창작과 비평

[特集] 2023年にすべきこと:今まで通りの生き方は止めましょう / 白楽晴

 

創作と批評 199号(2023年 春)目次

 

特集

 

2023年にすべきこと:今まで通りの生き方は止めましょう

 

 

白楽晴

チャンビ名誉編集人

 

 ここ数年間、私は年末に「新年コラム」を発表してきた。今回のコラムは、従来通りに「チャンビ週刊論評」という形で発表すると同時に、「白楽晴テレビ」を通じても送信した(2022年12月30日)。昨年、私がユーチューブ放送を始めたからである。時おり、新聞に同時掲載してきたのは今回は放棄したが、新聞社内部の反応を気にかけたくなかったという面もあるが、何よりももっと十分な紙面が必要だと感じたのである。

 新聞の紙面よりは厳しくなくても、「週刊論評」やユーチューブ動画の場合も、やはりあまりに長い分量は望ましくない。そうした制約のため、また力量不足のため、十分でなかった話の一部を『創作と批評』の誌面が許容してくれたので、少しは補完しようと考えた。第1部は新年コラムを原文のまま掲載し、第2部はある種の付記であり、コラムのテーマと関連しながらもさらっと素通りしたか、言及しなかった問題を簡略に取り上げようと思った。

 

1.新年コラム:今まで通りの生き方はやめましょう

 

 国の主人である市民の皆さん、白楽晴テレビの視聴者とチャンビ週刊論評の読者の皆さん。毎年末に「新春コラム」というのを書いてきました。今回は私が少し前にユーチューブ放送を始めたので、動画でもお送りします。何はともあれ、新年も皆さんが健康で、生き甲斐ある日々を送られるようにお祈りします。

 皆さん、韓国は今、国の体をなしていません。どうしてここまで来てしまったのか。しかも、キャンドル革命が進行中だと誇る国でありながら……。

 

・キャンドルが引き起こした変則的な事件

 まさに進行中のキャンドル革命のために前代未聞の事態が起きている、と私は主張してきました。尹錫悦政権の登場は、キャンドル革命なしには到底起こりえない「変則的事件」だとも言ってきました。私たちのキャンドル革命は世界史的にも独特の革命であり、それは現在進行中の歴史だという事実は、一見すると、わからないかもしれません。ただ、それを除いては説明できないことがあまりにも多いのです。

 尹政権に対する判断も、まさにそうしたケースです。キャンドルという歴史の激変なしには、どうしてこういう政権が生まれるでしょうか。文在寅政権があげた成果は少なくないのに、キャンドル政府を自負したため、きちんと遂行できなかった部分による人々の怒りは、通常レベルをはるかに超えました。その反面、再びキャンドル政権になったらもう終わりだという、既得権集団の切迫感も並外れていました。政権奪取に成功するや否や、支離滅裂だった様々な人士が選挙時には必死に大同団結したじゃありませんか。候補が無能で、何の考えもないのがどうした、まずは有権者を騙すのに一番有利な人物なら「悪魔だってかまわない」という点に彼らは共感しました。

 それに比べ、民主党の切実さが極めて不十分なのは自他が認めるものでした。これもキャンドル抜きには全く説明が不可能です。「キャンドル対反キャンドルの戦線」は、かつての与野党対立や「進歩対保守」の対峙状況とも異なりました。民主党内部にも戦線が引かれたのです。それでも、キャンドル市民の熱意により第2期キャンドル政府を夢みる大統領候補が選出されましたが、大多数の国会議員は民主党政権の再版だけを考え、ひどい人は第2期キャンドル政府よりもむしろ政権交代を受け入れようという情緒も珍しくありませんでした。結果的に、わが国民は意外の難局に直面し、新政権の発足1年目に「これが国か」「このままではダメだ」という喊声や呻吟が聞こえるようになりました。

 

・すべきことはせず、すべきでないことはすぐにやる国家

 最近、159人の若い命が犠牲になった10・29梨泰院惨事を見ても、李明博や朴槿恵政権時とは次元が異なる様相です。セウォル号惨事の前例がすぐに思い浮かびますが、当時はソウル市内の繁華街で起きた惨事ではありませんでした。政府の対応が無能で、責任を隠そうと遺族へのあらゆる弾圧を行ないましたが、主部署の海洋水産大臣がいち早く辞意を表明し、大統領は本心か否かはともあれ、涙を流して謝罪し、海洋警察の解体という極端な措置まで発表しました。キャンドル大抗争が起きるまで2年余の時間がかかったのは、真相究明に対する妨害工作だけでなく、そうした「誠意の表明」があったからです。

 梨泰院惨事の場合、国民の安全と生命をケアする国家がないかのように極めて深刻です。その反面、人々が死傷した後、国家は実に驚くほど迅速かつ敏捷に動きました。家族は犠牲者の遺体がどこにあるかわからないままあちこち探し、地獄の時を送るようにしむけ、遺族同士が情報交換して互いに慰め合う機会を徹底的に封鎖しました。子どもを失った親として、そこまでの経験を味あわされた鬱憤と怒りは、何人といえども筆舌に尽くしえないものでしょう。

 政府のこうした反人倫的な対応は、セウォル号惨事の教訓を彼らなりに熟知していたからです。セウォル号惨事が政権にとってどれほどの致命傷になったのかを記憶しつつ、ある意味で彼らは怯えていたのかもしれません。それで、彼らなりにすばやく対応し、指弾できないように、様々な公権力を動員して遺族の口を塞ぎ、目隠しすることにしばらくは成功しました。しかし、こうした滅茶苦茶な行動をいつまで続けられるのか。結局は、より大きな憤怒と非難を浴びる段階に至ってしまいました。

 

・与党とマスコミのこのザマはなぜなのか

 政府はそうだとしても、国民の票を必要とする与党「国民の力」は、なぜこのザマなのか。私はわが社会で、キャンドル革命によって最も変化した集団の一つが現与党だと思います。キャンドル大抗争で大きな打撃を受けた後、彼らは水火を問わず自らの打算によって対処する集団に変わったのです。数十年間、特権と反則行為で生きてきた勢力として、相変わらず「今までの生き方」以外には考えられなくなりました。久しぶりに政権を奪還した勢いで最大限確保しようとしますが、国庫に入ってきたカネをばらまいて「いい役職」を分け合うのは大統領が掌握した行政府です。「国民の力」の人々が犠牲者や遺族を相手に口では憚られる言葉を堂々と繰り返すのも、国民ではなく大統領に合わせた発言です。

 言論もまた、このザマはなぜでしょうか。軍事独裁期の弾圧に比べれば検察王国の剣の舞も怖いことはないのに、「お調子合わせ」の言論がこれほど多い現実もまた吟味してみるべきです。いわゆるレガシー言論のこうした形容もまたキャンドル時代の特徴です。この場合も、戦線は「朝・中・東(朝鮮・中央・東亜の三大保守系新聞)対進歩系新聞」から朝・中・東より多少は良いという言論内部へと移動し、より明確にはキャンドル市民が体ごと言論活動に参加するユーチューブ、SNSなど「草の根言論」と既成言論の間に線が引かれます。もちろん、レガシー言論にも良い人々がいます。しかし、言論社自体で見れば、読者を確保するための報道競争よりも広告界の大手を確保する事業に主眼がおかれてきました。昔であれば、新聞社ごとに他人ができない「特ダネ」をとろうと熱をあげ、記事を逃した他社の記者は「落ダネ」だとデスクに怒鳴られたりしました。だが今は、ユーチューブに優れた単独報道が出ようとも一致団結して無視すれば誰も「落ダネ」しなくなる、いわゆる「沈黙のカルテル」が形成されたのです。

 今日は政界や言論界だけでなく、わが社会のあちこちに「魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)」が出没するような時代です。元来、それはなかった存在ではなく、日陰に隠れて活動していたのが日向に出てきたもので、これもキャンドルの威力と言えば威力です。ただ、そうした成果を掲げるだけで、彼らを退治して改善できなければ、魯迅が言う「精神勝利」の極致になるでしょう。

 

・「退陣」の様々な種類とケース

 セウォル号惨事は朴槿恵政権の2年目に起きましたが、梨泰院惨事は尹錫悦政権の1年目に発生しました。惨事から2年余り経って朴槿恵に退陣を要求するキャンドルデモが本格化した反面、今回は退陣運動がすでに起きている状況下で惨事が起きました。だから、尹錫悦政権の退陣は朴槿恵の退陣よりもっと確実だと断定するつもりはありません。2016~17年大抗争の再現を期待するのは、時代ごとに新たな解法を求めるべき課題を疎かにする態度だと言えます。ただ、国らしい国を創るためには尹錫悦大統領はぜひとも辞めさせるべきだと信じる人なら、彼の退陣問題も想像力を最大限展開し、錬磨する必要があるのです。

 退陣というのも様々です。朴槿恵大統領のように弾劾によって強制退陣されるケースがあるかと思えば、李承晩大統領のように自ら進んで下野するケースもあります。当初、朴槿恵氏もデモの群衆が下野を要求したのに、ついに聞き入れないので憲法の手続きに従って罷免されたのです。李承晩は自ら進んで退陣しましたが、警察の発砲で流血事態が起きた後に実現した下野なので、そうした経路を踏襲してはならないでしょう。

 外国の事例では、任期途中で辞任したニクソン大統領がいます。彼はウォーターゲート事件で弾劾が確実になるや、事前に辞任する選択をしました。だがこの時、彼は自分の活路をつくって辞めた点が特異です。フォード副大統領が大統領を承継してニクソンを赦免したのです。それへの猛反発でフォードは再選に失敗しましたが、とにかく大統領下野のもう一つの事例になりました。米国と韓国は制度が違うため、これも一つの参考資料にすぎません。しかし、「尹錫悦退陣」を本当に実現しようとする人ならば、退路を開けて退陣させる方式が果たして望ましいのか、つまりキャンドル市民の同意を得られるのか、そうだとしても誰が主導して調整し、どのように実現できるのか、様々な可能性をじっくりと検討すべきです。

 「いつ」なのかによって「どのように」も異なるのです。2027年なら、任期満了で尹錫悦退陣は自然に実現します。ある人はそれが正常であり、望ましいと考えるでしょう。その時まで我慢して頑張る以外に道はないと諦める人もいます。でも、諦める人は「これでは生きられない」という大衆の切迫さを国の主人として判断しているのか、今まで通りにあと4年生きたら社会や国がどんなザマになっているのか省察してみたのでしょうか、聞いてみたいものです。

 

・早期退陣の論議も実事求是の精神で

 朴槿恵時代に弾劾が実現した4年目に該当するのが2026年です。ただ一度も進んだことのない道を苦労して切り開き、後れながらも政権退陣を実現させた時と、すでに弾劾を行なった歴史では時間表が異なります。1年目から退陣を主張していて3年経っても成功できないのに、4年経ったらやめる人に退陣運動が火を噴くのは難しいでしょう。

 だから、さらに前倒して2025年に希望をかける人もいます。2017年が第20代総選挙の翌年だったように、2025年は第22代総選挙の翌年です。総選挙で野党系が大きく勝利して弾劾の定足数を確保するとか、与党が分裂して退陣が実現するだろうという期待です。しかし、キャンドル市民の要求をその時点まで実現できなかった野党系が総選挙で大勝利するかは疑問です。その上、再選に成功して2028年まで蜜の壺一つずつを確保した国会議員が、キャンドル革命の前進にどれほど情熱を示すかもわかりません。

 2024年総選挙の年に期待をかける人も少なくないようです。これは「2025年待望論」と通じる発想です。ところが、歴史的に選挙というイベントは革命には毒になりがちなものでした。もちろん、独裁がとてもひどい状況で「選挙革命」というのは起こりもしますが、圧倒的多数の議席をもつ野党が2024年まで成果を上げられないのに、あと20~30議席ほどあれば必ず退陣させようと言った場合、果たしてどれほど好意的に国民が応じるでしょうか。この問題も実事求是の精神で接近すべき事柄です。

 キャンドル市民の直接行動を論じれば、2016年は12月にピークに達して国会の弾劾決議を引きだしました。次いで憲法裁判所が弾劾を認める時まで、市民らは寒い冬を頑張り抜きました。2022年のキャンドル行動は、そのレベルにまで到達できないまま厳しい寒さを迎えました。決意に満ちた市民がこのヤマ場を乗り越えてデモの熱気を維持したならば、新年の春頃には最高潮に達する可能性はあります。しかし、熱気が2023年を越えて総選局面まで続くのは大変で、退屈な対峙状態が続くかもしれません。

 2023年になると総選以外は考えない人々が急に増えるものです。こういう時、選挙がキャンドル革命の毒になると考える代わりに、どのようにキャンドルと相乗作用を起こせるのか、知恵を集めるべきです。有利な点の一つは、民主党に第2期キャンドル政府の建設を夢みる代表がいるという点であり、与党「国民の力」でも選挙を前にした状態なので、尹錫悦の看板で自分が当選できるだろうかと悩む議員が増えるはずだという点です。火を噴きはじめた経済危機の本格的な到来と庶民生活の極限的な下落がどういう影響を及ぼすのかは予測困難です。概して、革命は経済が最悪の状態を脱するか、少し良くなりはじめた時に起こるというのが定説です。しかし、キャンドル革命を起こして推進中の市民が、経済まで滅ぼしかねない反キャンドル政権を罰する問題は次元が異なる事案です。

 

・“開闢の世”の門口で

 世界的な経済危機と日増しに実感される地球生態系の危機を前に、あまりに国内政治に熱中しているという批判もあるでしょう。当然、より大きな世界の大事も考えるべきです。今まさに当面する国際的な難題をみても、米中葛藤という難関をどのように解くべきか、米国と日本への追従に熱をあげる政権下では息が詰まります。朝鮮半島の軍事的な緊張も2017年よりむしろ危険なのに、現政権は反転させようとする能力はもちろん、意志さえないように思われます。

 ともあれ、いま私たちが足をつけて暮らす大地で展開される惨憺たる現実を無視して行われる巨大言説や巨視的な展望は閑人の雑談にすぎません。実際に、この地に国らしい国を建てることは韓国社会に限られることではなく、現存の世界体制としても関鍵的な事案です。朝鮮半島の分断体制は世界体制の核心的な一部であり、弱い環なのです。そのため、キャンドル革命は既存の世界の大勢に逆行する作業であり、国内外を問わずに既得権勢力には許しがたい事態です。尹錫悦政権の登場は変則的な事件ですが、体制化された分断の現実とそれを支えてきた強大国の既得権層の同調という、それなりの土台があってこそ発生した事故(死苦?)なのです。私たちがこれまで通りに考え、暮らしていては決して勝てません。分断体制の力は強いのです。

 とはいえ、私たち民衆も民族も知恵深く、頑張りぬく力は強いのです。朝鮮王朝の没落期に東学という新思想が生まれ、この地で後天開闢運動を開始しました。東学革命は莫大な犠牲により敗北しましたが、民衆の覚醒と献身を示したもので、植民地下での三・一革命のような変革の努力が分断時代にも持続し、南ではついにキャンドル革命を起こして「成就の歴史」となりました。幸か不幸か、私たちはキャンドル革命の渦中で、変則的に台頭した政権との対決というかなり鮮明な目標をもつに至りました。朝鮮半島と人類社会全体の大革新、大転換に決定的に寄与できる恵まれた時期を生きる栄光を享受しているのです。

 新年にあたり、皆さんが健康かつ生き甲斐ある日々を送られますよう、あらためてお祈りします。

 

 

2.年2月、いくつかの断想

 

 「今まで通りの生き方はやめましょう」という主張は、しばしば物議をかもす素地がある。善良かつ誠実に生きてきた人にも、今後は悪くて不誠実な生き方に転換せよという話なのか! 脈絡を無視して、このように受けとる読者は珍しいだろうが、コラムのタイトルはある意味で、季刊『創作と批評』が1996年、創刊30周年にあたって採択した標語「一筋だが、日々新たに」の延長線上にあることを想起してほしい。実は、当時の標語の全文は「一筋だが、日々新たに/日々新ただが、一筋に」であった。それを、2023年の急迫した状況下、「今まで通りの生き方はやめましょう」と表現してみたのだ。

 とはいえ、以下の文章では、新年コラムのように国内政治の論議に焦点を当てるより、ともすればもっと壮大なテーマを3つ、4つ考察したいと思う。もちろん本格的な論議ではなく、私が提起した意見を断想の形で敷衍したもので、こうした主題に関する論議や錬磨が不足していた点も、キャンドル革命が円滑に進展できなかった原因の一つではないかという問題意識も込めている。

 

・今まで通りに生きられなくなった地球

 少なくとも最近数年間の気候変化など、地球生態系の危機は「今まで通り」がもはや通じないという実感を加速させてきた。それでも、あまりにも膨大な規模の危機であり、課題であるために、実際に何を、どうすべきか、気が滅入る時が多い。炭素の排出量を減らすべきだという点は、今や科学者だけでなく一般市民も大体が同意するようになったが、各自ができうること、やるべきことは、果たして何なのか。

 これに対し、私は各自ができることは何であれ、やる場合は中道ないしは中庸を忘れまい、という提案をしたい。特に短期的な課題に埋没するとか、長期的な原論提示に留まることなく、実効的な最善の解法を探すのに知恵を集める必要がある。また、何が最善であり、どれほど実効的かはまだ明らかでない状況において、中・短期的にも役立つことなら、各自ができることだけをひとまずやり、それが本当に「中道」に該当するか、最も望ましい究極的な解法につながるかに対する問いかけをやめないことだ。

 親環境的な生活をしようとする各自の日常的な努力は短期的な努力だけでなく、長期的かつ究極的な課題とも直結される。一個人の日常的な努力は大したことがないようでも、やれることを精一杯しようという心のもち方はより大きな事業のためにも必須である。もし大した効果がなくても、正しいことをやるという正義感なしには、いかなる事業も大きな成功は期しがたいものだ。独りだけでは達成できない危機克服に同志を糾合するために、自分はやらずに他人と一緒にしようと呼びかけても、応じる人は多くないだろう。さらに、生態系危機の克服のように、個々人の努力が合わさって国家の政策や制度の変化を引き出し、国際的な協約の締結や履行までつなげていくべき課業の場合は特にそうである。

 だが、課題の壮大さに比して自らの努力がどれほど足りないかを認識し、記憶する勉強もまた必須である。それがない時、自分が大そうなことをしているという「我相」にとらわれやすく、同調しない――または同調する立場になれない――人に対する優越感、ひどい場合は敵意を抱くようになりがちで、往々にして幻滅や憤怒のあまり運動から離れるという憂慮もある。

 親環境的な技術の開発と実行による利得を計算する個人や集団を余りに排撃する態度もまた「中道」ではない。いわゆるケインズ主義的な生態主義であっても、当面実質的な助けになるならひとまず受け入れ、それによる中・長期的な問題点はそれなりに錬磨して批判すべきであり、何が実現可能な最善の道なのかが確定されない状態で、原則的な立場にあまりにも執着しすぎてはならない。

 さらに、ケインズ主義とは全く異なる観点から、私が提起してきた「適当な成長」概念もより幅広く、真剣な討論の対象になればと思う。これは脱成長という究極的な目標を共有するが、それを達成するのに必要な各地域と時期、それぞれの適当な成長、つまり資本主義体制の成長主義を克服する戦略であり、方便としての成長という概念として、拙著『近代の二重課題とコリア式国づくり』(チャンビ、2021年)の第13章「気候危機と近代の二重課題」で比較的詳細に整理し、ユーチューブ放送の白楽晴テレビの「人間が夢みる新しい世の中を実現させる実用主義思想 白楽晴教授の『適当な成長論』」(2022年8月27日)の冒頭でもとり上げている。たとえ脱成長が正当な目標であって、地球を破壊する資本主義体制や国家及び企業との闘いが急迫しているとはいえ、闘いの成否は結局、短・中・長期目標をどれだけ賢く配合して大衆の支持をどれだけ得られるかにかかっているのではなかろうか。

 ここでは、生態系の危機をとり上げて主に気候変化について論じたが、その他に生物種多様性の急減、プラスチックごみの氾濫、原子力発電の危険性と廃棄物処理の難しさなど、人類の生存を脅かす環境問題は数多い。デジタル技術の急速な発展が生んだ人工知能と自動機器、仮想現実などの挑戦も、人間の対応能力を試している。これらをひっくるめて「物質開闢」の一環と把握し、それに見合って「今まで通りに生きない」人間精神の抜本的な刷新が必要だろうというのが私の所信であり、これに関しては後でまた言及しようと思う。

 

・性平等と平等社会

 韓国社会の性差別と女性嫌悪が深刻な状態にあるという認識は、気候危機ほど広範な合意を引きだしているとは言えないようだ。女性の切迫感はそれだけ大きいものであり、一部の男性と既得権層の女性が起こす「逆風」というのも、深く考えてみれば、事態の深刻さを反証しているだけだ。「今まで通り」が通用しないもう一つの事例である。

 ここでも事態解決のために、各自ができることをすべてやるが、「中道」を見失うまいという提案は妥当だと信じる。ただ、当面何が必要であり、各自がどのように生きるべきかに対する論争が極めて激烈で、「中道選び」が極めて難しい面がある。80代の男性という身である私が、身を投じるには極めて危険とさえ感じる難題でもある。

 その負担を振りはらって私が投じた提言は、中・短期的には性差別撤廃に邁進しても、長期的には性の平等より「陰陽の調和」のような少し次元の異なる目標を設定するのが良いのではないかというものだった。こうした主張を初めて披歴したのは「大きな積功、大転換のために」(『創作と批評』2014年冬号;白楽晴ほか著『白楽晴が大転換の道を問う』、チャンビ、2015年に収録後、『近代の二重課題とコリア式国づくり』の第9章に再収録)だったが、女性運動家で女性学者の曺恩教授との対談では極めて批判的な反応に接した(『白楽晴が大転換の道を問う』、曺恩編「新しい世の中に出会う女性運動」;これに関する私の後日談は白楽晴ほか著『文明の大転換を勉強する』、チャンビ、2018年、255~58頁を参照)。批判的な反応の主な原因は、もちろん私の論旨に緻密さと説得力が不足しているためだが、近代主義的な教育を受けた現代韓国人は「陰陽の調和」のような概念を深く理解するとか、その表現に簡単には共感しがたいという実情も作用したようだ。

 ともあれ、勉強の話頭を投じるのではなく、運動の目標とスローガンを提示する場合は大衆の同調が必須なだけに、「陰陽の調和」のような用語に固執する理由はない。ただ性差別の撤廃は、マルクス主義の階級撤廃論が支配階級の消滅を志向するのとは異なり、性別自体がなくなる世の中を追求するのではなく、男女(および性のアイデンティティが多様な人も)すべてが平等かつ幸せに暮らせる世の中を夢みることであり、その遠大な志向に見合う目標設定が依然として必要だと信じる。いや、平等社会自体がその時々の智愚を区別することも除外した無条件の平等主義としては達成できないという場合、「性差別がなくなった平等社会」構想に、それなりの新たな概念と呼び方が必要だろう。マルクス自身も、究極的な目標としては平等よりも階級撤廃で自由になる個々人の連合と各自の個性ないし人格の発達を設定したのではなかったか。男女がともに自力が不足した状態で、権利だけ同等だとしても何が、どうなるのか、知恵もなく精神的に大事にする人もいないような輩がのさばる世の中なら、みんなが苦労する世の中に違いない。もちろん権利が同一ではない社会では自力の養成がうまくできないから、これは性平等とあらゆる不当な差別を撤廃する運動の大義を否定するものではない。

 とにかく、性差別を含めた不平等の深化は国家的な問題であるだけでなく、国家の基盤をなす社会自体を滅ぼしてしまう事態なので、「今まで通りに生きるのをやめよう」という決心が特に切実な領域である。

 

・南北関係もこのままではダメな時点に

 キャンドル大抗争で政権交代を達成したことで、南北関係にも以前にはなかった発展を達成したのが2018年だった。だが翌年、ハノイでの米朝首脳会談が決裂して南北関係も膠着状態に入っていき、2022年の政権交代により、むしろ今は李明博・朴槿恵の時代よりもっと危険な状況を迎えている。

 南北対立が激化するたびによく出る質問は、分断体制が揺らいでいると言ってるがどうなっているのかというものである。私の一貫した答えは、関係が悪化したからといって分断体制固着期の相対的な安定が復元されたわけでは全くないし、むしろ分断現実の不安定性と危険性が増大していることによるというものだ。尹錫悦政権の登場で、朝鮮半島はそれこそ一触即発の危機状況――戦時作戦権もない政府が何らかの“先制打撃”で触発するよりも、偶発的な事故が戦争へと繋がりうる危険――を経験している。私たちが今まで通りに生きていくと、みんなが死ぬかもしれない時期が到来するのだ。

 この場合、キャンドル市民ができることは何だろうか。米朝関係や南北関係に直接分け入る間隙はいつの時よりも狭小である。だが、私が重ねて強調したように(例えば、『近代の二重課題とコリア式国づくり』の第11章「市民参加型の統一運動と朝鮮半島の平和」)、統一過程での市民参加というのは、米朝関係・南北関係に市民が直接参加することがすべてではないし、むしろ「市民参加のうちで最近の歴史で最も重要な行為は、南北関係の発展を阻害する政権を市民が立ち上がって追い出した」(同書、284~85頁)2016~17年のキャンドル大抗争だったのである。

 政権や米国政府の無知や無責任を、研究者や論客が持続的に明らかにする作業が無意味だというのではない。ただ、研究や討論も今まで通りのやり方ではやはり大きな意味をもちがたい。南北連合建設の意識的で体系的な推進なしには、朝鮮半島の非核化と平和の定着は不可能であるという認識から出発すべきであり、キャンドル市民の政治参加を他人事と考えるのは、もう一つの専門家的惰性であり、現実への安住でありうることを自覚すべき時なのだ。

 

・“開闢”思想と2023

 今まで通りに生きられなくなった世の中を根本から変えて、新たに出発する歴史を19世紀中葉以来、この地の先覚者は“開闢”と名づけてきた。水雲・崔済愚は“再び開闢”を語り、海月・崔時亨は「先天は物質開闢であり、後天は人心開闢」(「海月神師法説」37.“その他”、『天道教経典』第11版、2020年、417頁)という言葉を残した。物理的な天地が開かれた太初の開闢があったならば、今は人心、つまり人々の心が開闢される“再開闢”が達成される時だというのだ。少太山・朴重彬は“物質が開闢されるので、精神を開闢しよう”を圓佛教の開教標語としたが、この場合の“精神開闢”は海月の“人心開闢”に通じる言葉だが、“物質開闢”は海月と全く異なる意味で使われた。

 海月自身も「将来、物質発明はその極に達す」(同頁)るだろうと予測し、これにより道心がますます衰弱していく事態を警告した。だが、しかし、物質発明が極に達する現象自体を“開闢”とは呼ばなかったが、少太山の物質開闢論は早くからあった“物質”(狭義の物質だけでなく知識と技術、諸般の環境などを含む)が今日開闢に準ずるほど新しく、急激な変化を示しているので、それに見合う精神の開闢が切実だという主張だった。換言すれば、後天時代は物質も開闢する時代であり、物質開闢自体に反対するより、それにより“物質”の勢力が幾何級数的に拡張される中で、人間の精神が衰弱して文明の奴隷に変わっている状況を精神開闢により超えていこうというものだった(圓佛教「正典」總序編第1章“開教の動機”および「大宗經」教義品第30章を参照)。ここで、資本主義近代に適応しながら克服しようとする二重課題論と、朝鮮半島に特有な後天開闢運動が円満に出会う道が開かれたわけだ。

 だからといって、開闢が二重課題より抽象レベルが高い上位概念だと見るのは、折半の真実にすぎない。“開闢”が資本主義時代以前までを包括し、ある宇宙的な時運に向けて開かれた面がある限りでは、概念の外延つまり適用範囲がより広いのは事実である。だが、適用の範囲が広がると同時に、具体性でもより広がる面がある。二重課題の実際の完遂に必要な心法と実践要領に関し、“近代”論議でよく看過される細かい事項までまとめているのが開闢思想であり、後天開闢運動だからである。

 本稿でわずかずつ論じた生態系危機とか、性差別と不平等問題、世界体制の中の南北分断のような事案も、各自が「開闢の世(大変革・創世)」**という次元で見直してみる必要がある。これらの問題を、私たちが果たして精神開闢・人心開闢という世界史的な要求に見あう至公無私かつ綿密周到な心のもち方で対応しているのか、省察すべきなのである。

 2023年になすべきこともそうした次元で省察し、設定すべきである。例えば、“退陣”問題だけでも果たしてそれが望ましいのか否か、望ましければいつが最適な時期なのかを恣意的に定めるとか、言葉だけ叫んでも自分事として実行しないのは、開闢の働き手やキャンドル市民の姿勢ではない。正常の退任と中途退陣のうちどちらが、どうしてより望ましいのか、後者ならば、いつ、どういう方式が実現の可能性が最も高いのかを、あらゆるケースを想像しながら、実事求是の精神で選択すべきである。また、2023年を目標に定めたならば、それを今から主張しだす人と他の先決課題にひとまず没頭する人が、互いに自分が正しいと争う必要はない。心の中で整理したことが一致したとしても、その実行方法まで最初からみな一緒であるべきではないからだ。

 どういう場合であれ、私たちの判断基準は「開闢の世(大変革・創世)」であるべきで、韓国人の場合はキャンドル革命でもあることを蘇らせるのが重要である。

 

[訳注]*と**の部分は、直訳すれば「開闢」と「開闢の世の進行」となるが、日本語で「開闢」といえば、第一に日本神話の「天地開闢」であり、第二にキリスト教の創世記を思い浮かべる。だが、ここでの「開闢」には、「1860年代に崔済愚が開教し、朝鮮王朝と日本軍に厳しく弾圧された東学以来の民族的伝統が息づく変革的中道主義に基づき現代世界を大変革・創世する」という著者の能動的な立場・姿勢が凝縮されている。

 

訳:青柳純一