[書評]われわれは正義を論じる準備ができているか : マイケル・サンデル『正義とは何か』

琴泰燮(グ厶・テソプ) / 弁護士    kts@lawkh.com

 

 
 

正義とは何か。公正であるとはどんなことか。ボルチモアの貧民街で貧しい黒人の母子家庭で育ち、ジョンズ・ホプキンス大学を卒業してからローズ奨学金をもらってオックスフォードへ行ったウェズムーア(Wes Moore)の場合を見よ。彼は自分の小さいサクセス・ストーリーが『ボルチモア・サン』誌に載せられた日、自分と同じ名前を持ったウェズムーアという若者が、武装強盗の罪で終身刑を宣告されたという記事を同じ紙面で見て衝撃に陥る。

珍しい名前を共有した二人の若者の運命は、全く異なった形で進む。一人のウェズムーアは逆境を克服し成功の機会を捕まえて、ホワイトハウスのインターンを経てオバマが大統領候補の指名を受け入れた民主党全党大会で演説を行う。もう一人のウェズムーアは宝石商を荒す途中逮捕され、死ぬまで毎日二時間の運動時間を除けば終日独房に監禁されて生活する運命に置かれる。

成功した方は好奇心を抑えきれず、刑務所へ面会に行く。二人は何年に渡って親交を結ぶこととなるが、自分達があまりに似たような環境―同じ趣向の母親、幼い時代のだめな成績と無断欠席、それから貧民街で育つすべての青少年にやってくる犯罪の誘惑―で成長したということを見い出して驚く。成功したウェズムーアは、この出会いに基づいて『もう一人のウェズムーア』(The Other Wes Moore)という本を書く。周りの関心と刻苦の努力が差を生じさせるというストーリーである。しかし問題はそれほど簡単なのか。

どの社会にもいる貧困層の子女たちは手に負えない苦難を経験しなければならないし、その中の一部だけがまともに落ち着く姿を見ると、果たして「公正なる社会」「正義の社会」とは何か考えさせられる。例えば、成功した方のウェズムーアの母親は持っていたお金を集め、親戚から助けられて息子を白人富裕層の子女が通う私立学校に通わせる。しかし実際似つかわしくない学校に通わなければならない息子は、そこに馴染めない。毎日町で顔を合わせる友達は、そのような学校に通う立場にはなれないからである。「白人の学校はどう?」と冷笑的に聞く友達の質問に適当な答えが見つからない主人公は、不正義そのものを感じる。

自分を犠牲にしても子をよい学校に通わせたい母親の心を非難することはできない。だが、少し離れて考えてみる際、仮にわれわれが社会の資源を自由に割り当てられるとしたら、この母親を支援することは果たして公定な行動であろうか。それよりは誰でも通える公立学校の質を高めるため、限られた資源を投入することが正しいことではなかろうか。しかし反対に、使える資源で公立学校を支援しても、意味ある成果を出しにくい状況ならば、それにも関わらず「正しい」ことだという理由だけで無謀なる投資をすることが果たして正義にのっとったことであろうか。社会は公正であるべきだし、私たちは正しいことをすべきだと言うが、いざと「正しい」ことがどんなことか決定するのはそれほど容易くない。最近、我が社会で話題を呼んだマイケル・サンデル(Michael Sandel)の『正義とは何か』(Justice: What’s The Right Thing To Do? イ・チャンシン訳)は、この質問に答えてみようとする一つの試みである。

本は正義を眺める三つの視角を提示する。一番目は功利主義的な観点である。最大多数の最大幸福を追い求めることが正義だと見なす。だが、著者が指摘したように、功利主義は正当性の原則を計算の問題として還元するところに根本的な問題がある。二番目は選択の自由を尊重することが正義だと見なす観点である。ここには自由意志を絶対視する立場と、原初的に平等な位置から(つまり、自分の置かれた状況によってある選択をするしかない現実世界でではなく、能力や環境の違いがない仮想的な状況で)最も合理的だと思われる選択を尊重する立場とがある。『正義論』で知られているロールズ(J. Rawls)の見解でもある。著者のサンデルは三番目の立場、つまり共同体が追い求めるべき価値を重視する共同善の立場に同調する。彼によると、自由主義的な視角は人間行為の質的な違いを無視する難点があるという。道徳的、宗教的信念など価値を考慮しない正義観は空虚であるとのことだ。

論理的にサンデルの見解に反駁することは難しい。例えば、堕胎問題に対して自由主義者たちはたいてい妊婦の選択に任せるべきだと主張する。宗教的な理由や道徳的根拠から女性個人の選択に介入することは、不当だというのである。しかし自由な選択を尊重する人々も一応出産した子供を両親が殺害してもいいとは言わない。人間の生命は絶対的価値を持っているからである。だとしたら、堕胎賛成論者たちはそれとなく胎児は人間ではないという立場をとるわけである。従って堕胎は選択の問題としては還元され得ず、結局、胎児を人間として見なすかの可否によって決められるしかないが、この段階では必然的に道徳的・宗教的価値判断が介入することとなる。

彼のこのような立場のため、一般の熱狂的な反応にも関わらず、『正義とは何か』に対する進歩と保守の両陣営ではそれぞれこの本に対して一定の距離を置く傾向がある。まず進歩の側では、共同体の価値を重んじるサンデルの立場を我が社会にそのまま当て嵌めることは合わないか、少なくとも性急なことだと見なす人が多い。古びた「国論統一」の主張が再び飛び出たり、同性カップルが登場するドラマを見て、ゲイになるとエイズに罹ることもありうるという新聞広告が堂々と載せられる状況で、政治が道徳的・宗教的信念をもって武装し、市民の生に介入すべきだという立場は、極めて危ないかも知れないということである。

保守の側はこれとはやや異なった次元の話をするが、著者が主唱する「共同体の価値」はもともと保守のものであるが、進歩性向の人事たちがこの本と関わる討論会に出たり、書評を書いてあたかも正義に関する議論が進歩の専有物であるかのように認識されているとの不平である。正義という左派のフレームに政府が巻き込まれていると、警戒をする場合もある。

どちらであれそれなりの理由はあろうが、陣営の論理とは別に、それほど内容の易しくないこの本がこれほど大きな反響を呼んだことについては考えてみる必要がある。果たして我が社会で何が正しく、何が正当なのかに関して真に自由で激しい論争が繰り広げられたことがあるか。絶対越えてはならない禁忌を意識せず、譲らない口論を交す状況が許されたことがあるか。この本を読む人々が望んだことは、特定の形の正義(自由主義的なものであれ、あるいは価値重視的なものであれ)というよりは、正義に対する議論そのものではなかったろうか。本を読む間ずっと、我が社会はまだ正義という基本的な争点をめぐった議論さえも受け入れる準備ができていないようでもどかしかった。我が社会のウェズムーアとその両親たちも、どの道が正しいか問い詰めてみる機会は与えられるべきである。 (*)

 

翻訳・辛承模

季刊 創作と批評 2010年 冬号(通卷150号)
2010年 12月1日 発行

 

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