[論壇] 政治と品行について/金鍾曄
論壇
政治と品行について
金鍾曄(キム・ジョンヨプ)
韓神大学校社会学科教授
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ソウル梨泰院事故が起き、いくつかの報道を視聴して沸き起こる心情は、この事件のトラウマが自分に転移するのを一切避けたいというものだった。関連の報道はもう見たり聞いたりしたくなかった。若干の共感が少しでも起これば眠れなくなりそうだからであった。圧死――路上で自分の隣を通り過ぎた隣人たちに、突然、押しつぶされて息ができなくなり、身動きもとれないまま全身がつぶされていく圧死。――隣人が自分を押し殺すと同時にその隣人を自分が押し殺す、そのような恐ろしさは、共感することさえ恐ろしいことだった。
しかし、間違った報道と事実報道が洪水のように混在してなされたために、共感から逃げることが不可能だったセウォル号事故の時とは異なり、梨泰院事故に対する報道は、死亡した159人の犠牲者の顔、経緯、遺族や親族知人らの凄惨な心境、負傷者が経験する苦痛をほとんど伝えなかった。顔や名前や経緯を伝える試みはすべて「二次加害」とされ、葬主も遺影も位牌もなく、無念の菊花だけが山積みに置かれた国家公式弔問所を1人で何度も訪れる、大統領の奇妙な姿だけがずっと報道されていた。そのように死と苦しみは不可視化され、被害者と私たちの共通性は稀釈化され、それだけ彼らの痛みと死に感情的に近づくことは困難だった。このような過程は、保守政権や保守マスコミがセウォル号事故から「学んだ」ものが、まったくないわけではなかったという事実を示していた。
以前、筆者は、朴槿恵政権で起きたセウォル号事故を、李明博政権の時期から累積した脱民主化(de-democratization)が伴う国家能力の脆弱化によって発生した事件であると規定したことがある[1]。梨泰院事故も基本的にセウォル号事故と同じタイプの事件といえる。いや、ある意味で梨泰院事故は、国家能力の退化をセウォル号事故よりも純粋に示している。セウォル号事故や以前の龍山事故が示すように、大きな事故はつねに国家と資本の過誤が重なって起こる。しかし、梨泰院事故は資本の貪欲とは無関係で、国家がきちんと傾けるべきだった注意と努力を傾けなかったために起こった事件である。
国家能力の退行の速度が非常に速いという点も目につく。セウォル号事故は朴槿恵政権を基準にすると政権発足1年で発生した事故だが、梨泰院事故は尹錫悦政権の発足5か月目に起こった事故である。大型の山火事の防災やコロナ防疫などの安全領域で、前政権が示した能力に照らしてみれば、このような能力の低下速度は驚くべき水準である。
退行範囲も全面的である。アメリカの「インフレ削減法」への対応失敗、「レゴランド事態」と相次ぐ「興国生命事態」〔前者は韓国への誘致失敗で、後者はコールオプション放棄で、それぞれ国家信用度を落とした――訳者〕、北朝鮮無人機の航空禁止区域侵入事件、またハプニングで終わりはしたものの5歳児童就学論争などは、国家能力の退行と混線、外交、通商、国防、金融、教育政策など様々な部門で同時多発的に起きていることを示す。国家機構の中で「活力」を示しているのは、前任大統領と前政権の高官、野党を対象に、また尹錫悦政権に挑戦的と考えられるマスコミ、労働組合、市民団体に向けて、高度に選別的な高強度捜査を展開している検察だけのように見える。検察は、警察、監査院、国税庁、そしてついに国家情報院まで従えているような様相である。特に国家情報院は、最近、警察とともに民主労総、保健医療労組、またセウォル号済州記憶館平和の場などを、国家保安法違反の疑いで押収捜索したが、国家情報院のこのような動きは、現政権との半年間のぎこちない関係を解消し、積極的に歩調を合わせるようになったことを示唆する。また国家保安法が私たちの政治の舞台にゾンビのように再び出てきたことを、また文在寅政権が国家情報院という猛犬にかけようとした国内政治介入禁止という首輪が続々とはずれたことを示している[2]。
このようなレベルの国家運営は、大衆の政治的支持を確保することができない。実際、尹錫悦政権に対する評価は、いくつかの国政支持率の調査が示すように冷淡である。そのような尹錫悦政権をいま支えることは、彼の任期がまだかなり残っているという事実、検察の選別的な高強度捜査や起訴が、その対象者はもちろん、それを見守るみなに喚起する恐怖、そしてどの政権の時期よりも、対自的意識を獲得したエリートカルテル(このカルテルを構成する主軸は、言うまでもなく政権勢力、財閥、保守マスコミである)と無謀な一部の極右団体の連合くらいである。
気候危機やエネルギー転換の緊急性、米・中ヘゲモニー競争やロシア・ウクライナ戦争による国際情勢の複雑性、南北分断体制の矛盾と弊害、格差や不平等の深化など、韓国社会が当面する切迫した問題を考えると、現在広がる脱民主化と国家能力の脆弱化は、現政権を支持しなかったり強く反対したりする人々にさえ心配な事態である。
より広く眺望すれば、尹錫悦政権の登場とそれに続く混乱は、キャンドル革命の持つ、よりよい社会に向けたビジョンを具現する「大転換」を敢行できなかったことに起因していることがわかる。現在の状況は、より高い峰に進むために経るべき(短期的には困難と苦痛をもたらすこともある)渓谷の前で立ち止まり、消極的だった文在寅政権と彼らを正しく牽引できなかった民主進歩陣営が招いた政治的退行に始まったと見られるからである[3]。したがって、尹錫悦政権の樹立に反対してきた彼らも、反対したという事実だけで現状況に対する責任を免がれることはできない。
依然として要求される大転換を成し遂げるためには、履行の渓谷を走破できる識見や洞察力、また忍耐が必要である。この論文は、そのような転換のための1つの仕事として、私たちの政治的意識に浸透する風習について洞察を進めたい。意識しようとしまいと、私たちの政治的な現実認識の背後にはいくつかの仮定がある。そのなかの1つが政治家たちの行為に注目し、それをその品性を判断する根拠とする文化である。つまり私たちは、政治家を政治家の行動を中心に判断することに慣れているが、なぜそうなのか、その代価はいかなるものかを考えることが本稿の主題である。この点を見るために、まず品行が政治変動の重要な要素となった事例を振り返ってみたい。
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故・盧武鉉元大統領の死は、多くの人々にとっていまだ深い悲しみの記憶として残っており、いわゆる「親盧グループ」の政治的「運命」に大きな影響を及ぼした[4]。そのような彼の死の一因として挙げられるのが、いわゆる「畦道時計」の論議である。問題となった時計は、パク・ヨンチャ・テグァン実業元代表が、2006年頃に農協の子会社ヒューカムス社の安値買収のために、政界や官界全般にわたって不正な働きかけを試み、盧大統領の兄を通じて盧大統領に渡したピアジェ社の時計である(時計以外の賄賂提供の有無に関する調査は、盧大統領の死によって中断された)。ピアジェのような「高級品」時計に門外漢だった権良淑夫人や盧大統領は、それが1億ウォンを超える高価品であることを後で知り、その後「廃棄」したという。
だが、検察の捜査中に明らかになったこの事実がマスコミに漏れ、その過程で時計を畦道に捨てたという「故意による誤った情報伝達」が起こった(検察と国家情報院は、漏洩と誤認の責任が互いにあると言い張ってきた)。保守マスコミは即座に口をそろえて、盧大統領が「1億ウォンの時計をボンハ村の畦道に捨てた」と報道したが、刺激的な報道や漫評が数多く出ると[5]、盧大統領側で李明博政権や検察が前大統領を過度に攻撃していると考えていた人たちの中にも苦笑する人々が多かった。
もちろん盧大統領に対する評判の低下は退任前にすでに進んでいた。彼は「過度に」率直な発言で、彼を弾劾から救おうと街頭に出た支持者たちさえも不快にさせることが数多くあった。盧大統領は大統領に与えられた「政治過程的」機能にかなり疎かったわけだが、その結果、支持者さえ徐々にそのような品位のなさに嫌気がさして彼と距離を置いた。
だが、退任後、彼の評判は徐々に回復していった。孫娘を後ろに乗せてボンハ村の畦道に沿って自転車をこいだ、麦わら帽子姿の地味な姿は、李明博大統領に失望と反感を感じていた人々に慰めにもなった。しかし畦道の時計は、その牧歌的風景を突然醜悪なものにし、盧大統領を道徳的で感情的な泥沼に深く突き落とした。そして悲劇的な結末への道を開いた。
品行が政治的空間の中心を巻き込む力を発揮した事例は、盧大統領にとどまるものではない。朴槿恵元大統領は、大統領当選に至るまでは「節制された」言語と処身で人気を得た。しかし、政党指導者としては適正水準だった節制された言行が、大統領に要求される疎通と活動では過度に足りなかった。節制は徐々に怠惰の兆候と権力行使のスタイルの異常な兆候として再解釈され始め、そのような解釈を裏付ける事例が増えた[6]。そしてセウォル号事故が起きてから8時間後に中央対策本部に現れた朴大統領が行った最初の質問、「みなあんなに救命胴衣を、学生たちは着ていたというのに、そんなに見つけるのが難しいですか?」という極めて不適切な発言は、それまで権力上層部や記者たちの間に広がっていた大統領の資質に対する疑いを、すべての国民が抱かせるのに十分だった。セウォル号事故の発生時点からその報告を受けて対応措置をするまで、空白として残された朴大統領の「7時間」(または7時間半)に対する問題提起が続き、きちんと解明しない大統領に向けて、前補佐官チョン・ユンフェとの面談説、宗教儀式への出席説、プロポフォール投薬説、美容施術説など様々な疑惑が続いた。品行をめぐるそのような疑惑は大統領の評判を奈落に落とし、弾劾へと進む道を準備した。
品行はこのように大統領ほどの人物の運命だけに深い影を落とすものではない。環境運動家のチェ・ヨル、ユン・ミヒャン議員、チョ・グク前法務部長官、そして李在明「ともに民主党」(以下「民主党」)代表が似たようなことを経験したか経験している。みな同様に、最初の報道が始まったとき、多くの人々が彼らの行動について驚き、虚無感を味わい、舌打ちをした。あまりにも大きく議論になり記憶に鮮やかなチョ長官の例を見てみよう。彼の法務部長官就任をめぐる聴聞会を目の前にして、家族間アパート「偽装売買」疑惑を筆頭に、私募ファンド投資やその私募ファンドが投資した企業に対する特恵疑惑、また子供の入試不正疑惑の報道が、文字通り雪崩のようになされた。そしてこれらの報道はほとんど毎回、チョ長官の大学教授時代の発言を引用して、疑惑と対照した。典型的な記事のタイトルを挙げればこうである。「「偽装転入、市民の心を踏み躙る」と言ってたら……チョ・グク本人も偽装転入」[7]。チョ長官は「二重基準」あるいは「偽善的な江南左派」の代名詞となり、法的な過程以前に、人々の心中で道徳的な有罪判決を受けた。
他人の品性に対する怒りのような感情や判断は、いったん形成されると、反論できる事実が提示されてもあまり変わらない。しかし、その最初の形成は、社会的な交流の中でそれほど難なくなされ、拡散も容易になる。正直に振り返ると、非難に参加した人々のほとんどが、品行を疑われた人々について直接確実に知っている情報がなかったこと、様々な情報を収集し、体系的にチェックするほど、事態に深い関心を傾けなかったことを否定することは難しい。そしてその意見と主張が実は、否定的な報道がなされるなかで、自分よりも確信的に声を荒げた周りの人の言葉にうなずき、ときおり話を聞いたことから始まったという点を認めることになる。しかし、私たちはそのような過程を細かく覚えておらず、そうしようともしない。むしろ自分が誤って判断することはなかったというナルシシズムの回路によって、発言を主張として、そしてまた信念として堅固なものにしていく[8]。このように意識と無意識を経由して、不断に起こる政治的判断と道徳的・審美的判断の融合、そのことがまさに、政治と品行の関係をより明確に議論の主題にすべき理由である。
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品行は、品性(心がけ)と行為、または処身(身構え)を合わせた言葉である。似たような意味で使われる言葉はたくさんある。アリストテレスのいうヘクシス(hexis)が性格に該当するならば、エトス(ēthos)[9]は習慣的に身に着いた行動、すなわち行い/処身に対応するだろう。それ以外に、英語の「コンダクト」(conduct)やブルデュー(P. Bourdieu)が精巧化して広げたハビトゥス(habitus)[10]の概念も、品行が指すものとほぼその外延が一致する言葉である。韓国社会で英語好きの人々がよく口にする「アティチュード」(attitude)のような言葉も同様の指称と考えられる。
とにかく、今、取り上げたいくつかの表現だけでも、多様な時代と状況において続けて品行が主題化されてきたことがわかるが、この理由は、他者の品性に対する認知が社会的な生においてきわめて重要だからである。事実、「この人は信じられるか?」ほど重要な情報はさほど多くない。だから人々はいつも他者の行いからその人の性格を把握しようとし、自分の行為をきちんと調整することで、いい品性を持っていると認められよう努力する。
しかし、行いから品性を推論することはつねに妥当なわけではない。行為は品性だけでなく、状況的要因から始まることもあるからである。品性と状況のうち1つだけが行為を誘発する場合はほとんどないが、2つのうちどちらか重要な方を挙げろといわれれば、それは状況(もっと広く言えば、社会構造的要因)である。しかし、一般的に私たちはこの点を度外視し、行為の源泉を個人の品性に見出し、またいくつかの行為から過度に品性を推論する[11]。
品性を強調する民俗心理学(folk psychology)的な格言とは異なり、実際には普段の所信通りに行動する強い人も、不慣れな状況においては他人の行動を見てそれに同調する[12]。そのことが意味するところは、品性に内在された一貫性と統合性が、思ったほど状況超越的ではないということである。つねに自分の基準を守って行動する行いの正しい人の姿は、様々な状況でも一貫性を守る品性の力のおかげでもあるが、それよりはその人が置かれた新しい状況が、実はその人にとって慣れた状況と大きく変わらない、つまり本当に慣れない状況や限界状況に直面していないためである可能性が大きい。
だが、状況や構造よりも行為者や品性に注目が集まるのにはいくつかの理由がある。まず、背景のように与えられた状況よりも、前景を独占して活動する行為者の方が認知的により目立つからである。状況に注目するためには、人物に注目する時よりも多くの認知的努力が求められるものである。だが、注目のためのエネルギーはきわめて稀少な資源なので、私たちにはそれを節約しようとする強い傾向がある。
責任問題もある。世の中は、戦争、内戦、地震、感染病、PM2.5、景気の低迷、停電やデータセンター火災、疾病、溺死、交通事故、過失致死、建造物崩壊のような、なにか悪いことが起こり続ける場所でもある。そのような悪いことに直面して私たちは責任を問われるが、状況や慣行または社会構造が責任を負うことはない。そのためにも私たちは責任を負うことができる人物、そしてその人の意図や品性に注目する。
政治領域では、人物と品性はより大きな重要性を与えられる。民主主義は法と制度を根幹とするが、その実行と運営は依然として人治の役割として残る。したがって、公職者の道徳性や品性は重要な政治的検証項目である[13]。大統領制ではこのような点が内閣責任制よりも大きく顕著である。内閣責任制では首相や政府の責任者も議員「たち」であり、政治過程も大統領制よりはむしろ院内政党および議員間の相互作用で行われ、そのように観察される。しかし、大統領制では、人民の意志が大統領一人に人格化されるだけでなく、実際に大統領に与えられた公職および資源分配の権限も強大で、その人の品行が政治全般に及ぼす影響がきわめて大きい。なので、つねに政治的関心は現大統領、そして次の大統領選挙に出馬する可能性のある政治家に注がれる。
このような条件においては、マスコミも政治家の品性に焦点を合わせて取材し報道することを好むようになる。そのような報道は、政治家の道徳性検証というマスコミの任務を果たしていると自負するためにも適当である。また、品性に焦点を合わせることが、記事の消費者はもちろんのこと、生産者である記者自らも「理解」しやすい。たとえば、大統領の海外訪問記事を書く場合、外交議題を深く掘り下げるよりも、政治過程を扱う方が書きやすく、大衆の注目度も高くなる。一言でいって、後者の「コスパ」の方がはるかにいいわけである。さらに、今日のようにほぼすべての人がスマートフォンを持っている社会、つまりレコーダーとカメラを常に持っている社会では、品性を示唆する処身と発言がかなり豊富に採集され、情報提供され、そのような資料の価値はとても大きい。政策的議題を扱った記事において、写真と音声は理解を助ける補助資料だが、行いを扱った記事において、写真と音声はそれ自体が証拠資料とみなされ、それほど大きな反応を誘発するからである。
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行いや処身を見て品性を判断することは、一度に行われているように見えても、実際には思考の架け橋をいくつか経由する。まず、どのような行為が適切な行い/処身であるかに関する判断がなされる。実際、どのような行為が適切性の範囲内にあるのか、それを逸脱しているのかは、社会文化的に相対的であり状況によって異なる。出勤時の略式会見に大統領がぼさぼさの髪で裏表逆に履いたズボン姿で現れたり、大統領室の出入記者がスリッパを履いて出てきたのが適切性の境界を越えたものかは曖昧である。ある人は両方に、またある人はどちらか一方にのみ眉間にしわを寄せるだろう[14]。
まず、ある行為が不適切な行い/処身であると判断されると、それが「一回的」なのか「兆候的」なのかを問うことになる。2つを区別する一次的基準はそれが反復しているかどうかだが、一度だけ見られた様相も時には徴候的なものと考えられる。たとえば、重要な食事会に出席した大人がわれ知らず鼻水を流せば、ひどい風邪をひいたためと考えられるが、唾液をこぼすのは徴候的なことのように見える。候補の時期にKTXに乗った尹大統領が、向かいの座席に靴を履いたまま足を載せたことが大きく報道されたことがある。一度だけ捉えられたものだったが、「ノーマナー、非常識」の兆候として批判された[15]。だが、長時間移動で足に軽い痙攣を起こしたという、「国民の力」党(以下「国民党」)選挙対策委員会の解明は事実かもしれず、そう信じたい人も相当いたかもしれない。このように品行の判断は幅広い曖昧さの領域の中でなされ、それだけつねにいろいろと議論される素地がある。
徴候的なものと判断された時も、それが何の兆候であるかを断言することは容易ではない。李在明民主党代表は国政監査や会見中に、相手の発言が焦点を失ったり妥当性がないと「ふふっ」と笑った。そのような「クセ」は釈然としないように見えるが、それが一体何の兆候なのか? 大統領選挙の予備候補の時に尹大統領がコメントしたように、「国民をバカにする」態度から始まったのだろうか? あるいは一部の国民党支持者がSNSで叫んだように「サイコパス」の兆候だろうか? 発熱は病気の兆候かもしれないが、発熱を引き起こす病気は何十もある。だから兆候は、解釈の作業を刺激するが、どこまでが妥当でどこがとどまるべき地点なのかは確かでない。
だが、品性判断は、すでに指摘したように、私たちの内面でいち早く、そしてほぼ自動的に「起こる」。そうでないのは、ある人物の品性についてすでに下した判断を変えるか悩む時くらいである。行いから品性へと進む判断は、なぜそのように簡単になされるのだろうか? 他人の品行について判断を下す基準が、自らの品行だからだろう。ブルデューはこの問題をハビトゥスの概念を通じて究明しようとしたが、彼の議論を借りるならば、私たちの道徳的・審美的判断は私たち自身の品行を土台にしており、私たちの品行は家族や学校、自らが属する社会的な場(field)で育てられ、それと調和をなすものである。したがって、他者の行為が状況に適しているかどうかを判断したり、それがある種の品性を意味すると判断するとき、そこに投影されているものは、判断対象の属性におとらず、いや、それよりも私たち自身が生きてきた生の軌跡、そして自らがきちんと処身して生きていると考えるナルシシズムであるといえる。
この点に関して深く考えるべき重要な議論が、李在明代表の「兄嫁虐待事件」である。この事件は、2014年に城南市長だった李代表が、兄嫁に悪口を浴びせて舌戦をかわした通話の録音ファイルの流出から起こったもので、2017年の民主党大統領候補の選挙に出た時からこれまで、李代表が立候補したすべての選挙で彼を苦しめた。女性の性器を傷つけてやると悪口を言っている録音ファイルを聞いた人は、誰もがひどい嫌悪を感じざるを得ず、恐怖感さえ感じる人もいるだろう。
保守陣営の支持者ならば、彼の悪口が不愉快で嫌悪感があっても、認知的に不快ではないだろう。しかし、民主進歩陣営の支持者たちにとって、その嫌悪感は深刻な認知不調和を招いた。このような不調和を解消する過程で、彼らは2つに分かれた。1つは嫌悪感のために彼が民主党の京畿道知事候補や大統領候補、党代表になることに反対する方に進んだ[16]。もう1つの分岐は、彼の他の能力をきちんと判断して支持しながら、悪口の波紋を意識の片隅に隔離してしまおうとした。もちろん、感情的な確信だけでなく政治算術のためにも、悪口の波紋を絶えず思い起こそうとする人々がいる環境において、このような隔離が十分に成功するのは困難である。
いずれにせよ、民主進歩陣営の支持者にとっては、嫌悪あるいは意識からの隔離という二者択一だけが与えられたように見えるが、どちらも認知不調和を急いで解消しようとする心理の産物であることに留意する必要がある[17]。認知不調和に直面したとき私たちに本当に必要なのは、認知不調和に耐えてそれを思考の主題にすること、この場合は悪口事件を、品行と関連して提起される争点に照らして、落ち着いて見てみる作業だからである。李代表が兄嫁に言った悪口はどれほど状況的で、どれほど品性または気質に由来するのか? それは一回きりのものか、徴候的なものか。
音声ファイルを公開するとき編集せずに全体を公開せよという裁判所判決の「おかげ」で、少し詳しく知られることとなった悪口事件の脈絡を要約すれば次の通りである。まず、李代表の悪口に先立って、(精神的な問題で治療を受けていた)李代表の兄、故イ・ジェソン氏が先に母親に激しい悪口を浴びせた。イ・ジェソン氏の悪口に怒った李代表は兄に電話をかけたが、兄の代わりに兄嫁が電話をとった。兄嫁は極度に怒った状態の李代表に続けて皮肉を言った。すると李代表は、兄が母親に言ったような悪口を言われれば、母親や自分の心情がわかるだろうと、広く流布されたまさにその悪口を兄嫁にぶちまけた。イ・ジェソン氏側は、そのような悪口が李代表から飛び出すよう事実上誘導され、それが録音され、結局、世の中に広まってしまった。
このような脈絡を考慮すれば、李在明代表の悪口は状況的な要因によって誘発された面が強いことが認められる。しかし、脈絡についてわかっても、音声ファイルで悪口に触れた人は最初のおぞましい感じを払拭することは困難である。激しい悪口は単なる言葉ではなく、突き刺し、襲い、滅多切りにする言葉である。自分に向けたものではないとしても、そのような悪口を言われるのは一種の衝撃的な体験であり、衝撃は情緒的な固着を誘発する。
だが、衝撃が衝撃であるのは、それが期待を大きく逸脱する体験だからという点もある。そしてその期待の中には、私たち自身の品行またはハビトゥスがちらついている。したがって、悪口事件を李代表の品性と結びつけて判断する視線の中に、私たち自身の品行とそれを形成した生活の軌跡が関わっていることを意識する必要がある。私たちが世界の家族を理解するモデルは自らの家族である。他の家族が経験する葛藤の様相が大きな困難なく理解されるかどうかは、両者の階級的格差がどの程度かに大きく左右される。格差が大きいと理解は容易ではなくなる。
この点を念頭に置いて、もう一度悪口事件の脈絡を見てみよう。そのなかで私たちが覗いているものは何だろうか? それは私たちの社会で最も貧しい家族とそのなかで起こったひどい不和である[18]。貧しい家だからといってすべてが不和を経験するわけではなく、彼らが幸福ときちんとした行いを手に入れる可能性を容易に否定してはならない。しかし、貧しければ貧しいほど、その幸福はキビ殻のようにもろくなるという事実は避けられない。これに比べて、富は、きわめて心強い安寧の条件であるだけでなく、いい品性の土台にもなる。映画『パラサイト』(2019)でギテク(ソン・ガンホ)とその妻チュンスク(チャン・ヘジン)がかわす次のような対話は、その点をよく指摘している。
ギテク:この奥様が本当に無邪気で優しいんだ。金持ちなのに優しいんだよ。
チュンスク:「金持ちなのに優しい」んじゃなくて、金持ちだから優しいのよ。何のことだかわかる? 正直、このお金がみんな私のところにあるって考えてみてよ。私はもっと優しいわよ。
ギテク:そりゃそうだ。おまえの言うことが合ってるな。金持ちはもともと無邪気で、ねじれたことがない。金持ちはまた子供たちもひねくれてないぞ。
チュンスク:アイロンよ、アイロン。お金はアイロンなのよ。性格もぴんと伸ばしてくれるのよ。
さらに貧困の弱さとは、病気、事故、破産、失業のような不運に耐える力が弱いということだけを意味しない。家族の1人が収めた異例の成就や成功(李在明代表は典型的にそのような事例である)も、貧しさの中でかろうじて守った心の均衡を揺さぶることがある。そのような成就や成功は、それを成し遂げた人はもちろんのこと、残りの家族のメンバー全員がそのアイデンティティを新たに構成することを要求するからである。その過程で妬みや嫉み、また羞恥や寂しさのような感情が噴水のように湧き出て、それから大きく乱れた感情は、怒ったり怒られたりして怒りを膨らませ、いつでも地獄図を描くことができる。
いくらそのような状況にぶつかったとしても、どうしてあのようにひどい悪口を口にできるのかと依然として反問することはできる。そのような反問には、自分は同じ状況でもそのような激情に巻き込まれないという仮定が入っている[19]。しかし、ニーチェの言葉のように、「人は誰かのかかとで踏みつけられない限り、自分が蛇かどうかわからない」。「そのような状況」において自分がどのように反応するか自信をもって言える人は、想像力が貧困か、ナルシシズムが過度なだけである(そのような意味で、悪口事件は、私たちの自信に対する省察の能力を試験台に上げていると言える)。
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今、歴代のどの大統領よりも頻繁に、品行の問題が論争のネタになってきた、尹錫悦大統領の場合を検討してみよう。尹大統領は、朴槿恵政権期の権力上層部の圧力に抵抗する豪快な言葉と行動で人々の心を惹きつけた。しかし、文在寅政権で検察総長になった後に大統領に対抗し、大統領側近、特にチョ・グク前長官とその家族を「狩り」と言っても過言ではないほど執拗に捜査して、彼に対する評判は2つに分かれ、以降、彼の品行はずっと政治党派的な解釈のもとにさらされている。政治的な反対者たちが見ると、彼は性情が暴悪で一挙手一投足に品位がなく低俗な人間だが、支持者たちにとって彼はいまだ豪快で決断力ある政治家である。
真っ二つに割れた評判は、大統領就任後、否定的な方に大きく傾いた。反対者だけでなく政党への所属感が弱いためか、政治と心理的な距離を置いた市民の間でも、評判が大きく悪くなったためである。実際、彼の不適切な処身や発言の事例は、毎日議論できないほど多い。そのなかで、ソウル新林洞の水害現場を訪問して彼が示した言動は、すべての国民が嘆くほどのものであった。だが、最も決定的な事例は、昨年9月にアメリカのバイデン大統領が主催した「グローバルファンド第7次増資会合」に出席し、バイデンといわゆる「48秒会談」を終えて戻ってくる間、「国会でこの××が承認してくれなければ、バイデンは恥ずかしくてどうしたらいいかわからんだろう」という発言だった。
事実、尹大統領の数多くの不適切な行為や処身の中には、理解できるものもかなりある。彼がそのように行動したのは(雇用労働部の「週52時間勤務」制度改編の発表翌日、「報告されなかった」と言った発言などが示すように)、国政をきちんと把握できず、(UAE国歌が演奏されているとき、ひとり手を胸にあてていたように)政治過程が苦手だからである[20]。言い換えれば、彼のミスや失言は政治的初心者ゆえに犯したものがかなり多いが、初心者であることを知りながらも、彼を市議会議員でなく大統領に選出したのは、まさに大韓民国の保守有権者ではないか? もちろんそのような点は恥ずかしいことだが珍しいことではない。よく知られているようにアメリカのトランプ元大統領がそうであり、ウクライナのゼレンスキー大統領もそのような事例である。社会経済的な格差拡大につながった政治的格差拡大で、中道中心の国民政党が信頼を喪失し、好戦的な極右ポピュリストたちが勢いづいているのは世界的な現象である。
しかし、そのような面を十分認めるとしても、「バイデン」発言は、他国の首脳と議会に向けた(だから外交問題になることもあった)過度に低俗な発言であった。このような場合、常識は、公衆の視線から抜け出して、心理的に解放された状態で強い言葉を吐き出すことが、百歩譲ってあっていいことであっても、そのような言葉がいったん公衆に捉えられた限りにおいては、丁寧かつ率直に謝罪するべきである。そのような常識に照らしてみれば、尹大統領の事態収拾のスタイルは、慈悲の原則(the principle of charity)に立脚して見ても、彼の品性を根本的に疑うほどのものであった。謝罪はおろか、「バイデン」を「飛ばせば」と捏造して人々の「感覚的良心」を反故にしようとし[21]、それを初めて報道したMBCだけを執拗にいじめて、大統領専用機への搭乗も拒否して訴訟にまで至ったのは、彼が自分の誤りについて率直に謝れないだけでなく、権力を乱用してでも、それをうち消して除去しようとする品性の人間であることを如実に立証している。だから、メディアと国民をやり込めた大統領に、断固として対抗し謝罪を勝ち取れなかったのは悲しいことである。それは韓国社会が感覚的良心に対して忠実性を堅持し、大統領の誤りを最後まで追及するほど勇気がなかったことを示しているからである。
しかし、尹大統領の品行をめぐる議論は、推測だが次第に沈静化するだろう。MBC記者の無礼な質問のせいだと猛烈に言い訳をしたが、とにかく失言と妄言の「工場」だった出勤時の略式会見を中断した。そのころから大統領の様子と発言が、大統領室から提供される統制され編集された資料を通じてのみ報道され始め、当然、開催されると思われていた新年記者会見さえ、「偶発的」リスクを避けるために新年辞の中継と朝鮮日報との単独インタビューに置き換えられた。尹大統領はそのインタビューで[22]、「尹錫悦らしさというのは「ショーをしない」ことだと言うが、それでも(支持率のためには-引用者)ショーでもしなければならないという誘惑を感じないか」という質問に次のように答えた。
尹錫悦らしさと大統領らしさは少し違うと思う。尹錫悦らしさというときは、検事のとき妥協しなかったことを考えているようだ。そのために国民が選挙で多くの支持をしたと思う。ただし大統領は検事と仕事が異なる。国民が頼もしく考えられるのが大統領らしさではないか。
就任8か月目でこのような悟りに到達したというのは唖然とするが、とにかくこの言葉が意味するところは、大統領らしさを「展示する」ために一層統制されたスタイルを取るということである。もちろん、大統領らしさが尹大統領の頭のなかの「らしさ」である限り、「尹錫悦らしさ」を脱するには限界があるだろう。また、大統領夫人の品行が大統領に劣らず、いやそれよりも議論のネタになることが多いので、品行の論議の素材は容易に枯渇することもないだろう。であるとしても、支持率の下落に敏感な状態で、それなりにきちんと編集した映像を見せるとすれば、しかもそれに協力的なメディアが多数ならば、品行の論議は減少する可能性が大きい。
関連して検討すべき事例は、今年初めアラブ首長国連邦(UAE)に派兵されたアーク部隊訪問中に、尹大統領が行なった発言である。将兵たちとともにした席で彼は「UAEの敵は、最も脅威の国家はイランで、私たちの敵は北朝鮮だ」と語った。いくつかの報道がこの発言を「妄言」や「舌禍」と規定した。つまり、もう一つの品行論議の事例として扱ったのである。同じ観点から、尹大統領をめぐる品行の議論が減らないと予想する人々も多い。確かにこの発言には、国政の把握に怠惰ながらもよくわからない事案に(イラン側の指摘通り)「軽率に出る」(meddlesome)尹大統領の品性が明らかに出ている。しかし、そのように品行に関する解釈は二次的である。複雑な外交的事案が[23]、ネオコン的世界観の中で誤読されることで起こった「惨事」として規定する方がより妥当であり、本質に近い事態把握であるといえる。その発言が記者たちの現場取材を通じて(偶然またはたまたま)捉えられたのではなく、大統領室が提供した映像資料を通じて知らされたということがそれを証明する。報道の調整と統制を通じて品行を責められないという戦略が立てられた時期に、大統領室がそのような映像を出したというのは、大統領と大統領室の関係者のみながこの発言を問題と考えていないことを物語っているからである。この点は、イランが駐韓イラン大使を招致したことに対して、韓国大使の「対抗措置」で対応したことにもよく現れている。したがってこの事件は、大統領の失言というよりも、大統領と彼の外交・安全保障担当の秘書たち、そして政権勢力全般にひそむ危険な世界観や政策的無能力にはじまった、「正常な事故」(normal accident)と見られるわけである[24]。
「UAEの敵はイラン」発言が、政策的事案が品行の問題と交錯して焦点を失った事例であるとすれば、重大な政策事案が品行の論議に押されて、当然受けるべき注目を受けられない場合もある。昨年11月に東南アジア諸国訪問で尹大統領が発表したインド・太平洋戦略への参加宣言がその一つである。メディアはこの深刻な宣言を議論し批判するのではなく、MBC記者の専用機搭乗拒否とそれにつづく大統領の狭量に言及する方にはるかに多くの紙面や放送時間を割いた。もちろん、専用機搭乗拒否は、マスコミの取材権侵害や公的資産である大統領専用機の運用方式の民主的正当性に関連する重要事項である。そのような点も品行問題に隠れてきちんと扱われていなかったが、それよりも重要な外交政策的な事案も、品行の議論に埋もれて厳重に議論されないまま流れてしまった。
このようなことが物語っているのは、品行の論議が激しい大統領であるほど、逆説的にも品行批判に伴うリスクも大きくなるということである。品行に問題の多い政治家であるほど、政治をより品行中心に眺めるように導き、それに対する批判も品行に集中するように誘導するが、その結果、政策的な批判という、より重要な課題が視野の外に押し出されるからである。
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品行に注目が集まるのを避けるのは難しい。品行は人々がしばしば仮定するほどに一貫性はないが、それでも相対的な安定性を持っており、それだけの予測力を保有しているからである。状況や社会構造的な要因の方がより重要だが、複雑で論争的な側面をきちんと把握するためには認知的な負担が大きい。したがって、思惟の経済性という面で品行は利点が多い。信頼できる代表者選出が政治的な中心課題である有権者たちもまた、そのような理由で品行にさらに注目することになる。
しかし、行動論争に直面するとき、特に政治的な場でそれを行うとき、私たちはさらに慎重な態度に取り組む必要がある。いったん品行について判断を下したら、きわめて強烈な道徳的感情が伴うからである。品行が悪いと判断された人に対して、私たちは反感を感じて忌避するようになり、反感が強烈であれば怒りにまで走り、対象に対して懲罰の欲求さえ抱くことになる。感情は、主体にとっては自明で確実な体験として迫るために、感情を表出した後にそれを綿密にあらためて省察することは非常に難しくなり、品行評価の基準に宿る自我中心主義を克服する省察はさらに厳しくなる。
また、行動論議は一般的に政治を人格的問題に還元する傾向があり、それは先に指摘したように、状況や構造に対する認識を後回しにする効果を発揮する。このような効果は、政権勢力と反対勢力のうち、前者により有利な時が多い。品行をめぐる論議は、意図するかどうかにかかわらず、構造的で政策的な問題を水面下に沈める傾向があるからである。そのために、政権勢力が進める社会的勢力の再編、公有地の略奪または陰性的な資源の再分配などが不可視化され、そのために政権勢力の企画に対する抵抗もきちんと組織されない。
エネルギー、労働、金融、外交と国防、メディア、南北関係などに関連する重要政策よりも、大統領の品行の方に注目していると、批判がいつの間にか彼を嘆くことに退行する危険もある。すでに党派的に分化したメディアを消費して、自己の確証を強める傾向が激しくなった状況において、野党支持者が規範的正当性と政策的代案に基づく批判文化を喪失し、一種のゴシップ共同体になってしまう可能性がこれまで以上に大きくなった。そのなかで行われる品行嘲笑の文化は、そのような素材を探し続け耽溺する行動にまでつながりうるし、それだけ公論の場は脆弱になり、社会運動的な力量も退潮することになる。
このような傾向に暗示された危険のなかで最も警戒すべき点は、嘲笑し軽蔑しながら虚構的な優越感に陥り、自己省察の課題を無視するようになることである。相手が情けないと感じられる時、自己省察と新たな社会的・政治的代替案に向けた内的動力が強くなることは困難である。実際に嫌悪が批判に代わり、軽蔑が代案の模索に代わっているような様相があちこちで感知される。みなが前回の大統領選挙の敗北の核心に不動産問題があったと言う。それならば当然、住宅問題をどう解決していくかについての議論がなされるべきである。伝貰資金融資や賃貸事業者登録などの「善意」の住宅政策が「悪徳」となってはね返ってきたことを考えると、さらに綿密な省察の雰囲気が形成され、討議が組織されるべきだが、そのような動きは目立たない。衛星政党を生んだ前回の総選挙を考えれば、選挙法改正の方向に対する議論も、現在よりはるかに公開的で熾烈にやるべきだが、そうするどころか、現大統領の悪い品行や無能力に寄り添って、安易に次の総選挙を待っているように見える。
しかし、現大統領の品行に問題が多いとしても、品行批判の矢が今のように大統領だけに向かうだろうと予断することはできない。品行論議は、これまでの政治過程が立証するように、いつでも尹大統領の反対派に向けてより鋭い形で戻ってくることがある。また、品行を攻撃することで政敵を倒すうえでより大きな資源を保有したのは政権勢力の方である。押収捜索権を持つ検察と社会イッシューの構成に長けた保守マスコミがやりとりしながら、品行攻撃を雪崩のようなコミュニケーション暴走に作り替えていくことを、私たちはすでによく見てきた。マスコミの地形やメディアの傾向もこの点を強化する方向で適用される。民主進歩陣営のある人物の品行に問題があるとすれば、進歩メディアは原則的な立場から批判に出る。その結果、進歩メディアと保守メディアの双方が、その人間を攻撃する状況が展開され、それによって一種の相乗効果さえ発生するが、保守陣営の人物の品行問題に対して進歩メディアが提起した批判は、ゲットー化し、社会的反響を得られないことが多い。
ゆえに、人物や行動に対する私たちの関心と、それを経由した政治認識は避けられないとしても、その過剰を警戒して制御するために努力すべきである。行いと処身の適切さを問題にする前に、論議が提起される脈絡に対する感受性、品行に対する批判が妥当性を持つ範囲を計る分別力、品行議論のために後回しにされる議題を見逃さない眼目、感情的動員に振り回されない冷静さ、ときには興奮した世論に立ち向かう勇気、状況や社会構造に引き続き注目する認知的な忍耐を訓練する必要がある。それが「大転換」という課題遂行のために要求される、小さいけどもさほど簡単ではない学びの1つであろう。
訳:渡辺直紀
[1] 開放的で複雑な社会体制は、国防、外交、治安、災害管理、防疫、金融・産業政策はもちろんのこと、住宅、教育、保健などの社会福祉を合わせた、国家の公共財の供給能力にさらに依存することになるが、そのような能力は、国家の民主化と好循環の関係を、また脱民主化と悪循環の関係を結ぶ。より詳細な議論は、拙稿「変えて、ゆっくり死ぬ――87年体制の政治的転換のために」『創作と批評』2015年秋号、15~41頁参照。
[2] 国家情報院の動きがどのように進むかを示唆するもう1つの事例は、2022年11月に尹大統領の退陣を要求する時局宣言を発表した「キャンドル中高生市民連帯」を、ソウル市が国家保安法違反の疑いで捜査を依頼したことである。
[3] 白楽晴「生きてきたように生きるのをやめよう」『創批週刊論評』2022.12.30参照。
[4] 盧大統領の死が「親盧」グループにとって運命と同じ重さを持つことは、文在寅前大統領が2011年に出した本のタイトルが『文在寅の運命』(架橋出版)であることからもよくわかる。また、大統領秘書室長を最後に公職から引退した文前大統領が政治に復帰したきっかけ、文政権における検察改革とその失敗のような一連の事態は、いずれも盧大統領に対する検察捜査と彼の死に関係したものである。
[5] 漫評のなかの1つは、「ボンハ宮」と描かれた盧大統領の私邸の前の畦道に、人々が集まって時計を探す姿を描いた。時計を探している人には「1億ウォンの時計2つ、探した人のものだ」という吹き出しが、それらを眺める盧大統領には「まだ私の支持者たちがこんなにたくさん……」という吹き出しがついていた。『朝鮮日報』漫評、2009.5.15参照。
[6] 代表的な事例として、2015年の新年記者会見での対面報告関連の発言論議がある。「長官たちを見て、「対面報告は必要だと思いますか」」『中央日報』2015.1.13参照。
[7] 『朝鮮日報』2019.8.16。
[8] いったん信念になれば、証拠不在や反証にさえたやすく勝てる。たとえば、ある人が悪党だと信じれば、彼が悪党であるという客観的証拠がまったく見つけられなくても、むしろそのような事実が、彼が本当に悪党であることを立証するように思われる。なぜなら、彼は単に悪党なのではなく、証拠を完全に隠滅するほどに緻密な悪党に見えるからである。
[9] ギリシャに由来し、習慣や習俗を意味する言葉としてよく使われる「エトス」は「ēthos」でなく「ethos」である。しかし、初声が長音(ē)か短音(e)かの差しかない2つの単語は、アリストテレスも指摘するように、習慣/習俗と行い/処身の内的な関連を示している。
[10] 「habitus」のハングル表記法について簡単に言及したい。「habitus」は古典ラテン語では「ハビトゥス」と発音されたが、中世カトリックのラテン語では「アビトス」と発音された。フランス人のブルデューは「habitus」を社会学的な概念として採用したとき、フランス人に一層親しみのあるカトリックラテン語の発音で読んだのだろう。しかし韓国語で表記するときは、古典ラテン語式に表記する方がいいと判断される。「habitus」を「アビトゥス」(または「アビタウス」)と書いたり発音したりすることがあるが、こうなると、日常語と距離を置く、学問的な概念語として使うためにあえてラテン語を活用したブルデユーの意図とずれてしまい、私たちの場合は「ハビトゥス」ではなく「アビトゥス」と表記することが、そのような副作用を生み出す可能性がより大きい。
[11] 社会心理学者たちは、行為の原因を人格や品性に見出そうとするこのような傾向を「根本的帰因誤謬」(fundamental attribution error)という。
[12] よく知られた事例としてソロモン・アッシュ(Solomon Asch)の同調圧力実験がある。
[13] 政治家を含めて、公職者を評価する基準として、道徳性と能力を挙げることができるが、そのうちより重要なのは当然のことながら道徳性である。ある人物の公職適合度を2つの基準でつけたスコアの積で表示すると、能力はつねにもっとも低いときも正(+)だが、道徳性は負(−)のときがあるからである。能力がほどほどで(10点満点で5点)、道徳性もほどほどならば(−10点~+10点のうち2点)、その人の公職者として社会的効用は5×2=10だろう。しかし、もし能力が優れているものの(9点)、道徳性が悪いなら(−2点)、社会的効用は9×(−2)=−18になるだろう。言い換えれば、公共の生活に最大の被害をもたらす公職者は、無能で腐敗した公職者ではなく、有能で腐敗した公職者である。朴槿恵元大統領に対する赦免より、李明博元大統領に対する赦免により多くの人が不快感を示したのは、人々がこのような点を直感的によく理解していることを物語っているようである。
[14] 一部の行為は、適切性の範囲内にあるものを越えて、優れたものである可能性がある。たとえば『修辞学』や『ニコマコス倫理学』で、アリストテレスは、卓越性(aretē)を中心に品行(エトスとヘクシス)の問題を扱う。これは古代ギリシャの民主主義が、卓越性を競争する文化を持っていたことを意味する。しかし、私たちの政治と品性の関係は、卓越性ではなく不適切性の見地から取り上げる方が適切で、取り上げるべき例として浮上するものも、ほとんどはそのようなものである。韓国の民主主義が、卓越性を争うよりも互いの不適切性を弾劾する文化に慣れているからであろう。
[15]「「大股ひろげ」尹錫悦、今度は電車の座席に靴のまま…… 「公衆道徳はないのか」」『ハンギョレ』2022.2.13。
[16] もちろん、民主党内の李在明代表に対する反対勢力が、この問題一つのためにできたわけではなく、逆に李代表を拒否した勢力が、政治算術上この問題を浮き彫りにした面も強い。いずれにせよ悪口事件が反対情緒の成長・固着に中心的な役割を果たしたのは事実である。
[17] 認知不調和理論を提唱したフェスティンガー(L. Festinger)が指摘するように、認知不調和を解消しようとする作業は無意識的に起こる。認知不調和的な事態に直面するとき、人々は事態自体をきちんと理解して受け入れようとする意志よりも、認知不調和から早く脱しようとする欲求をより強く感じるものである。しかし、認知不調和に直面したときに必要な「真の」作業は、無意識的で素早い不調和解消ではなく、居心地が悪くてもそこにとどまり、正面から見つめて解釈することでそれを越えることである。
[18] 李在明代表の父親は市場の清掃夫で、母親は(今はなくなった)有料トイレ収金員で、彼の6兄弟のうち5人の職業は、鉱夫、療養保護士、清掃会社社員、ヤクルト配達員、環境美化員である。李代表と深刻な不和を起こした3番目の兄イ・ジェソン氏は会計士になったが、精神病に苦しみ肺がんで死去した。家族内の葛藤が、最も「出世した」李代表と「次に出世した」3番目の兄との間に起こったことは示唆するところがある。
[19] 中産層出身ならば、李在明代表が口にした悪口のようなものも、口に上げることは不可能に近い。もちろん中産層出身も途方もない怒りに陥ることはある。しかし、そのとき彼は下層(そして当然ながら上層)出身とは異なる方法で怒りを表出するだろう。そのときその方法が悪口よりもひどい可能性は排除できない。
[20] 尹大統領の不適切な言行が不器用な兆候だけでなく、怠惰の兆候と考える人も多い。大統領の政治過程、特に外交的過程は、秘書陣と関連省庁によって綿密に準備されるため、大統領自身が誠実に準備すれば間違える可能性がほとんどないからである。
[21] 良心の破壊にも水準がある。道徳的良心でなく論理的良心の方が、論理的良心よりも感覚的良心の方が破壊しにくい。感覚に対して確信を失うというのは、幻覚と感覚の境界喪失、すなわち病理的な状態を意味するからである。
[22] 「尹「地域によって中大選挙区制を検討……偏重人事? 地域や学校は問わない」」『朝鮮日報』2023.1.2。
[23] 李明博元大統領が、UAEでの原発受注のために結んだ、あきれるような秘密軍事協約のために直面した外交的・軍事的・憲法的な苦境については、「尹、外交談話、UAE秘密軍事協約に飛び火か」『ノーカットニュース』2023.1.20を参照。
[24] 「UAEの敵はイラン」発言をめぐって、チョン・ジンソク国民党非常対策委員会委員長の発言はもちろんのこと、NATO首脳会議でチェ・サンモク経済首席が行なった「脱中国」発言をはじめ、北朝鮮の無人機侵入に対して「戦争拡大も辞さず」を叫び、今年の国防部と外交部の新年業務報告の場で、韓国の「核武装」の可能性に言及した大統領の発言などが、同じカテゴリーに属するものと見られる。