 178号(2017年 冬)目次

 

河昇秀(ハ・スンス)

比例民主主義連帯・共同代表(弁護士)著書に『優しい電気は可能だ』『生のための政治革命』 『抜け殻民主主義』(共著)などがある。

 

 

1.はじめに

「市民参加団が希望である理由はここにありました。最後の2泊3日の総合討論会までのすべてを終えた471人の市民参加団が委員会に知恵深く、賢明な答を下さいました。……皆さんは“小さな大韓民国”と呼んでいい市民代表であり、わが時代の賢者471人の市民参加団の方々は感動それ自体でした。」           

――新古里5・6号機公論化委員会発表文より

 

「国家の重要政策を市民の熟議過程である公論化を通じて決定するという一歩前進の参加民主主義の過程にもかかわらず、偏向したメディア環境と陣営論理、政府出資機関と公企業の建設再開側への参加、機械的な中立と無能さを示した公論化委員会、当事者である釜山・蔚山・慶尚南道地域の意見の不十分な聴取、未来世代の排除、不十分な資料検証、相互討論の不足と熟議過程の不足など、様々な問題点によって当初の趣旨を十分に生かせなかった限界を示した結果だと評価する。」 

――環境運動連合「新古里5・6号機公論化委員会勧告案に対する立場」より

 

去る5月9日に行われた大統領選挙に際し、文在寅候補は新古里5・6号機の工事中断を公約した。しかし当選後、文在寅大統領は6月19日古里1号機の永久停止記念式に参席し、新古里5・6号機の建設中断問題については社会的合意を導きだし、その決定に従おうと言明した。蔚山と釜山の境界に近い蔚州郡西生面に建設中の新古里5・6号機は、今年5月末の基準で、総合工程率は28.8%という状況だった。

そして、文在寅大統領は6月27日の国務会議(日本の閣議)を通じて新古里5・6号機公論化委員会(以下、公論化委)を構成し、公論調査方式の公論会を推進すると発表した。その後、7月24日に公論化委が正式に発足し、3カ月余りの公論化過程をへて、10月20日に最終発表があった。その結果は、471人の市民参加団のうち59.5%が建設再開を選択したというもので、政府はこの結果を受け入れて新古里5・6号機の建設工事を再開した。

しかし、新古里5・6号機の公論化の結果が発表された後、多様な評価が行なわれている。先に引用した2つの見解もその一部である。このように敏感かつ重要な国家的事案に対して本格的な審議(熟議)民主主義の方式を適用した事例は初めてだっただけに、新古里5・6号機公論化については今後深みのある評価が必要だろう。その評価は、おそらく脱核(脱原発)およびエネルギー政策という側面と、審議民主主義という側面の双方からなされるだろう。新古里5・6号機の公論化過程自体が両面から注目を集めてきたからである。

脱核(脱原発)に関連しては、今回の公論調査の結果に相矛盾する面があり、今後相当な期間にわたって論争が継続されざるをえないだろう。市民参加団は新古里5・6号機の工事再開の是非と関連して59.5%が賛成の側を最終選択したが、原発政策の今後の方向に関しては「原発縮小」を選択した比率が53.2%に達した。その反面、原発を維持する比率は35.5%で、原発を拡大する比率は9.7%だった。

結局、市民参加団の意見は「原発は今後縮小していくが、新古里5・6号機はすでに工事を始めたので、これは建てよう」という点に要約されうる。だが、こうする場合、閉鎖中の古里1号機を含めて25基の韓国の原発数は、一応30基まで増えることになる。現在、建設工程が大いに進展した新古里4号機、新蔚珍1・2号機に次いで、新古里5・6号機まで建設されるからである。これを見て、短期的には不可避という意見もあるが、「脱原発を標榜する文在寅大統領の任期中に原発が増えるというのは矛盾」という意見もある。こうした争点については、今後追加的な論争が不可避だろう。しかし本稿では、脱核(脱原発)自体に対する論議よりは、初めて試みた本格的な審議民主主義という面について、それなりの評価をしてみたいと思う。

 

2.新古里5・6号機にみる代議民主主義と審議民主主義

世界的に代議民主主義の限界が露呈し、直接民主主義と審議民主主義に対する期待が大きい。国会と政治に対する不信が大きい韓国でもキャンドル以後に国民召喚、国民発案、国民投票のような直接民主主義の制度に対する期待が高まっている。国会で論議中の改憲問題でも直接民主主義制度の導入は主な争点の一つである。直接民主主義は代議民主主義を補完する装置として今回の改憲でぜひとも導入する必要がある。自由かつ同等な市民の沈思熟考をへて政治的な決定を下す審議民主主義(deliberative democracy)も注目を集めている。合意会議(consensus conference)、市民陪審制(citizen’s jury)、公論調査(deliberative polling)、市民議会(citizen’s assembly)などが審議民主主義の制度として論議されており、実際に多くの国家で多様に試みられている。

しかし、直接民主主義や審議民主主義が代議民主主義に代わりうるわけではない。依然として、民主主義国家ならばいかなる方式であれ、選挙を実施している。そして、選出された代表者が重要な意思決定の大部分を最終的に下すように、各国の憲法は規定している。

直接民主主義は今日まで代議民主主義を補完する役割である。国民が直接に国民投票を行なう場合でも、その結果が政府を拘束する効力をもつ場合もあるが、諮問的な効力をもつにとどまる場合もある。後者の場合には、国民投票にもかかわらず、最終的な意思決定は選出された代表者が担当する。審議民主主義もまた、既存の代議民主主義には代わりえない。多くの国家で試行中の合意会議、市民陪審制、公論調査、市民議会は、結局は代議民主主義のシステムをへてこそ、意思決定として最終的に確定する。

ここで一つ検討すべき点は、新古里5・6号機公論調査の場合、諮問的効力をもつしかなかったのに、実際は拘束力をもつように定めてしまった点である。大統領をはじめとする政府が市民参加団の判断に従おうと何度も公言したからである。法的には、大統領が国務会議を経て最終決定する手続きを踏んだが、内容的には市民参加団の判断が政治的な拘束力をもつに至ったのである。

この拘束力の肯定的な側面は、市民参加団に明確な権限が与えられたことで、参与の動機を引き出しえたという点である。市民参加団の高い参加率(500人中の471人が最後まで参加)は、こうした側面から考察する必要がある。否定的な側面は、選挙を通じて選出された大統領が自らの公約を履行する責任を回避したと見ることもできる点である。選挙後、長い時間が経ったわけでもないのに、公論調査に委ねたからである。

こうなるのなら、大統領選挙の時から「新古里5・6号機はすでに建設中なので公論化を通じて決定しよう」と公約し、それを守る過程で公論化を進めるのが望ましかったのである。選挙運動期間は白紙化を公約し、選挙直後に公論化を通じて決定しようと言いかえたのは選挙公約の意味を損なうことである。

今後もこうしたことは起こりうる。そういう場合、「選挙を通じて選出された代表者が選挙公約を履行せず、審議民主主義制度に意思決定を委ねようとするのは民主的な態度なのか、あるいは責任回避なのか」という疑問が提起されるだろう。こうした根本的な問題以外にも、新古里5・6号機の公論化過程では具体的に検討すべき部分が数多くある。

 

3.今回の公論化で検討する点

市民の沈思熟考をへて意思決定する審議民主主義の方式には公論調査だけがあるわけではない。その中で、合意会議や市民陪審制は比較的小規模でなされる方式であり、おそらく新古里5・6号機の建設再開という敏感なイシューを15~20人の市民が参加する方式で意思決定するのは難しいと判断したのだろう。

公論調査は、与えられた事案に対する世論調査を通じて質問し、その結果をまとめた後、その中から性別・年齢・地域などを考慮して討論参加者を選定する方式である。そして、数日間の討議の場で賛否討論などの公開審議を経た後、再度意見をとりまとめて最終的に沈思熟考した意見を収斂する。[1. チュ・ソンス「国家政策の決定に国民世論が抵抗すれば?:直接/審議民主主義の参加制度の探索」、『韓国民主主義と市民参加』、アルゲ、2007年、48頁を参照。]

公論調査をまともにしようとすれば、「十分な情報」と「真摯な審議」が重要である。討論に参加する人々は他人と討論する相互作用を通じて自ら快く意見が転換でき、その過程で既存の政治過程の主要な手段である協商、取引、強要、操作、欺瞞ではなく理性的な説得を行わねばならない。[2. オ・ヒョンチョル「討議民主主義:理論と課題」、チュ・ソンス、チョン・サンホ編『民主主義対民主主義』、アルゲ、2006年、102頁を参照。]

今回の新古里5・6号機の公論化過程でも十分な方法が提供されたのか、そして真摯な審議がなされたのかが重要である。これについては、十分な期間をとって細部にわたる分析・評価が行なわれるべきだろう。一応、ソウル大学の社会発展研究所が独立的な検証委員会を構成して公論化委の構成と運用、市民参加団を選定するための調査設計、熟議過程および国民へのコミュニケーション努力に至るまで公論化の全過程を検証する予定であるという。検証委の報告書が出れば、もう少し細部にわたる分析や評価が可能になるだろう。

ひとまず、いくつかのメディアで報道された市民参加団の後記と公論化委の報告書などによれば、2泊3日の総合討論の期間中に「真摯な審議」は行われたと思われる。市民参加団は本人が参加した分科討議の質問について、7点満点で平均6.16点をつけた。質問内容は、「私は分科討議で一生懸命に私の意見を伝えた」「私は分科討議で他の人の意見をよく聞いた」「私が属した分科討議では意見交換がよく行われた」「私が属した分科討議では討論が公正に進められた」「私が属した分科討議では相互を尊重する態度で討論が進められた」である。こうした質問に対して6.16点という評点が出たのは、市民参加団自らは分科討議がうまく行われたと評価しているのである。

公論化の全過程に対する市民参加団の評価も、7点満点で6.12点と比較的高かったという。そして、最終の結論が自らの意見と異なって出た場合でも尊重しようという答が93.2%に達した(「全面的に尊重しよう」が32.1%、「普通に尊重しよう」が61.1%)。

しかし、「真摯な審議」の前提になる十分な情報提供がなされたかについてはもっと検討してみる余地がある。公論化委は市民参加団に熟議資料集を配布し、E-ラーニング(e-learning)方式で情報を提供した。そして、2泊3日の総合討論時には市民参加団が賛成・反対派の主張を聞き、質疑応答する時間ももった。こうした過程を経て原発に対する市民参加団の知識水準が上がったのは明らかである。市民参加団の知識水準を評価するためにつくった8項目の質問に対して参加者が応答した結果を見ると、資料集を提供する前の第2回調査では平均2.8個が正解だったが、最後の総合討論会後の第4回調査では平均6.0個が正解だった。

だが、もっと細かくみると問題点が浮かぶ。最後の第4回調査でも、新古里5・6号機の位置を当てた比率は71.2%に過ぎなかった。新古里5・6号機の建設再開の是非を審議することが与えられた役割なのに、その位置を認知できない比率が28.8%に達したというのは、市民参加団が量的には多くの情報を習得したが、本当に重要な情報は十分に提供されなかったのではないかという疑念を生む。(全体として)建設再開側の正答率が73.4%で、建設中断側の76.7%よりも低い理由も今後の分析が必要だろう。

ところで、もっと根本的な問題提起もある。それは公論調査の議題、市民参加団の構成などと関連がある。

第一に、新古里5・6号機の建設のような問題を公論調査の議題とするのが適切だろうかという問題である。公論化委も最終報告書で、「公論化に着手する以前の準備段階で、葛藤診断や葛藤分析を通じて該当議題が公論化の対象となるか否かについて事前の検討がなされるべきだ」[3. 新古里5・6号機公論化委員会「新古里5・6号機公論化の“市民参加型調査”報告書」、2017年10月20日。] と指摘している。公論の場をつくること自体はいいが、公論化を阻害するほどの状況要因が多数存在する場合には、公論化が更なる社会葛藤を生みうるというのだ。今回の新古里5・6号機の公論化の場合にも、絶えず公論化過程が偏りがちな可能性があった。原発業界と関連する利害関係者の集団が極めて強力に新古里5・6号機の建設再開を主張し、多くの人的・物的資源を動員したからである。メディアでも、一方的に建設再開側に偏る報道をする場合が多かった。例えば、建設中断側の主張によれば、韓国経済新聞は文在寅大統領の公論化宣言以後、70余日間に100以上の偏った記事を報道した。[4. 新古里白紙化市民行動のフェイス・ブック、2017年9月26日。] このように、社会全般に一方的なメディア攻勢が行なわれる場合、市民参加団がそれに影響される可能性は排除できない。

事態がこのようになったのは、すでに原発が数多くの経済的な利害関係者をもつ産業だからである。原発の建設会社、各種の部品業者、そして原発を運営する韓国水力原子力、原発関連の研究機関や研究者、原発に依存して生計を立てる地域住民など、数多くの利害関係者が存在する。彼らは必死に建設再開の立場に立たざるをえない状況である。そして、彼らには多くの人的・物的資源を動員する能力がある。それで公論化の途中で、公論化の過程自体が「偏った運動の場」だという批判が提起されたのである。そうした点でも、新古里5・6号機の建設を再開するか否かを公論化の議題にしたことが適切だったのかに関して、今後多くの論議が必要であろう。

第二に、市民参加団の構成で満19歳未満の子ども・青少年・青年(18~19歳は社会通念上、青年と見るのが適切である)を排除したことが正しいのかという点である。審議民主主義の制度に参加できる「市民」の基準を、必ずしも選挙権の有無に定める理由はない。事案の性格によっては、子どもや青少年を参加させることが必要な場合もある。長期間に影響を及ぼしうる環境問題のような場合がそうである。今後10年程度の余生を生きていく人も参加の機会をもっているのに、今後70年生きていくべき人々が自分の世代に重大な影響を及ぼしうる問題を論ずるのに、参加する権利をもちえないというのは問題がある。それで、「2080年まで稼働される原発関連の事案ならば、未来世代の声が当然反映されるべきなのに、委員会は“人口統計的な代表性”のみ考慮した」[5. 趙韓恵貞「新古里5・6号機公論化が残した宿題」、『ハンギョレ』2017年11月1日。] という批判も出てくる。

公論化委もこうした批判が出てくるのを認識していたように思われる。そこで、「未来世代討論会」を2017年9月30日に別個に開催していた。だが、討論会を開いただけで、そこで論議された結果を市民参加団に伝達しようとはしなかった。未来世代の討論会で11組のうち5組が建設中断、5組がその他の意見、1組だけが建設再開と結論づけたのに、市民参加団にはこうした討議結果が伝えられなかったのである。[6. ユン・スンジン「新古里公論化に参加の所感」、『京郷新聞』2017年10月20日。] 単に、2泊3日の総合討論の期間中に、未来世代の討論会を行なったと紹介するのに止まったのは残念な点である。

第三に、公論化の過程で政党と国会の役割が適切だったのかという点である。最も望ましい公論化は、国会のような制度上の政界における討議と市民討議が同時に進行することである。しかし、今回の新古里5・6号機の公論化の過程はそうならなかった。与党である民主党は自らの政党の大統領選挙の候補者の公約が脱原発と新古里5・6号機の工事中断だったにもかかわらず、国会内の論議を責任もって導くことができなかった。野党も原子力業界の主張に一方的に従うレベルにとどまった。自ら情報を検証して真摯な熟議を行なう姿は見られなかった。新古里5・6号機の建設再開は、大統領を中心とする政府で決定する問題だとしても、原発を縮小するか、拡大するかは国会で方向を決めうる問題である。

 

4.審議民主主義の未来のために

ともあれ、新古里5・6号機の公論化過程は終了した。今回の公論化は韓国のエネルギー政策にも、そして民主主義に関連しても多くの悩みをもたらした。新古里5・6号機の建設を再開しながらも原発を縮小するというのは明らかに相矛盾する面がある。特に、文在寅大統領の任期中に原発がむしろ増えることになるという事実は論争になるだろう。こうした論争を減らすためにも、政府は電力需給基本計画やエネルギー基本計画の樹立時に、もう少し明らかな脱原発とエネルギー転換の意志を盛りこむべきだろう。その過程で政党は責任をもって討議する姿を示さねばならない。

また、市民参加団が建設再開に対する補完策として提示した、「原発の安全基準を強化すべきだ」「新再生エネルギーの比重を増やすための投資を拡大すべきだ」「使用済み核燃料の解決方案をできるだけ早く作るべきだ」という点にも、具体的な方案を示すべきである。これは大統領と政府の責任である。

審議民主主義の側面でみれば、新古里5・6号機公論化後に、いかなる審議民主主義の試みが行なわれるかが重要である。実は、国内でも今回の公論化以前に、他の公論化の事例がないわけではない。2005年に財政経済省が不動産政策をめぐる公論化を実施するなど、いくつかの事例がある。ただ今回のように、全社会的な公論化を経たのは初めてである。問題は前述したように、公論化が選挙を通じて当選した大統領の公約を、結果的には覆す名分になったということ、そして公論化の議題設定や市民参加団の構成などで残念な点を数多く残したことである

だが、否定的な面ばかりではない。新古里5・6号機公論化の不十分な点や残念な点は徐々に評価していくとしても、審議民主主義の方式が社会的な関心を引いた点は明らかに意味がある。今後、もっと適切な議題をめぐって無作為に抽出された市民が十分な情報を提供され、真摯に熟考する過程を踏むならば、審議民主主義方式がもっと定着していきうるだろう。

例えば、現在国会で難航している改憲論議に関連して、審議民主主義方式を導入することも検討できる。今、国会内で合意されていない代表的な争点は、権力構造(政府形態)に関するものである。大統領制を維持しようという立場と議会中心制に変えるべきだという立場、そして大統領制と議会中心制の混合形態である分権型大統領制(二元執行部制)へ変えるべきだという立場が混在しているのがわかる。権力構造は主権者である国民が誰に、どれほどの権力を委任するのかという問題なので、当然主権者である国民も内容がわかり、意見を出しうるべきである。しかし国民は今、こうした論議に対して十分な情報もなく、討議してみることもない状況である。国会やメディアで断片的な世論調査をしてはいるが、十分な情報がない状況で大統領制・分権型大統領制・議院内閣制のうちどれを好むか、と問う世論調査は意味がない。

それで、改憲の核心争点について公論調査のような審議民主主義方式を活用することも考えられる。市民社会や学界でもこうした提案を行ない続けてきた。改憲は新古里5・6号機のように経済的な利害関係が対立する問題ではないので、むしろ公論化の議題に適している。

改憲以外にも、審議民主主義の制度を活用できる方案はたくさんある。地域事案の場合にも、より多様な試みが可能だろう。公論調査以外に市民陪審員制、市民議会など多様な方式の審議民主主義的な試みを拡げていける。ただ、見かけだけの「公論化」で「熟議」であると流されないように、審議民主主義自体についてもより多くの論議が必要である。

 

 

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