〔対話〕 気候危機と体制転換 / 姜敬錫·金善哲·鄭建和·蔡孝姃

 

創作と批評 190号(2020年 冬)目次

 

姜敬錫(カン・ギョンソク)文学評論家。本誌編集委員。

 

金善哲(キム・ソンチョル)社会学者。「気候危機緊急行動」執行委員。

 

鄭建和(チョン・ゴンファ)経済学者。韓神大教授。共著に『朝鮮半島経済論』など。

 

蔡孝姃(チェ・ヒョジョン)政治学者。『今日の教育』編集委員。著書に『大学は誰のものか』など。

 

 

姜敬錫 (司会)1年が終わりますが、コロナ禍の事態が収束する気配がありません。『創作と批評』は今年、コロナ禍にかかわる多様な企画をしてきましたが、この災害が環境破壊による気候危機の問題と不可分の関係にあるという事実には、内外の専門家も一般人も関係なく、共通理解が形成されていると思います。コロナ禍の事態が、気候危機という、差し迫った、より巨大な危機のリハーサルにすぎないという議論まであるほどです。いまや、これらの危機を引き起こした資本主義世界体制を転換せずして、解決は困難であるという認識が重要でしょう。今号の「対話」では、気候危機と体制転換という問題を、私たちの現実を中心に取り上げてみようと思います。最近議論された「韓国型グリーンニューディール」も考えてみると、そのイメージとは異なり、気候危機への対応というよりも、既存の秩序における産業再編案や新成長動力として示された状況なのですが、市場主義が生み出した危機が、市場的な解法で解決可能なのかについて疑義が少なくありません。そこで、気候危機と体制転換の問題を韓国の中で熾烈に検討し、また行動してきたお三方をお招きしました。本格的な対話に先立って、読者のみなさんにあいさつも兼ねて、各自の最近の興味や問題意識にについて、簡単にご紹介頂ければと思います。

鄭建和 経済学を研究する立場から、気候危機に対して経済学者たちの責任が大きいと考えています。気候危機は明白な事実ですが、経済学者が発言しなければ非現実的なものになるという気もします。ですから、経済学者として、気候危機の時代にふさわしい代替的な経済を、積極的に模索すべきだと反省しています。もともとは労働経済学を専攻しましたが、安山地域の産業団地、始華湖の汚染問題、移住労働者の問題など、地域社会の研究をしていて、地域の場所性や地域経済の活性化に関心を持つようになり、「ローカルが代案」であると考えるに至りました。「経済学の生態的転換」について検討しています。

蔡孝姃 私は政治学の中でも政治哲学を専攻していますが、生態政治・生命政治を研究しながら、自然と気候危機に関心を持つようになりました。生態問題の代替的な見通しがなければ、学術的な展望すらできなくなるような状況でもあります。特に数年前に江原道の農村に生活の根拠地を移し、このような問題についてより緊急かつ切迫して体感することになりました。理論的にも実践的にも自分の道を模索しながら、このことについて発言を続けています。

金善哲 アメリカで社会運動を学び、グリーンニューディールが巨大な社会運動に成長するのを見てみました。2010年代を通じて下からの運動が高揚するのを見て、気候の問題が今後、私たちの運命を決定する重要な問題であると考えるようになりました。ですが、社会運動を教えるだけでは限界を感じています。なので「デモをしよう」と思って帰国しました(笑)。ちょうど1年経ちました。現在は「気候危機緊急行動」や「エネルギー労働社会ネットワーク」のような組織で働きながら、エネルギー転換の問題、また近年、なかなか議論が進まない公共性の問題に関心を持っています。

 

私たちは気候危機をどう認識するか

 

姜敬錫 お三方の共通点と相違が適切に配分されているという感じで、今日の対話がより一層楽しみです。コロナ禍は人獣共通の感染症で、無分別な開発が生態系の撹乱につながって発生したという共通理解があります。ですが、このような問題意識を持った人が少なくないにもかかわらず、カリフォルニア州の山火事のような大型の災害が起こっていないからか、韓国国内の体感や実感の程度はかなり低いと思います。専門家たちも海外の事例をより多く引用しているだけなのが実情です。

金善哲 事実、気候危機についての韓国人の認識レベルはかなり高いです。世論調査をみると、80〜90パーセント以上が気候変動は実在すると応答していて、それが大きな脅威になるだろうし、その問題を作り出したのは人間であると考えています。アメリカやヨーロッパの一部の国では、気候変動自体を認めない割合の方がはるかに高いんです。ただ問題は、おっしゃるように体感度が低いためか、韓国人たちが行動と実践に出ないんです。このような実践がお金になるわけでもなく、子供たちをいい大学に進学させられるわけでもありませんからね。下からの声はようやく少しずつ出てきている状況ですが、政府などの上からの声も、その深刻性に対する認知が欠けています。国際的な規範があるので言うことは言いますが、実際の行動がほとんどありません。韓国に大型災害がないとおっしゃいましたが、韓国はすでに気候の危機を深刻に経験しています。今年の夏、歴代最長54日間の梅雨が続き、漢江が氾濫する危機に陥りました、山火事も90年代に比べて発生頻度が10倍以上高くなりました。世界中の平均気温が1800年代後半より1℃しか上昇していないのに、このように大騒ぎになっているわけですが、韓国は1912年に比べて1.8℃上昇しました。2倍近く上昇しているのに韓国に被害が少ないのは、四季がはっきりした温帯地域で年間気温の変動幅が大きいからであって、他の理由はありません。韓国は夏より冬の気温上昇の方が大きいのが特徴ですが、去年の冬は例年より平均3℃が高かったんです。そして、冬に死んでいなければならない昆虫や虫の卵が生き続けて春に拡散しました。このように多くの問題があって、今後も続くでしょうが、問題に対応するレベルが低くて大変です。

蔡孝姃 私の住む江原道の麟蹄では冬に川が凍ります。人が歩いて渡れるほど、冬の間は完全に凍りつきます。ですが、昨年は本当にたったの1日も凍りませんでした。当然のことながら、今年、病虫害の被害がものすごく大きかったです。私もブルーベリーの栽培は完全にダメで、近隣の農家も作物に関係なく不作でした。稲作の収穫量も20パーセントほど減少したといいますから、このような体感度が都市地域とはかなり違います。韓国人は気候危機に対する認識レベルが高いとおっしゃいましたが、それも都市と農村地域との間の認識と感覚の違いはかなり大きいと思います。この社会を動かすためには、すぐに大きな災害でも起きるべきですが、都市では「1.5℃の変化」を、頭ではわかっていても、すぐに解決すべき問題として体感することはありません。それでも今年は50日以上梅雨が続き、都市地域でも気候変動を感じましたが、逆に50日以上雨が降らなければ、都市の人々はこのような変化について認識することはありません。ソウルでは、雨が降らない日は野外活動にいい日かもしれませんが、農村で雨が50日降らなければ大変なことになります。目の前で作物が枯れていくのを見ていなければならず、水をやるのもなかなか大変な仕事です。ですが、公論の場ではこの危機感があまり拡がりません。いわゆる「インフルエンサー」といわれ人たち、新聞にコラムを書く人や研究者たちも、ほとんど都市に住んでいますからね。市民社会の活動が、主として専門家中心のフォーラムや討論会のような形に偏重しているのも問題です。私はこのことが、労働・民衆陣営の実践力が粉砕されつづけてきた結果だと思いますが、ですから、戦いの現場を作ったり組織化したりできないんです。アメリカは石油パイプライン闘争を通じて、グリーンニューディールのような巨大言説につながっていったのに比べて、韓国は済州第2空港反対闘争など、地域レベルでの戦いはありましたが、このような抵抗が気候危機という議題とあまりつながっていません。

姜敬錫 都市でも野外の労働者たちは、気候変動をより直接的に体感するようです。

蔡孝姃 酷寒や酷暑に最も弱いのが労働者たちです。1年に2400人余りが労働災害で死亡しますが、猛暑の日や酷寒の日に屋外で働いて死ぬことが本当に多いんです。洪水になったり火事になったりしても、貧しい労働者がより大きな被害を受けるというのが事実です。気候危機は経済危機にも直結するので、労働者にはすぐに解雇と失業の危機として迫ります。だとすれば、グリーンニューディールを労働者の安全装置にすべきという議論が出てきてもよさそうですが、韓国のグリーンニューディールは、過度にエネルギー政策に狭小化されていて、「赤と緑の同盟」の言説になることはなかったようです。

姜敬錫 国内的な体感も問題ですが、世界的に見れば、G20諸国の温室効果ガスの排出量が全体の80パーセントを占めます。だとすれば、そこに韓国の責任もかなりあると見るべきです。

鄭建和 私たちが高度成長を遂げたのは確かですが、その結果として、気候「悪党」国家になったのも明らかです。これは複数の指標を通じて確認できますが、PM2.5の排出量、1人あたりのプラスチック消費、毎年処分する動物数だけを見ても簡単にわかります。文在寅政権がグリーンニューディールを語っている最中にも、韓国電力公社はベトナムにものすごい規模のブンアン第2石炭火力発電所を建設することに合意しました。そして韓国の公的金融機関や大企業が国外にすでに建てたり、あるいは建設中の石炭火力発電所は数十か所にのぼります。にもかかわらず、気候変動や環境の危機に対する認識はなく、1970年代に比べて鈍くなったようですが、私はこれを「生態文盲」(ecological illiteracy)と表現します。韓国だけがそのような状況なのではなく、世界的な現象です。すでに1960年代にレイチェル・カーソン(Rachel Carson)の影響でDDTの使用が中断されるなど、「相互に関連する生態系」という認識が形成されましたが、2000年代に入って気候変動が一層深刻になったにもかかわらず、むしろこれを否定する流れが強まりました。アメリカ、イギリス、オーストラリアなどで実施した世論調査の結果で、「化石燃料の使用が気候変動をもたらす」ことに同意する割合が、2000年代に入って減少し続けています。気候変動がもたらす深刻な災害を予防することは不可能であると考え、システムがほぼ崩壊した後に、この危機にどう適応するか備える方がいいという主張が提起されるのも、このような理由からのようです。このためには単に環境教育を強化するレベルでなく、生態的・文明的な転換が必要ですが、そう簡単ではありません。特に韓国社会は経済成長主義の言説が圧倒的です。

 

韓国型グリーンニューディール、「下から」評価すると

 

姜敬錫 お三方のお話しを聞きながら、現在、私たちに迫った気候危機の兆候自体も問題ですが、その実感を阻む環境的・構造的な要因が少なくないという事実にあらためて痛感します。気候危機の認識の話が出たついでに、韓国政府の認識についても点検する必要があるでしょう。そのようなレベルで、冒頭に言及した韓国型グリーンニューディールについて、お三方の評価を聞いてみたいと思います。最初は人工知能で分析・活用可能なあらゆる情報を、教育と産業のための社会間接資本として共有する「データダム」中心のデジタルニューディールだったのですが、それが、太陽光、風力など再生可能エネルギーや電気自動車産業を育成して、多量の雇用を創出するという、現在のグリーンニューディールに話が拡がったわけです。この議論は、中央政府レベルで「上からの」議題として投げられましたが、地域や大多数の民衆の観点、つまり「下からの」視点から評価する必要があるでしょう。

蔡孝姃 政治学の観点で、韓国型グリーンニューディールはすでに失敗したと見ることができます。労働がなく、女性がおらず、生態がないからです。労働政治、女性の政治、生態政治に拡らず、経済政策のレベルでのみアクセスすれば、単なるエネルギー転換計画や産業構造の変化に過ぎません。結局、過去の「グリーン成長」のように、「グリーンビジネス」という名で再び市場と企業が独占して主導するモデルになっていきますが、そうなると不平等が解消されるどころか、格差拡大がさらに深刻になり、エネルギー主権さえ資本に依存するリスクをもたらすでしょう。

鄭建和 本当に大きな問題です。特に中央政府レベルの認識改善が急務です。去る10月17日に長期低炭素排出戦略の策定のための国民討論会がありましたが、その時、青年たちが壇上を占拠しました。その核心的な理由は、2050年までに二酸化炭素の排出量を純排出量「ゼロ」にする、中央政府レベルの意志と対策がないというものでした。その一方で、地域レベルでは、それでも意味ある努力が見られます。たとえば、ソウル市とソウル市教育庁は昨年9月に生態転換のための共同努力を宣言した後に、グリーンニューディール・炭素排出ゼロ・生態転換教育5か年計画を発表するなど、安定した動きを示しています。その他にも「ローカル」のレベルでは、水原、全州、城南など多くの自治体が、資源循環、再生可能エネルギー、地域循環経済など多様な議論を展開しています。

金善哲 中央政府とともに地域や自治体の役割が重要なことは明らかです。たとえば光明市は、2050年脱炭素を目標とする「光明型グリーンニューディール」を打ち出し、九里市の場合には、2030年まで炭素排出量を半分に減らすという、より積極的な計画も立てました。ただ、このような計画が肯定的で、地域の役割を奨励すべきことも確かですが、そのような面だけが強調されることで生じる錯視効果には警戒すべきだと思います。実際に「産業」と「エネルギー」から排出される炭素が3分の2以上ですが、これは結局、中央政府の所管であるため、気候危機対応のレベルで見れば、地方政府の裁量の領域はほぼないのではないかと思います。ですが、やたらと地域主導で何かうまくいっているという錯覚効果を狙っているのかもしれませんが、大統領も自治体の役割を強調し続けます。同時に、韓国の気候政策の言説が、一人ひとりの実践のレベルに任されてしまった側面もあります。ソウル市の場合、エネルギー節約運動の一環として「原発一基削減」の方針を進めて話題を集め、結局、原発1基分の生産電力量の消費を削減したりもしました。エネルギー消費量を削減することは重要ですが、大きな展望のなかで考えれば、ものすごい躍進であると考えるのは困難です。別の錯視効果の事例は済州島でも見られます。現在、再生可能エネルギーの使用の割合が最も高いところも済州ですが、炭素排出の増加率が最も高いところも済州です。単に電気自動車に多く乗って、再生可能エネルギーをより多く使うからと言って、炭素排出が少なくなるわけではないということです。なので、いくら地域が重要であるといっても、地域で何ができるのかをまず明確にし、次にその役割を語るべきであって、自治体やガバナンスだけが強調されれば、気候危機対応のレベルでは問題が生じざるを得ないと思います。

姜敬錫 蔡孝姃先生は、韓国型グリーンニューディールに、労働、女性、生態がないとおっしゃいましたが、それとともに地域に対する考慮もないという評価になるでしょうか。

蔡孝姃 「ローカル」という概念は「グローバル」に対抗する領域で、反グローバリゼーション、反ネオリベラリズムの意味を包括するものですが、現在のローカルの概念は、このような対抗空間としての政治的想像力を育てるというよりは、単に各行政単位をポリシーの実行単位として、自治体レベルの計画を樹立しろという流れだけがあって、とても懸念されます。このような形では、むしろ中央がとるべき責任が回避されるだけで、肝心の実践はより困難になる場合も多いと思います。地域には地域で「地方の土豪」のような人や既得権勢力がいますからね。結局、労働者や民衆が主導しないグリーンニューディールだと、地域で始めても中央で始めても、市場に依存する問題が同様に見られるだろうと思います。むしろ不透明性や非計画性は地域の方が高いとも言えます。「それはその地域の問題」というように他者化される可能性もあります。そのために、階級的連帯の観点が地域の連携でも必ず必要で、そのような観点から国家全体の計画を樹立する包括的な枠組みにつながる必要もあるでしょう。

鄭建和 ニューディールは大きく3つの内容を含める必要があります。当面の経済危機を直接解決する緩和政策(relief)、経済を軌道に上げる回復政策(recovery)、および基本的な構造を変える改革(reform)が必要です。現在、議論されているグリーンニューディールはこのような面が明確ではありません。特に改革方向についての内容があまりに不十分で、社会全体の多様な参加のための提言もありません。ですが、1つの方向がすぐに作られないのであれば、たとえば労働界も、正規職と非正規職プレカリアート(precariat)の声をともに反映させるべきであり、多様な経済利害の関係者の声を取り入れる努力をするべきでしょう。もちろん地域に「土豪」といわれる、依然として大きな影響力を行使する利益集団が存在しますが、最近の十数年間は、いわゆるガバナンス(協治)の成果が蓄積されています。このような草の根の生活政治の領域で成長した政治家たちも存在します。私はここに希望があると信じています。地域住民も市民社会も、いまや行政と協力する試みが必要と考えています。運動と行政の持つ力を結合しようということですが、転換というのは、覚醒した市民一人ひとりでできることではないからです。たとえばドイツが太陽光発電に投資したとき、一定の所得が保障される価格・補助金政策を施行しましたが、このような裏付けがあったので、普通の市民も退職金で各家庭に太陽光発電を設置することになったのです。

蔡孝姃 にもかかわらず、地域レベルで克服できない問題が多いのは事実です。あらためて申し上げるならば、体制転換の主体が企業と資本でなく、労働者や民衆であってこそ、このプロジェクトが本来の趣旨に合わせて、安定的に可能になるということです。現在のように労働者が転換の過程で犠牲になることが不可避の、付随的な被害者程度に扱われて、救済・被害の補償策だけが議論されるようであれば困ります。また、アメリカの1930年代のニューディールプロジェクトが成功したといいますが、実際にはかなり家父長的な方式でした。女性を家庭に回すことで労使が妥協するなど、女性を排除する方向だったために、企業労働者の権益増進が、他の存在に対する差別や不平等を作り出しました。現在「グリーン」と名付けて、あらためてニューディールをやるならば、このような誤りを繰り返してはならず、過去のニューディールが排除した人たちを、転換の主体として呼び戻すべきです。単に「グリーンニューディールをしよう」ではなく、どのようなグリーンニューディールで、どのように転換するかを明確にして、その方向に対する議論も多く作っていくべきです。そうでなければ、生態のためにエネルギー転換をすると言いながら、むしろ生態を破壊する形で開発が進むこともあります。たとえば、大企業が大規模な太陽光団地を誘致することで、むしろ環境破壊が拡大してしまうようにです。

 

気候危機と分断体制

 

姜敬錫 お三方とも強調されたように、どのような転換かという問題を語るとき、常に争点になることの1つが、地域についての議論だと思います。ですが、韓国で気候危機を議論するときに最も欠落する地域は、おそらく休戦ラインの北側でしょう。韓国型グリーンニューディールも韓国に限定される傾向があります。体制転換を語る場では、結局、成長主義や資本主義の問題に触れなければなりませんが、その瞬間、分断体制がそのような議論の進展を政治的に阻みました。韓国の気候危機への対応は、究極的に体制転換を要請する大多数の社会的・言説的実践がそうであるように、分断体制という障害にいつかは直面せざるを得ないでしょう。ある意味ではすでに当面の課題になっているという気もします。

蔡孝姃 おっしゃられたように、韓国では、気候危機に対応するときも分断体制が大きな足かせとして作動します。気候危機と労働危機と戦争危機の主犯は、実際には企業と資本であって同一犯です。大きな枠組みで転換を実現するためには、分断体制という私たちの特殊条件を克服しなければなりません。戦争体制の上で生態社会を実現することは不可能です。急進的な社会運動が下から起きないのも、戦争の経験が政治的想像力を封鎖し続けるからでもあります。フランス・パリ市長のアンヌ・イダルゴ(Anne Hidalgo)の果敢な緑色都市政策がよく紹介されますが、彼女が社会主義者であるということは誰も言いません。「きちんとした自転車道路を持ちたければ社会主義者に一票を」というような話は、韓国社会ではできません。そのようなことが分断体制なのだと思います。その意味で、韓国型グリーンニューディールを今の朝鮮半島のレベルに拡大適用すれば、一種の植民化プロジェクトになる可能性があります。たとえば、今、産地や農地に太陽光発電団地が入って、いくつかの問題が起きていますが、もし南北関係が改善されれば、このような「苦情誘発型事業」が、北朝鮮で進められるだろうと十分予想できます。北朝鮮に「エコシティ」を建設するという、それらしい名分を作ることもできますしね。しかし、先進国の資本と技術、後発国家の資源と安い労働力という図式を、これからは転換すべきです。この植民主義的な方法が、絶えず地球を破壊してきた要因であるということを、朝鮮半島の中でも反省しなければなりません。

金善哲 実際に少し以前に、国会で「非武装地帯(DMZ)グリーンニューディール公園南北経済協力のパラダイム」という集まりがありました。そこで、DMZに太陽光の新技術を適用して、北朝鮮の4400以上の農場に電気を供給しようという話も出ました。いい趣旨ではありますが、これが平和目的でなく、資本が北朝鮮への進出を狙った計画ではないかという懸念もありました。北朝鮮のことを、安価な労働力が豊富にある、原料産地とのみ見ることがあまりにも多いですからね。また、このような議論も一皮むけば、北朝鮮に埋蔵された稀土類やコバルトなどの稀少鉱物を、どれほど多く持って来られるかという問題と関連することになるでしょう。気候危機と分断体制をつなげて考える、もう1つのポイントは、韓国がエネルギー的に島のようなものだということです。国境を接している国と互いのエネルギーを送・受信できません。ヨーロッパのエネルギー政策が柔軟に可能な理由は、周辺国との間でエネルギーのやりとりが可能だからです。エネルギーの需要・供給の問題が発生すれば、一国レベルではなく、はるかに大きなエネルギーネットワークを利用できなければなりませんが、今、私たちには、北東アジアのエネルギーネットワークを利用する可能性が封鎖されています。このような議論がまったく進んでいませんが、いつかは避けられない問題だと思います。

蔡孝姃 必ずしも直接交流でなくても、すでにいくらでも、北朝鮮に対して資本のバイパス投資が可能だというのも問題です。南北関係が悪化していると言っても、資本は邪魔されずに中国などを経由して北朝鮮に投資することができます。特に金融資本がインフラを先占することになれば、非常に憂慮すべき状況がもたらされる可能性もあります。

姜敬錫 懸念すべき点が多いのは事実ですが、気候危機を解決するための共同の努力を通じて、分断体制の克服に寄与するとか、あるいはその反対方向のアイデアが導出される可能性もないでしょうか?

鄭建和 ニュージーランドで川の所有権を川に与えたという記事を読んだことがあります。自然を権利主体として考えて法的権限を付与したものですが、その法哲学的な根拠は「地球法」(Earth Jurisprudence)です。地球法は、法が地球と地球共同体のすべての構成員の安寧を保障すべきという考えに基づいた、ガバナンスに関する新しい哲学です。興味深く重要な点は、自然に法的権限を付与する急進的な試みが、現実の問題を解決するために一助したということです。実際にニュージーランドで、原住民と政府が国立公園地域の所有権をめぐって長年争いましたが、それを解決するための過程が「川の所有権を川に」付与したことです。ニュージーランドの法学者クラウス・ボセルマン(Klaus Bosselman)が2019年に訪韓して、DMZを韓国のものでも北朝鮮のものでもなく、DMZ自体のものにしたらどうかと提案しました。どちらにも属さない、朝鮮半島の腰のような区域に地球法的な観念を適用して、南でも北でもない平和の空間、自然の生態系保全の空間にするのもいいだろうと思います。分断体制を転換する地球法的な思考とでも言いましょうか。また、現在の南北関係において、北朝鮮に何かを強要するのは本当に難しいですが、韓国が気候危機にどのように対応するか、どのようにエネルギーと産業の転換を成し遂げるのかが、結局は北朝鮮にも影響を及ぼし、長期的に朝鮮半島の生態的な転換を作り上げていくキーになるだろうと思います。

金善哲 パリ協定以降「削減」と「適応」が課題として浮上しました。温室効果ガスをいかに削減するか、そして気候危機という災害にどう適応すべきかが問題になったわけです。事実、北朝鮮はすでにかなり制裁を受けているため生産性が低く、削減はさほど心配ありません。しかしながら、適応においては困難が大きいでしょう。今回の洪水で大きな飢饉を経験したようにです。私はこういう時の人道主義的な交流が、南北関係の輪になりうると思います。ただ、韓国でも適応が正しくされていなければ、そのような交流も遠いものになるでしょう。人道主義の交流が「資本の侵奪」にならないためには、韓国内における改革や体制転換が同時に行われなければなりません。

鄭建和 積極的な代案を見つけて拡散する努力が必要です。たとえば、ブラジルのクリチバ市の公共交通体系や、コスタリカの生態保全のための政策など、南米諸国に優れた事例が多いと思います。農業でも、土壌を損なうことなく、生態系の原理を反映したパーマカルチャー(permaculture、多作経営)のような代替的なモデルがあります。このような代案が私たちの中で成長し、既存の利潤経済と共存または競合するほど、南北交流の可能性も高まると思います。ジェレミー・リフキン(Jeremy Rifkin)のいう「協力的共有経済」(collaborative commons)もまさにそれで、現代資本主義の成果であるコミュニケーション・エネルギー・物流・インターネットなどの「グローバル神経ネットワーク」は、ほとんどの財とサービスの限界費用を「ゼロ」に収斂させ、資本主義的生産や配分において、市場と利潤経済の領域を縮小し、グローバル共有資源の領域を拡張させるだろうと楽観的に見通しています。今後の南北関係を考えるときにも、このよう技術的・経済社会的条件と代案を考慮する必要があるでしょう。

姜敬錫 分断体制下の韓国は、そのような代案の自由な競合を十分に許す空間ではないというのがネックですが、金善哲先生が紹介して下さった、北東アジアのエネルギーネットワーク構想や、鄭建和先生がおっしゃった非武装地帯の生態保全、パーマカルチャーなどのアイデアが、逆に突破口になりうるだろうという気もします。もちろん、分断体制を克服する気候危機が自然に解決されるわけではなく、その逆も同様でしょうが、両者が互いの糸口になる可能性は十分あるように思われます。

蔡孝姃 おそらく「適応」の代案は北朝鮮の方に多いかもしれません。私たちはむしろ「農業が発展したために」、いまや電気がなければ農業もできないほどになりました。現在、グリーンニューディール事業として進められている「スマートファーム」が拡大するほど、このような電気依存型の農業はより深化するでしょう。北朝鮮は肥料・農業機械・電力不足で否応なく有機農法を維持していると思います。そのような経験を見ていれば、学ぶこともあるのではないでしょうか。必ずしも巨大技術だけが代案ではありませんからね。たとえば、今回のコロナ禍の事態でも、医療物資や高級機器が途方もなく不足しているキューバの方が、むしろ西欧諸国よりもいい対応を示したようにです。

鄭建和 体制の規定力の中で、北朝鮮モデルを受け入れにくいというのが分断体制のコストですが、そうなればなるほど、自然の生態系の中で、哲学的・科学的な認識を結び付ける答えを北朝鮮に見出し、これを新たに言語化して提示する必要があると思います。たとえば、おっしゃられた有機農は、フランクリン・キング(Franklin King)という農学者によって最初にアメリカで導入されましたが、当時、彼が東アジアを訪問して書いたのが『4000年の農夫たち――中国、韓国そして日本の永続農業」(Farmers of Forty Centuries、1911)です。元祖であり模範として東アジアを紹介したもので、100年を超える本がいまだに世間の注目を引くのは、生態的農業、持続可能な農業のための関心が継続的に必要だからです。北朝鮮が保存している現在の有機農業も、このような形で新たに導入されうるという気もします。

 

脱成長あるいは適正成長はいかに可能か

 

姜敬錫 韓国型グリーンニューディールが、肝心の「グリーン」がない、資本の新たな成長モデルに過ぎないので、これを朝鮮半島のレベルで適用する場合、北朝鮮に対する植民化プロジェクトに過ぎなくなるだろうという蔡孝姃先生の指摘がありました。よく考えてみると、このような限界は、さきほども述べましたように、成長主義的な発想から脱却できないがために生じるものだろうと思います。このような問題意識から、最近、韓国内でも、脱成長の議論が活発化しているようです。しかし、これをどう実現するかというレベルで「適正成長」という概念も導出されました。生産性の向上をいますぐ全面的に放棄する場合は、脱成長はおろか、むしろ「略奪的蓄積」の標的になる事態が起きるかもしれないからです。各国の現実において、脱成長の目標をいかに設計するかによって、その時々の適正成長の段階を配置する様相も変わるでしょう。もちろん、脱成長自体も自明の概念ではないので、まずは整理が必要だろうと思います。

金善哲 「脱成長」を生産性の量的な増減管理の問題として見るか、または質的な転換の問題として見るかによって、いくつかの区別が可能だと思います。たとえば「適正成長」「適正発展」という用語は前者に対応するでしょう。この地球上で、私たちが生存可能であるためには、量的にどの程度を取るのが適正かという管理のレベルで考えてみようというものです。一方、後者としては、どれだけが適正かという議論自体が無意味になります。哲学的なレベルで、今の過剰生産・過剰消費に基づいた経済体制から脱却しようという意味ですからね。脱成長の議論において、収縮(contraction)と収斂(convergence)という原則が提起されますが、生産・消費・炭素排出量が「収縮する過程」と、裕福な国とそうでない国の間の経済力のレベルが「収束する過程」が、同時に進むべきであるということです。「脱成長」のために「貧しい国も発展するな」というような事態はあってはならないということです。もちろん、規範的レベルと具体的な政策のレベルは異なります。これまでの成長を維持しながら炭素を削減することはできません。たとえば、文在寅大統領のカーボンニュートラルの発言だけを見ても、経済成長の基調に対する省察もなく、2050年のカーボンニュートラルだけを語っているので、これは目標ではなく宣言に近いと思います。カーボンニュートラルを言葉では語っていますが、これを守ろうという法的な制度の準備どころか、具体的な計画すら見えずにいます。誰も責任を取ろうとしません。国際的な勧告である「長期低炭素発展計画」(LEDS)を詳細に準備する必要があります。これよりも強力な義務事項として、国連の「自発的貢献」(INDC)があります。これは締結国の政府が2030年までに必ず減らす温室効果ガスの削減目標であり、法制化の義務もあります。気候変動に関連する「政府間協議体」(IPCC)によると、2050年のカーボンニュートラルを達成するために、韓国は2030年までに温室効果ガスの排出量を45パーセント削減しなければなりませんが、現在、政府の計画では18.5パーセントで勧告の半分にもなりません。事実、45パーセントの削減を可能にするレベルの成長がまさに「適正成長」でしょうが、経済指標の上ではマイナス成長になるので、すぐに選択することができないのです。これについて活動家たちは、産業構造と経済を口実に、温室効果ガスの排出削減を先送りにしてはならないと主張します。これは生存の問題なので、今、最も切実な目標である、産業とエネルギー構造をどう変えるかを考えるべきと声高に主張している状況です。

姜敬錫 ですが、おっしゃられたマイナス成長を現在の状況で仮定したとき、当然ながら即時の影響があるでしょうし、階層的には、その強度が下部に集中する危険があるのではないでしょうか。

蔡孝姃 適正成長や適正発展は「持続可能な発展」のような一種の妥協的用語だと思います。生態的にはすでに地球経済は成長できない状態になって久しく、資本主義経済の算法でも成長できる限界を過ぎました。無限に成長できるのは貨幣しかありませんが、すでに死んだ経済を金で延命させているだけなので、現在の金融資本主義を「ゾンビ資本主義」ともいいます。私はそのために成長を停止し、積極的にそこから脱却する目標を立てるべきで、そのためには、成長言説の質的転換が必要だと思います。脱成長がまさにそのような概念ですが、もちろん対抗言説として成長するにはまだ道遠しです。今、脱成長を主張すれば、それはすぐに低成長・マイナス成長であるとして、経済下降期の苦痛を指摘しますが、事実、それも成長主義から引き起こされる苦痛であり、そこから脱却するときに解消され得ます。脱成長を批判して適正成長や適正発展に誘導するのは、結局「資本主義の他に代案はない」という、体制維持のもう1つのレトリックだと思います。今、私たちが「成長」と呼ぶものは、違う表現をすれば「破壊」です。「適正破壊」「低破壊」は話になりません。脱成長は、成長中毒社会から脱却する価値の変換を試そうということです。これまでの成長方式が気候危機と不平等を引き起こし、多数の人を苦痛に追い込んだ主犯なのですから、成長を中心に設計された既存の指標や算法もすべて変えようということです。もちろん、今の世界経済体制の下では、一国の経済政策で変更可能なものではないので、より幅広い政治的レベルの検討が必要でしょう。国際金融資本を規制する、パリ協定のような国際的なレベルの金融規制の協定も準備する必要があります。これを圧迫するためには、国際的な反資本運動と民衆連帯運動が必要になります。そのためには地域から反資本主義の草の根運動が開始されるべきです。

姜敬錫 脱成長を可能にする条件としての適正成長ならば、大きな枠組みで資本主義の代案不在論とは異なるかもしれません。どのように脱成長に至るかの違いとも言えるでしょう。

鄭建和 脱成長が可能なためには、具体的に2つのことが必要だと思います。指標を新たに作ることと、経済と発展の観念を転換すべきことです。指標の側面ではGDPという国民指標を変更するための試みが長く続いてきました。そのうち代表的なものが「環境経済統合勘定」(SEEA)で、すでに韓国でもグリーン成長が話題として登場した2007年頃から議論されています。事実、韓国は、統計作成の主体が統計庁と韓国銀行に分かれており、このような新しい指標を導入するのがより一層、困難な面があります。さらに「自然資本」(natural capital)、すなわち自然が持つ経済的・社会的価値のように、市場で取引されず潜在的に存在する部分を統計に入れなければならないのでなかなか大変です。しかし、現在の企業会計も100年以上の間に補完され続けてきたものなので、社会的価値を経済的にどう測定するかも、今から議論して反映させることは不可能でないと思います。家事労働やケア労働を経済的に測定したり、企業が創出する社会的価値を算出したりする会計方法が、すでに活発に導入されています。国連やOECDが毎年発表する「幸福報告書」や「生活の質の指標」も、そのような目的のために開発されたものだと思います。韓国でもソウル市を含めていくつかの自治体が条例を作り、幸福に関する指標を開発中です。ですが、より困難なのは経済の観念を転換することです。考え方自体を変えなければなりません、特に政策レベルの転換は一層困難です。新しい問題意識と政策を接続すべきですが、このためには、行政機関・専門家・市民社会が一体となって、科学・人文科学・政策を包括する哲学をもとに、統合的ガバナンスと参加を実質的に構成すべきです。今、行政の縦割りや一方主義、大学教育の分科学問主義が克服すべき緊急の課題でもあります。

 

ならば、いかなる社会に向かうべきか

 

姜敬錫 現在の国際規範に適応するレベルと、何がより真の「成長」なのかについての社会的合意を中心に、新たな目標や指標を設計するレベルが並行する必要があるでしょう。ですが、他方では、社会的代案に関するいくつかのアイデアに人々が興味を持っていても、実行レベルに入ると「それはうまくいくだろうか」と声が小さくなる場合が多いと思います。しかし、コロナ禍の事態が起こって、基本所得の議論が以前になく活発になったりもしました。もちろんコロナ禍は「悪い」契機でしたが、「このまま暮らすことはできない」という思いを多く共有する背景になったりもしました。それとともに、どこかでまったく新しいものを見つけるよりも、すでに出ていたものの活性化されていない代案を、再発掘する必要性も大きくなると思います。それとともに、以前は受け入れられなかったアイデアを実行する時、そのための民主的な意思決定がどのように可能かについても、より真摯に検討すべき時ではないかと思います。

蔡孝姃 政治過程は選挙や議会の中だけのものではありません。しばらく前、ある労組の労働者が気候危機にどう対応すべきか討論する映像を見ました。案の定、グリーンニューディールといえば労働者は解雇されるのではないか、という懸念から表明されました。ならば労働者の立場ではグリーンニューディールに反対して当然ということになるが、1人が「ならば、今後、団体協約にも気候危機を入れるべきだ」と言ってきたんです。そして、工場の電力浪費を減らし、どのようなエネルギーを節約するかを議論したら、炭素排出を削減する協定案で、労働時間の短縮と夜間労働の禁止を提案しました。私はそのシーンがとても印象深かったです。彼らにとっては、安全な労働がすなわち安全な地球を作ることであり、解雇禁止がすなわち気候正義なのでしょう。このような議論が現場の民主主義であり、労働者の政治の始まりだと思います。一般的なアプローチとして、力のある政治家を通じて政策や法を作って目標を達成しようとしますが、現場の動力と下からの力がなければ、政治を圧迫することができません。市民は分裂しており、労働者たちは生活が苦しく、労組は弱い一方で、資本は強大なロビー力で政治を圧迫するので、政策や法がきちんと機能しにくい状況です。ですから、私は、民主主義の強化が気候危機を阻む最善の解決策だと思います。ですが、現在の脱政治化した「脱炭素経済」や「カーボンニュートラル」のパラダイムは、私たちからこのような政治的感覚を剝奪し、むしろ政治を停止させ、危機管理体制を受け入れさせる効果があります。カーボンニュートラルという目標に到達するためには、ものすごい技術と資本が動員されるべきですが、その統制権を労働者民衆が持てない構造ですからね。北半球の企業が炭素排出権を取得しているせいで、南米で既存の森林や耕作地を更地にして、新たにカーボンオフセットの森を造成するので、居住地を奪われた先住民たちはこれを「汚い緑」と呼びます。「プラスマイナスゼロ」の炭素計算法は、現場で起こる政治的な問題を数学的な問題に解消してしまうのです。

金善哲 ヨーロッパでゴミを燃やしてエネルギーを作っていたら、ゴミが商品になるという逆説が発生しました。そのためにゴミを絶えず作り出さなければならないシステムができます。これもまた成長パラダイムの逆説ですが、ここからどう脱却できるかについて検討するべきです。いまや「成長か、生存か」のような新しいパラダイムが必要であり、それに対する要求が、蔡孝姃先生がおっしゃったように、下から出てくるべきだと思います。私たちが通り過ぎてきた過程を振り返ってみると、下から上がってきた言説がなかったわけではありませんが、いい言説であっても政府がそれを吸収して、何か他のものに変えてきたのは問題です。また、削減目標だけが強調されるだけで、気候危機やエネルギー転換の現実が、私たちの生活の中でどのような影響を与えるかについての具体的なナラティブが足りません。チョン・テイル、キム・ヨンギュン、九宜駅のキム君など、すべて死後になってようやく彼らのストーリーを聞くことになりますが、誰かが死ぬ前に、韓国社会の問題点を曝露するストーリーテリングがより多くなされるべきです。最も重要な暮らしの問題をどう話題にするかについても、より多く検討してこそ、パラダイム転換の動力も形成できると思います。今は、官僚、マスコミ、専門家のストーリーだけが聞こえます。彼らの話だけが流通すると、労働者、庶民、青年、社会的弱者の話は周辺化するだけでなく、語られるとしても恩恵を与える対象として設定されます。「下」の声が作られてこそ、官僚もマスコミもきちんと方向が取れると思います。このような面では、社会的経済や協治(ガバナンス)の領域も同じでしょう。実績を中心に事業が進み、実質的に草の根の力量が強まるどころか、むしろ政府への依存度が高くなる結果を生んでいるようです。

鄭建和 ですが、社会的経済や多様な中間支援組織の協治は、肯定的に評価できる面もあると思います。中間支援組織の肥大化を心配する意見もありますが、多数の自治体が着実に地域社会の公共エリアを創出し、公益活動を支援してきたことも事実です。韓国の市民社会のインフラが脆弱なので、公共がある程度その役割を引き受けるのを、批判ばかりしていてはならないでしょう。もちろん、市民社会が自立できる要件が形成されることが、最も意味があり重要でしょう。実際に韓国にも、生協や信用協同組合のように、市民運動の精神の価値を忠実に発展させてきた団体もありますから、そのような点で多様な経路を尊重する必要があると思います。体制転換は、労働者と草の根の住民も含めて、企業と市場、公共がみなともに参加するとき、はじめて可能になると思います。そして大きく深刻なことよりも、簡単で小さな行動の変化を通じて大きな効果を出すことを、行動経済学で「ナッジ」(nudge:そっと後押しする)といいますが、このような種類の技術革新と、それに伴う政策の樹立が必要です。有形無形のインフラと幅広い参加を通じて、責任を互いに共有する、社会協約の枠組みを作ることも重要でしょう。

蔡孝姃 ですが、協力ないし協議が可能になるためには、基本的に対等なレベルの力が保障されるべきです。韓国社会の権力構成をみると、その違いがとても大きいです。過去にアメリカでニューディールが可能だったのは、内部的には労働運動があり、外部的には戦争や冷戦があり、資本がある程度譲歩せざるを得ない状況でした。ヨーロッパでも組合主義(corporatism)が可能だったのは、戦後の妥協の政治の中で、労働者階級が社会的な発言権を得て、交渉力を確保できたからですが、韓国社会ではたったの一度もそのようなことはありませんでした。1987年の民主化も、はなはだしくは前回の大統領弾劾も、そういうことを達成することはできませんでした。常に抑圧され命がけで戦って、ようやく交渉のテーブルにつく機会が得られるというような感じです。ですから、真の協力関係を作るためには、力の関係から再構築することが必要だと思います。傾いた運動場をもっと平らに変えようということです。

 

想像力を代案に変えるには

 

姜敬錫 お三方とも、体制転換の経路の多様化が必要だという点には共感されていますが、それぞれ異なるレベルのアプローチを強調されているようです。ですが、鄭建和先生が、地域ベースの社会的経済モデルについて一部言及されましたが、いわば変換の「青写真」のようなものは十分に論じられていないと思います。たとえば、アメリカの都市社会学者マイク・デイヴィス(Mike Davis)は『人新世時代のマルクス』(Old gods, new enigmas : Marx’s lost theory/アン・ミンソク訳、創作と批評社、2020)で、今の気候危機の主犯は北半球の大都市であることは明らかだが、むしろ「都市生活の平等主義的な側面こそ、資源保存と炭素排出の緩和に必要な、最高の社会的・物理的な支援を継続的に提供できる」とし、「地球温暖化を統制しようとする努力が生活水準を向上させ、世界の貧困を退治しようという戦いに収斂しなければ」「希望はない」(291頁)とまで言っています。簡単に言えば、生産手段の民主的統制力を高めて共同領域(commons)を拡張し、本来の都市の潜在的な効率性を高めようということです。もちろん「私たちが、規格化された私的消費ではなく、民主的な公的空間を、持続可能な平等の原動力に心から変えようとするならば、地球的レベルで「受容の能力」が足りなくはないだろう」(289頁)という著者の判断が、正しいかどうかは批判的点検が必要ですが、とても深い印象を受けました。この他にも多様な青写真があり得るでしょう。まとめのお話しをお一人ずつご発言下さい。

鄭建和 速度を減らし、規模を減らし、欲望のサイズを、地球が受容可能な容量に減らすこと以外に代案はありません。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ(Helena Norberg-Hodge)が『ローカルの未来』(Localization: essential steps to an economics of happiness/チェ・ヨハン訳、南海の春、2018)で述べたように、グローバルな経済システムによる、あらゆる見えない費用を確認することがその出発点であり、今の経済システムでは気候危機を阻止できないという思考に発展することがその次のステップであり、代案的経済の価値と実現の可能性と経路を想像する努力が続くべきでしょう。新しい経済システムは、その名称が何になろうと、生態親和的な文明を指向しなければなりません。私はそのモデルとして循環経済(circular economy)を提案します。韓国で「循環」は、主としてリサイクルなど資源循環の文脈で理解されますが、それがすべてではありません。現在の市場経済が、生産・流通・消費・廃棄と続くリニア(linear)モデルであるとすれば、循環経済は、消費の結果である廃棄物が、物質的・生物的に生産過程に再投入されるように、生産システムを再構成することを意味します。掘り出して、作って、使って、捨てて、また掘り出す方式のために、資源が枯渇してゴミが急増しているので、その根本的なリンクを変えようということです。グローバル循環が美徳でないことを理解し、まずは食べ物、エネルギー、ケアなど、生活経済の領域からでも循環の規模を減らしていくべきです。いわゆる地域循環経済ですが、このためには、すべての経済主体がこの過程に、社会的・生態的責任をもって臨まなければなりません。このためには、現在の経済教育を変えるべきだという当面の課題があります。韓国の小・中・高校の社会科教科書は、驚くほどの市場経済だけを強調しますが、これを修正しようとすると、すぐに「社会主義」だという批判が出ます。ですが、コロナ禍のパンデミックを経験し、「ニューノーマル」が必要だという認識が広範に拡がることを契機に、現在の気候変動と環境破壊が、「市場の失敗」の代表的な事例であることを最初に知っておくことが必要です。循環経済の概念を教育システムに導入した、フィンランドのシトラ(SITRA)のような公的財団の活動にも注目するべきです。

金善哲 体制転換のための基盤はすでに形成されていると思います。過度のプラスチック使用に関する問題提起が増えたのをはじめ、循環経済を作ろうという話もかなり広まりました。ですが、循環経済で重要なのは、まず生産と消費を減らすことです。現在はそうでなく、捨てたもので再び商品を作り出す「アップサイクリング」(upcycling)にすべての焦点が向かっているようです。さきほど、ゴミをエネルギー化する発電方式について申し上げましたが、リサイクルや再生だけを強調していると、基本的な問題意識である生産・消費の削減はどこかに飛んでしまいます。たとえば、アップル社が、再生可能でリサイクルされた材料だけで製品を作ると宣言しましたが、より重要なのは、現在のように2、3年に1度、スマートホンを買い替えなければならない、生産と消費のサイクルを変えることなんです。企業は利潤が目的で、稼ぎが減るようなことは自らやるはずはないので、そのために公共の力が必要になります。これを可能にする下からの同盟と世論化も必要です。このことを通じて、国の権力を誰が握っていても、持続可能な政策原則と規制が準備されるべきでしょう。ある代案や体制転換について語るとき、システムが備わっていなければ何もできませんが、これはものすごく難しいことです。イダルゴ市長にについて少し触れましたが、現在、パリがやろうとしている脱成長の方向を注目してみる必要があります。パリ市内の駐車場を半分以上減らすと同時に、市内の走行速度を時速30キロで制限することで、自動車への依存度を下げ、大型デジタル看板をなくして、エネルギー消費とともに操作された消費欲求を減らし、Airbnbで出た住宅を購入して永久賃貸住宅に変えようするなどの計画を立てています。想像力が具体的な政策として出てきたわけですが、私は大きな期待感をもって見ています。

蔡孝姃 ノルウェーのオスロで、4車線の道路のうち1車線を一般車、1車線をトラム、1車線をバス、1車線を自転車に与えました。私はこのことが、政治的な力が空間に配分されたものだと思いました。乗用車に乗る人に25パーセント、バスに乗る人に25パーセントを平等に配ることができます。庶民のバスの象徴である「6411番バス」に乗る人が国会で25パーセントを占めるならば、韓国の都市も今のような状況ではないでしょう。ですが、一方で私は、ヨーロッパの左派の想像力が限界に達していて、いまだ社会民主主義の戦略から脱却できていないと考えてきました。社会民主主義的な理想は、自然や植民地のように、搾取を外注化する外部条件があってはじめて可能だったものですが、今はそのようなものがありません。そのために私は農村と農業が、放棄できないほとんど唯一の代案だと思います。都市を捨ててみな農村に行こうということではなく、都市の生態転換も農村との関係をリセットしなければ不可能だということです。いわば、現在は「耕作地」が私たちすべてに最も重要であり、また危機に直面したコモンズ(共同領域)であると言えます。近代国家の建設過程で、全体の農民の3分の1が死んだといいます。近代への移行というものが、単に「都市化」されたのではなく、そのような過程を経て行われたのです。今も農民に対する戦争は終わっていません。FTA、IMF、WTOのような名前を前面に出して進行中です。いまやそのような関係をリセットする必要があります。史料をみると、農村と都市が同時に解体され、地域が国家の秩序として再構成されるとき、まれに農村コミューンと都市コミューンとの間の自治同盟が出現することもありました。現在、都市を「地域的に」再構成するならば、コモンズをコミューンという政治的単位に転換して思惟できなければならず、都市と農村の同盟を通じた自給と自治の技術を、ともに思考できなければなりません。そのとき、巨大資本と戦うことが可能な、脱成長と体制転換のための市民連帯が、地域をベースに作られることがあると思います。そのことが、私が考える「地域からの体制転換」です。

姜敬錫 長い時間、気候危機と体制転換について話しましたが、議論をかわすほど、気候正義が社会正義と不可分の関係にあり、より多くの議論の話題が形成できると思いました。何日話しても足りないと思いますが、今日、頂いたお話しだけでも、価値ある時間になったのではないかと思います。この「対話」をお読みの読者の方々にも、そのような時間になっていればと思います。気候危機への対応は、いまや先送りできない課題となり、課題も少なくありませんが、実際には、今日の「対話」でもはっきりと証明されたように、まだ、やることができ、またやらねばならないことが数多く残っているということは、他方では希望でもあるでしょう。『創作と批評』誌も継続的に関心を傾けたいという約束をしながら、今日の「対話」を終えたいと思います。今日、とてもいいお話しをお聞かせ下さったお三方に心から感謝申し上げます。(2020年10月30日/ソウル・細橋ビル)

 

〔渡辺直紀=訳〕