文益煥、金主席を説得する : ヌッポムの訪北20周年を迎えて

論壇と現場
 

民族和解協力凡国民協議会の執行委員長。論文に「2000年以後の対北政策談論研究」などがあり、著書に『民族和解と南南対話』(共著)などがある。

今年はヌッポム(文益煥牧師の号。晩春という意味─訳注)文益煥(厶ン・イクファン、1918~94)牧師の15周忌となる年であり、また彼の人生の中で最も劇的な一時期として評価されている平壤訪問20周年となる年である。「私は今年中に平壤へ行くよ/必ず行くんだって/これは寝言ではないよ」(「寝言ではない寝言」)。平壤を訪れたその年の正月の夜明けに書いた詩句そのまま、ヌッポムは1989年3月25日、鄭敬謨(ジョン・ギョンモ)、劉元琥(ユ・ウォンホ)と共に訪北した。

 

 

 

 

 ヌッポムの統一思想

 
 
ヌッポムが訪北すると、当時の政権と殆んどの言論は彼を「色が疑わしい危険な人物」とか、「小英雄主義的、感傷的な統一主義者」などのイメージを際立たせるのに力を注いだ。盧泰愚(ノ・テウ)政府は文益煥の訪北を「我が政府の協商力を破綻させ、北朝鮮の対南工作に弄ばれたこと」と言いながら公安当局はヌッポムの訪北を「北朝鮮の工作による敵地潜入」として規定し、ヌッポムと一緒に訪北した鄭敬謨と劉元琥の二人を「北朝鮮の工作員とその指令を受けた者」だと主張した。もちろんこれは全く事実ではない。ヌッポムは訪北の当時、多くの文書の初稿を書いた鄭敬謨に対して「私の中に入ってみたことのあるような人の文」だと感心したし、帰国の旅程まで一緒にいてくれた劉元琥に対しては非常に「心強く」考えていた。、実定法の違反を名目に彼を拘束し、新しい公安政局を起こして民主化運動を弾圧するタネにした。

 


当時、言論と政権が作り上げたこのようなイメージは、今までも多くの人々の認識を支配している。なのでヌッポムの訪北をまともに理解するためには、まず彼の統一思想を見てみる必要がある。彼の統一思想は、彼がなぜ訪北したかを理解できる基本的な背景となる。

 


1989年の訪北当時、彼の統一観は「民主化と統一は一つである」「統一は民族解放の完成であり、民族自主の成就である」「統一の主人は民である」という三つの命題として要約される文益煥の統一論として、よく「3段階連邦制論」などが言われるが、彼は洞察力と実践で理論を潜り抜けてきた人なのでそのような理論より彼の洞察力のある統一観がより大きい力を持っている。。文益煥のこの三つの命題はそれぞれ別個のものというより、互いに繋がった一つの論理であった。

 


彼は統一が民族史の正当性回復の運動であるし、直ちに「民族解放運動の完成で民族自主の成就」と見なしながら、そのような意味で「統一は民族の復活」と表現した。それから民族の復活は民衆の自覚と、解放へ向かった努力、すなわち「民衆の復活〓民主」なしには不可能であると考えた。彼の結論は「統一はすなわち民主」であり、「民主は民主導」だから「統一もまた、民主導」であるというものであった。そして彼は「民主導」の意味をこう説明する。「これは決して官を追い出そうという意味ではありません。官はあくまでも民の意を承けて民と共に、民を先に立たせて、民に推されながら統一の門に向かって歩いていくべきだという意味であります。民を排除して官が独占した官主導下の統一運動が不統一運動であったことを、去る45年の民族史が証明しているのではありませんか。」文益煥「上告理由書」、『文益煥全集』第5巻、四季、1999、236頁。これから「上告理由書」からの引用は頁数のみを示し、『文益煥全集』(『全集』)からの再引用は巻数と頁数のみを示す。

 


このような文益煥の「民主導の統一思想」に照らしてみる際、彼の訪北は「小英雄主義」ではなく、「統一論議の政治社会の独占」を崩すための実践的な突破であったし、「民の統一運動」の自由を勝ち取るために「身を投げた」闘争の一環であった。すなわち彼の訪北は統一論議が政治社会の専有物ではあり得ないという「民の独立宣言」であったのだ。
 
 
 

なぜ訪北したか

 
 
 
文益煥の「民主導の統一思想」が訪北という具体的決断へと繋がった切っ掛けは、「焼身政局」とまで呼ばれた当時の数多くの若者たちの焼身、投身であった。彼は分断、反共の真っ暗な絶壁の前で身を投げ捨てる若者たちを見ながら、この死の行列を止めさせるために自分の命をかけて訪北すべきだと考えた。

 

彼はまた、自分が「民」なので去る40年間、徒に日を暮した当局者間の対話より、ずっと多くの成果が出せると考えた。「両当局者たちが会うと、双方が各自の権益を維持し守護しなければならないという立場のため綱引きをせざるを得ません。南と北の執権層はこの綱引きで40年の歳月を流したのではありませんか。少なくとも私はそのような綱引きをする必要がありませんでした。金主席も私とは綱引きをする必要がなかったのではありませんか。」(180頁) それで自分が先立って南北関係の新しい突破口を開くと、「若者たちが死なないで生きて」民主と統一を勝ち取っていくだろうと信じた。そして歴史は彼の信じの通り展開した。「私が訪北し秀卿(イム・スギョン)が訪北するに伴って分断の壁が崩され始めると若者たちが死ぬ必要がなくなったのです。もし行ってこなかったら1年半の間、どれ程の多くの学生が死んだかわからないことです。そんな意味で「もう少し待ってから行ってくるべきだった」という指摘は全くとんでもない論理です。」インタビュー「民主化が統一であり、統一が民主化」、『平民研会報』第10号、1990.12.20、『全集』第5巻、419頁。

 


またヌッポムは「統一は一つとなってより大きくなることであり、大きくなるためには些細な考えの違い、制度の違い、偏見と固定観念から脱しなければならない」と思い、このために南側で闘争したように、北側へ行ってもこの点をはっきり確認すべきだと考えた。平壤に着いたとき、ヌッポムはこう語った。「私は今回、言葉でする対話ではなく、胸と目でする対話をしに来ました。どれ一方に益し、一方を不利にするために来たわけではありません。(…)一方が勝って、一方が負けることではなく、我々みんなが勝利者となる道を探して来ました。」(124頁)彼はこの言葉の意味を、南側の政府と国民の心を傳えて、南側に対する北側の信頼を引き出し、北側の真意を知って南側に傳えることによって、北に対する南側の信頼を回復させようとすることだと説明した。

 


このような訪北の趣旨を生かすために、彼は訪北期間中ずっと、4・2共同声明(文益煥牧師が訪北して許錟(ホ・ダム)祖国平和統一委員会委員長と共同で発表した声明)で言明されているように、「南北が小我と固執を捨てて大乗的な立場から団結」することを特に強調した。文益煥自ら言ったように、北に行ってこの話をするということは結局、「北側が譲ってほしいということ」であった。(135頁)
 
 
 

平壤で何を論議したか

 

 

ヌッポムは平壤で二回にわたって8時間の間、金日成(キ厶・イルソン)主席と対話を交わした。主題は大きく分けて五つとして、①一時的・過度的交叉承認の受容、②連邦制の斬新的・段階的推進、③政治・軍事会談と経済・文化交流の併行推進、④チーム・スピリット(Team Spirit)訓練(韓米両国間の合同軍事訓練─訳注)などの情勢とは関係なく南北対話の持続、 ⑤統一の障害要因としての主体思想に対する問題提議などであった。これら一つ一つが深刻な意味を孕んでおり、ヌッポムが思うにその殆んどは北が譲って理解しなければならない問題であった。

 


「過度的交叉の承認」問題はヌッポムが金日成に出そうとした最優先順位の質問であった。彼は交叉承認が、永久分断にならないために必要だし、「その保証は民衆にある。(…) 交叉承認は軍備縮小と緊張緩和に決定的な寄与をするはず」(143頁)と金日成を説得した。金日成の返事は「基本的に二つの朝鮮にしようとする分裂主義の策動なので絶対に許容すべきでない」という確固たる拒否であった。文益煥「胸で会った平壤」、韓勝憲(ハン・スンホン)先生還暦記念文集刊行委員会編『分断時代の被告たち』、汎友社、1994、577頁。

 


文益煥の説得は当時としては何の成果もないように見えた。しかし金日成は1991年の新年の挨拶で「われわれは国連に加入する問題も (…) 一つの議席で加入する条件でなら、その前にでも北と南が国連に入ることを反対しません」といって、事実上、国連への南北の同時加入を始めて認める立場を明らかにした。このような立場の変化を反映して同年の9月、北朝鮮は国連への南北同時加入を決行した。国連への同時加入は北朝鮮自ら、韓国政府の実体を認めて「法的分断」の公式化を受け入れたものである。またこれは「一つの朝鮮」ではなく、南北の共存と国際舞台での「交叉承認」の推進という方向へと北朝鮮の政策が変化していることを意味するものであった。ヌッポムの蒔いた種は、ただその芽を遅く吹いただけである。
 
 
 

金日成主席を説得する

 
 
 
続けてヌッポムは金日成に南と北との間には不信と敵対感が深いので、連邦制の推進も南と北の自治政府が軍事と外交まで独立的に営む段階を設ける、漸進的な推進が避けられないという意見を出した。そして北の主張する高麗連邦制の案の実現は、「不知何歲月」になるはずだと強調した。この話しに金日成は完全に説得され、「いいです。(連邦制は)一気ででも出来るし、協商を通して段階的に行なうことも出来ます」と合意した。(144頁)

 


ヌッポムはこの合意を、北側にして南側政府の「体制連合」の中に近寄らせたことと判断して、自分の行なったことが北朝鮮の統一政策を転換させたことであるし、究極的には「南側の統一方案に北側の同意を導き出したこと」(145頁)だと意味を与えた。

 


一方、政治・軍事会談と経済・文化交流を併行させようというヌッポムの主張は、最初は強く断わられた。併行推進が恒久分断を前提としたドイツ式の交流だという反論のためであった。これに対しヌッポムは「民衆を信じましょう。多方面に渡った会談と交流は政治・軍事会談によい圧力となります」といいながら金日成を説得した。この話しに金日成は「いいです。同時に押し進めるようにしましょう」と簡単に頷けた。(146頁)

 


経済・文化交流の併行推進もまた、ヌッポムが韓国政府の政策的立場を強く意識した主張であったし、金日成はヌッポムとの協議を通じて韓国政府の主張に事実上、同意したわけである。これに関わって当時の統一院長官の李洪九(イ・ホング)でさえ、「北朝鮮がすべての問題、政治・軍事を始め、交流協力に対するすべての問題が論議できるというその一つだけでも南北高位当局者会談の展望が明るくなれる」と肯定的に評価した。1989年5月23日付国会外務・統一常任委員会の速記録。

 


ヌッポムはさらに「チーム・スピリット訓練の有無に関わらず、南北間の会談を中断しないで推し進めるほうがいい」という意見を出したが、これは対北核先制攻撃を含めたチーム・スピリット訓練の性格上、北が受け入れにくかった。しかしヌッポムの提議した「いかなる情勢にも関わらず、南北対話の持続」という立場は、合意がなされた「多方面に渡る交流の併行推進」の原則とともに、それ以来、民間と当局を問わず、南北関係の基本原則となった。彼は「南側の民の立場を基に北の立場を尊重する方向で」南北関係の基本枠を始めて整えたのである。
 
 
 

南側国民の心を傳える

 
 
 
最後にヌッポムは北朝鮮の主体思想と関わる問題を提起した。「南側から北側を眺める際、統一の阻害要因として深刻に問題となるものは主体思想です。これから主体思想もその強調点が人民に移っていくべきではないでしょうか。」(148頁) 首領中心の唯一支配体制と個人崇拝イデオロギーが統一の阻害要因であるから、人民を重んじる主体思想へと戻っていくようにという「行間」は直ちに読まれた。金日成は重たい雰囲気の中で「そうですね。主体思想も人民から出たものですね」と答えた。(149頁)

 

その後、文益煥は1992年の憲法改正で主体思想と関わる自分の主張を北朝鮮が事実上、受け入れたと考えていた。「この間の訪北の際、首領中心の主体思想を人民中心の主体思想へと変えてほしいと言いました。その後、(北朝鮮の)憲法がそのように変わったのです。」インタビュー「民族運動と民衆運動も一つでしょう」、『社会評論』1993年4月号、『全集』第5巻、455頁。 実際に北朝鮮における1992年の憲法改正がヌッポムの、主体思想に対する「忠告」を念頭に置いてなされたことなのかは確認できないが、その憲法改正に人民大衆中心の主体思想を強調して唯一支配の権力構造を緩める内容が含まれたことは事実である。

 


金日成は文益煥との二回に渡った長時間の会談で、ただ一つだけの質問をした。それは「韓国は本当に統一を望んでいるのですか」という質問であった。「大韓民国政府は統一を望んでいないと否定的にだけ見るべきではありません。今、大韓民国政府が構想している『体制連合』は実質的に北が提案している連邦制統一方案に非常に近く近寄っています。」(170頁) 文益煥のこの答えは金日成の心を動かした。金日成は即時、秘書に命令を下した。「盧泰愚大統領、金大中(キ厶・デジュン)総裁、金鍾泌(キ厶・ジョンピル)総裁、金壽煥(キ厶・スファン)枢機卿、白基玩(ペク・ギワン)先生など、誰でも集団的であれ個人的であれ来たら会う用意があるということを今夜放送しなさい。」「胸で会った平壤」586頁。

 

これで「南側の政府と国民の心を伝えて南側に対する北側の信頼を引き出し、北側の真意を知って南側に伝えることによって北に対する南側の信頼を回復させよう」とした文益煥の訪北の目標は、少なくともその半分は達成されたわけである。彼は真情を持って南側の政府と国民の心を伝えることによって、金日成の首脳会談の決心を導き出した。韓国の政治社会でそれが持つ歴史的意味を最も正確に理解した人は、当時、野党総裁の金大中(キ厶・デジュン)であった。

 


「南北首脳会談は理由はともあれ、われわれの韓国政府がより積極的であった。ところで今回文牧師が行った際、金日成が始めて『盧泰愚大統領と会いたい』と、大統領の呼称を付けたし、また趙紫陽(ジョ・ジャヤン)に同じことを言った。これはすごい変化である。だとしたらこれを逃さず、いつ板門店で予備会談をしようかと提案すべきではなかろうか」1989年5月23日付国会外務・統一常任委員会の速記録。 このような金大中の指摘に対して統一院長官の李洪九(イ・ホング)は「首脳会談の重要性に対する政府の立場は全く変わったことがない。従って首脳会談の可能性が生じたことを絶対、政府が軽く考えてきたわけではないということを再び明らかにする」と答えた。同速記録。 ヌッポムを拘束した盧泰愚政府でさえ、彼の訪北が首脳会談の可能性を開いたという点を認めて、非常に重んずる立場を示さざるを得なかったのである。
 
 

「4・2共同声明」の歴史性

 
 
 
1989年3月25日に訪北して4月3日まで平壤に滞留した文益煥は、金日成との二回に渡る会談の結果を文書化して発表した。それがつまり、文益煥-許錟の「4・2共同声明」である。この共同声明は北の祖国平和統一委員会(祖平統)と文益煥牧師の立場をそれぞれ並列した長文の全文と9個項の合意で構成されている。9個項の合意のなかで注目すべき部分は、第1項と第3項、第4項である。

 


第1項では7・4南北共同声明で闡明された自主、平和、民族大団結の3代原則を再確認した。これは南北当局の間で締結された7・4南北共同声明を南側の市民社会が再確認したという意味を持つ。文益煥の言葉通り、7・4共同声明は国民の意思とは無関係に、南北の執権層の合意だけで署名・公式化されたが、4・2共同声明は祖平統を代表して許錟委員長が署名し、南側の全民連(全国民族民主運動連合)を代表して彼が署名することによって、7・4共同声明を実質的な国民同意の基盤の上に載せた。(180頁)

 


第3項では、「政治・軍事会談の推進と (…) 同時に離散家族問題と多方面に渡る交流と接触を実現するよう積極的に努る」となっているが、これは政治・軍事会談と経済・文化交流の併行推進の合意が含まれている。4・2共同声明に含まれたこの、「多方面の交流の併行推進」は2000年6・15共同宣言にそのまま反映された。6・15共同宣言の第3項「ばらばらとなった家族、親族訪問」と第4項「諸般分野の協力と交流の活性化」は4・2共同声明の第3項を分けておいたわけである。

 


第4項は文益煥・金日成との間で合意された漸進的連邦制の推進に関するもので、「共存の原則から連邦制の方式で統一することが (…) 合理的な統一の仕方となるし、その具体的な実現の方途として一気に行なうこともできるし、漸進的に行なうこともできる」となっている。これは南と北が統一の基本原則において「共存」、そして推進の方途において「漸進性」に始めて合意した歴史的条項である。4・2共同声明以後、南と北の統一方案は共に「共存」と「漸進性」の原則を強調する方向へと変化した。北朝鮮は1991年の新年の挨拶で「連邦制統一を漸進的に完成する問題も協議する用意がある」と明かした以来、「緩めた連邦制」あるいは「連邦制一般」へと自分の立場を変えてきた。そしてこのような変化は結局、6・15共同宣言の第2項「南側の連邦制の案と、北側の低い段階の連邦制の案が互いに共通性があると認め、この方向から統一を志向していくことにした」という合意へと繋がった。

 


6・15共同宣言の第2項で特に注目すべき点は、南の連邦制と北の低い段階の連邦制との間に共通点が存在するということを認めたくだりである。これは「国家連合」を分断固着論だと批判していた北朝鮮の立場の変化を意味したし、その変化は取りも直さず4・2共同声明から始まったのである。

 


このように4・2共同声明は7・4南北共同声明の継承であり、同時に6・15共同宣言の前編であるという歴史的な地位を持っている。特に内容的水準から見ると、6・15共同宣言は事実上、4・2共同声明を基に完成されたといっても過言ではないほど、二つの文書は歴史的脈絡と共にする。「双方の合意の結果は国の統一を念願する民族的良心を持った南と北の、どの誰にでも肯定的に受け入れられるだろうという確信を表明する」という4・2共同声明の最後の文は、6・15共同宣言に対する一つの予言であったわけである。

 

4・2共同声明は基本的に韓国の権力ではなく、市民社会が全面に出て作り出した南北の合意文である。すなわち4・2共同声明に反映された文益煥の立場は、韓国の市民社会が蓄えてきた統一構想の精華であったし、これが南と北の当局を動かして結局、6・15共同宣言を導き出したのである。4・2共同声明で闡明された「共存と漸進性」の原則は、たとえ南では一時的に拒否されたが、金大中政府の登場とともに「事実上の統一追求」という内容で韓国政府の基本政策の基調となった。これで韓国市民社会の統一構想は文益煥の訪北が作り出した4・2共同声明の成果を基に南と北の両当局の「差異を縮め、共通性を広げて」彼らを統一の入り口へより近く導いてきたのである。
 
 
 

統一運動に対する新しい省察

 

 
 
ヌッポムは自分の訪北の持つ歴史的意味を深く自覚していた。同時に自ら認めるように、訪北を通じて新しい洞察、新しい悟りと確信を得た。「胸で会った平壤」、592頁。 それで彼は自分の訪北成果を南側の政府がうまく活用してくれることを望み、自分の新しい悟りを広く知らせたかった。しかしヌッポムのそのような希望は無為に戻った。彼は世界言論の注視のもと、「民族的恥辱を受けながら無慈悲に引っ張られたし」それが彼の五回目の監獄暮しとなった。

 


訪北以後の新しい自覚と洞察により、ヌッポムの統一運動の認識には若干の変化が生じた。その変化はまず、半分の国ではなく韓半島(朝鮮半島)の次元で統一運動を展開すべきだという歴史的重要性に対する自覚で現れた。彼は「南側の大韓民国でなされるすべてのことに一人の市民として責任ある生を生きていくとともに、北側のすべての民族(問題)も自分自身の問題だと考える」ようになった。(177頁)このような自覚のおかげで「民主導」に対する彼の視野も当然、韓半島次元へと変貌した。「北側の民意を養うことにも力を注がないと。北の下向的で多少画一的な思考を林秀卿(イム・スギョン)代表がどれ程変えておいたかを見ると、北の民意を養うのに南側の民がどれ程大きな役割をするかがわかる。」インタビュー「信仰と運動が一つとなる基督教運動の展開」、『韓国外国語大学学報』1993.3.23、『全集』第5巻、450頁。

 


変化のもう一つの軸は、これまでの統一運動に対する新しい省察であった。その結果、彼は統一運動で「中立性の原則」と「合法性の原則」を新たに強調した。名望家中心、北の論理と思想に傾いた統一運動では韓国の市民社会と政治社会を導いていけないと判断したからである。彼はこれまでの統一運動が韓国政府のみを相手にしたので、闘争的でしかなかったとしながら、これからは南と北の両政府を同等に仲裁しながら統一を先導していくべきだと考えた。対談「分断50年はわれわれ民族の羞恥です」、『民主化の道』1991年3─4月号、『全集』第5巻、435~36頁。 それで彼は「(統一運動は)南北の当局に対して中立的であるべきです。北側と海外が韓国政府を非難・攻撃する際、私たちも同じようにすると一方に傾くことになります。それはいけません」といって中立性の原則を強調した。インタビュー「統一を迎る民の徹底した準備があるべきです」、『情勢研究』1994年2月号、『全集』第5巻、503頁。

 


彼はまた、統一運動の大衆化のために合法性の勝ち取りが大事であり、そうしてこそ対政府批判も力を得ることになると主張した。また合法性の勝ち取りとともに世論の重要性を認識し始めた。「これから統一運動で最も重要なのは世論です。金永三(キ厶・ヨンサム)政権も世論に敏感です。世論拡散への努力がすべての社会運動の素地となるべきでしょう。」同上、506頁。

 


それと共に彼は統一運動における官の限界が明らかであるから、「民主導」という立場を確固と堅持すべきではあるが、同時に統一運動で民と官は相互関係にあるという点を強調した。官が民を排除してもならないが、民が官を排除してもならないということである。彼は「宗教団体、市民運動団体とわれわれ在野統一運動、ひいては政府まで一つの運動で括って発展させるべき」だと主張した。「全教組新聞との対談」、『全教組新聞』1993.8.31、『全集』第5巻、480頁。このような立場に従って、彼は凡民連(祖国統一凡民族連合)を発展的に解体し、「民の運動を広範囲に実践してこれを政府が受け入れられる新たな転機を設けるため」新しい統一運動体を提案した。

 


文益煥の提起した「新しい統一運動体」の中心点は、事実、「政府との関係」にあるのではなく、北との連帯方式の変化にあった。彼は「新しい統一運動体」は南・北・海外の連合という強い組織形態より、思案によって連帯するより柔軟で緩んだ連帯体になるべきだと主張した。「北側が高麗連邦制から緩んだ連邦制へと前進したように、統一運動体も形式的な連合体から実質的な連帯体へと新しく発展することが必要です。」「統一を迎る民の徹底した準備があるべきです」、502頁。

 


文益煥のこの「新しい省察」は何より当時、「北の論理と思想に傾きすぎて孤立を自ら招いている」伝統的統一運動の一部の流れに対する根本的な問題提起であった。同時に彼は南の民が北、海外と関係を結ぶ方式が教条と形式主義に陥るのではなく、緩んでいるとしても「実質的連帯」となることがより重要だと見なしたし、そのような点から彼の新しい統一運動論は教条と形式を強調する北や南の一部の統一運動に対する問題提起でもあった。

 


訪北以後、文益煥が新しく強調したもう一つの問題意識はつまり、「統一のための至急の準備」の必要性であった。彼はこれまでの統一運動が統一運動の自由を勝ち取る運動の性格が強かったとしたら、これからは本当に統一を具体的に準備する運動を始めるべきだと考えた。彼は統一を「民族を統合する持続的な過程」と見なし、その過程を始めることがつまり、統一だと認識した。すなわち、彼の言う統一は完成ではなく、「過程の始まり」を意味した。そのような点から彼は統一が迫ってきたと考え、それにも関わらず7千万の同胞が統一以後を全く備えていないという事実に「身震い」することになった。そこで文益煥は生涯の最後の監獄暮しから出るやいなや、「統一を迎る7千万同胞の運動」を提唱した。不幸にもこの運動を始めてからまもなく彼はこの世を去ってしまった。
 
 

 

ヌッポ厶が残したもの

 
 
 
ヌッポ厶の訪北と彼の提起した統一運動に対する新しい省察は、過去ではなく相変わらず続いている「現在」である。彼は統一の基本原則(共存)と方途(漸進性)を提示しながら南と北を説得したし、これで6・15共同宣言を可能たらしめた。彼はまた、南側の民衆の心を傳えて北の首脳会談への決心を導き出したし、国連への同時加入と交叉承認、多方面の交流推進、憲法改正と権力集中の緩和など、北朝鮮の物凄い変化を推し動かした。彼は統一運動における民の主導性を宣言し、南の民が歩むべき統一運動の基本方向を提示した。それは中立性と合法性の確保、そして形式と教条から脱した「実質的連帯」であった。これらはわれわれの統一運動が今も尚向かい合っている問題である。そのような点で去る20年間、南の民間統一運動は文益煥の訪北と完璧に一つの年代記で括られている。

 


重要なことは彼が成し遂げたそのすべてが、彼自身の洞察力と「仕え」の実践を通して得られたという点である。彼はある思想や理論に傾かないで、教条に傾かなかったし、自分で直接走り回りながら会った民衆の現実を基に反共主義と分断国家主義を克服し、ついに韓国統一運動の思想・実践的頂点に立つこととなった。彼は統一運動を「圧倒的多数の大衆運動」へと発展させようとしたし、そのような脈絡から初志を貫いて努力した。彼は脱冷戦期における韓半島の情勢の変化を正確に見抜いていたし、この世界的脱冷戦を機会にして南側の当局を最大限柔軟化し、それを基に名実共に「圧倒的多数の大衆的統一運動」を実践しようとした。

 


また彼は民主化運動を通じて成長した南側の民の視野から北とどう関係を結ぶべきかを最も熾烈に探求した人であった。彼は南の民主化運動で得た思想・実践的成果をどう統一運動に結び付けるかを絶え間なく質問した。それは同時に北の民を強化するため南の民がいかに寄与すべきかという問題でもあった。なぜならば統一は民主で、民主は統一であるから。

 


ヌッポ厶の訪北以後20年、これまで南北関係は多くの変化と曲折を経た。現在の南北関係は李明博(イ・ミョンバク)政府の「北朝鮮への無視政策」と、北の「政治軍事合意の無効化」宣言などで日々悪化一路に置かれている。状況は韓国戦争(朝鮮戦争)以来、最悪といわれる程深刻であるが、政府は相変わらず動じない。むしろこのような状況がこの権力の安寧にはそれほど悪くないといったふうな態度を歴然と示している。この時点でわれわれは「官はあくまでも民の意を承けて民に推されながら統一の門に向って歩いていくべきだ」というヌッポ厶の叫びを改めて反芻せざるを得ない。「民の道」は、政府が行なわなくても民が「白頭山へ行って漢拏山まで来る」ことを止めないところにある。そしてそれを可能たらしめる力の源泉は、ヌッポ厶が繰り返し強調したように、分断の既得権の上に安住しようとする「南側のすべての問題に対して鋭い批判を展開するとともに、北側に対しても鋭い批判を加え」るところから出る。文益煥『一つとなることは、もっと大きくなることです』、三民社、1991。

 


現実は大変だし、ヌッポ厶の残した課題は今だ未完成である。しかし彼の訪北から始まった巨大な変化は、統一という未来に向って確固と進んでいる。彼の言った統一の予言は、相変わらず「現在進行形」であり、死以後にも彼の夢と省察は絶え間なく人々を新しくしている。(*)

 

 

 


訳=辛承模
 
季刊 創作と批評 2009年 春号(通卷143号)
2009年 3月1日 発行
発行 株式会社 創批
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