창작과 비평

[論壇] 詩人の金芝河が成し遂げたことと残したもの / 廉武雄

 

創作と批評 197号(2022年 秋)目次

 

論壇

 

詩人の金芝河が成し遂げたことと残したもの

 

 

 

廉武雄
文学評論家、嶺南大学校名誉教授

 

 

1

 

去る5月8日、詩人の金芝河(キム・ジハ)が世を去った際、江原道原州の基督病院に設けられた彼の葬式場はあまりにがらんとしていた。たとえ晩年の言動が失望的であったとしても、一時代の民主化闘争と受難を代表する象徴的存在であり、心の琴線に触れた独歩的な詩人であることには間違いないが、そのような人をこう送るなら、これはずっと韓国社会の恥じらいに残ると思われた。このような考えを共有した方々が志を集めて、彼の長い同志であった李富栄(イ・ブヨン)先生がその志を代表する推進委員長を務めて、49齊となる6月25日、ソウルの天道教大教会堂で「金芝河詩人追慕文化祭」を開いた。幸い広い講堂がぎっしりになるほど、多くの方々が参席して、詩人の最後の逝く道を慰め、霊魂の薦度(亡くなった方の冥福を祈るための儀式―訳注)を共にした。 

本稿はその場で発表した追慕の辞に基づいて、大幅添削をしたものである。追慕の趣旨を忘れないようにしながらも、金芝河の行跡と文章のなかで訝しく感じられるところがあれば、それに対する指摘も行った。このことを大きな欠礼だと考えないのは、何より彼と私の生前における気の置けない間柄による。金芝河は私より1年先に、1959年に美術大学美学科に入学したが、1961年、美学科が文理大に移したために一つのキャンパスで修学する友となった。正確な記憶はないが、60年代初め頃、同郷の小説家である金承鈺(キム・スンオク)を通じて交流が始まり、金承鈺と同じく最初からくだけた言い方をする間柄となった。彼は休学を繰り返した末に、私より2年半遅れて卒業したし、その後、半世紀が経つ間、非常に親しかったわけではないが、だとして疎遠にもならない関係を維持した。心にもない礼儀を重んじる必要はない間柄だったという意味だ。 

 

 

2

 

4·19革命以後、大学街は類例のない解放感と新生の雰囲気に包まれていた。李承晩(イ・スンマン)政権が崩れ、過渡政府を経て張勉(ジャン・ミョン)政府が樹立される間の社会的自由は、韓国の歴史上、今までに一度もないものであったと思われるが、押さえつけられていた革新系中心の民族運動が活動を始めたのも、そのような自由の上で可能なことであった。代表的なものが1960年9月に結成された「民族自主統一中央協議会」(民自統)であって、その指導のもと、11月にはソウル大学校「民族統一連盟」(民統連)が発足し、引き続き1961年5月には全国的大学生組織の結成が予告されながら、準備宣言文を通じて有名な「行こう北へ!こい、南へ!会おう、板門店で」というスローガンが提出された。 

このスローガンは驚くべき波及力をもって国民の旋風的な注目を集めた。ところで、意外なことは大学街の「民統連」活動に常に冷笑的に対応してきた金芝河が「板門店の学生会談に民族芸術と民族美学分野で(…)韓国の学生代表として選定」されたことに同意した事実である。この一連の作業を主導したのは趙東一(チョ・ドンイル)学兄であったが、金芝河としてはおそらくこれが公的な政治運動に参与することにした最初の決定であったろう。(『金芝河回顧録:白き影の道1』、学古斎、2003、377頁参照。以下、『回顧録』と略す) 

しかし、独裁反対と市民的自由の勝ち取りという、境界を超えた運動の試みは、大韓民国では常に危険を呼びつけた。その頃、原州の基督会館の講演に来られた咸錫憲(ハム・ソクホン)先生は、「必ず何かが起こるはず」と警告した。同じくその頃、挨拶を差し上げ、一生師として仕えた張壹淳(チャン・イルスン)先生も、また6・25前後に左翼として活動していた金芝河の父親も、やってくる危険を予告した。だが、彼は「組織ではない個人として参加するわけ」だから南北学生会談への参加を承諾したのだと、それから40年余りが過ぎて語った。「失敗することがわかっても死の場へのっしのっしと進んでいくこと、それが私の最後からの参加であった。」(『回顧録1』、377頁) 失敗を予想しながらも、その結果やってくる受難と苦痛を甘受するという自意識、このことは金芝河の生涯全体においても数回繰り返された選択のパターンではなかったかと考える。 

とにかくその延長線で金芝河は1964年春、朴正熙(パク・ジョンヒ)政権の屈辱的韓日会談に反対する学生デモに、先頭に立って戦うことになった。そして、6・3抗争と呼ばれることとなったこの事件で、彼は初めて刑務所暮らしをした。金芝河の人生に対してわれわれが投げかける一つ目の質問は、どういう経緯で彼が闘士の道に踏み出すことになったかということであるが、彼は自分の「行動」がある組織や理念から出たわけではなく、自分が置かれた状況の必然性による個人的熱情の産物であったと答える。(『回顧録2』、341頁) つまり、「常に組織外の活動家」(同書、42頁)という自意識が彼に付きまとった。さらには彼は歴史的事件の真っただ中に立っている瞬間にも「歴史とは反対でありながら、それにも関わらず歴史へ戻っていく(…)内面的カオスの生成の時間」を漠然ながらも生得的に感じ取っていたと回想する。(同書、54頁) 論理的確信ではない「内面的カオスの時間」こそ、金芝河にとっては他ならぬ「詩の時間」であった。一生に渡って彼の魂を支配したのは行動ではなく、詩に対する渇望であった:「まことの詩は最も賢く最高に科学的な思想さえも圧倒する。」(同書、67頁) 四カ月に過ぎなかったが、この際の刑務所体験から数編の詩が生まれた。 

 

 

3

 

大学を卒業してから新米文学評論家として、ある出版社の編集社員として働いていた私が、ただの知り合いとして交流していた金芝河をより詳しく知ることになった切っ掛けが来た。1964年のある季節であったか、乙支路5街の裏通りにある居酒屋で、学友たちの詩と絵の展覧会が開かれるという知らせを学内の掲示板で見た。その展覧会で私は初めて「金之夏(キム・ジハ)」と署名された彼の詩を見た。金芝河の詩だけでなく、そこに掲げられた他の学友たちの詩も、ほとんどはこれまで私が読んできた韓国の詩的慣習とはかけ離れた、非常に実験的なものであった。後日、映画監督となった、金芝河の高校同窓生である河吉鐘(ハ・ギルゾン)の作品「胎のための過去分詞」は特に過激なものであったが、その後、そのタイトルで薄い詩集も出て、大学の構内書店に陳列された。金芝河本人はその頃、自分がシュールレアリスム(超現実主義)風のモダニズム系列の詩を書いたと明かしたことがある。 

それからしばらく経ってから私は金芝河の学術発表を聞くことになった。朴鐘鴻(パク・ゾンホン)教授が常に哲学概論を講義していた大型の講義室で行われたことと覚えている。正規講義が終わった後の薄暗い雰囲気と、黒板にチョークで走り書きしたタイトル「醜の美学」、そしてところどころに座っていた聴衆の後ろ姿が今もおぼろげに思い浮かぶ。怪奇・歪曲・誇張・滑稽・諧謔・風刺など、正統美学では低級なこととして取り扱ってきた美学的要素の積極的価値を説明する内容であったが、やはり私には見慣れなかったし、少なくない衝撃であった。金芝河自分によると、その発表はヘーゲルの弟子である19世紀ドイツの哲学者、ヨハン・カール・ローゼンクランツ(Karl F. Rosenkranz、1805~79)の著書である『醜の美学』(Ästhetik des Häßlichen、1853)に基づいたものであった。だが、私が本当に注目したことは、彼がローゼンクランツという西欧学者の理論を受け入れながらも、単にそこに留まらなかったという事実である。金芝河はローゼンクランツの美学を足場にして、韓国固有の伝統芸術に新たな美学的生命を吹き込む理論的転移を試みていたのである。だから、「醜の美学」という同じ名のもと、ローゼンクランツが西欧近代美学の変化の様相を見ていたとしたら、金芝河は眠っていた韓国伝統美学の新しい回生可能性をそこから見い出していたわけである。

金芝河はかつて美学科の先輩である金潤洙(キム・ユンス)を通じて、ルカーチ(G. Lukács)を始め、社会主義系統の美学思想と、ルイ・アラゴン(Louis Aragon)のような前衛詩人を知ることになったという。それまで彼は超現実主義風の詩を習作ながら書きながら、ディラン・トマス(Dylan Thomas)の破格性と天才性に心酔していた。このように彼は西欧モダニズムの多様な傾向に相変わらず傾倒しながらも、主に趙東一学兄との交流を通じてタルチュム(韓国特有の仮面舞踊の一つ―訳注)や風物、または民謡やパンソリ(韓国特有の唱劇に合わせて歌った民族芸術の一つ―訳注)のような韓国伝統芸術の重要性に次第に目を覚まし、1960年代後半、月刊誌『アセア』に連載されていた李用熙(イ・ヨンヒ)教授の絵画史研究に刺激されて、朝鮮後期の風俗画と真景山水を勉強することとなった。これらすべての学習を金芝河方式で収斂した「醜の美学」は、超現実主義のようなモダニズム西欧芸術の肯定的側面を、われら自身の民族・民衆美学伝統の固有性の中へ吸収しようとする大胆な試みであったわけだ。

ところで注目すべきことは、金芝河の民衆芸術・民族伝統に対する傾倒が単に理論の次元に留まったわけではないという点である。彼の場合、むしろ理論に先立った幅広い実験と実践があった。この方面でも先鞭をつけたのは趙東一であった。すでに6・3抗争の頃、「趙東一兄貴は「怨鬼召し使い」というマダングッ(朝鮮半島の黄海道グッにおける最後の儀式。グッとは巫女が供物を備え歌舞を演じて神に祈り願う儀式のこと―訳注)を試みて、それは「朴山君」を経て後日「虎叱」と「やい、こいつノルブや」などのタルチュムやマダングッとして発展したし、それ以後、風物とマダン劇を中心とした民族文化運動の麗しい濫觴となった。」(『回顧録2』、38頁) ここで何より注目すべき事実は、この際、初めて金芝河と彼の同僚たちによって当面した政治闘争と民衆的文化運動の結合が「目的意識的に」試みられたという点である。1968年、統一革命党事件を切っ掛けに趙東一が運動の現場を去った後は、金芝河がほとんど一人で大学街の民族文化運動を導くことになるが、運動はより多くの後輩たちの参与でもっといろんな分野へと拡散された。1970年代、金芝河が刑務所に投獄されてからも、蔡熙完(チェ・ヒワン)のマダングッ、イム・ジンテクのパンソリ、李愛珠(イ・エジュ)の踊り、金敏基(キム・ミンギ)の歌、金英東(キム・ヨンドン)の国楽など、演行芸術のいろんなジャンルは復古主義の古い枠を破って、時には文学や美術よりもっと急進的な政治性を帯びながら、大学街を超えて労働現場および農村社会の底辺へ広がっていった。それは一種の「文化革命」と呼べそうな側面を持つことであった。 

ともかく私は1960年代半ばから金芝河とよく会う間柄となった。彼が肺結核の療養のため入院していた駅村洞の病院にも何回か面会に行った。金芝河の人生において特に重要なのは、美術大の後輩である吳潤(オ・ユン)との親交であるが、父親である小説家の吳永壽(オ・ヨンス)先生の自宅に行く道を何回か彼と同行した。結婚したばかりの私の貸し間が呉永壽先生の自宅と近い牛耳川の川辺だったが、横町の端にある「チョロン屋」という昔風の居酒屋で一杯飲んでから、呉永壽先生のお宅に向かったわけである。時には呉永壽先生のお宅で、呉潤の姉さんである呉スクヒ先輩が主催する小奇麗な国楽やパンソリ鑑賞の集いを持ったりもした。

金芝河が呉潤の人並外れている美術才能に深く魅了されたことは、生産的な結果へとつながった。呉潤の美術大の友たちが集まって一つの同人の形を帯びることになったのだ。それが「現実同人」であったが、金芝河が作成して、金潤洙先生の校閲と呉潤などの読会を経た「現実同人宣言」がパンプレットとして作られた。それと共に同人たちの作品の展示も計画されたが、美術大教授たちに憎まれて作品は押収され、展示会は未遂に終わった。だけど、その際、撒かれた種は次第に育って、10年余りが経ってから「現実と発言」同人の結成として実りを実ったし、その余波は今日、韓国美術の新しい歴史を書くことにまで発展した。  

 

 

4

 

金芝河は大学文化運動にいろんな方面から創意的なアイデアを提供し、大きな影響を及ぼしたが、それにも彼の本業はあくまでも詩であった。高校時代の先生が梨花女子大学校出身で文学を深く理解した鄭芝溶(ジョン・ジヨン)詩人の弟子だったので、彼女の文学授業から多くのことを学んだという。だが、文学少年時代の金芝河は 鄭芝溶以来の韓国詩の慣習に従うよりは、西欧の実験的で前衛的な詩人たちに魅力を感じ、そういう作風で習作をした。大学に入って美学科教授たちに失望してから、1963年3月、『木浦文学』に「夕方物語」という作品を発表し、また、その頃、ソウルと原州の喫茶店で個人詩画展も開いたというが、どんな作品だったのか私は見ていない。ともかく紆余曲折の末、彼は詩人の趙泰一(チョ・テイル)が主宰していた『詩人』誌の1969年11月号に「黄土のみち」など5編を発表することで、公式的に文壇の一員となった。

作品「黄土のみち」は一行目から「黄土のみちにまざまざと/血の跡、その血の跡について」[1]の強烈な色彩と息切れするリズムで読者を圧倒する。悲壮で凄まじく提示されるイメージの羅列をある程度整理すると、おぼろげに「あの日万歳」を叫んだ群衆と、「両手には鉄線」で巻き付かれて「銃剣の、もとに斃れた」「わがそなた」の映像が浮かぶ。幼い頃、目撃した「人民裁判の残酷性」(『回顧録1』、212頁)と、「左翼嫌疑者たちに対する無慈悲な虐殺」(同書、221頁)の光景が、悪夢のような赤黒い血色の幻覚に変わって彼に付きまとったのである。しかし、作品はその殺伐とした場面の歴史的背景を「瘠薄な植民地に生れ落ち」「暴政煮えたぎる夏」のような、やや抽象的な表現で暗示するに留まる。もしかしたら抒情詩としてはそうすることが賢く、また充分であるかもしれない。その血色映像の身震いする喚起だけでも「黄土のみち」は金芝河文学の「出師の表」として強い印象を与えるに足りたと言える。

重要な事実は金芝河詩の出発点には「貧しくて捨てられた地」であり、「反乱と刑罰の地元」としての故郷全羅道に対する運命的な連帯が深く存在するという点である。幼い頃、目撃した左右対立の残酷さだけでなく、ずっと遡って日本帝国の軍隊による東学軍虐殺と南韓大討伐の歴史も、彼には無心ではいられない縁があった。「私の霊的血統の核心にある東学の記憶は、単に幼い時の家柄の伝説ではなく、二十歳を過ぎた私にとって一つの生きている現実」(同書、387頁)であったと彼は語る。長い時間が経って光州の5月を経験してからも彼は「未だ全羅道は「夜」なのか?おそらくこの「夜の意識」が私の詩の出発点であろう。この「夜の意識」「悲しみ」がなかったら、私の抵抗的感性は芽生えなかったはずだから…」(同書、267頁)と嘆く。 

1970年は金芝河個人にとっても韓国詩の歴史にとっても特別な年であった。5月には問題の作品「五賊」が文壇と社会を強打したし、年末には詩集『黄土』が出版されて詩壇の注目をもらった。今読んでも重要な問題提起をはらんでいると思われる詩論であり、美学論文である「風刺か自殺か」が発表されたのもその頃である。『農舞』の詩人、申庚林(シン・ギョンリム)が文壇に復帰したのもその年の秋であったし、劣悪な労働現実に抗議して若い労働者の全泰壹(ジョン・テイル)が焼身したのもこの時であった。1960年代末、金洙暎(キム・スヨン)・申東曄(シン・ドンヨプ)が相次いで世を去ってから金芝河の華々しい登場と、申庚林・李盛夫(イ・ソンブ)・趙泰一(ジョ・テイル)などの新しい活躍は、わが社会と文学内部で巨大なる転換が進行されていることを知らせる明白な信号であった。この転換の時代を最も熾烈な言語でもって代表したのが他ならぬ金芝河であったが、もう文学は彼を通じて現実と最前線でぶつかる戦場のなかの一つとなったわけだ。 

問題作の「五賊」を書くことになったのは、偶然というならば偶然であった。ある日、道端で買って読んだ野党の機関誌『民主戦線』で「東氷庫洞の泥棒村」という記事を読んだのが切っ掛けであった。ちょうど月刊誌の『思想界』の編集長から政治詩を一つ書いてくれと頼まれたところだったので、泥棒村物語を「パンソリスタイルの風刺的叙事詩の形式で書こうという決心」で「三日間日夜, 彌阿里の小さい部屋に閉じこもって終始一人でくすくす笑いながら、やたらになぐり書きしたものが取りも直さず「五賊」である。」(『回顧録2』、164~65頁) 文字通り信じがたいほどであるが、だが、同じパンソリ系列の長詩『この日照りの日に雨雲』(東光出版社、1988)も序文で「水雲・崔濟愚(チェ・ゼウ)先生の生と死を一息で書きなぐった」と大言したことを見ると、金芝河の驚くべき筆力を信じないわけにもいかない。 

当時、東亜日報に詩の月評を書いていた私は、「五賊」の社会的波紋が広がるにつれて小心となって、次のように簡略に触れることに留まった。「この作品を単純な現実風刺としてのみ見なすことは、皮相的判断に留まりやすい。むしろそのような生々しい風刺を有機的に自己内部に溶解させた詩形式的達成こそ、韓国詩の前途を明るくする。」(東亜日報 1970.5.30.)

実に単純な暗示に過ぎない寸評である。ここで「五賊」の「詩形式的達成」が何を意味するのか説明が必要である。この作品が財閥・国会議員・高級公務員・将星・長次官など、同時代の支配階層の腐敗と堕落に対する強力な風刺的批判であることは、誰の目にも明白である。それは、言うならばこの詩の表れているところである。「譚詩」という見慣れない用語で自分の形式を規定したが、他ならぬパンソリの修辞法と拍子に従っているということも疑問の余地がない。だが、ある点ではパンソリという形式そのものも(過去の伝統という)外部から借りてきたものである。根本的なのは両者の生々しくて有機的な結合、つまり剝製品状態のパンソリ形式を現実批判の生きている武器として力強く生かした事実である。これこそ金芝河固有の真正なる成就である。引き続き彼は「蜚語」「五行」「櫻賊歌」「糞の海」などの「パンソリ詩」を相次いで発表した。後日、彼は譚詩全集『五賊』(ソル、1993)を刊行しながら、「パンソリの現代化と東学革命叙事詩はわが夢」だと言明したりもした。(「蜚語」は「音の由来」「尻觀」「六穴砲崇拜」など、事実上別個の三つの作品を一つに括って付けたタイトルである。私はこの中で最も文学性の高い作品と思われた「音の由来」について、もう少し詳しく分析したことがある。(「叙事詩の可能性と問題点」、金潤洙ほか編、『韓国文学の現段階1』、創作と批評社、1982)

金芝河は民謡とパンソリのような伝統的詩形式の現在的価値を、創作を通じてのみ示したわけではなく、理論としても積極主張した。その代表的な論文が「風刺か自殺か」である。専攻者たちは周知のことであるが、このタイトルは金洙暎の詩「妹よ、あっぱれだ!」の一下りである「風刺でなければ解脱だ」を誤読したことから出たものであるが、ともかくこの論文は金芝河が先輩詩人の金洙暎を強く意識しながら、自分の「醜の美学」を詩論に適用した文章である。政治的抑圧と暴力のもとでは民衆的悲哀の感情が発生し、それが蓄積されて恨へと発展するが、この恨は民衆的反暴力、つまり風刺を通じてのみ社会的力として転化されうる。そのような点で金洙暎が抑圧的現実を風刺的に批判したことは正しかったし、この批判精神は当然継承されるべきだと金芝河は語る。だが、「彼(金洙暎)の風刺がモダニズムの息苦しい檻のなかに閉じ込められて、民謡および民芸のなかに難破船の宝物のように無尽蔵積み上げられている、あの豊かな形式価値、特に諧謔と風刺言語の継承を拒んだことは正しくない。」(『燃える喉の渇きから:金芝河詩選集』、創作と批評社、1982、152頁)

韓国固有の伝統的文芸形式に対する金芝河の高い評価とそれの現代的継承の主張は、しかしそれほど簡単な問題ではない。金洙暎詩人が民謡が好きでなかったことはよく知られている。彼の詩に伝統的律格の活用がないのも明らかである。そのような点が金洙暎の詩にどのような欠乏を生み出したか、それとも逆に彼の詩的思惟に特有の熾烈性をもたらしてきたかは容易く判断しにくい。とにかく金素月(キム・ソウォル)から申庚林まで「金洙暎の外の」詩人たちが民謡的発想とリズムを通じて、韓国の詩に肯定的に寄与したところが多いことは否定できぬ事実である。半面、パンソリはこれとは異なる。パンソリは金芝河の「五賊」のように例外的にテクスト自体が広く伝播されたりもしたが、原則的には聴衆の前で鼓手の太鼓拍子とチュイムセ(パンソリで唱の間に鼓手が興をそそる入れる音―訳注)に合わせて「声」で行うものである。優れた歌い手であるイム・ジンテクの素晴らしい事例が示すように、そのような演行ジャンルとしてのパンソリは、今日、委縮された状態でありながらも相変わらず生きている芸術である。しかし、文学ジャンルとしてのパンソリは金芝河のような特出とした才能が出現しない限り、再び復興することは難しいと私は考える。  

ところで、1980年代半ば、金芝河は譚詩よりもっと野心的な企画として『大説 南』を発表し始めた。途中で諦めて未完に終わったにも関わらず、三冊もなる大河長詩であった。やはりパンソリ形式だったが、ずっと前読んだので記憶が定かでないが、振り返って考えると、『大説 南』は民衆たちの多彩なる生活様相を具体的に典型化するより、単に様式上のモデルとしたことで、一種の形式主義に傾倒したのではないかと思われる。つまり、彼の「大説」は西欧合理主義伝統の克服のみでなく、自分の「南朝鮮」思想の叙事的具現という野心的な意図にも関わらず、民衆のない民衆形式、あるいは民衆が実感しがたい形式実験として帰着されたのではないかと思われるわけだ。このことは「譚詩」の集中的芸術効果さえ「閉じられた」完結構造だと自己批判した金芝河の判断に明らかに問題点があることを示している。もしかしたら、これは西欧的「近代」との関係設定において、彼にある「行き過ぎ」があったと思わせるくだりである。  

 

 

5

 

詩集の『黄土』が出版された直後、1971年4月には朴正熙と金大中(キム・デジュン)が取り組む大統領選挙が行われた。民主陣営としては、この選挙は単に大統領を選ぶ行事ではなく、民主主義の存廃を決定する血戦とも等しかった。金芝河も民主守護国民協議会に参与する一方で、カトリック原州大教区の企画委員となって池学淳(ジ・ハクスン)主教と張壹淳先生の指導のもと、活発に活動した。カトリックソウル大教区発行の月刊誌『創造』に発表した譚詩の「蜚語」のために、中央情報部に連行されて捜査を受けたりもした。1972年10月、朴政権はついに民主主義の廃止と、朴正熙の終身執権を意味する、いわゆる「維新」というものを宣布したが、金芝河は殺伐とした雰囲気を勘案したある先輩の勧誘に従って、雪嶽山白鹿潭の谷間に身を隠した。そこで彼は卍海僧を思い浮かべながら、有名な詩「燃える喉の渇きから」を書いた。その後、上京した彼は小説家の朴景利(パク・ギョンリ)先生の娘であるキム・ヨンジュ氏と結婚式を挙げた。

だが、安定した生活が待っているわけではなかった。彼は1973年年末、張俊河(チャン・ジュンハ)先生が主導する改憲請願運動に参与したし、翌年の年初には文人たちの「改憲請願支持宣言」にも同参した。しかし、朴政権はこのすべての民主回復の運動を禁止処罰する緊急措置1号を発動し、これに金芝河はその日で再び内雪嶽を経て江陵へ身を隠した。でも民主主義を叫ぶ活動が鎮まらないと、朴政権はいわゆる「全国民主青年学生総聯盟(民青学聯)」事件を操作、緊急措置4号を発動して数多くの学生と民主人士たちを逮捕して、拷問・操作・起訴する蛮行を敢行した。金芝河も民青学聯の背後操縦嫌疑で拘束され、軍法会議で死刑を宣告されてから無期懲役に減刑された。この際、情報部6局での捜査体験に基づいた詩が「不帰」であった。 以上のようなことが相次いで進行されていた1970年代前半は、金芝河の生涯において熾烈な政治闘争と輝かしい詩創作が互いを前提し、互いを高調させるなかで絶頂に及んだ黄金の時期であった。この際、発表された「燃える喉の渇きから」と「1974年1月」は最も痛烈な参与詩であり、同時に最も透明な抒情詩として金芝河の名を韓国詩史の頂上の位置に上らしめた傑作なのであろう。「空山」と「不帰」も心の琴線に触れる優れた作品であるが、過酷な時代の爪に引っ搔かれた個人的傷跡が、やや虚無主義的感傷の影を余韻のように残している。 

考えてみると、金芝河の詩が歳月の風化作用を乗り越えて相変わらず生々しく生きている感じを与えてくれるのは、実際の状況と詩人個人の極めて具体的な接触、そしてその瞬間に対するあまりに生々しい感覚的現前を彼の言語が表現することに成功しているからである。抽象的観念や常套的呼び掛けへ下がることもあり得る政治的メッセージさえも、この感覚的直接性を通過しながら、はじめて敷居を越えて詩の世界へ生きて入ってくる。 

 

1974年1月を死と呼ぼう

午後の街頭、放送を聞いて亡くなった

君の眼中の光を死と呼ぼう

狭くて寒い君の胸に凍り付いた血が噴き出て

温かくたった今流れ始めた

その時間

再び荒れてきた吹雪を死と呼ぼう

—「1974年1月」一連

 

1974年1月8日のソウルで暮らしていた人々にとって、その日の午後5時に街頭の電器店で響く「大統領緊急措置第1号」宣布のニュースは、氷のような冷たさで背筋を寒くするものであった。寒風のなかで帰宅を急いでいた小市民たちの足取り、彼らの怖気づいた顔つきを見る詩人の目が、この詩には壁画のように鋭く描かれている。令状なしに逮捕捜索して軍法会議で裁判するというから、どうして怖気づかないことができようか。その前日には新聞の1面に「李熙昇(イ・ヒスン)、李軒求(イ・ホング)、金珖燮(キム・グァンソプ)、安壽吉(アン・スギル)、李浩哲(イ・ホチョル)、白楽晴(ペク・ナクチョン)氏など、文人61名が7日午前10時、ソウル中区明洞1街のコスモポリタン地下喫茶店に集まって、改憲署名を支持する声明書を発表した」という記事が3段に渡って載せられていたはずだった。文人たちの声明発表は凍り付いた血を今やっと温かく溶かし始める春の気配の兆しであったし、青春の苦悩を抱えて街を徘徊していた貧しい青年にはやっとやってきた初恋の予感でもあり得た。ところが、このすべての上に降りかかった激しい吹雪、それは取りも直さず「死」であった。すぐ後金芝河は民青学聯の背後として捜査を受けることになったが、その捜査されていた部屋を「苦行…1974」は次のように描いている。 

 

それらの部屋の中での一瞬一瞬は、ひとことで言って死であった。死との対面!死との闘い!それにうちかってはじめて闘士の内的自由に立ちもどれるのだろうか?それともまた、屈服し、羞恥につつまれてはかなく倒れていくのか?一九七四年はひとことに言って死であったし、われわれの事件全体の名は、この死との闘いであった。(『南国の船乗りの歌:金芝河物語集成』、ドゥレ、1985、34頁)[2]

 

 

6

 

金芝河が火をつけた文化運動が大学街を経て、社会全般へと広がっていく間、当人は長い間刑務所に監禁されて過ごさなければならなかった。刑執行停止で釈放されたものの、先述した獄中手記の「苦行…1974」のために再び無期囚となって収監されたのである。そして、今度こそ類例のない過酷な獄中生活が彼を待っていた。監視の中で徹底に孤立されたのは勿論のこと、ほとんど1年半の間、読書・接見・通房・運動が禁止された地獄の時間であった。それは一人の人間がまともな精神で耐えられる限界を越えたことであった。「ある日、真昼に急に四つの壁が狭まってき、天井が頻りに下がってきて胸がぎゅっと詰まったように息苦しくて、きゃっと叫びたい衝動に駆られた。いくら首を振ってみても、太ももをつねってみても変わらなかった。身もだえ、身もだえしたいのである。」(『回顧録2』、430頁) 金芝河のように鋭敏な感受性の持ち主でなくとも誰でもそうであっただろう。彼の精神疾患の症状は間違いなくこの際の極限状況で発現したであろう。 

それでも幸いに1977年から読書が可能になった。面壁参禅とともに読禅と呼ばれた彼の集中的な読書が始まった。「真のわが勉強の始まりだった。東洋と西洋の数多くの本を読んだ。その長くて長い時間、私はただ本を読むことしかやったことがないようだ。今の私の知識はほとんどがその頃の数多くの読書の結果である。」(『回顧録2』、420頁) 刑務所で彼が尽力して勉強したものは、一つ目は生態学、二つ目は禅仏教、三つめはピエール・テイヤール・ド・シャルダン(P. Teilhard de Chardin、1881~1955)、四つ目が東学であったと言う。特に東学とテイヤールの勉強は刑務所の窓の敷居に吹かれてきて芽生えた小さな草の葉に対する畏敬心と伴いながら、金芝河に一種の思想的転回をもたらしてきた。社会変革のための直接的な闘争から、彼が「生命思想」と読んだ意識革命へ活動の中心を移したわけだが、こう変貌して出獄した金芝河に対して、一般の人々やいわゆる運動圏からはたいして頼りにしていない様子だったし、甚だしくは変節の嫌疑もかけた。だが、金芝河自分としては幼い時代から彷徨と苦悩のなかで探し求めた「人間救援」と「自我解放」の道へついに入ったわけである。 

1980年12月、金芝河はようやく釈放された。だが、自宅前の監視は続いたし、行く所々情報院が追い付いて「座ったところがつまり新しい西大門刑務所であった。」(『回顧録3』、40頁) そうでなくとも拷問と監禁の後遺症が酷かったところ、このような状況は疾患をより悪化させた。酒に対する依存も強くなった。彼はもともと酒が好きで、肴なしに焼酎を飲むことが多かった。1980年代には時に大邱に来る途中にわが家で泊まったこともある。私は出勤のため寝なければならないが、彼は焼酎の盃を手に持って話を止まなかった。明け方に目を覚ますと、彼はすでにどこかへ去っていなかった。  告白するに、当時私は彼の苦しみと寂しさが十分わからなかった。回顧録を読むと、次のようなくだりがある。「始めと終わりがわからない煩悩が、その頃は私を捕まえて離さなかった。夜は夜で限りない錯綜と不眠の夜であったし、昼間は昼間でむだに浮かれる幻想と興奮の日々であった。目を覚ますと、どこかで私を呼ぶようで居ても立っても居られないし、来てというところも多く、行くべきところも多いそのような日々であった。時には騒音が音声に変わって聞こえたりもし、時には真昼の天井の上に血色の竹の葉の怖い踊りを見たりもした。煩悩であった。」(『回顧録3』、55頁) 

今日、私は去る40年余りの日々を顧みながら、限りなく痛む心で詩集『花開』(実践文学社、2002)に載せられた彼の詩「ヘルダーリン」を読む。 

 

ヘルダーリンを読みながら

泣く

 

「私はもう何者でもない

楽しくて生きるわけでもない」

 

闇が支配する

詩人の脳のなかに降る

 

降る雨に乗って

逆さまに上りながら両手を離し

 

ヘルダーリンを読みながら

泣く

 

闇を闇に任せ

両手を離し逆さまに上りながら

 

降る雨足を

逆さまに描きながら両手を離して

 

ヘルダーリンを読みながら

泣く

 

「私はもう何者でもない

楽しくて生きるわけでもない」

 

ヘルダーリン(F. Hölderlin、1770~1843)は誰であったか。彼は哲学者のヘーゲルと同じ教室で勉強していた詩人として、時代との不和によって生涯の後半37年を精神錯乱者として生きていた人物である。一世紀以上、忘れられていたが、20世紀に入ってある日、急に「詩人のなかの詩人」として再発見された、「神がいなくなり、自然との調和が崩れた自分の時代」を嘆きながら、「人間の霊魂の深いところで眠っている高貴な神性を覚醒させることこそ、詩人の召命」であると見なした純潔な霊魂の持ち主であった。「闇を闇に任せ/両手を離し逆さまに上りながら」—このようなくだりに暗示されているように、金芝河は自分のなかに潜んでいるヘルダーリンの「闇」を見て、世の中を遡って生きてきたかのような自分の一生が「降る雨に乗って/逆さまに上」る徒労ではなかったか、その頼るところのない無力感のため涙を流すわけである。 

 

 

7

 

もちろん金芝河は釈放以後、30余年の間精神的苦痛と社会的孤独にも関わらず、ヘルダーリンのように精神錯乱のなかで過ごしたわけではない。ヘルダーリンは19歳に隣国フランスの大革命を目撃した世代として、若し日の手紙では敏感な政治状況をひっきりなしに言及しながら、革命理念の変質と挫折を鋭意注視したことがある。だが、それでもその自分が政治的迫害に追われたことはない。精神錯乱の長い間、落書きのように書いておいた詩や、母親に送った60通余りの手紙を見ると、彼の神性への追求は行動に欠けた彼の情緒的温順さに基づいたことかも知れないという気もする。(『ヘルダーリン書簡集』、チャン・ヨンテ訳、イッタ、2022参照) 

しかし、金芝河は全く異なる。時代との不和を経験しながら、霊性という概念で「高貴なる神性」を追い求めたことはヘルダーリンと同じようだと言えようが、金芝河はヘルダーリンとは違って政治闘争の第一線で四回も刑務所を経験し、死の危険を通過してから霊性と生命という話頭に及んだ。その過程にはもちろん過酷な独房と熾烈な読書と乾坤一擲の思索があった。しかし残念ながらこのことは一般の人々には十分知らされた事実ではなかった。「五賊」と「燃える喉の渇きから」の強烈なイメージを手放したくない人々にとって、1980年代以後の金芝河は次第に失望的に見えたはずだ。大学生たちの労働現場への偽装就業が一つの大勢を成していた1980~90年代にはもっとそうであった。アジア・アフリカ作家会議が1975年に選定した「ロータス賞特別賞」が1981年、彼に伝達されたとき、金芝河には釜山から「ある人」の電報が一枚届いたという。「皆殺されているのに、お前ひとりで賞をもらうなんて廉恥があるのか?」 光州の残酷さを経験した直後であることを勘案しても、理性を失った反応であるが、とにかくそれは金芝河を見る社会的視線の一部でもあった。これについて金芝河はこう書いた。「電報を読みながら私の恨も深く深く内面化した。正しい話であった。」(『回顧録3』、41頁) だが、深く沈殿した恨は彼の精神にもっと損傷を加えた。 

生涯の晩年に至るほど、彼の政治的歩みに異常の兆しが現れたということには異論の余地がない。特に1991年、「死のグッパン(先述の訳注で説明したグッという儀式を行う場のこと―訳注)」云々する朝鮮日報の寄稿文は、多くの人々が金芝河から離れる切っ掛けとなった。だが、その時にしても金芝河は「姜慶大(カン・ギョンデ)君事件の責任追及と共に、何より先に死んだ人々に対する礼儀を全うにすることができなかった!」と謝罪の意思を示した。(『回顧録3』、221頁) しかし、彼の謝罪はまともに知らされなかった。金芝河の名であれ何でも必要ならばいくらでも利用し背くことが大手言論の生理だということを知らなかったのが、彼の過ちといえば過ちだった。2010年代に金芝河は実に異常な言動をお目見えした。当然批判が伴った。だが、われわれは症状が悪化した老年の金芝河が他人の批判のなかに込められている合理的核心を掴んで、自分の人間的成熟のための肥やしとする力をもう失ったことを認めなければならない。この点は金芝河を愛した同僚と後輩たちを限りなく悲しくする。 

このように次第に精神的退行が進む最中も、1980年代は作家としての金芝河にとっては最も生産的な年代であった。マグマが噴出するかのように、詩の分野では『大説 南1、2、3』(1982、84、85)と抒情詩集の『愛隣1、2』(1986)、『黒い山 白い部屋』(1986)、『そこを見上げると、スターフィールド』(1989)、そして、長詩 『これらの干ばつの時代の積雲』(1988)などが出たし、論説文あるいは散文集としては『民族の歌 民衆の歌』(1984)、『ご飯』(1984)、『南国の船乗りの歌』(1985)、『暮らし』(1987)などが相次いで刊行された。このような一種のブームは2000年代始めの『白い影の道:金芝河回顧録1~3』(2003)まで続いて、漠然とした予想よりずっと多くの本が彼の名で出版されたことがわかる。

私はこれらの本のなかで一部しか読んでいない。それでも詩集はほとんど探してたいてい読んでみたものの、散文集はほとんど読むことができなかったということが今回わかった。回顧録の三冊は金芝河が亡くなってからやっと完読したが、金芝河著述の決定版だという気がした。散文集のなかには『南国の船乗りの歌』は念入りに書かれて内容が最も充実している。ところが、『愛隣』以後の詩は次第に緊張が緩んで身の上を嘆くに等しい、気が抜ける作品が多くなって失望を与えた。 

 

 

8

 

金芝河の生涯において最も重要な影響を与えた人物は、无爲堂・張壹淳である。張壹淳はかつて「夢陽・呂運亨(ヨ・ウンヒョン)の弟子であり、追従者であった。夢陽の死後、竹山・曺奉岩(ゾ・ボンアム)の同調者であったし、尹吉重(ユン・ギルジュン)の同志として」(『回顧録2、81頁』)革新系政党活動をする途中、5・16で3年間刑務所暮らし、出獄した後、カトリック教徒になって故郷の原州で隠居しながら、池学淳(ジ・ハクスン)主教と共にカトリックに基づいたいわゆる「原州キャンプ」を導いた。張壹淳について金芝河は「先生の思想は端的に言って、左右の統合であり、霊性と科学が相通じること、東洋と西洋と南北の統一であった」(『回顧録2』、81頁)と語ったことがある。金芝河は深い尊敬心と充実性をもって一生張壹淳の路線に従った。彼がカトリックの洗礼を受けて、蘭を描くことを習ったのも張壹淳の模範に沿ったことである。

 

もちろん金芝河は後日、事実上カトリックから離れて、次第にもっと東学の水雲と海月に傾斜した。のみならず、金一夫(キム・イルブ)の『正易』と姜甑山(カン・ズンサン)の「後天開闢」説も深く勉強したし、老子と荘子を読んだり、一部の巫俗信仰までも積極受け入れた。要するに金芝河は宗教においても思想においても、一生に渡ってある単一な信仰に固着されなかった。絶え間ない彷徨のなかでの模索が刑罰のような彼の人生であった。 

回顧録『白い影の道』の序文で金芝河は「私の父親は共産主義者であった」という明白な告白なしには、回想そのものが不可能だと述懐する。他の箇所でも彼は父親の左翼前歴のために行動に制約を受けたと語る。それなのに彼は朴正熙政権から共産主義者だという攻撃を受けて、生命の脅威を経験しなければならなかった。この際、彼が刑務所のなかで作成して秘密裏に流出した文献が、有名な「良心宣言」であるが、この文章で彼は断固主張した。「一言で断言して、これまで私は自分を共産主義者だと考えてみたことが一回もなかったし、現在も私は決して共産主義者ではない。」(『南国の船乗りの歌』、ドゥレ、1985、44頁)

これは彼が命を物乞いするため自分の信念を否認したわけでは決してない。彼は政治的に特定の理念の追従者であったことがない。だとしたら、彼に一貫した主張はなかったか。長い刑務所経験を通じて、彼が見い出したのは「生命」の絶対性であったことは広く知られている。その生命論を根拠として金芝河はわが時代の生態的危機と理念的混沌の深刻性を繰り返し指摘し、誰より大きな声で文明転換を主張した。これと共に彼は西欧主導の近代資本主義文明が袋小路に及んだことを精一杯警告した。ただ彼は父親世代の社会主義階級革命では今日の危機は解決できないと確言する。 

「人間は感性と理性のみでは完全に正鵠をつくことができないし、そこに第三の力、いや根源的な力である霊性が発動してこそ何か成し遂げられることを絶え間ない感嘆詞とともに痛感した。」(『回顧録2』、202~203頁) 

「もう近寄っている世界革命は政治経済の下部構造的革命ではなく、むしろ全く新しい政治経済様式の種を内部にすでに孕んでいる文化の大革命なのである。」(『回顧録』、206頁) 

彼は真の革命としての文化大革命の種が東アジア、その中でも朝鮮半島、その中でも最も逼迫され、貧しい韓国の民衆の中に、彼らの固有情緒と伝統思想の中に潜在しているはずだと繰り返し主張する。その予言を今日の現実の中で実現することが、わが世代の課業であるという考えを残して、彼はあの世に去った。

 

 

訳:辛承模

 

 

[1] 詩作品「黄土のみち」の日本語訳は、<キム・ジハ詩集、姜舜訳、『五賊 黄土 蜚語』、青木書店、1972>収録のものを転載し引用した。

[2] この引用は、<金芝河・梶井陟訳、「苦行…1974」、『季刊三千里』1975年夏第2号、115頁>の該当箇所を転載した。