「異なる」ストーリの可能性、加害者たちの語り

 

創作と批評 187号(2020年 春)目次

 

金孝淳、『私は戦争犯罪者です』、西海文集、2020

 

沈雅亭

独立研究活動家、政治学博士 salajungbb0203@hanmail.net

 

 

本書の著者・金孝淳は、学問の場においてもあまり注目されてこなかった事件を綿密に調査し、一人ひとりの歴史に耳を傾ける作業を行ってきた。新作『私は戦争犯罪者です:日本人戦犯を改造した撫順の奇跡』において、著者は敗戦後シベリアでの抑留を経て中国撫順戦犯管理所へ移送されたり、山西省に残って日本の再建と防共を掲げて閻錫山と協力し、人民解放軍と戦う中で捕虜となって太原戦犯管理所へ送られた日本人戦犯たち、そして彼らが帰国後に作った中国帰還者連絡会(以下「中帰連」)の活動に注目する。珍しい叙事であるだけに、このテーマに関する国内の先行研究は皆無に近い状況である。著者は膨大な日本語の史料と手記をはじめとした綿密な調査をもとにしながらも、簡明で親切な筆致をもって読者の前に立った。

中国は他の戦勝国に比べて戦犯裁判時期が遅れた。1956年特別軍事法廷で大半の戦犯は不起訴処分で釈放されており、45人のみが起訴され有罪判決を言い渡された。死刑囚も無期刑もなかった。極刑を受けて処刑された人がいなかったというのは、他の戦勝国での日本人戦犯裁判と大きく異なる点である(38頁)。戦犯に対する前例のない礼遇と寛大な判決に憤慨した中国人が多かったが、戦犯管理の総責任者だった周恩来は「制裁や復讐では憎悪の連鎖を断ち切ることができない」(『人民中国』2015.9.14)と強調した。では、撫順で戦犯たちはどのような待遇を受けたのか。

撫順に移送された969人の戦犯が最も驚いたのは、破格の待遇であった。管理所の職員は黍飯を食べるのに、自分たちには白米飯と肉と野菜のおかずが与えられ、強制労働もなかった。十分な自由時間が与えられた戦犯たちは「日本軍現役時代やシベリアでの抑留期間にはただ生き乗ることに必死だったが、中国に来てから余裕時間が多くできて、初めて自身の過去や人生について真剣に考えるようになった」(222頁)と語る。

戦犯たちは帰還後、証言を行い、手記を集めて出版した。中国の被害遺族を直接訪ねて謝罪する人もいた。それは大多数の日本人とはまったく違う行動だったといえる。戦争と植民支配に対する責任を問わないまま、経済開発に没頭した時代を経て、侵略の歴史を否定する歴史修正主義という伏流が、1990年代半ば日本社会の表面に湧き上がってきた。しかし、同時期に中帰連は主流社会ではあまり見られない「加害者の語りと書き」を通じて、「戦争責任」を問い、季刊誌『中帰連』を発行して歴史修正主義に対抗する声を上げ、自衛隊の海外派兵など「現行の戦争」も反対する異質的で独自の取り組みを見せた。

虐殺劇を行いながらも、いかなる罪意識も感じなかった日本人戦犯たちが、どのような契機で自分たちの誤りに気付くようになったのだろうか。加害者の変化を説明するために、著者が取り上げた事例の一つである富永正三は、どうせ死刑になるだろうと思い、1-2時間で主な罪をすべて書いて提出したという。それに対して、管理部長だった金原は、「これは坦白書ではない」と言いながら、「坦白とは苦悩に満ちた激烈な自己闘争の末、深刻な反省の上」で可能なことだと叱咤し、富永は一週間で20枚の坦白書を再提出した。彼は、上官の命令に従ったことだったとしても、人命を殺傷した実行者としての責任を避けることはできず、その責任を避けようとする者は命令者を批判する資格もないと考えるようになった(207-209頁)。 

戦犯たちは「坦白」を通じて自身の経験に対して、遅れながらも「参加」することができた。しかし、自身の加害行為を公開することは非常に怖いことであり、残虐行為の認めは社会的烙印を自ら招くようなことである。それゆえ、その苦痛に耐えきれず、自殺した人たちもいた。加害の「記憶」を語るということは、加害「事実」に対する証言とは違うレベルのものであり、自身が誰かを抑圧する側にいたことを後で自覚し、それ以上の加担を拒否する時に初めて意味がある。「誤りに気付くことのできる人」であるということを公的な場で語ることによって、加害者たちの語りは「尊厳の宣言」となる。

著者が、戦犯を教育する管理所職員の経験も見落とさなかったという点も注目できる。戦争が終わり、逆転した権力関係の中で戦犯たちとともに暮らすようになった職員たちは、日本軍に家族が殺されたり、そのような暴力から生き残った中国人や朝鮮族であった。日本人戦犯たちが「認罪」と「坦白」に至ったのは、700人に上る東北工作団が尋問と調査に投入された企画の成果でもあったものの、その土台を作ったのは実際戦犯と一緒に生活した管理所の職員たちであった。そのうち、戦犯たちの手記によく登場する名前は金原、オ・ホヨン、チェ・インゴル、張夢実であるが、彼らの中、前の3人は朝鮮族である。戦犯の引継ぎ段階から通訳をはじめ、管理所長の場に上った金原は、後日「戦犯改造が自らを改造する過程でもあった」(163頁)と明らかにしたことがある。彼は撫順に赴任した後も当分の間心の葛藤がひどく、そこから抜け出すために抗米援朝戦争(朝鮮戦争)に義勇軍として出させてほしいと要請するほどであったという(175頁)。

このように戦犯たちが加害行為を認め、それに対する省察にいたるまでの過程には、「報復」でない「異なる」関係を作ろうと孤軍奮闘した管理所職員たちの努力が染みついている。撫順での改造は「相互間に」行われるものであった。しかし、日本人戦犯たちは帰還後日本各地で中帰連活動をしながらも、加害行為や謝罪の対象を「中国人民」または「中国」に限定する。中帰連40年の歩みを記録した本でもオ・ホヨンの素晴らしい人間像を言及しながら、「中国人民の偉大さに圧倒された」と書いている1 。最も近いところで生活した朝鮮族職員たちが日本語通訳をする状況に対する植民地的想像力の欠乏は、彼らの守ろうとした責任が戦争を越え、植民地にまで届かなかった限界を表すことでもある。 

中帰連の限界を語る際、1992年から組織的なレベルで始めた「慰安所」に対する証言を欠かすことはできない。2000年東京女性国際戦犯法廷で証言した日本軍加害兵士2人も中帰連所属であった。彼らの活動は重要な意味を持つが、中帰連全体成員の中、「慰安婦調査カード」作成要請に応じた会員は15%に止まったという2 。このような反応は当時戦時性暴力が「加害」または「暴力」として認識されていなかった限界を反映するものとしてみることができないだろうか。

本書には戦犯管理所をめぐる男性の叙事に微細な亀裂をつくりながら、たまに女性たちの話が登場する。収監中脳血栓で病床にいた戦犯を介護した看護師、日本赤十字社看護師として戦争に動員されたが、故国へ帰れなかった人たち、日中間政府の接触がなかった1952年に、民間交流のスタートを切った高良とみ、中華人民共和局初代衛生部長官になって日本を訪問した李徳全、戦犯処理の総括を担当した初代司法部長の史良、残酷な拷問を受けても仲間を密告しなかった朝鮮の女性戦闘員と日本人戦犯の妻たちまで。今も伝えきれないまま紙面の外でざわめく彼らの言葉は、著者が渡してくれた名前や事件一つひとつを手掛かりとして、本書を読んだ誰かがくみ上げる、到来する歴史である。

本の後半部では中帰連の解散と同時に、後続世代が「撫順の奇跡を受け継ぐ会」を結成し、埼玉県川越市の倉庫を借りて、中帰連平和記念館を建てたと紹介されている。そこには膨大な関連資料が保管されている。証言できる当事者たちが一人も残らない日が来ても、撫順で戦犯たちと管理所の職員たちが築き上げた「異なる」関係の痕跡が込められた記録物は、まだ語られていない「異なる」話が始まる起点となるであろう。

 

 

  1. 藤井武「加害経験を語るということ:日本の中国帰還者連絡会の事例」『ベトナム戦争時期における韓国軍による民間人虐殺真相究明のための市民平和法廷資料集』2018、52頁。
  2. 中国帰還者連絡会編『帰ってきた戦犯たちの後半生』新風書房、1996、667-71頁。