창작과 비평

[特集] 今、なぜ文学史なのか / 崔元植

 

創作と批評 184号(2019年 夏)目次

 

崔元植(チェ・ウォンシク)

文学評論家、仁荷大学校名誉教授。著書に『民族文学の論理』、『韓国近代小説史論』、『生産的な対話のために』、『文学の帰還』、『帝国以後の東アジア』、『文学と進歩』などがある。 ps919@hanmail.net

 

 

1、歴史の帰還

 

『創作と批評』の前号の特集は、3・1運動の革命的性格を新たに示した点だけでもやりがいがあった。キャンドル革命以後、迎えた3・1運動百年という時が運動を再解釈し、再発明するところへ導いたが、私としては朝鮮が帝国日本に併呑された事件を再び読む妙所に目覚めたことがありがたい。辛亥革命(1911)と5・4運動(1919)を「第1、2次共和革命の連続体」として捉えた閔斗基(ミン・トゥギ)の見解 [1. 白永瑞、「連動する東アジアと3・1運動:引き続き学習される革命」、『創作と批評』2019年春号、40頁。] は亡国(1910)と3・1運動(1919)との関係に注目させる。帝国日本(とその意識的・無意識的追従者)は「合併」と呼び、われわれは「国辱」と称したその事件を新たに解釈した最初は、おそらく上海で配布された「大同団結の宣言」(1917、以下「宣言」)であろう。この記念碑的な檄文の白眉は「帝権消滅の際が民権発生の時」という件である。

隆熙皇帝が三寶を諦めた8月29日は、つまり吾人同志が三寶を受け継いだ8月29日だからその間に一時も停息がなかった。吾人同志は完全な後継ぎであって、帝権消滅の際がつまり民権発生の時であり、旧韓国の最終の一日はつまり新韓国の最初の一日なわけで(…)故に庚戌年、隆熙皇帝の主権放棄はつまりわれら国民同志に対する黙示的譲位であって、われら同志は当然三寶を受け継いで統治する特権があり、また皇統を後継ぎする義務がある。故に二千万の生霊と三千里の旧彊と四千年の主権は吾人同志が相続したし、相続している最中であり相続するはずなので、吾人同志はこれに対する不可分の無限責任が重大である[2. 「宣言」、4~5頁。表紙に「宣言」と題して、一頁には「大同団結の宣言」と明記したこの文書は全部で12頁に達する。国漢文混用となっており、筆者が分かち書きをし、句読点をつけた。以下、この文書からの引用は本文に頁数のみを記す。]。

国辱を国慶に取り替えた大文字である。1910年8月29日は最後の皇帝であった純宗が三つの宝、すなわち、「二千万の生霊と三千里の旧彊と四千年の主権」を帝国日本ではなく、「われら国民同志」に譲位した日なので、「旧韓国」(大韓帝国)が「新韓国」(大韓民国)へと革命されたという論理は爽やかに極まりない。主権を行使することで国民と領土をまともに回復する「唯一無二の最高機関」(11頁)、つまり政府を組織して対処するという大義を闡明したこの文書は、既存のすべての運動を一挙に乗り越えるものであるし、国民主権を明確にしたという点で「3・1独立宣言書」を超えるところがなくもない。

何がこの驚くべき発想を可能にしたか。手掛かりはその中にある。「あの(スラブ)革命」(8頁)にまず注目しよう。ロシア革命の波及を裏付ける最初の文書としても注目すべき「宣言」が印布された日が「壇帝[3. 「壇帝」はもちろん壇君のことである。王の空位で特定される1910年代に革命家たちは空位時代に対処する象徴君主として壇君を想像した。大倧教が1910年代解放運動の理念的拠り所となったためである。] 紀元4250年7月」(12頁)であることを考えると、ロシア2月革命を意味するところ、君主体制の崩壊がフィンランドとユダヤとポーランドの独立をもたらしてくることを予測しながら、ロシア革命を「半韓の福」(8頁)だと称える。果たして自決権を尊重したボリシェヴィキ政府の出帆のなかでフィンランドは1917年12月、ポーランドは翌年の11月、順に独立した。「連合国の散渙」(8頁)にも留意する。1次大戦の勝利を控えた時点で連合国が利益によってバラバラに散らばる様相を鋭く観察しながら、列強の角逐の隙間に戦勝国植民地にも解放の道が開かれうるという希望を持ったのである。また「宣言」は「強権打破と民権伸長の大きな運動に着手」した「民権連合会」と「継絶存亡」の大義を宣布」した「万国社会党」にも注目する。(9頁)「民権連合会」はおそらく韓国の独立を積極支援した「フランス人権協会」[4. ミン・ピルホ編著、『韓国魂』(四版)、普信閣、1971、63頁。] と推定されるが、「万国社会党」は何を指すか。この文書の終わりのところに署名した14人の代表[5. 署名者のなかで、申圭植、趙素昻、朴容萬、朴殷植、申采浩、尹世復など、6人が知られた方であるが、「3・1独立宣言書」とは違って「民族代表」と自称しなかった。この点のため、イ・ギフンは「宣言」の代表性に懐疑的であるが(イ・ギフン企画、『キャンドルの目で3・1運動を見る』、創批、2019、58頁)、私はやや異見がある。親ロ派、親日派、親中派、親米派に実力養成派と武装闘争派、畿湖派と西北派の葛藤まで絡まれた状況で一種の和解を模索した「宣言」は、代表の構成にも細心であった。例えば、宣言を主導した申圭植と趙素昻は畿湖出身の大同団結派であり、文武兼備論者であるが、江原出身の朴容萬はハワイを根拠地とした代表的な武装派であり、朴殷植は西北派/大同団結派で、申采浩は畿湖派/武装派で、尹世復は大倧教三世の教主である。「第1次の統一機関は第2次統一国家の淵源となり、第2次統一国家的擬制は究竟円満な国家の前身」(8頁)だと主張することに留意すると、14人を民族代表の「淵源」としないわけもないと思う。] のなかで、申檉(シン・ジョン)と趙鏞殷(ゾ・ヨンウン)に注目する必要がある。最初に署名した申檉は睨觀、申圭植(シン・ギュシク、1879~1922)の改名である。かつて辛亥革命の発端となった武昌義挙に参加した[6. ミン・ピルホ編著、前掲書、127頁。]、優れた愛国者である睨觀はこの宣言を主導したし、二番目に署名した素昻、趙鏞殷(1887~1958)はその充実した同志であった。素昻年譜には「韓国独立の歴史的な「主権不滅論」、「主権民有論」、「最高機関創造の必要論」を骨子とした趣旨書を作成。これをスウェーデンのストックホルムで開催する国際社会党大会に韓国問題の議題として提出し、通過させて世界の耳目を驚かせる。」[7. 姜萬吉編、『趙素昻』、ハンギル社、1982、302頁。] 万国社会党はつまりストックホルム大会であるはずだが、第3次ツィンマーヴァルト会議(Third Zimmerwald Conference, 1917.9.5~12)とも呼ばれたこの大会は、反戦へと立場を変えた第2インターナショナル主流に反対し、スイスのツィンマーヴァルトで最初の集いを行った反戦派の三つ目の会同であったが、この大会のために睨觀は8月に朝鮮社会党を急いで組織して素昻を代表にして派遣したところ、素昻が「宣言」の立役者であった。[8. ところで「宣言」には素昻だけでなく睨觀も関わったようだ。睨觀は不屈の武人であったが、一流の思想家であり文章家であった。遺著『韓国魂』の一件だけ引用しておく。「私は願わくはわれわれ同胞たちがもう二度と大きな声で騒がないことを望む。極端の理想主義とか極端の社会主義のようなものはしばらく黙認することにしよう。—要するに今日の世紀は国家主義と民族主義が互いに競争する一つの鉄血世界なのだ。(…)要は現実主義でわれらの頭を詰めるべきなのだ。」(ミン・ピルホ編著、前掲書、46頁。)] 2月革命とツィンマーヴァルトインターナショナルの理想主義を共有しながら「聖国建立」のために「自彊会一」を必ず成し遂げようとする(9頁)「宣言」の誓いがいまなお生々しい。キャンドルが3・1運動を再発見・再発明へと導いているように、革命が国辱を再解釈・再発明へと導いたのである。

「宣言」は一年半ぶりに3・1運動として示現される。「小学校の先生がシャベル(軍刀)をさして教壇に上がる国」 [9. 廉想涉、『萬歳前』、スソン社、1948、201頁。最近、ブルース・カミングスは「1910年以後、日本と韓国の関係は一般的な帝国主義―植民地の関係ではなく、侵略国家と被侵略国家の関係として見るべきです」と指摘したところ(ハンギョレ、2019.4.3)、かつて林和が征服説を主張した。「日本の朝鮮統治は近代帝国主義国家の植民地支配というより、古代に見られる強い民族による弱い民族への征服の性質を多分に持っていた。」(「朝鮮民族文学建設の基本課題に対する一般報告」(1946)、『林和文学芸術全集2:文学史』、ソミョン出版、2009、490頁) ] 、その武断の暗黒を切り裂いて「ダビデ群たち」が神話のように現れた[10. これは辛東門詩人が4月革命に蜂起した大衆を「ああ、神話のように/現れたダビデ群たち」と歌ったことから引いたものである。辛東門、「ああ、神話のように ダビデ群たち:4・19の昼間に」、教育評論社編、『学生革命詩集』、ヒョソン文化社、1960、236頁。]。 清国から始まってロシア、オーストリア、オスマン朝に及んだ帝国の黄昏を背景に高宗の因山の日、蜂起した人民一人一人が国となった奇跡が格別である。王はアウラをまとった存在である。支配階級の象徴操作の結果だとしても人民にとって王は最後の帰依処、最後のメシアであったことを考えると、高宗が崩御した時、人民が三寶を受け入れて王の公位を一瞬に国民へと取り替えた奇跡が夢うつつのようだ。

 

2、文学史的問題

 

「われわれの3・1運動はまだ終わっていないようだ。」[11. 2代目自転車販売・修理店を運営しながら忠北永同の3・1運動記念碑を父親に継いで管理しているシン・ダルシク氏の言葉である。「「独島―慰安婦妄言に明け暮れる日本…3・1運動まだおわっていない」、『東亜日報』2019.2.27. ] キャンドルが招いた3・1運動百周年へと歴史が帰還している。「相続したし、相続している最中だし、相続するはず」だと「宣言」が予言した国民的相続の永久革命が日増しに新しい。この歴史的転換の前で国文学徒は文学史が再び宿題である。この古い宿題をいかに、可能な限り新しく紐解くべきか。

檀君神話(または李海朝)からチェ・ウンヨンまで韓国文学史(または現代文学史)の流れを的確に捉えた文学史ならば、そのような類は至急ではないとも言える。実はこの言葉には語弊がある。資料倉庫のような膨大な文学史、読者をむしろ韓国文学から逃避させるそのような類型ではなく、高い文学的眼目で書かれた簡明な韓国文学史、または韓国現代文学史が一冊でもあったならば、それでその本を大学1年生の時、必須教養のように読める幸せなことが生じたならば、おそらく今日われわれが直面した脱韓国文学の風土を一定に回避できたかもしれない。実は以前はそのような案内書が結構あった。望むならば李泰俊(イ・テジュン)の『文章講話』、金起林(キム・ギリン)の『詩論』、崔載瑞(チェ・ゼソ)の『文学原論』などを読んで文学の概ねがわかったはずだし、さらに李秉岐(イ・ビョンギ)・白鉄(ベク・チョル)の『国文学全史』をもってもわが文学の全過程が把握できた。このような地図のおかげで断絶論の警鐘が鳴っても古典文学はもちろんのこと、現代文学の遺産も同時代文学と一定に照応したところ、言うならば文筆家を含めた読書層、または読書界が厳然であったのだ。1970年代に一つの頂点に達した民族文学、または民衆文学の展開において金芝河(キム・ジハ)、黃晳暎(ファン・ソクヨン)で代表される作家たちを包んで存在した読者層の星座を思い出す際、本格文学の生産の基となる適正規模の真摯なる読者層は要的である。われわれも早く5・4以後新文学の成果を始めてまとめた1935年から現在まで、折よく出てくる「中国新文学大系」のような作業が蓄積できたならば、それとともに昔の概論書を改めた新しい地図を設けることに乗り出したならば、文学史に対する要領を得ていない声が今のように紛らわしいはずはなかった。本屋に行くたび実感するところであるが、われわれが自ら招いた日本(大衆)小説の包囲のなかで韓国文学は痩せた。教科書の外では古典文学はもちろんのこと、現代文学の遺産ともほとんど疎外されたところ、男性読者の家出で変わった文学生態界の拡大のなかでもハン・ガンを始め若い(女性)作家たちが世越号事故からキャンドル革命を経ながら成長した省察的若い読者層の護衛のなかで本格文学のもう一つの顔を構築していることこそやっとの希望である。国文学徒の猛省が求められる。歴史は帰還の道程についたが、読者たちと対話し、作家たちと討論する地図を作成する責任をいつまで放棄するのか。

現代文学史の道を開いた林和(イム・ファ)はかつて「今日において文学史的問題とは実に完全な一個の実践的課題」[12. 林和、「朝鮮新文学史論序説:李人稙から崔曙海まで」(1935)、『林和文学芸術全集2:文学史』、377頁。以下、ここからの引用は本文に頁数のみを記す。 ]と沈痛に語った。この発言は今有効なのか。実はこのような暇な質問を投げかける時ではない。先述したように失くしてしまった読者問題一つだけでも国文学徒は深刻で然るべきだ。成すべきことならば可不可に構わず着手するのが義務であって、もちろん文学史の構成と読者の帰還との間に架けられた楽観の橋はない。それにも関わらず現在の危機から発動した文学史的感覚の新たな獲得過程とは、弱まった読書界の切れた輪に気づくことで韓国文学への聯通の可能性を模索させるという点だけでもやりがいはあるはずだ。1939年、新文学史を連載する前、その着手の辯を論証した林和の「朝鮮新文学史論序説」(以下、「序説」)は現代文学史における最高の方法叙説である。しばらく林和へと遡及しよう。

「この文章は新傾向派文学の歴史に対する実に不当な数三の論文を批判の対象とする限られた目的で書かれたもの」(373頁)——最初の文章からいきなり論争的である。天皇制軍国主義の無情な進軍とともに朝鮮文学の滅亡(つまり朝鮮の実質的解体)が憂鬱に予見される1930年代半ばの不吉な影のなかで、彼は「プロレタリア文学の運命」(375頁)を凝視する。「自然主義文学の衰え以後来るはずの民族的文学の真実な道を歩んでいたその唯一の芸術的思想的持ち主」(375頁)であるプロ文学が滅びると、朝鮮文学も滅びるという切羽詰まった状況が林和文学史の懇切な話頭であったのだ。

プロ文学が処した困窮を分析することで復活の道を夢見る林和は何に触発されてこの文書を書くこととなったか。「朴英熙、李荊林で代表される新装な芸術至上主義」(380頁)、つまりカップ転向派の蠢動が原因である。林和はもちろん極端から極端へと揺動する部類として軽く退けたが、1934年に出てきた彼らの転向宣言は大きな波紋を呼んだ。カップ解体を最初に提議した李荊林(李甲基)も問題だが、「病もなしに呻く」浪漫主義から突然カップ急進派の先陣に立ってから、また突然「得たのはイデオロギーであり失くしたのは芸術そのもの」 [13. 金允植、『韓国近代文芸批評史研究』、ハンオル文庫、1973、185頁から再引用。 ]という「有名な」語録で離脱した懐月、朴英熙(バク・ヨンヒ)が影響を及ぼしたところはそう簡単ではなかった。それにも関わらず林和は転向派ではなく同志たちを批判する。遅れた懐月によってあっけなく攻撃されたプロ文学の開拓者、八峰金基鎮(キム・ギジン)と京城帝大哲学科出身の新鋭、申南澈(シン・ナムチョル)の評論に対して「朴英熙的二元論の批判者という点で一つの共通点」を持った彼らもまた「文芸史観の新二元論」(381頁)者という点で朴英熙と双子だと冷たく評価したのである。

果たして八峰と申南澈は思想と芸術の分離に基づいた懐月の二元論を再びまとった新二元論者であったか。申南澈は単なる二元論者ではない。思想性と芸術性の弁証法的統一過程で獲得されるはずの「「リアリティ」を追求することは芸術、文学の本務」[14. 申南澈、「最近朝鮮文学思潮の変遷:「新傾向派」の台頭とその内面的関連に対する一つの素描」(1935)、ジョン・ゾンヒョン編、『申南澈文章選集Ⅰ:植民地期』、成均館大学校出版部、2013、372頁。 以下、この文章からの引用も本文に頁数のみを記す。] だということに基づいて、「文学的創作を現実的統一的観点のもとで把握できなかったので、一方では「思想性」、「政治性」を嘆き、もう一方ではそれを至上のものとして主張する」(371頁)誤謬に陥ったと、懐月の転向宣言を鋭く批判した。八峰ももちろん新二元論者ではない。林和が問題とした文章は1934年に発表された「朝鮮文学の現在の水準」と「プロ文学の現在の水準」であるが、八峰はなぜ今更のように朝鮮文学、またはプロ文学の系譜学に注目したか。「上海から帰ってきて裏切者と言われながら終局を告げ」 [15. 金基鎮、「朝鮮文学の現在の水準」、ホン・ジョンソン編、『金八峰文学全集Ⅰ:理論と批評』、文学と知性社、1988、368頁。] た李光洙(イ・グァンス)時代の短命が象徴するように、建設途中に分化した朝鮮民族文学の現象を詳しく観察したのが前者だとすれば、その代案として登場したプロ文学が「初期の「新傾向文学」的範疇」 [16. 金基鎮、「プロ文学の現在の水準」、上掲書、380頁。以下、この文章からの引用も本文に頁数のみを記す。] を超えてどこまで進んだかを具体的に検討したのが後者である。ところで後者で懐月が直接言及される。「この頃、朴英熙はその当時の状態を顧みながら言うに「得たのはイデオロギーであり、自殺したのは芸術そのものであった」と嘆いたが、私は朴君のこのような意見に反対する。」(383頁) 八峰はこの発言が「全面的な現実のなかで展開される生きた人間の生活を具体的に反映できなかった罪過を「政治意識」、「スローガン」に全体的に転嫁しようとする態度」(389頁)から来た誤謬であることを明快に衝いたのである。彼はすでに初期の評論「感覚の変革」(1925)で芸術の深い審級として「「感覚する」ということ」(17頁)に注目してその革命を主唱したところ、ある面では林和よりもっと根本的であった [17. 林和は八峰に冷たかった。1927年の「小説建築論争」で形式論を否定した懐月と内容―形式統一論で対立した八峰との間で、前者を支持したカップ主流の去る過誤に林和が敏感であったせいかもしれないが、この件は実に遺憾である。]。  林和が(新)二元論と対決した忠心は十分理解できるが、果たして一元論が万能の解決策なのかは再び考えてみるべきである。それにわれわれがこの論争で真に留意するところは、林和に先立って八峰と申南澈が懐月の転向宣言にプロ文学を見直す歴史的転換を発動した点である。林和の文学史的問題はその批判的継承であったのだ。

林和の質問は進む。「もっぱらここには下等の文学的または芸術史的教養を伴わずに、観念の形と生産関係との複雑多岐の関係を、死んだ弁証法の固まった唯物史観の公式をもって料理する独断論の刀が準備されているに過ぎない。(…) このような二元史観は過去、カップの組織的和解を促進させた変質主義の理論的武器であった点を鋭く記憶しなければならない。」(380頁) 彼は「思想性と芸術性に対する統一した科学的見地」の代わりに「政治および思想への直接の奉仕主義」(383頁)という誤謬へと導いた/導くすべての二元論の生産をもう一度確認しながら、プロ文学の系譜学を本格的に点検する。まず春園李光洙を「新傾向派文学の直接の先行者として」(388頁)置いた申南澈を批判する。春園の進歩性とは「政治的社会的な一面を除去した文化的自由の半身像」の「文化的縮図に他ならない」(399頁)ので、「李海朝、李人稙からの進化の結果」(390頁)である春園をプロ文学の先に置くことはできないということである。その代わりに「己未以後、開花した自然主義と(…)浪漫主義」(388頁)をプロ文学と直接的関係として結ぶ。「朝鮮人の歴史的生活の容貌と内容が著しく変化した」「己未という一つの分水嶺」を軸として現れた「新文学」または「民族文学」は、「己未以後、新たに推移した朝鮮の歴史的・社会的生活の所産」であるところ、これで「春園の人道主義と理想主義的帰結の浪漫的幻想」(402頁)から決定的に離陸できたということである。そうして小説では「『故郷』の作者、李基永を発見するまで朝鮮文学史上、最大の作家」廉想涉(ヨム・サンソプ)を始め自然主義小説の代表作を「プロ文学に譲った最良の文学的遺産」(409頁)として称え、詩では特別に挙げた李尚火(イ・サンファ)を始め浪漫主義を傾向詩の開拓として高く評価する。それにも関わらずプロ文学の時期に来てやっと「朝鮮文学史上、最初に批評らしき批評」(428頁)が出現した点が示すように、朝鮮近代文学は「低くて貧しい」(429頁)限界を露呈したし、「当然朝鮮の市民的文学が解決すべきことを未解決のままに残した課題まで受け継いで、実にすべての領域の開拓者としての運命をもって出発」(430頁)した新傾向派が新文学の唯一の正統相続者として認められるということである。新傾向派文学を両分する「朴英熙的傾向」と「崔曙海的傾向」に対する分析も格別だ。特に前者に対して「新傾向派の作家、批評家としての朴英熙、金基鎮は最も先でまた極めて大きな存在」(432頁)であることを喚起することで、近代文学とプロ文学の輪を再び確認する点が印象的であるし、その未熟性を認めながらも決定的進歩性を弁証した林和の論理はもっと印象的である。「朝鮮文学は一度も自己の「浪漫的なるもの」を新傾向派のそれのように正当な歴史的必然の道で体現したことがなかったし、また自然主義の如何なる作家も新傾向派=曙海のように(…)個人で社会的全体性の見地から把握することができなかった。」このような苦闘を繰り返したプロ文学に対して「思想的本質だけを評価し、その芸術的進化の達成を放棄する」(436頁)(新)二元論、または「フリーチェ的相対主義」に対抗して「最後まで新傾向派文学とその継承者である新興文学10年の歴史を守る」「同時にこのような評価のもとで現在の文学を発展させてい」くことを(438~39頁)念を押しながら終わるところ、「乙亥10年馬山病床にて」が雄弁である。

 

3、林和以後

 

結核の療養中にこのような鋭い系譜学を洞察した林和の眼目が素晴らしい。今日、事実の次元はさて置いて「資本主義近代/社会主義現代」という根本図式に基づいた「序説」を批判することは難しくない。例えば、朝鮮のマルクス主義が基本的に明治日本をモデルとした急進開化派の後裔だという点を端的に表した林和の限界は今日、より極めるべきであろうが、それにも関わらず俗流の唯物論を超えて新文学の実像に基づいて、プロ文学が以前の時期の文学と結ぶ複合的関係を一目で捉えたこの文章の水準は抜きんでている。彼はより進む。朝鮮文学者同盟がソウルで開催した第1回朝鮮文学者大会(1946.2.8~9)で総論として発表された「朝鮮民族文学建設の基本課題に対する一般報告」(以下、「報告」)は、「序説」を再び修正した林和の最後の私論である。階級文学論から近代文学論を経て民族文学論に達した「報告」のキーワードは「真正なる意味の朝鮮民族文学樹立の課題」(492頁)である。これは当時朝鮮半島の情勢をブルジョア民主主義革命の段階として調整した朝鮮共産党の8月のテーゼと一定に呼応しながら、文学内的の論理もまた充実した。何より先にプロ文学に対する自己批判が前景化する。「朝鮮市民階級の文学的短命」(498頁)という教条的ニュアンスがまだ少し残っているが、「輸入された思潮の模倣で起因される公式主義的弱点」でもって「新文学のなかに入っている肯定的要素」を「ブルジョア的だといって否定する誤りに陥る」ことで「民主的な民族文学の樹立が不断に現実的課題として生きてい」るという「歴史的自覚が足りなかった」ことを素直に反省する。(500~501頁) この基礎でプロ文学の位相が変わる。プロ文学を新文学「そのすべての全面的総合的継承表」(419頁)、つまり唯一の相続者として持ち上げた「序説」に対して、「報告」ではブルジョア民族文学に対立した一つの傾向として退けたのである。この見地からカップと国民文学、またはリアリズムとモダニズムの分裂時代が新たに捉えられる。「二つの派の分裂と対立にも関わらず、朝鮮文学の発展は続いたし」(500頁)、ファシズムの圧迫が強化されるにつれ「合理精神」を主軸とした「朝鮮語の守護」と「芸術性の擁護」という最低綱領でもって「新文学以来、初めて共同路線に協同」(503頁)したと積極的に評価したのである。反ファシズム民主連合のための統一戦線を念頭に置いたところ、「共同路線」という用語に注目しよう。新幹会式共同戦線に準ずるものであるが、統一戦線のなかで左翼ヘゲモニーを堅持した「序説」とは違って「報告」ではプロ文学のヘゲモニーを留保あるいは放棄する [18. まさにこの点のためプロ文学のヘゲモニーを統一戦線のなかで堅持すべきだという「朝鮮プロ文学同盟」系は、林和を始め「朝鮮文学者同盟」指導部と仲が悪かった。この葛藤が分断と重なりながら早い時期に越北の道を選んだ前者と、遅れて越北した後者の位相が転倒されたところ、6・25の勃発と戦後の収拾過程で破綻に及んだ件については、拙稿、「生産的対話のために」(1991)と「韓国文学の近代性を考え直す」(1994)、『生産的対話のために』、創作と批評社、1997、114~115頁と32頁を参照されたい。]。 そうして「従来は民族的か階級的か、または進歩的か反動的かという方法で考えられていた問題が、この時期に及んでは民族的か非民族的か、あるいは親日的か反日的かという形で提起されるに及んだ」(503頁)ところ、「報告」は帝国日本の末期に成された共同路線の大事な経験に基づいて「祖国の民主主義的国家建設」に役立つ「民主主義的民族文学の建設」で大詰めを迎える。

「序説」に基づいた新文学史は新小説の時代も終わらない途中で1941年中断され、「序説」を修正した文学史は着手さえできなかった。林和の文学史は以後、いかなる行路を歩んだか。『朝鮮新文学思潮史』近代編(スソン社、1948)と現代編(白楊堂、1949)を隠遁中に完成した中間派、白鉄は特に初版本において林和の継承者である。「新文学」、「近代/現代」のような核心概念だけでなく、「思想」に準ずる「思潮」にも林和の影響は感知される。それにも関わらず新文学を西欧思潮の劣った模倣史として捉えることで、林和の「移植文学論」を俗流化した誤りは長らく問題であるが、「東学乱」を「近代的民衆運動」としてたった一人注目したことは、たとえ文学史的脈絡で具体化はできなかったものの、手柄である。[19. 甲午農民戦争、または東学農民革命に対する彼(本名は白世哲)の格別な注目には、家柄の影響が大きい。「継代教徒」として目星をつけられるほど、根本のある平安道天道教の家門で教団の有数の指導者、白世明(ベク・セミョン)は彼の兄である。マルクス主義で始まって転向した「国民文学派」として解放直後は中間派へと変身を繰り返した白鉄の批評的歩みの中で、天道教に関わることはこれからより深く究明されるべきであろう。] 趙演鉉(ゾ・ヨンヒョン)の『韓国現代文学史』(現代文学社、1956)は文壇史である。林和を受け継いだ白鉄の新文学史の代わりに純粋文学中心の文学史を構成しようとする任務に忠誠した趙演鉉は、林和のキーワード、「朝鮮」と「新文学」を「韓国」と「現代文学」へと取り替える。思想と理念に振り回されるわれらの文学史を、モダニズムの現代性を軸として再編しようとする彼の試みもまた、未完で終わったが、それにも関わらず移植文学論の俗流化は白鉄が継承する。「新文学」、「近代文学」、「現代文学」をすべて廃棄し、「韓国文学」という用語を新たに選択した金允植(キム・ユンシク)・金炫(キム・ヒョン)の『韓国文学史』(民音社、1973)は、林和を移植文学論者として批判しながら近代文学の起点を18世紀へと引き上げた。しかし、林和はすでに明かされたように移植論者でもないし [20. 広く認められたように、林和は朝鮮の新文学がその非内発性によって伝統文学の批判的承継ではなく、西欧および日本近代文学の移植的性格が目立つことを強調しながら、その克服を展望した。彼は宿命論者ではない。それにも関わらず「開闢派」に対する感覚の欠如が見えるように、根本的には「開化派」の後裔だという点は記憶されるべきであろう。]、わが近代文学を英正祖時代に遡及するからといって金炫が強調した「韓国文化の周辺性」が克服されるわけでもない。この無理な構図は4月世代の分化過程で民族文学論と距離を置いた新中間派の自意識から始められたし [21. 林和、白鉄、趙演鉉、金允植・金炫の文学史に対する詳しい検討は、拙稿、「民族文学の近代的転換:近代文学起点論を中心に」、民族文学史研究所編、『新民族文学史 講座2』、創批、2009、21~31頁を参照されたい。]、純粋文学―新中間派―民族文学の鼎立が結果的には政治的な暗鬱のなかで謂れのない70年代文芸復興を呼んできた歴史的経緯が大切である。

それにも関わらず、文学から理念を追放しようとする批評的試みの標的となった林和の文学史は不遇を免れ得なかった。韓国からも北朝鮮からも放逐されて休戦線を彷徨う境遇に追い詰められたので、その傾向はより助長されてしまった。「現代文学」をキーワードでそれとなく林和で代表されるプロ文学、人民文学、民族文学を武装解除しようとした趙演鉉以来、公開的に林和を移植論者として批判した金允植・金炫を経て、林和を直間接的に生け贄としようとした論弁は断続されたところ、その最後を飾ったのがおそらく21世紀劈頭に横行した柄谷行人を笠に着た終焉論の騒動であろう。

日本の変革可能性に対する絶望、または諦念に基づいた彼(柄谷行人―引用者)の近代文学終焉論という衣装を着替えて再び現れたプロ文学解消論である。韓国から伝わった風聞を通じて完成された新版解消論が再び韓国に強力な影響を及ぼす奇異な形勢が痛ましい。要するに終焉論は自由実践文人協議会とその後身である民族文学作家会議、そして創批が主導した韓国の民族文学運動、または民衆文学運動の解体を促すラッパとして使われており、終焉論をめぐったこの頃の騒動とは柄谷を笠に着た新版解消論といっても過言ではない [22. 拙稿、「近代文学の終焉、または新版解消論」、ハンギョレ、2007.10.27. この論難に間接的に連係されたキム・ゾンチョルはその後、これに対する注目すべき発言を残した。「柄谷行人が「近代文学の終焉」を語った時、彼は事実上文学らしき文学はもう終わったと見なしました。おそらく彼が石牟礼(『悲しい水俣』の作家、石牟礼道子―引用者)の存在を調べて、その文学の歴史的・文明史的意義を看破する視角を持っていたならば、もしかしたら考えが変わったかも知れません。」「文学の終焉だの何だのそういうことに気にしないで、作家ならまずそういう物語を記録することに充実であるべきではないでしょうか。」キム・ゾンチョル、『大地の想像力』、緑色評論社、2019、318頁と327頁。]。

 

4、争点

 

私の文学史的問題はヤヌスである。一方では過去を、もう一方では未来を見る。生きている過去が70年代民族文学の行方だとしたら、生きているはずの未来はキャンドル以後の文学である。解放直後、林和が達した民族文学論と70年代民族文学論との間に架け橋をかけることが優先的であるが、まず注目するところは後者が党のない時代の民族文学だという点である。前者が位牌を扱うように大切にしていた左翼ヘゲモニーさえ留保した開放性にも関わらず、直接的政治服務に牽引されて失敗の道を歩むことになったことも、結局状況の厳重さでより強化された党の現前によるところが少なくなかった。ある意味では解放直後が党の持続性が不安であった植民地時代より文学的では一層厳しかったとも言える。カップが解体される頃、始まった林和の脱教条主義的探索が可能であったのも、公式的には党がほとんど解体された状態にあったという点とも関わるが、70年代民族文学論が林和の民族文学論と基本的には非連続というくだりは注目すべきことである。70年代民族文学の起源はつまり4月革命を原点とする60年代参与文学である。亡国9年振りに蜂起した3・1運動のように休戦7年振りに爆発した4月革命も奇跡である。この革命でわが社会の韓国的性格が本格化したように、われらの文学の韓国的内在性も根を下ろしたところ、革命とクーデターの強い覚醒のなかで生まれた金承鈺(キム・スンオク)は、60年代参与文学と70年代民族文学の「出会い」である。3・1以後、新文学運動の総決算が解放直後の林和の民族文学論だとしたら、4月以後の一つの決算であり新しい出発が白楽晴(ベク・ナクチョン)の民族文学論であり、両者を分ける指標は分断体制の成立である。38度線が休戦線として固定して終わることによって、不安定な安定を内在化した分断体制の出帆のなかで新たに到来した韓国の現実に根を下ろしたおかげて名誉な非連続を成し遂げたものの、70年代民族文学が前の時期と完璧に非連続であったわけではもちろんない。いくら分断という深い河が介在しても、韓国文学もまた新文学全体と国民的相続関係にありもしたが、近くでは解放直後、民族文学との非公式的接続が隠密ではあったが活発であった。古書店を通じた(準)地下流通だけでなく、人的連係も少なくなかった。韓国から北朝鮮へ、再び韓国へ帰還した険しい旅程の末に切り立った詩的冒険を厭わなかったことで、以後韓国文学の統合的人物として浮かび上がった金洙暎(キム・スヨン)を始め境界で生きてきた作家たちが、生きている伝承であった。一方、北朝鮮の文学的主流/非主流として渡った解放直後の民族文学の越北こそ、分断時代における南北文学史の非接続的接続を示した大事な種火だという点もまた大切である。

要するに、60年代参与文学を母胎とした70年代民族文学の行方がキーワードである。すでに指摘したように、新中間派と民族文学は協同的でありながら非協同的な関係のなかで70年代文学を突き動かしたところ、それにも関わらず純粋文学もまた70年代民族文学と無関係なものでは決してなかった。純粋文学を代表する金東里(キム・ドンリ)さえ、時には「リアリズムの勝利」に準ずる作品を生産した点にも留意すべきことであるが、70年代民族文学運動に投身した作家のなかで李文求(イ・ムング)を始め「文壇」出身が少なくなかった。これもまたその内発性がもう一つの標である。このように戦後韓国文学と総合的継承関係に置かれた70年代民族文学が解放直後、民族文学と分かれるもう一つの地点は民衆性である。林和の民族文学論は人民文学論を実質とする。ところが、人民文学論もまた分断の妖術で共同路線的意義を急速に喪失していく過程で、隠れた党―政治が露骨化したところ、戦後の韓国で「人民」という言葉そのものがタブー視されたことからも明らかである。70年代民族文学の民衆性は人民文学と根本的に非連続である。分断された朝鮮半島の南側国民という政治的無意識が発見した沈痛な現実からくみ上げた内発的民衆性がモダニズムの洗礼さえ抱えて乗り越えたその形質が輝かしいものであったが、一方でその民衆性も必ずしも非連続的なものでもない。カップも長い目で見れば、エリート中心の新文学運動の民衆性を深める、騒がしいものの必然的進化の段階であって、ある点ではプロ文学とモダニズムはその新文学を「現代化」した双子であるかも知れない。70年代文学の民衆性はまさに30年代共同路線の時代に隔世遺伝的に連係されるが、80年代文学を見る一つの観点でもあり得る。カップが新文学の民衆的進化であるように、80年代急進文学もまた、70年代民族文学の階級的深化でもあるからだ。カップの時よりもっと騒がしい活気でいっぱいであった80年代文学の脱中心的反乱が外ではソ連の解体、内では文民政府の出帆という変化のなかで政治性の危機に陥没したことは劇的であるが、この継ぎ目にリアリズムとモダニズムの間を苦悶した回通論は、先述した朝鮮文学者同盟内部の対立を他山の石としたところ、その前轍を教訓にして民族文学の主導性を協同戦線のなかでできる限り放つことで、新版解消論に対処する共同路線の見地が要点であった。

私の文学史的問題は一方でキャンドル以後の文学と連通する。韓国の運動または革命は政治的でありながら同時に文化的爆発であった。3・1運動がわれわれが今も営為する現代的文学制度を生産した新文学運動の偉大な母親であったように、4月革命は民族文学/民衆文学はもちろん、モダニズムで代表されるはずの新中間派の文学までも敬拝する想像力の源泉であった。30年代の文学に次ぐ威儀を誇った70年代文学の一時期が沈む頃に燃え立ったキャンドルは、前の時期の運動の総体的継承であり、その新しい階段である。「これまでわれらの運動、革命は「私」を飛び越えた。その「私」が、その「現在」が帰還した。もう誰が誰を教える啓蒙主義は終わりである。自らを尊重する「自分一人」が互いに師匠となる相互教育の対話のなかで島山の愛己愛他民主主義が韓国社会をかつて踏んだことのない名誉革命の道へと導いているのだ。」 [23. 拙稿、「わが文学はキャンドルにどう答えるか」、韓国作家会議理事長新年のあいさつ、2017.1. ] 小文字「私」の直接政治を含んだキャンドルは果たして如何なる文学を生み出すか。キャンドルに感電された、または脱感電された新しい文学の渡来がおそらく韓国文学、または朝鮮半島文学の21世紀的性格を根本的に造形するはずだが、ここがロドスである。「キャンドルのなかで、そして外で胎動しようとするこの「尊い国」の行方に私の耳を澄まして「それと共に自分一人の完成」を深く工夫する文学の良き時代が渡来した。」(前掲文) 「最初の握手」(尹東柱)であるはずのキャンドルも自由でないこの頃、良き時代はまたどのような事件として形付けられるか。

いろんな面でわが文学の境界がざわめいている時である。今や韓国語中心で構成された韓国文学の辺境が揺らいでいる。春園の「朝鮮文学の概念」(1929)はこの論議の先鞭である。京城帝大朝文科で栗谷の『撃蒙要訣』を文学教材として使うということに激怒した春園の質問は鋭い。「(一)<撃蒙要訣>は文学なのか。(二)<撃蒙要訣>は朝鮮文学なのか」 [24. 『李光洙全集10』、ウシン社、1979、449頁。以下、この文章からの引用は本文に頁数のみを記す。]春園はこの本が「一種の修身書・処世術」に過ぎないので文学ではなく、漢文で著述されたので朝鮮文学ではないと弁えながら、「文学の国籍は属地ではなく、属人(作者)でもなく、属文(国文)」(450頁)であることを明らかにした。この先駆的でありながら偏狭な議論はその後自然に校正された。春園によって放逐された韓国漢文学が韓国文学の財宝として思われることが代表的であろう。ところでこの文章におけるより大きな問題は、文学を近代西欧を起源とする純文学として縮小したところにある。『撃蒙要訣』は春園が考えたような、古い処世書では決してない。初めて学ぶ子供たちを対象とした教科書的性格を持っていながらこの本の内容は深い。「衆人」と「聖人」は二つではないという新儒学的啓蒙主義に基づいて「必ず自ら聖人となるという目標を立てて、一個の毛ほども自分の能力を低く見なしてその目標から退けたり、他のことに回そうとする考えを持ってはならない」 [25. 李珥、『撃蒙要訣:正しい勉強の手引き』、キム・ハクジュ訳、ヨンアムソガ、2017、17頁。]と勇猛精進を激励するところから始まるこの本は、およそ学ぶ人々の必読書として遜色のない古典である。もちろん母国語は永遠に研磨されるべき未来なので、属文主義の原則は大事にされるべきであるが、自発的・非自発的新移住者たちが世界所々で現地語またはハングルで優れた文学を相次いで生産する今日の状況に即して、属地・属人・属文がすべて問題的になっていることに留意して、臨界点に達した韓国文学の辺境をあらかじめ点検する必要がなくはないだろう。この機会にハングルまたは外国語で創作されたディアスポラ文学全体を、風聞ではなく文学として持て成す批評的介入を行う場を設けることも検討に値する。

最後にこの文学史に付ける名について少し考えてみよう。まず韓国、朝鮮、朝鮮半島のなかで何を選ぶか。この中で19世紀末の啓蒙主義時代から直ちにキャンドルに及ぶ時期をまともに代表する名前はない。朝鮮、大韓帝国、植民地朝鮮、軍政下の南と北、そして分断された大韓民国/朝鮮民主主義人民共和国に及ぶ名の複雑さを想起したら、現在では次善が最善である。Koreaの代喩として韓国を選ぼう。北朝鮮文学史を下手に編入させることは避けられるべきであるし、だからといって批評的介入を諦めてもならないので、この問題は別に準備されて然るべきだ。次は新文学、近代文学/現代文学、現代文学。「資本主義近代/社会主義現代」という図式はすでに廃棄されたので、新傾向派の台頭に際して近代文学/現代文学に分けることも意味がない。この時期全体を現代文学史といっても十分ではない。趙演鉉は1930年代モダニズムを前の時期と後の時期が接合する結節点としようとしたが、すでに愛国啓蒙期にも現代性がちらっと映る。「20世紀」で仕上げた申采浩(シン・チェホ)の『李舜臣』の最後のくだりは代表的である。「上天が20世紀の太平洋を荘厳し、第2の李舜臣を待っている。」(大韓毎日新報、1908.8.18) 予言的でもある、古典と現代の早熟なスパークが鋭いし、自然主義と浪漫主義で規定されたりしていた1920年代新文学はさらに現代を呼吸した。韓国近代小説の里程標、廉想涉の『萬歳前』(1922~24)に『異邦人』(1942)のムルソー的現代性がちらめく点や、3・1運動直後、溌溂と展開されていた新文学が20年代半ば、新傾向派へと傾斜された点や、プロ文学とモダニズムが新文学の現代化企画としてほとんど同時に発生した点もまた、われらの新文学史で近代性と現代性が段階的であったというよりは同時的であったことを示すだろう。それにも関わらず私は新文学を選ぶ。すでに林和が繰り返し指摘したように、われらの文学は先端の現代性のなかでもある後進性から自由でなかったし、美的公正性をまともに発揮する問題は今も相変わらず生きている文学的課題である。資本主義近代に強制に編入された以後、朝鮮が経験した圧縮的混淆と反ファシズム民主連合の勝利によって解放(=分断)されて以来、韓国が経験した圧縮成長の因果を顧み、現在解体の段階に入った分断体制が異なる次元で魔性を発揮する複雑界を想起する際、われらの文学はそうでない国の文学と現実的に異なるしかない。そのすべての複合性を要するに「韓国新文学史」[26. 韓国新文学史は実際は韓国近代文学史である。近代文学の完成/克服は相変わらず生きている課題だからだ。それにも関わらず新文学という特殊な名を使うしかないのは、特に社会主義現代(カップ)と非社会主義現代(モダニズム)を経験した以後の近代文学はただの近代文学ではあり得ないからだ。それに分断体制が作動する解放以後まで勘案すると、さらにそうである。] が暫定的名である。

 

(翻訳:辛承模)

 

 

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